iPhoneXのバックアップ

バックアップのリンク先がFディレクトリとなっている。


 iPhoneXを購入して2年が経ち、そろそろ契約の期限がやってくる。契約というのは、確か4年間の割賦販売期間を2年間過ぎたところで、新しいiPhoneに切り替えれば、残債を免除するというものだ。これを利用しないという選択肢はない。ところが、その後、法律が改正されてそんなことは禁止されたはずだ。しかし、私のような既契約の場合はどうなるのだろうという気がするが、その話はこれからauショップに行ってくるので、また後日に記録することとして、iPhoneXを新しいiPhone11に切り替えるにしても、いずれにせよその前にバックアップをとっておかないといけない。

 やや回りくどい言い方になってしまったが、そういうわけでパソコンを開いてiTunesを立ち上げ、バックアップを始めたのである。最初は順調に動いていた。ところが、2時間近く経ってもう終わりかけの頃に、いきなり止まってしまった。表示を見ると「Cディレクトリに空きがありません」とある。エクスプローラでCディレクトリの容量を見ると、バックアップ前は確か169GBは空いていたのに、もう一杯だ。これは、どうしたものか。

 そういえば、このパソコンを買ったのは昨年6月で、それ以来、バックアップはとっていなかった。このパソコンは、CディレクトリがSSDだから、226GBしかない。そのため、「ドキュメント」も「ダウンロード」も、Cディレクトリには作らず、「シンボリック・リンク」を利用して、1TBもの容量があるハードディスク上のDディレクトリに作った。それと同じように、iTunesのバックアップも、Dディレクトリなど他のディレクトリに作る必要がある。そこで、はたと思い出した。昨年6月にこのパソコンを買ったときに、その作業をしたはずだ。なぜ、シンボリックリンクが消えてしまったのだろう? よくわからない。でも、面倒だが、もう一度やらざるを得ない。

 以下は多分に技術的な話だが、将来の自分に対するメモというつもりで記録しておきたい。まず、グーグルで「iTunesバックアップ」と検索する。すると、幾つかの提案が出てくる。CopyTransさん、iPhone入門さん、南詩織さんだ。これらを眺めると、一つは、専用のソフトを使う方法だ。iPhoneのバックアップは、差分だけという方法はないようだし、またどんな中身かも見ることができない。そうするとバックアップの度ごとに全体のバックアップがゴロゴロと作られてしまい、容量を消費して仕方がない。その点、これら専用ソフトの中には、「差分だけもOK、中身も見られる」というのもあって、いささか心が動かされたが、値段が8,200円というのは、ちょっと高すぎる。それにサポートもいつまで続くかという問題もある。比較検討の結果、コマンド・プロンプトを使う南詩織さんの方法によることにした。改めて感謝したい。それは、次のようなものである。自分でしなければならないが、いやなに、Windows以前の、かつて扱ったMS−DOSの時代に戻るだけだ。


 1.「ユーザー名」>「AppData」>「Roaming」>「Apple Computer」>「MobileSync」>「Backup」という順でデフォルトのバックアップ・フォルダーを表示する。

 2.DかFディレクトリに例えば「iPhone_Backup」を作り、そこへ1.「Backup」を移動する。

 3.スタートボタンをクリック > 「プログラムとファイルの検索」の検索欄で「cmd」と入力 > 表示された「cmd.exe」アイコンを右クリック > 「管理者として実行」をクリックしてコマンド・プロンプトを起動します。

 4.次のコマンドを入力して、「Enter」ボタンを押し、「?シンボリックリンクが作成されました」と表示されたら成功

 mklink /d “C:¥Users¥tnyam¥Apple¥MobileSync¥Backup” “F:¥iPhone_Backup¥Backup”

 5.シンボリックリンクが正常に作成されたかを確認するために、元のCドライブの「Backup」フォルダーを右クリックして「プロパティ」を選択したら、次の2点をチェック。

(5−1)「リンク先」で、ご自分が指定した保存先が表示されているか。

(5−2)「ファイルの場所を開く」をクリックすると、ご自分で指定した保存先フォルダーが開くか。

 上記の2点が確認できたら、シンボリックリンクは正常に作成されている。


 では、その手順で行こうとしたが、私のパソコンと最初からディレクトリ名が違っている。私のパソコンは、このお手本よりもっと簡単で、「ユーザー名」>「Apple」>「MobileSync」>「Backup」だ。だけど、ベースの構造は同じだから、これで良いかもしれない。

 次に、ここにデフォルトのバックアップ・フォルダーがあるかどうかだが、先のバックアップ失敗で、消去してしまった。では、私のiPadのバックアップを作ろう・・・わずか32GBだから、直ぐにできた。「MobileSync」を覗いて見ると、ちゃんとあった。それをバックアップ先の外付けハードディスクであるFディレクトリの中に作った「iPhone_Backup」に移動する。元の「MobileSync」の中は、再びカラになる。

 さて、これからが正念場だ。cmd.exeを動かし、コマンド・プロンプトを出す。真っ暗な長四角の画面が出る。今の人に、Windowsが出る前は全部これだったと言っても、信じてもらえないだろうが、MS−DOS時代の生き残りのような私にはお馴染みのものだ。

 そこの点滅するプロンプトに、「mklink /d “C:¥Users¥tnyam¥Apple¥MobileSync¥Backup” “F:¥iPhone_Backup¥Backup”」というコマンドを入れたが、「管理者ではない。」と出る。ああ、そうか・・・昔と違って、「管理者として実行」という手順を踏む必要があったのを忘れていた。その処理を行って、再び上記のコマンドを打ち込む。そうすると、一瞬で「シンボリック・リンクが作成されました」と表示された。これで良いようだ。

 成功したかどうかを確かめるために、エクスプローラでF:のハードディスクを覗くと、「iPhone_Backup」中に、確かに「Backup」が作成され、180GBほど、ハードディスクの容量が減っている。他方、C:の中の「MobileSync」にも、やはり「Backup」が出来ていたが、その分の容量は別に減っていないから、まあこれで成功したと思う。本来なら、Fディレクトリからのバックアップが出来てはじめて成功を認定するところだが、新しいiPhone11が手元にない以上、仕方がない。後日の成功を期待しよう。



【後日談】 Fバックアップから新iPhone11 ProMaxへ復元できた

 新iPhone11 ProMaxを購入したので、Fディレクトリのバックアップからの復元を試みようとしたら、Bluetooth経由で旧iPhoneXから新iPhone11 ProMaxに直接転送できるようだ。そこで、その方が早いと思って試した。ところが、何と24時間経っても終わらない。なぜだろうと思って考えてみたところ、そういえば、最近、旧iPhoneXのiOSを13.3.1バージョンにアップしてからバックアップしたことを思い出した。これが原因かもしれないと新iPhone11 ProMaxのiOSをチェックしたところ、13.3.0と、案の定、前のバージョンだった。これは、いけない。バージョンを合わせる必要がある。そこで、新iPhone11 ProMaxのiOSを同じ13.3.1にバージョンアップした。それから、もうBluetooth経由はやめて、iTunesを動かしてFディレクトリのバックアップから復元することにした。順調に動き、約2時間半経って、完全に回復することができた。バックアップするときに暗号化していたので、旧iPhoneXのパスワードなどは、そのまま引き継がれた。ただ、銀行関係のアプリの中には端末登録をしているのがあり、それは再び端末登録をせざるを得なかったが、その他は以前の通り使えて、順調である。






  関 連 記 事
  iPhone 4Gの衝撃
  iPhone 4Gの10日
  iPhone 4Gの20日
  iPhone 4Gの30日
  iPhone 4Gの80日
  iPhone 4SとiOS5
  iPad を使用する
  iOS5からiOS6へ
  iPhone5へ機種変更
10   iPhoneの行く末
11   iPadのアクセサリー
12   iPhone6plusを購入
13   iPhone7plusを購入
14   iPhoneXへ機種変更
15   iPhoneバッテリー交換
14   iPhoneXのバックアップ
15   iPhone11 ProMaxへ機種変更
16   iPad Pro 12.9へ機種変更






(2020年 1月31日記、2月2日追記)


カテゴリ:エッセイ | 23:10 | - | - | - |
イポーの中国正月

中国正月の獅子舞


 中国正月(春節)の風習を撮りに、マレーシア中部の都市、イポー在住の友達を訪ねた。マレー半島西海岸に近い内陸の中部に首都クアラルンプールがあり、そこから高速道路で200km北上すると、ペラ州の首都イポーに着く。ちなみに更に100kmほど北に行くと、昔の海峡植民地ペナンがある。イポーは、中国人の町である。かつてのイギリス統治時代には、錫鉱山によって栄え、その労働者として連れてこられたのが、中国南部の主として広東省や福建省出身の中国人達である。クアラルンプールには広東省出身の人が多いが、更に南のシンガポールには、福建省の人が多い。ちなみに、英国統治時代に、錫鉱山のほか、マレー半島特産の天然ゴム採取の労働者としても中国人が活躍した。そのほか兵士や鉄道関係労働者として連れてこられたのが、インド人で、今でもガードマンや鉄道関係の仕事をしている人が目立つ。

ゴム農園労働者


 中国人は、単なる鉱山労働者やゴム農園労働者では終わらなかった。いわゆる「華僑」としてその才覚を活かして経済界に進出し、中には大金持ちや小金持ちになる人が多かった。イポーは、マレーシア中に散らばるそうした華僑の、かなりの人々が故郷とする都市で、かつて錫鉱山で繁栄し、今は商業都市として栄えている。美人が多いといわれ、とりわけ香港と同じく広東語を話すことから、香港に行ってスターとして活躍する女性もいる。

イポーの町


 前置きはそれぐらいにして、イポーに入ると、中国の桂林や山水画に出てくるような石灰岩のタワー・カルスト地形が迎えてくれる。これは宗教的霊感を呼び起こすのか、その麓に中国寺院が開かれている。現在のイポーは、ゆったりとした住宅地に大きな家々が立ち並ぶ典型的な地方都市である。中心部にも、クアラルンプールのような高層ビルはなく、その代わり大規模なイオン・モールが三つもできている。物価は特に食べ物が安いことから、クアラルンプールで長年働いた人が、リタイア後に移り住むという話をよく聞くそうだ。

普通の家庭の正月飾り、玄関先に縁起物の赤い提灯(真っ赤な楕円球体に赤や黄色の房の付いたちょうちん)


 普通の家庭の正月飾りは、玄関先に縁起物の赤い提灯(真っ赤な楕円球体に赤や黄色の房の付いた「ちょうちん」)をぶら下げているところが多い。また、玄関脇に低木がある家々は、そこに真っ赤なパイナップルを模した紙飾りをたくさん吊るしている。聞いてみると、パイナップルは、原語の発音をなぞった福建語で、「福が来る」という意味だから、あちこちに新年のシンボルとして飾ってあるそうだ。日本の松飾りのようなものだろう。もちろん、家の玄関の両脇には、赤い地に金色で、新年を寿ぐ漢字「恭賀新年」や、「家内安全」、「出入平安」などと書かれている。

 中国正月で欠かせないのが、「親類のリユニオン(reunion)」、「アンパオ(紅包)」、「花火」そして「獅子舞(Lion Dance)」である。まず、親類のリユニオン(reunion)というのは、その名の通り、親類一同が寄り集まって、一族の結束を確認することである。この日は、クアラルンプールにいても、ペナンにいても、たとえロンドンやオーストラリアにいても故郷イポーに集まって、親類一同が会食し、麻雀し、おしゃべりをする。例えば、私が招かれた家は、おじいさんの時代に広東省を飛び出してマレーシアにやって来て、裸一貫で錫鉱山で頑張り、そこで現地の女性と結婚し、父が生まれた。父は、同じ中国人女性と結婚して8人の兄弟を育てた。その兄弟の子供が成人し、孫が現在のところ7人もできたという状態である。もう父母はいないが、こうでやって親類一同が寄り集まるそうな。だから、レストランで行われた一同の会食の場に招かれた時、果たしてこれに応じてよいものかと最初は思ったものの、行ってみると、いやもう凄い人数だし、小さな子供が走り回ってまるで保育園が移動してきたようなものだし、そもそも誰が誰だから分からない状態だった。

 中国正月の作法は、皆で箸を持って立ち上がりながら「ルーサン(良いことが来ますように)」と言いながら、大皿に盛られたカラフルな食べ物を上に持ち上げ、かき回して食べる。味は、甘酸っぱい。立ち上がったとき、何かブツブツ呟いている人が多いから、何か願っているのかと聞いたら、「もちろん! もっと健康に、もっとお金を儲ける!」というので、やはり中国人らしいと思った。もっとも、ここマレーシアのように、中国人は数の上では少数派だから、自分達の国というよりは、常に民族的緊張の下にある中で、我が身と家族の安全を守るのはお金の力だということを身をもって知っているからだろう。だから、拝金主義というのは、必然的にそうなってしまうので、私はやむを得ないと思っている。

アンパオ(紅包)


アンパオ(紅包)


 見ていると、親類の子供達のうち、未婚の人に対して、「アンパオ(紅包)」を贈りあっている。これは、そもそも福建語のようで、それだからシンガポールにもある習慣である。日本で言えばお正月のお年玉である。日本みたいに、万円単位というものではなくて、せいぜい千円にも満たないくらいのものである。そのポチ袋は、結構手の込んだものが多くて、例えば次のように、「鼠銭代代、如意萬事、迎春鼠銭、大和大吉、鼠年大吉、吉祥銭鼠」などと書かれているし、イラストがとても可愛い。今年は鼠年だから、もう鼠一色だ。イラストの中に、お金を抱いた鼠がいるのも、ご愛嬌だ。私は、平成20年2月12日にも、アンパオのエッセイを書いたことがあるが、その時の写真と比べて、更に進化している。

ホテルでの花火。これと同じ花火を民家でやっていた。


 そうやってお正月の最初の日又は大晦日に親類一同のリユニオンの会食が終わると、今度は長兄の家に集まって、家の前で花火で遊ぶ、花火は、日本流に言えば、「鬼を追い払う」ということで、家の前の道路で、バチバチと大きく鳴らす。大人が上げる大きな打ち上げ花火から、よちよち歩きの幼児が投げる小さな花火まで、その熱中ぶりといったら凄い。30度を超える暑さの中で何時間もひたすら打ち上げ、投げている。花火の煙で辺りが暗くなるほどで、やかましいったら、ありゃしない。しかし、これがないと新年が来ないということで、大人も子供も熱中してやまない。中には2mほどの長さの赤い花火があり、それを道に伸ばして広げ、片方の端に点火する。やがてバチッ、バチバチッという轟音とともにどんどん燃えていき、やがて反対側の端まできて、ああやっと終わったと思ったら、最後に爆音を立てて皆をびっくりさせる。いやいや凄い。

獅子舞


獅子舞


 次に記念すべき行事は、獅子舞である。かつてはそれぞれの家を回って来たが、最近はそれより商業施設を回った方が効率がよいというので、個人の家には来なくなった。どこで見られるのか探しに行こう考えていたら、泊まったホテルに獅子舞がやってきた。写真を撮るには、こんな都合のいいことはない。どんなお獅子かと思ったら、日本のような怖い姿と違って、身体が黄色や赤色というカラフルで目がぱっちり、しかも時々ウィンクするなど、とっても可愛い。それが、ドラや太鼓の「ドンドン、ガンガンー」という、うるさくてかなわないほどの音を出して、立って踊ったかと思うと、急にうずくまったり、飛び跳ねたり、肩車して立ち上がったり、口からオレンジを出して観客に配ったりと、サービス満点でしかもダイナミックに動き回る。ちなみにオレンジを配るのは、「何か幸せなことが来ますように」という象徴らしい。親類や友人に、「恭賀新年」という化粧箱に入ったオレンジを贈り合うというのが昔ながらの習慣だという。私も、お獅子からいただいたオレンジを剥いて口に入れたら、中には種があって、昔の日本の静岡蜜柑のようだった。

「恭賀新年」という化粧箱に入ったオレンジ


「恭賀新年」という化粧箱に入ったオレンジ


 また獅子舞の話に戻ると、こういった新年の祝賀だけでなく、一般の会社や商店の開業記念などに招かれて、このパフォーマンスを行うという。一件20分から30分くらいで現地通貨RM(リンギット)で、300から400ぐらい(日本円で8千円から1万1千円)らしい。私の泊まったホテルは、1時間もやっていたから、RM2000から3000(5万3千円から8万円)くらいではないかと言っていた。地元の人と話すと、結局はお金の話になる。まあそれも、冒頭に述べたような華僑が置かれた厳しい現実からくるのだと理解していただきたい。ところで、イポーでこのような獅子舞のパフォーマンスを行うことができる「会社」が3つもあるそうだ。新年の3ヶ月前から練習して備えるという。新年の舞のほか、商業施設の開業祝いの仕事もある。ただ、それだけでは食えないから、オフシーズンにはメンバーは別の仕事と掛け持ちするようだ。

 その他、聞きかじった面白い話として、中国正月の最終日(今年は2月15日)に、交際の相手探しの慣習があるそうだ。イポー特有だという。何かというと、オレンジに名前と携帯電話の番号を書いて、川に投げるだけのことだ。それを拾った人がその相手に連絡をして、カップルが成立するという例が少なからずあるとのこと。平和な田舎ならではの面白い慣習だ。

吾観音堂


吾観音堂


吾観音堂の四面菩薩


 なお、今回は日中に街中や中国寺院の写真も撮りたかったが、この地は何しろ気温が摂氏30度を優に超えるという猛暑が続く。しかも今年は例年にも増して暑いそうだ。これでは摂氏8度前後の冬の日本から来た身には堪えるので、直射日光の当たらない冷房が効いたホテルでの獅子舞と、気温の下がった夜の洞窟寺院の写真しか撮らなかった。それにしても、吾観音堂という洞窟寺院にあった、四面全てにお顔と手足と体のある「四面菩薩」という仏様には恐れ入った。でも、考えてみれば、興福寺の阿修羅像も、三面六臂である。するとこの菩薩様は、四面八臂八体というわけだ。日本では、あまり見かけたことがないと思うが、いかがであろうか。







 イポーの中国正月(写 真)






(2020年 1月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:52 | - | - | - |
すみだ水族館

ペンギンに餌をやる飼育員さんたち


 我が第三の人生は(残念ながら)まだ本格化していないので、この時とばかりに退職者の特権を味わっている。今日は、午後から事務所に行くことになっている。だから、午前中はフリーだ。そこで、数日前に、「アソビュー!」から来たメールを思い出した。これは、いわゆるチケットサイトで、私はこれまでモーターショーなどのチケットを数枚、購入したことがある。そのおかげで、ポイントが貯まっているが、それを使わないと、数日内に失効するというのである。

 そこで、そのポイントが何に使えるかと思ってサイトを眺めてみた。もちろん色々な施設の入場券なのだけど、その中に「すみだ水族館」というのがあった。これは、我が家から30分程度だし、スカイツリーの建物の中にあるから、できたばかりの8年前に2回行ったことがある。そのときは入場料が確か2000円くらいで、展示の数の割には高いなと感じたことがある。それ以来、行っていない。たぶんこの価格は、東京スカイツリーにやってくる一見さんに対する値付けだと思われる。

 その後、展示内容が変わったかもしれないから、また行ってみるかと思って、このサイトから申し込んでみた。すると、やはり同じような値段だったが、ポイント数の範囲内であったから、それを使って購入できてしまった。こんなに簡単なものなのか・・・閑散期のサービスかもしれないと思って、そのまま放置しておいたのだが、今回、iPhone上にその電子チケットを表示してみた。どうやら、使えそうだ・・・というわけで、カメラを担いで行ってみることにした。

すみだ水族館入り口


 「すみだ水族館」の公式サイトを見て、営業時間を確かめ、「乗換案内」のアプリで行き方を調べる。千代田線の北千住で東武線に乗り換えて、「とうきょうスカイツリー駅」で降りると良いらしい。朝のラッシュとは反対側なので、千代田線の車内はガラガラ、東武線は混むかと思ったら、区間急行浅草行き、つまりこの区間は鈍行だから、これまたガラガラだ。乗っている人達もあくせくする風もなくて、実にゆったりとしている。そういう様子を見て、今まで私が過ごしてきた世界は何なんだという気がする。東京に、二つの世界が重複して存在するかのようだ。

すみだ水族館のチケット、右は入場前、左に入場済みのスタンプ


ミズクラゲ


クラゲのシーネットル。猛毒


 すみだ水族館に着いた。入口で、係員にiPhoneのチケットを見せたら、ひょいひょいと操作してくれて、iPhone上のチケットに入場済みのスタンプが押された。平日朝一番だから、ほとんど人がいない。おかげで、カメラを構えて、ゆっくりと同じ水槽の前に居られる。まずは、ミズクラゲ。白い体を水の流れに合わせて、ふわふわと漂う。隣にいた女性たちから、「わあ、癒される」という声が上がる。癒されるかどうかはともかく、確かに、見ていて飽きない。身体を伸び縮みさせているから、てっきりプランクトンを食べているのかと思ったら、そうではなかった。持っている毒で獲物を刺し、弱らせて捕食する肉食のようだ。見かけによらない。隣に、身体に黄色い筋のあるパシフィック・シー・ネットルが浮かんでいた。これは、猛毒を持っている。

ハナカサゴ


ベラの一種か?


アナゴ


ナポレオン・フィッシュ


目の大きな赤色の魚


ヒブダイ


 ピンクのハナカサゴだ。まるで花魁道中のようであるが、昔々に父と海釣りに行ったとき、これに刺されると大変だと聞いたことがある。サンゴの水槽が3つあった。手前が小型の熱帯魚、真ん中がアナゴ、奥の水槽が大型の熱帯魚だ。小型の魚は、身体が小さい上に、動きが速いから焦点を合わせにくくて、なかなかカメラで捕捉できない。それに、反射光が写り込んで、上手くいかない。次のアナゴは・・・砂から身体を出して、なかなか可愛い。しかし、何しろ小さいから、マクロレンズでもあれば別だが、写真は上手には撮れない。奥の水槽のナポレオン・フィッシュ(メガネモチノウオ)は、大型で堂々としているから、私好みの大型熱帯魚だ。ところがこの魚、意外と臆病で、いきなりカメラを向けるとそのレンズが大型の魚と目と勘違いするのか逃げて行くので、まずはしばらく顔を合わせる。しかる後に、徐々にカメラのレンズを見せ、慣れさせてから撮ると、うまくいく。沖縄で市場に行くと、この魚を売っていた。全身青い色の魚だから、私なぞ、全く食欲がわかないが、現地の人は美味しいと言っていた。その他、目の大きな赤色の魚がいるし、まるで笑っているような魚(ヒブダイ)もいる。見ていて飽きない。

人懐こいペンギン


突き出した陸地にいるペンギン


餌やり


 それから下の階に行くと、いよいよ「ペンギンの水槽」だ。向かって左手の所に突き出した陸地が作ってあり、そこから海を模したプールがある。私が行った時は、ほとんどのペンギンが陸地にいて、プールにいたのは、ほんの数羽だったが、女性飼育員が3人出てきて、「さあーっ。みんな朝ご飯だよ。」と叫ぶと、次々にプールに飛び込んだ。こちらの観客席側にいた飼育員さんによると、「いつも、ご飯前には、こうやって飛び込む。」のだそうだ。逆ではないかと思うのだけど、自然の中に生活するときは、もちろんこうやって飛び込んで、海の中に潜って魚を採るのだから、反射的な行動なのかもしれない。

餌やり


どういう餌を何匹あげたのかを判別し、記録している


 プールから陸地に上がってきたペンギンたちに、女性飼育員さんたちが餌(魚)をあげ始めた。「マカロン、ビタミン1匹」「いちご、同じく2匹」などとやっている。驚くことに、個々のペンギンの顔を記憶していて、どのペンギンにどういう餌を何匹あげたのかを判別し、記録しているようなのである。マカロンといちごは名前、ビタミンはビタミン入りの餌の魚という意味らしい。ペンギンの肩には色付きの識別票はあるが、飼育員さんに聞くと、「ペンギンの顔は、全て覚えています。」とのこと。そして、手元の記録と対比して、餌をあげ足りないペンギンを皆で探し、「今、プールで泳いでいます。」とか何とかやっている。つまり、やり残しのないように、詳しく管理しているのだ。これこそ、プロフェッショナルの技だ。子育てに手を抜いている人間の親がいたとしたら、見習ってほしいほどだ。

琉金


丹頂


 その隣には、「江戸リウム」という金魚コーナーがあって、和金、丹頂、琉金、蘭鋳、出目金、コメットなどが展示されている。金魚の系統図があり、中国鮒が突然変異を起こして赤い和金となり、そこから次々に突然変異を起こして、遂には琉金に至る過程が図になって示されていた。金魚というのは、遺伝子が四倍体のため、変異を起こしやすいそうだ。その中から選別して育てたものが、今のような多様な種類となった。その代わり、すぐに先祖返りをしてしまうため、いつも管理していないとだめだという。

東京大水槽


 2階分を貫く「東京大水槽」があって、底からブクブクと泡が出ており、その周りを魚が巻くように泳いでいる。見事なのだが、全体に暗くて、しかも遠目なので写真を撮るのはなかなか難しい。あとは、ペンギン水槽の裏にオットセイがいたが、これまた暗い中を高速で泳ぐし、だいたい身体が真っ黒なので、これも写真を撮る気が失せてくる。ただ、狭い所に押し込められている感がなきにしもあらずで、いささか可哀想になる。

 というわけで、短い散歩は終わった。ペンギン水槽の脇で昼食代わりに何か食べようとしたら、食べられるものといえば、「カメロンパン」つまりメロンパンに亀さんの頭、手足を付けたものしかない。それを買って紅茶で流し込んだ。甘くて閉口した。同じ長テーブルに、1歳を過ぎたくらいの男の子を連れたお父さんがいる。甲斐甲斐しくお世話をしている。見たところ、お母さんと育児休暇を交代したばかりのようで、ぎこちない。「ほら、お母さんが作ったお握りだよ。美味しいね。」と子供に語りかけるのだけれど、子供は無視して、「やだーっ、やだーっ。」と叫ぶ。親の心、子知らず。可哀想にお父さん、どうして良いか分からずに呆然としている。わかるなぁ、その気持ち。娘からいきなり4歳のやんちゃな男の子を預けられて、はて、どうしたものかと戸惑った自分の経験からして、よくわかる。まあ、これも人生、つまりは運命、ただただ「頑張ってほしい。」としか、言いようがない。






 すみだ水族館(写 真)






(2020年 1月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:00 | - | - | - |
大道芸・さいたま新都心

中国雑技芸術団


 2020年(令和2年)の年が開けた。「2」が続くので、覚えやすい。だから、令和から西暦を計算するには「2018」を足す、逆に西暦から令和は同じく「2018」を差し引く、これも簡単だ。18と覚えればよい。昭和と西暦は、25だった。終戦の年である昭和20年が1945年なので、これもわかりやすい。ところが、平成は途中で西暦2000年をまたいでしまったから、ややこしくなった。「平成12年が2000年なので、それまでは88、それを越すと12を差し引くと西暦、ではその逆は・・・ああ、面倒だ。スマホの換算アプリを使おう。」となってしまう。

 ところで、正月休みを除いて新年最初の三連休だ。何か催し物はないかと思って調べると、東京ドームで「ふるさと祭り」が開催中だ。私は、平成23年に見に行った。えーっと、2011年か。今から9年も前のことだ。そのとき見たのは、秋田の竿燈、高知よさこい「ほにや」、盛岡のさんさ踊り、飯田燈籠山だった。日本各地にこんな面白いお祭りがあるなんてと、実に感激した。感激が高じて、秋田の竿燈、青森のねぶた祭り、仙台七夕祭りなどの東北三大祭りを実際に見に行ったほどだ。これが契機となり、それ以降、岸和田のだんじり祭り富山県八尾おわら風の盆などと、私のお祭り行脚が始まった。では今回の「ふるさと祭り」はといえば、高知よさこい「ほにや」がまた来てくれているが、二度目になる。仙台すずめ踊りか・・・日本橋で見たことがある。高円寺阿波踊りねぇ・・・これは、ご当地だから、何回か見たことがある。新居浜太鼓祭りと牛深ハイヤ祭り(天草)は見たことがないが、残念ながら全国的には、あまり知られていない。

 それとは別に、本日はもう一つ、「大道芸フェスティバル」が、さいたま新都心で開かれるという。私は埼玉方面には不案内なので、「埼玉県」に「新都心」なるものがあるとは、ついぞ知らなかった。これは何だとウィキペディアで調べてみると、「東京都区部以外で首都を補完し地域の中心となるべき都市として、閣議決定により再開発・土地区画整理事業が行われたもので、旧国鉄大宮操車場などが有効活用された」という。「JRさいたま新都心駅」という駅までできている。そこで、やっと思い出した。中央省庁の関東地方出先機関が、全部ここに集められているのだった。立川とともに、大震災などで都心が壊滅したような場合に、そのバックアップ機能を果たすところだ。では、一度は見て来ないといけない。そのついでに大道芸が面白ければ、見物して来ようと思った。

 上野駅から宇都宮線で、23分でさいたま新都心駅に着いた。京浜東北線だと、更に10分ほど余計にかかるようだが、23分というのは、首都圏の感覚では近い方だ。降りてみると、例の通り、パイプとガラスの建築ばかりだ。こんなにガラスが多くては、大地震が起こったら、ひとたまりもないと思うのだが、今度、どなたか建築家に会ったときに真っ先に聞いてみたいと思っている。

 南北に走るJRの線路を挟んで、西側には、さいたまスーパーアリーナ、けやき広場、サンクンプラザ、中央省庁合同庁舎があり、東側には、コクーン1・2・3と、大きなショッピングモールがあって、両者を自由通路が繋いでいる。NTTドコモや保険会社の高層ビルが建ち並ぶ人工的な空間だ。これは、相当なお金が投入されたと思われる。しかも、周りにはなんにもない。敢えて言えば、田圃の中に蜃気楼のようにフッと浮かぶ高層ビル群だ。

 そこのあちこちで、大道芸が開催されている。私は「中国雑技団」の演技を見たかったので、コクーン1に急いだ。実は私は、中国雑技の演技は、1985年に中国で、2009年に本厚木で、2018年に横浜中華街で、それぞれ見たことがあるし、そのほか高円寺でも何年か前の暑い盛りにやっていたような記憶がある。今回も、楽しみだ。


SUKE3&SYU


SUKE3&SYU


 現場に着くと、雑技団の前に「SUKE3&SYU」という二人が演技中だった。その説明によれば、「なんかイケメン!でもなんかおバカ。派手な技の数々と迫力満点のアクロバットをユーモラスにお届けします」とのこと。二人は大柄と小柄の人で、もちろん小柄の人が上に乗って、二人で、色々な力技に挑む。脚を絡み合わせて水平になる演技が素晴らしかった。今日は気温が10度くらいと寒いので、こうした身体を張った動きには不向きな日かもしれないが、よく頑張っていた。

中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


 次は、いよいよ「中国雑技芸術団」だ。「驚愕の技の数々で圧倒的な光景を生み出す。中国四千年の歴史が誇る一大エンターテインメント」という。中国服を来たおじさんが司会を務め、いよいよ始まる。まず出てきたのは、一瞬で顔の仮面が変わる「変面」だ。何しろ、手が一瞬、顔の前を通っただけで、次から次へと顔のマスクが変わる。それも全部違うマスクなので、これは驚く。マスクのパターンが何十もあるのではないか。役者が観客席を回って、私からつい1メートルほどの所に来て、そして一瞬でマスクが変わったけれど、よく見ていたつもりだったが、どういう仕組みなのか、見当もつかなかった。最後にお面を脱いで、精悍な中年男性が素顔を見せてくれた。

中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


中国雑技芸術団


 次の演技は、若い体操選手のような人。まず、観客の目の前で、前方1回宙返りを見せる。そして、中国雑技の定番である、椅子を積み上げていく技だ。これは、1985年に北京の劇場で見たことがある。椅子を一つ一つ積み上げ、もう8個に達した。これで終わるかと思いきや、最後の椅子をもらうと、それを斜めにし、その上で力技の演技を見せたので、観客のやんやの喝采を浴びていた。ああ、これで終わりか。30分があっという間に経ってしまった。

あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


 その次の大道芸は、「あっぱれ吉沢屋」。これが面白かった。「豪華絢爛な衣装で演じる和の雰囲気いっぱいのマジックショー。歌舞伎とマジックの不思議な融合で歌舞いて歌舞いて虜にいたします」という。確かに、歌舞伎の衣装を身に付けた男女のペアのパフォーマーが、マジックを演じる。歌舞伎だから、「見得をきる」ポーズをしたら、「あっぱれ」と叫べと観客にお願いする。観客も、最初はぎこちないが、次第に熱が入ってくると、それなりに大きな掛け声になって、盛り上がるという仕組みだ。なかなか上手い。マジックも、ハンカチを一枚を二枚にしたり、大きくしたりという小技から、小箱に入れた数個の提灯を一瞬で消すという中技、そして派手な色付きテープや何やらをどんどん繰り出す大技まで、カラフルかつ立体的で、なかなかよかった。

あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


あっぱれ吉沢屋


 それから、自由通路を渡ってさいたまスーパーアリーナの方へ向かった。途中、大道芸人「コバヤシ ユウジ」さんが演技中で「街角に立つクローズアップマジシャン、トランプからホラー系マジックまで、何が飛び出すかはお楽しみに」とのことだったが、人だかりがしていたし、トランプを操っているときで、しかもそれが小さくて見にくかったことから、次に向かった。

コバヤシ ユウジ


AYACHYGAL


 すると、「AYACHYGAL」が始まったばかりで、女性の歌、男性の演奏という組み合わせである。「ピアノとヴォーカルの本格的なシャンソンショー、愛と笑いと痛み、その他色々な感情を届ける音楽絵巻」とのこと。女性ヴォーカルは、艶のあるなかなか良い声で、これまた多くの見物人を集めていた。

Juggler Laby


 けやき広場で演じていたのは、「Juggler Laby」で、「ジャグリング個人部門の元日本チャンピオン」とのこと。玉を一つ、二つ、三つと使い分け、また棒を使って縦に落ちるようで、浮かんでくるように見せる技などで魅了した。

HARO


HARO


HARO屋


 その頃、にわか雨が降ってきた。ポツポツという程度で、大したものではないと思ったが、これは中止になるかもしれないと思い、やや疲れたこともあって帰ろうとしていた。その時、遠くから薄緑の不思議な大きなものが近づいてきた。「HARO」で、「風をはらみ、風を感じ、風を受ける。うつろう風の動きを印象的に心に残す。羽ばたき舞う美しき精」という。両脚別々に、高下駄どころか、人の身長ほどもある長い人工の足を付け、おそらく両手にも長い棒を付けてその先端にパステルカラーの若草色の緑を基調としたフワフワの衣を結び付け、それを身にまとって、ヒラヒラさせながら闊歩している。簡単に倒れてしまいそうだが、倒れずに歩く。それだけでも、これは凄い技だ。衣を翻して軽々と歩く姿は、確かに風が舞うようだ。素晴らしい。でも、どうやって投げ銭を貰うのだろうと思ったら、ちゃんと普通の人が、箱を持って彼の後を付いて回っていた。

nanisole


nanisole


 そうして驚くやら呆れるやらで、唖然としていると、今度はもっと奇っ怪なパフォーマーが現れた。やはり、長い人工の足を付けているのは同じだが、こちらは、両手が鳥の羽、顔の真ん中からは鳥のようなとんがった嘴(くちばし)が出て、しかも時々、「フガー、フガー」と鳴くという凝り様だ。「nanisole」で、名前からして「何、それ?」と、人を喰ったネーミングだ。「発明した道具の数々を身にまとい、頭から煙を噴き出しながら歩き回る不思議な存在。果たして見事羽ばたくことができるのか?」・・・うーむ、これには参った。コメントをしようがない。大道芸は、なかなか奥が深い。ということで、非日常的な一日が終わった。






 大道芸・さいたま新都心(写 真)






(2020年 1月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:07 | - | - | - |
第三の人生の始まり

根津神社


 私は、大学卒業して国家公務員となって40年間余りを過ごした。これを第一の人生とすると、それに引き続き裁判官となって6年間を務め上げ、今年の9月26日に定年退官した。これが第二の人生ということになる。

 退官後どうしたかというと、まず10月初めに、かねてから行ってみたかった南米ペルーのマチュピチュ遺跡とナスカの地上絵を見に行った。帰国してからの感想だが、まだ体力があるうちに行っておいて良かった。というのは、地球の裏側でそこにたどり着くだけで28時間もかかったし、着いてからも最高3,800mの標高のところを通ったり、マチュピチュ遺跡自体が2,400mの所にあって登り降りに体力をかなり使ったりしたからである。

 そして帰ってきてから、友人、同僚、先輩、後輩の皆様に連日連夜のご苦労さん会を開いていただいて、本当に感激した。その一方、挨拶状をしたためて、それをお世話になった方々に送った。これが届くと、私宛にかなりの数の皆さまから、メール、手紙、葉書が送られてくるようになり、いずれの方からも、心に残る暖かい言葉をかけていただいた。それに一つ一つ返信を書きながら、「いわばこれが人生の総決算で、要するに『華の時期』なのだな。」と感じるという至福の時間を過ごしたのである。

 その一方、体力を付けるため、一日12,000歩を歩こうと考え、息子にプレゼントしてもらったアイウォッチに従ってエクササイズの目標を設定し、朝、昼、晩と1回30分以上の散歩に出掛けた。私は谷根千地区なので、いくつかコースがある。(1)根津神社から千駄木方面、(2)旧藍染川跡の通称「へび道」から谷中の夕焼けだんだん方面、(3)東京大学赤門方面、(4)不忍池から上野公園方面である。どのコースも、歩いていて飽きることはない。おかげで、11月は連日、目標を達成した。

 その一方、雨風の強い日や寒い日には、地下鉄に乗り、(5)大手町駅又は二重橋前駅から東京駅にかけての地下を歩き、あるいは(6)日比谷駅から東銀座駅にかけての地下を歩くという裏技を発見した。そうして平日に地下鉄に乗っていると、ゆったりと座れて、それだけで幸福な気がする。電車に座って揺られてうつらうつらしていると、頭の中で落語か何かで聞いた「世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働け。」という声が聞こえる。そうか、私は「浮世の馬鹿」を46年もやって来たのかということを、つくづく実感する。

 そうやってのんびりしていたある日のこと、散歩の途中で突然、名古屋市長から電話が掛かってきた。「あいちトリエンナーレについての名古屋市の検証委員会の座長になってほしい。」という要請である。表現の自由で議論をよんでいる件だが、この委員会は主に名古屋市からの交付金を議論するそうだ。火中の栗を拾う感があるが、お困りのようだし、市長は私の高校の1期先輩なので、先輩の頼みは無下に断われない。直ぐに依頼を受けた。それからインターネットで色々と調べ始めた。すると、県と市の間でまあ様々なやり取りがあったようだ。表現の自由の関係で本まで出版されている。これは容易でないが、引き受けた以上、一生懸命にやるしかない。家内が横で見ていて、「あなたはやっぱり、ウチにいるような人ではないわね。」などという。

 自分でも「やはり、そうか。」と納得し、のんびりして社会貢献でもするかというこれまでの方針を急遽転換して、積極的に仕事をすることにした。つまりは、浮世の馬鹿に逆戻りだ。幸い、弁護士として登録が終わっているので、どこか法律事務所に所属すればよい。私は今まで様々な分野を取り扱ってきたので、なるべく大きな法律事務所にすれば、多方面の分野の事件を扱える。いわゆる四大事務所は、千代田線の駅だと、大手町駅か二重橋前駅だ。

 そのうちのとある事務所には先輩がいて、中の雰囲気も非常に良いと聞いているし、自宅からだとドア・ツー・ドアで15分で行ける。そこで、先輩を通じて所属させてほしいとお願いに行ったら、面接の結果、ありがたいことに、「結構です。歓迎します。」ということになり、年が明けた1月1日から、アンダーソン・毛利・友常法律事務所に所属することになった。私で、同事務所の日本人弁護士の数は、480人となるようだ。

 12月中ばに同事務所でクリスマス会があり、まだ所属してはいない私にも声をかけていただいた。すると、立食パーティーなので入れ代わり立ち代わりやって来られて、「あなたのあの判決は、良かった。」とか、「先生のご著書で勉強したことがある。」とか、「日米欧の特許裁判のシンポジウムの冒頭で英語でスピーチしたでしょう。」とか、あれやこれやと言っていただく同僚(となる)先生方がおられて、「人は良く見ているものだな」と思った。

 当面は、事務所の中で研修や勉強会の講師を引き受けて、なるべく早く皆さんに馴染むようにし、それから徐々に個別案件の相談に乗るつもりである。また、5月から6月にかけては、お話があれば社外取締役や社外監査役となって、できれば会社経営にも参画していきたいと思っている。かねてからやってみたいことである。もっとも、普段の余計なときには口を出さないようにし、会社のために本当に必要なときだけ、しっかり自分の見解を述べるというつもりである。そうでないと、お互いにやりにくいだろうと思う。

 これが、私の第三の人生の始まりである。身体と意欲が続く限り、積極的にやってみようと思っている。では、その次の第四の人生はどうなるかって? そんなこと、私に聞いてくれるな・・・正月早々、縁起でもないかもしれないが、敢えて言えば、文字通り、死んで夜空の星を構成する物質になっていることだろう。

根津神社








【後日談】 新型コロナウイルス禍

 以上のように、年が明け、大いなる希望をもって法律事務所に所属し、さあこれから仕事に取り組もうと思っていたところ、新型コロナウイルス禍が国内外を直撃した。中国湖北省武漢市から始まり、日本に寄港したクルーズ船で集団感染が発生した。その波は、怒涛の如くヨーロッパからアメリカにかけて波及して感染者と死者が続出し、病院は医療崩壊、墓地もあふれるという異常事態となった。日本でも4月8日に緊急事態宣言が発出され、外出の自粛や施設の使用制限が行われた。当初は5月6日までの予定だったが、31日まで延長された。

 この新型コロナウイルスは、罹患しても80%の人が発症せずに周りに伝染するという厄介なところがあり、若い人の症状は比較的軽いものの、特に65歳以上では重症化することが多いと言われている。患者全体の死亡率は、3.5%程度であるが、70歳台のそれは11%、80歳代以上では20%という報告もある。そういうこともあって、こんな疫病で命を失ってもつまらないことから、家内とともになるべく外出しないで自宅に引きこもっている。外部との連絡はメール、電話、ZoomやSkypeということであるが、まさに隔靴掻痒の感がある。こういう状態では、新しく仕事を広げるというわけにはいかない。第三の人生は、まさに出鼻をくじかれたわけである。

 我々の父母の世代は、不幸なことに世界を揺るがす大きな戦争に明け暮れ、命のやり取りを迫られたわけである。それとは一変して、我々自身の世代では幸いなことに日本が直接巻き込まれる戦争はなかった。その代わり、まさかこの新型コロナウイルス禍のようなパンデミックが起こって、生命の危機に直面するとは、思いもしなかった。私も、これまでせっかく70年間も生きてきたわけであるから、この危機に当たっても、家内とともに、何とか生き延びたいと思っている。




(2020年 1月 1日記、5月14日追記)


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