月見おわら 2017年

富山駅前にあった、おわら風の盆の看板


1.富山の三大民謡

 (1) ツアーに参加

 越中八尾おわら風の盆は、以前、電車とバスを乗り継いで、前夜祭を見に行ったことがある。胡弓の奏でる哀調ある調べと、黙々と一心に踊る踊り手の野趣あふれるその優雅さに深く感じ入ったことを、まるで昨日のことのように覚えている。それから6年が経ち、機会があればまた見たいものだと思っていたときに、ある旅行会社が「月見のおわら」なる催しを企画して今年が20回目だとして、参加者を募集していた。そういえば前回、私が個人的に行ったときは、八尾のあの狭い町域に、たくさんの観光客が訪れてごった返していて、どこでどうやって鑑賞させていただいたかもわからないくらいだった。最近は、町の人口が2万人程度のところに、30万人ほどの観光客が押し寄せて、ますますひどくなったようだ。

 加えて前回の場合には見終わって帰るとき、八尾(やつお)バス停の前に黒山の人だかりだったものだから、バスに乗るのは諦めて、JRの駅まで歩いて行った。ところが、街灯もない暗い田圃の中やお墓の脇などを通って、30分もかかったことから、とても大変だった。その轍は繰り返したくない。その点、9月23日と24日に行われる今回の月見のおわらは、見物客の数は一晩3千人程度だし、八尾の町内で町民の皆さんによって行われる。そういう意味では本番(9月1日から3日まで)と、さして変わらないだろうと思って、参加することにした。

 北陸新幹線で東京から富山まで、2時間10分である。お昼過ぎの新幹線で富山に向けて出発し、午後3時台にはもう富山駅前のホテルにチェックインした。八尾の町に向けて4時半にバスで出発し、5時過ぎに曳山会館下の駐車場に到着した。その会館前に設けられて舞台で、富山の三大民謡を披露していただけるという。

 (2) 高校生による越中おわら節

 先ずは、八尾高校の皆さんによる、越中おわら節である。哀調あふれる節まわしと言いたいところだが、そこはまだ高校生の女の子たちだから、ややか細い声を張り上げる中、最初に男の子たちが出てきて、力強いキビキビした男踊りを踊る。ついでピンク色の衣装を着た女の子たちが出てきて、息の合った女踊りを披露する。両手を斜めに伸ばしたときの、その角度が揃っているのがよい。もう終わりかけの時、男の子たちが踊る途中で、一人一人思い思いの格好で固まっていく。かなりの力が必要だろうと、見物人から大きな拍手が巻き起こって、終わった。なかなか良い演出である。


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 ツアーガイドからもらった紙には、こう書いてあった。

「『歴史』ここ越中八尾の地で、踊りとともに唄われている民謡『越中おわら』は、300年以上の歴史を持つ全国に誇る民謡です。しかし『おわら風の盆』という行事がいつ始まったかは、明瞭な文献が残っていないためはっきりしません。言い伝えられている説の一つとして、八尾の町が開かれた際に加賀藩から下された『町建御墨付』の所有権をめぐって、町の開祖である米屋少兵衛の子孫と町衆の間で争議が起こり、結果、町衆が取り戻すことができたお祝いとして、昼夜を問わず3日間唄って仮装して踊って楽器を演奏しながら町内を練り回ったことが起源と言われています。やがて、二百十日の台風到来の季節に、収穫前の稲が風の被害に遭わないよう、豊作祈願の行事として行われるお祭りに変化したことを機に『風の盆』とよばれ、9月1日から3日にかけて行われるようになりました。

 『おわら』とは、(1)『お笑い節説』遊芸の達人たちがこっけいな変装をして町中を練り歩く際に唄っていた歌の中に『おはらい』という言葉を入れて唄ったのが、『おわら』に変わったという説、(2)『大藁節説』豊年を祈り、わらの束が大きくなるようにとの思いから、『大わら』が『おわら』になったという説。

 『風の盆』とは、富山の地元では休みのことを『ボン(盆日)』という習わしがありました。そして風神鎮魂を願うお祭りのため『風の盆』となったそうです。

 『踊りの種類』としては、(1)『豊年踊り』最も古くからある素朴な踊りで、町流しや輪踊りで踊られる、(2)『男踊り』かかし踊りともいわれる勇壮な踊り、(3)『女踊り』四季踊りともいわれ、春夏秋冬それぞれに異なった所作がある。舞踊的な踊りで、主にステージなどで披露される。

 『おわらを盛り上げる唄や楽器』 越中おわらでは、唄と楽器を奏でる人のことを地方(じかた)といいます。(1)『唄い手』甲高い声で歌い出し、息継ぎをせず、長く柔らかい美声を響かせる、(2)『囃子』唄い手の調子を揃える、地方の指揮者のような役割、(3)『三味線』弦を押し付け、撫でるように弾く『探り弾き』、おわら独特のリズム、(4)『太鼓』唄の息継ぎを助けたり、調子を盛り上げる、(5)『胡弓』唄や三味線に合う哀調を帯びた独特の旋律を奏でる。(唄が終わると、楽器だけの間奏曲が奏でられます(合いの手)。唄の旋律とは全く違う哀調を帯びた独特の旋律を奏でる。民謡では珍しいと言われています。)」


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『おわら節歌詞』

 揺らぐ吊り橋 手に手を取りて
 渡る井田川 オワラ 春の風
 富山あたりか あのともしびは
 飛んでいきたや オワラ 灯とり虫
 八尾坂道 別れてくれば
 露か時雨(しぐれ)か オワラ ハラハラと
 もしや来るかと 窓押し開けて
 見れば立山 オワラ 雪ばかり

          八尾四季(作詞:小杉放庵)

         (出典)「世界の民謡・童謡」より。



 (3) こきりこ節

 次に、舞台では、五箇山民謡保存会の皆さんが、「こきりこ節」を歌い、綾藺笠(あやいがさ)を被って武士の衣装のような直垂(ひたたれ)姿で踊ってくれた。綾藺笠の頂きには山鳥の羽が付いているから、動くとそれが目立つ。両手には、「びんざさら」という楽器のようなものを持っていて、それを伸ばしたり、馬蹄形に曲げたりして、ガシャッ、ガシャッと音を立てる。それで、舞台狭しと飛び回るから、なかなか男っぽい踊りである。ツアーガイドからもらった紙によると、


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 「『こきりこ節』は、日本で一番古い民謡です。田楽から派生し、田踊りとして発展しました。これらは、五穀豊穣を祈り、百姓の労を労うために、田楽法師とよばれる職業芸能人たちが田植えや稲刈りの間に行ったものでした。こきりこは『筑子』『小切子』とも書き、二本の竹で作った簡素な楽器の名前に由来していると言われます。これを手首を回しながら打ち鳴らすと、軽やかな音が出ます。『ささら』は、檜板を人間の煩悩と同じ108枚を紐で束ねて、半円に構えて波打たせるように鳴らすもので、その不思議な響きも耳に残ります。鍬金や太鼓も田楽の頃から変わらず、こきりこ節の伴奏を奏でています。こきりこ節の特徴的なお囃子『デデレコデン』は、太鼓の音を表したものとされています。」

『こきりこ節歌詞』


 こきりこの竹は 七寸五分じゃ
 窓のサンサは デデレコデン
 ハレのサンサも デデレコデン

 向いの山を かづことすれば
 荷縄が切れて かづかれん
 窓のサンサは デデレコデン
 ハレのサンサも デデレコデン

 向いの山に 鳴く鵯は
 鳴いては下がり 鳴いては上がり
 朝草刈りの 眼をさます
 朝草刈りの 眼をさます

 踊りたか踊れ 泣く子をいくせ
 ササラは窓の もとにある
 烏帽子 狩衣 ぬぎすてて
 今は越路の 杣刀

 向いの山に 光るもん何じゃ
 星か蛍か 黄金の虫か
 今来る嫁の 松明ならば
 差し上げてともしゃれ 優男


         (出典)「世界の民謡・童謡」より。

 (4) 麦 屋 節

 舞台の最後は、「麦屋節」である。刀を差し、黒の紋付袴で白たすき、白足袋姿の凛々しい男性が笠を持って登場し、地方の唄と演奏に合わせて踊る。刀を振り回すようなことはないが、笠をクルクル回すのが印象的で、武士の所作らしく全体としてテンポが早く、キビキビした動きが印象に残った。同じくツアーガイドからもらった紙には、

 「『麦屋節』は、全国的にも知られた五箇山民謡で、歌い出しが『麦や菜種は・・・』だったことから、『麦や節』とよばれるようになりました。麦や節の由来については、平家の落人によって作られたものという説があります。五箇山が平家の隠れ里であったことや、歌詞の内容から、麦や節と平家落人伝説を結びつけて伝承されてきたことがわかります。かつて『平家にあらざるものは人にあらず』と豪語した自分たちの悲しい運命を唄に託して歌い踊ったそうです。黒の紋付袴で白たすき、白足袋といういでたちで、一尺五寸の杣刀を差し、笠を持って踊ります。黒と白のシンプルな色づかい中に緋色の杣刀が浮き上がり、それらが作り出す色の対比が体や手足の動きをはっきりと映し出します。また、笠を回転させたり、上下に動かしたりする中に一瞬の静止を入れることで、静と動の対比を強調し、洗練された踊りとして目を奪います。早いテンポの中に哀調のある歌詞、勇壮で力と活気に満ちた踊り。麦や節の中にはさまざまな対比があり、それらが調和することによって、心地よい緊張感あふれる空間を作り出しています。」


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『麦屋節歌詞』

 麦や菜種は 二年で刈るが
 麻が刈らりょか 半土用に
 浪の屋島を 遠くのがれ来て
 薪こるてふ 深山辺に
 烏帽子狩衣 脱ぎうちすてて
 今は越路の 杣刀
 心淋しや 落ち行くみちは
 川の鳴瀬と 鹿の声
 川の鳴瀬に 布機たてて
 波に織らせて 岩に着しょう
 鮎は瀬につく 鳥は木に止まる
 人は情の 下に住む


         (出典)「世界の民謡・童謡」より。



2.月見おわらを見物

 ツアーガイドによると、舞台の見物が終わった後、八尾の町内で午後7時から9時まで、流し踊りがあるようだ。ガイドからもらった紙にその場所とスケジュールが書いてある。本番(9月1日から3日まで)のときには、ある町内の流し踊りを見るには、その町内まで行かなければならない。ところが、この月見おわらの催しでは、AゾーンからGゾーンまでに区切ってあって、同じ場所に居れば、30分ごとに4つの町内が踊りながら流してくれるそうだ。なるほど、これは便利だ。しかも、一般にカメラのフラッシュが禁止されている中で、Dゾーンだけは、それが許されるという。フラッシュを使わないとうまく撮れないから、認めてほしいという観客の要望を受けたものだそうだ。

 そこで、どこで撮ろうかと考えた末、Bゾーンに行ってみることにした。4つの町内が全部見られるし、坂の町の坂上から下りの方向なので、踊り手や唄い手がそれほど疲れないだろうと思ったからだ。写真を撮るためにはフラッシュがあった方が綺麗に撮れるが、ただこの越中おわら風の盆は、日が落ちてぼんぼりに灯がともったところで演じられるところに良さがある。フラッシュを使うと、そのせっかくの雰囲気が台無しになるからだ。もっとも、越中おわら節は、写真では全くといって良いほどその情緒が出ない。やはり、記録するにはビデオが一番なので、そうすると、あちこちからフラッシュが光ると、まともなビデオが撮れない。というわけで、Dゾーンに行くのは止めた。

 Bゾーンは、町の北東の諏訪町通りにある。そこで待っていると、鏡町、東新町、福島、今町の順で、町流しをしていただけるようだ。見物する場所を探す。石畳みの美しい道の両脇に、景観に配慮した柳格子の町家が並んでいる。その玄関先に入れてもらった。もう一列目は、既に見物客がズラリと並んで座っている。その後ろから立って撮ろうという算段だ。少しでも踊り手に光が当たるように、私の背中からぼんぼりの灯火が照射される位置で、しかも逆光にならないように、向かいにぼんぼりがないところに陣取るようにした。


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 胡弓の哀しげな音が響き渡り、いよいよ始まった。まず、笠を目深に被った男性達のキビキビした踊りがやって来る。時々、両手を拡げて斜めのスタイルになったり、あたかも田圃を耕すような所作が入るから、面白い。唄い手は、甲高い声で三味線と胡弓によく合っている。声が途切れると、太鼓の間奏が入ったり、年配の男性が「ア、ヨット」、「キタサノサ ドッコイサッサ」などの合いの手を入れて調子をとる。そういえば、ツアーの参加者の中には私に「もう、7回も来ているのですよ。特に、A町内のあの人の合いの手が好きです。」と言っていたが、ああ、これかと思い出す。その時は、「唄い手ではなく、合いの手が好きだとは、実に変わっている人だ。」と思った。ところが、こうして実際に聞いてみると、なるほど、歌舞伎で役者に声を掛けるときのように、絶妙なセンスが必要な役割だと感じたから、不思議なものである。

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 まず、カメラ(キヤノンEOS70D)のビデオで撮影した。胡弓と三味線の哀しげな音色、唄い手の切々と迫るような歌声、それに合いの手などの耳から得る情報、さらに踊り手の優雅の動きなどの目から得る情報は、ビデオでなければ、記録することは不可能だ。ビデオを撮りながら、目と耳で余韻を楽しむ。踊り手の女性の、優しげな手の動きがよい。傘を目深に被っているから、女性らしさが一層際立っている。そうこうしているうちに、第1陣の鏡町の一行が通り過ぎてしまった。あれあれ、これでは私のHPの「悠々人生」向けの写真が撮れない。というわけで、次の東新町の一行の踊りでは、主にカメラで写真を撮っていった。画像がぶれないようにしっかりと両脇を締めて撮るのだが、光量が全く足りないため、手を動かしているときには、その部分だけぶれる。でも、おわら踊りは、時々、動作を止める瞬間があるので、そういう時にある程度手先がぶれるのは仕方がないし、かえって踊っている最中だとわかる味わいのある写真となるから面白い。そういうことで、最後まで、おわらの町流しを観て、富山駅前のホテルに帰ってきた。部屋に戻ってからも、私の頭の中で、まだ胡弓の哀切あふれる音色が鳴り響いていた。








 月見おわら(写 真)





(2017年9月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:06 | - | - | - |
叔父さん達の思い出と軍歴

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 昨年の夏前、「父の思い出と軍歴」というエッセイで、私の父の軍歴証明書を本籍のある県に問い合わせて送ってもらい、父を偲ぶ「よすが」としたという趣旨のことを書いた。それから1年ほど経って、実家にあった、「古いアルバム写真のデジタル化」を進めていったが、その過程で、私の祖母や父、そして叔父さんと叔母さんの若き日の姿が収められた写真を拝見して、何とも懐かしい気持ちになった。私の祖父は、終戦後まで存命だったが、私が生まれる直前に亡くなったので、私自身はその顔を知らない。ところが、この写真の中では、元気な顔をして写っているので、まるで会ったような気がした。

 ところで、そのエッセイの中で、私はこう書いた。「父の2人の兄さん達は辛酸をなめた。5歳上の長兄は、私にとって誠に頼りになる叔父さんだったが、フィリピンに6年間も派遣され、最後は生と死の境を彷徨い、どうやら生還した。帰国してからも、時折マラリアの発作に苦しんだ。3歳上の次兄は、確かガダルカナルの戦いに参加したと聞く。ガダルカナルといえば、補給作戦が徹底的に妨げられた結果、武器弾薬どころか食糧が圧倒的に不足し、加えてマラリヤにも苦しめられて、将兵は骨と皮ばかりに痩せ細り、派遣された約3万人中、およそ5千人が戦闘で死亡、1万5千人が餓死又は病死し、帰還できたのは1万人だったと聞く。あまりにも餓死が多いので「餓島」とさえ言われたそうだ。そういうところから、叔父さんは何とか帰還することができた。とても温和な叔父さんだったが、そのときの無理がたたったのか、戦後十数年して急逝してしまった。」

 しかしながらこれは、亡くなった父から聞いたことで、叔父さんたちに確かめたわけではない。もっとも、確かめようにも、叔父さんたちも既に鬼籍に入っているから、直接聞くことはできない。さりとて、わざわざ私の従兄弟たちに聞くほどのことではないし、例え聞いたとしても、特に次兄叔父の方の従姉妹は、まだ小学生のときに父親が亡くなっているから、知らない可能性が高い。そういうことで、家系を把握するという意味では画竜点睛を欠くので長年気にはなっていたことではあるが、確かめようがないので、そのままにしておいた。

 ところがこのほど、解消する糸口を意外と簡単に見つけることができた。3親等以内の親族であれば、軍歴証明書を取り寄せられるというのである。叔父さんたちは、もちろん私の3親等に当たる。このお2人が召集されたのはいずれも陸軍であるから、父の軍歴証明書を交付してもらったのと同じ手続でよい。まず、県に対して電話で、叔父さんたちの名前と生年月日、召集時の本籍地を伝え、軍歴証明書があるかどうかを聞いた。すると、あるという。そこで、書類一式を揃えて、交付申請をした次第である。


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 県庁から届いた叔父さんたちの軍歴証明書を開いてみた。父のものと違って、びっしりと書いてある。まず、長兄叔父は、昭和14年12月に歩兵連隊の中隊に歩兵として入営し、大阪港から出発して青島に上陸した。そして、その辺りの警備についたとある。ところが翌年、安徽省での戦闘で左肩に盲管銃創という重傷を負ってしまった。「現認証明書」という書類が添付されていて、「昭和15年○月○日、安徽省○○附近に於て戦闘中敵弾に依り左肩○○に受傷したる事を現認す」とあり、中隊長と軍医が証明している。そういえば、父の残したアルバムに、白い傷病兵姿の叔父さんの写真があった。その年のうちに傷は完治したということになって、原隊復帰した。警備任務が多かったということは、身体がまだまだ本調子ではなくて辛かったと思うが、それから1年間、中原会戦を含む「支那事変勤務」としてそのまま中国に留め置かれた。そして、昭和16年末の太平洋戦争の開戦に伴って、翌昭和17年2月「南方派遣のため」として青島から出発した。

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 9日後に着いたのが、フィリピンのリンガエン湾にあるマビラオである。開戦直後に日本軍のフィリピン侵攻のM作戦で、この湾も上陸地点となって戦闘が行われたところである。初戦でクラーク飛行場の米軍航空戦力をあらかた破壊したことから、作戦は順調に進み、約1ヶ月後の昭和17年1月2日にはマニラが陥落した。ところが、米比軍はマニラ湾のバターン半島に立てこもり、強力に抵抗した。日本側は当初これほどの兵力を蓄えまた要塞化がされているとは予想もせず、1旅団を差し向けたが、全滅に近い大きな被害を被った。これが、第一次バターン攻略戦である。そこで、大本営は十分な兵力を集中させて一気に攻略する計画を立て、中支、香港からの応援部隊を加えて第二次バターン攻略を目指すことになった。だから長兄叔父は、その中支からの応援部隊の一員だったのである。それが4月に一段落した後、同17年中は、北部のルソン島、中部のビサヤ諸島の平定作戦に参加した。

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 それから、「転進のため」ということで再び船に乗せられ、昭和17年12月にマニラ港を出発して、仏領印度支那のサイゴン(現在のホーチミン)港に上陸し、更にハノイの近辺にあるハイフォンに到着した。次いで中越国境の地ラオガイに着いて、同地付近を警備した。昭和18年のお正月は、この地で迎えた。そのままラオガイ省にいて、昭和19年11月から翌20年1月まで中越国境を通過して、中国で展開された一号作戦に参加した。この作戦は、日本本土の爆撃に使われる中国国内の米軍航空基地を攻撃するとともに、物資輸送のために華北、華南、仏領インドシナを通貫するルートを確保しようというものである。しかし、長兄叔父が参加したのは、もはやそれが終わりかけの1ヶ月ほどのものである。その後、20年3月から5月にかけての明号作戦、つまりそれまで共同統治の相手方だったヴィシー・フランス軍を日本軍が攻撃して単独統治にした事件に参加した。それが終わってから、ハノイで警備任務に着き、8月15日の終戦はそこで迎えた。翌21年4月に帰還のためハノイ港から乗船して、3週間かけて浦賀港に上陸したとある。6年余にわたる辛かった兵隊生活が、これでやっと終わった。

 私の知っている長兄叔父は、実に温和で優しい人だった。私や妹の結婚式では、親族を代表して、心温まる挨拶をしていただいて、非常に有り難かった。父と仲が良く、いずれも銀行を退職してからは、お互い近くに住んで、共通の趣味の釣りによく行っていたものである。その人が、こんな大変な戦争体験をしていたとは想像もしなかった。この叔父さんは、銀行を退職後、自分の会社を立ち上げてそれを立派な会社に育て上げ、それを息子に譲って、引退した。それから悠々自適の生活を楽しんだ後、70歳代で亡くなった。


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 さて、次兄叔父の従軍期間は約4年余と、長兄叔父に比べれば約半分である。ところが、行き先は、聞いていた通りガタルカナルと、そしてラバウルである。戦車兵として、昭和17年1月に入営した。するとすぐに、胸膜炎になって、入院してしまった。それが秋に治癒して10月に復帰した。翌18年1月、宇品港から出発して南洋群島コロル島パラオに到着し、次いでビスマルク群島ニューブリテン島ラバウル港上陸して戦車隊に入り、そこでココボ付近警備と軍主力ガタルカナル島作戦業務に従事した。ちょうどこの昭和18年2月は、ガダルカナル島で米軍と鍔迫り合いを演じていた日本軍の敗退が確定的になり、命令によって同島から日本軍兵士が撤退した時期である。所属した軍団が壊滅したりしたせいか、次兄叔父の所属と任務についての記録もめまぐるしく変わっている。「3月○日中隊主力ココボ附近上陸終結復帰。第17軍の隷下を脱し第8方面軍の隷下に入らしめる。5月○日軍令陸甲第○號により現地復帰下令。同31日復帰完結。同日戦車第○連隊に編入。同日第港中隊に編入。同日ラバウル附近の警備」とある。ともあれ、何とか生き残って再びラバウルに戻ることができた。

 それ以降の記録は、「昭和18年5月より10月まで第一次ビスマルク戦に参加。11月より昭和19年3月まで第二次ビスマルク戦に参加。編成替えを経て昭和19年3月より10月まで第三次ビスマルク戦に参加。11月より昭和20年4月まで第四次ビスマルク戦に参加。同年4月より8月まで第五次ビスマルク戦に参加」とある。その間に、兵精勤章を2度もらっている。ところで、この「ビスマルク戦」とは、一体、何だろう。その頃、近くで行われたビスマルク海戦のこのことかと思ったが、そうではないようだ。ガダルカナル島が米豪軍の手に落ち、次に来るのはニューブリテン島の日本軍のラバウルかと思われた。ところが戦況の悪化で、補給がままならない。そこで第8方面軍は、戦闘力の保持と食糧の確保のため、陣地の構築や食糧の生産を進めたそうで、それを称してビスマルク戦と言ったそうである。

 一方、米軍はガダルカナルを落とした後、手強い抵抗が予想されたラバウルを避けて、いわば飛び石のように島を伝って北上し、フィリピンや日本本土を目指したため、これ以降、ラバウルが巻き込まれた大きな戦闘はなかった。そのようなわけで、昭和20年8月15日の終戦時には、ラバウルには6万9000人の将兵がいたという。次兄叔父もその一人で、昭和21年4月にラバウルを出発し、わずか10日間で名古屋港に到着している。帰国の時期は長兄叔父とほぼ同じだったので、海外に派兵された2人の子供が無事に帰ってきた両親の喜びはいかばかりだったか思うと、胸が熱くなる。ちなみに私の父は国内に留まっていたので、こちらも無事だった。あの戦争の時代に、3人の男の子を持って、いずれも命を永らえて帰ってくるというのは、あるいは珍しいことだったかもしれない。終戦時の長兄叔父は軍曹、次兄叔父は伍長だったから、それなりに務めを果たしたのだと思う。

 次兄叔父が一時送られたガダルカナル島では、昼夜を分かたず米豪軍の砲撃がある一方で、日本軍の兵站が全く届かず兵士は常に飢餓状態に置かれたそうだ。昭和18年2月の撤退時には、送られた兵員31,358名に対して、撤退できたのは10,665名と言われている。撤退できなかった兵員のうち、戦闘による死亡は約5,000名、餓死や病死が約15,000名とされている(NHK「ガタルカナル島 学ばざる軍隊」平成12年)。そのような惨状にあって、よく生き残ったものだと思う。ただ、残念なことに、そのときの無理がたたったのか、次兄叔父は、戦後十数年して奥さんと1人の女の子を残して急逝してしまった。心臓麻痺だったと聞いているが、誠に残念なことである。亡くなられたとき、私は確か小学校6年生で、私のいとこであるその女の子は4年生だったように記憶している。亡くなる前は、家族ぐるみでよく行き来したものだった。優しい叔父さんという印象が残っている。その人が、結局のところ、この戦争の犠牲になった。つくづく、戦争とは罪作りなものだと思う。




(2017年9月18日記)


カテゴリ:エッセイ | 16:20 | - | - | - |
国内の別荘より海外のホテル

ランカウイ島


 私より10歳ほど年上の世代の人達は、かなりの人が別荘を持っている。八ヶ岳、軽井沢、蓼科、伊東などが多い。そして、仲間内で、楽しそうに別荘ライフの話をする。それは良いのだが、別荘でどういう過ごし方をしているのかというと、例えば週末に3日滞在するとして、何と最初の日は、あちこち掃除したり、庭の雑草をとったり、買い出しなどをする雑事に追われて、やっと落ち着いて暮らすのは翌日からだそうだ。また、それが冬場だと、零下20度で氷柱が下がっているというし、その中でストーブを焚いても、建物が芯から冷え切っているのでなかなか温まらないので寒くてたまらないというし、夏は蚊の大群に襲われるしで、大変なご苦労をされているようだ。そういう一等地にある別荘の価格は、少なくとも3000万円はするだろうが、それだけのお金をかけて、自らが掃除人、管理人のお仕事をし、はたまた冬場に建物が温まるまで寒い思いをしたり、夏は蚊にくわれたりするというのは、私に言わせれば酔狂というか、何とも馬鹿馬鹿しい限りである。

 しかしながら、私の世代になると、別荘を持っているのは大学時代の仲間では25人に1人くらいで、非常に少ない。私と同じように考えるのか、それともお金がないのかわからないが・・・たぶんその両方なのだろうけれど・・・ともかく少ないのである。その僅か1人の別荘所有者に招かれた友人の話によると、その所有者は「いやもう、これが建って15年も経つからあちこちにガタが来てね、今月はペンキの塗り替えとベランダの床の張り替えで大変だったよ。」と、嬉しそうに言ったそうだ。それを聞いて友人は、「日曜大工どころか、家の家具を動かすことすら面倒な自分には、別荘なんかお金があっても絶対に持ちたくない。」と、私と同じような感想をもったそうだ。

 別荘の代わりに、いわゆるリゾートクラブに入っていて、箱根、下田、蒲郡などに出掛けるというスタイルの人が少々いる。また、近頃は貸別荘ということで、夏の一定期間だけ本物の誰かの別荘を借りるということもできるそうだ。私は、こうしたやり方は、非常に合理的だと思っている。良いクラブなら全国各地の景勝地にあるし、そもそも会員制とはいっても普通のホテルだから、自分が掃除人になる必要はなくて、ホテルの人たちがやってくれるからだ。貸別荘も好きな場所を選択できるという意味では同様だ。しかし、残念ながら、私にはこうしたスタイルはとりえない。およそどのホテルも僻地のリゾートにあるから、車がないと行きにくいのである。私は、職業柄、車で事故を起こすとよろしくないので、この20年あまり運転しないことにしているから、自家用車を持っていない。東京にいる限り、通勤時はオフィスの車が迎えに来てくれるから、それで何の痛痒も感じないのだが、週末に田舎に行こうとするときには、困ってしまうというわけだ。

 それで、私は、のんびりするために、海外のリゾートに行くことにしている。成田空港も羽田空港も、私の自宅から1時間以内で行ける距離にあるから、どちらの空港に行くにしても電車にサッと乗って着くから便利である。それに加えて、例えば東南アジアに行くには、エコノミークラスなら1人あたり往復高々5万円から6万円の航空機代を払えば、大抵のところは7時間ほどで着く。渡航先では、5つ星ホテルに泊まることにしている。もちろん、そういうホテルの部屋は非常に広くて、設備はこの上なくゴージャスそのものである。日頃は都心の狭いマンション住まいだから、感激する。コンシェルジュをはじめとするスタッフは親切でよく訓練されていて、打てば響くほどだ。馴染みになったら私の好みや何やらを良く覚えてくれていて、非常に気持ちよく過ごせる。加えて、食事がとっても美味しい。それで1泊いくらかというと、もちろん国、都市、ホテルにもよるが、日本のビジネスホテル並みの1万5000円から2万円も出せば非常に良いホテルがあるし、しかもその値段で2人まで泊まれる。ところが日本だと、これと同じようなホテルは、たぶん1泊6万円以上はするだろうし、しかも人数分の料金が発生することも多い。

 ハワイも、リゾートとしては美しくて安全で清潔だから滞在を楽しめるが、いかんせん料金が高くて、数年前に行ったときにはワイキキビーチの老舗ホテルが、3泊で24万円もした。しかも、部屋はオーシャンビューではあるものの、値段の割には設備が古くて貧弱で、あまつさえ部屋やベッドが狭くてがっかりした。そういう面から比べると、東南アジアのホテルのお得感は相当なものである。英語さえできれば、まるで王侯貴族と言うと言い過ぎかもしれないが、掛け値なくそれに近い生活が出来る。ただ、私は、英語以外の言葉といえば、マレー・インドネシア語が多少できる程度なので、タイ、ベトナムなどに行くと、街中で会話を楽しめない。だから、一般の人でも英語がある程度話せるシンガポールとマレーシアに、どうしても引き寄せられるように行ってしまうということになる。これらの国は、超近代的都市と熱帯のリゾート、それに美味しい中華料理があるし、友達も住んでいるから、何かと安心である。なお、一般の人にもそれなりに英語が通じる国という意味ではフィリピンもあるが、最近は物騒だと聞くだけでなく、そもそも土地勘がないし国民性もよくわからないので、かなり昔に一度行ったきりで、再訪しようという気がどうも起こらない。

 次に日本旅館と東南アジアのホテルの食事を比較してみよう、最近は日本旅館でも、1人あたり6万円から10万円近くとるところがある。夕食と朝食付きではあるが、そういうところに限って、豪華という名の無駄な食事がいっぱい出て、食べたくないのに無理に胃袋に詰め込むという仕儀となる。こういうスタイルは、一泊旅行の宴会の名残りなのだろうか。国際標準とは、程遠い気がする。特に私はダイエットをしているということもあって、何をどれだけ食べるかというのは、自分でコントロールしたいので、これではかえって困るのだ。

 その点、東南アジアの特にシンガポールとマレーシアでは、中華料理がともかく美味しい。それも、広東、福建、北京、四川、海南、客家など、バラエティに富んでいるものが味わえる。しかも、量は自分でいかようにでも調節できる。とくに飲茶(やむちゃ)は、好きなものを少しずつ食べられて、選ぶ過程から始まって口に入れるまで幸福感がある。それに、季節になると、私の好物のドリアンという果物の王様が街中で売られている。これを食べに行くだけでも、とてつもなく幸せだ。そのほか、ドラゴンフルーツ、スターフルーツ、マンゴスチン、パパイヤ、マンゴー、ジャックフルーツなど、色々なフルーツがあって、日系のイオンなどの総合スーパーで安全に清潔でしかも安く買える。

 もちろん、海外のどこに興味をそそられるかというと、本当はボストンやニューヨークなど馴染みのアメリカの大都会に行きたいところである。文化的な満足度は非常に高いからだ。だからこういう地域なら、費用は多少かかっても、行く価値は十分にあると思っている。しかしながら、東方に飛ぶと時差がきつくてたまらないから、旅行の期間としては少なくとも10日くらいはほしい。だけど今の仕事では、残念ながらその余裕がない。そういうことで、3年前は時差の問題が少ないヨーロッパに行って各国の文化を満喫したが、最近は大都市でテロが続いているから、もはやあまり行く気がしない。一昨年はオーストラリアに行ったが、現地の印象はアメリカ西海岸とほとんど変わらないので、オセアニアはもう結構だ。そういうことで、行き先としては、ついつい引き寄せられるように、東南アジアを選んでしまうのである。時差は1時間か2時間だし、前述のように飛行機に7時間余りも乗っていれば着いてしまうから便利だ。

 もう少し若い頃は、マレーシアの場合だと、ティオマン島のような熱帯の海に潜るのが大好きだった。海中に色とりどりの熱帯魚が泳いでいて、それを直接見るのが、何といっても楽しい。ただ、着ているシャツの上から日焼けするほどの強い日光には参ってしまうが、それを除けば、青い空、白い入道雲、緑に椰子の木々、真っ白な砂浜、どこまでも赤く広がる日没など、どれをとっても、この世の楽園だと思ったものである。現在では、ランカウイ島(冒頭の写真)、パンコール島などで、そういった熱帯の海を味わえる。

 ただ、それから歳をとって現在に至ると、熱帯のリゾートに行ってもかつてのように連日、海に潜って熱帯魚を見るというようなことはしない。たとえしたとしても、一滞在当たりほんの数回で、あとは、のんびりと海や砂浜を眺めながら本を読み、iPadを眺めて駄文を書いて過ごしている。海外でもWifiがある限り、国内にいるのと同様に新聞は読めるし、銀行取引はできるし、しようと思えば株取引だってできる。そして、気が向けば写真を撮りに行くという過ごし方をする。

 そのほか最近の関心は、都市に滞在して歴史と異文化に触れることである。海峡植民地だった頃のペナン島、マラッカ海峡のマラッカ、シンガポールなどは、本当に良かった。特に前二者は、最近、世界遺産に登録されたことをきっかけに整備されてきたからこそ、私のような外国人観光客でも、系統的に理解しながら簡単に回ることができるようになった。とりわけ、こういう地域の中国人の祖先は、食うや食わずといった苦しい状態にあった17世紀から19世紀にかけて次々に祖国を後にし、艱難辛苦の末に現在のような子孫繁栄の礎を築いた。その過程を想像するにつけ、心から同情するとともに、自分の通ってきた道と重ね合わせて、感慨にひたることができる。

 その一方、シンガポールはまた独自の発展を遂げている。これは、豪腕の故リー・クアンユー首相が、古き良き時代の建物や街並みを全てリシャッフルして、超近代的な箱庭都市を作り上げてしまったからである。あんな強引なことをしてよいのかと思うほどだった。30年近く前のことだが、あるとき、シンガポールのシャングリラ・ホテルでテレビのニュースを見ていると、ブルドーザーが轟音を立てて古い中国人街の町並みを取り壊している。そのすぐ横では、中国の民族服を着たお婆さんが、まさに壊されつつあるその住宅兼店舗の柱にしがみついて、何か叫んでいる。その画面に流れてきたテロップを読んで、びっくりした。それには、「再開発に頑強に抵抗する老婆」とあったからである。「いくらなんでも、これはひどい。本当に可哀想なことをする。このお婆さん、家族や先祖の思い出のあるこの店と家が壊されるのが忍びなかったのだろう。」と、いたく同情をしたものだが、その一方、「早い話、上野から京成電車に乗って成田空港に向かう途中、近代的なスカイライナー電車が走るその両脇には、線路に倒れてくるのではないかと思うくらいにびっしりと木造住宅が立ち並んである。これこそ、アジアを感じさせる混沌とした市街地だ。仮にこれを一掃しようとすれば、これくらいの強権的な権力を行使しないと、こんな近代的な街並みは実現しないのか。日本ではまず絶対に無理だな。」と、日本の現状について、妙に納得してしまった。

 ともあれ、出来上がったシンガポールの、まるで豊洲やお台場のような近未来の街並みは、確かに旅行者のみならず、優遇税制も相まって世界の金持ちを引き付けてやまない。その一方、現地に滞在すると、正直なところ、監視付きで住んでいるような居心地の悪さを感じないわけではないが、安全で清潔で、全てにつき合理的で効率的なところは世界一であることは確かだ。その代わり、ペナンやマラッカのような歴史や文化や(良い意味での)アジア的猥雑さを感じさせるところに欠けるというのが私の唯一のマイナスのコメントであるが、一人当たりGDPが世界10位という経済力からすれば(日本は22位)、そんなことは小さな問題かもしれない。いずれにせよ、中心部から30分以内に世界一流のビジネス街、ホテル街、カジノ、熱帯リゾート(セントサ島)が並んでいるという国は、他にまずないだろう。

 そういうことで、私の別荘は、それこそ世界中にあるというつもりで、関心と興味のおもむくまま訪れて、そこでの滞在を楽しんでいる。滞在先では、写真を撮り、現地の新聞を読み、人の話を聞き、食べ歩き、観光地を訪ね、こうして備忘録のようなエッセイを残すことにしている。この夏も、東南アジアに行ってきた。大変によかった。寿命が数年伸びたような気がする。




(2017年9月11日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:05 | - | - | - |
駐在員奥様レポート

クアラルンプールの現代の市場


 昔の資料を整理していると、思いがけない宝物が見つかることがある。先日は、私が東南アジアの国で駐在員をしていたときに、家内が「奥様レポート」と題して、いわゆる社内報に掲載した文章が出てきた。2人で読み進むうちに、若さに任せてひたむきに生きていた当時のことを思い浮かべて、懐かしくなるやら、何とも切なくなるやらで、非常に感慨深いものがあった。改めて、家族思いの家内に感謝しつつ、その勇気ある微笑ましい冒険を記念して、ほぼ同じ文章をここに掲げておくことにしたい。なお、ここに掲げた市場の写真は最近のものであるが、もはや近代化がかなり進んでしまって、家内が買物をしていた35年前の頃のプリミティブな時代の名残りは、残念ながらほとんど感じられなくなっている。

クアラルンプールの現代の市場






   「奥様レポート」


 洋の東西を問わず、買物は育児とともに主婦の大事な仕事です。そして、買物のコツは、要するに「新鮮」で、「質のよい」そしてなるべく「安い」ものを手に入れることだと思います。

 この国の首都である当地は、「豊かな木々の緑の中にしゃれた建物が立ち並ぶ近代的な都市」というのが日本からの旅行者の方が異口同音にいわれる感想です。外国人が日常の食卓を飾る買物をするには、すばらしいショッピング・センターの地階に政府直営のスーパー・マーケットがあり、少なくとも種類の豊富さという点では日本の地方都市のスーパーにもひけをとりません。また、最近では日本のスーパーが進出をしはじめており、おかげで日本食品で手に入らないものはないほど恵まれています。

 冷房のきいた部屋で「きれいに」買物するには、スーパーほど便利なものはありません。しかし、生鮮食品を買おうとしますと、質はともかく、新鮮さでは及第点をつけかねます。値段にいたっては完全に落第です。でも外国人の主婦にとっては、少なくとも母国並みの環境で言葉もほとんど使わずに買物をすますことができるのは、非常にありがたいといえましょう。そこで、私ども外国人の主婦の中でもこのようなスーパーだけで買物をすますという人達もいます。しかし、私のように、これだけではあきたらず、特に生鮮食品について、新鮮さを求めて、地元の伝統的な青空市場に出かけて買物をするという人達もいます。そこで以下では、このローカルの典型的な市場にご案内したいと思います。

 当地では大小様々な青空市場がありますが、その大半が中国人(全人口の35%)によって運営されているといっても言いすぎではありません。 毎朝たつ店の数、品物の量、そして繰り出す買物客を見るにつけ、中国人の食に対する意欲には並み並みならぬものがあり、それがいつも市場に活気を与えているのです。

 まだ暗い明け方から、ぼつぼつ店が開きはじめます。店といっても俄か作りの屋台のような「露店」で、小型トラック、バイク、自転車やリヤカーなど思い思いのものを使って、どこからともなく荷物を引っ張ってきては適当なところに開店します。とはいえ、よく注意してみると同じ人は大体同一の場所に陣どっています。

 露店は、八百屋、魚屋、豚肉屋、鶏屋をはじめ豆腐屋、卵屋、焼豚屋、果物屋などの食料品店や、花屋、布地屋、靴屋、玩具屋、衣料品店、雑貨商などさまざまで、これだけでも約200店はあるでしょう。これらの青空露店は、中心となる一棟の建物(市場の原型で中に70店ほど入居)の周辺の広場のような道路をすきまなく埋めています。

 さて、いつものように、朝、主人と子供を送り出した後、車で10分ほど走り、駐車場に車をとめて、汚れてもよい服装と靴で道に降り立ちます。市場に近づくにつれ、あたり一面にただよう異臭に鼻が驚きます。周囲の店に並んでいる豚の頭、耳、爪のついた手足からはじまって、羽をむしられた鶏、皮をはがされた蛙などを横目で見つつ、店と人垣の間を縫って進んでいきます。そろそろ鼻も多少のことでは感じなくなります。今日はどの店に新鮮なものがあるかと一軒ごとに覗きつつ、外れの方まで一通り見ながら歩いて行きます。

 当地の食べ物には果物以外には季節がなく、年がら年中、同じものが出ています。加えて、種類に乏しいので、いつもながら同じものを買うことになります。でも、多少は旬の時期があるようで、きゅうり一本でも美味しいものに巡り合うと、その日の夕食には家族の誰かが必ず気がつきます。おかげで気がぬけません。

 青空市場の常識として、もともと正札というものはなく、また店どうしの協定価格のようなものはないので、買いたい人が売り手の言い値をなるべく値切って買うことになります。この「小さな商談」の時、決してあわててはいけません。特に、英語で聞くと、外国人であることがすぐにわかり、高い値をふっかけてきます。そこで恥ずかしがらずに中国語で「いくら」と聞いてみます。よかった、通じました。これは買物に来るたびに中国人の買物客の会話を注意して聞いて何とか習得したものです。もちろん、お金の数え方も大事です。複雑でわからないと、親しくなった八百屋の気のいいおばさんに確かめてみます。発音を直してくれました。ありがとうおばさん。にやにやしています。今日はなるべくここで野菜を買うことに決めました。

 さて、魚屋を覗いてみましょう。名前も知らないような魚がいくつも並んでいます。ところが、店の人は魚の名前を尋ねても知らないことが多く、要領を得ません。仕方なく、じっくり魚を観察して「イトヨリかな」などと考えます。もっとも私としても魚の知識は貧弱ですから、最終的には目をつぶって買うことになります。もし失敗して変な魚を買ってきても大丈夫。自宅のワンちゃんが綺麗に平らげてくれます。

 魚の売り方としては、日本の魚屋さんのように切り身はほとんどなく、あってもたとえば直径20センチ、長さ70センチほどもある魚を大胆に丸切りするだけです。日本人がよく立ち寄る店では魚を料理しやすいよう捌いてくれますが、随分と高いようです。日本人は高くとも言い値で買ってしまうことを、店の人はよく知っているのでしょう。しかし私は、見よう見まねとはいえ簡単な中国語を話し、あろうことか顔も非常に似ているとのことで、当地の中国人から見ると間違いなく私も中国人なのだそうです。それはどちらでもいいのですが、おかげで私の場合、「外国人価格」に悩まされずに同じ品物を買うことができます。また、買い方としては、日本と違ってその店の信用で買うという習慣はないので、どの店であろうと自分の目で見て品物の鮮度と値段だけで判断し最も良いものを見つけ出して買うことになります。このような買い方は時間もかかり最初は不安感も手伝って面倒でしたが、慣れるとこれが買物の原点ではないかと、かえって楽しみになってきました。

 30分ほど市場の中をうろうろしていますと、そろそろ荷物が重く、肩もこってきました。とにかく駐車場にいったん引き上げ、また出直してきましょう。腕も疲れ汗がふき出してきましたが、もう一度市場へ、二回戦です。

 冷気の効いたスーパーのことを考えれば、青空市場で時間をかけ汗もかいて苦労して買うのは何か滑稽な感じもします。でも、家族に新鮮で美味しいものを食べてもらいたい、できれば家計の足しにもなるのかな、いや私もこんな買物を楽しみにしているのかな、などと考えながら、今朝も青空市場に向けて車を走らせる私です。




(2017年9月 9日記)


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