天橋立・舞鶴・蘇洞門への旅
2019.05.26 Sunday | by 悠々人生
京都府の日本海側を旅する機会があり、まず天橋立に行ってみた。そのきっかけを作ったのは、父の遺品のアルバムだ。父が亡くなってしばらくして、遺品のアルバムを整理していたところ、父が両脚を広げてその股の間から向こうを覗いている写真を見つけた。妙なことをやっているなと一瞬思ったが、背景の景色を見て何の写真かがわかった。これは、天橋立の名物「股のぞき」なのだ。ああ、父も天橋立に行って、実際にやってみたのだと思うと、無性に行きたくなったというわけである。ちなみに、私はこれまで、当地を訪れたことはないから楽しみだ。
ところが、天橋立にたどり着くには、かなり遠い道のりなのである。東京から京都までは、新幹線のぞみで2時間15分ほどであるのに対し、京都から天橋立まで、それとほぼ同じくらいかかる。まず、京都から宮津まで特急はしだて号で行き、そこから私鉄の京丹後鉄道で天橋立駅に行くと、連絡が良い場合で2時間、連絡が悪い場合は更に45分ほどかかることがある。行程に慣れてないせいか、非常に長くか感じる。もちろん飛行場もないから飛行機が使えない。ただ、京都から天橋立まで行く高速バスの便があるようだから、乗り換える必要がないので、そちらの方が楽かもしれない。
ともあれ、私は天橋立駅に降り立った。駅構内に観光案内所があって、幾つかパンフレットをもらった。駅を出たところ、ふと目の前にあるホテルが視界に入る。今晩泊めてもらう天橋立ホテルだ。これはわかりやすい場所にある。チェックインして荷物を置き、早速、近くの桟橋から観光船に乗った。対岸の傘松公園から天橋立を眺めに行くためだ。
2.舞 鶴
翌日は、舞鶴に行ってみた。西と東とに分かれていて、歴史的には、西舞鶴はかつては田辺藩の城下町で戦前は大連やウラジオストックへの玄関口である商業港として、東舞鶴は言うまでもなく旧帝国海軍の軍港として、それぞれ発展してきた。各々に鉄道の駅がある。このうち西舞鶴駅は、京都丹後鉄道の宮津線とJR西日本の舞鶴線が乗り入れ、いわゆる接続駅となっている。その舞鶴線は、綾部から西舞鶴を経由して東舞鶴に繋がり、東舞鶴からはJR西日本の小浜線となって敦賀に至る。
3.蘇洞門(そとも)
舞鶴で遊覧船に乗ったその日の午後、JR西日本小浜線で福井県小浜に向かった。海の景勝地である「蘇洞門(そとも)」と、それから「鯖街道記念館」を見学したいと思ったからである。ホテルは、記念館のすぐ隣に確保した。チェックインしてみると、午後3時半だ。蘇洞門巡りの遊覧船の最終便が出るのは4時で、その桟橋はこのホテルから歩いて10分もかからない。それに、今日は風がなく凪なので海は荒れていないから、外海に出ても船酔いの心配はない。乗船するには絶好のチャンスだと思って、急いで行ってみることにした。
4.鯖街道
事前に旅行のプランを練るとき、小浜市に行って観光するとすればどこがよいかと思って調べたところ、小浜市のHPで、次のような文章を見つけた。
「 近年、鯖街道という言葉がしきりに聞かれます。若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた、とよく言われます。この道は、単に鯖ばかりを運んだ道ではありません。街道沿いや、到着地の人々に尋ねてみると、イカやカレイや、グジ(アマダイ)、その他、多種の海産物などが運ばれています。いわゆる北前船から陸揚げされた物資も、盛んに輸送されました。
鯖は、今と全く比較にならず沢山とれ、体形も大きく、ことさらに一般庶民に喜ばれ待ち望まれたために、これを運ぶ道にさえ、いつしか鯖街道の名が付けられたものです。いわば、鯖街道とは、その代表名に他なりません。古文献には見い出せないことから、その命名は新しく、恐らく戦後に、文人たちが書き始めたのではないかと、考えられています。
しかし、鯖街道の実質的な起源は、極めて古く、はるか千二百数十年昔の奈良の都、平城宮の跡から発掘された木簡に、若狭から送られたタイの鮓を始め、既に十種に近い魚介(貝)の名が見えています。また、塩を送った多数の荷札が見出されており、鯖街道は、まさに塩の道でもありました。この荷札である木簡は、さかのぼって、現在橿原市の藤原宮の跡からも出土しています。さらに、ごく最近、奈良県明日香村の都の跡で、千三百年の以前に、若狭の三方から送られた、タイの木簡が発掘されました。ますます古い歴史が、よみがえってまいります。
ところで、日本海と都を結ぶ鯖街道は、また政治の道、軍事の道、特に文化の道でもありました。近年、よく用いられる裏日本という言葉は、暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせました。しかし、調べてみると、この裏日本という用語は、わずか百年ばかりの歴史しかありません。いうまでもなく、この日本海に面する一帯は、太古より、まさしく表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもありました。小浜の名勝を代表する「そとも」も「外面(そとも)」から取っており、漢字は時の国文学者に「蘇洞門」とつけていただいた経緯があります。きっと、大陸文化の渡来も、久しく行われたことでありましょう。また、鳥浜貝塚から、五千年以上も前に漂着したココヤシの実が、幾つも発見されていることや、室町時代に南蛮船が小浜へ象をもたらした史実など、遠く南方との交流をも思わせます。
さて、鯖街道とは、決して単に、小浜と京都を結ぶ一本の道のみを意味しません。若狭湾岸の幾つかの地点から、多数の道が、京都へ、遠くは奈良へ飛鳥へ、さらには丹波の篠山などへと通じていました。日本海の幸を送る通称鯖街道は、大陸などの文化をも届け、また、都から幾多の文化を、この地方に招来しました。優れた仏教美術の存在を始め、今も若狭には、雅の言葉が残るといわれ、都人の教えを受けた詩歌や、多くの芸能の伝わることも、その証といえましょう。」
なかなか、良い文章だ。そういえば、京都祇園「いづう」の鯖ずしは絶品だが、元はといえば、ここから来ていたのかと思うと親しみが湧く。では、行ってみようかと考えた。そこで、鯖街道起点と鯖街道資料館のすぐ裏手のホテルを予約した。
5.福井県年縞博物館
そういうことで、翌日はさっさと小浜を離れて、福井県年縞博物館のある三方(みかた)に向かった。三方五湖のうちの三方湖の畔にあるこの博物館を見学したところ、いやもう、感激してしまった。「年縞」というのは、あまり聞き慣れない言葉なので、まずは博物館のHPを見てみたい。「年代測定の世界標準のものさし『年縞(ねんこう)』を展示する『福井県年縞博物館』が2018年9月15日(土)にオープン・・・名勝『三方五湖』の一つ『水月湖」の湖底には、世界でも唯一7万年分もの縞模様の地層『年縞』が堆積しています。博物館では、45mの実物展示のほか、体験しながら学ぶことができるコーナーも充実しています。カフェも併設しており、湖を眺めながらゆったりとした時間を過ごすことができます。」ということだが、これだけではまだ何のことやら全くわからない。
日本のように四季が移り変わるところでは、春は花粉、秋は落葉などが舞い、それが人里離れた湖底にひっそりと降り積もる。それは湖底の地層の中に順次規則的に積もっていって、その断面を見ると縞のようになっており、それが一年分を表している。それをずーっと根気よく数えていけば、個々の縞が今から何年前のものかがわかる。その中に含まれている葉っぱの放射性年代測定を行えばその年代が特定できて、例えば古代の遺跡から出土した人骨など有機物の放射性年代測定結果と付き合わせると、その人骨の年代が年単位で極めて正確に決定できるという意味で、重要な物差しとなる。
1994年から年縞の枚数を数えて葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を始め、98年にはアメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送られた。理由は、年縞が連続していなくて正確さを欠いたからである。というのは、当時のボーリング技術では、2メートルの長さのサンプルしか採れず、それを繋ぎ合わせていっても、サンプル両端の部分では年縞が潰れてしまったからである。ライバルの他国関係者から指摘された。その問題を解決するため、ボーリングをする地点のすぐ近くで、採取する長さをずらせて二つ目のボーリングを行い、二つのサンプルを比べ合わせて欠けた部分を補うという手法をとった。すると、見事に連続する7万年分のサンプルを採ることができたという。
1962年 三方湖の近くで縄文時代の遺跡、鳥浜貝塚を発見
1991年 鳥浜貝塚の研究の一環として行った水月湖でのボーリング調査で「年縞」を発見
1993年 国際日本文化研究センター安田喜憲教授(当時)が本格的なボーリング調査を実施、水月湖の年縞が45m連続していることを発見
1994年 国際日本文化研究センター北川浩之助手(当時)が年縞の枚数を数え、葉の化石の放射性物質(炭素14)を測定する研究を開始
1998年 北川浩之助手(当時)の研究データが、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載されるが、「世界標準のものさし」としての採用は見送り
2006年 ニューカッスル大学(英国)の中川毅教授(当時)を中心とした国際チームが再度ボーリング調査を実施、「完全に連続」した年縞の採取に成功
2012年7月 パリで開催された「第21回国際放射性炭素会議」において、水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界標準のものさし」として採用
2012年9月 水月湖の新しいデータを報告した論文が、アメリカの科学誌「サイエンス」に掲載
2013年9月 水月湖のデータを中心に作成された「IntCal(イントカル)」が年代の「世界の標準ものさし」として運用開始
そういうことで、日本海側の二泊三日の旅が終わった。昨年東尋坊に行ったときには海は時化ていて船酔いしそうになったが、今回は天の橋立、舞鶴、蘇洞門と3回も船に乗ったものの、いずれも海はベタ凪で良かった。鯖街道資料館がいつの間にか消えていたという残念なことがあったものの、その後の年縞博物館の素晴らしさが帳消しにしてくれた。総じて、誠に実り多い旅だったといえる。
(2019年5月26日記)