京都滋賀へ紅葉の旅
2019.11.26 Tuesday | by 悠々人生
1.旅の概要 (写 真)
京都で、大学入学50周年記念のクラス会のパーティが時計塔内のレストラン「ラトゥール」であり、それが楽しみで出掛けて行った。実は、5年前にも同様に45周年のクラス会、また10年前にも40周年のクラス会があり、更に30周年もやはり京都祇園の「いもぼう」で開かれた。
入学後50周年といえば、もう半世紀も経っているという驚くべきことなのだけれど、その様子は、別途、「大学入学50周年記念」というエッセイにまとめたので、ご覧いただければ幸いである。まあ、同級生はこの間、色々な道を歩んで来たが、まるで自分の分身のようにいとおしく感じる。
次の3日目は、京都から在来線のJR琵琶湖線で滋賀県の近江八幡市に行った。とりわけ、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである近江商人について知りたかったからだ。その資料館など市内を見物した後に、「教林坊」という紅葉の名所に行ってきた。安土駅からタクシーで行くしかない辺鄙な寺だが、京都にも負けない素晴らしい紅葉であった。これは、わざわざ見物に行く価値がある。それから、米原駅から新幹線で帰京した。
2.金戒光明寺 (写 真)
通称「くろ谷さん」の金戒光明寺は、浄土宗で法然上人を開祖とし、本尊は阿弥陀如来、唱える言葉は南無阿弥陀仏である。いただいたパンフレットによれば、「法然上人43歳の承安5年(1175)、比叡山での修行を終えてこの地で念仏された時、紫雲全山にたなびき光明が当たりを照らしたことから、浄土宗最初の念仏道場が開かれた場所」とある。
阿弥陀堂は、慶長10(1605)年、豊臣秀頼により再建され、本尊阿弥陀如来は、「恵心僧都最終の作で『ノミおさめの如来』」と言われているそうだ。御影堂の内陣には、法然上人の75歳の坐像があり、その右には吉備観音(1200年前に遣唐使の吉備真備の難を救った観音様)、左には中山文殊(運慶作と伝えられ、いまなは無き中山宝?寺にあった)が置かれている。」という。
3.真 如 堂 (写 真)
4.円山公園 (写 真)
朝早く起きたので、泊まっている四条河原町に近い円山公園に歩いていった。四条大橋を過ぎると、右手には歌舞伎の南座だ。最近、改修された。四条通りが東大路通りに突きあたるところが八坂神社の楼門で、緋色の柱や門構えがいかにも京都らしい。その階段を昇っていき、境内に入る。その中に、常磐神社、大国主社、北向蛭子社など社(やしろ)がいっぱいあって、歴史の古さを感じる。
そこで、「これは、伏見稲荷と言って、京阪電車で行ける。そこの祇園四条駅から乗るといい。私もちょうど京阪電車の反対方向に乗るところだから、駅まで案内しよう。」と言うと、喜んで付いてきた。奥さんの英語は聞きやすかったが、旦那さんの方は英語は話さないようだ。二人の間で話される言葉は、全く見当もつかない。
道すがら、「日本は初めてなの?」と聞くと、「いや2回目だ。」という。「最近、どんなところを旅行したの?」と尋ねると、「南欧とエジプト」という。「あ、私もたまたまその辺りに行きたいと思っている。」と言って、その詳しい話になりかけたときに、もう祇園四条駅に着いてしまった。てっきり、切符を買うのかと思って切符売り場に誘導しようとしたら、Suicaを持っていた。そこで別れたのだが、どこの国の人かを聞きそびれた。でも、まだ30代後半だと思うが、世界各地に旅行する余裕があるとは、誠に結構なことである。
5.蓮 華 寺 (写 真)
その黒人夫婦と別れた後、私は京阪電車で祇園四条駅から出町柳駅に向かい、宝ヶ池駅で乗り換えて三宅八幡駅下車し、6分ほど歩いて「蓮華寺」に着いた。
6.大原三千院 (写 真)
蓮華寺を見終わり、また三宅八幡駅に戻って宝ヶ池駅から岩倉駅に行き、岩倉実相院に行くつもりだった。ところが、たまたまタクシーを掴まえることができたので、大原三千院に向かった。学生時代に数回訪ねたことがあるが、もうそれから半世紀も経っている。円山公園の枝垂れ桜のように、がっかりしなければ良いなと思っていた。
いただいたバンフレットによれば、「大原の地は、千有百年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽(声明)の発祥の地であり、念仏聖による浄土信仰の聖地として今日に至ります。創建は伝教大師最澄上人が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。別名、梶井門跡、梨本門跡とも呼ばれる天台宗五箇門跡の一つで、当院は皇子皇族が住職を勤めた宮門跡です。現在の名称は、明治4年法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額により三千院と公称されるようになりました。」とある。宮門跡だから、これだけ立派なのだと納得した。
7.貴船神社 (写 真)
いったん宝ヶ池駅に戻り、改めてそこから叡山電車で貴船口駅に行った。途中で「紅葉のトンネル」を通った。確かにその名の通りだったが、運転手の後ろにいたので、あまり良く撮れなかった。その電車を降り、バスに乗って貴船神社に向かった。神社の赤い鳥居と赤い木灯篭の列を見て、半世紀前にここに来たことを昨日のように思い出した。自分の頭の中に、こんな記憶が眠っていたとは、我ながら驚く。
8.鞍 馬 寺 (写 真)
貴船神社は本宮だけにお参りして、「紅葉はあまりないなぁ」と思いつつ、坂道を下って行こうとしたその時、左手に「鞍馬寺西門」という表示があり、誰かいる。そこへ行ってみると、「鞍馬山案内図」を渡されて、鞍馬寺に行けるという。このままバスを待ってまた叡山電車に乗るのも芸がないと思って、山中だが、歩いてみようという気になった。
行程は、貴船神社 →(573m)→ 魔王殿 →(461m)→ 背くらべ石 →(403m)→ 本殿金堂 →(456m)→ 多宝塔 →(ケーブル200m)→ 仁王門・鞍馬駅。
いただいたパンフレットによれば、なかなか魅力的なことが書いてある。曰く「鞍馬山は、太古より尊天のお力が満ちあふれています。この地に宝亀元年(796)鑑真和上の高弟・鑑禎上人(思託律師)が毘沙門天をお祀りし、延暦15年(796)には藤原伊勢人が堂塔伽藍を整え千手観世音も祀って鞍馬山が生まれました。以来、幅広い信仰を集めてきましたが、昭和22年に古神道、密教、浄土教、修験道など多様な信仰の流れを統一し、鞍馬弘教と名付け、鞍馬寺はその総本山となっています。」これを読んで、驚いた。これだけ多種多様な宗教を能く一緒にできたものだと。実に日本らしいではないか。
9.東寺のライトアップ (写 真)
いったん京都の都心部に戻り、四条通りや河原町通り、祇園や先斗町辺りを散歩して、四条河原町のホテルに戻ったら、もう夕方になっていた。ひと休みして、午後7時近くから、東寺のライトアップに出掛けた。
いただいたバンフレットによれば、「この五重塔は、天長3年(826)、弘法大師の創建着手に始まり、雷火によって焼失すること3回に及んだ。現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。」とある。
五重塔と紅葉を堪能して帰ろうとして歩き出したら、金堂(国宝)に入れてもらえるらしい。入ってみると、暗い中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩があって、坐像の周りに十二神将が立ち並ぶ。ライトアップされているから、顔の彫りが深く見え、昼間に拝見するのとはまた違った趣きがある。すべての衆生に安らぎと癒しをもたらす薬師如来ならではの表情である。
10.近江八幡 (写 真)
翌日は、京都の紅葉に別れを告げて、一挙に滋賀県近江八幡市に行った。といっても、JR琵琶湖線の新快速でわずか35分ほどである、ここは、近江商人発祥の地ということで、一度は訪れてみたかった所だ。さて、駅に降り立った。観光案内所に飛び込む。そこで相談して作ったルートが次のようなものだ。
近江八幡駅前 → 八幡小学校 → 池田町洋風住宅街 → 郷土博物館 → 歴史民俗資料館 → 旧西川家住宅 → 旧伴家住宅 → 八幡堀 → 明治橋 → 日牟禮八幡宮 → 八幡山ロープウェイ → 村雲御所瑞龍寺 → 白雲館 → (近江牛のすき焼き)→ 近江八幡駅
ずいぶんと回ったようにみえるが、町並みがコンパクトだから一挙に回れるので、実はそうでもないのである。八幡堀の遊覧船に乗るつもりだったが、この日は気温が極端に低くなって日中でも10度を切っていたので、風邪をひくといけないと思って、止めた。私のような年代になると、「風邪をひくな」、「転けるな」、「ボケるな」は、もう合言葉と言ってよい。
メンソレータムを日本に輸入した人物であり、当時不知の病として恐れられていた結核治療を目的とした近江療養院の建設、さらには市内の子供たちの教育の場として図書館や近江兄弟社学園の設立など、多岐にわたる社会貢献事業を展開しました。」とあり、
「ヴォーリズ夫人の満喜子は、播州小野藩の藩主であった一柳末徳(その後、子爵)の三女として東京で生まれました。神戸女学院音楽部ピアノ専攻を卒業後、9年間の留学の間に教育者であるアリス・ベーコンに師事し、近代女性にふさわしい主体的な生き方を身につけて帰国しました。ヴォーリズとの出会いは、現在の大同生命の創業にかかわった広岡家に養子入りした実兄の恵三とヴォーリズとの通訳を務めたことがきっかけでした。」とある。
ということで、じっくりとヴォーリズ建築を見たかったのだが、池田町の洋風住宅街をさっと見た程度であるから、あまり語る資格がない。いずれも、暖炉の煙突がすっくと立っているのが特徴である。それにしても、このヴォーリズさんが近江八幡に残した財産は多岐にわたり、しかもとっても大きい。また、ご本人の人柄に触れるために、アンドリュース記念館、ウォーターハウス記念館、ヴォーリズ学園のハイド記念館・教育記念館にも行ってみたかったが、また今度にしよう。
近江八幡には、縄文時代から人が住み着いていたが、町の形になったのは、戦国時代末期で、まず織田信長が安土に城と城下町を築いた。信長が明智光秀に討ち取られた後、豊臣秀次によって八幡山に城と城下町が造られて安土の城下町から町人か移り住んだ。ところが秀次が切腹させられ、京極高次が後を継いだが、長続きせずに開城後わずか10年で廃城になってしまった。それからは、在郷町として、八幡商人の町となった。それ以来、独立覇気の精神に昔の八幡城の跡には、村雲御所瑞龍寺が建っている。
「歴史民俗資料館」は、もともと江戸時代末期が八幡商人の豪商であった森五郎兵衛の控え宅で、元近江八幡警察署長官舎だったものを市が譲り受けたという。中に入ると、豪商の屋敷そのもので、台所はそのまま、生活用具も見られる。なかでも、陶器でできた湯たんぽには、感心した。
旧西川家住宅は、「西川利右衛門家住宅は、江戸時代初めの天保3年(1706)に建てられた京風の建物で、質素な中にも洗練された意匠を残している、蚊帳や畳表などを扱って財をなした西川家は、11代約300年続いた近江八幡市を代表する近江商人で、屋号を『大文字屋』と称していた」という。
それから、「旧伴家住宅 」を訪れた。こちらは、「江戸時代初期の豪商『伴庄右衛門』が本家として建てた商家です。屋号は扇屋といい、商号として『地紙一』を使用、畳表、蚊帳、扇子、麻織物を主力に商売に励み、大阪、京都に出店を持ち、やがて江戸日本橋にも大店を構えるようになり、為替業務や大名貸しもしていました。・・・隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え、明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています。」という。
11.教 林 坊 (写 真)
それから、いよいよ本日のハイライトである安土の教林坊に行こうとしてJRに乗ったら、隣の駅だった。安土駅にも観光案内所があって教林坊への行き方を聞いたら、「バスは数時間に1本しかなくて、とても不便だからタクシーで行くしかない。それも、安土駅にあるタクシーはたった2台だ。」と聞いて、力が抜けた。そこで、タクシーのアプリで呼ぼうとしたら、ご親切にもその案内所の人が「私が呼んであげる」と言って呼んでくれた。待つこと20分でようやくやって来て、それに乗り込んだ。教林坊に着いた。わずか10分、料金にして2,000円だったから、歩いてもそんなに遠くなかったのかもしれない。
(2019年11月26日記)