天皇陛下御在位30年記念

政府インターネットテレビより


             目 次

 1.記念式典
         (資 料)当日の式次第

         (頂き物)CD「御即位から三十年」

 2.宮中茶会
         (頂き物)ボンボニエール



1.記念式典

 天皇陛下御在位30年記念式典が、平成31年2月24日に東京都千代田区の国立劇場で開かれた。私も参列する機会に恵まれ、間近で式典の模様をつぶさに観ることができたが、中でも天皇陛下のお言葉には万感の思いが込められており、深く胸を打たれるものがあったので、まずはそれを掲げておきたい。

「 在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

 即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。

 世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

 天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。

 これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。

 災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。

 今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

 平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

 ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

 在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。


 明治期の日本は、近代国家の建設によって列強諸国と伍していくために天皇を中心とする中央集権体制を作り上げた。そして富国強兵、殖産興業を旗印に欧米諸国と対等に渡り合える実力を備えた国家へと成長を遂げたが、残念ながら昭和に入りその方向を誤って、太平洋戦争に突入した。その結果、戦争による大惨禍と無残な敗戦を経験し、それから民主主義国家として再出発して今日の隆盛を迎えたわけである。

 その過程では、やはり昭和天皇が最も過酷な経験をされたのだと思う。軍部主導で戦争に突入して敗戦のやむなきに至り、残されたのは数百万人を超える戦死者と負傷者、そして焦土と化した国土である。占領期を経て、それまでの「現人神」から、「人間宣言」とも解される詔書を出されて全国各地を親しくお巡りになって国民と交流され、復興を見守りつつ戦争による被害を受けた国民に対する癒しにも目を配られた。振り返ってみると、戦前は軍部との厳しいやりとり、戦後は占領軍との関係など価値観がまさに180度変わった上での困難な対応であったろうと推察する。昭和の63年間は、これを3つに分けると、最初の20年間は「戦争」、次の20年間は「復興」、最後の23年間は「発展」ということになろうか。まさに、起承転結の「起承転」である。

 それに対して、平成の時代は、「結」であったと思う。平成時代の徳仁天皇は、このような歴史を十分に踏まえられて、「国の象徴」としての役割を模索されたことは、上のお言葉に詳しい。とりわけ「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」とおっしゃっているが、全くその通りだったと思う。しかし、徳仁天皇が十分にその象徴としての善くその役割を果たされたという事実は、万人の認めるところだと思う。中でも、阪神大震災や東日本大震災などの自然災害の折に、体育館などの被災者を親身に見舞うそのお姿には、全国民が感動したものである。


政府インターネットテレビより


 加えて、美智子皇后の存在は徳仁天皇にとって、非常に大事なことであったろうと思う。前述のお言葉でも皇后の御歌が引かれているが、単なる人生のパートナー以上の心と心の結びつきが感じられるのである。実は先程の天皇陛下のお言葉の最中に、陛下がお読みになる原稿を読み飛ばす局面があったが、皇后陛下は傍らで、それをしっかりとサポートされた。そのお姿には、参列者一同、改めて感じ入った次第である。

 天皇陛下御在位30年記念式典の当日は、安倍晋三内閣総理大臣の式辞に続いて、衆参両議院議長、最高裁判所長官、サンマリノ共和国駐日大使、福島県知事、川口順子元外務大臣による祝辞が披露された。その後、平成15年の歌会始の儀で両陛下がお詠みになられた御製と御歌を、波乃久里子さんが読み上げた。

(御製)我が国の旅重ねきて思ふかな 年経る毎に町はととのふ
(御歌)ひと時の幸わかつがに人びとの 佇むゆふべ町に花降る


 天皇陛下の御製(ぎょせい)は、長年の国内の旅のご経験を通じて実感された日本国の発展の様を嬉しくお思いになるご様子を表現され、また皇后陛下の御歌(みうた)は、町の庶民のささやかな幸せに心を配られるその優しいお気持ちを歌い上げておられる。実に麗しい和歌であると感じ入った。

 次は記念演奏があり、「歌声の響き」(独唱:三浦大知、ピアノ:千住明、バイオリン:千住真理子)と、「おもひ子」(独唱:鮫島有美子、ハープ:吉野直子)である。前者は沖縄の船出歌「だんじゅかりゆし」をベースに両陛下が作詞作曲されたもの、後者は皇后陛下が作曲された子守歌である。特に沖縄は、先の大戦で甚大な被害を受けたところであり、昭和天皇に引き続いて平成時代の徳仁天皇もこうして気配りをされたものと思われる。


政府インターネットテレビより


 以上で式典は終わり、天皇皇后両陛下が退出されることになった。壇上では、式辞や祝辞を述べた方々や記念演奏の関係者が並び、両陛下が一人一人に挨拶をされた。その中でも、御製や御歌を読み上げた波乃久里子さんは、思わず涙を流していた。それから両陛下は、舞台の袖で観客席に向かって、長い間、手を振られていた。両陛下と出席者とが一体となった最も感激する瞬間であった。

 かくして、参列者と国民に深い印象と感動を与えて、在位30年記念式典は無事に終了した。途中、天皇陛下がお言葉を述べられる際に、感極まって涙声になられたり、先ほど記したように皇后陛下のお助けで読み続けられたようなことがあったものの、これらはそれぞれ陛下の人間味と、ご高齢による退位の必要性を改めて人々に感じさせた。そういう意味で、私はかえって良かったのではないかとすら思うくらいである。

 帰りがけ、紫のフェルトで包まれた平らな箱をいただいた。帰って開けてみたら、「天皇陛下御在位三十年記念 ー 常に国民とともに」と題するCDだった。その内容は、政府インターネットテレビの皇室チャネルと同じなので、御覧いただければと思う。これは、「昭和64年1月7日の剣璽等承継の儀や、平成2年11月12日の即位礼正殿の儀の映像とともに、日ごろの御公務、御研究を紹介。 また、全国各地へのご訪問、国際親善、被災地へのお見舞い、慰霊の旅、御家族との御様子など、御即位から30年の歩みを紹介しています。」というものである。


「天皇陛下御在位三十年記念 ー 常に国民とともに」と題するCD


「天皇陛下御在位三十年記念 ー 常に国民とともに」と題するCD




2.宮中茶会

 翌25日の夕刻には、宮中茶会が催された。まず春秋の間に案内され、そこで同僚や友人知人たちと懇談していた。そうしたところ、舞楽が始まった。「ブオーン、フォーン、ピィー」と響く笙や篳篥や笛の雅な音色と、太鼓の「ドドドドッ、ドーン」という腹に響く音に乗って、4人の舞人が現れて優雅に舞う。演目は、「萬歳楽」と「延喜楽」だそうだ。足の動きや上体の傾け方などはまさに古式豊かなものであるが、アップテンポの現代音楽や舞踊しか見ていない我々にすれば、スロー過ぎてもどかしいくらいだ。しかし、千年以上前の平安時代からこの原型を崩さずに連綿と伝えられてきていると思えば、厳粛な気持ちになる。

 それが終わると、豊明殿に案内された。その人数はとても多い。後日の新聞によれば、450人だったそうだ。殿の中に入るときに差し出された飲み物を手に取ったものの、つい部屋の奥の方に行きそびれて、入り口の近くで再び同僚や友人たちと歓談のひと時を過ごす。そうこうしているうちに、奥の方で左手のドアが開いて、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、秋篠宮同妃両殿下、眞子内親王殿下、佳子内親王殿下などがお出ましになられたようだ。「ようだ。」というのは、遠すぎる上に、人垣に遮られてよく見えなかったからだ。そういう手順をあらかじめ知っていたのなら、もう少し何とかなったのかもしれないが、今からでは遅い。またそのうち、御代がわりの儀式の時にでもまた、お話が出来る機会もあるだろうから、本日は無理をせずに、その場で控えておくことにした。


宮中茶会でのいただき物


宮中茶会でのいただき物



 帰り際に、陛下からの頂き物があった。皇室の菊の御紋が刻印された小ぶりの金属製の丸い容器を開けたら、色とりどりの綺麗な金平糖が入っていた。あゝこれは、銀(鍍金)製の「ボンボニエール」ではないか。元々、フランス語の「ボンボン」つまり砂糖菓子を入れる容器で、あちらでは結婚したときや、あるいは赤ちゃんが生まれたときなどのお祝い事があったようなときに配られる引出物だそうだ。日本の皇室でも、いつの頃からか今回のような宮中宴会などのときに配られるようになったという。つくづく鑑賞すると、十六八重表菊の御紋が黄色に彩色され、それをまるで手のひらで包むように2枚の菊の葉が配置されている。誠にシンプルだが、それだけに素朴な美を感じる。

 金平糖の色の数は5色である。入っていたのはごく小さな粒のもので、しかも少量だ。たとえばこれを孫に渡したりすると、二口、三口であっという間になくなりそうな量だけれど、家内ともども、いささか畏れ多くて、なかなか口にすることができない。ともあれ、この式典といい、茶会といい、平成という時代の最後の記念となる、一生忘れがたい経験であった。この菊の御紋を刻んだボンボニエールを手元に置くことにより、平成時代の天皇皇后両陛下を思い出し、また我々夫婦の来し方を振り返るよすがとしよう。




当日の式次第


当日の式次第


当日の式次第


当日の式次第


当日の式次第









(2019年2月25日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:33 | - | - | - |
神代植物公園 冬の温室

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 家内と冬の神代植物公園を訪れて、大温室に入った。私は元々、熱帯植物を見るのが大好きなのであるが、本日の目的は、「神代のダースベイダー」といわれる花が咲いているというので、それを見ることである。ところが温室内は広く、その花はごくごく小さいことから、見つけるのに難儀しそうなことである。温室内の緑の洪水の中で、まず目についたのは、ベニヒモノキ(紅紐の木)である。赤い紐のような花穂が垂れさがっている。まるで昔のエノコログサのようで、つい触りたくなる。そこを過ぎて、「ダースベイダーはどこかな。」と探そうとしたら、家内が「あそこに、人が集まっているわよ。」と教えてくれた。そちらへ行ってみると、地面の低いところにその花はあった。エルサルバドル原産の植物「アリストロキア・サルバドレンシス」である。なるほど、ダースベイダーそっくりだ。この両目のような白い部分は何かといえば、虫を誘うためにあるのではないかとのこと。意外と早く見つかった。しかも、旅人の木の根元に生えていたので、わかりやすい。

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 ダースベイダーのはす向かいには、バナナの木があった。しかも「まだ青いバナナの房」がたわわに実っている。いったい何本あるのだろう。これはとても良い姿形で、実に見事だ。

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 次にあったのが、お化粧のパフみたいな赤いボンボンのような花で、「オオベニゴウカン」という変な名前がついている。でもこれはカタカナだからで、漢字で書くと「大紅合歓」というので納得した。要するにネムノキなのだ。赤い色のほか、紫や青色もあるらしい。

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 二等辺三角形をした不思議な葉がある。しかもその模様も同じく二等辺三角形である。こんな形の葉は、初めて見た。

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 パパイヤの木に、たくさんの実が生っている。こんなにたくさん生えるのかと思うくらいに密集している。パパイヤの実は、大根のようにジアスターゼが多くて、健康に良い。東南アジアにいたときには、一番数多く食べたものだ。

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 これはあるだろうと思っていた花が、やはり、あった。「コエビソウ(小海老草)」である。本当に海老のようで、とても可愛い花である。メキシコ原産のキツネノマゴ科の植物で、別名はベロペロネというらしい。自宅近くでもよく見かける人気の園芸種である。

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 「アンスリウム」の花で、仏炎苞という赤楕円形の葉のようなもの真ん中から、白と黄色の花序が突き出しているサトイモ科の植物である。水芭蕉と形が似ているなと思ったら、やはりこの仲間らしい。

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 さて、これから蘭が続く。最初は「パンダ」、いや違った「バンダ」。青紫の花である。樹木の幹などにまとわりつくように生えていることから、サンスクリット語の「Vandaka(まとわりつく)」が転じて「Vanda Orchid 」となったらしい。それからお馴染みのリカステ、パフィオぺディラムなどがある。

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 「ベゴニア」もたくさんある。花言葉は、「片想い」「愛の告白」「親切」「幸福な日々」などと、その色と同じく多岐にわたっている。ピンクなどは、「愛の告白」にふさわしく、白くて周辺だけ赤く染まった花は、「片想い」かもしれない。オレンジ色は、「幸福な日々」といっても良いだろう。まあそういうことで、とても華やかな花である。

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 おっと、「フクシア」の花があった。別名が「釣浮き草」。まさにその通りである。花言葉は、「信じた愛」、「激しい心」、「センスが良い」、「おしゃれ」とのこと。なるほど、いかにもそういう感じがする。

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 これから、「熱帯睡蓮」の池に入る。紫、黄、白、ピンクなど色々なスイレンが咲いている。見ていて飽きない。ただ、池の中にあるので、望遠レンズでないと撮れない。

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 「ハイビスカス」の大振りの花が、睡蓮の池の周りに植えてあった。黄色いハイビスカスは、これもまた見事な花である。華やかな貴婦人という面持ちである。

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 様々な種類の「サボテン」があった。大きくて丸い椅子のようなもの、白くて棘がいっぱいのものなどと並んで、不思議なサボテンがある。土台は薄緑色の普通のサボテンなのに、その上にタワーの如く突き出ている部分が濃赤色という変わり種である。初めて見る種類である。

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 神代植物公園( 写 真 )






(2019年2月4日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:16 | - | - | - |
旧前田家本邸(駒場公園)

旧前田家本邸


 駒場東大前駅の近くに、駒場公園があり、そこに加賀藩前田家の本邸がある。そもそも駒場公園そのものが、前田家の屋敷跡だったのである。加賀藩は、尾張の地侍だった前田利家を藩祖とし、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川家康についてその信任を得た。それ以来、徳川将軍家と姻戚関係を通じて関係を深めてきたことから親藩に準じる扱いとなり、加賀百万石と称される大藩となった。江戸時代中頃には、本郷に上屋敷、駒込に中屋敷、板橋の平尾に下屋敷のほか、深川にも蔵屋敷を置いた。本郷の東京大学にある赤門は、第12代の前田斉泰が文政10年に将軍家の息女溶姫の輿入れの際に造らせたものである。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 明治に入って前田家は侯爵家となった。ところが15代利嗣侯爵は男子に恵まれなかったことから、遠い親戚筋に当たる七日市藩前田家5男の利為(としなり)が明治33年に養嗣子として迎えられ、16代の侯爵となった。そして明治39年には先代の長女と結婚し、名実ともに当主となる。軍人として国家に仕える道を選び、近衛歩兵第四聯隊大隊長、駐英大使館附武官、近衛歩兵第二聯隊長、第八師団長を歴任した。若い頃から欧州諸国に留学して見聞を広げていったが、滞欧中に夫人が病死した。のちに旧姫路藩酒井家次女の菊子夫人と再婚し、同夫人はこの駒場の前田家本邸で過ごした。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 前田家は、江戸時代以来の本郷の上屋敷に居住していたが、利為は欧州で見聞した第1次大戦後の貴族の困窮ぶりを目の当たりにし、日本でもそういう日が来るものと思い、生活ぶりを引き締めにかかっていた折、東京大学が本郷の敷地を広げる必要から駒場への移転を打診されて、これに応じた。昭和2年に利為が駐英大使館附武官として赴任した後、昭和3年に塚本靖が中心になって建築にとりかかり、同5年に完成した。利為はかねてより「我が国には外国の貴賓を迎え得る邸宅がない」と考えていたことから、建物の様式はイギリス・チューダー朝のカントリーハウス風に建てられ、調度品もイギリスから運ばれた。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 利為は、既に昭和13年には退役していたが、同16年に太平洋戦争が勃発したことから現役に復帰してボルネオ守備司令官に任じられ、現地に赴任した。ところが翌17年に、搭乗した飛行機が海中に墜落する事故で亡くなってしまった。享年58歳だった。この駒場の邸宅には、10年ほど居住したに過ぎなかった。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


旧前田家本邸


 その後、この邸宅は中島飛行機が買収してその本社となったが、敗戦によってGHQに接収され、リッジウェイ最高司令官の官邸となる。ところが、その夫人が看護師だったことから、由緒ある金唐紙などが気に入らないということで、真っ白く塗り込められてしまうなど、かなりの改変が加えられてしまった。接収の解除後、国から都へ、更に都から目黒区へと移管されて今日に至っている。このような複雑な経緯を経ていながら、昭和初期の華族の生活を彷彿とさせる邸宅と庭園がほぼ元のまま残されているのは貴重であることから、平成25年には国の重要文化財に指定された。その後、復元工事が行われて、同30年10月から公開されている。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


 家内と一緒に行ってみたのであるが、洋館入り口で靴を脱ぎ、入館料などはとらない。1階はお客をもてなすところで、重厚感のある焦げ茶色の玄関扉を開けると、柱が深緑で白い筋が入った蛇紋岩、床は真紅のカーペット、半螺旋形で二階へと繋がる階段には彫刻が施され、階段の下にマントルピースとソファを備えた待ち合わせの小さな空間(イングルヌック)、頭上にはシックなシャンデリアと、素晴らしい。大客室と小客室は、壁紙もシャンデリアもカーテンも椅子やソファも居心地がよい。晩餐会が開かれる大食堂の中央には白い大理石の大きなマントルピースが置かれている。2階は私的な空間で、侯爵夫妻の寝室、侯爵の書斎、夫人室、子供部屋などがある。特に夫人室は全体が落ち着いたピンク色で、家族が集まって過ごしたようである。以上が駒場本邸で、それに隣接して和館があり、こちらは純和風の建物である。

旧前田家本邸


旧前田家本邸


 現在NHKで再放送されている「ダウントン・アビー」は、第1次大戦前後のイギリス貴族の世界を描いている。日本でもこれと同じように、昭和の始めに旧有力大名家の華族は、このような建物で、かくなる豪華な生活をしていたのかと思うと、なかなか感慨深いものがある。







 旧前田家本邸(駒場公園)( 写 真 )






(2019年2月3日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:21 | - | - | - |
北千住をちょっと歩く

宮田亮平文化庁長官(元東京芸術大学学長)作のイルカをモチーフにした像


 我が家から東京メトロの千代田線に乗って北へ約10分で、北千住駅に着く。先日、用事があって家内と一緒に出かけた。北千住駅西口には、2階部分に駅前広場をカバーするペデストリアン・デッキがあり、そこを歩いて見回すと、北千住を象徴する風景を一見することができる。駅から出てきて振り返れば、二つの大きなビル、ルミネと丸井があり、また正面を見ると、失礼ながらごちゃごちゃとした旧来の商店街が広がる。丸井の前には、宮田亮平文化庁長官(元東京芸術大学学長)作のイルカをモチーフにした像が異彩を放っている。これらのビルや東口の東京電機大学、近くに林立するマンション群を見ていると、首都近郊の新興開発地のような様相を呈している。

北千住駅前のルミネ"


 確かに、ここは交通のハブだから、通勤には非常に便利である。東京メトロ(千代田線、日比谷線)、JR東日本(常磐線快速)、東武鉄道伊勢崎線(東武スカイツリー線)、つくばエクスプレス線が乗り入れている。それだけでなく、私鉄との直通運転で、小田急線、半蔵門線、東急田園都市線とも繋がっている。東京都心にも近く、大手町駅には17分で着く。こうしたことから、北千住のマンションを買って移り住む若いファミリー層が増えている。加えて、この交通の便に着目して、2006年以降、東京芸術大学、東京未来大学、帝京科学大学、東京電機大学が相次いで千住キャンパスを新設したことから、街中に若い人が目立つようになった。今流行りの「移り住みたい街」の第1位というから、結構なことである。

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 ところが、北千住というのは、江戸時代は日光街道の千住宿という宿場町だった。その名残りからか、今でも昔ながらの古い商店街が残っている。それは良いのだけれども、お洒落というには程遠くて、ごちゃごちゃした飲み屋が多いせいか昼間から酔っ払っている人がいたり、煙草を辺り構わず吸う人が多かったりと、いささか猥雑な雰囲気も確かにある。夜はもっとすごいことになっているのかもしれないが、近づいていないので、よくわからない。要は、新旧の全く対照的な街が混在しているのである。

 一方、足立区作成の浸水ハザードマップによれば、台風などで荒川の堤防が決壊すると、北千住駅の辺りは5m以上も浸水するというので、これには驚いた。もっとも、そういう事態が起きるのは、例えば百年に一度という台風や大雨のような極めて稀な時だろうから、我々が生きているうちはまずないとは思う。しかしながら、東日本大震災のようなこともあり得るので油断大敵であり、普段からの備えが必要である。いま考えられているのは堤防の幅を大きく広げて厚くする「スーパー堤防」というものだが、北千住のロケーションを見ると、川に挟まれた中州のような立地なので、それもなかなか困難だろうと思う。だから、事前の避難が大事になってくる。ここに住まうには、そういうことを頭の片隅に置いておく必要がある。


足立区作成の浸水ハザードマップ


足立区作成の浸水ハザードマップ


 ともあれ、北千住駅西口のペデストリアン・デッキを降りて、日光街道(国道4号線)まで続くアーケード通りを歩いて行った。この辺り一帯を北千住駅西口美観商店街振興組合が担当していて、「歳末大売り出し、春のわんさ君祭り、そして西口商店街連携イベントとして、『足立の花火』屋台船ご招待セール、『お花見』屋台船ご招待セールを実施」しているらしい。こういう点は、昭和の雰囲気のままで、我々には懐かしい。

眼科医院


アーケード上の緑色の足場


 商店街の途中に、まるで大正時代からタイムスリップしてきたような建物がある。近づいてみたら、眼科医院であった。また、アーケードをしげしげと眺めると、天井に置かれた湾曲した茶色のアクリル板の上に、どういうわけか、緑色の足場が設置されている。「何だろう、洪水時の避難場所か。」とも考えたが、それは考え過ぎで、そもそも5mもの浸水には耐えられまい。単に天井を点検するための足場なのだろう。商店街を抜けて日光街道に至った。ビュンビュンと車が走っている。その交差点の角に、「天然たいやき・鳴門鯛焼き本舗」という店があった。「まさか、天然の鯛を焼いているのではないのだろうな。」と思って近づいてみると、やはり、普通の和菓子の「鯛焼き」だった。紛らわしいったらありゃしない。

天然たいやき・鳴門鯛焼き本舗






(2019年2月2日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:08 | - | - | - |
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