三世代で箱根旅行
2019.04.30 Tuesday | by
悠々人生
1.孫娘はピカピカの一年生
息子一家と箱根に二泊三日の小旅行に行った。久しぶりに孫娘ちゃんと直系くんに会い、丸二日にわたって一緒に過ごした。二人の成長ぶりには、目を見張るものがあった。
孫娘ちゃんは、この春に小学校に入学して、ピカピカの一年生となった。バレーと英会話を習い、よく笑う活発な子に育っている。小学校へは5分の道のりである。お母さんが一緒に登校しようとすると、「自分で行きます。」 と、既に自立の気概を見せているとのこと。お母さんは心配でたまらないが、しばらく見守っているしかないようだ。
また、習っているバレーの発表会が今年も都内で開かれるので、それに向けて一生懸命に練習しているそうだ。2年前に同じバレー・スクールの発表会があったときには、我々夫婦も見に行って、孫娘ちゃんの成長ぶりに目を細めたものだが、また今年も楽しみにしたい。
先日、パパが送ってくれた写真の中に、孫娘ちゃんが居間の椅子に掴まってバレーの開脚をしているものがあった。それが斜め45度の角度で見事に一直線になっていたので、びっくりした。
2.直系くん語録
直系くんは、もうすぐ3歳になる。ずーっと話すことができなかったが、つい最近になってようやく喋り始めたばかりだという。しかし、それにしては、これがまた、実に面白いお喋りをするのには感心した。
これくらいの幼児は、話す前にまず手が出たり、体を動かしてその要求を満たそうとするものだと思っていた。だから、その意図を掴みかねて、親が困るという構図が普通だと考えていたのだけれど、どうもこの子は違うようだ。
まず、何をするにも、また何か思うところがあるときは、必ずそれを喋ってくれるから、とても理解しやすい。私はこれを「直系語録」と名付けて、以下に採取しておいたので、まずはお読みいただきたい。
(箱根ロープウェイが最高点に達した後、芦ノ湖に向かって降りていくとき)「ああ、おちちゃう」と心配そうな声を出す。
(小さなおもちゃを買ってもらって)「ペンギンのペンちゃんだをー 。おふろに、うかべるー。」(舌足らずなため、まだ「よー」と言えずに「をー」となる。)
(芦ノ湖に棒切れを投げたものの、それが波で岸に打ち寄せられてくると)「ああ、もどってくるー。」
(親が声をかけて「行くよー 」というと)「やだー。やだをー。」
(芦ノ湖畔の芝生広場を通りかかった。そこは、今から9ヶ月前の去年8月に虫の展示があったところである。するといきなり)「カブトムシやりたいー。」(そんな前のことをよく覚えているものだ)
(姉を倒して押さえつけて)「ねーちゃん、だーじょーぶ?」(だったら、最初から乱暴するな)
(食卓で騒ぎ立てるおそれが出てきたので、親が抱き上げたら)「だめー。はなちぇー。」(と、反りくり返る)つい、こう言いたくなる。「ウチの孫 「はなちぇー」と イナバウアー」
(お土産に買ったプラスティックのおもちゃの一つ一つをつまんで)「たぶん、ヒトデだをー。こっちは、ダイアモンドだー。お、カメがでてきたをー。」(「たぶん」などという言葉を子供が使うか?)
(お姉さんのプラスチックのおもちゃと比べて)「お、カメがおなじだー。」
(自分の身体より大きい熊の置き物の頭を伸び上がって撫でて)「かーわいいね。」
(走って長ソファの背後に回り込んで)「うしよに、まわりこむをーっ」(まだ「後ろ」といえずに「うしよ」と言っているのに「回り込む」などという難しい単語をよく知っている!)
(テレビの幼児番組を見て飛行機が離陸するのを見ていて)「あっ、コーキがとんだー。」
どんな局面でも、パパはどこ?、ママはどこ?、姉ちゃんはどこ?と気にかけている。 今は連休中なので、パパが朝から皆と一緒に寛いでいると、「パパ、きょうは会社、行かないの?」などと聞いて、パパを苦笑させたりしている。つまり、周囲や社会的環境にも興味と関心を示しているので、なかなか結構なことである。聞かれたらできるだけわかりやすく説明してあげるなどして、こういう特性を大切にしつつ育てていってほしいと願っている。
ただ、我々は、もう育てるどころではない。たった1時間預かっただけで、「あれしよう。これしよう。」と言われ、その一方で怪我をしないか常時みていなければならない。それが二人分だから、ほとほと疲れ果てた。まさに、「来て嬉し、帰って嬉しい、孫の顔」の心境である。
3.海賊船と水族館など
泊まっていた強羅から、箱根ケーブルカーで早雲山に登り、そこから箱根ロープウェイで大涌谷を経由して桃源台に着く。海賊船に乗って元箱根まで約40分間航行し、そこで昼食をとった。海賊船は、クイーン、ビクトリー、ロワイヤルの3隻だが、繁盛しているのか、近くもう1隻が就航するそうだ。湖上を動くから、この季節は頬を切る風が冷たい。最初は甲板から景色の良い屋上に上がっていたが、寒くなって船室に入った。
元箱根港に近づくと、箱根外輪山越しの右手後方に、青い空の下で白い雪を被った富士山が大きく見えて、とても感激した。来る途中の箱根ロープウェイからも見えたが、一瞬のことだったからか、さほどの感慨は感じなかったので、不思議なものである。
昼食後、今度は芦ノ湖遊覧船で元箱根港から箱根園港に向かう。わずか15分間、船上の客となる。こちらの遊覧船は、双胴のため平らで客室が広く、船長さんの操舵がよく見えた。途中、箱根神社の赤い鳥居が目に焼き付くようだ。箱根園港に近づくと、右手に奈良のお寺のような目立つ建物が見えるが、これはプリンスホテル系の龍宮殿である。
箱根園港の桟橋に着くと、岸辺の砂浜に続いて芝生広場があり、その真ん中に大きな大島桜が満開である。5本を寄せて植えてから100年は経っているという。あまりの見事さに、しばし孫たちのことも忘れて眺めていた。すると、息子一家はママの周りを、パパ、孫娘ちゃん、直系くんが一列になってグルグルと追いかけっこを始めた。それがまた早いこと、早いこと。もし、私がやったら、すぐに目を回して脱落するに違いない。きょうは乗り物に長く乗ったので、子供たちには良い運動になっただろう。
芝生広場の右手には「ふれあい動物ランド だっこして ZOO」があり、これが最初の目的地だそうだ。中に入るときにプラスチックのバケツを買い、その中に細長くカットした人参、胡瓜、大根、カステラ様のもの、笹の葉などが入っている。それを子供たちが、飼われている動物、カピバラ、山羊、猿、犬猫、兎などに食べさせるという趣向である。犬猫や兎は身体を撫でてあげることが出来る。なかでも兎、猫、小型犬は確かに可愛い。でも、身体が大きなカピバラは、これが鼠の仲間かと思うと、どうもそういう気にはなれなかった。これがアルマジロか・・・まるで円谷映画に出てくる怪獣のようだ、こんなものが可愛いのか・・・。ともかく、色々な動物がいて、孫たちは2人とも、一生懸命に餌をやって、バケツはたちまち空になった。
次の目的地は、同じ敷地内の箱根園水族館である。こちらは「日本で一番標高の高いところにある海水の水族館で、毎日伊豆の海からタンクローリーで新鮮な海水を運んでいます。」とのこと。なるほど、一通りの海水魚がいて、水温26度の大水槽には、熱帯魚が乱舞している。直系くんが「あぁー、カメさん」と言って、盛んに亀の姿を追いかけている。パパに聞くと、大好きなのだそうだ。私も熱帯魚の姿を写真に撮っていると、孫娘ちゃんが「私も撮りたい!」とやって来た。「あぁ、いいよ」とシャッターボタンを押してもらうと、連射の設定にしておいたものだから、変わった姿の魚の写真がたくさん撮れて、それを見て大笑いしていた。二人で、水槽を覗き込んでいる。良く見ると、直系くんが孫娘の背中に手をやっている。こういうところは、男の子の証かもしれないと、頼もしく思う。
水族館のアザラシの水槽は戸外にある。ほとんどはマリンブルーの水の中にいるが、一匹だけ石の上に上がって日向ぼっこをしている。遠目では普通だが、やや体が傾いている。向こう側に回ってみると、胴体が10センチほど赤くなって石の上に血が流れている。あれあれ、これは怪我をしたのかと思って、通りかかった飼育員さんにその写真を見せた。そうしたところ、飼育員さん曰く「毛が抜け代わる時期なので、かゆいらしくて引っ掻くのです。だから、ご心配なく。」とのこと、でも、鰭のようなごく短い手しかないのにどうやって引っ掻くのか不思議に思ったが、いずれにせよ、そういうことらしい。
もう、夕方になったので、予約しておいたザ・プリンス箱根芦ノ湖のレストランに入った。子供連れなので、バイキングのレストランにして良かった。周りはそういうファミリー層でいっぱいである。私はなるべく食べ過ぎないようにしなければいけない。家内と私で孫娘ちゃんの両隣に座り、時には孫娘ちゃんと手をつないで、食べ物を取りに行った。直系くんは、パパとママに挟まれて食べていたが、遠くにあるチョコレートタワーを目ざとく見つけて、まだ食べ始めたばかりだというのに、「チョコレートが食べたい」とグズって、両親がなだめるのに苦労していた。そこで、パパが数分ほどレストランの外に連れ出して戻って来たら、すっかり忘れていた。こういうところは、まだまだ幼児である。
それから、タクシーで強羅の宿まで帰って来たが、その辺りは坂に次ぐ坂で、それも急坂が多くて驚いた。今まで強羅というところは通過地点だったので全然知らなかったが、平らなところは、駅の周辺くらいしかないことが、よくわかった。
それはともかく、三世代で一緒に旅行するというのも、なかなか良い経験である。我々は孫たちの成長の様子もわかるし、両親も、日頃の24時間保育の体制から、一時的にせよ緊張感を解くことができる。パパが休みをとれるときに、また行きたいなと願っている。
三世代で箱根旅行(写 真)
(2019年4月29日記)
カテゴリ:
エッセイ |
13:40 | - | - | - |
徒然301.いまどきのチューリップは凄い
2019.04.21 Sunday | by
悠々人生
立川の国営昭和記念公園でチューリップ(242品種、22万球)が満開と聞いて、カメラを片手に出掛けて行った。西立川口から入ったところ、チューリップはそこからさほど遠くない「渓流広場」の周辺に植えてあった。
まずもって、その高度な展示の技術に感心した。ともかく、池の周辺の芝生の傾斜地のあちこちに設えてある花壇は、チューリップの美しさを余すことなく伝えている。同じ色と同じ種類が、帯状に、あるいは半月状にと幾何学模様を描いて植えてあるので、その整然とした美しさがまず頭に入る。しかも花の色自体が、赤色、黄色、オレンジ色、濃い紫色、白色、ピンク色、それらが混ざった色などと実に様々であるのに加えて、基調は原色そのものなのでくっきりと印象に残る。池に近い花壇だと、それらが池面に反射して本当に綺麗だ。見ていると、うっとりする。
それだけでなく、近づいて一つ一つの花を見ていくと、これがまた「すごい」の一言だ。チューリップといえば昔は丸い卵型と決まっていて、それが花弁を開いてしまうと、もう盛りを過ぎたと思われたものだ。ところが、今は花の造りからして全く異なる。昔のような一重の花はもちろんあるが、それだけでなく八重桜のような八重咲きの花もある。これなどは、まるで牡丹かベゴニアのようで「あなた、本当にチューリップか?」と聞きたくなるほどだ。また、花弁自体が長い三角形の花もあるし、それどころか花弁の周囲がフリルのようになっている花すらある。これはフリンジ咲きというらしいが、私は初めて見た。加えて、一部の花に近づくと、良い香りがする。ややくどいほどだ。チューリップはもともと百合の仲間の花なので、さもありなんという気がする。
ということで、チューリップを撮りに撮っていると、さすがに飽きてきた。そこで、チューリップ以外の花に目をやると、ムスカリという青い葡萄の房のような花があった。なかなか可憐な佇まいを見せている。チューリップには青い色はないので、ムスカリの花がチューリップの中に混じると、ちょうどいいアクセントになる。
それから、別の場所だが、青いネモフィラの花があった。ただ、未だ満開ではないようで、花はまだ疎らではあるが、もう少し経ったら、国営ひたち海浜公園のようになっているかもしれない。国営ひたち海浜公園ネモフィラの写真を見ると、なだらかに続く丘という丘がネモフィラの青い色に染まり、青い空の色と見分けがつかないほどだ。撮り終わったので、ネモフィラの丘から離れようとしたら、ウェディング・ドレス姿の新婦が、新郎と並んでネモフィラの花に囲まれて記念写真を撮っていた。こんな所でという気がしたが、話す言葉は中国語だったので、中国から観光で来たカップルらしい。これを機会に、日本贔屓になってくれると良いのだがと思った次第である。
昭和記念公園のチューリップ(写 真)
。
(2019年4月21日記)
カテゴリ:
徒然の記 |
23:50 | - | - | - |
飛騨高山への旅
2019.04.15 Monday | by
悠々人生
1.高山春祭りは雨
前日の高遠城址公園では、絶好の快晴日和で、高遠小彼岸桜と南アルプス連峰を眺めることができ、満足する写真を撮ることができた。そこで、本日は飛騨高山の春祭りもさぞかし・・・と期待していたのだが、そうは幸運は続かないもので、祭りの途中で小雨が降りだしてきて、期待外れに終わった。
そもそも、午前11時から高山陣屋前の広場で春祭りとして繰り出す11台の屋台(山車)のうち、「からくり人形」のある3台が演技をするというので、とても楽しみにして行った。ところが、雨模様のために急遽繰り上げて午前10時からになってしまったようで、10時半頃に広場に着いたときには、もう3台目の「三番叟」の演技が終わろうとしていた時だった。慌ててカメラを構えたが、果たしてどれだけ撮れたか心もとない。それでも、「神楽台」を先頭に、「三番叟」、「石橋台」、「龍神台」の4台が勢揃いする雄姿が見られただけでも良しとしよう。その他の屋台は、各町内にあるそれぞれの屋台の車庫(?)に全て帰っていったらしく、並んでいたはずの道路上はもぬけの殻だった。
せっかく、ツアーで現地滞在5時間の余裕を持たせてくれたのに、このままでは終われないと思って、地図を見ながら11台全ての屋台の車庫を見て回ることにした。幸い、この日は屋台の車庫の扉を全開にしてあり、その前を通りかかると、その姿を写真に収めることができる。中には、その町内の方が親切にも、屋台を背景に写真を撮ってくれるところもあった。
そういうことで、神楽台(かぐらたい)、三番叟(さんばそう)、麒麟台(きりんたい)、石橋台(しゃっきょうたい)、五台山(ごたいさん)、鳳凰台(ほうおうたい)、恵比寿台(えびすたい)、龍神台(りゅうじんたい)、崑崗台(こんこうたい)、琴高台(きんこうたい)、青龍台(せいりゅうたい)と回ってみた。町内の散らばって置いてあるので、それを行きつ戻りつしながら見て歩いたから、かなり疲れた。その中でも、大國台(だいこくたい)は、お祭りの中心の中橋からはかなり離れたところにある。やっとのことで、その前に来たら、なんと倉庫の扉は閉まっていた。そういえば、春の屋台は12台と聞いていたのに、今年は11台が出るということだったので、ではその出ない1台は、これだったのか。くたびれ損だったかと、徒労感が残る。
ともあれ、歩き回ったから、疲れも限界にきた。お昼をかなり過ぎたので空腹感を覚えた。そこで、たまたま見つけた飛騨牛ステーキ屋さんに飛び込んで、それを注文した。味噌の味で、いささか塩気が強かったが、十分に美味しかった。街中では、五平餅、串カツ、コロッケ、みたらし団子はもちろん、飛騨牛握りなるものまで売られていたが、そういうものを口にすると無駄に太るから食べないようにしていたので、このステーキで、ようやく元気を取り戻した。
2.神楽台・からくり3屋台
(1)思いがけず写真が
ところが、思いがけないことが起こるものである。帰ってから、撮った写真を整理していると、最初の高山陣屋前からくり人形の演技が結構撮れていたので、我ながら驚いた。というのは、からくり人形の演技が急遽1時間も早まったことから、それを知らない私たちが到着したのはもう終了の15分ほど前で、ほとんど観る時間がなかった。しかも陣屋前広場の端で演技中の3台の屋台からは、相当離れている場所(中橋のたもとに近いところ)で観るほかなく、大勢の人々の頭越しにカメラを構えなければならない。仕方がないので私はカメラの液晶画面のチルト機構を利用し、両手を伸ばしてカメラを構えながらその液晶画面を頼りにシャッターを押すのだけれども、そんな苦しい姿勢では焦点を合わせるどころではない。しかも困ったことに、液晶画面に光が反射してよく見えない。こんな悪条件にもかかわらず、それなりの写真が撮れていたから、びっくりしたのである。これというのも、タムロンの望遠レンズとキヤノンのデジタル一眼レフのおかげである。
気を良くしたので、それでは、からくり人形のある3台の屋台について撮った写真と照らし合わせて、少し書き残していきたい。その前に、高山市の観光情報によると、「16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の『山王祭』と秋の『八幡祭』の2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。このうち、高山に春の訪れを告げる『山王祭』は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、『山王祭』の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。」とのこと。
(2)神楽台
一連の春の屋台の最初に並ぶ「神楽台」が、高山陣屋前に並ぶ3台の「からくり屋台」に相対する形で中橋を背にして置かれていたので、まずその神楽台についての高山市の解説を見てみよう。それによると、「<沿革>古くから山王祭の神楽、獅子舞を主管し、初めの頃は白木のわくに太鼓をつって二人でかついだものでした。文化年間(1804年〜1818年)、四輪の屋台形にし、嘉永七年(1854年)の大改修により現台形となりました。明治26年(1893年)改修。その後数度の改修が行われています。(嘉永改修) 工匠 谷口延儔(のぶとし)、 彫刻 谷口与鹿(よろく)(明治改修) 工匠 村山民次郎、塗師 田近宇之助、金具 井上芳之助(構造) 屋根無 太鼓昇降 四輪外御所車
<特色>祭礼に際しては、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の五人の楽人を乗せて獅子舞を付随させ、全屋台に先行します。曲は『場ならし』『高い山』など多数あり、場所により使い分けられます。嘉永の改修のとき、金具に一坪(3.3平方センチメートル)あたり一匁(4グラム)の純金が使用されました。」ということである。
(3)三番叟
次に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、向かって一番右にある「三番叟」についての高山市の解説によると、次の通りである。「<沿革>宝歴年間(1751〜1764)の創建で、台銘は「恩雀(おんじゃく)」、天明年間(1781〜1789)に翁操りを取り入れ「翁(おきな)台」と改銘、文化三年(1806)に雛鶴(ひなずる)三番叟の謡曲による操り人形に替え、台銘も三番叟となりました。天保八年(1837)、現在の台形に改造され、大正七年と昭和四十一年に大修理が行われました。(天保改造) 工匠 牧野屋忠三郎・彦三郎、(構造)切破風屋根 四輪内板車
<特色>二十五条の細綱で操るからくりがあります。童形の三番叟人形が所作を演じつつ、機関(からくり)樋の先端へ移行した聯台(れんだい)上の扇子と鈴を持ち、面筥(めんばこ)に顔を伏せ、翁の面を被り、謡曲『浦島(うらしま)』に和して仕舞を演ずるという構成です。屋台曳行順のくじは、必ず『一番』を引くことになっていて、神楽台についで他の屋台に先行する慣例となっています。」
確かに、三番叟人形は童顔で、これが顔を伏せたかと思うと、いきなりお爺さんの顔になる。だいたい、「三番叟」とは何だろうと大辞林をひもとくと「能の『翁』を、三番叟の部分のみ舞踊化した歌舞伎所作事」とある。意味や背景を書いてくれないと、さっぱりわからない。こういう時は、ウィキペディアの助けを借りるしかない。それをまとめてみると、「三番叟の舞は2段に分かれ、前半の揉ノ段は面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞う。後半の鈴ノ段は黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。その前の翁の舞が天下泰平を祈るのに対して、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえる。」ということなので、人形の顔の変化は、この2つ段を表しているのだろう。
(4)石橋台
高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち、真ん中の屋台は「石橋台」である。高山市の解説には、「<沿革>宝暦創建説と天明創建説があります。当初から長唄の石橋の操り人形があったため、台名もこれに由来します。弘化―嘉永年間(1844年から1854年)に改修。文久3年(1863年)大改修し、旧台を古川町に譲りました。(文久改修) 設計 村山勘四郎、工匠 畠中久造、彫刻 下段獅子 村山勘四郎、中段彫り龍 浅井一之(かずゆき)、牡丹 中川吉兵衛、見送り 朝鮮の段通(だんつう)、(構造) 切破風屋根 四輪内板車
<特色>からくり人形は長唄石橋物(しゃっきょうもの)のうち、「英執着獅子(はやぶさしゅうちゃくじし)」を取り入れたものです。濃艶(のうえん)な美女が踊っているうち、狂い獅子に変身し、また元の姿に戻り両手に牡丹の花を持って千秋万歳(せんしゅうばんぜい)と舞い納める構成です。明治25年(1892年)に風紀上よくないと中止されましたが、昭和59年に復活されました。重厚で調和のとれた屋台です。」とある。
私が見物していたごく僅かな時間でも、すっくと立つ絶世の美女の人形が、蒼顔の狂い獅子に変身して、体を這わせてぐるぐると回っていた。それにしても、明治期にこれが「風紀上よくないと中止され」たとは、どういうことだろう。そもそも私は「英執着獅子」とは何か知らなかったので、大辞林で調べてみると、「歌舞伎舞踊の一。石橋物の一。長唄。本名題、英執着獅子。初世杵屋弥三郎作曲。前半は手獅子を持って遊女が踊り、後半は、牡丹をあしらった笠を付けて獅子が華麗に舞い納める。」とあったが、ますますわからない。
それで、更にインターネットの情報をかき集めると、「中国の清涼山という霊山に細い石の橋があり、その向こうは浄土で、人間には渡れない。伝説によると橋の向こうには獅子がいて、牡丹が咲き乱れる中を蝶とたわむれている。それだけでは劇にすると獅子しか出てこないと思ったのか、歌舞伎では女形が前半部分で遊女やお姫様に扮して舞い、後半部分でその女形の衣裳のままで獅子の被り物を被って舞うという。恋する相手に執着する女性として色っぽく舞うから、『執着獅子』という。」とのこと。なるほど、明治の人はそういう知識もあったのかと納得した。
(5)龍神台
最後に、高山陣屋前に並ぶ「からくり屋台」3台のうち向かって一番左手の「龍神台」についての高山市の解説は、「<沿革>創建年代未詳。安永4年(1775年)に弁財天像に猿楽を舞わせたとの記録があり、文化4年(1807年)の屋台曳順の「龍神」の台名がみえます。またこの頃、竹生島(ちくぶしま)弁財天にちなみ、「竹生島」とも呼ばれました。文化12年(1815年)に改造し、弘化3年(1846年)に修理。明治13年(1880年)から3年がかりで再改造され、唐破風屋根を現在の切破風に替えています。昭和41年、半丸窓上に龍彫刻が取り付けられました。(文化改造) 工匠 谷口紹芳、(明治改修) 工匠 彫刻 谷口宗之、塗師 小谷屋正三郎、(構造) 切破風屋根 四輪内板車
<特色>32条の糸を操って龍神のはなれからくりが演じれます。これは、竹生島の龍神にちなんだもので、8尺余りの橋樋の先端に、唐子によって運ばれた壷の中から突然赫(あか)ら顔の龍神が紙吹雪をあげて現れ、荒々しく怒り舞うという構成です。見送りは試楽祭には望月玉泉(もちづきぎょくせん)筆の雲龍昇天図、本楽祭は久邇宮(くにのみや)朝彦親王の書で、明治天皇の鳳輦の裂れで表裂されたものを用いています。」というが、残念ながら、今回はその演技を見る機会がなかった。
高山春祭り( 写 真 )
3.高山陣屋をじっくり見学
そこで、せっかくだから、高山陣屋(かつての高山奉行所)に立ち寄ることにした。前回来たとき(平成29年1月7日)も見学したが、あまり時間がなかったので、じっくりと見て回る暇がなかった。その点、今日は大丈夫だ。江戸時代には全国におよそ60強の奉行所があったが、そのままの建物が現存しているのは、ここ高山のみだというから、これは貴重な文化遺産である。
今回いただいたパンフレットによれば、「元禄5年(1692)、徳川幕府は飛騨を幕府直轄領としました。それ以来、明治維新に至るまでの177年に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、幕府直轄領の行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代役宅・御蔵等を併せて『高山陣屋』と称します。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。昭和44年に飛騨県事務所が移転したのを機に、岐阜県教育委員会は、全国にただ一つ現存する徳川幕府郡代役所を保存するため、平成8年3月まで三次にわたり、復元修理を行いました。こうして江戸時代の高山陣屋の姿がほぼよみがえりました。」とある。
高山陣屋のHPに書かれていたことをつなぎ合わせてみたところ、こういうことのようだ。「そもそもこの飛騨は、天正14年(1586年)から金森氏が6代(106年間)にわたり支配してきた地である。ところが幕府は、この飛騨の国が豊富な山林資源(木材)と地下資源(金・銀・銅・鉛)に恵まれていたことから、元禄5年(1692年)に金森氏を出羽国(現在の山形県と秋田県の一部)の上山に国替えさせ、飛騨を幕府が直接支配する「幕府直轄領」(幕府領・幕領)とした。それ以来、幕府支配の出張所(出先機関)として高山に役所が置かれ、それがのちに陣屋と呼ばれるようになった。当初は幕府から飛騨代官が派遣されていたが、安永6年(1777年)には飛騨郡代に昇格し、他の郡代役所(関東・西国・美濃)と並んで幕府の重要な直轄領となった。幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で当時の主要建物が残っているのはこの高山陣屋だけで、全国で唯一、当時の建物が現存する遺跡として、昭和4年(1929)には国史跡に指定された。」
天保3年(1832)に建てられたという表門をくぐると、右手には山茱萸(さんしゅゆ)の木があって、一面に黄色い花を付けている。思わず稗搗き節「庭の山茱萸のぉきぃいい、鳴あるうぅ鈴うぅ掛けぇてぇ、ヨーオオーホイ」という歌が頭に浮かぶ。これがそうかと、しげしげと眺めた。秋には茱萸(ぐみ)のような赤い実が生るようだ。(もっとも、「山茱萸の木」ではなく、「山椒の木」という説もある。)
それから玄関に入るが、藍染の葵の紋の天幕が凛々しくて清々しい。白い砂に波模様が描かれたところを通る。まるで龍安寺の石庭のようだ。通ると、身が引き締まる思いがする。さすが、代官所だけのことはある。文化13年(1816年)の改築以来そのままの「玄関之間」では、「10万石格を示す2間半の大床や、床の壁一面の青海波(波の模様)が目を引く。式台は身分の高い武士が駕籠で乗りつけるため低くしつらえてある」そうだ。
廊下を歩いて行くと、「御用場」、つまり地役人の勤務する事務室(35畳)がある。ここで、前捌きをしていたのだろう。黒光りする漆塗りの小さな机と、火鉢が印象的である。次に、郡代、手附が執務を行う部屋の「御役所」(28畳)がある。ここが役所の中枢部という。これらの部屋の縁側のすぐ外には、御白州が広がっている。
廊下を突き当たって右に曲がる。すると、「寺院詰所」があり、宗門改めのために僧侶が詰めたところらしい。その横に「町年寄、町組頭詰所」があって、これらは御役所の仕事を手助けするために町役人が詰めていたところで、身分が違うために出入口も異なっていた。「湯呑所」があり、部屋の中央部にある囲炉裏が、もはや忘れてしまった日本の伝統を思い起こさせる。「台所」の二つの大きなお釜には、存在感がある。
「手附・手代の役宅跡」があった。飛騨代官(後に昇格して「郡代」)は、その職務遂行のために直属家臣を伴って着任したが、この家臣を手附・手代といい、その首席を元締と称した。用人部屋、女中部屋、下台所などがある。
郡代が日常生活を送る「御居間」(嵐山之間)は書院造りで、床の間には漢詩の掛け軸が下がっていて、その右側には違い棚がある。私の小さい頃は、こういう床の間や違い棚を備えている住宅が普通だった。床の間には、季節の変わり目になると、父がその季節に合った掛け軸を掛けていたものだし、違い棚には、母が一輪の花を生けていたものである。また、小さな区画があるなと思ったら、「御囲い」という茶室だった。
濡れ縁越しに、広い庭を一望することができる。庭には、形よい庭木、リズミカルに続いている飛び石、やや遠いもののちゃんとした池がある。江戸時代から、こういう現代に通じるスッキリした庭があったのかと思うと、日本文化も捨てたものではない。腰を下ろして、しばらく庭を眺めていた。心が落ち着く。記録によれば、天明年間に造りかえられて、その後もしばしば手が加えられたそうだ。あまりに居心地が良いからか、どこからか白人の赤ちゃんが這って来たのには驚いた。これがまた、可愛いことといったらない。
「大広間」に行くと、三つの広間が繋がっている。やはり書院造りで、向かって左側の床の間には「義」と「孝」の掛け軸が下がっており、右側には違い棚がある。ここは、「書院」といって、儀式、会議、講釈などが行われる場所だった。南のお白州は、刑事事件の取り調べを行う吟味所でぐり石が敷いてあり、拷問の道具である責台、自白を迫る抱き石、罪人を入れる籠などがある。なお、民事関係は、北のお白州で扱ったそうだ。
年貢米を収納する「御蔵」が大きくて実に立派なので感心した。幕府の支配の根源なのだから、それも当然である。中に入ると、年貢米の俵が壁一杯に積まれていて、1俵には玄米4斗と込米(付加税)1升が入っている。この御蔵は、元禄8年(1695年)に高山城三之丸から移築されたとのこと。創建以来、約400年もの歴史があり、全国でも最古かつ最大の米蔵だそうだ。
それにしても、これだけ集めた年貢米をどうやって移出するのだろう。地図を見ると、高山を南北に通る宮川というのが流れていて、下流で高原川と合流して神通川となって富山湾に注いでいるから、このルートかもしれない。でも、そんな山奥を年貢米が通って大丈夫か。アメリカ西部で連邦政府の金塊を載せた幌馬車が襲われたように、山賊の類いに襲われないか。幕府は相当な数の警備の者を付けたに違いないなどと、想像が膨らむ。
陣屋を出ようとして靴を履いていると、中年の白人のご夫婦で、どちらも半ズボンという出で立ちの二人がいた。気温は摂氏7度と低くて、私には凍える寒さだ。そんな格好で寒くないのかと思い、つい、「どこから来たのか、寒くはないのか。」と聞いてしまった。すると、「アイルランドから来た。これぐらいは普通だ。」というので、側にいたイスラエル人ともども、びっくりした。
高山陣屋( 写 真 )
(2019年4月14日記)
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信州高遠城の桜
2019.04.14 Sunday | by
悠々人生
かねてから行ってみたかった信州高遠城址公園にとうとう行くことができ、念願の高遠小彼岸桜(コヒガンザクラ)を観てきた。今が満開なら良かったのだが、五分咲きといったところである。でも、西の勘助曲輪(かんすけくるわ)からは桜越しに甲斐駒ケ岳などの南アルプス連峰が見えたし、南曲輪(みなみくるわ)や法幢院曲輪(ほうどういんくるわ)ではもう桜が満開に近くて、真っ青な空にピンク色の桜の花がますます赤みを帯びて見えた。
鉄道とバスでどう行こうかと事前に研究したのだが、結論としてツアーに参加することにした。というのは、公共交通機関で行くと、新宿 → (中央線特急)→ 松本 → 飯田線伊那市 → バスというコースで片道4時間半もかかる。加えて翌日の飛騨高山春祭りにも行こうとすると、距離的には近いのだけれど電車を使うとこれまた大変なのである。
そういうわけで、第1日は高遠城址公園、第2日は高山祭りというツアーにした。新宿→茅野間は特急あずさ、あとはバスという行程なのだけれど、宿泊は岐阜羽島と聞いて驚いた。しかし、高速道路が整備されているので、 高山までは2時間半程度で行けるそうだから、バスがあるなら合理的な選択といえる。
高遠城址公園に到着した。城址公園のすぐ横の駐車場から坂を上ったらもう中心部だ。「天下第一の桜の碑」があり、その向かいに「桜雲橋(おううんきょう)」があり、それは「問屋門」につながっている。でも、まだ渡らずに、坂を下りて下から桜雲橋を見上げると、いや、これはすごい。橋の上には桜の花が覆い被さり、橋の下から向こうを見通すと、これまた桜の花の洪水のようなものである。素敵な写真となった。
再び桜雲橋まで上がって、今度は橋を渡って「本丸」があった位置まで行くと、そこここに高遠小彼岸桜の古木がある。それを突っ切って太鼓櫓の近くまで行くと、眼前に南アルプス連峰が広がる。その中で一番目立つのが、「甲斐駒ケ岳」だそうだけれども、地図がないので、どの山か甲斐駒ケ岳なのかは、いまひとつ自信がない。
それでも、快晴の空の青さ、南アルプス連峰に積もった雪の白さ、桜の花のピンク色は、まさに組合わせの妙である。こんなに素晴らしい色の組み合わせは、そうめったにあるものではない。夢中になってシャッターを切ったところ、出来上がった写真は、絵葉書にでもしたいような図柄となった。芸術性はともかく、素人としては望外の出来となった。
もと来た道を戻り、今度は「二の丸」へ行く。いやはや、この辺りは屋台でいっぱいだ。ただ、私は体重コントロール中なので、こういう食べ物を口にしたら、何キロ太るかわからない。だから、一切、口にしないことにしている。また、酒も飲めない口なので、こんなところで地元のお酒を1杯飲んだら楽しいだろうなと思いつつ、屋台の前を素通りした。
それから、陽当たりの良い「南曲輪」と「法幢院曲輪」に行ってみたら、こちらの桜はほぼ満開のピンク一色で、実に見事なものである。真っ青な空の元で、満開の桜の花を下から見上げ、思わず息を呑んだり、果ては溜め息をついたりと、人によって楽しみ方は色々だ。特に南曲輪の先端部では、頂上に雪を抱いた山々を再び桜越しに見ることができる。私の聞き違いでなければ、近くを通ったガイドが、「中央アルプス宝剣岳の直下に広がる千畳敷カールが見える」と言っていた。最後は、登録有形文化財「高遠閣」に立ち寄り、「新庄藤原神社」の脇から、坂道を下って、帰途に着いた。
ところで、伊那市観光協会からいただいたパンフレットに、高遠小彼岸桜について、次のような記事があったので、ここに記録しておきたい。
「タカトオコヒガンザクラはこの地にしかない固有種で、花形はやや小ぶりで赤味が強いのが特徴です。高遠城址公園には明治8年頃から植え始め、樹齢140年を超える老木を含め、現在では約1500本の樹林となっています。桜の日本三大名所とこの公園は満開を迎えると訪れる人々を桜が包み込み、その可憐さと規模の大きさは『天下第一の桜』と称されます。その樹林は県の天然記念物の指定を受け、平成2年には日本さくらの会の『さくら名所100選』に選ばれています。」
ちなみに、高遠小彼岸桜は、あっという間に咲いて満開になり、すぐに散るというので有名だそうだ。そこで、満開のときを狙って行くのは難しいらしい。あまり他の地には植えられていないものの、それでも、かつての藩主だった内藤家の縁で、新宿御苑や新宿区中央公園に若干あるというので、今度行ってみて、確認して来ようと思っている。
信州高遠城の桜(写 真)
(2019年4月13日記)
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桜の季節 2019年
2019.04.14 Sunday | by
悠々人生
1.皇居北半周(千鳥ヶ淵など)
いよいよ平成最後の桜見の季節になった。まずは牛ヶ淵濠より始まって千鳥ヶ淵濠から、皇居のお濠を北から半蔵門までを半周した。私は、なんと言っても千鳥ヶ淵が日本の「桜の王者」であると思っている。かつて私は、次のように書いたことがある。
「ここは、日本の桜の名所の中でもベストワンではないかと思う。というのは、まず、歩いているところが桜のトンネルのように、頭上とお濠寄り一面に広がる枝に、桜が鈴なりなのである。ここまでは、桜の普通の名所と変わりない。しかし、左手のお濠の方に目をやると、対岸に桜の木があり、しかもその岸全体を覆い尽くすように咲いている。その間の緑色のお濠の水面には、ボートがたくさん出ていてゆっくりと動いている。時々それが桜の花で隠れるが、その桜の木は手前の岸の下の方から出ている。だから、ボートが上も下も桜の花で囲まれているように見える。うわぁ、すごいと思わず声が出る。
引き続き歩いて行くと、やがてボート場とその上の展望台に着く。お濠に少し突き出しているような形なので、見晴しが良い。そこから今来た道の方を振り返ると、お濠の両側からこんもりした桜の花の山が水面に向かって垂れ下がり、その桜のピンク色が、グリーン色の水面と青色の空の色によく映えて、実に美しい。その間にゆっくりと動き回るボートがいかにも春らしい風情を添えている。いやいや、とても良かった。」(2015年)
「(千鳥ヶ淵の)何が美しいのだろうと考えてみると、まずお濠に桜が突出していて、そのピンク色がお濠の薄緑色の水面と非常にマッチしている。それに、お濠の向こう側にも同じように桜が咲いている。加えて、頭の上にもまた、桜が咲いていて、もう頭から目が届く先々に染井吉野の洪水のような桜の花の大群に囲まれるからである。また、ボートが出ていると、それがアクセントになる。加えて、空が青ければ、その補色効果でさらに美しくなる。私はここ千鳥ヶ淵こそが、日本の桜の観光地の王者といっても良いと思っている。・・・とまあ、饒舌はそれくらいにして、ともかく洪水のような染井吉野の桜の花の美を堪能していただこう。もう、言葉や文章では表せないほどの美しさなのである。これがたった1週間で散ってしまうとは、なんともったいないことか・・・いや、だからこそ、美しいのかもしれない。」(2012年)
「この千鳥ヶ淵の桜の何が良いかというと、まずはお濠沿いの道の頭上に染井吉野の並木が立ち並ぶ。ここまではありきたりの風景であるが、それに並行してお濠ギリギリのところにも染井吉野の並木があって、それらの桜がお濠に対してグーンと張り出している。それだけでなく、対岸の皇居側の方にも桜の木があるから、お濠を両岸から桜で覆うようになっていることだ。その桜の雲の下を、のんびりとボートが行き交う。しかもこれらの風景を十分に堪能したところに展望台がある。その真下が貸しボート乗り場というわけだ。そこからたった今歩いて来た方向を振り返ると、まるで四角いキャンバスを2本の対角線で4つに分割したような情景で、上の逆三角形は青い空、下の三角形はグリーン色のお濠の水面、両脇の2つの相対する三角形は桜の雲である。もう、絶景としか言いようがない。これを観て感激しない人はいないだろう。」(2018年)
いずれの年の感想も、私の素直な気持ちである。今年の千鳥ヶ淵も、これ以上の描写と感想と賛辞が書けないほどの、素晴らしい桜だった。平成最後の桜だと思うと、ますます愛おしくなるのは、私だけではないだろう。
皇居北半周の桜(写 真)
2.皇居南半周(大手門など)
家内と二人で、皇居の周りの桜を観てこようとして、自宅から千代田線で大手町駅に行った。大手門に行くと、枝垂れ桜が満開である。ピンク色が強いし、枝の形も美しい。外国人観光客も多い。良い季節に来たものだと思う。しばし桜を愛でたあと、皇居東御苑には入らずに、そこから二重橋方面に向かった。途中、ものすごい人だかりがしていると思ったら、皇居乾通りの一般公開の列だった。それには加わらずに、二重橋(正しくは正門石橋)を眺めて、桜田門を抜け、お濠を時計周りに行くことにした。
道の向こう側だが、法務省のレンガ造りの建物に咲く染井吉野の桜が美しい。そのまま桜田濠に沿って緩いカーブを曲がっていくと、その曲がり角のところに何本かの染井吉野が満開である。黄色い菜の花が少しだけ、可憐で健気に咲いている。
内堀通りを渡って最高裁判所の前に出ると、その敷地に沿って植えられている染井吉野がこれまた満開だ。更に行くと、隣の国立劇場前の桜である小松乙女、駿河桜、仙台屋、神代曙が既に盛りを若干過ぎたものの、それでも最期の頑張りとばかりに咲きほこっていた。これは見事だと思わず見とれていた。
すると、近くに甘いもの処「おかめ」があったのを思い出した。そこで、二人で仲良くこの季節限定の「桜おはぎ」を食べたら、それ以上歩いていく気がどうにも失せてしまって、そのまま半蔵門駅から家路に着いた。実は、更に歩いていくと「千鳥ヶ淵の桜」に出会う。私はこの桜が東京で一番に美しくて見ごたえがあると思うのだが、きょうは花より団子だ。また別の機会に撮ることにしよう。
皇居南半周の桜(写 真)
3.増上寺・不忍池の桜
千鳥ヶ淵と国立劇場前の神代曙は別格としても、去年と同じところの桜を観に行くのもあまり芸のない話だから、どこか他の所の桜にしようと思っていた。今日は午前中が空いていたので、まずは芝の増上寺に行くことにした。桜の季節には、東京タワーの上から増上寺を見下ろすと、あの広い寺域全体が淡いピンク色に包まれる。
増上寺は1393年に創建された浄土宗の大本山の一つで、徳川将軍家の菩提寺であったことから、江戸時代には京都の知恩院と並んで隆盛を誇っていた。ところが明治維新で徳川家は没落した上、明治期に二度の大火に遭い、しかも太平洋戦争の戦災で堂宇は灰燼に帰した。その中で、時間は掛かっているが、大殿、慈雲閣、安国殿などと着実に復興しつつある。
正面の日比谷通りに面したところに三解脱門がある。大きすぎて、いったん道を渡って振り向かないと、全体の写真が撮れない。本日は、御忌大会(浄土宗の元祖法然上人の忌日法要)の日だったらしくて、三門をくぐった参道の両脇には縁日のお店が並んでいた。もう少し待てば、練り行列が見られたのだが、午後からのテニスの予定があって、そうもいかなかった。
境内にはもう少し桜の木があると思っていたが、そうでもない。本日は空が真っ青で、ピンク色の桜の花が非常に目立つ。ところが、大殿の右手背後にそびえる東京タワーがなんとも言えないアクセントになっている。伝統的仏教建築である大殿と、近代的通信設備の対比が、一瞬奇妙な感覚呼び起こす。いや、見れば見るほど、不思議な空間だ。今日は桜を撮りに来たのに、そちらの方に目が奪われた。加えて、水子地蔵だと思うが、増上寺にお地蔵さんが多くあったのは、意外だった。
さて、境内を離れて、東京プリンスホテルとの間の道路を桜並木に沿って歩いて行った。目指すは東京タワーである。歩くにつれて桜並木のあちこちに東京タワーが顔を出す。それを撮るのだけれど、近づくにつれ、タワーが高くなって、ついに見上げると首が痛くなるというところに来たら、もうタワーの足元だった。そこに、鯉のぼりが数多く風に翻っていた。今年で、60周年を迎えるらしい。
神谷町の地下鉄の駅から帰途に着いたのだが、途中、不忍池周辺で桜と野鳥を見たいと思い、湯島駅で降りてみた。すると、弁天堂の周りに桜の花垣ができている。染井吉野である。池の周りにも桜があるが、残念ながら「関山」で、まだつぼみである。私はこの関山という八重桜が大好きで、いつも咲くのを楽しみにしている。というのは、ピンク色が強いし、花が八重なので非常に豪華な印象を与え、しかも長持ちもするからだ。ところが、開花が染井吉野よりも1週間ほど遅い。だから今日は少し早かった。また来週末にでも来てみよう。
もう一つのお目当ての野鳥だが・・・いたいた、白鷺が池の中にいた。これは、コサギである。浅瀬に入って水面をじっくりと眺めている。私もしばらく観察していたが、ついに獲物は獲得できなかった。そうかと思うと、足元に一羽の鳥が飛んできた。雀よりは大きく、鳩よりは小さい。嘴がオレンジ色なのが特徴的だ。野鳥図鑑を見ると、ムクドリだ。集まって暮らす習性があるため、糞汚染や騒音公害で最近、問題になっている鳥である。直ぐに飛んで行ってしまった。
次に、近くの染井吉野の花を見ていると、高いところに1羽の鳥が止まって、桜の花びらをついばみ始めた。動きが早くて、なかなかレンズに収まってくれない。それでもようやく撮って、家に帰って拡大写真を見たら、何のことはない。普通の家雀だった。
増上寺・不忍池の桜(写 真)
4.新宿御苑の夜桜
新宿御苑で初めて、八重桜をライトアップするイベントが開かれるというので、夕食後に、写真を撮りに行った。4月15日(月)、午後7時から9時半までの間である。新宿門から入り、係員の誘導に従って、真っ暗の中を進んで行く。もちろん、電池式の足元ランプが進路の両側に置いてはあるが、それだけで、元々が芝生広場だから上から道筋を照らしてくれる街灯のようなものは一切ない。
そういう中を皆で足元頼りなげにゆっくり進んで行くと、暗い中にぼんやりと、満開の八重桜が浮かぶ。遠くから見ると、いささか寒々しい。ところが、近寄って見ると、真っ白な花弁にピンク色が混じった美しい八重桜だ。これは、新宿御苑の代表的な品種の「一葉(いちよう)」であり、満開の花を大きく広げている。その下に潜り込んで上を見上げると、月が見えたので、不思議な感覚を覚える。また、西の方を見ると、桜越しに代々木のドコモタワーが目に入り、しかも赤青白に彩色されているから、目立ち過ぎるくらいに目立つ。目を周囲に転じれば、ライトアップされた八重桜の中で、ピンク色が一際濃い品種がある。これは私の好きな「関山(かんざん)」である。また、よく見ると薄い緑色の八重桜もあるが、「御衣黄(ぎょいこう)」である。これは、大変に希少な品種とのこと。
広場の向こう側で、食べ物か何かを販売しているようだ。それだけでなくステージを設けてショーをやっていた。これは、観光庁が主催する「公共空間を活用したナイトタイムエコノミーの推進」というイベントだそうだ。このうち、「ナイトタイムエコノミー」とは何かというと、夜遊びで需要を創出するもののようで、後から観光庁のHPを検索したところ、次のような趣旨と内容のものらしい。
「観光庁では、4月14日(日)〜18日(木)の5日間、ナイトタイムエコノミーの推進に向けて、八重桜ライトアップの機会を捉え、桜、食、伝統芸能等をはじめとするエンターテインメントを活用したコンテンツを実施します。
観光庁では、訪日外国人旅行者の地方誘客、消費機会の拡大を図るための取組の一つとして、ナイトタイムエコノミーを推進しているところです。公共空間の夜間開放に関する取組の一環として、新宿御苑における八重桜ライトアップ (主催者:環境省)の機会を捉え、訪日外国人の受入環境整備の更なる満足度向上、消費額向上の観点を加味し、我が国ならではの資源である桜、食、伝統芸能等をはじめとするエンターテインメントを組み合わせた夜間の観光コンテンツを下記のとおり実施します。
(1)キッチンカーを中心とする飲食物の提供
・・・多種多様なジャンルのキッチンカー(海外フード系、イベント屋台定番系、ファストフード系等)
(2)伝統芸能をはじめとするエンターテインメントの提供
・・・能楽師によるステージパフォーマンス、ダンスパフォーマンス等」
訪日外国人観光客が激増する中ではあるが、観光庁がこんなことまでするのかという気もしないではない。まあしかし、話題作りには良いと思う。それで、どんなエンタメかといえば、これが色々とある。書き連ねると、「木場木遣保存会、金春流能楽、折り紙、忍者スタイルのバスケ、トリックスターなどのダンス、マジック、ヴァイオリン忍者」という。特に忍者スタイル以降はどういうものなのか、想像もつかない。でも、一つくらいは見ようと思って、トリックスターのダンスパフォーマンスを見た。
すると、ピカピカと光る和服の袴姿の男達が出てきて、肘のところで腕を曲げたり、体全体をピクピクと動かしたり、後ろを向いていたかと思うと急に能のお面を付けて現れるなど、実に奇想天外な動きで聴衆を魅了する。音楽も、和風で楽しい。しかも大真面目でやっているから、可笑しい。これは、外国人に受けそうだと思った。官製なのに、面白いことを始めたものだ。ちなみに、この催しは、「ナイトタイムエコノミーイベント『ナガッパ』」というそうだ。
最後に、満開で枝を大きく広げた八重桜「関山」をもう一度よく鑑賞しようとしたら、東の方角に高層マンションらしき高い建物があるのに気がついた。豪華絢爛に輝いているからよく目立つ。あの方向には、億ションの富久クロスコンフォートタワーという55階建てのマンションがあったから、それかもしれない。それと、「関山」を一緒に撮ろうとしたが、夜間のことでもあり、両方に焦点を合わせるのはできず、マンションに焦点を合わせたところ、周りの桜がボケてしまったが、これはこれで、何とか見られる写真になっている。それにしても、桜の花は、このように夜に見るのも幻想的という意味で、一興ではある。しかしながら、やはり晴れた青い空の下で見るのが一番だと思う。
5.目黒川の夜桜
エッセイ、写 真 集
6.日立風流物と桜
エッセイ、写 真 集
7.信州高遠城の桜
エッセイ、写 真 集
【余 談】カメラと虫捕り
ところで、こんな調子で私が毎週末にカメラを持って写真を撮りに出かけていると、それを見た同じマンションの奥さんが、私の家内にこう言ったそうだ。
「良いわねぇ。お宅のご主人。いつもカメラを持って颯爽と出かけていらっしゃる。都会的ねぇ。そこへいくと、私の主人ったら、田舎育ちなもんだから、70にもなって未だに補虫網を担いで虫を捕りに行くのよね。家中が変な虫だらけで、もう、嫌になっちゃう。」
虫好きのご主人と、虫嫌いな奥さんという組み合わせらしい。それは、もともと合わないと思うから、どちらかが我慢するしかない。加えて「カメラ=都会的、虫捕り=田舎的」という図式が、どうもこの奥さんの頭にあるようだけれども、必ずしもそうではないと思うので、もう苦笑するしかない。でも、幾つになっても心は少年のように没入できる趣味があることは脳の健康上とっても良いことで、それがカメラだろうが、虫捕りだろうが、何でも構わない。そういう意味ではこのご主人、心身ともに健康的な人だと思うが、いかがだろうか。
(2019年3月31日から4月14日記)
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日立風流物と桜
2019.04.08 Monday | by
悠々人生
私は、2年前の桜の季節に初めて「日立風流物」を見に行った。その様子は後述するが、その時、「江戸や京都ではなく、関東の奥座敷とも言えるこの地方に、こういう素晴らしい文化があって、もう300年以上も続いているのか。日本の文化にも、なかなか厚みがあるではないか。」などと思ったものである。
「日本三大曳山祭り」と言えば、京都の祇園祭り、飛騨の高山祭り、秩父の夜祭りであるが、これを「日本五大曳山祭り」に広げてみると、高岡の御車山祭りと、この日立風流物が加わる。このうち京都は別格としても、飛騨は木材、秩父は絹織物、高岡は商業と伝統産業で栄えた地で、それぞれかつての豪商たちによってお祭りの基礎ができて、それが数百年に渡り今日まで連綿と続けれてきたのはよく知られている。ところが、この日立風流物に限っては、農民などの地元の氏子たちが、それこそ手作りで知恵を絞って生み出してきた工夫が今につながっている。
それがまた、なかなかの工夫なのである。昔は道路が狭かったので人形劇の舞台をより広いものにするため、
(1) 普段は折りたたみの舞台で動かすが、本番の公演の時には両脇へと舞台を拡張したり、
(2) それでは足らずに立体化して五層建にしたり、あるいは
(3) 早返り(例えば、武士が一瞬にして腰元になる「どんでん返し」)をして観る人を驚かせたり、更には
(4) 表舞台「表山」の高層化のために余裕ができた山車の裏側を第二の舞台である「裏山」として用意し、なおかつ
(5) 山車を上下分離してそれを回転させた上で観客に見せる
などの諸々の工夫には感心する。現代日本人の物作りにも相通じる知恵と工夫である。
日立風流物は、神峰神社の氏子である4つの町内がそれぞれ一基の山車を持っていて、毎年一つずつ奉納するが、7年に一度の大祭禮の折には4基が勢ぞろいする。実は今年がその年で、5月の連休の間に行われるそうだ。それとは別に、今回、私が訪れた日立さくら祭りでは、例年通り一基の山車が出て、今年は本北町だという。演目は、表山が「風流太閤記」、裏山が「風流花咲爺」である。
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日立風流物に先立って、山車の前で「佐々羅(ささら)」が演じられる。これは、茨城県指定無形民俗文化財となっていて、市内各地の神社の出社祭禮の際に露払いの役目をする3匹から成る獅子舞だという。なかなか、おどろおどろしい格好をしている。
本日は日曜日のため、午後1時からと3時からの二度の公演である。午後1時からの公演は、出来るだけ山車の真正面にいることにした。12時半頃に行くと、正面には既に人だかりがあって、山車の前では、もう佐々羅が演じられている。私は山車の真正面の3列目くらいにいることになった。佐々羅が終わったら、「北町子ども鳴物」という横断幕が掛かり、今度は山車を出している本北町の子供たちが笛と太鼓で祭り囃子を演奏する。大きな子から小さな子まで、なかなかの熱演である。
いよいよ、日立風流物の始まりである。拍子木が鳴らされる。先ずは、表山だ。15mの高さの真ん中ほどにある緑色の窓の下半分がちょうどライティングデスクの蓋のように前に降りてきて、水平になって止まる。次に、5層建の各層が順にせり上がってくる。各層には数人の人形を操る人が乗っているから、それを持ち上げなければならない。「カグラサン」という梃子の原理を利用した装置で行うそうだ。各層が全てせり上がると、屋根が左右に分かれて舞台が広がり、グーンと華やかになる。
各層に3体ほどの人形が出てきて、それぞれに動きがある。山車の最上層の5層目から見ていくと、真ん中にいるのは白い寝衣姿だから本能寺の変のときの織田信長だ。「二」の字のような二つ引両の旗があるから間違いない。槍を振り回している。その両脇に両刀を抜いた武者姿が二人いて、信長を襲っているのだろう。このうちのどちらかが、明智光秀か。それにしては、水色桔梗紋がないなぁと思うが、よくわからない。背景の安土城らしき天守閣がスルスルと伸びてきて、右が五階建て、左が三階建てになった。これは、面白い。
その下の4層目にも三人いて、そのうち真ん中と左手は兜を被った武者で、右は槍を持った足軽のようだ。これも、本能寺の変らしい。次に更に下の3層目と2層目は、山崎の合戦とある。やや、3層目には豊田秀吉の印である千成り瓢箪があるし、真ん中の馬に乗って弓矢を持った武者がなかなか偉そうな雰囲気を醸し出している。すると、これが秀吉か。太閤記と書かれている幟があるから、間違いないだろう。2層目は、左から槍を振り回す雑兵、兜の武者、鉄砲を持った雑兵である。最下層は、決戦桶狭間とあり、二人の武士が戦っているかのようだ。見物人が「ああっ、おおうっ」とどよめく。3段層の馬に乗った武者から矢が放たれて、見物人の中に着地したのである。なるほど、これは見せ場である。その後、何本か放たれ、見物人が競って採ろうとする。家に持ち帰って、縁起物にするそうだ。
さて、拍子木が鳴らされる。何が起こるのかと思って一人の武士を観察していると、あれれ・・・その武士の首が後ろに消えた・・・まさか討ち取られたのではあるまいかという考えも一瞬浮かんだ。ところが他の武士に目をやると、さすがに馬上の武者だけは早返りは無理だったようだが、それ以外の全員が美人の腰元に変身しているではないか。1秒もかからない早技である。しかもそれまで振っていた刀が、和傘やお花に代わっている・・・これは実に見事なものだ。
ちなみに、午後1時からの公演ではカメラとスマホをいじくっていて、残念ながら早返りの瞬間を撮ることができなかった。そこで3時からの二度目の公演でようやくスマホのビデオに撮ることができた。以下はそのビデオから取った5枚の画像だが、特に左上の人形に注目されたい。(1) 武士の姿から、(2) 身体が仰向くようになり、(3) 一瞬にしてひっくり返って、(4) 腰元の衣装に早変わりし、(5) 刀に替えて赤い和傘を振っている。その他の人形も同様だが、その変化はまさに一瞬のことで、ビデオでもなかなか上手くとらえきれなかったほどである。
さて表山が終わり、今度は全員が総出で山車を回転させ、裏山が表に出てきた。題目は花咲爺だから、わかりやすい。見物人がどよめく。カメラのファインダーから目を離して山車を見ると、てっぺん近くに一匹の猿が出てきたと思ったら、その両脇下にも、それぞれ猿が出現した。
続いて舞台には、犬のポチが現れて左右に軽やかに走り回る。真ん中から花咲爺さんが登場し、犬が「ここを掘れ」とばかりに指したところを鍬で掘り出した。お爺さんの右手にはお婆さん、若い女と馬に乗った人物、左手にはお隣の強欲爺さんらしき男がやはり鍬を振るう。花咲爺さんが小判を掘り出したようで、金色に光る杵で臼をつきだした。そのうち、花咲爺さんの分身が現れて桜の木の枝の上に立ち、灰を撒き出した。そうすると、枯れ木に次々と桜の花が咲いていく。次の瞬間、今度は小判が観客席に向けて撒き散らされた。山車の下で待っていた子供達が喜んで拾う・・・というところで、芝居は最高潮に達するという次第である。
そういう具合で、日立風流物の山車を舞台にした熱演が終わった。この公演が行われた平和通りは、日立駅につながる広い大通りで1kmの長さがあり、両脇の染井吉野の桜の木が大きく育って、桜のトンネルを作っている。これは、素晴らしい。たくさんの屋台も出て、とても賑やかな日立市「さくらまつり」だった。
このお祭りは、日立製作所グループが支援している。それ自体は企業城下町によくあるパターンなのだけれども、それがいかにも日立らしいのである。例えば、平和通りの中ほどで、道端に卓球台が置かれて、見物人と若い選手が卓球をしている。何かと思ったら、「日立化成卓球部」とある。お金を使わないし、お祭りのアトラクションとしては、確かに面白いが、もうまるで大学の体育祭のノリだ。質実な日立らしい。
そうかと思うと、トラック・ステージなるものがあった。公園に日立物流のトラックを横付けしてトラックの横の壁面を全開し、荷物室を即席の舞台にして、そこで楽器を演奏したり、和服姿の女性歌手に演歌を歌わせたりしているのである。なるほど、これは考えたものだ。お祭りが終われば、トラックを動かすだけで直ぐに撤収できる。合理的と言えばその通りなのだが、ただ舞台に当たるトラックの荷物室の内側の壁面はそのままで何の手も加えていないから、灰色のモノトーンが剥き出しで殺風景なものである。そこでよさこいを踊ったり、女性演歌歌手が歌ったりするものだから、ますます「すさまじきこと」になる。せめて、色が付いた「さくらまつり」のポスターでも背景に貼ってあげればと思ったりした。まあ、これも剛健な日立らしさとでも言おうか。
日立風流物(写 真)
なお、私が2年前に初めて日立風流物の見物に行ったときのエッセイを、その説明を兼ねて、以下に掲げておきたい。
日立市に、国指定重要有形・無形文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録されている「日立風流物」という山車があり、それが桜の季節に演じられるということを聞いた。そこで、4月8日、東京駅からスーパーひたちに乗って、日立市に行ってみた。上野東京ラインが2年前の3月に出来てから、私は今日初めて、東京駅より常磐方面に乗る。行ってみると、同じ8番線から東海道方面の列車が出ていたりして、少し戸惑った。これがもう少し歳をとったりしたら、うっかりすると、逆方向へ乗るかもしれないので、気を付けよう。
さて、約1時間半の電車による快適な旅が終わり、日立駅に到着した。ここも、最近の地方都市のご多聞にもれず、駅前はすっきりと整備されているが、建物は鉄パイプとガラスでできているから、地方の駅の個性がなくなってしまっているのは残念だ。ただ唯一、駅前ロータリーに大きな歯車のモニュメントがあったのが特徴といえば特徴で、これは、日立製作所の企業城下町らしくて、とても良い。駅の出口で、さくら祭りや、日立市の由来に関するパンフレットを配布中だ。「日立風流物の仕組みがわかるものは、ありませんか。」と聞くと、わざわざ探してくれて、それをいただいた。よしよしと、これで少しは足しになると思ったら、それどころか、後述するように、とても参考になった。
それによると「日本各地に残る山車カラクリの系統は、大きく2つの方向に発展してきました。1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です。専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして山車を豪華絢爛な美術品まで昇華させました。一方で氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫してカラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです。」ということだそうだ。それにしても、この説明は、簡にして要を得ている名文である。感心した。
駅前ロータリーからクランク状に折れて進むと、そこが平和通りで、広い道の両側に樹齢30年から60年の染井吉野の並木があり、空も覆うほどの桜のトンネルになっている。数百メートルを進むと、大きな交差点に、山車が見えてきた。家のような形が五層にもなっている。非常に高くて、驚くほどだ。15メートル、重さ5トンだという。それにしても、幅が狭くて細長い。写真で見たのとは、かなり違う。この疑問は、演技が始まって、やっと分かった。それは後で説明することにして、どこで写真を撮ろうか、真正面だと道の真ん中に山車があり、両脇に桜の木が配置されるから、構図としては理想的だ。しかし、真正面にはもう多くのカメラマンがいて、立錐の余地もない。仕方がないので、脇に回ろうと思って適当な場所を探し、斜め横から撮ることにした。この方が近いし、細長い山車を撮るには良い。気が付いてみると、三脚を担いだビデオカメラマンが隣にいた。なぜこの位置を選んだのかと聞いたら、「人形の表情が良く撮れるから」という答えだった。
さて、山車の前でお囃子が演奏され、それが終わると、山車の中から聞こえてくる。それが最高潮に達した頃、いよいよ山車の舞台が始まった。まず、山車の前の部分が前方へ倒れ、棚のようになる。人形の顔が見える。すると、家のような形が左右に割れて、それが舞台になる。つまり、元の舞台の幅が3倍になる。それが、一番下の層から始まって順次上の層に伝わり、最後の5層目が開き終わると、鳥が羽を広げたようになる。なるほど、この写真は、見たことがある。その舞台は、忠臣蔵を演じていて、下の層には大石内蔵助が討ち入りの太鼓を叩いている。あちこちで赤穂浪士と吉良邸の武士たちの死闘が繰り広げられている。層の最上部では、吉良上野介らしき寝間着姿のお殿様が、自ら刃を振るって赤穂浪士と渡り合っている。
なぜ、こんな5層もの「開き」ができたかというと、こういうことらしい。複数の人形を使った物語性のある演目をするには、ある程度の舞台の幅が必要なのだが、当時の狭い道路では、山車としてはこの幅が限界だった。そこで舞台で演ずるときには、開いて大きな舞台にしようとした。それと同時に、もっと大きな舞台がほしいということになり、高層化に進み、ついに大正時代になって今の5層の「開き」のスタイルになった。それと同時に、山車の内部では人形の操作者もエレベーターのように上部にせり上がるようになっていて、その機構を「カグラサン」という。もちろんこれは人力である。
さて、人形の舞台を見ていたところ、吉良上野介の人形がひっくり返ったと思ったら、あっという間に御殿女中になってしまった。顔まで若い女性になったのには、驚いた。これは「早変わり」というもので、先に演じている役のところにあるフックを引っ張ると、くるりを別の顔と衣装になる。見ると、15体の人形が一斉にひっくり返って、数分で全員が女性になってしまった。しかも、それまで持っていた刀が、いつの間にか蛇の目傘になっていて、それがぐるぐると回されている。どうなっているのだろう。
それを眺めていると、舞台はどうやら終わったみたいで、皆さんが一息ついている。そこで、20人ほどが、山車の土台を動かそうとし始めた。でも、なかなか動かない。何回かやって、ようやく動き、山車の前後が逆になった。すると、正面の観客に向けられた崖のようになっている部分の真ん中が前方へ倒れ、また棚のようになった。崖の中から2人の武士たちが現れ、矢をつがえて空に撃ち始めた。棚の上には、農民夫婦が出てきて鍬を振るったり、仙人のような老人が出てくる。大蛇まで出てきて、棚の上に移動した。そこに大きなガマガエルが出現して、争っている。どうも、筋が分からないので隔靴掻痒の感があるが、表の舞台がいわばお能のようなものだとすると、こちらは狂言のようなものらしい。
パンフレットによれば「山車の大型化に伴い、山車の裏側の利用価値が高まる。『まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移動させるわけにはいかない。』この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。」という。それまで演じていたのが表山(おもてやま)で、「物語は忠臣蔵や源平争乱など歴史物、武者物が多い。」。これに対してひっくり返った裏山(うしろやま)は、「八岐の大蛇や加藤清正虎退治など、動物版勧善懲悪ものが多い」という。
この日立風流物の沿革は、パンフレットでは「昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かではありませんが、元禄8年(1695年)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが作った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716ー1735)からと伝えられています。壮大な山車とともに日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風靡した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられます。4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。その風流物も昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志の努力により、昭和33年5月には1台だけながら念願の復元を果たしました・・・昭和41年5月までには残りの3台も復元された」とのことで、かなりの苦難の道を歩んだようで、その結果の国指定重要有形・無形文化財、ユネスコの無形文化遺産への登録だったというから、地元関係者のご努力に、頭が下がる思いである。
(参考)日立風流物パンフレット(日立市郷土博物館)
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徒然300.平成から令和の時代へ
2019.04.01 Monday | by
悠々人生
平成に代わる新しい元号が「令和」に決まり、2019年4月1日午前11時半過ぎに政府から発表された。5月1日の新天皇の即位の日から施行される。大化改新の大化以来、令和は248番目の元号だそうだ。元号はこれまで中国の漢籍からとられていたが、今回初めて、日本の古典である万葉集からとられ、お陰で本屋から万葉集の普及本が売り切れてなくなった。
「令和」の出典となったのは、万葉集の梅花の歌三十二首である。8世紀、大伴旅人が太宰府の長官として赴任していたときのこと、正月に仲間を館に招いて梅花の宴を催したときの「序」で、
「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」 のうち、
前半の令月と風和からとったものだという。
辞典を引くと、「令月」とは、「何をするにもよい月、めでたい月、よい月」とあるから、「令」はとても良きイメージがあるポジティブな漢字とのこと。そういえば、深窓の令嬢、令夫人という言葉もあるくらいだ。ところが、「令」には命令、法令という意味もある。一般には、こちらの意味がよく知られているから、今回の元号の発表に際して街頭のテレビインタビューで初めて「令和」と聞かされた小学校高学年の男の子が「命令されるようで、イヤだ。」という感想を述べたのも、また宜なるかなと思う。
しかしながら、まあ、「令和」、「令和」、「令和」・・・と、何回か口ずさんでいると、最初はそういう違和感が例えあったとしても、いつの間にか薄れて馴染んでいくものである。ちなみに書家によれば、「令」の字の下半分の縦棒は真下に下ろしてもよいし、あるいは「マ」の字のように左上から右下へ「チョン」と書いてもよいという。そういう変幻自在さも気に入った。
ちなみに私は、昭和、平成、令和の3つの時代を生き抜くことになる。いやもう、歳をとるわけだ。ともあれ、来るべき令和がよい時代でありますようにと願いつつ、新元号の誕生と新天皇の御即位を心からお祝いしたい。
【後日談 1】 画竜点睛を欠く
4月2日の朝日新聞によれば、「外務省は、新元号を決定した直後、政府が承認している195カ国・国際機関に対して、新しい元号が「令和(REIWA)」に決まったことをファクスで一斉に通知した。その通知では、平成への改元時と同じ表現を用いて、英語で「the new Japanese Era(新しい日本の元号)」が「令和」と決まったことを伝えた」そうで、今後外交ルートを通じ、元号の意味も説明していくという。
ところが、この通知で新元号の英語の意味を書かなかったことが無用な混乱を招いたようで、一部の海外通信社の報道では、「「令和」が「order and peace」(命令と平和)と訳されてしまった。そこで外務省は、「令和」が「beautiful harmony」(美しい調和)を意味すると発表したが、時既に遅しの感が拭えない。せっかく対内的には完璧とも言える新元号の選定と公表のプロセスだったのに、対外的には気が回らなかったのか、いささか画竜点睛を欠くことになってしまった。
将来への教訓として、この問題を振り返ってみたい。先の記事からすると、「平成への改元時と同じ表現を用いて」とあるように、平成の時の前例を踏襲し昔の発表文をそのまま引っ張り出して「令和」に置き換えただけのように思える。それに、「今後外交ルートを通じ、元号の意味も説明していく」とあるので、外務省の念頭には、広報対象として外交ルートしかなかったようだ。
確かに平成の年号が決まった31年前は今ほど通信やネットが発達していなかったから、広報はそれこそ「のんびりと」やっていても別に不都合はなかったのかもしれない。ところが今は、SNSなどを通じて、どんな些細なことでもあっという間に全世界に情報が伝わり、しばしば「炎上」事件が起こる時代である。あらゆる場面を想定して、慎重に対応しなければならない。加えて今回は、本文で述べた小学校高学年の男の子が感じたように、「令」という命令をも意味する文字がたまたま含まれていたのが、要らぬ誤解を招く元となった。
逆に言えば、前例にそのまま従うのではなく、しっかり自らの頭を使って小学校高学年の男の子でも思い付くようなことまでを思い付き、それで対処すべきだったということになるのかもしれない・・・いや、確かにそうなのかもしれないが、これはこれで、そう容易なことではない。いずれにせよ、広報というのは、結構、頭と気を使う仕事なのである。内閣官房にはそういう人材が数多いるはずなのだけれど、ただ今回は、発表前に新元号が漏れないよう「保秘」があまりにも徹底してされていたので、新元号の英語の意味まで検討する時間と人手が足りなかったというのが本当のところだと思う。完璧さが、かえって抜かりを呼んだという皮肉な例かもしれない。もって他山の石としたい。
【後日談 2】 「霊」と「令」
新元号「令和」が広がるにつれ、各メディアに興味深い記事が見受けられるようになった。先日、これは面白いと思ったのは、日経新聞(4月7日朝刊文化欄)に漢字学者の阿辻哲次さんが書かれた「すばらしきかな『令』」と題する記事である。それには、「令」の語源について、要約すると次のように書かれていた。
「『壺坂霊験記』という浄瑠璃があったり、敬虔な信仰に対して神仏が示す不思議な験(あかし)を『霊験』といったり、また『霊峰』や『霊薬』ということばがあるように、『霊』という漢字には『はかりしれないほど不思議な』とか『神々しい』『とても素晴らしい』という意味がある。
しかし『霊』の旧字体である『靈』は二十四画もあって、書くのがはなはだ面倒だ。それで早い時代から、『靈』と同じ発音で、ずっと簡単に書ける『令』があて字として使われた。こうして『令』に『よい・すばらしい』という意味が備わり、やがて『令嬢』とか『令息』といういい方ができた。」
これを読んで、大いに納得した。専門家の知識は、なるほど大したものである。しかし、それに続いて、「友人夫婦が結婚披露宴にまねかれたところ、奥さんが指定された席に『令夫人』と書かれたカードが置いてあった。そのカードをしばらく見ていたわが友は、『そうか、いつもおれに命令ばかりしているから、女房を『令夫人』というのか』とさとったという。まことにユニークで秀逸なこの解釈を掲載する辞書は、どこかにないものか。」という冗談には、笑ってしまった。してみると、4月1日のエイプリルフールの日に流された本文中の外国通信社の誤訳は、あれはジョークだと受け流すべきだったのかもしれない。
かくして、いよいよ令和元年5月1日を迎える。その字義通り、とても素晴らしく、全てが調和に満ち満ちた平和な時代になるように、心から願っている。そういえば、私は本年、第二の退職を迎えるが、引き続き法曹の一員として会社、知財、行政法などの分野を中心に仕事を続け、社会に貢献していきたいと思っている。
(2019年4月1日記。3日及び18日追加)
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