高山祭り総曳き揃え

01.jpg



 高山祭り( 写 真 )





1.高山到着まで

 午前11時前にツアーのバスで新宿を出発した。中央自動車道の諏訪湖インターを過ぎたところで、サーっと雨が降ってきた。この雨が高山まで続くと困るなと思っていたが、すぐに雨は止んだ。何とか天候は持ちそうだ。中央道から高山方面に向かう一般道に入ると、いかにも高地に向かう道路らしく、まるで螺旋階段を上がるような感じで走るところがある。もう4月末だというのに、道の両脇にはまだ雪が残っている。

 午後5時過ぎに、高山市にバスが到着した。ガイドさんによれば、混雑を予測して6時頃の到着の予定だったが、スムーズに走って1時間も早く着いたという。この日は、昼に屋台曳き揃えが予定されていたが、あの雨で中止になったそうだ。幸い我々がこれから見物する夜の総屋台曳き廻しは、予定通り午後6時から始まるという。だから、まずは食事をしてはどうかというので、駅前近くの飲み屋のチェーン店に入り、飲まないけれどと言って、海鮮サラダなどの食べられそうなものを注文して、平らげた。

 前回、1月だったが白川郷を見物した帰り、 やはりこの高山を訪れて、高山陣屋などを見物したばかりなので、高山市の街の構造は知っているつもりだ。あの時に陣屋から歩いた歴史地区の向こうの大きな安川通りに、北から南の方向に春の屋台(山車)と秋の屋台とが交互に曳かれて通るらしい。


2.高山祭りとは

 そもそも、高山祭りとはどういうものかというと、高山市の観光情報によれば「16世紀後半から17世紀が起源とされる高山祭。高山祭とは春の『山王祭』と秋の『八幡祭』、2つの祭をさす総称で、高山の人々に大切に守り継がれてきました。このうち、高山に春の訪れを告げる『山王祭』は、旧高山城下町南半分の氏神様である日枝神社(山王様)の例祭です。毎年4月14日・15日、祭の舞台となる安川通りの南側・上町には、『山王祭』の屋台組の宝である屋台12台が登場。うち3台がからくり奉納を行うほか、祭行事では賑やかな伝統芸能も繰り広げられます。」という。加えて今回の催しについて「岐阜県高山市の高山祭の保存会などは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された際の祝賀行事として、春と秋の高山祭の祭り屋台計23台の『総曳き揃え』を2017年4月29、30の両日に開くことを決めた。市教育委員会文化財課は『高山祭の約400年の歴史で、総曳き揃えは非常に珍しい』と説明している。」という。

 それで、今回いただいたパンフレットによれば、次のようなことである。「平成28年12月に、高山祭の屋台行事を含む全国の『山・鉾・屋台行事』33件がユネスコの無形文化遺産に登録されました・・・今回、登録を記念し、春の祭屋台12台と秋の祭屋台11台の計23台が55年ぶりに同じ場所に曳き揃えられます。」という。見物している私の近くで、小さな男の子を肩車をして見物していた男の人が、その男の子を地面に降ろすときに「さあ、次にお前がこれを見られるのは、もうおじいさんになってからだぞ」と言うのを聞いて、思わず笑ってしまった。確かに、その通りだ。


3.高山祭り(夜の屋台曳き廻しと獅子舞)

 高山駅から広小路通りをまっすぐ歩いて北上し、宮川に掛かる筏橋を渡り、そこから左手に折れて上三之町を通って安川通りに出た。するともうお祭り開始時間の午後6時近くだったので、安川通りの歩道は人でいっぱいで、写真を撮るのに適当な場所を探すどころではなかった。獅子舞の演舞が始まる。雅びた笛の音に合わせて、2人一組の獅子が舞う。前の人が扱う獅子の顔の位置が低く、腰から下で動かしている。後の人は、獅子の風呂敷を、両手でまるで凧のように持ち上げている。時々、ガコッガコッと、獅子の顔が口を開けてまた閉じる音がする。それが、たくさんの獅子がほぼ同時に行うから、かなり練習しているみたいだ。小学校の低学年のような小さな獅子から、中学生、大人まで、一生懸命にやっている。演舞を終えたので、大きな拍手を送った。


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


 安川通りの北から南へと23基の屋台が次々に通っていく。先頭は神楽台(春)で、屋台囃子を奏でる。太鼓を打ち鳴らすが、その姿勢がこれまた独特で、身体ごと大きく反り返って打つので、観ていて、落ちないかハラハラする。その神楽台に引き続いて曳かれてくる一つ一つの屋台は、例えて言えば、3階建くらいになっていて、最上部に御幣などの飾りや人形、真ん中に豪華な彫刻や絵画や絨毯が飾られ、そこに笛の吹き手が乗り、最下部には飾りを施した車がある。それを前後の数人ずつが曳き、そして押す。

01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


 やがて、日が暮れて屋台の提灯に灯りがともる。屋台が進むにつれて、提灯の列が妖しく揺れる。そこに緩やかなテンポの笛の囃子の音が加わり、実に優雅な雰囲気を醸し出す。屋台がやって来るときには太鼓の打ち手と笛の吹き手とに気を取られ、屋台が目の前を通るときには豪華な彫刻やら刺繍に目を奪われ、最後に屋台が通り過ぎたら後部の絵画が目に入る。つまりは、三重に楽しめるという仕掛けである。

01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


01.jpg


 後から反省して思うのは、やはり観覧する場所の選択である。安川通りから南へ行って鍛冶橋を渡ったところ辺りが、屋台が方向転換するので、良かったかもしれない。ただ、そうすると、安川通りの北から春祭り屋台と秋祭り屋台とが交互にやって来て、秋祭り屋台の方は鍛冶橋まで行かずに途中の下三之町で右手に折れて行ってしまうので、秋祭り屋台が見られない。となれば「春と秋を一緒にやる」という今回の売り物の意味がなくなるので、私がたまたま立っていたあそこの位置が結果的に良かったのかもしれない。

01.jpg


01.jpg





4.高山祭り(昼の曳き揃えとからくり実演)

 前の晩は金沢に泊まって、朝に兼六園と白川郷に回ったものだから、高山祭りを見に行くのは、お昼を回ってしまった。そこでまず食事をしようと、駅近くの定食屋さんに立ち寄り、早く出て来るものはないかと思って、親子丼を注文した。それを手早くいただいて、お祭りの会場に向かう。高山陣屋の前の広場で、からくり実演があるのは、午後1時から30分刻みであるが、最初の回には間に合いそうもない。そこで、止まっている屋台を全て、見て回ることにした。全部で23基の中で、高山陣屋前に集結している神楽台2基とからくり屋台4基を除くと、17基だ。これは大変だと思ったが、すぐ近くの道路に、相互にあまり間隔を置かないで整然と並んで置いてあったので、1時間もしないで全てを観て、撮ることができた。

 まずは、さんまち通りを南から北へと観て行った。これが春祭りの屋台である。高山陣屋前に集結しているものも含めて、屋台名をパンフレットにあった順に並べると次の通りで、その写真を順不同で並べていくこととしよう。

 神楽台(春)行列の先頭で屋台囃子を奏でる。
 三番叟(春)能や謡曲の三番叟のからくり台
 龍神台(春)謡曲の龍神のからくり台
 石橋台(春)長唄の石橋(しゃっきょう)のからくり台
 鳳凰台(春)オランダ渡来の三色堅幕と屋根の鉾
 五体山(春)円山応挙が下絵を描いた刺繍幕
 恵比寿台(春)飛騨の名工である谷口与鹿による手長、足長の彫刻
 麒麟台(春)飛騨の名工である谷口与鹿による唐子遊びの彫刻
 崑崗台(春)屋根の金幣、金塊を表したかぶら形の宝珠
 琴高台(春)中段に鯉の彫刻、鯉の刺繍幕
 大國台(春)屋根が揺れやすい構造。正面に出入り口
 青龍台(春)入母屋造りの屋根、金森家家紋の梅鉢紋金具


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


 この高山の祭り屋台は、まるで「動く陽明門」と言われているそうだが、一つ一つを見て、なるほど、まさにその通りで、これは世界文化遺産にふさわしいと思う。春祭りの屋台を見終わったので、上一之町の交差点を左手に折れる。歩いていくと、まちの博物館で賑やかなお囃子の音がする。入ってみると、中庭で中学生の男女が白地にカラフルな模様の付いた浴衣らしき着物を着て、元気よく木鐸様のものを鳴らしている。これが、闘鶏楽らしい。初めて目にする。素朴な掛け声とお囃子だ。リーダーの女の子が全体を引っ張っていて、若々しく清々しい。その博物館を出て、はるか向こうに見えている秋祭りの屋台に向かう。同じように屋台名と写真を並べていこう。

33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


 神楽台(秋)行列の先頭で屋台囃子を奏でる
 布袋台(秋)布袋と唐子のからくり人形
 金鳳台(秋)初期の屋台の風格を持つ形態美
 大八台(秋)大八車三輪、屋根の上に大金幣束
 鳩峯台(秋)四方の上を飾る綴錦織の胴幕、見送幕
 神馬台(秋)神馬の人形、胴幕に般若の大きい刺繍
 仙人台(秋)唯一の唐破風、仙人の人形
 行神台(秋)正面に出入り口、行神の人形。
 宝珠台(秋)屋根に一対の大亀、水煙つき宝珠3個を飾る
 豊明台(秋)外側に御所車がつく。多彩な装飾
 鳳凰台(秋)飛騨の名工である谷口与鹿が彫った獅子の彫刻、金具を多く使用

 どれも、とても豪華で実に素晴らしい屋台である。長い間、相当なお金を掛けないと、これほどのものはできない。しかもそれが、普通の店舗や住宅が並んでいるようなところにある収蔵庫から、ごく自然に引き出されるのが良い。また、その屋台に、子供たちが自分の家のようにごく自然に入って行って、遊んでいるのが、また良い。小さな頃から、人々の生活の一部となっているようだ。

 秋祭りの屋台を全部観終わったので、いったん南へ下って宮川まで歩いていき、そこから宮川に沿って高山陣屋方面に向かう。宮川の辺りにはまだ桜が咲いていて、白い鳥が優雅に飛んでいると思ったら、あれは鷺だ。この川べりでは、朝市が開かれるらしい。


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


 ようやく高山陣屋前の中橋公園に着いたが、すごい人出だ。神楽台のほか、確かに4台のからくり屋台がある。春祭りの三番叟、石橋台、龍神台、そして秋祭りの布袋台だ。最後の布袋台には梯子を横にしたような仕掛けがあって、そこを人形が伝っていくのを以前テレビで見たことがある。今回、是非観てみたかったが、ちょうど終わってしまった後だった。人形の仕組みや操り手の巧みな技量が素晴らしいというので期待していただけに、残念だった。私が今回観られたのは、その後の三番叟である。凛々しい少年の姿の人形が、能の音楽や唄いに合わせて手を左右に振ったり扇子を広げたりしている。音楽が途絶えたかと思ったら、人形があっという間に老人の姿になり、唄いも何やら深刻なものに変わって終わる。ビデオを撮ったら、9分半の寸劇だった。残念なことに、完全な逆光となっていて、写真は非常に撮りづらかった。それから、本町一丁目を歩くときに春祭りの最後の3台の屋台を見物し、これで全部の屋台の昼の姿を観終わったことになる。

33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


33.jpg


 ところで、日本三大曳山祭とは、京都祇園祭の山鉾行事秩父祭の屋台行事と神楽高山祭の屋台行事をいい、これに日立風流物、高岡御車山祭を加えて日本五大曳山祭という。私も今回の高山祭りで、これらの全てを観たことになる。ただ、高岡御車山祭を観たのはもう半世紀近くも前のことなので、今のようなデジカメがあるはずもなく、ちゃんとした写真が残っていないのが残念である。

 ところで、こうした伝統行事を見るたびに思うのだけれど、私もこういう伝統を受け継ぐ町に生まれて、小さい頃からこのような屋台を引いたり御神輿を担いだりして、お祭りに参加してみたかった。私の父はいわゆる転勤族で、全国各地を転々としたし、たまたま行く先々では伝統行事なるものはなかったから、この高山祭りのような地域に根付いた行事には参加のしようがなかった。そういう意味では、高山の皆さんのことをとても羨ましく思うのである。とはいえ、こうした文化や伝統を守っていくのは、資金の面でも労力の面でも非常に大変なことだし、それなりのご苦労があると思う。でも、これだけの屋台と江戸時代から続く伝統の灯は、まさに宝物であるから、今後とも頑張って続けていっていただきたいと考える次第である。でも、こうして小さな頃から屋台の上に乗って、お祭りに参加していく子たちを見ると、お祭りが生活の一部となっていることを実感する。だから、未来は明るいと思っている。


5.金沢の兼六園

 ほんの30分程度だが、金沢のホテル近くの兼六園に立ち寄った。実は私は、兼六園そのものには10回以上も来ているが、夏休みや冬休みのことが多くて、この季節はあまり来た記憶がない。今回のように5月の新緑の季節の直前は、なかなか良いものである。青葉の中に躑躅が鮮やかに咲いていて、その対比が美しい。そればかりか、八重桜までが、まだ咲いている。花弁が多くて、まるで造花のようだ。また、小川の中の両側に植えられている花菖蒲は、まだほとんど花を付けていないが、あと1週間もすれば美しく咲くものと思われる。


71.jpg


71.jpg


71.jpg


71.jpg




6.白川郷の桜

 今年の1月に、雪の白川郷を撮ってこようと勇んで行って、雪がなくてガッカリして帰って来たばかりである。今回はもちろん、雪はないが、その代わり、今年は桜が咲くのが遅くて、桜が満開から散り始めだった。でも、桜とともに写す合掌造りは、なかなかの味わいがあった。

 前回は、和田家を見学させていただいたので、今回は、長瀬家を見学した。一階は住居、二階で養蚕、三階は使用人の部屋ということで、基本は和田家と同じである。こちらは、平成13年に、500人が参加をする大規模な屋根の葺き替えをしたそうだ。

 高速道路ができるほんの少し前までは、陸の孤島だったので、長い年月を掛けて大家族が一緒に住むようになり、それでこの形になったそうだ。ところが交通が便利となった今は、観光地化してしまい、いつまでこの村の原型が保てるかというのが現下の課題のようである。


71.jpg


71.jpg


71.jpg


71.jpg


71.jpg






(2017年4月30日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:10 | - | - | - |
桜の季節 2017年

犬山城と桜



 桜の季節 2017年(写 真)




1.国立劇場前の桜



001.jpg


>

001.jpg


 国立劇場(千代田区隼町)前の3本の桜が、満開を迎えた。普通の染井吉野よりも数日早く満開となる。その中でも一番早く咲き始めるのは、南にある「小松乙女」で、花はやや小ぶりながら密集して咲くから、薄いピンクの手毬がいっぱいあるように見える。三分咲きの頃は、「白とピンク色の絶妙なバランスやその儚げな姿から、いつまでも見ていたくなるような」と描いたが、もうこうなると、「白とピンク色の洪水のような」とでも評したい。この木の原木が、上野公園の小松宮彰仁親王の銅像近くにあるから、「小松」というらしい。

001.jpg


001.jpg


 国立劇場の正面に近いところにあって、白っぽくて花びらが大き目の桜の木が「駿河桜」である。これは、三島市に生えていた染井吉野から生まれたものだという。染井吉野にしては、花びらが大きくて白っぽい。でも、白い花と緑の花の組み合わせが美しいと感じる。

001.jpg


001.jpg


 国立劇場の南にあるピンク色の濃い美しい花を咲かせる「神代曙」は、私が一番好きな桜である。物知りの人によれば、この桜の源流は、元々、日本からワシントンのポトマック川に送られた染井吉野にあるという。それが、アメリカの在来種と交雑して、新種が生まれた。昭和30年ごろ、日本に逆輸入されて神代植物公園で接ぎ木して育てたところ、どの木とも違う特色ある新種ができ、神代曙として品種登録されたそうだ。そして興味深いことに、今や染井吉野の後継として、この花が推奨されているという。理由は、江戸末期から明治初めに生まれた染井吉野がもう品種としての限界を迎えているし、「てんぐ巣病」に弱いので、いったんこれが発生すると、桜並木が全滅するおそれがあるからだ。それに比べれば、神代曙は生まれたばかりだし、てんぐ巣病にも強いという。そういうわけで、あと10年か20年もすれば、染井吉野にとって代わっているかもしれない。


2.皇居大手門の桜



001.jpg


001.jpg


001.jpg


 私は毎日、通勤途中に大手町を通りかかる。そのときに皇居大手門に数本ある江戸彼岸の枝垂れ桜が咲くのを、今か今かと楽しみにしている。この枝垂れ桜は、染井吉野よりも少し早く咲くので、ああ、春が来たなという気がするし、何よりもその濃いピンク色がぶら下って風にゆらゆら揺れているのが、何ともいえずに優雅な気持ちになる。休日の朝、9時頃に行ったのだが、人だかりがしているし、それだけでなく、皇居ランナーがビュンビュン飛ばして走って来るから、ゆっくり写真を撮る暇もない。目当ての枝垂れ桜の前に見物人がいなくなったと思うと、死角のところからランナーたちが急に現れて、また初めから仕切り直しだ。お濠に白鳥が飼われていて、それと枝垂れ桜が重なる写真が撮りたかったが、そういう事情で余り良い写真は撮れなかった。ちなみに、見物人の8割は外国人観光客で、中国語、英語、ロシア語、スペイン語が飛び交い、非常にインターナショナル空間であった。

001.jpg


001.jpg


001.jpg


 ついでに、北の丸公園の桜を見にいこうとして、皇居東御苑の中に歩いていった。大手門から入ると、同心番所、百人番所がある。百人の方は、江戸城を守るために、伊賀者や甲賀者が常に詰めていたそうだ。中に入ると、広々とした芝生の空間が広がり、その周りに白い大きな桜の木が花をたくさん付けている。染井吉野は、まだ全く咲いていないから、これは別品種である。表示を見ると、「天城吉野」とある。その横を通り、天守閣跡の石垣に登る。確かに、眺めはよい。これが、もし残っていたならと、誠に残念な気がする。帰りは奇抜なスタイルの「桃華楽堂」横目に見ながら、再び大手門から退出した。

001.jpg


001.jpg



3.不忍池の鳥と桜



001.jpg


001.jpg


001.jpg


 日曜日に、上野松坂屋まで行き、その帰りに不忍池の周りを巡って帰ってきた。このときはまだ、染井吉野がちらほらとしか開花していなくて、大島桜が満開に咲いている程度である。池の真ん中の弁天堂も、染井吉野が満開のときはピンク色っぽい白で覆われるが、未だそうなっていない。代わりに、すっかり枯れた蓮池にゆりかもめが乱舞している。それをカメラで追いかける。三脚がないので、ちゃんと写せるかどうかは、運次第のようなところがあるが、何枚かは、見られるものがあった。来週には染井吉野が、その次の週にはピンク色が強い関山が咲くはずだ。朝早くの散歩が楽しみである。

001.jpg


001.jpg



4.千鳥ヶ淵の昼桜



001.jpg


001.jpg


001.jpg


 今年も、千鳥ヶ淵の桜を楽しんできた。家からも職場からも近いので、私は、ほとんど毎年、この桜を鑑賞している。染井吉野に限ってではあるが、その規模と多彩な桜の見せ方では、まさにここ千鳥ヶ淵が日本一ではないかと考えている。なぜ、こちらの染井吉野が良いかというと、まず自分の歩く上を桜の木が覆っていて、まるで桜のトンネルになっていることだ。これは、上野公園でも同じだから特徴でも何でもないが、千鳥ヶ淵はそれに加えて、お濠にたくさんの染井吉野の枝が突き出すように伸びていて、まるで桜の花が紺碧の水面を埋め尽くしているかのように見えることだ。その桜の花の合間に、ボートが顔を出してくるし、お濠の対岸に何本もある大きな桜の木も、桜の花をいっぱいつけているから、いやその見事なことといったらない。それがボート乗り場まで何十メートルも続く。そしてボート乗り場上の展望台から今来た方向を振り返ると、青い空、緑の水面、両脇の満開の桜、ぽっかり浮かぶボートが、まるで一幅の絵画のようなのである。

001.jpg


001.jpg


001.jpg


 この見事な桜は、そもそも昭和30年ごろに、皇居の周りに彩りを添えようと、当時の千代田区長が職員に植えさせたのが始まりという。その後、近くの高級料亭の福田家が桜の苗木を100本寄贈したり、あるいは近所にある跡見学園の女子学生が若くして亡くなった時にそのご両親が娘の生きた証しにと苗木250本を寄贈したりというように、多くの人の善意や思いにに支えられながら増えてきたのだそうだ(岡村仁都美著「千鳥ヶ淵のさくらたち」より)。

001.jpg


001.jpg


001.jpg


 今日は、千代田線を大手町駅で半蔵門線に乗り換えて、九段下駅で降りた。そこから皇居のお濠に沿って桜の花を見ながら、田安門に至った。今日は平日なので、武道館で私立大学の入学式をするらしく、人混みでごった返していた。その中をお濠の方を向いて桜とお濠の水面の写真を撮り、大山巌大将の銅像の脇を通って、千鳥ヶ淵に向かった。逆L字型の横棒の方から角を曲がり、直ぐに九段方面を眺めると、これが一番の写真スポットである。それから、人の流れに沿って南下する。左手にはお濠とそこに突き出している桜の枝があり、構図が良ければ、枝にたくさん咲いている桜の花とお濠の水面、それから向こう岸の桜の木を撮るという具合である。やがて、先ほど述べたボート乗り場上の展望台に着く。

001.jpg


001.jpg


 もちろん、桜に飽きれば、道端に咲いているシャガの花が可憐な姿を見せているから、それを眺めても良し。あるいは、木蓮の花が咲いていて、紫色で高貴な感じもする。そうこうしているうちに、千鳥ヶ淵エリアを抜ける。そのまま進んで半蔵門の方へ行くのも一案だし、道路を渡って英国大使館前の染井吉野を見に行くのもいい。更に歩いて行くと、国立劇場前の桜を楽しむことができる。なお、千鳥ヶ淵ではライトアップをしていて、私も通りかかったことがあり、夜桜も美しい。しかし、人混みの中だから三脚が使えないので、写真を撮るのは難しいと思って、未だにチャレンジはしていない。


5.愛知犬山城の桜



001.jpg


001.jpg


 名古屋の北方で木曽川のほとりの小山の上にある犬山城、別名:白帝城に行ってきた。運良く桜の真っ盛りのときで、染井吉野が咲き乱れる中に、犬山城がスックと立っている姿は、「これぞまさに日本の城」という気がする。天守の中に入ると、急勾配の階段が続く。4階分ほど登った末に、ようやく天守に着いた。西洋風に言えば「ベランダ」に出て回りを見渡すと、これがまた絶景である。この日は風が強くて、南方面には出られなかったものの、北から出ると、正面には木曽川が滔々と流れている。右手すなわち東方向には木曽川にかかる犬山橋(ツインブリッジ)があり、その左手先には、晴れていれば御嶽山が見えるそうだ。今度は西つまり木曽川の下流方面に行くと、ライン大橋に、美しい形の伊木山が見える。この絶景を堪能して、再び急な階段を下っていった。登るときより、下るときの方が危ない気がするので、滑らないように慎重に下りていった。

001.jpg


001.jpg


001.jpg


036.jpg


 いただいたパンフレットによると「犬山城は織田信長の叔父である織田信康が、天文6年(1537年)に木之下城を移して築城したと伝えられています。天文12年(1584年)の小牧長久手の戦いの際には、羽柴秀吉は大軍を率いてこの城に入り、小牧山に陣を敷いた徳川家康と戦いました。江戸時代になり、元和3年(1617年)に尾張藩付家老の成瀬正成が城主となってからは、成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。明治維新に犬山城は廃城となり、天守を除いて櫓や門の大部分は取り壊されて公園となりました。」とのこと。その後のことを端折って書くと、明治24年の濃尾地震では大きな被害に遭ったり、28年には県から元城主の成瀬さんに譲渡されたり、昭和34年の伊勢湾台風では大きく破損したりと、色々な経緯を経て、現在は犬山城は公益財団法人犬山城白帝文庫の所有で、犬山市が管理しているようだ。

 犬山城を出て、お昼は、近くのフレンチ創作料理で食べた。こちらは、国の登録文化財に指定されている旧家を利用して開設されたレストランということで、町の食堂ではないから、久しぶりに会った友達とゆっくり話せると、それなりに期待して行ったものである。確かに、裕福だった旧商家を利用していて、お庭もそこそこ立派だった。ランチのコースを注文した。料理は、作り置きのものではないかと思うのも多かったが、見た目は綺麗に作ってあるから、それなりに凝っていた。給仕してくれる人がそれを説明してくれる。一生懸命に説明してくれるその態度には好感がもてる。ところが、こちらが仲間内で楽しく話しているところに、わざわざ割り込んできて会話を止めて料理の説明をする。

 運ばれてくる料理には色々と薀蓄があるようなのはわかるし、創作料理ということで工夫の内容をお客に知ってもらいたいのだろうと思う。しかし、友達どうしのせっかくの楽しい雰囲気を壊してしまうほどのことではないはずで、東京あたりだと、お客の会話が弾んでいるときにはそんな無粋な説明はせずに、阿吽の呼吸で対応してくれるのにと、いささか残念な気がした。時と場合とお客の様子に応じて、臨機応変に対応するのが、客商売の要諦であると思うのだが、いかがであろうか。


001.jpg


 それはともかく、料理の後で、江戸時代の豪商だったと思われるこの家の庭などを見せてもらい、こういう雰囲気だったのかと往時を偲ぶことができたから、とてもためになった。願わくば、この文化財を大切にして、後世まで伝えていってほしいものである。その意味で、このレストランを応援する価値は十分にあると思う。

 昼食後、有楽苑(うらくえん)に行った。こちらも、パンフレットによれば「織田有楽斎(1547ー1621)は信長の実弟で、茶の湯の創成期に尾張国が生んだ大茶匠であり、その生涯は波瀾に富んでいた。晩年、武家を棄て京都建仁寺の正伝院を隠棲の地とした。如庵はその境内に元和4年(1618年)ころ建てた茶室であり、現存する国宝三名跡の一つ」という。たまたま食事中だったお昼の時間に雨が降り、それが良かったようで、緑の苔が美しかった。心が洗われるようである。また、桜と三葉躑躅の対比が一幅の絵画のようで、しばらく無心で眺めていた。



001.jpg


001.jpg


001.jpg


001.jpg



6.日立風流物と桜


 日立市に、国指定重要有形・無形文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録されている「日立風流物」という山車があり、それが桜の季節に演じられるということを聞いた。そこで、4月8日、東京駅からスーパーひたちに乗って、日立市に行ってみた。上野東京ラインが2年前の3月に出来てから、私は今日初めて、東京駅より常磐方面に乗る。行ってみると、同じ8番線から東海道方面の列車が出ていたりして、少し戸惑った。これがもう少し歳をとったりしたら、うっかりすると、逆方向へ乗るかもしれないので、気を付けよう。

 さて、約1時間半の電車による快適な旅が終わり、日立駅に到着した。ここも、最近の地方都市のご多聞にもれず、駅前はすっきりと整備されているが、建物は鉄パイプとガラスでできているから、地方の駅の個性がなくなってしまっているのは残念だ。ただ唯一、駅前ロータリーに大きな歯車のモニュメントがあったのが特徴といえば特徴で、これは、日立製作所の企業城下町らしくて、とても良い。駅の出口で、さくら祭りや、日立市の由来に関するパンフレットを配布中だ。「日立風流物の仕組みがわかるものは、ありませんか。」と聞くと、わざわざ探してくれて、それをいただいた。よしよしと、これで少しは足しになると思ったら、それどころか、後述するように、とても参考になった。

 それによると「日本各地に残る山車カラクリの系統は、大きく2つの方向に発展してきました。1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です。専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして山車を豪華絢爛な美術品まで昇華させました。一方で氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫してカラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです。」ということだそうだ。それにしても、この説明は、簡にして要を得ている名文である。感心した。


001.jpg


 駅前ロータリーからクランク状に折れて進むと、そこが平和通りで、広い道の両側に樹齢30年から60年の染井吉野の並木があり、空も覆うほどの桜のトンネルになっている。数百メートルを進むと、大きな交差点に、山車が見えてきた。家のような形が五層にもなっている。非常に高くて、驚くほどだ。15メートル、重さ5トンだという。それにしても、幅が狭くて細長い。写真で見たのとは、かなり違う。この疑問は、演技が始まって、やっと分かった。それは後で説明することにして、どこで写真を撮ろうか、真正面だと道の真ん中に山車があり、両脇に桜の木が配置されるから、構図としては理想的だ。しかし、真正面にはもう多くのカメラマンがいて、立錐の余地もない。仕方がないので、脇に回ろうと思って適当な場所を探し、斜め横から撮ることにした。この方が近いし、細長い山車を撮るには良い。気が付いてみると、三脚を担いだビデオカメラマンが隣にいた。なぜこの位置を選んだのかと聞いたら、「人形の表情が良く撮れるから」という答えだった。

001.jpg


001.jpg


 さて、山車の前でお囃子が演奏され、それが終わると、山車の中から聞こえてくる。それが最高潮に達した頃、いよいよ山車の舞台が始まった。まず、山車の前の部分が前方へ倒れ、棚のようになる。人形の顔が見える。すると、家のような形が左右に割れて、それが舞台になる。つまり、元の舞台の幅が3倍になる。それが、一番下の層から始まって順次上の層に伝わり、最後の5層目が開き終わると、鳥が羽を広げたようになる。なるほど、この写真は、見たことがある。その舞台は、忠臣蔵を演じていて、下の層には大石内蔵助が討ち入りの太鼓を叩いている。あちこちで赤穂浪士と吉良邸の武士たちの死闘が繰り広げられている。層の最上部では、吉良上野介らしき寝間着姿のお殿様が、自ら刃を振るって赤穂浪士と渡り合っている。

001.jpg


001.jpg


 なぜ、こんな5層もの「開き」ができたかというと、こういうことらしい。複数の人形を使った物語性のある演目をするには、ある程度の舞台の幅が必要なのだが、当時の狭い道路では、山車としてはこの幅が限界だった。そこで舞台で演ずるときには、開いて大きな舞台にしようとした。それと同時に、もっと大きな舞台がほしいということになり、高層化に進み、ついに大正時代になって今の5層の「開き」のスタイルになった。それと同時に、山車の内部では人形の操作者もエレベーターのように上部にせり上がるようになっていて、その機構を「カグラサン」という。もちろんこれは人力である。

001.jpg


001.jpg


 さて、人形の舞台を見ていたところ、吉良上野介の人形がひっくり返ったと思ったら、あっという間に御殿女中になってしまった。顔まで若い女性になったのには、驚いた。これは「早変わり」というもので、先に演じている役のところにあるフックを引っ張ると、くるりを別の顔と衣装になる。見ると、15体の人形が一斉にひっくり返って、数分で全員が女性になってしまった。しかも、それまで持っていた刀が、いつの間にか蛇の目傘になっていて、それがぐるぐると回されている。どうなっているのだろう。

001.jpg


001.jpg


001.jpg


 それを眺めていると、舞台はどうやら終わったみたいで、皆さんが一息ついている。そこで、20人ほどが、山車の土台を動かそうとし始めた。でも、なかなか動かない。何回かやって、ようやく動き、山車の前後が逆になった。すると、正面の観客に向けられた崖のようになっている部分の真ん中が前方へ倒れ、また棚のようになった。崖の中から2人の武士たちが現れ、矢をつがえて空に撃ち始めた。棚の上には、農民夫婦が出てきて鍬を振るったり、仙人のような老人が出てくる。大蛇まで出てきて、棚の上に移動した。そこに大きなガマガエルが出現して、争っている。どうも、筋が分からないので隔靴掻痒の感があるが、表の舞台がいわばお能のようなものだとすると、こちらは狂言のようなものらしい。

001.jpg


001.jpg


001.jpg


 パンフレットによれば「山車の大型化に伴い、山車の裏側の利用価値が高まる。『まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移動させるわけにはいかない。』この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。」という。それまで演じていたのが表山(おもてやま)で、「物語は忠臣蔵や源平争乱など歴史物、武者物が多い。」。これに対してひっくり返った裏山(うしろやま)は、「八岐の大蛇や加藤清正虎退治など、動物版勧善懲悪ものが多い」という。

001.jpg


 この日立風流物の沿革は、パンフレットでは「昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かではありませんが、元禄8年(1695年)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが作った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716ー1735)からと伝えられています。壮大な山車とともに日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風靡した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられます。4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。その風流物も昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志の努力により、昭和33年5月には1台だけながら念願の復元を果たしました・・・昭和41年5月までには残りの3台も復元された」とのことで、かなりの苦難の道を歩んだようで、その結果の国指定重要有形・無形文化財、ユネスコの無形文化遺産への登録だったというから、地元関係者のご努力に、頭が下がる思いである。

001.jpg


 なお、この日立さくら祭りに花を添えるものとして、相馬野馬追いから、10騎の騎馬武者が駆けつけて、桜並木を闊歩した。それぞれの旗指物が全く違うと思ったら、一つとして同じものはないそうだ。7月に本物の相馬野馬追いがあるようなので、今度、是非とも現地に行って見てきたいものである。


【後日談】 その後、2年経過した2019年になって、相馬野馬追いを見物に行った。期待に違わず、立派な郷土のお祭りで、感心して帰ってきた。





(2017年4月 9日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:34 | - | - | - |
| 1/1PAGES |