退官に当たってのご挨拶

最高裁判所大法廷



1.挨 拶 状

 令和元年9月26日、次の挨拶状を親戚、先輩、同僚、後輩、そして親しい友人たちに送付させていただいた。

拝啓 皆様におかれては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
                          さて 私こと  このたび、定年により、最高裁判所判事を退官いたしました。
 昭和48年に旧通商産業省に入省以来、経済企画庁、資源エネルギー庁、外務省、特許庁、経済産業省、日本貿易振興会、内閣法制局、最高裁判所に勤務して合計46年余の充実した公務員生活を送ることができました。この間、皆様から公私にわたり温かいご支援とご厚情を賜り、改めて、心より御礼を申し上げます。
 今後は、これまで培った法律や経済の知識と経験を生かし、弁護士として引き続き社会に貢献するよう努めていきたいと考えています。末筆ながら、皆様のご健勝とご多幸をお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。
                          敬具



2.自分がたどってきた道のり

 退官日の前日、最高裁判所大ホールに整列した長官をはじめとする同僚裁判官の一人一人に挨拶を交わした。それから記念の花束を受け取り、立ち並ぶ職員の皆さんの万雷の拍手を受けて車に乗り込み、最高裁判所の建物を後にした。その時、私の胸には文字通り万感の思いがこみ上げてきた。

 自分がたどってきた道のりを振り返ると、我ながら色々とあったものだと思う。ともあれ、戦後に団塊の世代の一人として生まれ、それなりの波瀾万丈の人生を歩んできた。

 中でも、青年期に経験した東大入試中止は、東京へ出て、日本のために大きな舞台で活躍したいと思う私の心に、強力な火を点けてくれた。大学卒業後、運良く通商産業省への入省の夢がかない、その後は、良き先輩・同僚・後輩に恵まれて、どんな仕事も選り好みせずに全力で取り組んだ。内閣法制局に移ってからも、法律の解釈や法令案の審査を一生懸命に勤め、また最高裁判所ではこれまでの知識と経験を生かして信念に基づく判決を行い、それぞれ満足のいく仕事ができた。

 こうした多忙な仕事をする一方で、家に帰れば、家内が愛情深くて色々と気を配ってくれるから、一緒にいて幸福感があった。ともに子育てを楽しみ、二人の子供も医師と弁護士として活躍している。家内なくして、今の私は存在しなかった。おかげで、実に幸せな人生を歩ませてもらったと思う。


3.70歳代は人生の黄金時代

 私は、昭和に生まれ、平成を生き抜き、令和で人生の最終章を迎えそうだ。これからの私に残された時間は、そう長くはないと思うが、私の公務員人生はここでピリオドを打ち、私の前には全く新しい世界が待っている。そう思うと、生来の好奇心が湧き起こってきて、楽しくて仕方がない。

 通商産業省のある先輩は、80歳代になってその人生を振り返り、「70歳代が一番幸せだった。」と語っておられた。確かにこの先輩は、現役時代は文字通り「仕事の鬼」と言われたほどだったが、引退後は健康そのもので、しばしば海外旅行に行ったり、趣味の陶芸やゴルフに打ち込んだりして、楽しそうに過ごしておられた。見習うべき先達である。

 その生き方を踏襲すると、私もこれから人生の黄金時代を迎えそうだ。公務員として46年余、やるべきことはやったから、もう思い残すことはない。退官を契機に心を新たにし、健康に気をつけながら、弁護士として今少し社会に幾ばくかの貢献をしつつ、家内、子供たち、孫たちとともに、残された貴重な人生を有意義に楽しく過ごしていきたい。

 このホームページ「悠々人生」の読者の皆様にも、人生の黄金時代に入った私が見た美しい風景の写真、物事への考察や感想を記したエッセイなどを、引き続きお届けできればと思っている。



最高裁判所大法廷


最高裁判所









 (退官記念に、天皇陛下から賜った銀杯)

退官記念の天皇陛下からの賜り物








(2019年9月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 08:09 | - | - | - |
チャイナ・フェスティバル 2019

天津シルクロード芸術団



 代々木公園で、チャイナ・フェスティバルを開催するというので、行ってきた。目的は、民族舞踊芸術団の公演と、その演技を新しいカメラ・ソニーα7IIIで撮ることである。この日に見たのは、黒竜江省ジャムス市芸術団の「同江市赫哲族非遺展示展演団」、カンフーの里から来た芸術団の「中国武当功夫団」、天津市の「天津シルクロード芸術団」である。いずれも期待にたがわず、非常に面白かった。


1.黒竜江省ジャムス市芸術団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 まずは、同江市赫哲族非遺展示展演団である。一体、何を演じるのか、興味津々である。最初に、狩猟民族のような衣装を身に付けた男性2人と女性2人が登場し、タンバリンに様々な色の毛皮の紐を付けたような楽器を打ち鳴らし、同時に「ビューン、ビューン」と鳴る不思議な小型の楽器を奏でる。それも、手のひらに収まるほど小さいのに、結構大きな音が出る。狩りのときに仲間との合図に使ったものなのだろうか。改めてその衣装に目をやると、アメリカ・インディアンみたいな衣装に、日本のアイヌ民族の紋様を合わせたような出で立ちである。なるほど、これは辺境にあって、長年の間、狩猟で生きてきた少数民族なのだろう。

同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 それが終わると第2幕で、若い女性の2人の踊り手が登場する。赤い派手な衣装だが、頭には毛皮の帽子を被っているから、いかにも寒い地方から来たのだろうと思われる。まるで子供のように天真爛漫に遊んでいると思ったら、氷の上でツルリと滑るような仕草をみせるので、客席がどっと湧く。背中に背負った魚籠(びく)からは、小さな魚が顔を覗かせている。あれあれ、魚釣りでもするのだろうか。小さな魚を採ったようで喜んでいる。それどころか、舞台の隅に行くと、思いがけず大きな魚が釣れて、その喜ぶこと、喜ぶこと。重たそうに引きずりながら意気揚々と帰っていった。これは、言ってみれば幼稚園児の劇みたいなものだが、それだけに言葉が通じない我々には、非常に分かりやすかった。

同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


同江市赫哲族非遺展示展演団


 さて、第3幕には、頭には鹿の角を載せ、甲冑のようなものを着た、まるでシャーマンのような女性が登場する。その周りをタンバリンを持った踊り手が乱舞する。そして、時々陶酔の表情を浮かべる。よくよく見ると、シャーマン女性のタンバリンには、まるでマヤ文明の太陽神のようなものが描かれている。これは、偶然だろうか。この人たちは、ますますアメリカ・インディアンの先祖という気がしてきた。背景のスクリーンには、この皆さん(赫哲族)の生活の風景が映し出されているが、まるでイヌイットの世界で、冬が長くて厳しそうだ。

 ちなみにウィキペディアによれば、「ナナイ(Nanai)は、ツングース系の民族。分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万人で、中国国内にも居住している。2004年人口調査時の中国国内人口は約4,640人。中国国内のナナイはホジェン族(Hezhen;赫哲)と呼び、55の少数民族の一つとして認定されている。」とのこと。


2.中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 さて、白い衣装に白い扇、黒い衣装に赤い扇を持った2つのグループが出てきて、その扇をバチバチッと打ち鳴らしたかと思うと、白い衣装に長い剣を持ったグループが現れて、その剣を振り回す。それらが動きを止めた・・・と思ったら赤い衣装に身を包み鋭い剣を持って、バック転のようにして現れる者が出る。そして、一人、剣で派手な立ち回りをする。おっと、飛んで宙に浮いた。これは、凄い。日本の忍者みたいなものだ。辛うじて私のカメラ(毎秒10枚撮影)でその一部始終を捉えたが、中には動きが速すぎてこのカメラでも十分捉えきれない者もいた。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 また、大きな筆のようなものを持って、まるで、何かの文字を書いているかの如き所作で空中を飛ぶ人もいた。次に、背を平らにしてその上を馬跳びのようにして飛ぶ。これは、カンフーの修行の一つなのだろうか。不思議な所作である。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 今度は、ソロの演技が始まった。見ていると、手は比較的緩く遅く動き、むしろ身体がキビキビと動く。なるほど、これは典型的なカンフーの動きだ。それが終わると、数人が出てきて、演技が始まった。女性はもちろん、男性でも身体がものすごく柔らかい。足がグニャリと曲がって、頭の上まで持って行っているではないか。これには驚いた。そうかと思うと、両足を片方の手に預けるようにしたり、前後に持って行くようにして、両手で身体を浮かせている。おお、次の人は、両手で身体を垂直に支えている。これも、凄い。インドのヨガの水鳥のポーズどころではない。

中国武当功夫団(カンフー団)


中国武当功夫団(カンフー団)


 最後に、赤い衣装に身を包んだカンフーマスターのような人とともに、大勢が出てきて、そのマスターを中心に演技が始まる。ゆっくり手を動かして、それに気を取られていると、身体がキュッとばかりに動いている。これが、カンフーが武術たる所以なのだろう。おやおや、マスターが円盤に乗って担ぎ上げられた。マスターはその上で演技をしている。あっと思ったのは、マスター両足をやや開きながら、前に傾いていた。どこにも掴まらなくてやるというのは、これは凄い。次に身体を横に傾ける。これ、一体どうなっているのだろうか。ともかく驚いているうちに、終わってしまった。


3.天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 天津シルクロード芸術団というのが始まった。おや、これは可愛い女性たちだ。フレンチ・カンカンのような派手な衣装で、スカートの裾を円形に回している。もっとも、フレンチのように脚を上げたりはしない。その衣装で、裾を持ってグルグルと回る、回る、回る。目が回ってきた。

天津シルクロード芸術団


 次に、2人のピエロが出てきた。客席から4人の男性を選び、その人に、何か芸をさせる。例えば、丸い輪の内側に水を入れたコップを載せ、それをぐるりと一周させる。ピエロはもちろん成功するが、お客は失敗して笑われるという次第だ。やがてその4人をパイプ椅子に座らせて、横の人の膝に頭を載せ、それを全員にさせる。そうしておいて、なんとまあ、その椅子を1個ずつ引き抜いて、ついに4個全部がなくなった。もちろん、数秒後には、自重に耐えきれずに、ガシャンとばかりに崩れてしまった。これには、客席一同、びっくりしつつも大笑いした。

天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 今度は、品の良い紫色の衣装を纏い、手に団扇を持った女性達が出てきた。そして、優雅に舞って踊る。美しさを愛でるだけなので、これは安心して見ていられる。

天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


天津シルクロード芸術団


 それを「静」とすると次は「動」だ。男性が出てきて、カンフーのような力強い演技をする。子供、女性、また男性と続いて、飛んだり跳ねたり、型を決めたりと、凄まじい。でも、いささか演技過剰感がある。あれあれ、男の子が空中を一回転した、これには、思わず拍手をする。いやまあ、中国感が満載の演技だった。


4.家内の一言

 そういうわけで、久々の代々木公園での各国別フェスティバルは、主催国が中国だけのことはあって、なかなか面白いものだった。家に帰って家内にビデオや写真を見せると、次の一言を宣った。

 「良いわね。幸せよ。飛行機に乗って何千キロを飛ぶ必要がなくて、あちらから近くの公園に来てくれるのだから。」

 なるほど、ごもっとも。なお、私はこれに刺激されて、中国少数民族の舞踊を観に行こうという気になった。ちょうど「雲南省シーサンパンナ少数民族歌舞公演(孔雀の舞う楽園)」というものが来月にあるので、行って観て来ようと思っている。ただ、こちらは正式な公演なので、写真を撮ることはできないだろうから、それが少し残念である。


【後日談】1ヶ月後に、「孔雀の舞う楽園」の公演に行ってみた。実に良かった。






 チャイナ・フェスティバル(写 真)






(2019年9月22日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:25 | - | - | - |
本場おわら風の盆

鏡町おわら



 本場おわら風の盆( 写 真 )は、こちらから。

 本場おわら風の盆(ビデオ)は、こちらから。


1.一度は本物を観てみたかった

 「越中八尾おわら風の盆」については、これまで「月見おわら」「前夜祭」などを見て、それなりにわかったつもりでいた。ところが、やはり本物を見てみたいと思って、八尾に出掛けて観ることにした。今年の9月1日は日曜日で祭りは3日まであるから、2日丸一日と3日午前中(帰京)を休めば、丸々2日間は見られるという算段である。だから、たとえ一日くらい雨で中止になっても、さほど悔しくない。

 また、かつて行った前夜祭のときのカメラはオリンパスE−P3だったので、こういう暗い中での撮影は、ほぼ不可能だった。月見おわらのときはキヤノンEOS70Dだからそれよりはマシだったが、やはり、動き回る早い所作には不向きだった。その点、幸い今回は新しく買ったソニーのα7IIIを持っていくので、楽に撮れるはずだと期待する。実際、その通りだった。

 大人の休日倶楽部で北陸フリー切符というものがあって、往復には北陸新幹線を使えて、北陸エリア内では乗り降り自由であり、新幹線終点の金沢からもっと西に行こうとすると、特急の自由席に乗ることができる。価格も22,000円と合理的だし、いちいち行先を確かめて切符を買うという煩わしさがない。だから、北陸地方へ行くときは、私は専らこれを利用している。宿泊は、富山は混んでいるだろうから、少し外して高岡のホテルを予約した。地元の「あいの風富山鉄道」で富山から17分ないし18分と、それほど遠くない。県内の二大都市間だから、夜中もちゃんと電車がある。

 当日、乗り込んだ北陸新幹線は順調に走り、富山駅で降りて「あいの風富山鉄道」に乗り換えようとしたところ、ちょうど「おわら風の盆」のポスターが目に入った。越中八尾駅は富山駅から高山本線で20分ほどのところにあるが、その電車には整理券がないと乗ることができないという。その整理券は、乗車時刻の1時間前から発売だとのこと。そんな話、聞いていなかった。これは面倒だと思って地元の妹たちに行き方を相談すると、八尾のスポーツアリーナまで送ってくれるというので、好意に甘えることにした。これは助かった。そのスポーツアリーナは、見物客向けの大掛かりな駐車場となっていて、町の中心部までシャトルバスが出ている。

 スポーツアリーナは高岡から車で40分の道のりだ。午後4時頃に着き、シャトルバスに乗り込む。到着したのが、八尾町域の東の城ヶ山公園の近くだ。そこから坂を登って町域に入る。町の北側には井田川がある。山中を流れてきて、ふと平野が開けるところに町がある。現在の川面はかなり下がっているものの、その地形からして、過去に何回も洪水に襲われたのだろう。その度に標高の高い所へと移っていったものと見える。だから八尾は、総じて坂の街である。

 ちなみに、以下は、私が最も感動した「おたや階段」下の広場で行われた鏡町の皆さんによる「おわら風の盆」踊りである。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





2.おわら風の盆の由来

 おわら風の盆の由来は、越中八尾の公式HPから引用させていただこう。

おわら風の盆の幕開け
 二百十日の初秋の風が吹くころ、おわら風の盆の幕開けを迎えます。毎年9月1日から3日にかけて行われるこのおわら風の盆は、今も昔も多くの人々を魅了します。涼しげな揃いの浴衣に、編笠の間から少し顔を覗かせたその姿は、実に幻想的であり優美で、山々が赤くもえる夕暮れを過ぎると、家並みに沿って並ぶぼんぼりに淡い灯がともります。
 それぞれの町の伝統と個性を、いかんなく披露しながら唄い踊り、その町流しの後ろには、哀愁漂う音色に魅せられた人々が1人、また1人と自然につらなり、闇に橙色の灯が浮かび上がり、誰もがおわらに染まっていきます。

おわらの歴史は、元禄ごろから
 おわらがいつ始まったのか、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。
 「越中婦負郡志」によるおわら節の起源として、元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建御墨付」を八尾の町衆が、町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。
 どんな賑わいもおとがめなしと言うことで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら仮装して練り廻りました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、9月1日から3日に行うようになったと言われます。

「おわら」とは
 一説では、江戸時代文化年間頃、芸達者な人々は、七五調の唄を新作し、唄の中に「おわらひ(大笑い)」という言葉を差しはさんで町内を練り廻ったのがいつしか「おわら」と唄うようになったというものや、豊年万作を祈念した「おおわら(大藁)」説、小原村の娘が唄い始めたからと言う「小原村説」などがあります。

風の盆の由来
 二百十日の前後は、台風到来の時節。昔から収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願が行われてきました。その祭りを「風の盆」というようです。また、富山の地元では休みのことを「ボン(盆日)」という習わしがあったと言われます。種まき盆、植え付け盆、雨降り盆などがあり、その「盆」に名前の由来があるのではないかとも言われています。

多くの人々に育てられて
 大正期から昭和初期におわらが大きく変化を迎えます。大正ロマンと呼ばれるほど文化に自由な気風が溢れた時代、大正9年に誕生した「おわら研究会」も影響を受け、おわらの改良(唄や踊り)を行いました。また、昭和4年に結成された「越中八尾民謡おわら保存会」初代会長の川崎順二の文化サロンを中心とした働きで、各界の文人が次々と八尾に来訪しました。おわらに一流の文化意識を吹き込んだ文化人には、宗匠・高浜虚子、作家・長谷川伸もいたと言われています。
 同年、東京三越での富山県物産展に於ける公演をを契機に、おわらの改良がなされ、画家の小杉放庵、舞踊の若柳吉三郎が創った「四季の踊り」は大人気となりました。このときのおわらが「女踊り」「男踊り」として継承され今日のおわら風の盆になりました。
 その時代に生きた文芸人らの想いは今、歌碑となって町内のあちらこちらで息づいています。散歩がてら町の「おわら名歌碑」めぐりをして廻るのもおわらの楽しみの一つです。
 新しい時代の息吹を吸収しながら生きるおわら風の盆は、これからも新しい変化を繰り返し、次の世代へと継承されていくことでしょう。また、そう願わずにはいられません。


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら


鏡町おわら





3.曳山展示館とおわら演舞場

 私の旅行は、かつては事前に色々と調べて完璧ともいえるプランで臨んだものだが、そうすると旅が窮屈になる上、様々なハプニングに柔軟に対応できないうらみがある。だから最近では、特に国内旅行は一応調べてはいくものの、基本的には行き当たりばったりで、その度ごとのハプニングを楽しむというスタイルである。今回もその調子で特に詳しく調べていくようなことはせず、シャトルバスに乗り込む時にいただいたパンフレットを眺めることから始めた。

 そうすると、「曳山展示館ステージでの実演」「おわら演舞場(八尾小学校校庭)」というのがあった。前者が午後5時からで1,500円、後者が午後7時からで指定席券3.600円である。では、開始時間を考えると、まず前者に向かおうかと思って地図を眺めていたところ、後者の小学校は今いる場所のすぐ近くなのに気が付いた。だから、まずそこに立ち寄って指定席券を買うことにした。窓口で聞くと、運よく良さそうな席が空いていたので、それを買うことができた。

 地図を見ながら曳山展示館に到着した。そこでは山車が並べられていて興味をそそられたが、おわら風の盆の舞台を見に来たので、まずはそちらの列に並んだ。次から次へと観客が来るので、列は延々と長くなる。やっと時間になり、ホールへと入った。どこでも良いというので、最前列のかぶりつきに着席した。残念ながら写真は禁止だ。


おわら雪洞



 いよいよ始まり、まずはおわら風の盆の所作の解説である。豊年踊り四季踊り案山子踊りなどがある。最初に左上で3回、手を叩き、右下で1回叩くのはこれから始めるという合図だとか、目の前で3回水平に手を動かすのは蚕棚を整理している所だとか、それから右や左へと手を斜めに動かすのは確認している所作だとか、色々と解説がある。それから踊り手さんたちが舞台でやってみせる。舞台踊りだそうだ。30分のステージで、本日は西新町支部が担当である。でも、「あれっ、これで終わりか。」と言いたくなるほどの内容の薄さだ。おわらは全く初めてという人には良いかもしれないが、私のように少しは知っているお客にとっては子供騙しのようで、物足りなくて損をした気分である。せめて、歌詞と所作の解説をしたメモでも配ってくれれば、この値段に合った価値があったのかもしれないと残念である。

 さて、午後7時近くになってきた。気を取り直して、演舞場に向かう。小学校の大きな校庭に沢山の椅子を並べて、正面に舞台が設えてある。舞台の背景の絵は、真ん中に大きな橋がかかっている川の風景である。なかなか良い。30分ごとに4つの支部が出演する本格的なものらしい。3日間で合計11の支部と、八尾高校郷土芸能部が出演する。私が見たこの日は、上新町、東新町、西町、天満町の順で、終演が午後9時近くになる。


上新町


上新町


上新町


上新町


 いよいよ始まった。まず、上新町の出演である。胡弓、三味線、太鼓の素朴で情緒あふれる旋律が聞こえてきた。次いで長く続く絞り出すような声でおわら節が朗々と唄われる。男性の踊り手が出てきて、左上で3回手を叩き、次いで斜めに手を動かして右下で1回手を叩くことから始まり、両手を水平にして手首を曲げる。これが案山子踊りか。それからピンクの衣装の女性の踊り手が男性と入れ替わるように現れて、優雅に踊る。菅笠を目深に被るので、「夜目遠目笠の内」ではないが、どの人も美人にみえる。面白いものだ。

 正確に言うとこの日の歌詞とは違うかもしれないが、例えば、こういう歌詞である。八尾四季(作詞:小杉放庵)

 揺らぐ吊り橋 手に手を取りて
 渡る井田川 オワラ 春の風
 富山あたりか あのともしびは
 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫
 八尾坂道 別れてくれば
 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと
 もしや来るかと 窓押し開けて
 見れば立山 オワラ 雪ばかり


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町


東新町



 東新町の出演時には、小学生の女の子を早乙女姿で出し、男の子を黒い男性衣装で出してきて、そのあまりの可愛さに、観客から拍手喝采だった。大人の男性は黒っぽくてさほどの差がないと思っていたら、町によって、男性がウグイス色の衣装で出てきた。ピンク色の女性とマッチして、非常によかった。

東新町


東新町


東新町


東新町




 また、黒い男性の踊り手が、案山子踊りの最中に、両手を斜めに伸ばし、片足を上げて固まったように動かなくなり、それに更に2人が同じように固まった姿勢をとる。これにも、観客が大きな拍手喝采を送った。そういう調子で、最後まで観て、おわら風の盆を堪能した。素人は、このステージだけでも良いかもしれない。もっとも、おわらの真の楽しみは、思わず町流しにぶつかって、その町独特の衣装、踊り、歌い方を堪能するところにある。


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町


西町



 さて、これが終わったのは、午後9時を回っていた。それから日付けが変わるまで町流しを見るのがおわら風の盆見物の醍醐味だ。ところが、泊まりは高岡なので終電などを気にするのも面倒だし、明日があると思って、本日はもう帰ることにした。越中八尾駅まで歩いて30分はかかりそうだ。それで帰りかけたら、東町での町流しにぶつかった。狭い通りを、胡弓と三味線を流しながら朗々と歌い、その前を編み笠を目深に被った黒い男性とピンクの女性の浴衣姿が踊りながら流していく。この歌がまたよい。ドッコイサーのサッサなどと、頭にリズムが残る。哀愁を帯びた懐かしさがこみあげてくる。これを記録するには、写真では全く不十分だ。このおわら節と一緒でなければ、意味がない。そういうことで、今回のおわら風の盆見物には、写真よりビデオの方を多く撮った。


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町


天満町



 それを見終わって、駅を目指して歩き始めたのは午後9時半頃だ。パンフレットの地図を頼りに十三石橋を渡ったのはよいが、そこでグーグル・マップを取り出したのは失敗だった。これに駅までの道順が出てくるので、ついついそれを頼りに進むと、一応は歩道があるけれど、だんだん道が暗くなってきた。構わずに歩くと、なんと墓地がある。そういえば、どこか見覚えがあると思ったら、その一角に親類の山口家のお墓がある墓地だ。間違いない。全くの偶然で驚いたが、この夜中にわざわざ立ち寄ってお参りする気も起こらず、心の中で亡き従兄弟のSさんに挨拶をして、そのまま通り過ぎた。

 更に行くと、真っ暗な中で突然、道が途絶えている。こんなことがあるものかと思ってよく見ると、階段だ。はるか下に、鳥居があるので、神社の参道の階段を下れというのが、グーグル・マップの指示だ。こんなに傾斜があるなら、そう表示してもらいたい。もう二度とグーグル・マップは使うものかと思いつつ、暗い中を何とか階段を降り切った。そこは、駅にほど近いところで、街頭もあり、ようやく文明社会に帰ってきた気がした。高山本線の電車に乗ったのは午後10時37分、高岡のホテルに帰り着いたのは、11時30分だった。いやはや、ひどい目に遭った。とんだ、夏の夜の肝試しの日だった。



天満町




4.おわら保存会11支部の特徴

 いただいたパンフレットの中にあった八尾町の地図で、上(南西部)から下(北東部)へとこれらの11支部(町内)が並んでいる順に見ていくと、最南西端は「東新町」(地図の左手)と「西新町」(右手)から、川を渡った所にある「福島」までは、次の通りである。

「東新町」、「西新町」
「諏訪町」、「上新町」
「鏡 町」
「東 町」、「西 町」
「今 町」
「下新町」
「天満町」
「福 島」


 それぞれの支部の特徴について、いただいたパンフレットには、このようにある。

「西新町」・・最も南に位置する支部です。新しく区画割されたことをあらわす「新屋敷」という通称でも呼ばれます。腰を深く落としてから大きく伸び上がる所作の男踊り、また繊細かつ優美な女踊りとも相まっての町流しは見応えがあります。

「東新町」・・諏訪町の先にあって最も高台に位置する支部です。この支部の少女だけが愛らしい早乙女衣装をまとって踊ります。また、この支部にはカイコを奉った若宮八幡社があり、その境内で奉納されるおわらには独特の風情があります。

「諏訪町」・・往時を偲ばせる佇まいの家々立ち並び坂のまち風情を色濃く残している支部です。東新町へと続く緩やかな坂道にボンボリが並び、狭い家並みにおわらの音曲が反響し、道の両脇を流れるエンナカと呼ばれる用水の水音と相まって、おわらにとっての最高の舞台を演出します。

「上新町」・・旧町の中で一番道幅が広く、商店が多く立ち並んでいる支部です。通りが広いので、比較的容易に町流しを楽しむことができます。また、午後10時から始まる大輪踊りには、観光客の皆様も参加して地元気分で楽しんでいただけることから、大変好評です。

「鏡 町」・・・かつては花街として賑わった町の支部で、女踊りには芸妓踊りの名残もあって、艶と華やかさには定評があります。鏡町支部への入口でもある、おたや階段下が支部のメイン会場になっていて、その会場で行われる舞台踊りや輪踊りをおたや階段に座って鑑賞するスタイルが有名です。

「東 町」・・・旧町でも古い町にある支部で、かつては旦那町とも呼ばれたほど大店が連なっていたと伝えられており、他支部と異なる色合いの女性の衣装に当時の旦那衆の遊び心が伺いしれます。また、おわらの名手だった江尻豊治や越中おわら中興の祖といわれる川崎順治などを輩出し、おわらの芸術性を育んだ町でもあります。

「西 町」・・・東町とともに旧町の中心にあって旦那町として栄えた支部です。今でも土蔵造りの家や風情ある酒蔵、格子戸の旅館など情緒あふれる建物が残っています。昼間に行われる、禅寺坂をくだった先にある禅寺橋で石垣をバックにした輪踊りには独特の風情が感じられます。

「今 町」・・・旧町の古刹聞名寺の正面に位置する支部です。東西両町の中心に位置したことから、かつては中町と呼ばれました。青年男女が絡む男女混合踊りは、この支部が他の支部に先駆けて取り入れたものとつたえられており、創作当時のスタイルを大切に守っています。

「下新町」・・福島から旧町への入口にある支部で、かつては勾配のある坂道に沿って多くの商店が立ち並んでいました。坂の中腹には八幡社があり、春季祭礼の曳山祭りでは曳山が奉納されるメイン会場となっています。朱色を基調とした女性の浴衣が特徴的です。

「天満町」・・東西北の三方を川に囲まれた町にある支部です。町はかつて川窪新町といわれていました。明治23年に天満町と改称し、その名の通り天満宮があります。この町では、おわらの唄(上句)の途中にコラショットと囃子を入れて、音程を下げて力強く歌う独特の歌い方があります。その歌い方は、川窪(こくぼ)おわらと呼ばれています。

「福 島」・・・旧町から移り住んだ人達を中心として結成された最も新しい支部です。風の盆期間中は駅横の特設舞台でステージ踊りが実際されます。また、大人数で広い通りを流す福島独特の町流しは見応えがあり、大変好評です。


 各支部の特徴が非常によく分かり、なかなか優れた解説である。とても参考になった。ついでに、同じパンフレットに書いてあったQ&Aのうち、興味を惹かれたものを引用すると、

 顔が見えないくらいに深く編み笠を被るのはどうしてですか。
 風の盆がはじまった当初は、照れやはずかしさから人目を忍び、手ぬぐいで顔を隠して踊ったのが始まりだったと伝えられています。編み笠に変わった今もその名残りで、顔が見えないくらいに深く被ります。

 女子の踊り子さんの帯はなぜ黒いのですか。
 その昔、おわらの衣装を揃えた際、高価な帯まで手が届かなかったので、どこの家庭にもあった黒帯を用いて踊った名残りといわれます。

 初めて風の盆に行くのですが、どのように見たらよいですか。
 大きく分けて2つの見方があります。ステージでの鑑賞と各町内踊りでの町流しになります。初めての方は、椅子に座って見ていただける八尾小学校演舞場(有料)がおすすめです。

 町流しとは、とのようなものですか。
 おわらの町流しは、11あるおわら保存会支部がそれぞれ町の通りを歌い踊りながら流すもので、昔からのおわらの姿がここにあります。町流しには踊りと地方(じかた)が一体になった町流しと、地方だけの町流しがあります。


 なるほど、編み笠を深く被ることや黒帯の理由が、よく分かった。私は、9月1日の第1日目夜は八尾小学校演舞場で座って4つの支部を見物し、第2日目は、午後の町流しと、その夜は町流しはもちろん鏡町に陣取って舞台踊りなどを見たから、11支部のうち、少なくとも半分程度は見たと思う。町流しの見物も、この辺りで始まるななどと勘が働くようになり、だんだん慣れてきた。


5.鏡町のおたや階段下の広場

 さて、2日目は、やはり妹に送ってもらってスポーツアリーナに着いたのが午後2時半頃だ。午後3時から5時まで、各町内で昼間の町流しがある。それで、東町 → 西町 → 上新町 → 諏訪町 → 東新町 → 西新町 → 鏡町 の順で、町流しを観ていった。上新町公民館の前では、舞台踊りが披露され、それを堪能した。


西町


上新町公民館


西町


西町


西町



 午後7時から夜の町流しが始まるので、それまで2時間ほどある。先ずは早目の夕食を食べようと、食堂に入って親子丼をいただいた。関東の親子丼のように醤油を使っていない。だから、卵と玉ねぎと鶏肉がそのまま白いご飯にのっていて、まるで味がしない。富山では、他で親子丼を食べたことがないので、この店だけの味か、それともこの地方特有の味なのかはよく分からなかった。まあ、減塩にはよいから良いものの、シンプルすぎる味である。


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町


西新町



 まだ、夜の町流しまで1時間半もある。地図で見た鏡町の「おたや階段」に行ってみた。この階段に座って、その下の石畳の広場で行われる演技を楽しむのが鏡町流の楽しみ方だそうだ。西町から「おたや階段」についた。そこから階段の下を見下ろすと、石畳の広場がまるでマッチ箱くらいにしか見えない。でも、もう階段の下から3分の2は、見物客で埋まっている。試しに空いている階段に座ったところ、それでも眼下の広場はまるで手帳サイズである。冗談ではない、こんなところにいても仕方がないと思って、階段を降りていき、下の広場に着いた。すると、人々がもう周辺に座っている。スケジュールを見たら、午後8時開始である。まだ、2時間半もあるのに、もう待っているのかと思い、馬鹿馬鹿しくなって、その辺りに座った。歩き疲れていたので、少し休むつもりだった。


6.退職者の鏡のような元気な男性

 すると、隣に座っていた60歳代の男性が、私の持っているカメラを指さして話し掛けてきた。「そのカメラ、いいなあ。よく撮れるでしょう?」

 は、「いやいや、前回、キヤノンのカメラを持ってきたのですが、もう全然撮れなかったので、今回はこのソニーα7にしました。多分、多少暗くても大丈夫でしょう。」

男性「私は、ソニーα6400だから、そのα7だと、もっと良く撮れるでしょう。例えば、これでも(と言ってカメラの画像を拡大して)、ほら、踊り子さんのうなじの髪の毛まで写ってますよね。」

「ああ、これは良く撮れている。目深に被る編み笠を正面から捉えるのではなくて、後ろからうなじに焦点をあてるなんて、これはなかなか非凡な構図ですね。芸術的だ。」

男性(気を良くして)「いやいや、ありがとうございます。そうやって気に入った写真を印画して、部屋に飾っています。」

「それは、なかなか良いご趣味ですね。おわらは初めてですか?」

男性「いやいや、去年も来たのですが、鏡町のおわらは、この位置が絶好の場所です。なんとなれば、背景に見物人が写り込まない。ほら、黒い板塀でしょう。だから、あと2時間以上あるけど、ここで待っている価値があります。あと、今町の聞名寺(もんみょうじ)、これも良い。見物人が写らないアングルがあります。」

 私はそれを聞いて、ここで、このおじさんとおしゃべりをして時間を潰すことにした。気がついてみると最前列だから、写真を撮るには絶好のポジションである。

男性「流鏑馬に行ってみたことがありますか?」

「いや、一度もありません。関東近辺では、鎌倉ですか?」

男性「鎌倉、逗子、平塚、そして明治神宮ですが、このうちでは、逗子が一番、絵になります。というのは、背景が海になるんです。たまに富士山が見えたりしてね。だから、あそこの流鏑馬は最高です。明治神宮も、背景に見物人が写りこまない良いアングルがありますよ。」

「そうなんですか。逗子と明治神宮ねぇ。では今度、ぜひ行ってみます。」

男性「ところで、ここまでどうやって来られたんですか?」

「いつも、大人の休日倶楽部で、北陸フリー切符を買って来るんです。」

男性「私は、国内旅行は、なるべく格安航空券を買っていくことにしています。例えば、先日は熊本まで3千円で行ってきました。北海道も、2千数百円で行けますよ。航空会社の販売サイトを丹念に見ていたら、そういう券があるんです。先日は、ジェットスターで291円というのがあって、申し込みました。我々は、土日は関係ないですから、暇な期間にそういう券のオファーがあります。」

 などというとりとめない話をしていたら、いつの間にか午後8時になって、鏡町のおわら風の盆公演が始まった。先ずは地方(じかた)「歌われよ わしゃ囃す」から始まって「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ」と続き、歌と囃子が続いていく。その途中で、三方から踊り子さんたちが出てきて踊る。上手いものだ。撮りに撮ったことは、言うまでもない(写真ビデオ)。

 おわら風の盆の踊りは素晴らしかったが、それとともに、退職者の鏡のような、この男性の存在には驚いた。現役の時は、さぞかし有能な人だったのだろうと思う。その時の勢いのまま、退職しても相変わらず精力的に全国を歩き回っている。「セールス」ではなくて、単に「良い写真を撮る」だけのために・・・いやもう、大した人だ。日本も、人口が減る、労働力が減るなどと言っていないで、こういう元気な高齢者を活用すべきだと思った次第である。



西新町


西新町


西新町



 なお、今晩の帰りの時刻は午後9時半頃に出発となったが、昨晩の反省からグーグル・マップを見るのは止めて、パンフレットの地図に従って十三石橋を渡るとすぐ右に曲がり、そのまま前進すると地鉄バスの発着場に出た。そこから左手に行けば高山本線の越中八尾駅であるが、試しにバスの出発時刻を聞くと、もうすぐだ。そこで、バスに乗ることにした。富山駅経由で高岡駅に着いたのは、午後11時頃だった。そのうちまたやって来て、今回の2日間で見られなかった支部のおわら風の盆を見てみたいと思っている。


7.八尾町の皆さんに感謝

 こういう風の盆をもう300年近く踊り、歌い続けてきたそうであるが、まずはその伝統を守ってきた八尾町の皆さんに対して敬意を表したい。また、そうした地域のお祭りに、我々のような何十万人にも及ぶ観光客を心よく受け入れて、かつ見物をさせていただくという皆さんの度量の広さにも感謝する次第である。願わくば、この伝統の芸術、日本の宝ともいえるお祭りを、今後も末永く続けていってもらいたいものである。







 本場おわら風の盆(写 真)




(2019年9月 3日記)


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