尾道と福山への旅

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 尾道と福山への旅( 写 真 )


 たまたま、尾道を訪れる1週間ほど前、「ブラタモリ」というNHKテレビ番組で、この町が取り上げられていた。この地は山に奇岩があったため、中世の頃から修験道の地として有名で、そのため寺社の町として発展してきたそうだ。それが近世になって瀬戸内海の交易の要衝として栄え、そのとき土地が足りないものだから、南北に平行して並ぶ三つの半島の間を埋め立てて土地を造成し、今の町の形ができたという。それが鉄道の時代になって、人口が稠密な海岸地区から少し山寄りの土地に線路を引いたものだから、山の上にある寺社へと続く一本道の参道が線路で途切れる形になった由。また、この町は大戦中の空襲で壊滅するということもなかったので、戦前の街並みがそのまま残り、その点でも珍しいという。

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 さあ、町歩きをしようと駅に着いた。尾道は、その歴史からわかるように、それこそ中世以来の迷路のような入り組んだ道が続く町である。最初のプランは「尾道駅より15分ほど歩けばロープウェイの駅に着くから、そこから乗って千光寺に行けばよい、帰りは下りなので楽だ」・・・と思って歩き始めた。ところが、何しろ路地の先がどうなっているのか、歩いてそこに行ってみないとさっぱりわからない。そういう中、「古寺巡りコース」という案内の石柱が目に入り、そちらの方がわかりやすい。それを辿っていくと、千光寺に行き着けると思ったのが苦難の始まりだった。まるで普通の民家の台所の裏のような路地を抜けて、すれ違うのも難しいような裏道を通り、それこそ中世に築かれたのでは思うくらいの苔むした石垣を見上げながら、ともかく前進していった。猫もいて悠然と歩いているのに対し、こちらは急坂の連続で、へとへとになる。途中、民家の玄関先にこんな詩が書かれていた。

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     旅する人へ

   おのみちを歩いてごらん
   千光寺山を古家が這い上がる道を
   海から風も登ってくる
   汐の香を撒きながらあなたへご馳走
   坂道をさ迷うとき
   やさしく迎える山寺のみ仏
   どこへゆくのかこの道
   どこまで続くのかこの道
   ほそい道はだまって登ったり下ったり
   そのたびに青い海がきらりと顔をのぞかせて
   行き手をふさぐ巨石が遠い祖先の顔をしてあなたに話す
   ここでは時も同じ速さで過ぎはしない
   山ふところが□□□て誰か呼ぶ声
   人生の過ぎゆく□旅ゆく人よ
   さびしい時は孤独を連れて
   花咲く春は愛するひとと帰っておいでよ旅人よ
   千年の昔からみほとけ達の膝に住むふるさと    おのみちへ

 とっても、心温まる詩だ。惜しむらくは、最後の署名が薄れて読めない。でも、いかにも尾道らしく、その町の特徴、伝統、み仏への信仰の深さ、そしておもてなしの気風がよくわかる。この詩に出会えただけでも、ここまで歩いてきた甲斐があったというものだ。肩に力が入っていたので、これを読んで少し気が楽になり、落ち着いた。さらに先を目指して登りに登り、やっとのことで、千光寺に着いた。上から今にも落ちてきそうな大きな岩の脇を抜けて、本堂にお参りしたついでに、そこの売店のおばさんと立ち話をする。「先週土曜日にブラタモリでやっていた内容だけど、あの大岩の上にあるのがその輝く石ですか。昔々それが外国人によってえぐりとられてなくなったというのは、本当ですか」と聞くと、「自分が中学生のときに、私がその外国人役をやったから、そういう言い伝えがあるのは、本当です。」という。このやり取りの最中、可愛いお地蔵さんのような像が目に入ったので、記念にそれを買い求めた。


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 さて、そこからさらに上に位置する千光寺公園まですぐだろうと思って登って行ったが、坂がきつくなるし、歩くのは容易でなかったが、何とかロープウェイの山上駅に着いた。そこからほど近い展望台に上がって見る尾道海峡の美しさといったらない。まるでパノラマ写真のように広がっていて、視界の左手には尾道大橋、真ん中には向島、右手には因島や生口島がある。しばらく眺め、写真を撮って風景を堪能した。ついでに、山登りが過ぎて膝にきてしまったので、ソフトクリームを買い求め、そこで一服した。八朔と蜜柑の味だ。なかなか良い味だ。この風景の中だから、ますます美味しい。

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 少し休んだので、下って降りる気になった。まずは三重塔のある天寧寺だ。細い道を辿って行き、やっと着いた。この三重塔は、室町時代のものだという。あちこちが傷んでいるが、修理が追いつかないのかもしれない。その脇に、鯉のぼりが見える。はて、もう季節は終わったのにと思ってその方向に向かうと、ああ、これが猫の小道かと納得した。それらしきお店があるし、確かに猫もいて、堂々と振舞っている。それにしても、この狭い道と苔むした石垣は、相当な古さだ。戦前の日本の家屋は、これくらいの近さで建っていたのだろう。その狭い道の上に鯉のぼりを掲げているから、ますます狭く見えるが、不思議なことに、どことなく調和している。艮(うしとら)神社というところに出た。境内に御神木の大きな楠がある。見たことがないほど大きくて美しく、立派な木である。驚いたことに、その神社の真上に千光寺ロープウェイが通っている。

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 さて、千光寺ロープウェイに乗って下へ降りてきた。鉄道の線路をくぐって、やっと海岸の平坦な地区に行き、商店街の中を歩くことになった。通行人が多く行き交っているので、もちろんシャッター通りではない。その中を歩いて見て回った。気の利いたレストランがあればなと思ったが、なかなか見つからない。そこで、町の食堂のようなところに入った。焼肉コロッケ定食を頼む。私はダイエット中なので、ご飯は半分でと特にお願いしたのだが、ソースの香りをプンプンさせて運ばれてきたものを見ると、半分どころか全く普通の量だ。思わず隣の人の食べているのを見たら、ご飯はまるでどんぶりメシのようだった。これが標準のボリュームらしい。店の中は、活気がある。九州から来たグループは、九州弁で大声で話している。聞くとなしに聞いていると、同じ九州でも、博多弁、大分弁、鹿児島弁、宮崎弁と、方言の違いが面白いと盛り上がりを見せている。そこへ地元の尾道弁が絡んできて、収まりがつかなくなっている。もう、笑い話だ。

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 お腹がいっぱいになり、その店を出て、「おのみち映画資料館」に入った。期待通り、小津安二郎監督と原節子の作品についての解説が多い。私の両親の若い頃が、こういう日本映画の全盛期の時代に当たる。私自身は30歳の半ば以降になって、当時中学生だった子供たちとともに東京物語、羅生門、影武者、近松物語、大阪物語、めし、驟雨、破れ太鼓、喜びも悲しみも幾歳月などを鑑賞したから、それぞれの物語のストーリー自体は知っている。しかし、こういう名画は、その人の感受性が最も豊かな青春時代に見ると、一番感動するものだと思うので、その点はいささか残念である。ちょうど、現在は50歳代半ば頃の人が、懐かしそうに「ガンダム」について語るのに、私には全く何のことかわからない。それと同じである。ところで、その後の日本映画は、苦難の道を歩む。怪獣もの、ヤクザもの、ポルノものが出るに連れて、堕落してしまった。それから長い期間を経て、宮崎駿監督のジブリシリーズが現れるまで、観に行く気もしなかった。

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 その映画資料館で、懐かしいスターたちのポスター見て回った。それから、その姉妹館のような、おのみち歴史博物館に行ってみた。この建物は、かつては尾道銀行本店だったそうで、中に入ると造り付けの金庫(熊平製作所製)があるので、面白い。ただ、展示自体は期待外れで、何もないに等しい。

 その頃、尾道の急坂での上り下りの無理がたたったか、どこかで休みたくなった。海岸通りに出たら、ちょうど停留所があって、レトロバスが来た。それに乗り込んで、ホテルへと戻った。身体中が痛いので、バスタブにぬる目のお湯を張って、そこでしばらく筋肉をほぐした。普段使わないところが痛い。かなり無理をしたようだ。風呂から上がって、眠たくなって、1時間半ほど寝てしまった。


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 起き上がってみると、午後6時半をすぎている。お腹が空いたので、しっかり食べようと思って、ホテルのフロントにレストランマップをもらって出たが、尾道ラーメンから始まって何から何まであらゆる飲食店が書いてあるから、何の役にも立たない。仕方がないので、海岸沿いに汐の香りを感じながら歩いていると、大きなビルの2階に、ちゃんとしたレストランがある。ステーキ屋さんだ。美味しそうなので、そこに入って200gのステーキを注文した。運ばれてきて、一口、味わったところ、とても美味しい。1日の疲れが一気に取れるようだ。

 1人で黙々とナイフとスプーンを動かしていると、隣の4人席にバラバラと60歳代前後のご婦人方が集まってきた。そして、今度、外国旅行に行くだの、レジャーボートを持っていてあちこちに釣りに行くだのと、まあ景気の良い話ばかりをしている。地元で自営業をされていて、その裕福なお仲間のようだ。この地でも、裕福な人は、それなりの暮らしをされている。若い人たちは、どうなのだろうかと思いつつ、それから、夜の港の写真を少し撮ってホテルに帰ったが、昼間は何の変哲もない向島のクレーンが、色彩豊かにライトアップされているのを見て、なかなか洒落ていると思った。


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 なお、JR尾道駅の真後に当たる丘の上に、お城らしきものが見える。確か、尾道は商都であって、お城などなかったはずなのにと思ってホテルの人に聞くと、「観光施設として作られたのですが、今は閉鎖されて外構だけがあのように残っています。」とのこと。要は、ハリボテだそうだ。確かに、ロープウェイでもない限り、あのような丘の上に歩いていくのは、大変だから、行く人はすくなかったのだろうと思う。

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 翌日、尾道から新幹線の駅がある福山に行く。新尾道という新幹線の駅があるのだが、尾道駅からは離れているので、それくらいなら岡山に近い福山に行った方が早いと思ったわけである。それに、福山駅のすぐ北に、福山城公園があり、そこに立ち寄ってみたかった。福山城のHPによると、「福山城は徳川幕府から西国鎮護の拠点として,譜代大名水野勝成が元和5年(1619年)備後10万石の領主として入府し元和8年(1622年)に完成した城で、江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられていました。また伏見櫓は築城の際に、京都伏見城の『松の丸東やぐら』であった遺構を徳川秀忠が移建させたもので白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風が伺えます。歴代の藩主は、水野家5代、松平家1代、阿部家10代と続き廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心でした。明治6年(1873年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊され,更に昭和20年(1945年)8月の空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失することとなります。その後昭和41年(1966年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として藩主の書画・甲冑など展示しています。」

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 こちらも、戦争のために国宝のお城が失われ、その後になってコンクリート製でお城が復元されたようだ。名古屋城と同じ運命をたどったというわけである。そのコンクリート製のお城に入ると、数々の甲冑が飾られている。その一つ一つを見ていると、最後には、あまりにも生々しく感じられた。そこを抜けて、さらに上階に上がろうとすると、前日の尾道で痛めた身体の筋肉が悲鳴を上げた。そこで、ゆっくりと登っていくことにした。福山城の天守閣に着いた。

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 天守閣からは、さすがに眺めが良い。目の前を左右に新幹線が通る。お城の周りには緑が多い。あれあれ、西の方角に、西洋のゴシック建築の大きなカセードラル(礼拝堂)がある。こんなの、あったのかと不思議に思う。ところが、これは礼拝堂でも何でもなく、単なる結婚式場であることが判明した。尾道駅のお城といい、まがい物でも良しとする文化があるのだろうか?その後、お城の周りを一周して再び駅前に戻って、ホテルの四川料理レストランに入り、麻婆豆腐を注文した。やや疲れた身体には刺激の強いものが良いと思ったからだが、期待に違わず、激辛だったけど、美味しいものだった。それから、元気であればもう少し回ってみるつもりだったが、いささか疲れたので、切符を変更して、早めに山陽新幹線に乗った。ここからわずか3時間半で東京に着くとは、驚きの速さである。なお、福山で買ったお土産は、もちろん、きびだんごと、ままかりの干物である。



(2017年5月28日記)


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高知への旅

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 高知への旅( 写 真 )


 47都道府県のうち、私が、唯一行ったことのない県があった。高知県であるが、これまで仕事や観光の機会が全くなかった。でも、このたびようやく行くことができた。これで、全ての都道府県を制覇したことになる。実は、四万十川の観光を夢見ていたのだけど、今回は仕事だったのでそれは叶わなかった。代わりに、仕事の合間の夕方や早朝のごくわずかな時間を使って、高知城、はりまや橋、それに桂浜を見てきただけだった。まあしかし、市内で宿泊したし、行ってきたことにはなるだろう。

 日本のお城として、名城100選などと数えられるが、実は国宝が5城、重要文化財は7城に過ぎない。国宝は、姫路城、彦根城、松本城、犬山城、松江城で、重要文化財は、弘前城、丸岡城、備中松山城、松山城、丸亀城、宇和島城、高知城である。その他、名古屋城、大阪城、福山城は立派な外見だが、コンクリートで復元したものである。


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 その点、高知城は重要文化財の城の一つだから、立派なものである。ところが、実際に訪れてみると、追手門の前には、「国寶 高知城」という石碑があるではないか。これはどういうことだろうかと調べて見たところ、戦前の国宝保存法で国宝に指定されていたのだが、昭和25年の文化財保護法施行で国宝から重要文化財にいわば「格下げ」されたようだ。ちなみに、松江城も同じように格下げされていたが、つい最近、江戸時代初めに完成したことを証明する祈祷札の発見が決め手になって、65年ぶりに改めて国宝に指定されたという。それは良かったが、この高知城ではまだそういう発見や進展がない。だからこの石碑は、強いて言えばかつて国宝だったという歴史的事実を示すものとして、黙認されているのだろう。

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 高知城を見学したときにいただいたパンフレットによると、「高知城は、日本で唯一本丸の建築群がすべて現存する、江戸時代の姿を今に伝える城郭である。もともとこの場所には南北朝時代に築かれた大高坂城があり、戦国時代には長曾我部元親が岡豊城より移り築城に取り組んでいた。しかし、治水に難儀し、わずか3年で元親は浦戸城に本拠を移した。その後、関ヶ原の戦の功績で遠州掛川より入国した山内一豊がこの地を城地と定め、慶長6年(1601年)秋から築城をはじめた。

 一豊は築城家として知られた百々越前守安行を総奉行に任じ、近隣諸村から石材や木材を取り寄せ工事を進めたが、難工事の末、城のほぼ全容が完成したのは10年後、二代藩主忠義の治世に移った慶長16年のことであった。享保12年(1727年)には一部の建物を残し焼失。ただちに復旧にあたったものの、財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を要している。その後、明治維新により廃城となり、本丸と追手門を除くすべての建物が取り壊され、公園となって今に至っている。別名を鷹城。」



 石垣は、野面積みだが、曲線が綺麗に出ている。近江専門家集団である穴太衆(あのうしゅう)によるもので、雨の多い土地柄を考慮したものという。黒鉄門から本丸地域に入ると、4層の天守閣が聳え 、その脇には本丸御殿が建つ。現存する12城のうち、本丸御殿を残しているのは高知城だけだとのこと。そういえば、名古屋城も本丸御殿の復元をしていたことを思い出した。

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 その本丸御殿に入ると、正殿には一段高い上段ノ間があり、武者隠しも備えられている。不思議な模様の欄間だと思ったら、土佐の荒波を表現したもののようだ。小さいながらも、ちゃんと庭まである。天守閣を上がっていくと、外観は4層だが、内部にやたら階段があると思ったら、実は6階だそうだ。それを登って、天守閣の望楼階に出て、四方を眺めて、その景色を愛でる。古えの殿様は、こういう眺望を目にしていたのかと、改めて思った。

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 さて、それから仕事の会食をした後、もうとっぷりと日が暮れてから、再び高知城に行った。夜景を撮るためである。聞いてびっくりしたのだが、高知城を東と西からライトアップしているのは、それぞれ「赤い靴」というピアノバーのお店と、「城西館」というホテルなのだそうだ。どちらも高知城から2km以内にあるという。カメラを抱えて午後8時半に行ってみると、明るい光の中に天守閣がくっきりと浮かび上がっている。これが、そうなのか、幸い、写真が撮れそうな明るさである。ただ、今回は三脚を持ってこられなかったので、なるべく手ブレを起こさないようにしないといけない。カメラをしっかり構えて撮ってみたところ、まあまあの写真が撮れた。その他、追手門の近くに、板垣退助像と、山内一豊の妻像があった。

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 翌日の早朝、「坊さんカンザシ買うを見た」で有名な「はりまや橋」に行ってみた。確かにあったが、「あれ、こんなに小さな橋なのか」と、いささかがっかりする。昔むかし、デンマークのコペンハーゲンに行って「人魚姫」(The statue of the Little Mermaid)の像を見たが、想像とは異なり、随分小さくて拍子抜けしたが、それと同じ気分だ。もっとも、高知城のパンフレットによれば「江戸時代初期の豪商の播磨屋宗徳と、櫃屋道清が、両家の往来をするために架橋」とあるから、もともと規模は小さかったのだろう。

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 南はりまや橋の停留所からバスに乗って、桂浜まで行ってみた。降りたところに、土佐犬パークがあるが、営業はしていないようだ。それから、桂浜に向かって歩いて行くと、坂本龍馬の像がある。懐に手を入れているお馴染みのポーズだ。更に歩いて海岸に出ると典型的な入浜で、左手の龍頭崎、正面に太平洋、右手に龍王崎がある。波打ち際に歩道があり、それより波に近づくと 「突然高波が来る場合が有るので海岸線には近寄らないで下さい」というテープの声が流れてくる。案外、危ないらしい。予定の1時間が過ぎたので、再び市内に戻った。

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 そういえば、高知は「よさこい踊り」の本場である。徳島の「阿波踊り」と同様に、いつかまた来て、本場の踊りをじっくりと見物してみたいと思っている。なお、今回初めて知ったのであるが、四万十川で有名な「四万十市」のほかに、「四万十町」があるそうだ。更に、「土佐市」と「土佐町」の組み合わせもあるというから、ややこしい。



(2017年5月26日記)


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高岡への旅

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 高岡への旅(写 真)


1.高岡御車山会館

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 富山県高岡市で「高岡市内観光施設クーポン」なるものを購入し、その表の面で観光施設一覧を見て、また裏の面で地図を確認しながら、観光して回った。何といっても、「高岡御車山(みくるまやま)会館」が、一番、興味深かった。実は私は、20年ほど前に、このお祭りを現に見たことがあるのだが、その時はこれほどの歴史と伝統があるものだとは、ついぞ知らなかった。ユネスコ無形文化財登録のおかげだろうか、会館内は、このお祭りについて非常に網羅的ながらも緻密かつ理解しやすい展示がしてあり、まずそれに感じ入った。建物の中に入ると、照明を暗くした渡り廊下の壁に、御車山の由来が書いてあって、歴史がよくわかる。それを抜けると、正面の吹き抜けの空間に、ドーンとばかりに高さ10メートルほどの本物の御車山が一基、置いてあるので、迫力がある。御車山は全部で7基あり、普段は神社の収蔵庫に安置してあるが、それを4ヶ月おきに引き出して、ここにこうやって展示替えをするそうだ。現物の展示であるから、下から見上げると、車輪、人形、鉾から下がる花飾りなど、何から何まで圧倒される。私の行った日は、二番町の御車山の展示だった。

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 御車山は、ざっと見て3層に分かれている。下段は四角い箱で、周囲には美しい幕が張られているし、平安時代の牛車を思い起こさせる4つの車輪が実に凝っている。単に大きな車輪であるだけでなく、誠に繊細な金属の装飾が施されている。高岡は銅細工などの伝統工芸が盛んだが、その技術が惜しみなく使われている。面白いのは、その方向転換の方法である。他の祭り、例えば京都祇園祭の場合は、道路に割り竹を敷いて水を撒き、その上で山車を引いてその方向を変える。飛弾高山祭りも、(もう夕暮れだったこともあり)割り竹こそ見なかったが、引き摺って90度回転させるという基本は同じだ。ところがこの高岡の御車山は、4つの車輪のうち、前の2つの車輪を人力でわざわざ「持ち上げ」て、方向転換をする。それだと、ひっくり返らないのか心配になるところだ。しかし、中段には人形と人が数人が乗っているものの、その上は上段に見えるが、鉾を中心とした大きな花飾りだから、実質的には重さはさほどないと思う。だから重心は低く、こうした方向転換の方法でも安定しているのだろう。また、からくり人形が7基中の4基にあるそうだ。それから、「平成の御車山」というものも展示されていた。まだ製作中の由だが、お内裏様とお雛様のような二体の人形が乗っていて、その脇に童女の人形があって、これがからくり人形のようだ。つまり、平成の技工と材料で、8基目の御車山を造っているというのである。結構なことだ。

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 いただいたパンフレットから、引用させていただこう。「高岡御車山は、1588年(天正16年)、豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎え奉るときに使用した御所車を、加賀藩租前田利家が拝領し、高岡開町の祖、2代目前田利長が1609年(慶長14年)、高岡城を築くにあたり、町民に分け与えられたのが始まりといわれています。御車山は、御所車形式に鉾を立てた特殊なもので、金工、漆工、染織等の優れた工芸技術の装飾がほどこされた日本でも屈指の華やかな山車です。高岡御車山は国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財の両方に指定されています。これは日本全国で5件指定されている内の一つです。(他の4件は、 祇園祭山鉾と京都祇園祭の山鉾行事高山祭屋台と高山祭屋台行事秩父祭屋台と秩父祭屋台行事と神楽(秩父夜祭)日立風流物

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 高岡御車山会館は、2015年3月の北陸新幹線の開業に合わせて、翌4月にオープンしたそうだ。今月(2017年5月末)の土日に富山県魚津市で全国植樹祭が催され、そのときに天皇皇后両陛下がお出でになるが、その際にこの会館にも立ち寄られるそうだ。そのときには、7基全部が出て、お迎えするそうである。


2.菅野家住宅

 高岡御車山会館から歩いて数分のところにある。家の前で一見してわかった。これは、川越の蔵造りの町屋とそっくりである。2階の窓には、分厚い観音開きの窓が付いている。大火の後に、このような町並みができることが多いと思ったら、やはりそうだった。いただいたパンフレットによると、


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(1) 菅野家の歴史

 菅野家(すがのけ)は、明治初頭に5代に伝右衛門が北海道との通商などで家業を広げ財を築いた。明治22年(1889年)には、高岡銀行を設立、36年には高岡電灯を創立する一方で政界にも進出して、木津家や荒井家と並んで高岡政財界の中心的な存在として活躍した。

(2) 重要文化財菅野家住宅

 母屋は、明治33年(1900年)の大火直後に再建された。土蔵も同時期の建設と推定される。大工棟梁に室田直助、左官には壁長が携わり、当時10万円という大金を投じて建てられたという。母屋は土蔵造り、2階建て、平入りの町屋で、黒漆喰仕上げの重厚な外観と正面庇の天井飾り、軒を支える鋳物の柱などの細部の華やかな装飾に特徴がある。土蔵は2階建てで蔵前も土蔵造りとし、大火の教訓を生かして防火に念入りにそなえた造りとなっている。当住宅は、質の高い伝統的な町屋が多く残る高岡市の中でも、大規模で最も質の高いもののひとつとして貴重であると評価され、平成6年12月27日に重要文化財に指定された。(ご子孫の方がまだ住まわれているらしい。)

(3) 母屋の意匠

 [構 造] 明治32年の富山県令51号「建築制限規則」により、繁華街における建造物は土蔵造りなどの耐火構造とすることが義務付けられた。菅野家は、2階には観音開きの土扉を備えた窓があり、両袖には防火壁が立ち上げられているほか、1階正面道路側と中庭に面する縁には、鉄板を張った防火扉が設けられ、一朝有事には貝が蓋を閉じたようになるなど、防火に配慮した構造としている。防火壁は釉薬を施した煉瓦で造り、屋根の小屋組みには土蔵造りとしては珍しい真束(しんづか=トラス構造の骨組み)の手法を用いるなど、時代を反映して洋風建造の要素を取り入れた構造となっている。

 [意 匠] 外観は黒漆喰仕上げで、太い出桁とその先に何段もの厚い蛇腹を巻いている。また、棟には大きな箱棟を造って鯱や雪割りを付けるなど、全体として重厚な意匠となっている。一方では、防火壁正面の石柱、正面庇の天井飾りの鏝絵(こてえ)や軒を支える鋳物の柱などの細部の要所には、細かな装飾が施され、華やかな意匠としている。内部は、土蔵造りでありながら、柱や長押の部材が細かく、土蔵を意識させない。特に、ホンマなどの外向きの部屋は、数寄屋風で木割りが細かく全て白木の柾目の檜とし、天井板も屋久杉等の厳選された銘木をふんだんに使用している。壁は自然石を砕いた粉を混ぜた鮮やかな朱壁で、年月を経ても色落ちしていない。」


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 見学者は、たまたま私一人だったものだから、係りの方が親切に案内していただいた。確かに、家の中は、土蔵の中にいるとは全く感じないくらい普通の商家で、一つ一つの材料が実に凝っている。天井板は全て屋久杉でできていたり、床の間の柱が京都の北山杉だ。確かに、木に絞りが入っている。これは、貴重だ。しかし、そんなことに驚いてはいけない。長い廊下の頭の少し上にある横に長い丸太、これが一本の北山杉なのには、びっくりした。特に感心したのは、欄間である。普通のものより、はるかに空間が多い。有名な井波の作品でも、このようなものは、見たことがない。また、建ってからかれこれ120年近く経っているというのに、自然石を砕いた粉を混ぜた鮮やかな朱壁は、確かに未だに色鮮やかである。なるほど、よい材料を使うと、これほど違うものである。


3.土蔵造りのまち資料館

 菅野家住宅の少し先に、高岡市土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅)がある。菅野家住宅に比べれば規模は小さい。やはり土蔵造りで、当時の商家はこんな感じだったのかと、その繁栄ぶりの一端が偲ばれる。綿布の卸売りを営んでいたそうだ。ここでも、いただいたパンフレットによると、


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(1) 山町筋と室崎家の歴史

 慶長14年(1609年)、加賀藩第二代藩主である前田利長が高岡に隠居城と城下町を作り、高岡の町が開かれた。そのときに商家町として町立てされたのが山町である。慶長19年、利長が築城5年で没し、さらに元和元年(1615)年の一国一城令によって高岡城が破却され、武士団が金沢に引き上げたために高岡は城下町としての存在意義を失ってしまう。高岡の窮状を憂えた第三代藩主の利常は、町人に他所転出を禁じて町年寄(町人の自治組織)を発足させ、魚問屋、塩問屋、米蔵、塩蔵を設けるなど、高岡を商工業の町へと転換させる政策を進め、以来、高岡は越中における米や綿などの集散地として繁栄した。中でも山町は長らく商都高岡の中心地として隆盛を極めた町である。

 「山町」の呼称は国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財である7基の高岡御車山を保存、継承する十ヶ町に由来するもので、特に「山町筋」と呼ぶ地域は旧北陸道に面した町筋を指すものである。御車山祭は4月30日の宵祭に始まり5月1日の町内を曳き回される。

 室崎家は、現当主で九代目となる歴史のある町で、明治初期にこの場所に移ったものであり、それ以前は道路を挟んで向かい側の小馬出町60番地に住んでいた。当家は昭和20年まで綿糸や綿布の卸売業を手広く営んでいた高岡でも屈指の商人である。現在は石油商を営んでいるが、室崎氏の転居に当たって市がこの土蔵造りの民家を資料館として整備し、一般に公開している。


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(2) 旧室崎家住宅

 山町筋の土蔵造りの建造物は、明治33年(1900年)の高岡の大火後の復興に当たって、防火に配慮した耐火建築として建てられたものである。土蔵造りの特徴は、外壁を黒又は白の漆喰で塗り込み、隣家境には延焼防止のための防火壁を設け、屋根は桟瓦葺きにして大きな箱棟や鬼瓦を乗せ、2階窓には観音開きの土扉を付けて、全面に下屋庇とそれを支える鋳物の鉄柱があるなど、外観は重厚な印象を与える意匠としている。一方、内部の意匠は外観とは対照的に繊細な数寄屋風に仕上げ、主屋と土蔵の間にある中庭は市街地にあって静謐な空間を創出している。旧室崎家住宅の主屋は東西道路に北面して建ち、その後方には中庭を挟んで土蔵が建っている。・・・その間取りは典型的な3列3段の通り土間型の町屋である。また、山町筋においては珍しく前庭があることや2階窓の観音開きの土扉のないことを除けば、山町筋の土蔵造りの特徴をよくとどめている。内部はザシキの壁を赤壁とし、柱や長押に銘木を使用して木割を細かくして仕上げている。また、土蔵造りの特徴の一つである通り土間が改造されることなく残されている数少ない町家である。



4.国宝 瑞龍寺

 高岡駅前のホテルにいったん戻り、そこから南へ10分ほど歩いた。途中、農地があった。そこに見慣れない花が咲いていると思って、その場にいた農家の方に聞くと、ジャガイモの花だそうだ。それからすぐに瑞龍寺に着いた。伽藍がすっきりとしていて、門や建物の形が伸びやかである。こちらも、駅前の観光案内所でいただいたパンフレットによると、


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 「瑞龍寺は、高岡の町を開いた加賀前田家二代当主前田利長の菩提寺です。三代当主利常は兄利長への深い恩から、寺は加賀百二十万石の威信をかけた一大事業として取り組まれ、藩の名匠山上善右衛門によって約二十年の歳月をかけて建立されました。建立以来350年を経た曹洞宗寺院瑞龍寺は、日本で唯一、七堂伽藍と呼ばれる江戸初期の典型的な寺院様式を今に残している建築物として高く評価され、平成9年(1997年)、国宝に指定されました。伽藍は、総門、山門、仏殿、法堂が一直線上に配され、法堂から仏殿を取り囲むように山門まで回廊が巡って、荘厳にして格調高い空間を作っています。特に、最高傑作の誉れ高い仏殿では、47トンに及ぶ屋根に支える美しい木組みを見ることができます。このような鉛瓦葺きは珍しく、わずかに、金沢城の石川門と瑞龍寺だけに現存するといわれています。」

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5.高岡大仏

 やはり、パンフレットによると、「奈良、鎌倉と並んで日本三大仏に数えられている高岡大仏は、伝統ある高岡の鋳物技術の粋を集め、30年の歳月をかけて昭和8年(1933年)に青銅大仏として完成しました。その出来栄えは素晴らしく、日本一のイケメン大仏様と言われています。総高15.85m、重量65t、すべて地元の手による大仏は、銅器日本一のまち高岡の象徴である。」とのこと。確かに、高岡大仏のお顔は、正面から見ても横から見ても、非常に均整がとれていて、非常に美しい。


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 なお、「高岡」という地名の由来について、このパンフレットが触れている。それによると、「加賀藩第二代藩主前田利長がこの関野の地に築城して入城したとき、詩経の『鳳凰鳴けり。かの高き岡に』から命名」されたという。


6.雨晴海岸の名勝 義経岩


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前日、富山からくっきりと見えた立山連峰



 前日に富山市にいたとき、もう午後3時過ぎなのに立山連峰が非常にくっきりと見えた。こういう日は珍しいので、もしかすると、今日の早朝に雨晴海岸に行けば名勝義経岩のバックに立山連峰が撮れるかもしれないと思って、行ってみる気になった。早朝、高岡駅からJR氷見線に乗って雨晴駅まで行き、そこから海岸線を歩いて義経岩に行った。ところが、立山連峰が見えるどころではなかったし、肝心の義経岩も全くの逆光で、無駄足だった。地元の人によると、2月から3月にかけての午後だと、両方とも見える日があるらしい。

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運が良ければ背景にこのような立山連峰が見えるのだが・・・
この日は、義経岩の背景にうっすらと見えるような気がするばかり



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 ところで、駅前の観光案内所でいただいたパンフレットによれば、このように紹介されている。「雨晴海岸は、波が洗う奇岩と白砂青松が続く景勝の地です。とりわけ冬晴れの日に見られる、海上にそそり立つ立山連峰の雄大な眺めは比類のない絶景として讃えられています。海越しに3000m級の白い山々を間近に望むという素晴らしい景観は、世界でもこの海岸だけのものです。雨晴という地名の由来は、かつて義経主従が奥州に落ち延びる途中にこの海岸でにわか雨にあい、弁慶が持ち上げた岩陰で雨宿りしたという『義経雨はらしの岩』の伝説からきています。雨晴海岸は、万葉の歌人、大伴家持が訪れるたびに絶賛したところであり、そのときの情景を詠んだ歌の数々が、万葉集に収められています。」ということで、「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟しているそうだ。



(2017年5月21日記)


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徒然293.神田祭 2017年

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 私の家は根津権現から歩いて数分のところにある。湯島天神も地下鉄で一駅行ったところだし、そこから更に少し歩くと神田明神に着く。このうち、根津権現は、秋祭りもあるが、それより毎年5月の躑躅祭りが有名である。その季節になると、境内の片面が、紫、赤、白などの原色で埋め尽くされる。見事だ。湯島天神は、何といっても受験の神様として、そのシーズンになるとお参りする受験生や両親で境内が一杯になるし、そのほか、梅まつりという催しも、なかなか見ごたえがある。

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 神田明神は、2年に1回、斎行される神田祭(神幸祭)は、いつもすごく賑わっているなと思う程度で、全体をじっくり見たことがない。それもそのはずで、1週間にわたって行われるし、神幸祭の巡行は、丸1日をかけて神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原という広い地域を回るし、御神輿の宮入は、1日半もかけて200基が行うという、大変なスケールのお祭りだからだ。それでも今年は、少しは写真を撮ろうと思っていたが、残念ながら巡行が本番の土曜日は、1日中、雨が降り続いて寒かったこともあり、行く気がなくなってしまった。参加していた人たちは、雨に濡れてさぞかし大変だったろうと思う。ただ、翌日曜日は晴れたので、お昼を食べに出たついでに、少しだけ写真を撮りに行った。

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 神田明神正面の鳥居の脇にいて、これから宮入をする御神輿を撮り、更に境内の中に入って行って、御神輿を中心に人また人で溢れかえる境内の様子を見物してきた。神田祭といえば、御神輿ばかりと思っていたのだが、立派な人形山車があって、しかもそこで神田囃子を奏でていたので、意外だった。ところが、その場でいただいた「加茂能人形山車」というパンフレットを読んで、よくわかった。そこから転載すると、次のとおりである。

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「加茂能人形山車は、江戸時代『天下祭』に曳き出された姿を忠実に再現した、魚河岸会自慢の山車です。『天下祭』は、神輿の渡御よりも、山車行列が呼び物でした。参加各町は、威信をかけて立派なものを出したといいます。行列は江戸城中に繰り込み、時の将軍の上覧に浴したそうです。天保9年(1838年)には、参加町160、巡行した山車の数45台という記録があります。加茂能人形山車は10番目に曳き出されたとの番付が残っています。城門を通過するために『江戸型山車』は、何層かの可動構造を持つのが特色でした。江戸型山車の多くは明治維新とともに、関東近県に買われていき、年を経て壊れてしまい、残っていたものも、関東大震災・戦火を受けて、殆どが無くなってしまいました。加茂能人形山車も、先代は震災で失われましたが、明治15年頃に作られた10分の1大の精巧な模型が継承されていたことから、それをもとに、昭和30年に復元製作されたのが現在のものです。三層構造は中空で、上段が人形部分、中段は『四方幕』で、下段後部の幕(見返り幕)に囲まれた部分に上・中段がすっぽりと収納できるようになっています。人形は能楽『加茂』の後シテ、別雷神(ワケイカズチノカミ)で、赤頭に唐冠、大飛出の面を付けます。衣装は紺地に赤丸龍模様の狩衣、赤地に稲光電紋模様の半切で、右手に御幣を持っています。四方幕は、四面とも緋羅紗に加茂の競馬の騎馬人形、楓が配され、下段の見送り幕は、加茂の流水に青金二葉葵が、いずれも重厚な刺繍で織り出されています。現代の加茂能人形山車は『水神祭』に曳き出されます。平成2年10月1日には黒牛『とき姫号』に曳かれて、35年ぶりに巡行し、喝采を浴びました。」という。

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 先日、私は飛騨の高山祭に行って、その「動く陽明門」といわれる23基の見事な山車に、ほとほと感心して帰ってきた。江戸・東京のお祭りでも、実はあのような山車が主体だったらしいのである。神田明神のHPによると、明治17年の最盛期には、46本の山車が巡行されたらしい。それが、明治の末期には、電線の敷設や不景気が重なって、山車が曳かれなくなって、各町に備え付けていただけになったらしい。大正時代に入って、神社の神輿が渡御する形へと変遷していったそうだ。なるほど、だから私たちは神田祭といえば、威勢良く大人数が御神輿を担ぐ祭りだと思っていたのかと納得した。また、川越祭り、飯能祭り、佐原祭りなどの関東近辺のお祭りで曳かれる山車のいくつかは、日本橋などから買われてきたものだというが、これでその背景がよくわかった。

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 神田祭 2017年(写 真)



(2017年5月14日記)




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徒然292.人たらしの術


(果物の王様のドリアン)



 世の中は、何かをしようとすると、快く賛成してくれる人はあまり多くなくて、むしろ何やかやと反対したり、ケチをつけたりして足を引っ張る人の方が多い。だから、そういう人に対して、いかに話を付けて、自分の意向を押し通すかが問題である。私は、何につけ不器用なものだから、誰かを説得しようとすると、正攻法しかできない。つまり、まず理屈を考えて、何通りかのシナリオを作り、そのどれかで行けるという見込みを立てたら、後はひたすら何回も関係者のところへ通ってそれを説き、納得してくれるまで押し通すということをやって来た。今から振り返ると、説得される相手としては、随分と迷惑なことだったと思う。

 ほとんどの人は私の作り上げたシナリオのどれかで納得してくれたが、中には最後まで首を縦に振ってくれない人もいた。それでもなお諦めずに通ったら、「よし、私は黒い猫だと思うが、君がそんなに白い猫だと言うなら、白い猫だと思うことにする。」という不思議なことをつぶやき、現に本番では反対しなかったという人もいた。そういうわけで、私は事前に思い付く限りの完璧な準備をして事に臨み、後は押しに押すというものだ。ところが、私とは全く正反対というと言い過ぎかもしれないが、「そんなこと、とても私にはできない」ということを思い付いて、しかもやってしまうというタイプの人がいるので驚いた。

 あるパーティーの席で、知り合いの偉い人に久しぶりに会った。私は、その人が最近、反対派が強硬に反対してきた非常に難しい問題を、鮮やかに解決したことを思い出して「あれは、一体どうやって説得したのですか」と、何の気なしに問うた。すると、

 「あれはですねぇ。人間のちょっとした心理を使ったのですよ。つまりね、人間って、眠気から覚めたばかりのときに、あまり頭を使わないで、素直になるでしょ。それですよ。」という。私は、よく意味が分からずに「というと?」と更に聞くと、こんなことを語っていた。

 「相手のところに言って難しい書類をたくさん渡し、わざと眠たくなるように、お経を読むような平板で抑揚のない話し方をするんですよ。それで、相手はこっくりこっくりと舟を漕ぐようになるでしょ。それを見計らって、突然、大きな声で『ということでございます。よろしいですね。』と言うんですよ。すると、たいていの相手は、目を開けたばかりだから『おお、わかった』と言ってくれますよ。」

 私は驚いて「へぇーっ。そういうものですかねぇ。」と言って、思わずその人の顔を見てしまった。これまで、色々な人の様々な仕事のやり方を見てきて、たいていのことは知っているつもりだったが、まさかそういう幻術のような手を使う人がいるとは、思いもしなかった。これも、その人の人生を渡る上で独自に開発したノウハウ「人たらしの術」なのだろう。でも、私にはとてもできないことだと思った。




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(蟹のチリソース甘辛煮)




(2017年5月10日記)


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