東三河いいじゃんセミナー

豊川稲荷東京別院


 愛知県の東端にある豊根村、東栄町、設楽町、新城市、豊川市、豊橋市、蒲郡市そして田原市から成る地域を、まとめて「東三河」と称する。このたび、その東三河を紹介するセミナーが、豊川稲荷東京別院において行われた。私も参加者50人の1人として参加させていただいた。私自身は愛知県名古屋市という「尾張」の出身なのだけれど、学校行事で行った鳳来寺山を除いて、この東三河には行ったことがなかった。

奥三河の花祭


 パンフレットを見ると、私が興味を惹かれるものがいくつかある。それは、写真を撮りたくなる題材であり、豊根村には茶臼山高原、同村と東栄町と設楽町には奥三河の花祭、新城市には鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、豊橋市には鬼祭、蒲郡市には竹島、そして田原市には恋路ヶ浜である。このほか豊橋カレーうどん、豊川いなり寿司という食べ物もあるようだ。おもしろかったのは、手筒花火のパンフレットで、花火の火の粉の中に男の人がいて、それに添えられたキャプションが「罰ゲームではありません。好きでやっています。」というもので、思わず笑ってしまった。

手筒花火


 セミナーでは、愛知県東三河県庁の方が、「いいじゃん」というのは、東三河の方言等の説明をされた。その後、豊橋市・二川宿本陣資料館の和田実さんが日頃の研究成果を発表されて、なかなか興味深かった。東海道53次の中で、二川宿は33番目だった。本陣が一つしかない小さな宿場だったことから、かえってそれがよくて「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのこと。二川を描いた浮世絵には、お茶屋に草履がぶら下げてあり、この当時の旅人は草履を履きつぶして毎日取り換えていたそうで、現代のコンビニのような役割を果たしていたらしい。本陣には上段の間があり、これがお殿様の部屋であり、湯屋があってその中には大きな風呂桶がある。大名によっては風呂桶をかつがせて持参してくる人もいたという。まさに「マイ風呂桶」というわけだ。

豊橋市・二川宿本陣


 本陣の利用は年に40回から80回くらいだったが、幕末に参勤交代制度が廃止されてからしばらくは、最高の年で160回を超えた。これは、江戸に人質になっていた大名の奥方たちが、国元へと帰ったからだとのこと。利用形態は、小休58%、宿泊25%、昼休13%、その他4%となっていて、前後に浜松宿、吉田宿があったために、宿泊はそれほど多くなかった。こちらを利用した主な大名としては、毛利家(宿泊25回、小休72回、その他2回)、島津家(宿泊25、小休30、その他12)、蜂須賀家(宿泊16、小休48、その他1)、黒田家(宿泊57、小休11)などである。文久10年の加賀藩前田家の参勤交代の参加者数は、1969人である。うち、藩士185人、藩士の家来や従者830人、雇った足軽など686人、各宿場が用意する宿継人足268人である。これらの食事は、身分に応じて献立がはっきりと分かれていた。なるほど、こうして事細かに数字で説明されると、思わず唸ってしまう。宿帳が残っていたというが、よく調べたものだ。

手筒花火


 その後、豊川稲荷東京別院の広報係のお坊さんが出てこられて、その由来などを説明された。まず、なぜこの東京赤坂の地に豊川稲荷があるかというと、先祖が三河の大岡村である大岡越前が信仰していたからだそうだ。なるほど、それは知らなかった。もともと、愛知県の曹洞宗の妙厳寺の境内にあった守り神の稲荷だったのが豊川稲荷で、そちらの方が全国的に有名になったとのこと。これも、全然知らなかった。そのHPによると、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。・・・当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天です。・・・当別院は江戸時代、大岡越前守忠相公が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊をお祀りしています。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。豊川稲荷を信仰した方としては、古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆、渡辺崋山など武将達から信仰を集め、さらに江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。」とのこと。

豊川稲荷東京別院の狐さま


 広報係のお坊さんのお話によると、「稲荷は、日本独自の信仰である。仏教と日本の伝統信仰とどう折り合いをつけていくかと考えた末、同じものにしてしまった神仏混淆の姿」だという。神道系と寺院系があり、前者が伏見稲荷大社、後者が豊川稲荷だとのこと。確かに、私は昔から、食物神、農業神、殖産神、商業神、そして屋敷神と、実に多彩な姿をしているお稲荷さんとは何だろうと思いながら過ごしてきたが、これで少しはその由来が分かった気がする。ではなぜ狐かというと、お稲荷さんは元々は農業の神で、狐はその使いだと考えられてきたそうだ。狐は、穀物を荒らすネズミを捕まえるだけでなく、身体の色や尾の形が豊かに実った稲穂を連想させるからだという。

豊川稲荷東京別院


茶まんじゅう、ちくわ


 その後、セミナーでは、茶まんじゅう、ちくわ、お茶を御馳走になり、最後に豊川稲荷東京別院の祈祷となった。この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違う。太鼓がリズミカルに叩かれる中、力強い読経があり、途中でそれが一通り終わると、読んでいる蛇腹型の法典を、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人を読んでいただいて、祈祷が終わった。こんな形は初めてなので、いささかびっくりした。このセミナーに続いてツアーが企画されているようなので、楽しみにしたいと思っている。



(2017年1月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 18:47 | - | - | - |
白川郷と飛騨への旅

岐阜県の白川郷


 お正月の三が日を過ぎた今、岐阜県の白川郷に来ている。名古屋駅や富山県新高岡駅からだと2時間半程度で着く。そのついでに高山と馬籠宿にも立ち寄りたいが、そのための公共交通機関の乗り継ぎや宿の予約を考えたりすると面倒なので、冬景色を売り物にするツアーで行くことにした。しかしいざ現地に着いてみたら、白い雪の帽子を被った合掌造りの白川郷をイメージして行ったのに、雪はほとんどなく、それどころか春日和のようにポカポカして暖かい。わざわざ二重になったダウンコートを着て行ったのに、まあその暑いことといったらない。結局、コートを手に持ち、カメラを首に掛け、シャツ1枚で歩き回った。

白川郷荻町地区の観光協会地図


 ここ白川郷の萩町地区は、五箇山とともにユネスコの世界遺産に登録されている合掌造りの集落で、今も現に住民の方々が住んで生活しておられるところに、その言うに言われぬ価値がある。実は、私は平成14年7月29日に、富山県側から両親とともに訪れている。それからもう、15年近くも経った。父は既に亡くなったが、当時一緒に、この集落を汗をかきながら見て回ったし、近くの五箇山の「ゆー楽」という眺めの良い温泉に入って寛いだのは、今でも懐かしい思い出である。

岐阜県の白川郷


 それはともかく、ツアーバスがこちらに着いて、「ここでの時間は75分」と言われたのには、参った。ツアーでは、これがあるから困る。そんな短い時間では、ゆっくり写真を撮るどころではない。でも仕方がない。地図をもらったので、それを元に行程を考えた。すると、合掌造り民家園という野外博物館がある。15棟の建物があり、うち9棟が岐阜県重要文化財指定建造物である。これらを全て回ると、30分はかかるというので、それだと時間がない。民家園内の見学は、一つ、二つにとどめよう。それが終わったら直ぐに出て、国の重要文化財である和田家を見、明禅寺を見学し、その間にある長瀬家と神田家には、時間があったら立ち寄ろうと思った。

岐阜県の白川郷


 合掌造り民家園は、都合の良いことに、バスが停まった駐車場のすぐ右手にあるから、そこへ入った。ところが庄屋さんだった中野義盛家を見て、「これは生活感がないなぁ」と感じ、「それならやはりまだ生活しておられる家を見学させてもらった方がいい。」と思い、早々に退出して和田家に向かった。庄川にかかる吊り橋もどきの「であい橋」を渡り、対岸に着いて本通りを左に曲がる。両脇には土産物屋その他のお店があるが、目をくれずにともかく先を急ぎ、やがて和田家に着いた。白川郷観光協会によれば、「荻町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りです。江戸期に名主や番所役人を務めるとともに、白川郷の重要な現金収入源であった焔硝の取引によって栄えました。現在も住居として活用しつつ、1階と2階部分を公開しています。」という。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


 どんな家なのだろうと楽しみにしながら入場する。まず太くて黒光りする板壁の見事さに感心した。部屋の中心にある囲炉裡は、これを使って合掌造り全体を「燻」さないと、虫がつくらしい。その大事な囲炉裡の一辺が案外短かったので、意外だった。階段は急坂だったが、登って行って2階に着くと、部屋は、非常に広い。そこには蚕棚、繭かき、繰り糸器などが並んでいて、養蚕が盛んだった昔の時代が偲ばれる。壁は、合掌造りだからもちろん斜めで、太く黒光りする見事な柱に、縄が巻き付けてある。更に階段を登って3階を覗かせてもらったら、そこは当然、三角形の天井の部屋になっていた。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷。道端の溝に大きな鯉


岐阜県の白川郷。こちこちに凍った立ち木


 時間がないので、のんびりとしておられない。和田家を出て、その前のスイレン池を見て、神田家と長瀬家を外から見学した。その辺りの道端の溝に大きな鯉がいて、また、水を吹き掛けてコチコチに凍らせた木があった。ツララが垂れ下がっている。雪の塊も置いてあって、中国語を話す一行がそれに触って喜んでいる。通り過ぎて、明禅寺に至った。庫裏が合掌造りで、本堂と鐘楼門も同じような茅葺きだ。それらを撮っていたら、タイムアップとなり、駐車場に戻らざるを得なかった。なお、時間があれば、集落全体を眺められる小高い展望台に行きたかったが、冬季は閉鎖されているとのこと。桜の季節には、良さそうだ。

岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷


岐阜県の白川郷。道端の溝に大きな鯉


岐阜県の白川郷。こちこちに凍った立ち木


 さて、次に連れて行かれたのは、「飛騨の里&民族村」である。そのHPによれば、「飛騨高山の集落博物館『飛騨の里』には合掌造りをはじめとした飛騨の古い貴重な民家が移築復元され、なつかしい農山村の暮らしや昔から飛騨に伝わる季節の行事を再現し、未来へ伝えています。」とのことである。もう、こんなに暗くなってきているのにと思ったが、ライトアップがされると、風景が一変した。池の手前に観光客がいて、甘酒などをいただいている。その手前には、篝火が焚かれ、対岸の合掌造りの家屋にグリーンのライトが当たって、実に綺麗だ。その光景が手前の池にまた映り、しかもそれに林の木々が視界の中へと入って、誠に素晴らしい。なるほど、これだけを目当てに観光客が来るわけだと、よくわかった。

飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


飛騨の里


高山まつりの森


 それから、「高山まつりの森」に移動して、飛騨の和牛のすき焼きを食べた。なかなか美味しかったが、それにしても和牛のお肉がお代わり自由で、野菜と卵のお代わりは有料というのは、理解しがたいものだった。東京だと逆なのにと思ったりもしたが、こちらでは、野菜より肉の方が余っているのかもしれない。その晩は、近くの「ホテルアソシア高山リゾート」というところに泊まった。建物や浴室は古いが、清潔だし、何よりも、日本のホテルにしては客室が少し広いのがいい。大浴場は、それなりに普通で、可もなし不可もなし。ただし、部屋に使い捨てスリッパがないのは、気に入らない。温泉に浸かって温まり、気持ち良く寝たと思ったら、明け方、寒くて目が覚めた。なんと、暖房が止まっている。寝るときには、点いているかどうかちゃんと確認して寝たのに、これはどうしたことかと思いつつ、再び点けて、朝寝をした。後刻、バスのお客さん仲間に聞いてみたら、自分の部屋の暖房は大丈夫だったというので、ホテル側が意図的に消したのではなく、どうやら機械の不具合らしい。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 翌朝はバスで高山市内に入り、まず向かったのは、国の史跡「高山陣屋」である。高山は江戸期には天領だったので、要はその代官屋敷というわけだ。いただいたパンフレット等によれば、「元禄5年(1692)、江戸幕府は飛騨を幕府直轄領としました。その理由は、豊富な山林資源(木材)と地下資源(金(きん)・銀・銅・鉛)であったと言われています。それ以来、明治維新に至るまでの177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、行政・財政・警察などの政務を行いました。御役所・郡代(代官)役宅・御蔵等を総称して陣屋と呼びます。明治維新後は、主要建物がそのまま地方官庁として使用されてきました。現在の姿は、岐阜県教育委員会が、江戸時代の高山陣屋の姿がほぼ再現されるよう、修復・復元したもの」で、「幕末には全国に60数ヵ所あったと言われている郡代・代官所の中で、当時の建物が残っているのはこの高山陣屋だけです。」とのこと。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 早速、高山陣屋内を見学する。天保3年に建てられた表門をくぐって玄関之間に入ると、その壁いある青海波の模様が目にとまる。文化13年(1816)の改築以来、変わっていないそうだ。廊下を歩いて大広間に行くと、書院造りで、「義」と「孝」の掛け軸が下がっている。なかなか良い。これはもう、論語の世界だ。「忠」は見当たらなかったが、別に取っておいてあるのかもしれない。そこから眺める庭には、松の木、サツキ、飛び石がバランスよく並んでいる。簡素をもって、旨としているようだ。吟味所・お白州には、罪人を入れた籠が置かれていて、生々しい。台所では、竃に大きな釜が3つ、デンと置かれていて、なかなか迫力があったし、蔵には、年貢米の俵が、山と積まれていた。総じて、私には全く違和感なく、すぐにでもここに住み、執務ができそうである。200〜300年の時の違いはあれ、役所でやっていることは、昔も今も、案外同じなのかもしれない。

ホテルアソシア高山リゾートからの眺め


高山陣屋


高山陣屋


高山陣屋


 高山では、たった60分しか時間が与えられていないので、あまりゆっくりはしておられない。陣屋を出て、三町伝統的建造物群保存地区を散策し、手当たり次第に写真を撮りまくる。道は狭く、家々は京都のような黒い細い格子を基調にして、両脇に並んでいる。なるほど、江戸時代は、こういう雰囲気だったのかと思う。そうやって上三之町と上二之町を行ったり来たりしているうちに、タイムアップとなってしまった。高山祭りの山車会館に行きたかったが、とんでもない。テレビによると、高山祭りの山車では、人形をたくさんの糸で操る妙技が見られるので、次回の楽しみとしよう。それにしても、昨日の白川郷と違って高山は寒い。毛糸の帽子を被っていても、頭の芯まで寒くてたまらない。手には手袋をしないと、かじかんでくるから困る。気温は、0度だから、当然か。暖かいバスに戻って、ホッとした。

雪のない「雪見ローカル列車」


 次に高山駅から「雪見ローカル列車」に乗るという。高山本線(と言っても、単線だが)、北は富山、南は岐阜駅経由で名古屋に繋がっている。路線図を眺めていると、下呂温泉があるから「下呂駅」というのはわかるが、「上呂駅」というのがあるとは知らなかった。今回は、そちらに向かう岐阜方面に2駅走った久々野駅(くぐの)まで乗るだけだ。電車は出発した。ところが悲しいかな、「雪見」とはほど遠く、雪が全くない。何とも間の抜けた企画だった。

 久々野駅から、舞台峠というところでお昼の休憩となった。「炊きたての日本一の米 銀の朏(みかずき)」を食べる」ということだったが、このお米は本当に美味しかった。ついお土産に、新米・特別栽培米(つまり、農薬使用量が半分)の「銀の朏」を1キロ、1,050円を買ってしまった。私は普段から、お米を買うようなことはまずないので、これが高いのかどうなのかは、よくわからない。そこを出て、これから「明治座」に行くという。東京の日本橋にある明治座が、こんな鄙びたところにあるなんて、あり得ない。よくよく聞いてみると、「かしも明治座」というらしい。


加子母(かしも)明治座


加子母(かしも)明治座


 不得要領のまま、バスはますます田園風景そのものの中に分け入っていく。こんな山の中に、お芝居の建物があるとは思えないと考えていたところに、バスが止まった。そこで見たものは、幟が1本立つ、要するに芝居小屋である。とは、岐阜県中津川市にあって江戸時代から明治時代にかけ、ここ美濃や飛騨では、地元の人々による地芝居が盛んに行われていたそうな。そのために、数多くの芝居小屋が建てられ、この加子母(かしも)明治座もその一つだそうだ。岐阜県の観光HPによると、「今から100年以上も前に加子母の人々によって作られ、今も脈々と守られている劇場です。間口約20m、奥行き約25m。建設当時のままの姿を保つこの劇場は、今もなお現役。毎年9月、加子母歌舞伎保存会による公演会をはじめ、クラシックコンサート、落語会など、様々な催しを行っています。明治27年に建てられた芝居小屋は、常時開館、回り舞台や奈落の見学も自由。案内人が常駐して、館内の説明もしてもらえます。」とのこと。

加子母(かしも)明治座


加子母(かしも)明治座


 中に入ると、地元のおじさんが、それこそ一生懸命に説明してくれた。「村の人が総出でこれを作り、維持してきた。加子母村は檜の産地で、伊勢の神宮備林がある。姫路城改築の際は、ここから樹齢800年の檜を切り出したが、途中で落として折れてしまったのをそのまま運んで、接木して使っている。この明治座の屋根は板葺きであるが、あと20年もすればまた葺き替えの時期が来る。しかし、そのときまで我々が生きているとは限らないので、少しでも費用の足しに1枚500円を出してもらって、屋根を葺くためにとっておきたい。」というので、私も寄付して、自分の住所と名前を書いてきた。また、おじさんの説明が終わってから、舞台裏を見学させていただいた。役者の楽屋、そこに描かれた役者の「落し書き」、小道具部屋(素朴な手作りの小道具)、舞台真下の廻り舞台の仕掛けなど、こんなところまで見せてくれるのというところまで見て、花道に開いた穴(スッポン)から出て来た。いやあ、実に面白かった。村の皆さんが、大切にしている理由がわかったような気がした。なお、中村勘三郎さんが、こちらを贔屓にしてくれるようだ。四国の金比羅さんの金丸座を思い出した。

 思うに、この芝居小屋ができた明治時代には、もちろん今のようにテレビがあるわけではない。その一方で自然環境は実に厳しい。唯一の娯楽といえば、年に一度のお祭りと、地元の人たちによる地芝居や巡業によって回ってくる買芝居だった。村の人々は、それをさぞかし楽しみにしていたのだろう。だからこそ、皆で力を合わせて、この芝居小屋を作ったに違いない。天井にはこの地、加子母の特産である大きな檜木が使われている。そのおかげで、柱がないから客席には死角がなく、末席からでも舞台を隅から隅まで見られる。舞台の娘引き幕(緞帳)に目をやると、なんと近在の主婦の手縫いだという。よくよく見れば、模様は、各家の屋号の模様と主婦の名前ではないか。小道具部屋にあった素人作成の生首といい、手作り感が満載の芝居小屋である。感激した。この先も末永く、地域の皆さんの手で、この芝居小屋を守って行っていただきたいものである。


馬籠宿


馬籠宿


 次は、馬籠宿だという。私は、大学4年生のときに日本縦断旅行をしたが、そのとき以来だから、ほぼ半世紀ぶりの再訪となる。登り坂の登り口には水車があり、その近くの旅館に泊まった。そのときの写真も残っている。果たして同じ旅館は、まだそこにあるのだろうかと期待が高まる。バスは、その坂の上に止まった。そこから下りていくらしい。間の悪いことに、雨が降ってきた。加えて風も、かなり強く吹いてくる。折り畳み傘を開いて、風に抗おうとしたが、なんと、風に負けて、キノコ状になってしまった。「骨組みが結構しっかりしたものなのに、これはどうしたことか、こんな筈はない。」と思って無理に開いたところ、開くには開いたものの、元々壊れかけていた部分が、完全に駄目になった。しかし、閉まらないだけで、とりあえずはそれで雨を凌げるから、そのままバスの一行とともに馬籠宿の坂を下りて行った。次は馬籠観光協会の散策マップの一部であるが、(1)がバスを降りたところで、石畳の下り坂は、ここから始まる。

馬籠宿散策マップ


 降りしきる雨風の中、ツアーガイドさんを先頭に皆でこの坂を降りていったが、私は写真を撮るのに夢中で、バス一行を見失ってしまった。それが(2)地点だ。これは困った。バスとの待ち合わせ場所を聞いていなかったではないかと思ったが、そのまま急ぎ足で下って行って坂下の土産物屋でバスを発見して事なきを得た。それが、(5)地点である。後からガイドさんに、「何処にいたの。」と聞くと、皆で(3)のうさぎやに入ったらしい。私は坂をどんどん下って行ったので、のんびり見ている暇はなかったが、学生時代に宿泊した宿屋は、まだ覚えている。それが、(4)地点の「坂の家」である(ただ、今は食事の提供だけで、民宿は営んでいないようだ)。隣の水車小屋とともに、実に懐かしい。それにしても、強い雨風の中、下り坂ですべって転ばなくてよかった。

大雪の中央自動車道


 さて、馬籠宿を出るとき、雨が雪に変わった。それが結構な降りになり、あれよあれよという間に一面が雪景色となった。飯田で最後の土産物屋さんに立ち寄ったときには、5センチほどの積雪だ。バスの運転手さんが、中央自動車道が通行止めにならなければいいがと気を揉む。もう午後5時近くで、まだこんなところにいるようでは、いつ東京にたどり着くかもわからない。ともあれ、中央道をひたすら走った。途中、諏訪湖インターで、夕食のお弁当を積み込んだ。来るときは雪が全くなかった諏訪湖の周囲が真っ白だ。雪が全くなかったのが、つい昨日のこととは思えない。その辺りから、笹子トンネルを抜けるまで、最高速度が50キロに制限され、しかもかなりの渋滞だ。途中で2件の事故を見た。いずれも軽乗用車で、雪の塊に突っ込んで、身動きが取れない。なるほど、車体が軽くて小さいとこうなるのか。その一方、渋滞の中で時間は刻々と経っていく。大月を過ぎた辺りから、やっと走り出した。ようやく、新宿に到着したのは、午後10時を回っていた。最後は、いささか疲れたが、あちこちを見て回ることができたので、今回のツアーはとても面白かった。







 白川郷と飛騨への旅(写 真)






(2017年1月8日記)


カテゴリ:エッセイ | 18:07 | - | - | - |
医師倫理の欠如

協会けんぽのパンフレット「健診の概要」からその一部の健診項目


 私と同じマンションに住んでいる人で、私より数歳、年上の方がいる。誠に快活な自営業の人で、商売が上手く回っていることから、仕事はもう息子に譲って、悠々自適の生活をしておられる。自他ともに認める健康体であり、ゴルフが何よりも好きで、自分がメンバーとなっているゴルフ場に週に数回通うほか、海外にもしばしばゴルフに出かけていた。お顔も日焼けして、つやつやと黒光りしている。また、美食家の健啖家で、美味しいものとお酒には目がない。とりあえず、以下では「健康おじさん」と呼ぶことにしよう。

 たまたまこの半年ほど、その健康おじさんに会っていなかったが、つい最近、久しぶりにお会いしたと思ったら、顔がひと回り小さくなっているし、顔の艶も張りもなくなっている。「あれ、どうかされたのですか?」と聞いたところ、力なく「いやそれがね、肝臓ガンになってしまって、2回も手術を受けたのに、まだ取り切れないんですよ。」という。「あれれ、それは大変ですね。お大事になさってください。」といって別れた。

 後から、家内が健康おじさんの奥様から聞いたところによると、こういうことだったらしい。かれこれもう15年間も、近くの個人病院で健康診断を受けて、問題点は特に指摘されていなかったのに、調子が悪くなって、たまたま大学病院で診てもらった。すると、末期の肝臓ガンで、もう相当、あちらこちらに転移していることがわかったという。もちろん肝臓内でも散らばっていることから外科療法ができず、ガンの部分に薬剤を注入する「エタノール注入療法(PEI)」で対処したとのこと。

 そこまでは予想の範囲だが、問題はそこからで、「近くの個人病院で15年間も健康診断を受けていながら、分からなかったのですか?」と聞いた。すると、奥様は声を潜めて、「いや、分かっていたのよ。分かっていたから、何かその関係の薬を長期間寄越して、放って置かれたのよ。自分で治療できないのなら、さっさと大学病院へ紹介状を書いてくれれば良かったのにね。敢えてそうはしなかったようなのよ。もう本当にひどい話だわ。」と、声を潜めて言ったそうだ。なぜそうわかったのかというと、ガン保険に入っていたので、その支払いを受けようとしたところ、保険会社の方から、かかりつけの病院の記録によればガンだとずっと昔から分かっていたので、告知義務違反だから支払いはできないと言われたからだそうだ。

 ははあ、なるほど、この個人病院は、自分の顧客を取りこぼしたくなくて、顧客の健康などそっちのけで、医院の経営を優先したらしい。それが本当なら、とんでもない話ではないか。我々の言葉で言えば、信義則違反、いや、そもそも診療契約違反だろう。医師としての倫理が欠如しているどころか、医師免許の取消しにも値する行為だ。これだから、自分の健康は、自分の頭を使って守るしかないと思うのである。

 もっとも、私自身も過去15年間ほど、総合病院だが同じ病院の健康診断を継続的に受けている。そうすると、年によっては、こういうことがあった。
 「眼科で念のために精密検査を受けて下さい」と言われて検査を受けると、「ああ、なんでもありません」ということになり、
 「胆管の太さがが普通は6ミリ程度なのに、あなたは8ミリですから、専門医の診察を受けて下さい」と言われておっかなびっくり診察を受けると、1年間ほど何回も超音波検査を受けた挙句に、首を振り振り「どうもあなたは、生まれつき胆管が太いようです」と無罪放免になったり、あるいは
 「甲状腺が脹れているようですから診察を受けて下さい」と言われて診察を受けると、結局、実家から送られてきた「とろろ昆布」をたくさん食べたからだろうと、笑い話のようなことになったりした。

 こういうのは、前述の近くの個人病院の態度とは真反対であり、見方によれば前広に懸念事項を告げてくれるから安心だと思える反面、逆にこれを余りやり過ぎると、羊使いの「狼がきた」の類と同じで、受診者が高をくくってしまって効果がなくなるという気がするから、これもまた、困るのである。病院選びは、ことのほか難しいと、改めて思った次第である。




(2017年1月4日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:29 | - | - | - |
世界のテノール歌手

帝国ホテルの正月の飾りつけ


 今から40数年前のことである。私は、上京して就職し、一生懸命に仕事をしていた。ところがそれは、連日、明け方まで残業をするとてつもない激務で、月間の超過勤務時間は230時間を超えていた(注1)。今なら、過労死が問題になるレベルだ。しかもこれを何年も続けていて、その間に結婚し、子供もできていた。今振り返ると、一体どうやって生きていたのか、我ながら不思議に思うくらいである。強いて言えば、仕事に使命感と誇りがあったし、それに若かったし、家族の助けがあったからこそ、耐えられたのだろう。

 私が勤務する霞ヶ関のオフィスは有楽町に近かったので、お昼は時々有楽町まで歩いて行って、普通のサラリーマンの食事をしていた。そんなある日、こう思った。「こんな明け方まで、コマネズミのように働いていると、精神的に貧しくなる。せっかく東京まで出てきたのだから、少しは晴れやかな知らない世界を覗いてみよう。」と。そういう中、有楽町のレストラン街に行く途中にある帝国ホテルを見上げた。「そうだ、ここでお昼を食べてみよう。」という気になった。少しばかり、懐が寂しくなるが、気分転換が優先だ。そこで、帝国ホテル脇の入口の右手にあるレストラン(向かいに帝国劇場のある通りに面した現在のパークサイド・ダイナー)に入ってみた。当時、街の喫茶店でジュース1杯が100円台だったところ、帝国ホテル最上階の喫茶室では確か1,200円もしたから、こちらの昼食代もかなりのものかと思ったが、案外そうでもなかったことを覚えている。


帝国ホテルの外観


 私がそうやってホテル食を味わいながら食べていると、あるご老人が、ゆっくりとした足取りで入ってきた。髪はほとんど銀髪で、それとよくマッチしたグレーのブレザーを着込み、ポケット・チーフをするなど、実にお洒落でダンディな、おじいさんだ。脚がお悪いらしく、ステッキを付きながら、それでも背筋をなるべく伸ばしつつ歩き、案内されることもなくどんどんと進んで、隅っこの席にどっかと座った。その人の定席らしい。そして、ボーイさんと慣れた様子で会話を交わしていた。時折、眼鏡越しに実に魅力的な笑顔を見せるのである。地方出の私は、「ああ、まさしくジェントルマンとは、このことだ。東京には、こんな魅力的なおじいさんがいるんだ。」と、感激したものである。ただ者ではないなと思って、ボーイさんに聞くと、「藤原さんです。」と、小声で教えてくれた。あの、藤原影劇団の創設者の藤原義江さんだ。

 それから、半世紀近くも、このエピソードは私の頭の片隅に仕舞われて、そこから出てくることはなかったのだが、先日、「日経回廊10号 ホテルに暮らす」に、「藤原義江と帝国ホテル」という記事を見つけて読み進むうちに、この記憶がまざまざと蘇ってきた。その記事の内容をかいつまんで紹介すると、次のようなものである。

 「藤原義江は、19世紀の終わりに、下関在住のスコットランド人ネール・ブロディ・リードと、琵琶芸者の坂田キクとの間にできた非嫡出子である。20歳のときにオペレッタ公演を観にいき、これなら自分もできると思って浅草歌劇団に入り、イタリアに留学した。ハンサムで大柄で、本場で勉強して歌も上手い藤原は、ニューヨークでも絶賛され、レコーディングをするなど活躍して、大正の終わり頃、日本に華々しく帰還した。超一流ホテルの一番安い部屋に住むのを旨として(注2)、帝国ホテルに投宿した。人妻との世紀の恋を繰り広げ、女性歌手からは『お話は上手で文章も素晴らしい。最高におしゃれで一度会ったら忘れられない魅力と優しさがあった』とか、『小物ひとつに至るまでこだわりがある。今の方にはない風格がありました』とか、『食事中のマナーは素晴らしく、絶対に悪口はいわず、ほほえみをたやさなかった』などと評された。」という。

 なるほど、大勢の観客を魅了するオペラ歌手たるもの、女性に愛され、身の回りのものにこだわりがあり、立派な社交マナーを身に付けるなど、まさにこうでなくっちゃと思う次第である。ところで、私も藤原義江さんの晩年の年齢に近づいてきた。我が身と藤原さんとを比較して、つくづく考えさせられる。まず服装だが、オフィスではもちろんイージーオーダーの背広しか着ていないし、普段着といえば下はユニクロ、表はせいぜい平均的なアパレル会社の製品だ。それに、肝心なジェントルマンとしての教養だけれども、私は、趣味はオペラも歌舞伎も古典もさっぱりで、知識は生業の法律に偏っている。身のこなしは、オペラ歌手のように背筋を伸ばしてというわけにはいかず、気のせいか、最近は前かがみにならないように意識をしないといけない。要は年齢相応の平均的日本人なのである。また、職業柄か、誰にでもにこやかにというわけにはいかなくて、むしろ謹厳で怖そうなどという印象を与えているのではないかと反省することしきりである。まあこれは、育ってきた世界と職業が全く違うので、仕方のないことかもしれない。

 それにしても、藤原義江さんの破天荒なことといったらない。何回も結婚と離婚を繰り返し、愛人を何人も作り、洋服を仕立てては踏み倒す(もっとも、洋服屋さんは踏み倒されるのを薄々知りながら、大将のためならと喜んで作る)。みずから率いる歌劇団がアメリカで巨額の詐欺に遭う。自宅を銀行の担保にとられて失う。晩年を帝国ホテルで過ごしたときは無一文だったが、昔、世話になったというビクター、昭和音楽大学のほか、たくさんいた彼女たちの中の一人が家を売ってまでして、宿代を支払っている。

 美食家で、帝国ホテルのレストランやグリル小川軒には、藤原義江ゆかりのメニューが未だに残っている。最晩年には、車椅子には絶対に乗らず、壁伝いに歩いてダンディズムを貫いたそうだ。ともかく、規格にはまらない人で、歌以外にそこがまた魅力だったのだろう。





 さて、お正月に、その帝国ホテルの前に行くと、道路に鈴なりの応援団がいる。その大歓声に包まれて、箱根駅伝のランナーがひたひたと通り過ぎていった。写真を撮ったら、ランナーの両足が地面から離れて空中にあるではないか。なるほど、これでは早いはずだ。




箱根駅伝のランナー




(注1)週5日、毎日平均午前4時までとして1日10時間の超過勤務だから(1) 月200時間、(2) 当時の土曜日は半どんで平均午後8時までとして(1) 月32時間、合計で(1)+(2)=232時間。今から思うと、よく病気にならなかったものだと思う。まあ、一生懸命だったし、若かったし、東京で仕事ができる喜びがあったからこそだろう。ちなみに、超過勤務手当などほとんどなく、今の言葉で言うと、いわゆるサービス残業だった。

(注2)「超一流ホテルの一番安い部屋に住むのを旨」とするのはなぜかという理由を聞いて、笑ってしまった。それは、客船の場合は等級ごとにサービスが異なるが、ホテルであれば、そのお客である限り、全てのバーとレストランが使えるからだそうだ。お金持ちなのか、ケチなのか、よくわからない発想である。




(2017年1月3日記)


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東南アジアの不動産事情

近くの同様のマンション


 先日、私の自宅近くのマンションの部屋について、その摩訶不思議な価格設定に驚いたものである。それからわずか2週間しか経っていないが、この年末の休みは、東南アジアに滞在している。当地にいると、日本と比較して、まるで冗談のような面白い話が色々と聞ける。そこで、今度は東南アジアの不動産事情について、記しておきたい。

 まずシンガポールといえば、日本を遥かに凌ぐ経済発展を遂げて、大成功を収めている国であるが、その唯一の泣きどころは国土が狭いことである。だから、フェリーで50分のところにある隣国のインドネシアのビンタン島で、政府間の共同プロジェクトによりそこを一大リゾート地にして、シンガポール経由の観光客を誘致して成功している。土地はないが、知恵と商才があるので、他人の土地を借りて商売をしているようなものだ。同様にマレーシアとの間でも、シンガポールに面するジョホール州において、両国政府で共同開発するイスカンダル計画が進行中である。これは、マレーシア国内の未開発地域を利用して、シンガポール並みの経済発展地域をその3倍の規模で作ってしまおうという野心的なプロジェクトである。

 ただこのイスカンダル計画には、難しい課題がある。シンガポールがなぜあれほどの発展を遂げたかというと、リー・クアンユー元首相の類い稀な指導力と、クリーンで能力の高い政府があったからこそである。ところが、マレーシアはというと、かつては立派な世界観を持ち強力な指導力があったマハティール元首相がいた。その路線で今や中進国から先進国への仲間入りをしようとしているが、このところ足踏みが続いている。というのは、その後継者について指導力に不足があったり、1MDBを通じた腐敗の影が見え隠れしたりするという有り様である。市場はそういう政治の混乱を見てとったかのように、通貨のリンギットは対ドルで下落が止まらない。そういう意味で、マレーシア・ジョホール州でのイスカンダル計画の先行きを懸念する向きもある。

 日本でも、ジョホール州のイスカンダル対象地域で売り出されているマンションの広告を、しばしば目にする。私は、退職後は家内と2人で京都や奈良に長期滞在するのもいいな、いや場合によっては、かつて住んでいたシンガポール・マレーシア地区のマンションを購入して、そこでしばらく外国暮らしてもよいなと思っていたので、現地の不動産事情がどうなっているのか、大いに関心があった。そこで、機会があれば見聞してみたいと思っていたところ、このたび、たまたま日本人を対象とするマンション説明会に参加することができた。実は、その説明会そのものよりも、そこで参加者から聞いたよもやま話の方が、はるかに面白いものだった。

 その人は、クアラルンプール郊外の日本人街といわれるモント・キアラに住んでいて、都心の「ゴールデン・トライアングル」といわれる日本で言えば、丸の内と銀座を合わせたような経済の中心地で仕事をしている。そこから、車で15分ほどの小高い丘の上に立つ38階建ての高級マンションの34階の一室を購入し、そのオーナーとなった。ただ、住居表示は33Aだという。なぜなら、中国人の間では「4」という語は、死を連想させて、よろしくないからだそうだ。ついでに言うと、そのマンションでは、エレベーターにも「13階」「14階」という表示はなくて、それぞれ12A、12Bとなっている。そのように、当地では、縁起担ぎは徹底している。

 そのオーナーが、「まあ、見にいらっしゃい。」と言ってくれたので、説明会に出た何人かと一緒に、お言葉に甘えてそのマンションにお邪魔した。建物を見上げると、高層マンションだけあって、確かに他の低い建物群を睥睨するように建つ、実に立派なマンションである。もちろん、敷地は高い塀に囲まれていて、入り口にはガードマンが24時間張り付いており、出入りする人や車をチェックしている。出入りの車には、白色のカードが渡されており、それをカメラにかざすと、ゲートが開く仕組みである。カードが斜めに提示されても、ちゃんと反応するから、上手く出来ている。建物に入るときもガードマンがいるし、その同じカードを読取り器械に提示しないと入ることができないし、エレベーターも動かない。なるほど、これは安全だ。

 その部屋は、日本人の感覚では、実に広くて立派なものである。150m2もあるそうだ。ベッドルームが4つ、リビングルームは広々とし、台所は少し狭いとはいえ、ユーティリティ・ルームとサブ・スペースを合わせれば、我が家のリビング・ルームほどもある。天井も高い。3mはあるのではないか。部屋の外に目をやると、眺めは非常によい。かたや街の高層ビル群が、もう一方では山々が見える。何と素晴らしい眺望だろう。

 こういうところに夫婦で住み、美味しくて価格も手頃な当地の中華料理を堪能し、社交クラブで気の置けない仲間と談笑して共にゴルフを楽しみ、時間があれば同じマンションの8階に降りて行って、ジムで汗を流し、卓球をし、プールで泳ぐというのは、人生最高の贅沢ではないか。アストロという衛星放送で日本のNHKの国際放送を観られるし、日本人コミュニティもしっかりしている。お金を出せばちゃんとした医療サービスも受けられる。我々は2人とも英語を話すから、ローカルの皆さんとの意思疎通は十分にできるので、全く問題はない。

 日本はもう、人口も減る一方で、経済成長は望めない。ところがこの国は、若者が多く、教育もしっかりしていて石油や天然ガスという資源が豊富であるし、電子機器などの工場が数多く立地していて国際貿易が順調に発展している。年に何ヶ所も大型ショッピングモールが開業し、行くたびに街の様子が変わっていて、どこもかしこも燃え立つようにギラギラと成長に向けて走っている。新しい大型ショッピングモールを歩くたびに、こんな熱気がこれからの日本にあるだろうかと寂しくなるのは、私だけではない思う。いずれにせよ、これだけ沸き立つような社会だと、新しく見たり聞いたりすることがとめどもなくあるはずだから、退職後にこちらに移住しても、認知症で惚けているいとまがないと思うくらいだ。

 話は横道に逸れたが、このマンションの部屋は、本当に良くできている。入り口の瀟洒な鉄格子とは思わせない飾りグリル、造り付けの家具、美しく機能的な台所と洗濯部屋など、素晴らしい。ところが、よくよく聞いてみると、これらは全て、この人自身が注文して作らせたそうだ。日本だと、新しくマンションを買うと、それなりの装備が何から何まで備わっているから、そこに住む人は、ソファー、ベッド、家具や電気製品は別として、極端に言えば、照明器具さえ買って取り付ければ、すぐにでも住める。

 ところが、このオーナーは、マンションの引き渡しを受けて半年ほどかかって改造をして、やっと人が住める状態にしたという。つまり、引き渡しを受けた状態では、とても住めるものではなかったという。たとえば、

 (1) 入り口に防犯グリルがなく、木のドア1枚だから防犯上危険、
 (2) 部屋の中のコンセントの数が不十分で 置きたいところにテレビ、照明、空気清浄器などを置けない、
 (3) 天井に配線コードがむき出しでそのままでは照明や天井扇が付けられない、
 (4) このクラスのマンションでは、造り付けの家具が普通であるがそれがない、
 (5) シャワールームには温水器が必須であるが、水しか出ないしそのための配線がない、
 (6) 台所に換気扇がないので付ける必要があるが、外壁にそのための穴すら開いていない、
 (7) 台所のシンクの品質が悪く気に入らないので全部を輸入品に替えた、もっとすごいのは、
 (8) 洗濯部屋に見えたところが実はバルコニーだったのを、壁を作って小部屋にしてしまった、という。

 いやはや、こうなったら、新築マンションというのは単に材料にすぎず、大幅な改造を要するということだ。そうでないと住めない。だから半年もかかって一分の隙もない部屋を作り上げたのかと納得した。

 しかもそう単純な道のりではなかったらしい。まとめて改造を請け負う業者は見当たらない。だから、仕事を分けて、自分で別々のコントラクターにやってもらうことにした。まず、電気の配線のやり直しと各部屋の照明、天井扇の取り付け、コンセント増設は電気屋、造り付け家具は大工、台所のシンクの取り替えは水道屋、洗濯部屋への改造はミニ工事屋といった具合である。

 これらコントラクター相互の調整はもちろん大変だったが、それより個々のコントラクターの勝手な振る舞いに悩まされたらしい。中でも一番に難航したのは電気屋で、当初2ヶ月の工期の予定が何だかんだと延ばされ、結局4ヶ月半もかかったそうだ。これができないと家具が取り付けられないので、さんざんやり合ったが、あまり強く出たりすると、仕返しに漏電するような仕掛けをされても困るので、何とか宥めすかして、仕上げてもらったそうだ。なるほど、これは奥が深い。あるいは、大工が途中でストライキを起こし、追加料金を求められたりしたという。そういう名うての連中と渡り合って、何とか人が住めるように完成させたときは、もう感無量だったそうな。さもありなん。それにしても、歳をとって海千山千のこんなコントラクターとの交渉など、できるはずもない。

 ところで本題のこのマンション価格はといえば、日本円で3,900万円、改造費と家具や電気製品の購入費が600万円で、合わせて4,500万円だそうだ。広さとロケーションを考えると、まあまあの値段である。このオーナーは、自分でコントラクターと交渉してやり遂げたが、探せばそういう面倒な改造を請け負ってくれる業者がいるはずだと思う。しかし、私はそこまで熱心になるつもりはないので、特に調べてはいない。なお、当地の人々は、新築物件を売るのになぜオーナーの改造を前提にしているのだろうかとか、買う側としてはなぜ面倒な改造をしようとするのかという点が疑問に思うところである。これについては、「当地の人の気質が、他の人と同じ家は嫌で、自分独自の仕様の家にしようとする嗜好が強い。そのためには、良いものなら少しでも安く手に入れる交渉も厭わない」からだそうだ。

 確かに、当地の人は、市場の商人やコントラクターなどと、日常的に交渉し、阿吽の呼吸で値切る習慣があるから、そういうやり取りが生活の中に自然に組み込まれている。ところが、私を含めて今の日本人はもう、このように値切って1円でも安くという日常生活の習慣を失っているから、日頃の細々とした買い物ならともかく、不動産のような大物を本音の値段にまで値切るのは、なかなか難しいだろうと思う。かくして、当地でのマンション購入は、ますます遠のいた感がする。2〜3年程度滞在するのなら、やはり、賃借した方が無難である。

 ただ、日本の場合、マンションは新築が好まれるのでその価格は買った途端に下がりだし、10年もすれば半額になることも珍しくない。ところがこちらは、立地条件がよければ、オーナーが手を加えた分だけ値上がりし、不動産市況にもよるが、買ったときの価格より、はるかに高く売れることが多い。たとえば、10年物のマンションでも、周辺の地価が上昇して2倍近い価格でも売れることがあったという。それだけ経済が成長している証左なのである。残念ながら、日本では、東京23区以外では、望むべくもない。経済の勢いの差とはいえ、いささか寂しい限りである。おっとまた、老経済大国日本についての、老人の愚痴になってしまった。




(2017年 1月 1日記)


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