鉄道模型と横浜港

原鉄道模型博物館


 横浜の原鉄道模型博物館に行ってきた。6年前の平成24年7月10日に開館したもので、その頃に行った家内によれば、その当時は大変な混みようだったそうだ。私も小さい頃から模型が大好きだったから、そのうち行きたいとは思っていたものの、写真撮影は禁止されていると聞いて、行くのはやめていた。博物館の名前からして、これは「模鉄」(鉄道模型を造るのが好きな鉄道ファン)が主体のところで、「撮り鉄」(鉄道写真を撮るのが好きな鉄道ファン)は、眼中にないのだと早合点したからだ。

原鉄道模型博物館


 ところが、今回はたまたま田舎から出て来た人がいて、東京と横浜を案内することになった。聞いてみたら鉄道模型が好きだという。それではということで、初めてこの博物館へ行ってみた。すると、もうあまり観客がいなくなったせいか、それとも「撮り鉄」からの要望があったせいか、その経緯は知らないが、何とまあ撮影が解禁されていた。それどころか「ここが撮影ポイント」という表示すらあって、至るところに「撮り鉄」の心をくすぐる配慮がされていた。いやしくも鉄道ファンであるなら、こうでなくてはいけない。(既に、平成25年11月1日には、解禁されていたようだ。)

原鉄道模型博物館


 この博物館は、原 信太郎(1919年から2014年)という稀代の鉄道ファンによって作成、撮影、蒐集された鉄道模型(約6000両)、鉄道写真(約10万枚)・フィルムとビデオ(約440時間)、一番切符その他鉄道資料を展示するために設立された。そもそも、この原さんという人は、知れば知るほど、まるで規格外のスケールの人物である。

原鉄道模型博物館


 博物館の展示とHPによれば、「幼児の頃から、いかにグズっていても、鉄道の音を聞けばピタリと泣き止む。海外の鉄道について知りたくて、小学生の時から英語を学び、中学・高校でドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を習得。大学入学前にはロシア語も習得した。」。ううむ、この語学能力だけを見ても、並みの天才ではない。「小学6年生から本格的な模型製作を始める。・・・鉄道技術を学ぶために東京工業大学工学部機械工学科に入学。第二次大戦後、コクヨ株式会社で開発技術担当。在職中、世界初の立体自動倉庫やオフィス家具自動一貫製造ラインなどを開発し、300以上の技術特許を個人で出願・維持。」とある。鉄道模型以外でも天才的技術者だったというわけだ。加えて、「戦後は海外に積極的に渡航し、各国の鉄道車両を模型化。所蔵模型数約6000両。これまで訪れた国、延べ約380ヶ国。」いやはや、これは凄いとしか、言いようがない。こういう人がいたということを知っただけでも、本日はこの博物館に来た甲斐があったというものだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 普通、何かの蒐集家といえば、乏しい資産の一切をありとあらゆるものを集めるのに使って、残ったものはガラクタばかりというのが通り相場である。ところが原信太郎の場合は、語学の天才かつ成功した技術者でありながら、非常に完成度の高い模型を数多く残した。HPに曰く「原信太郎の模型は、通常の模型と異なり、鉄のレールと鉄の車輪を用い、架線から電気を集める。また、揺れ枕やスパーギア、コアレスモーターなどを用いて惰力走行を実現したが、それぞれ、本物の鉄道の技術を深く理解して成立したもの」だという。ジオラマ展示室に入ると、本物の鉄道と同じく、「ゴォー、ガタンゴトン」という音に包まれるから、つい嬉しくなる。これは「本物の鉄道車両を忠実に再現していることです。模型は架線から電気をとり、鉄のレールを鉄の車輪で走行します。なかでもご注目いただきたいのはその"走行音"。レールのつなぎ目の音がゴトンゴトンと鳴り、本物と同じサウンドを聞くことができます。ギア、板バネ、ベアリング、揺れ枕、ブレーキ・・・外からは見えませんが、本物の鉄道で使われている技術を搭載することにより実現した」ものだそうだ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 また、ジオラマ展示室は、照明が変えられる。これで走っている鉄道車両は、昼間の走行、夕方の暮れなずむ頃の走行、そして夜行列車の雰囲気が味わえる。ジオラマは、街並み、大きな駅、鉄橋、山岳地帯などと、変化に富んでいる。その大半はヨーロッパのようである。ただ、街の広場のようなところで、ヨーロッパ人の人形に混じって、日本の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公の警官「両津勘吉」らしき人形があるのには、笑ってしまった。ガタンゴトンと走る世界各国の車両に混じって、空中に黄色いゴンドラが浮かんで動いている。ちょっとした遊び心が散見される博物館だ。

原鉄道模型博物館


原鉄道模型博物館


 隣の部屋には、また趣きが変わって、横浜みなとみらい21地区のジオラマがある。もちろん、鉄道模型であるから高架の鉄路があって、電車が走っている。秀逸なのは、左手の高層ビル横浜ランドマーク・タワー、中央の観覧車、右手のヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルが描かれていて、昼間、夕方、夜間とそれらの照明が変わることだ。特に夜間は、ネオンが輝いて、本物に負けないほど美しい。また、昼間も、どこからともなく現れた海鳥が乱舞する。実に、良くできていると感心した。

海上保安庁巡視船


横浜中華街の関帝廟


シーバスから見た横浜みなとみらい21地区


 横浜駅東口ベイクォーターから、シーバスで元町公園に行き、横浜中華街を歩いて、そこでランチをいただいた。次いで再びシーバスで途中まで戻って、赤レンガ倉庫に着いた。すると、北朝鮮の工作船を展示している「海上保安資料館横浜館」別名「工作船資料館」があった。平成13年12月に奄美沖で発生したスパイ船領海侵入事件の主役で、いったん自沈した船を海から引き上げたものである。私は、平成15年に東京お台場にある「船の科学館」で、これを見たことがあるが、それ以来である。その感想はそれを記したエッセイに譲るが、今回は海上保安庁自身の展示とあって、工作船を追い詰めたときに受けた銃撃の模様や、ロケット弾攻撃の様子がビデオの資料として展示されており、より生々しくなっていた。現在の北朝鮮問題を考える上で、是非とも見ておくべき展示物だといえよう。

赤レンガ倉庫


海上保安資料館横浜館


海上保安資料館横浜館


 赤レンガ倉庫を見物して少し早目の夕食を食べ、それから夜景を見るために、大桟橋の方へと行った。ここは、海に突き出ていて、しかも3階ほどの高さがあるから、みなとみらい21地区の夜景を見るには、最適の場所だ。やがて夕闇が迫り、いい感じになってきた。先程の原鉄道模型博物館のジオラマより、もちろん本物の方が見応えがある。左手から右手へとライトの付いた建物などが連なり、横浜ランドマーク・タワー、横浜コスモワールドの大観覧車、クイーンズ伊勢丹の三連のビル、ヨットの帆のようなヨコハマ グランド インターコンチネンタル ホテルである。中でも、大観覧車のカラフルな色が、暗くなった空に映え、何よりも美しかった。

横浜みなとみらい21地区の本物の夜景


横浜みなとみらい21地区の本物の夜景








 鉄道模型と横浜港(写 真)





(2018年6月17日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:08 | - | - | - |
雨の日光東照宮

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 日光東照宮には、遥か昔の半世紀ほど前と、最近では2009年に訪れたことがある。東京の自宅から2時間半以上かかるので、いかに世界遺産とはいえ、そう気楽に何度も行く気がしないところである。ところが、平成25年から31年3月にかけて行われる平成の大修理があと1年弱と終わりに近づき、特に三猿や国宝の眠り猫が見違えるように美しくなったという。加えて、田舎から出てきた人がたまたまいたので、一緒に見に行くことにした。しかし、残念なことが二つあった。

 一つは、訪れた当日の天候が悪かったことだ。6月の梅雨の季節らしい小雨で、その雨粒が画面に写り込んでしまうから、建物の写真を撮るには最悪の天候だった。しかも6月の半ばにしては、異常に寒い日であった。朝の気温は12度で、昼になっても15度にしか上がらない。私は、前日にアプリで天気予報を調べて、冬の下着にダウンのジャケットまで用意して行ったから、まだ何とか凌ぐことができた。でも、例えば同じバスに乗っていた70歳前後の屈強なおじさんは、半袖シャツ1枚という着た切り雀の姿で、着いた途端に「寒い。寒い。」を連発して、可哀想になったほどである。

 もう一つ、がっかりしたことは、輪王寺にしても、東照宮にしても、世界遺産の建物やご本尊の由来や歴史的意義のようなインテリ向けの説明が一切なく、説明パンフレットもなかったことだ。それに代わって、つまらないと言っては語弊があるかもしれないが、やれ鬼門除けだの、干支の数珠だの、御守りだのを、「これは御利益があります」
などと言って、売り付けようとするのである。しかもその説明が、「通常ならこの御守りは、毎年、神社に返納してお焚き上げをしてもらう必要があるけれども、これは御利益あらたかなので3年に1回でよい。」とか、大きくて丸い形だが上下が尖っている平板を示して「これは、家庭の鬼門を抑え、ご家族一人ひとりに巡りくる悪い運勢を良い運勢に 転じる鬼門除けです。はがきが同封されているので、これにお名前、住所、ご家族の名前を全て書いて送っていただければ、御守りの効果はその全員に及びます。」などと言う。ちょっと見たところでは、そのはがきには個人情報保護シールが添付されていないようだったので、どうなっているのかと思った。ともあれ、商売熱心が過ぎて、いささかげんなりとする。

 それよりも、外国人観光客の数が激増したのには驚いた。しかも、欧米人、中国人、東南アジア人と、満遍なく全世界中から来ている。ところが、そういう外国人観光客への配慮が足りないのである。特に英語の案内すらあまり見当たらない。この数年来、参拝客筋が従来の農村部の信心深い老人層から、外国人観光客へと劇的な変化を遂げているのだから、十年一日のごとく御守りやご祈祷などに拘泥せず、外国人観光客への対応をもっと考えればよいと思うのだが、いかがであろうか。



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 それはともかくとして、小雨が降る寒い中を歩いて見てきた順に書いておきたい。まずは、神橋から右手に折れて、緩い上り坂を登っていく右手に、日光山輪王寺の本堂(三仏堂)がある。入ったところの左手にある大きな建物なのだが、今は修理用の足場に囲まれて、建物本体の外観を全く見ることができない。その代わり、本物と同じサイズの絵が足場を覆うシートに描かれているから、笑えてくる。修理期間は10年で、今年で既に9年が経ち、もう内部はほぼ仕上がっているが、外の足場を外すのにあと1年かかるそうだ。

 日光山輪王寺は、そのHPによると、「本堂(三仏堂)・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・大護摩堂・四本龍寺等のお堂や本坊、さらに十五の支院を統合して出来ており、その全体を指して輪王寺と総称します。境内地は大きく分けて、中央の「山内」と、「いろは坂」を登った「奥日光」の2ヶ所となります。」
とのこと。

 三仏堂には、千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が安置されていて、いずれもなかなかの力量のある仏師の作である。しばしお顔を拝見し、有り難く拝んできた。こうしてごく近くで仏像を見上げて拝むというのは、かつて住んでいた京都や奈良ではごく当たり前のこととして行ってきたが、考えてみると、関東ではこれまでは鎌倉の大仏様くらいであった。そういう意味では、今回は貴重な機会である。この三仏のように、お顔の表情や御手、それにお身体の姿の良い仏像を見ると、拝見する我々の身も心も体も、すっかり洗われる思いがする。



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 昔、ロンドンの大英博物館の日本コーナーで、法隆寺の百済観音をすぐ目の前で見たことがある。本物が来るはずがないのでレプリカだったかもしれないが、その背の高いほっそりとした身体つきで、右手を掌を上にして肘から前へと倒し、左手は軽く伸ばして瓶を持つ。仏の顔に目をやると、目元と顔つきは優しいものの、どこか異国風である。その優雅な姿に、しばし心を奪われた。この経験をして以来、良い仏像とは、いわば心が共鳴するようになった。興福寺の阿修羅像、宇治平等院の阿弥陀如来像などがそうであるが、ここ輪王寺の阿弥陀如来像にも、そのような感覚を持った。

 三仏堂から、東照宮に向かう。その前に、輪王寺、徳川家康、家光の関係について、整理をしておきたい。元々、日光山は、奈良時代に開かれ、関東では有名な修験道の霊場だった。ところが江戸時代になって、日光が江戸の鬼門の方角に当たることから、それに対する押さえとするとともに徳川家の威光を示すために、諸大名に莫大な費用を負担させて、まず家康の東照宮が置かれ、次いで家光の廟が置かれて、今日に至ったものである。輪王寺のHPによると「日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人により開山されました。以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。」
という。



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 砂利道の参道を上がって行く。すると、右手に「世界遺産 日光東照宮」の石碑があり、その先に「東照大権現」の扁額が掛かった鳥居がある。徳川家康が大権現という神様だ。どうも日本という国は、こういう実在の人物を神格化して神様にしてしまうところがある。古くは菅原道真の天満宮であるし、新しくは乃木希典の乃木神社である。多神教の国ならではの現象である。いい加減と言えばその通りである。しかし考えてみると、唯一神の国よりも、この方が時代の流れに柔軟に対応できるのではないかと思う。

 例えば、イスラム教では、教義上許されている4人の妻は戦争で生まれる未亡人の救済の意味があったし、タブーの豚は当時は非常に不潔で病気の元になったというし、一日5回の礼拝はそもそも砂漠の民を従わせるにはそれくらいしないとダメだったというし、酒の禁止は砂漠性気候の下での飲酒は健康を害するおそれがあった上に戦士を常に素面にしておいて戦争に備えさせる必要があったなどと、教義が確立した時代には、それぞれちゃんとした合理的理由があった。ところが時代が移り、もはやそういう理由が解消されても、一神教だと、教義を見直して方向転換をするのはまず至難の業だ。現にキリスト教は、長い間、何世紀にもわたるカトリックとプロテスタントの間の血みどろの戦いを経てやっと争いは終息し、今ではようやくお互いを認めあって平和的に共存している。この間の犠牲は大変なものだった。その点、日本のような多神教の国では、宗教改革や教義の変更どころか、実在の人物に基づいて次から次へと神様が生まれるくらいの宗教的には柔軟な風土なので、その結果、各時代に応じた教義にならざるを得ない。だから、一神教の国ほどの宗教的な対立は、まず起こり得ないのではないかと思っている。



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 おや、雨が強くなってきた。左手に五重塔があるが、雨のせいで、上手く写真が撮れない。正面には、仁王門があり、階段を上って門を潜ろうとするとき、左右に安置されている仁王像を見る。これは、別に塗り直しはされていない。右手と正面に、上神庫・中神庫・下神庫の「三神庫」がある。この中には、春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められているそうだ。それに沿って直角に左に曲がると、神厩舎がある。これは、ご神馬をつなぐ厩で、昔から猿が馬を守るとされているところから、その長押上には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿をはじめとして、猿の彫刻ばかりが8面ある。これらは、人間の一生を風刺したものだそうだ。その中で、三猿はというと・・・あった、一番左にあった。なるほど、この猿の彫刻は、いずれも修理がされていて、色が格段に鮮やかになっている。中でも、顔とお腹が真っ白である。まるで、漫画のキャラクターのようになってしまった。おかげで、見やすくなったのは事実であるが、歳月を経てきたもの特有の有り難みが失われてしまった感がしないでもない。



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 そこを右手へと曲がり、いよいよ陽明門に向かう。雨だから、どこを向いても写真には雨傘ばかりが写ってしまう。その階段にさしかかる直前の左手に鼓楼が、右手に鐘楼がある。この形でこの大きさの楼はなかなかないので、しばし見とれる。階段を登りはじめて陽明門を仰ぎ見ると、さすがに彫刻は綺麗になっている。特に、獅子は真っ白に塗られていて、こんなに美しいものだったかと驚くほどだ。武者像も塗り直しされたか、凛々しい表情である。天井の龍の絵が力強くて、これまた素晴らしい。思わず見とれてしまう。そもそもこの門はあまりに美しいものだか、見ていると日が暮れるという意味で、「日暮門」というそうだが、さもありなんというところだ。ただ、この日は土曜日なので、寒い気候にもかかわらず、大勢の参拝客やら観光客が押し寄せて来ているので、のんびり見上げている余裕はなかった。なお、陽明門そのものはこうして修理は終わったが、その両脇に広がっている「廻廊」の花鳥の彫刻は、陽明門と同じ国宝ではあるが、現時点では特に修理はされていなかった。



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 陽明門をくぐると、左手に神與舎、右手に神楽殿と祈祷殿があり、正面には唐門、その両脇には透塀がある。唐門には、「全体が胡粉で白く塗られ、「許由と巣父」や「舜帝朝見の儀」など細かい彫刻がほどこされて」いるそうだが、解説がないことには、どれがどれやらわからなかった。ちなみに、昔々の高校時代に習った記憶によると、許由と巣父はいずれも隠遁生活を送った国士である。許由は、古代中国の理想の君主である堯から州の長に任命されようとしたのを聞いて「耳が汚された。」といって川でこれを洗い、その顛末を聞いた巣父は川が汚れたといって渡らなかったと言われる。現代風にいえば、さしずめ「反骨の士」とでも言うのだろう。



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 神楽殿から家康廟の方に向かうところの坂下門の中に、名工である左甚五郎作の国宝「眠り猫」がある。見上げたところで目が合う位置にあり、初めて見たときには、「その名声に比べて、実物はこんなに小さなものか。」と思った記憶がある。もっとも、猫が実際によく見かける大きさよりもっと大きな彫刻だと、それこそまるでお化け猫だから、これくらいで、ちょうど良いのかもしれない。でも、今回の修理で顔が白く、目鼻立ちもくっきりとしたから、普通の大きさに感じた。

 そこから取って返して拝殿に入る。ここは、撮影禁止だ。あちこちで彫刻や柱が丁寧に修復された跡がある。ゆっくり見たかったが、何しろ人の流れが強く、トコロテンのように押し出されてあっと言う間に出て来てしまった。それから、本地堂(薬師寺)に向かった。ここには、天井に「鳴き竜」がある。天井の檜の板に大きな竜の絵が描かれている。昔ここに来たときは、柏手を打って音を聞いて喜んでいたものである。今回は、もっとシステマチックになっていて、一定数のお客さんを入れて、まず天井の竜の尾の下で、拍子木を打つ。すると、拍子木の鳴る音だけが聞こえる。次に天井の竜の顔の下で再び拍子木を打つと、あら不思議、拍子木の音の次に「キュィーン」という甲高い音が反響して、あたかも竜が鳴いているように聞こえる。それは良いのであるが。帰り際に何か売りつけられそうになったのには参った。

 そのあたりから、雨脚が強くなった。本来なら家光廟大猷院まで行くべきところだったが、気温が15度ほどと、まるで3月ではないかと思うほど低い。こんなところで風邪をひいてはつまらないと思い、すっかり意気を阻喪して参道を下りた。日光カステラのところまで下りて、そこでカステラをつまみつつ身体を温めて、帰途に着いた。日光へは、また1年後の大修理完了後に、再挑戦することとしたい。なお、来る途中に館林つつじが岡公園にバスが立ち寄ったので、写真集にはその様子も載せておいた。しかし、花菖蒲を見るには遅すぎ、さりとて蓮の花を見るには早すぎるという中途半端な時期であった。








 雨の日光東照宮(写 真)





(2018年6月16日記)

カテゴリ:エッセイ | 22:02 | - | - | - |
菖蒲アヤメと睡蓮

明治神宮




 菖蒲アヤメと睡蓮(写 真)



1.明治神宮の花菖蒲園

 都内3箇所で、菖蒲とアヤメを観てきた。まず最初は、明治神宮の花菖蒲園である。この悠々人生の記録を見ると、2010年6月13日に訪れている。こちらの特徴は、原宿や表参道という都会の繁華街のすぐそばにもかかわらず、まるで深山幽谷のような趣きのある菖蒲の花を楽しめることだ。千代田線の明治神宮前駅を降りて神宮橋を渡って、大きな鳥居をくぐって本殿につながる参道をひたすら行く。途中で森の中を左手に曲がり、500円の入苑料を支払って中に入る。

 いただいたパンフレットによると、この明治神宮御苑は、江戸時代初頭には熊本藩主加藤家下屋敷の庭園だったが、その後、彦根藩主井伊家のものとなり、明治維新で皇室の御料地となったそうだ。静謐な地だったので、明治天皇はお気に召され、「うつせみの 代々木の里は しづかにて 都のほかの ここちこそすれ」と詠まれたという。

 

明治神宮

 

 隔雲亭(かくうんてい)という数寄屋造りの家屋は、明治天皇が昭憲皇后の休息所として作られたそうだが、その前に南池(なんち)があり、今は睡蓮が真っ盛りに咲いている。ピンク色がかった睡蓮の花が実に美しくて、写真を撮った後も、その場でしばし眺めていた。池の真ん中には睡蓮の葉が密集しているところがあり、そこに1本の低い杭が打たれている。すると、その杭に、まるで図ったように青鷺がとまっていて、細長い首を伸び縮みさせながら水中の魚を粘り強く狙っている。10分ほどする内に、ついに魚を捕まえてしまった。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 南池から小径を進むと、両側を森に囲まれた花菖蒲園に出る。菖蒲田の周囲が緩やかなカーブを描いていて、誠に優雅な形をしている。立ち姿が美しい江戸系の菖蒲を中心に植えられているそうだ。おや、菖蒲の向こうに、白人のよちよち歩きの赤ちゃんが見える。菖蒲を見て、指をさしている。その脇には、白人のお父さんがいる。体重は、200kg近いのではないかと思われるが、この小さな赤ちゃんも、将来はこれくらいの偉丈夫になるのだろうか。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 花菖蒲を眺められる丘には、茅葺き屋根の四阿(あずまや)がある。今日のような太陽の光が燦燦と照りつけるような日には、非常にありがたい。そこに入って一休みしていると、目の前に「菖蒲、アヤメ、カキツバタ」の区別が書いてあった。それによると、花菖蒲(アヤメ科)は湿地に生育し、花の弁元が黄色く、葉の筋は表に1本、裏に2本。アヤメ(アヤメ科)は乾いたところに生育し、花の弁元が淡い黄色で周りが白色、葉の幅が細い。カキツバタ(アヤメ科)は水辺に生育し、花の弁元に細長く白い筋、葉は幅が広くて薄い。

 

明治神宮

 

明治神宮

 

 話は変わるが、私は「菖蒲」というのは、英語ではてっきり「iris」というものだと、昔から思っていたが、どうもそうではなくて、「菖蒲」は「Japanese iris」、「アヤメ」は「iris」又は「Siberian iris」というそうだ。これは、ややこしいと思っていたら、どちらも「sweet flag」でよいそうなので、これからそのように覚えておこうと考えている。ただし、「カキツバタ」は「rabbit ear iris」というらしい。「兎の耳」ねえ・・・それで「iris」か・・・ああ、またややこしくなった。肝心の「菖蒲、アヤメ、カキツバタ」だが、紺色、紫色、白色という単色の花はもちろん美しい。しかし、それにも増して、白色を基調に淡い紫色の線が混ざっている花も、また見事なものである。ただ、これらはどの花も、同じ品種ならほとんど差はなくて、例えば薔薇のような品種の多様性は見られない。またそこが、菖蒲らしいところだといえる。


2.しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

 足立区しょうぶ沼公園は、千代田線の北綾瀬駅のすぐ側にある。足立区のHPによると「しょうぶ沼公園一帯は、その昔野生のノハナショウブが多数咲き誇っていました。土地区画整理事業に伴う公園を造成するにあたり、昔の地名を残したいとの地元の方々の願いから、旧地名である菖蒲沼耕地にちなんで「しょうぶ沼公園」と名づけられました。」とある。

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

しょうぶ沼公園

 

 訪れたときは、たまたま「しょうぶ祭り」の日で、噴水広場は飲食物販エリアとなっていて、多くのテントが並んでおり、たくさんの人々が集って賑やかだ。そこを通って、細長い菖蒲田に向かう。目指す菖蒲田はすぐ近くにある。その前には、これもまた細長い藤棚があって、その下に並べられたベンチを涼やかなものにしている。そのベンチに腰を下ろして菖蒲田を見渡す。こういう下町のイベントの日だから、家族連れとお年寄りが多い。相撲の玉ノ井部屋が主催する子供相撲大会があるなど、長閑なイベントである。ここでも、菖蒲田の中に桟道が通っているので、菖蒲に近づいて写真を撮りやすい。しばらく花菖蒲とアヤメを撮り、三連水車なるものまで見て、満足して帰途に着いた。


3.小石川後楽園

 地元の文京区の東京ドームの隣にある公園で、言わずと知れた水戸藩の上屋敷、水戸黄門のゆかりの地である。そのHPによると、「江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え『(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』から『後楽園』と名づけられました。庭園は池を中心にした『回遊式築山泉水庭園』になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されました。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。」とのことである。

同じ文京区に、柳沢吉保の屋敷跡である六義園がある。私はどちらかといえば、六義園が好きでよく行くが、この小石川後楽園には、あまり足を運ぶことはない。好みの問題かもしれないが、例えば春になると咲く枝垂れ桜は、小石川後楽園にもあるのだけれど、もう圧倒的に六義園の方が素晴らしい。池も、六義園の方は和歌調で、馴染みやすいのに対して、小石川後楽園のは西湖の堤などと中国趣味に溢れていて、今ひとつ馴染みがない。それに、秋の六義園の紅葉は、これまた素晴らしい。というわけで、六義園ばかりに目を向ける結果となってしまっている。ただ、小石川後楽園にも魅力はないのかと問われれば、決してそういうわけではなくて、早春の梅林と、それからこの季節の菖蒲と睡蓮は、とても素晴らしいと思っている。

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 というわけで、まず花菖蒲田に行ったのだけれど、背景に文京シビック・センター(文京区役所)やら、東京ドームやら、挙げ句の果てには後楽園遊園地のジェット・コースターの一部が写り込んで、あまり良い写真にはならない。その割には、カメラを持った多くの皆さんがやってきて、写真を撮っている。都内の花菖蒲なら、堀切菖蒲園や、上の明治神宮の花菖蒲園の方が良いなと思う。

 

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 花菖蒲園の隣には、梅林があって、ちょうど季節なので、梅の実が生っている。それを抜けて、大泉水の周りを回っていくと、紅葉の木の青葉が眩しいほど美しい。地面に生えた羊歯の葉も、梅雨入りした直後のせいか、生き生きとしている。

 

小石川後楽園

 

小石川後楽園

 

 それから最奥の唐門跡を過ぎると、内庭の池があり、睡蓮の葉が丸い大きな固まりとなって、池のあちこちに見受けられ、その中に白い睡蓮の花が咲いている。蓮の実ピンク色も華やかで美しく、私は大好きだが、こういう白い睡蓮も、清楚で綺麗である。マネやモネが、睡蓮を良く描いたのは、同じような気持ちだったのだろうか。



(2018年6月3日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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