北陸なつかしの旅

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1.旅行プラン

 私は、普段、座って日がな1日中、書類を読んだり書きものをするのが日課である。要するに座り仕事なものだから、これまで、地下鉄の駅などで階段を見ても、歩いて登るようなことは、まずなかった。ところが、半年で10キロのダイエットに成功し、更に半年経ってそれが定着して身体が軽くなった。加えて、週2回のハードなテニスで、少しは筋肉が付いたのかもしれない。階段を見たら、進んで登ろうという気が出て来たから、我ながら変わったものだ。そうやって階段を登っていると、身体の隅々にまで力が行き渡る感覚がして、心地よい。

 それで体力が付いたことを実感したので、今年になって全国各地の「お祭り」を見物に行くということを始めた。お祭り見物は、昼から夜にかけての長い時間にわたる上に、知らない土地を歩き回って、かなり体力を使う。体力が乏しかった去年だったら、すぐに音をあげていたはずである。しかし、今は違う。この機会を逃すと、いつ行けるか分からない。そういうことで、4月は木曽の御柱祭り、7月は京都の祇園祭り、8月は青森のねぶた祭りに弘前のねぷた祭りと、深川の富岡八幡宮水掛け祭り、9月は岸和田のだんじり祭り、10月は佐倉の秋祭りという具合に各地へ出かけた。

 そのうちに秋も深まり、お祭りのシーズンが終わりかけてきた。12月2日と3日にはには秩父祭りがある。これは素晴らしいお祭りだけれども、5年前に行ったことがあるので、どうしても行きたいという気もしない。さて、体力は余っている。どうしたものかと思っていたところに、北陸フリー切符のチラシを見た。北陸新幹線で金沢まで往復できる上に、特急の自由席が乗り降り自由だという。最南端は在来線で福井県の三方まで行くことができる。これを使って、富山県にいる母や妹たちに会うだけでなく、金沢の友だちと久しぶりに会える。

 それだけでなく、さらに南の福井県は、半世紀以上も前に、私が小学校から中学校にかけて住んでいたところである。地図を眺めているうちに、懐かしさがつのってふと行ってみる気になった。この機を逃すと、もう行く機会はまずないだろう。嶺南地方の敦賀には、小学校2年生から4年生までいた。私が標準語を話すことを理由にいじめられもしたが、それよりかつて住んでいた家の近くにあった氣比神宮はまだあるのか、よく小鮒やメダカで遊んだ田圃はどうなっているのだろうかなどと思うと、是非とも行ってみたくなった。

 そこから引っ越した先の福井市は、言葉を理由にいじめられるようなことはなかったし、気候や食事が性に合ったせいか身体の健康を取り戻し、友達もたくさん出来て、楽しいことが多かった。だから福井市には、それ以来、数回、訪ねたことがあり、最近の事情はある程度分かっている。そこで今回は、旧居や市内を見てくるほか、一乗谷の朝倉遺跡を見物することにした。織田信長に滅ぼされた朝倉氏の遺跡は、私が前回訪れたときには、まだ発掘や整備が進んでいなかったので、今回はそれを見る良い機会である。時間があれば、一筆啓上で有名な丸岡城にも行ってみよう。小さいころ、遠足か何かで見学したことがあるから、半世紀ぶりの再訪になる。そういうわけで、旅行プランがまとまった。いわば、北陸感傷旅行というわけである。


2.金沢の割烹料理


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 金沢の友だちに連絡をとると、幸いなことにその日は空いているというので、夕食を共にすることになった。奥様も存じ上げているからご一緒したいと思っていたが、残念ながら他に用があるらしく、旦那さんだけとなった。金曜日の午後に北陸新幹線かがやきで東京を発つと、2時間半でもう金沢に着いた。友達と落ち合い、駅近くの割烹「寿し・地もの酒菜 高崎屋」に入る。つきだしのどじょうの蒲焼き、新鮮な刺身の盛合わせ、香箱蟹、のどぐろ姿焼き、フグの卵巣の粕漬けと舌鼓をうち、食事に夢中になって何を話したか余り覚えていないほどである。いやまあ、ともかく美味しかった。こんな美味しいお店に連れて行ってくれるなんて、友達甲斐があるというものだ。再会を約し、金沢駅で別れた。

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3.敦賀市への旅

 私はそこから、特急で敦賀に向かった。敦賀駅に着き、氣比神宮の脇にある宝来荘グリーンプラザホテルに宿泊した。なぜこちらを選んだかというと、私の昔の家があった場所にごく近いからだ。ホテルの人に、営業を始めてどれくらいかと聞いたところ、もう38年になるが、その前は小林旅館といったそうだ。残念ながら、記憶にない。私がこの近くにいたのは、60年も前だから、止むを得ない。翌朝早くに、まず旧居跡に行ってみた。氣比神宮の南東の角の交差点近くの清水(きよみず)町1丁目だが、住居表示が変わったのか、記憶している場所と番地が違う。でも、たぶんここだろうという所を探し当てたら、瀟洒な家が建っていた。60年前、その裏手には織物工場があって、四六時中ガッチャンガッチャンと音を立てながら織機が動いていた。私はその工場の傍をすり抜けて、山裾まで一面に広がっている田圃の方へと行き、そこでタモで、小鮒、メダカ、オタマジャクシを捕まえては放しということを飽きもせずにやっていたものである。


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 ところが、どうだろう。向こうの天筒山の麓の方まで一面に広がっていたはずの田圃が、今や全て住宅地域になっていた。心の中にあったふるさとが、一挙に消えてしまった気がした。やはり、ふるさとというものは、「遠きに有りて想ふもの」なのかもしれない。いささかがっかりしながら、私が通った敦賀南小学校に向かう。今や普通のコンクリートの建物と体育館に、運動場がある。私の頃は木造の建物で、まるで二十四の瞳に出てくる分教場のようなものだった。こちらも、随分な変わりようだが、それでも運動場越しに見える天筒山は、昔の記憶の通りだったので、満足した。それから、氣比神宮の付近を散歩した。私がいた頃は、この神社を遊び場にしていて、池でオニヤンマを追いかけたりしたものだ。池の中にいて、時折真っ赤な腹を見せるイモリが気持ち悪かったなあ・・・。神殿の裏手は鬱蒼とした森で、近くの朝鮮人部落の友達とそこに秘密基地を作って、日が暮れるまで遊んだものだ。しかし、今はそこの木は全て伐採されて、広い駐車場になってしまっている。これも、がっかりした。でも、神域の荘厳な雰囲気は昔のままで、この神社が人々にいかに大事にされてきたかがうかがえる。

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 ホテルに預けていた荷物を引き取り、「みなとつるが山車(やま)会館」に行った。氣比神宮の例大祭には6基の山車が出るそうだが、そのうち3基を常設展示している。入って山車を見上げると、まるで京都の祇園祭とそっくりである。ビデオを観せてもらい、画面の両脇に1基づつ山車がある。はて、もう1基はどこにあるのかと思っていたら、何とビデオが終ったと同時に、画面の真ん中が左右に割れて、そこから山車が出てきたのにはびっくりした。なかなか粋な演出である。これらの山車は、戦災で焼けてしまったり、その後ようやく復元したりして、こうして6基があるという。「イヤサー・エッ、エンヤサー・エッ。」という掛け声らしい。私がいた頃にそういう山車が出たことについての記憶はないから、私が敦賀を離れてから復元・復活が行われたものと思われる。山車会館から乗ったタクシーの運転手さんは、女性だった。聞くと、私が通った小学校を卒業したそうだ。それだけでなく、私が「親友のお父さんが国鉄の職員で、官舎にいた」というと、「あら、鉄輪(かなわ)町でしょう。私もあそこにいたのよ。」と言われた。なんと、世間は狭いのか。

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4.福井市への旅

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 さて、敦賀市から特急サンダーバード号で、福井市に向かった。着くと同時に一乗谷朝倉氏遺跡に行くバスの直行便に乗り込んだ。土曜日だというのに、同乗者はわずか4名だ。これでやっていけるのかと心配になる。乗る前にその場にいた京福バスの人に、どこで降りればいいのかと聞いたが、全く要領を得ない。結局iPhoneで検索し、朝倉資料館を通り越して復元町並で降りた。ここには、城下町の武家屋敷が並んでいたところで、出土した礎石の上に土壁の塀や門、そしてごく一部の家屋を復元したものがある。ただ、土塀と門だけを復元した通りが一筋あるだけで、他に見るべきものはない。地元の皆さんが、寸劇を演じたり頑張っていたのは大いに結構なことだ。しかし、そこから2km離れている福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館も含めて、どうもいまひとつである。織田信長からその痕跡が残らないほど徹底的に略奪破壊されたのだから、さもありなんという気がする。

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 福井市の中心部に戻り、養浩館庭園(御泉水屋敷)に行ってみた。こちらは、福井藩主松平家の別邸で、素晴らしい庭園と数寄屋造りの建物である。他の大名庭園と比べて、大きな建物が池に半分せり出すように出ていて、残る半分は砂利の浜のように池の水に接している。建物の中から対岸を見ると、木々が池の水に反射して、実に美しい。池の水も綺麗で、もちろん緋鯉もゆったりとして泳いでいる。ついつい、座って長居したくなる雰囲気だが、次の予定があるので、後ろ髪を引かれるような思いでその場を離れた。

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 さて、昔の私の家のあったところは、三の丸町と呼ばれていたが、今は住居表示が変わって「大手」というらしい。たぶんここだろうという場所を何とか探し当てたが、そこは空き地になっていた。私は、そこからお堀まで歩いて行き、その周りを半周して順化小学校に通った。学校の帰りには交差点のはす向かいある裁判所に立ち寄り、友だちとそのスロープで遊んだ記憶がある。その裁判所の建物は、全く同じ姿でそこにあったので、感激した。私は順化小学校を卒業して、その北にある明道中学校に入学し、わずか1年間だけだが、そこに通った。ところが同中学校はちょうど改装中で、全体の写真を撮ることができなかったのは、いささか心残りである。石碑に「自啓 互敬 明朗」とある。校訓であるが、確か私がいた頃には既にあったような記憶がある。特に「自啓」の精神は、今でも持っているつもりだ。校長先生は、「伊藤長右衛門」という風格を感じさせるお名前だったので、よく覚えている。その日は、開花亭の隣の「香爐園」に泊まった。親切で清潔で食事も私の好みで、非常に良い日本旅館である。近くに、グリフィス記念館という幕末から明治にかけてお世話になったお雇い外国人の記念館がある。福井の人は、なかなか義理堅い。

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5.丸岡城への旅


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 福井県坂井市の丸岡城に行って、じっくり見物させてもらった。城は、三層建ての天守閣しか残っていないが、壁は白い漆喰壁よりも普通の家のような木の板が目立つ非常に庶民的な小ぶりの城だ。それにしても、観光客が多い。それというのもここ丸岡城は、お城自体もそれなりに知られているが、むしろそれより、城主の本田作左衛門重次が陣中から出した手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」で全国的に有名になった。ちなみに、昔から「仙」というのは女の子のことだろうと想像していたのだけれども、実はそうではなくて、嫡男の仙千代のことで、重次の跡を継いだ本多飛騨守成重をいうそうだ。

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 そして町が一筆啓上の短い手紙を募集したところ、全国各地からたくさんの応募があった。それが1993年(平成5年)のことだという。それ以来、今年で24回目を迎えるそうだ。お城に向かう階段の途中にも、一般から募集した短い手紙の大賞その他の入賞作が飾ってあり、中にはホロリとさせられる句やら、思わず頬が緩む句がある。たとえば、「母へ」と題する14歳の男の子の「おべんと、おべんと嬉しいなと歌いながら、僕の嫌いなものばかり詰めるのは、やめてください。」というのは、確かに秀逸である。思わず、笑ってしまった。


6.富山への旅

 さて、富山に行き、一晩、母や妹たちとその家族の皆さん10人ほどに集まっていただき、中華料理屋さんで丸テーブルを囲んだ。わいわいガヤガヤと大いに歓談し、実に楽しく面白い時間を過ごすことができた。中には今年3月に生まれた赤ちゃんもいて、泣かずにちゃんとその場にいてくれて、皆さんのアイドルになっていた。


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 翌朝早く、富山城の写真を撮ってきた。4階建ての天守であるが、実はこれは戦後の建物である。そのHPによれば、「昭和29年に戦災復興事業の完了を機に開催された、富山産業大博覧会の記念建築物として建設されました」とのことで、内部は富山市郷土博物館になっている。朝日を半面に浴びている状態だったので、撮りにくいことこの上ない。でも、お濠の水面に写ったその姿を合わせてみると、それなりに味のある写真となった。







 北陸への旅( 写 真 )は、こちらから。




(2016年10月24日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:15 | - | - | - |
佐倉の秋祭り

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 佐倉の秋祭りに行ってきた。佐倉は、江戸時代には堀田家11万石の所領だった地で、今なお武家屋敷が残っている。京成上野駅から、電車でわずか1時間強のところに、こういうところがあるとは知らなかった。10月16日の日曜日午後2時半すぎに京成佐倉駅に降り立ち、地理が右も左も分からないまま、インターネットの公式サイトからダウンロードしたお祭りの地図と、グーグルマップの道案内の矢印を頼りに新町通りに向かった。なだらかな登り坂である。2本の道があって、そのうち寂しい道を選んだせいか、駅前近くを過ぎると道の両脇に草ぼうぼうのところがある。普通どの町でも、駅の周辺には繁華街が広がっているというのに、これはどうしたことかと思いつつ、10分ほどで新町通りに着いた。なるほど、ここが繁華街のようだ。

 私の目の前には「おはやし館」があった。そこで係の女性から、どこでお祭りを観ればいいか、見所は何かを教えてもらう。この祭りでは、各町から出る21もの「山車」と「屋台(御神酒所)」と「御輿」が、練り歩くそうだ。「山車」は、てっぺんに人形を据えた3層構造の山車(だし)である。この人形は、いずれも江戸時代の名工の手によるもので、天上から降りてくる神様の目印となるという。道を山車が進行中、前方に電線などがあると、その人形がスルスルと山車の中に収容されて消えてしまうから、面白い。次に「屋台(御神酒所)」というのは、唐破風の屋根を持つ舞台(囃子台)のある屋台で、先月観た岸和田のだんじりと同じようなものである。その屋根の上には2人ほど乗っていて、両手に持った団扇などをリズミカルに降り、全体の調子をとる。それにしても、屋台を「御神酒所」というなんて、変わった呼び名だと思っていた。すると、かつてこれは神様に御神酒などを奉納する場所として、三宝を置いて現に奉納していて、その名残りだそうだ。


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 要は、人形が乗っているのが山車、そうでないのが屋台(御神酒所)。その他、お神輿があり、威勢良く担いで回っている。しかし考えてみると、京都の祇園祭りなら山車だけ、川越祭りなら屋台だけ、神田明神の神幸祭ならお神輿だけというのが一般的なのに、この3つが全部揃っていて同じお祭りのときにそれらが入れ替わり立ち代わり出てくるというのは、佐倉独特のものではないだろうか。見物客からすれば、通りに立っているだけでこれらを次々に見られて、面白い。

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 麻賀多神社まで歩いて行って、参拝して再び中心街に戻ろうとしたら、ちょうど屋台(御神酒所)が出発するところだった。屋台の屋根の上に2人の人が乗っていて、そのうちの1人がピンク色の傘を持っていた。それが真っ青な空の色に映えて、実に美しい。綱を引っ張る時の掛け声は、「エッサーエッサーエッサッサ、エッサーバラバラエッサッサー」と聞こえた。まるで、童謡の「お猿の籠屋」とそっくりだ。

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 夕暮れになると、屋台(御神酒所)の提灯に灯りがともる。暗い中、それが美しい。お囃子台の中に、おかめ・ひょっとこが現れて、剽軽な踊りを披露してくれる。山車や屋台は、2本の白い綱で引っ張るが、その引っ張る人には女性が多い。中には赤ちゃんを背中に括り付けて先頭に立って引っ張る若いお母さんの姿もあった。これに対し、男性はおおむね山車や屋台の周りにいて、方向転換を受け持っている。全体的にどう見ても、男性より女性の数の方が多い。佐倉は、女性で持っているらしい。

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 それから山車や屋台(御神酒所)に付いて行った。すると、向こうからもやって来る。こんな狭い道をどうするのかなと思っていると、まるで挨拶をするように、山車や屋台(御神酒所)が向き合う形で斜めに止まる。そして、先に行く方が挨拶をするように、お囃子と、女の子たちによる雀踊りのような可愛い踊りを披露してから、動いて去って行く。これがもし角館だと、交渉の話し合いをまず行い、それが決裂すると、ぶつける実力行使に出るから、それに比べれば誠に平和的だ。また、屋台(御神酒所)が各町の会所を通る時や商店などから祝儀が出たような時には、「角付け」といってわざわざ正面に向け、同じようにお囃子を奏で、女の子たちの踊りを披露する。それだけではない。交差点に達した屋台(御神酒所)が、合図とともに、囃子台がぐるぐると回り始めたので、驚かされた。遠心力で、提灯が吹っ飛びそうなほどである。これは、「はなぐるま」という技だそうだ。



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 通りに麻賀多神社の大神輿がやってきた。町内の神輿に比べて、ひときわ大きい。大神輿が各町内に到着すると、これを待っていた氏子の皆さんが恐縮した姿勢をとる。そうすると「さらば久しい、さらば久しい、さらば久しい」の掛け声を上げながら担ぎ手が大神輿を天高く突き出す。しかる後に、大神輿の先端を屋台(御神酒所)の欄干にちょっと掛けてから、去っていく。これは、習慣らしい。

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 いやいや、このお祭りは、非常に面白かった。このお祭りを、江戸時代から何百年にわたって営々と受け継いできた、佐倉の皆さんに、心から敬意を表したい。






 佐倉の秋祭り( 写 真 )は、こちらから。






(2016年10月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:39 | - | - | - |
iPhone7 plusを購入

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 iPhone7 plusを購入した。今回は9月19日から売り出しで、その日より予約することができる。予約はネットのWeb経由でもよいというので、自宅への通勤経路にある御茶ノ水の携帯電話会社のショップを指定して、申し込んだ。そのとき、私の持っているiPhone6 plusが128GBという最大の容量なのに、もう容量ギリギリ一杯に達していたので、新しく買うiPhone7 plusは、その倍の256GBにした。また、色は迷った末に、現在と同じゴールドにした。家内にもiPhone6 plusを持ってもらっていたが、これを32GBのiPhone7 plusローズゴールドにした。このローズゴールドというのは、ピンクのような、なかなかよい色だと、家内には好評である。

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 さて、それから待ちに待ち、ようやく10月1日になって、入荷したとの連絡があった。もともと2年契約だった私の旧iPhone6 plusの契約更新が10月から始まることになっていたから、それを待っていてくれたのかもしれない。そこで早速、私と家内のiPhone6 plusを持って、指定の時間に行った。実は、私のiPhone6 plusには、ひとつ問題があった。それは、どういうわけかiTunesでデータをバックアップできないのである。これができないと、機種変更どころではない。普通、 iTunesでバックアップするには、パソコンとiPhoneをUSBケーブルで繋ぐだけで、iTunesが立ち上がって自動的にバックアップをしてくれる。私のiPhone6 plusも、途中までそのように動いてくれるのだが、最後の段階まで来て突然「iPhoneが取り外されたので、バックアップできません。」という表示が出て、バックアップが最初からなかったものとなる。もちろん、USBケーブルを取り外してはおらず、最初から最後までパソコンに繋いだままである。何回試みても同じだ。

 その原因を探ろうとインターネットで色々と調べたが、全く手も足も出ない状態で、この2年間を過ごしてきた。この間、EvernoteやGmailなど重要なものはクラウド化がされているし、写真も毎月バックアップしてパソコンにコピーしているから、実害はさほどないと思っていたからだ。しかし、いざ機種変更をするという段になって、やはり一から設定するのはとても面倒だ。やはり、iTunesでバックアップをしておこうという気になった。

 なぜ、こうなったのかを2年前に遡ってつらつら考えたところ、その頃のiPhone中の写真の取扱いのせいではないかと思い当たった。当時、iPhoneをアップルの純正品であるケーブルでパソコンと繋いで、パソコン側からiPhone内にある写真フォルダに直接アクセスし、最近の写真をパソコン内に取り込んだ後に、写真フォルダ内の写真をパソコン側から消していた。これをiPhone側からすると、余計なことをするとなったのかもしれない。そこで、今回の機種変更に際しては、iPhone内の全部の写真をパソコンにコピーしてから、ケーブルをいったん外し、しかるのちにiPhone内の写真を手作業で消して行くことにした。写真の数は4,500 枚もある。それを一つ一つ指でマークを付けて消去ボタンを押すのでは、腱鞘炎になりかねない。だから、電子ペンを使って指の負担を少なくした。

 そのようにしてiPhone6 plus内の写真をほとんど消し、わずか数枚を残すだけにした上で、iTunesでバックアップをしたところ、あっけなく成功した。家内の方も成功し、2つのバックアップが、パソコン内に生成された。次に、iPhone6 plusを下取りしてもらうために、これらをリセットしなければならない。そのためには、「設定」→「リセット」→「すべてのコンテンツと設定を消去」をしなければならない。20〜30分程度で終わった。

 御茶ノ水の携帯電話会社のショップでiPhone7 plusを受け取るときに、そうやって消去したiPhone6 plusを2台持ち込んだ。そうすると、私のiPhone7 plusは、定価が116,640円で下取りしてくれる価格が27,000円だから、これを差し引いて、89,640円を「26ヶ月」で割賦返済するそうだ。別に割賦でなくともよいのだけれど、そういうイレギュラーなことをすると受け付けくれる係員が混乱して時間が遅れても困るので、そのままにしてもらった。家内の場合は、それぞれ、92,880円、27,000円、65,880円である。いずれも、データ定額5GBに電話のかけ放題のプランだが、家内はデータ通信をあまり使わないので来月にでも、家内について定額3GBに下げるつもりである。これで毎月いくらになるのか、私の分がおそらく11,000円、家内の分が同様に9,000円ではないかと思う。付属アクセサリーとして、ブルーライト・カットのフイルムを購入したら、その場で係員がご親切に貼ってくれた。これを素人がすると、位置がズレたり気泡が残ったりして、上手くいかないことが多い。そういう意味で助かった。その係員の方にお礼を言うと、「私はもう、普通の人の一生分、貼ってますから。」と返され、大笑いをした。

 そうして、2つのiPhone7 plusの箱を持ち帰った。箱の中には、充電器とUSBケーブルのほか、コードのないイヤフォンがあった。説明によると、「ジェットブラック、ブラック、シルバー、ゴールド、ローズゴールドの5つの仕上げから選べるiPhone7 plusは、どちらも12MPのまったく新しい広角カメラと望遠カメラ、防沫性能、耐水性能、防塵性能、A10 Fusionチップ、広色域の新しいRetina HDディスプレイ、ステレオスピーカー、iOS10を搭載しています。」という。「12MP」というのは、日本風に言うと1200万画素のことだろう。最新のデジカメ並みの画素ではないか。しかも、広角カメラと望遠カメラの2つがあるということは、一眼レフカメラでいうと、広角レンズと望遠レンズを並べているようなものだ。どんな写真が撮れるか、楽しみである。

 さて、早速、パソコン内のバックアップからの復元作業を行った。まず、家内の方からだ。20分程度で終わったが、この段階で気が付いたことがある。それは、「パソコンへのバックアップは、暗号化で行うべきだ。」ということで、そうすると、前のiPhone中のパスワードや、おそらく指紋認証まで、引き継がれたはずだった。これをしなかったために、また一々、パスワード入力指紋登録をしなければならず、余計な手間がかかった。次に、容量の多い私のiPhoneに取り掛かった。バックアップからの復元は、3時間ほどで終わり、意外と早いと思ったのだが、実は肝心の「i手帳」のアプリのデータだけは、復元されていなかった。「i手帳」は、私にとって大事な日記帳・スケジュール帳であり、写真集でもある。これは困ったと思い、それだけはパソコン中に別に作っておいた「i手帳」のバックアップから復元した。しかし、26時間も掛かってしまった。これは、大変だったが、おかげで引き続き使えるようになった。


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 いやはや、たかが機種変更なのに、結構な手間と時間が掛かったが、ともあれ、終わって良かった。ところで、最近の私は、ますますiPhoneが手放せなくなっている。その一例を最近の旅行で説明したい。旅行のやり方が、最近のiPhoneとそのアプリの進歩によって、大きく変わったのである。私は勤めているので、旅行にゆったりと時間をかけるわけにはいかない。限られた時間で効率よく回りきるためには、事前に綿密な計画を立てる必要がある。しかし、忙しい中で計画を考えるのにあまり時間を費やすことはできないし、そもそも現地に行って、当初の目論見とは違う別の面白さがあるときもある。だから、ここだけは観てみたいという場所や催しだけを押さえて、あとは予定を立て過ぎないようにしている。

 もう一つの私の場合の制約は、運転免許はあるが、現役中は車を運転しないことにしている点である。そのきっかけは、昔、私の仕事が変わって、それこそ万が一、交通事故でも起こしたら問題となるような部署に配属されたことだ。それ以来、もう20年以上もペーパードライバーを続けている。おかげで、無事故無違反である。運転しなくて困るかというと、別にそうでもない。平日は迎えの車が来てくれるし、休日は東京やその周辺にいる限り公共交通機関が発達しているので、何ら不便を感じたことがない。ただ、地方に行くときは、電車がないことがあるし、もちろんタクシーは滅多に通りかからないし、バスに至っては1日2本しかないという悲劇に見舞われる。だから私は、ツアーで行く場合を除いて、公共交通機関で行けるところしか、行かないことにしている。

 そうすると、問題は交通機関の駅名や停留所名と時刻表、それに歩く場合の道順である。そこで、計画の段階でiPhoneを取り出して使う。「乗換案内」のアプリで駅名と時間を打ち込めば、すぐに結果が出る。そこまで特定しないで駅名や時刻表を見たいときは、「グーグル」で、たちどころに検索できる。現地に着いて、目指すホテルや観光地に行きたいときは、現在地とその目的地の名前や住所を「グーグル・マップ」に打ち込むと、地図上に行き方と所要時間が出る。歩き出すと、カーナビのように矢印で方向を示してくれ、必要なときはボタン一つで音声による道案内すらしてくれる。だから、全く知らない土地でも、誰にも聞かないで自信を持って歩ける。こういう調子で、岸和田のだんじり祭り、仁徳天皇陵、あべのハルカス、元町、布引ハーブ園、新長田駅の鉄人28号を見てきた。交通機関や道順を探すストレスが全くなくなった。

 私が初めてiPhoneを購入してから、6年が過ぎた。これ1台で、携帯電話、パソコン、高性能カメラを兼ねる。今回のiPhone7 plusの特徴は、防水機能、Suicaのほか、広角レンズと望遠レンズを持つカメラである。ところが、残念ながら、カメラの方は、まださほど撮ってもいない上に、撮った写真を印刷するのでもない限り、その良さがすぐには分からない。もう少し、使いこなしてから、コメントできれば良いなと思っている。


【後日談】

 iPhone7 plusを購入して約1ヵ月が経過した。「12MPのまったく新しい広角カメラと望遠カメラ」という売り文句の割には、一体どこの何にこの効果が出ているのか、さっぱり分からないというのが当初の私の印象で、この間、いささか失望していたというのが正直なところである。しかし、10月25日のアップデートで、ポートレート・モードというのがカメラのメニューに加わったことから、その印象は一変した。これは、一眼レフカメラでいえば、「ボケ」効果を生み出すものなのである。つまり、撮りたい対象に焦点を合わせ、他の周辺部分をボカして、その対象を際立たせる手法で、一眼レフであれば、対象を望遠レンズの(広角側ではなく)望遠端で撮ったり、あるいは絞りを大きく(F値を小さく)すれば、表現が出来る。それを、iPhone7 plusでは、このポートレート・モードを選ぶだけで可能となる。

 それを使い慣れた1ヵ月後の11月末に、木の枯れ葉を撮ってみた。上は従来通りの写真モードで、パンフォーカスつまり被写体の隅々にまで焦点が合っている。ところが下はポートレート・モードで、真ん中の紅葉に焦点が当たって、周囲はボケているから、立体的になり写真に深みが増す。これを人物で撮ると、その効果のほどがもっと分かりやすい。このポートレート・モードで撮った写真には、「被写界深度エフェクト」という表示がされる。これは、被写体をカメラから240cmの範囲内に置く必要があるそうだ。


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(2016年10月4日記。10月28日・11月28日追加)


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