岸和田・姫路への旅

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1.岸和田だんじり祭

 日本で最も派手で勇壮なお祭りといわれる、岸和田だんじり祭の見物に行ってきた。まずは、いつも通り、お祭りを見物する際の習いとしている有料観覧席からの見物である。それには、午後3時半からを予約した。午後1時からというのもあったが、東京を午前8時に発つと、宿泊する堺のホテルに荷物を預けに立ち寄れば、ギリギリの時間となる。それでは慌ただしいので、時間に余裕を持たせることにした。

 東海道新幹線を新大阪駅で降り、南海電車の堺駅経由で岸和田駅に着いてみると、お昼の12時半を回っていた。駅前には紅白の幕が掛かり、いかにもお祭りムード満点だが、ひどい混雑だ。この調子では、予約した有料観覧席までたどり着けるかどうかもわからない。だから、駅近くでのんびり昼食を食べるのは止めて、なるべく観覧席に近い場所まで近づくことにした。駅前から北に延びているアーケード商店街の混雑が半端ではない。だからそこには入らずに、アーケードに並行する右手の道を通り北に向かおうとしたら、「だんじり」(山車)が通るというので、あちこちで通行止めだ。それを一々避けて歩こうとすると、困ったことに、どんどん右へ右へと流されていってしまう。私の前に中年女性グループがいて、どうやら私と同じ観覧席を予約しているらしいが、午後1時からのチケットだという。この調子では、とても間に合いそうもないから、慌てている。私は、遅い時間にして良かった。


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 この日は、晴れ間が見える蒸し暑い天候で、大汗をかきながら、午後1時過ぎにようやく有料観覧席近くの北町交差点にたどり着いた。そこには、生協の大型スーパーがある。その中に入って、冷風を浴びてホッと一息をついた。身体の熱がどんどん逃げて行くのがわかる。実に気持ちが良い。そこで簡単な食事をして、早速始まった「だんじり」の「やりまわし」つまり、だんじりが勢いをつけて直角に曲がる様子を見物する。

 青年団の面々が、頭にはちまきを巻いて白いパッチと地下足袋を履き、各町毎に特徴のある法被を着て、「そーリャー、そーリャー」と言いながら、だんじりを引いて来る。その高さは4m、重さ4tという。その大屋根の上には数人の「大工方」(だいくがた)が乗り、なかでも一人、両手に団扇を持って曲がる瞬間に舞い踊る様には、ほとほと感心する。だんじりは、相当な勢いで走るだけでなく、その速度を落とさずに直角に曲がる。その上で、振り落とされないばかりか、余裕をもって飛んだり跳ねたりするのだから、大したものだ。まさに、「祭の華」である。なかでも、曲がる瞬間、片脚を曲げて前傾姿勢をとり、もう一方の脚を伸ばすポーズには、まさに痺れる。


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 ただ、これは外から見かけた様子に過ぎない。本当のところは、見えない場所にいる縁の下の力持ちが重要な役割を果たす。岸和田市のHPにおける「やりまわし」の解説によれば、「だんじりを前へ前へと曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子、舵取り役の後梃子、後梃子に合図を送る大工方、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころである。速く、正確に『やりまわし』を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要となる。そのため、町ごとの仲間意識が非常に高く強いのも岸和田だんじり祭の大きな特長である。」ということらしい。

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 ようやく、午後3時過ぎになったので、道路を渡って予約した有料観覧席に向かった。それは浪切神社脇のカンカン場といい、海岸沿いの東西に走る大きな道路の大阪臨海線と、南の岸和田商店街を通って駅に向かう通りが交わる「T」字交差点に面する所に位置する。ここからは、左右からやってくる「だんじり」が、駅前商店街に向かって曲がる様子がよく見える。ただ惜しむらくは、だんじりまでやや遠いので、いささか迫力に欠けるのが問題だ。それでも、300ミリ望遠レンズを目一杯使えば、だんじりの屋根上の「大工方」のお兄さんの全身が何とか捉えられる。これがもし、向かいの生協スーパー脇の有料観覧席だと、曲がった瞬間がすぐ目の前にくるので、写真を撮るには、そちらの方が良かった。ただし、そこだと、だんじりの全体像が見えないと思うので、良し悪しである。ともあれ、着席して、だんじりが来るのを待つ。

 遠くから青年団の「そーリャー、そーリャー」という掛け声が聞こえて、観覧席前の岸和田港交差点に差し掛かる。いったん停止して順番を待つ。順番が来ると、まずその町内の「まとい」が先行して走る。そして引っ張る青年団が一緒に行って準備が整うと、だんじりの大屋根上で大工方の両手に持った団扇が翻る。それを合図に猛烈な勢いでだんじりが走り出す。上手く直角に曲がると、目の肥えた見物人たちが、やんやの喝采を送る。失敗してだんじりが外側へと膨らみ、またその反動で内側へぶれたりすると、見物人から「ああーっ!」というため息とも心配の声ともとれる声が上がる。その度に引き手、大工方、見物人との一体感が、いやが上にも増す。見事としか、言いようがない。こうして、約1時間半の見物を終えた。


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 午後5時過ぎに見終えて、気が付いてみたら、汗びっしょりである。灯入れ曳行が午後7時からとなっているので、いったん堺のホテルに帰り、出直すことにした。シャワーを浴び、着替えた後、そこで軽い夕食を食べてから、また南海電車で岸和田駅に戻った。すると、昼間見た「だんじり」が全く別のものに変わっていた。

 町名を書いた提灯が100個近く、電球を灯されて周りを覆っているではないか。アーケード商店街の中をだんじりが行くと、お囃子(鳴り物)が、昼間とは全然違う。いずれも、太鼓、笛、鉦を鳴らしたり吹いたりするものには変わりがないが、昼間のだんじりは特にやりまわしの時などは、進軍ラッパのようにテンポが速くて激しい。

 ところがこの灯入れ曳行は、ゆったりした優雅なものである。しかもよく見ると、だんじり内の演奏者が全て子供達だったのには、驚いた。そういえば、だんじりを引っ張る綱を引く先頭には、法被を着た子供達が多かった。だんじりの大屋根を見上げると、大工方のお兄さんが、両手に「大工方」と書かれた細長い提灯を、左右にゆっくり振っていて、どこそこ情緒を感じさせられた。


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 その翌日、今度は午前9時半からの岸城神社への宮入りを見物に行った。岸和田城とだんじりが重なる風景を撮りたくて、適当な場所を探したところ、岸城神社の手前にした。そうすると、だんじりが次々にやって来て間近で撮れる。しかしその反面、お祓いを受ける順番待ちで動きがなく、あまり面白くない。そこで場所を移動して、市役所脇の「こなから坂」を登り切って曲がる所に移動したら、だんじり全体の動きが良くわかった。

 まず、纏(まとい)が現れる。町内ごとに、様々な色と形をしている。それを前触れとして、だんじりを引っ張る綱の先頭に近いところ(綱先)を法被を着た小学生とおぼしき一団が引いて来たと思うと、綱中を中学生が引き、だんじりが現れる。大屋根には大工方がいて、調子をとる。曲がり角に差し掛かると、だんじりの綱の根元に近い綱元の青年団が力を込める。前梃子の2人が、だんじりの前の両側にある棒を曲がる側の地面に差し込んで抑え、そちら側に曲がる。だんじりの後方では、後梃子という棒に綱を付けて、それを20人ほどで引っ張ったり肩で押したりして方向転換をする。いやはや、各世代が力を合わせたすごい労力である。感心して見物していた。


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 最後に、岸和田だんじり会館を訪れた。この岸和田だんじり祭は、江戸時代中期の元禄16年(1703)に始まり、300年の歴史があるという。初期のだんじりの形は、まるでトロッコの客車のようなものだった。それが進化して、今の姿になった由である。また、法被や手拭いが、各町内で独特のデザインである。それらを見ているだけでも、楽しい。また、昼間にはよくわからなかったが、実はだんじりには、非常に緻密で精巧な「彫り物」が施されている。これには、驚いた。動く芸術品なのである。また、体験コーナーというのがあって、だんじりの大屋根の模型の上に、大工方のように法被を着て写真を撮ってもらったり、あるいはお囃子の鳴り物を鳴らすことができる。なかなか良いアイデアである。それやこれやで、良い思い出をもって、岸和田を離れた。

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2.仁徳天皇稜

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 私は関西に4年間、住んでいたが、堺市の仁徳天皇稜には、未だ訪ねたことがない。そこで、岸和田市の近くの堺市に泊まることにしたついでに、見て来ることにした。駅前から堺まち旅ループバスに乗って、街の見物がてら、仁徳天皇稜古墳前に着いたのだが、古い木製の鳥居があるこんもりした森を見ただけに終わってしまった。全長486mと、あまりに大き過ぎて、人の視界には入らない。たまたまボランティア・ガイドさんがいたので、話をした。私が「この古墳は、もう仁徳天皇稜とは呼ばずに、地名をとって大仙稜古墳と呼ばれているんですか。」と聞くと、苦笑しながら、「いやいや、あれは学者さんの言うことでして、仁徳天皇の実在が証明されていないというのですよ。でも、仁徳天皇の時代には、まだ文字がなかったからで、文字が使われるようになったのは、仁徳天皇より二代あとからです。だから、証明が難しいのです。でも、私たちは、仁徳天皇稜だと思っています。」とおっしゃる。どうやら、地元の人たちの琴線に触れる質問だったらしい。

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 せっかく来たのだからと、近くの堺市博物館を訪れた。仁徳天皇稜は、その周辺一帯に44基もある古墳をもって百舌鳥古墳群を形成するという。仁徳天皇稜は、今は宮内庁の管理なので入ることはできないが、展示品には、確か明治のはじめに出土したとされる甲冑、人形・馬形埴輪などがあった。また、中世の堺で製造されたという3m、125kgの大型火縄銃には、こんなものがあったのかと驚いた。

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 さて、堺市役所の21階の展望台に上がると、仁徳天皇稜の全体像が少しはわかるというので、行ってみることにした。実際に上がってみたが、遠くにこんもりとした森が広がっているだけで、お堀すら見えなかった。それほど、大きいということだ。航空写真で満足するとしよう。そもそも、なぜこれだけの築造物が必要だったのかというと、当時、中国の宋と交易をするに当たって、倭国の権威を示す必要があったというのが、堺市博物館の説明である。


3.あべのハルカス


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 阿倍野に、あべのハルカスという現在、日本一の高さのビルが完成したという。近鉄百貨店系だ。神戸に行く途中で、立ち寄ることにした。展望台は、60階の地上300mのところにある。従来は横浜ランドマークタワーが296mだったから、それより4m高い。登って大阪の街を見たが、あまり馴染みがないので、今ひとつだった。ただ、真下が天王寺動物園で、動物が見えたのは、面白かった。

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4.神戸元町のドリアン

 神戸元町に宿をとり、神戸の高浜岸壁に行って、夜景を撮るつもりでいた。ところが、神戸に午後7時半頃に到着したときには、台風16号の影響で、かなりの雨になっていた。残念ながら夜景写真は諦めて、ホテルにチェックインしてから、中華街の南京町や元町商店街を散歩した。ところが、東京と違って、もう大半のお店が店仕舞いしている。実は小さい頃に好きだった高砂のきんつばをお土産にと考えていたが、既に閉まっていた。僅かに空いているトロピカルフルーツの店があり、ふと見ると、ドリアンを売っていた。触手が動かないでもなかったが、タイ産の大粒で量が多い上に、1個8,500円もしたので、諦めた。


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 翌朝は、早く起きてホテルで朝食を食べた。スクランブルエッグをいただいたら、写真のように、トマト・ケチャップで、スマイル・マークが描かれていた。ホスピタリティにあふれ、可愛らしく、趣味が良い。いかにも神戸らしいと、感心してしまった。

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5.姫路城と好古園

 平成の大修理が終わった姫路城に行くつもりで、新神戸駅から新幹線に乗った。姫路駅に着いてみると、駅前から北へ続く大通りの先に、姫路城が真っ白い優雅な姿を現している。私は、前回は平成20年7月に訪れている。その翌年に平成の大修理が始まり、昨27年に完了した。この大修理で、それまで少しくすんだ白色の城だったのが真っ白になったというので、その様子を確かめたかった。こうして現にその姿を見ると、確かに、白鷺城という名に相応しく、真っ白になっていた。


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 姫路市の公式HPによると、「国宝姫路城は平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。シラサギが羽を広げたような優美な姿から『白鷺城』の愛称で親しまれる姫路城。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴です。今、私たちが目にしている姫路城の大天守は、慶長14(1609)年に建築されたもの。400年以上が経過した現在でも、その美しい姿を残しています。」という。まさにその通りである。実は駅から姫路城まで歩いてくる途中、買い物カゴの着いた自転車に乗ったお母さんが、5歳くらいのお子さんに、「あの城は郷土の宝なんやから、大切にしないと、あかんで」と、言い聞かせている場面に出会った。結構なことである。

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 天守閣まで、息を切らせながら登った。前回来た時と同様に、この日も蒸し暑い日だ。最上階の6層目から、再び播州平野を見渡した。400年前に、この景色を見た人の数は、ごく少数だっただろう。ところが現代では、たくさんの人が押し掛けて来ることから、文化財保護のために1日の見学者数を15,000人に制限しているという。この日は、曇り模様だということもあり、あまり見学者数は多くなくて、現に私は810人目だった。というのは、その管理用に、一連番号のついた紙を渡されたからわかったものだ。

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 姫路城は、日本の城の中で、奇跡のような城だと言われている。日本の城で、昔ながらの姿で残っている国宝の城は、全国にたった5城しかない。犬山城、松本城、松江城、彦根城、そしてこの姫路城である。特に、第二次世界大戦中は、危なかった。姫路市内が灰燼に帰す空爆を受けて、当然誰もが姫路城も燃えてしまったと思ったとき、空爆による煙が晴れたときに以前と変わらない勇姿を現したので、人々は驚き、かつ勇気を与えられたという。また、この400年間、この城を舞台にした戦争は一度もなかった。そういうお城をこの目で見ることができて、幸せな気持ちになった。

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 これまで、好古園(姫路城西御屋敷跡庭園)には来たことがなかったが、この日、初めて入ってみた。お昼近くで、レストラン(活水亭)にでも入るつもりだった。そこで官兵衛弁当なるものをいただいた後に庭園の方に行ったら、その素晴らしさに驚いた。東京にも柳沢吉保の居宅だった六義園という立派な大名庭園があるが、それにも決して引けをとらない庭園である。まず、滝の音が大きく聞こえる。水量と落差がある。池はさほど大きくないが、全体にまとまりがあって素晴らしい。池の向こうに姫路城が見えるのも良い。また、大きく屈曲して流れる川がある。もちろん、深さはほとんどないが、幅が広い。これが何ともいえず、好ましい。秋の紅葉の時期にまた、訪れたいものである。

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6.神戸布引ハーブ園

 姫路から新神戸駅に戻った。そこから北野異人街にも行けるが、今回は、ロープウェイに乗って、布引ハーブ園に行くことにした。前回はせっかく行ったのに、悪天候で十分に楽しめなかったからである。いわば、落穂拾いのようなものだ。ロープウェイに乗って山麓を上がって行くと、神戸の街並みがよく見える。今回は雲空とはいえ、天候がもっている。バーブ園の三つ子のグラスハウスを越えて、山頂駅に着いた。神戸が一望の下にある。


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 展望プラザ、ローズ・シンフォニー・ガーデンを散歩する。なかなか、ムードがある。おやおや、ドイツ祭が開催中だ。定番のソーセージ、ケーキ、ドイツビールにワインがある。ソーセージはカロリーが高すぎるので、ダイエット中の身にはよろしくない。ケーキが美味しそうだ・・・でも、水分がないと・・・白ワインのグラスがある。この組合せなら、罪は軽いと思って、その二つをいただいた。そうすると今度は、気分が良くなり過ぎて、山麓駅まで歩いて降る意欲を喪失してしまった。というわけで、再び山頂駅から新神戸駅まで、ロープウェイで一気に降っていった。


7.鉄人28号モニュメント

 新神戸駅で、新幹線の切符をもう少し早めの列車にしてもらおうとしたら、三連休の最終日のため、予定通りにはいかず、出発時刻まで1時間半も時間が余ってしまった。では、どうするか。突然思い出したのが、新長田駅の鉄人28号モニュメントである。「鉄人28号」と聞いて、ピンと来るのはもう70歳代に近い人ではないかと思う。私が中学2年の頃に、テレビでアニメが放送されていた。

 かつて日本陸軍が秘密兵器として作ったロボット「鉄人28号」を使って、少年探偵の金田正太郎が悪者を懲らしめるというストーリーだった。作者は、横山正輝である。しかし、鉄人28号は、知能というものを全く持ち合わせていない。小さなリモコン装置を使えば、金田少年だけでなく誰でも操作できるので、人口知能が幅を利かす現代の技術水準からすると、まるでブリキ製のおもちゃと変わらない。ところが、私のようなその当時の少年からすれば、あんな大きなロボットを、小さなリモコン装置で意のままに動かすこと自体が格好よく、ハラハラドキドキしながら見ていたことを思い出す。


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 駅を降りて、大きな住宅のすぐ裏の公園に、いたいた、鉄人28号が。片手を突き出して、その雄姿を見せている。私が少年の頃は、実に格好よく見えた。しかし、自分が老年期に入った現在の目からすると、このロボットは典型的な太鼓腹だし、背中にロケットを背負っているとはいってもこれほど小さくては全く飛べそうもない。こんなものを格好よく感じた小さな頃の自分が、いささか恥ずかしい。とはいえ、このモニュメントを見たときに、一瞬にして半世紀ほど記憶が遡り、旧友に再会したような、懐かしい気がしたのも事実である。しかも、自分が幼年時代を過ごしたここ神戸で、こうして再び目にするとは思わなかった。作者横山正輝も、この地、神戸に縁があるとのことである。

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 神戸公式観光サイトによると、「新長田にゆかりの深い横山光輝さんの作品の魅力でまちを盛り上げようと、地元の商店街などが中心となって立ち上げられたNPO法人『神戸鉄人プロジェクト』が、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託し、作られました。 」とある。元少年としては、その「神戸鉄人プロジェクト」が、今後とも活発な活動を続けていってほしいと願っている。

 さて、これを最後にこの三連休の旅を終えた。東京の家にたどり着き、家内の顔を見て、なぜかホッとした。いやそれにしても、岸和田のだんじりと姫路城のほか、ずいぶんあちこちに行ったものだ。家内からは、「若い女の子みたいに、楽しく遊んでいますね。」と言われている。しかし自分では、好奇心のある証拠で、これをなくしたら、それはもう、人生が終わりの時だと思っている。






 岸和田だんじり祭り(写 真)

 姫路城と仁徳天皇陵(写 真)




(2016年9月19日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:37 | - | - | - |
亀苓膏(亀ゼリー)

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 香港、シンガポール、マレーシアの中華料理店に行くと、最後のデザートとして、黒っぽい焦げ茶色のゼリーが出てくることがある。スプーンですくうと、弾力性があって、プリン・プリンとしている。蜂蜜や、レモンと砂糖からできているような甘酸っぱいシロップを掛けて食べるが、それがないと、苦くてあまり美味しいものではない。初めて食べたときは、あまりに薬くさいのでこれは漢方薬ではないかと思ったら、案の定その通りで、亀苓膏(きれいこう:亀ゼリー:Herbal Jelly)と言うらしい。亀の甲羅を粉末にしたものをベースに、甘草、仙草、土茯苓(どぶくりょう)、麻の実などの漢方生薬から抽出した液体を混ぜて蒸し、ゼリー状に固まらせたものだそうな。

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 要するに、薬膳の漢方薬というわけだ。どういう効能があるかというと、体内毒素の排出(デトックス)、二日酔い、便秘、解熱、美肌、美顔など、諸々である。実は、私は健康なときにこのデザートを食べるものだから、何らかの効能があると感じたことは一度もない。もともと、中華料理のコースの最後に出てくるデザートだし、それほど美味しくもないことから、とりわけ好きだというわけでもない。それでも、しばらく食べないでいると、何やら懐かしくなって口に入れたくなる。

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 先日、クアラルンプール市内のメガ・モールを歩いていたときのこと、専らこの亀ゼリーを食べさせるチェーン店を見つけた。「恭和堂」という。早速入ってみた。いかにも漢方薬を売っているような漢字がいっぱいの広告がある一方、そうした広告の中に若い女性の写真を使うなどなかなか洒落た雰囲気のお店である。メニューを見ると、亀ゼリーの大が日本円で約300円、小が約225円、熱いままのものと、冷やしたものがある。冷たい大を頼むと、結構なボリュームである。シロップを掛けて、口に入れると、ああ、この薬くさい味だ。真面目に作っている。冷やっとしているので、どの季節も夏のこの国には、ぴったりのデザートである。

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(2016年9月15日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:33 | - | - | - |
マラッカへの旅

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 マラッカ市内(写 真)


1.マラッカ

 マレー半島の西海岸に、昔の海峡植民地だった3つの都市がある。北から南へと順に、ペナン、マラッカ、そしてシンガポールである。いずれも大航海時代とそれに続く列強の帝国主義の時代に、東西の中継貿易の拠点港として、大いに栄えたが、その後の近代都市としての歩みは、大きく分かれた。このうち、シンガポールは、国家としては1965年にマレーシアから分離したが、故リー・クアンユー元首相の類い稀な指導の下で、時代の先端を行く産業政策を取り入れ、今や日本を遥かに凌ぐ高所得の先端都市国家となった。いわゆる開発独裁ではあるが、廉直な政治で、少なくとも国民の生活を世界一豊かにしたという点では、誰にも異論はないだろう。その後継の政治体制も整っているので、これからも引き続き、大いに経済発展を続けていくことと思う。

 それにかなり遅れて続くのが、イギリスの租借地だったペナンである。その黄金期は19世紀から20世紀の半ばまでで、その後はマレーシアの一地方都市となった。それなりに外国資本を呼び込むのに成功し、経済と観光を車の両輪として、そこそこの成長は続けている。しかしながら、華人が率いるペナン州政府と、マレー人が主導権を握る中央政府との普段からの軋轢もあって、シンガポールには、はるかに及ばない。

 これに対し、マラッカは半島の中部にあって天然の良港に恵まれていたせいか、大航海時代から列強諸国の争奪の的となった。それほど重要な交易都市だったのである。それゆえに、後述のようにめまぐるしく宗主国が変わった後、独立したマレーシアの下での発展が期待されたが、今日に至っても、さほど目ぼしい産業が育っておらず、今や地方の一観光都市に甘んじている。しかし、それがかえって良かったのかもしれない。新しいものがない代わり、逆に古いものがよく残った。そのおかげでマラッカは、2008年にペナン島ジョージタウンとともに、世界遺産の街になった。私は今年の5月にペナン島に行ったので、今回はマラッカを訪ねてみた。ちなみにマラッカは、マレー語で「MELAKA」、英語で「MALACCA」と表記されている。


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2.マラッカとマレーシアの歴史

 1396年 マラッカ王国が、対岸のスマトラ島から逃れて来たパラメスワラ皇太子によって建国。
 1403年 明の使者「イェン・チン公使」が来訪。
 1405年 明の永楽帝によって派遣された「鄭和」が来訪。これ以降、明に朝貢し、その庇護の下で東西の香料貿易の中心港として繁栄。
 1414年 イスラム教を受入れ。
 1515年 ポルトガルの攻撃で陥落し、国王はジョホールに逃れる。以降、マラッカは植民地となる。
 1545年 宣教師のフランシスコ・ザビエルが初めて寄港。
 1641年 オランダがポルトガルを追い出し、植民地化。
 1650年 オランダがスタダイス(市役所)の建物を建築。
 1786年 イギリスの東インド会社がペナンを租借して植民地化。
 1819年 イギリスの東インド会社社員のラッフルズがシンガポールに上陸。
 1826年 イギリスの東インド会社が、ペナン、マラッカ、シンガポールを海峡植民地とする。
 1896年 マレー半島全域がイギリスの植民地となる。
 1941年 日本軍がマレー半島に上陸し占領。
 1945年 日本の敗戦とともに再びイギリスの植民地に。
 1957年 マラヤ連邦として独立。
 1963年 マレーシア連邦が、シンガポール、サバ、サラワクを加えて発足。
 1965年 シンガポールがマレーシア連邦から分離独立。


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3.マラッカの中心街

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 マラッカは、中心街のオランダ広場(Dutch Square)には、昔オランダの行政庁だったスタダイス(The Stadthuys)、オランダ人が1753年に建てたプロテスタントのクライストチャーチ(Christ Church)、中国人豪商が父親を偲んで建てたクロックタワー(Clock Tower)、ビクトリア女王の噴水(Victoria Regina Fountain)、オランダ風車などが立ち並んでいる。そこで目につくのが、トライショー(Tryshow)という人力車で、そのデコレーションの派手なことといったらない。ドラえもん、ポケモン、キティちゃん、アナと雪の女王、スパイダー・マンなどが使われている。はてさて、これらは一体全体、著作権や商標権使用の許諾を受けているのだろうか・・・たぶん、そんなものはお構いなしにやっているのだろう。

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 スタダイスは博物館となっていて、中に入ってみると、列強諸国に支配されたマラッカの歴史、中国との交流、マレー人の風俗が展示されている。驚くのは、植民地化した列強諸国の多さで、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス、日本、またイギリスと、誠に目まぐるしい。上の年表にはないフランスまで出てくる始末だ。これは何時のことだったか調べたが、今もって、よく分からない。あるいは、フランス革命のときにオランダは一時フランスに編入されたことがあったので、その影響がこの地にまで及んでいたのかもしれない。そのうち、識者に聞いてみたいと思っている(注)。

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 スタダイスを出て、裏手の小山に登り、セントポール教会跡(St. Paul's Church)に行ってみた。まず迎えてくれるのが、宣教師フランシスコ・ザビエル(St. Francis Xavier's Statue)の白い像である。日本に来る前は、ここマラッカで布教していたという。この教会は、1521年、ポルトガルによって建てられた。ところが、ポルトガルはカソリックだったことから、その後にこの地を支配したプロテスタントのオランダ人によって放置され、今や屋根もなく、外壁しか残っていない。

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 ところが、その遺跡そのものとなっている教会の内側に、幾つもの墓石が立て掛けられている。この経緯が、いかにもマラッカらしいところである。マレーシア独立後、この丘に州知事の公邸が建てられたが、そこから見下ろすところに、プロテスタントのクライストチャーチ関係の墓石が点在していて、イスラム教徒の知事にとっては目障りだった。そこで知事はその撤去を求めたが、代替地を用意してくれない。困ったプロテスタント信者に手を差し伸べたのがこのセントポール教会史跡のカソリック信者で、せめて墓石だけでも保存したいと、このように運び入れたそうだ。そのセントポール教会跡から見る景色は格別である。手前に緑の芝生、その向こうに市街地、さらに向こうは海で、大きな船を行き交う。市街地の真ん中には白いマラッカ・タワーがあって、ときどき、円盤のような展望台が上がって来るのが面白い。

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 オランダ広場から、マラッカ川に架かる橋の近くに、鄭和の記念碑があった。そこに立ち寄ったあと、ジョンカー通り(Jonker Street)の入り口のところにある海南飯店で、名物のババニョニャ料理を食べた。ババニョニャとは、かつて18世紀から20世紀にかけての英国統治時代に、ゴム農園労働者や錫鉱山労働者として、中国南部からやって来た中国人が、現地の女性と婚姻し、両者の文化が融合して形成された独特の人々である。プラナカンともいう。もちろん、その前の15世紀に明王朝から輿入れしたハンリーポー皇太子妃とそのお付きもいたが、男性は宦官だっただろうから、この人たちがババニョニャの祖先になったわけではない。

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 何れにせよ、ババニョニャ料理は、中華料理とマレー料理の融合でできたもので、イスラムの戒律に反するから本来はマレー料理ではあり得ない豚肉を使用した料理もあるし、中華料理に当地独特のココナッツやパイナップル、香辛料を使用した料理もある。この日、私がいただいたのは、「オタ・オタ(Otak Otak)」という、魚のすり身を平べったい長四角の形に焼いた料理で、香辛料が効いていて、ピリッとした辛さがある。もう一つが「チキン・ライス・ボール」で、鶏肉とともに炊いたご飯をピンポン球ぐらいの大きさにしたものである。なお、ジョンカー通りにはたくさんのアンティークショップがあって、一つ一つ訪ねて歩くと面白いのだが、この日はともかく暑くて、すぐにホテルに帰ってしまった。



4.ザ・マジェスティック・ホテル・マラッカ


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 マジェスティック・ホテル(写 真)


 マラッカでのホテルを決めるとき、たまたま何の気なしに「ザ・マジェスティック・ホテル・マラッカ(大華旅店)」を選んだが、これが非常に良いホテルだった。本館は1920年築の大富豪の邸宅を改装したもので、白い壁にライトグリーンの窓枠をはめてあるコロニアル風の佇まい。部屋に通されると、まずウェルカムドリンクとして、暖かい中国茶が供される。ベッドはキングサイズで寝やすい。ベッドの頭側の壁には、大航海時代のマラッカ港の絵が掛かっている。これらの部分は、木製だ。シャワールームとは引き戸で仕切られ、開けてみると、大理石敷きの床の上に置いてあるバスタブが、4つの脚の付いている古き良きヨーロッパ式のものだ。これだけでも、何だか嬉しくなる。窓近くには、横たわることのできるコーチ、その上には、天上扇があって、ゆったりと旋回している。窓から外を見ると、近代的なホテルの建物と、その下を蛇行するマラッカ川が見える。降りて行って見たところ、川沿いに木製の遊歩道があって、川を見ながらずっと散歩できる。

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 ホテルの従業員の皆さんも、ホスピタリティが溢れていて、話をしていて心地よい。いかにも、リゾートでのんびりしていって下さいねと言わんばかりだ。女性の従業員さんに、その民族衣装のニョニャ・ケバヤ姿で写真を撮らせてほしいとお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかも、飛びっきりの笑顔付きだった。朝食も、洋中折衷で、特に中華の飲茶はたいそう美味しかった。これで、1泊10,900円とは、とても思えない。ホテルのレストランで夕食にいただいたのは、「ニョニャ・ラクサ」である。これは、魚を出汁ベースにし、パイナップル、レモングラスなどの香辛料で作ったカレースープの中に、ココナッツミルクと黄色い麺を入れたもので、ピリッと辛いと同時に、まろやかな味がするという、まさに中華とマレー料理の混交したものである。

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5.ドリアンとマンゴスチン


 マレーシアを訪れたので、私の好物のフルーツ、ドリアンとマンゴスチンについて、少し触れておきたい。それぞれ、果物の王様、果物の女王様と表現される南国の果物である。殊にドリアンについては、「天国の味、地獄の匂い」と言われるほど癖のある果物なので、人それぞれで、受け止め方が違う。一方では、全く食べられない人がいるかと思えば、私のようにドリアン・ラヴァーと言って、一度病みつきになったら、もうどうにも止められなくて、出回る時期が来ると、つい買ってきてしまう人もいる。ドリアンが売られる季節は、6月から8月にかけてと、11月から翌年1月にかけての年2回である。だから今回は、ギリギリ間に合った。連日、朝ご飯の代わりに食べたほどである。

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 ところで、ドリアンは、当たり外れが大きい。美味しいものはとても美味しいが、その反面、大して美味しくないものも多くて、あれだけのお金を出して買ったのを悔んだりもする。ではその美味しいものの見分け方だが、買うときに、枝の付いているのとは反対側に鼻を近づけて、その匂いの良いものが美味しいという。あるいは両手で持ってドリアンを振って、中で種がゴロゴロと転がるようであれば、食べる部分が少ないという。しかし、こんなことを一々確かめてはおられないので、最近ではこのドリアンの世界でも、ブランド化が進んでいる。たとえば「猫山王(Musang King)」が最も有名である。露店で普通のドリアンがキロ当たり10〜15リンギット程度であるのに対し、猫山王は20〜30リンギットと、倍の値段がするが、その代わりどれも味は保証されている。一つのドリアンが2キロ前後なので、今の為替レートだと日本円では1個当たりおよそ1,000円から1,500円である。現地の食料品の値段は私の実感としては日本の半分以下なので、これは日本だと2,000円から3,000円を出して、1個のフルーツを食べているようなものである。他のブランドとしては、XOD24がある。

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 なお、ドリアンはロードサイドの露店で買うというのが、昔ながらの求め方だった。ところが最近ではドリアンの栽培技術が進んで、早く市場に出すためにまだ熟れていない果実に植物ホルモンを投与して促成栽培をしているという噂がある。露店でそういうものを掴まされて健康を損なっても困るので、値段はやや高いが、私はイオンなどの日系マーケットで買うことにしている。そうすると、中身だけを取り出して白い発泡スチロールに入れてくれる。

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 マンゴスチンは、暗赤色の外皮に白い果実が入っていて、それが本当に品の良い甘さなのである。だから、マンゴスチンが嫌いという人には、お目にかかったことがない。ただし、その外皮の赤い果汁が服に掛かったら、絶対に取れないシミができる。だから、染料に使われるほどである。ドリアンはその匂いのゆえに、ホテルへの持ち込みが禁止されているが、このマンゴスティンも、やはり持ち込み禁止である。それは、この果汁が床のカーペットなどに掛かったら困るからという理由である。



6.シンガポールでジカ熱が発生



 夏休みで1週間の休暇をとった。最初の計画では、マレーシアの首都クアラルンプール郊外でしばらく滞在した後、シンガポールに行くつもりだった。ところが、マレーシアに到着したその日に、シンガポール南部の住宅地域で、突然、ジカ熱の患者が1名出た・・・と思ったら、患者数が翌日には42名、翌々日には115名、さらにその翌日には200名以上と、倍々ゲームのように急速に感染が拡大していった。その地域は住宅開発が進んでいて、建築現場が数多くあり、そこで働く外国人建設労働者が持ち込んだと言われている。現に初期の頃の患者の多くは、外国人建設労働者だった。

 ジカ熱といえば、蚊が媒介するウイルス感染で起こる病気で、発熱、全身の倦怠感 、関節の痛みが主な症状である。ほんの2週間ほど前に終わったリオデジャネイロ・オリンピックでも大きな問題となり、特に妊婦が罹ると小頭症の子供が生まれてくるし、抵抗力の弱い高齢者や子供では、死亡することがあるという。私は、その日本人患者第1号になるのもどうかと思い、シンガポールに行くのは止めて、同じ海峡植民地だったのマラッカに行くことにしたというわけである。






(注) マラッカの支配者の推移

 その後、Wikipediaの「海峡植民地」中の「マラッカ植民地」の項を参照すると、「マラッカ海峡を臨むマラッカの町は、1645年以来、オランダの支配下にあったが、フランス革命の余波を受けてオランダ本国がフランスの勢力下に入ると(1793年、フランス革命軍はネーデルラントを占領)、イギリスは1795年にマラッカをはじめとするオランダ領東インドの各地を占領した。ナポレオン戦争終結後の1818年、イギリスは同地をオランダに返還したが、その後、1824年の英蘭協約によって、イギリスはスマトラ島西海岸にあった英領ベンクーレン植民地と引き換えにオランダからマラッカを獲得した。それまでイギリスとオランダの植民地がマレー半島とスマトラの各地に混在していたが、この協定で両国の植民地の境界がおおまかに引かれた(2019年4月1日現在)。」という。

 そういうことで、マラッカの支配者は、マラッカ王国(1396年〜)、ポルトガル(1515年〜)、オランダ(1641年〜)、フランス(1793年〜)、イギリス(1824年〜)、日本(1941年〜)、再びイギリス(1945年〜)と次々に代わり、そして1957年にマラヤ連邦がイギリスから独立した。現在のマレーシア連邦は、サバ州とサラワク州を加えて、1963年に発足したものである。








(2016年9月2日記)


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KLバードパーク

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 KLバードパーク(写 真)


 KL(クアラルンプール)市内の北西部に位置するレイク・ガーデンの中にあるKLバードパークの模様を紹介したい。ここは、谷間の地形を上手に活かして大きなネットで覆い、その中に熱帯の様々な鳥を放し飼いにしている。園内を我が物顔で歩きまわっているのが孔雀で、時々、甲高い大きな声でイヤーン、イヤーンと鳴く。体にはあの立派な模様のある大きな飾り羽を持っているとはいえ、首は驚くほど細い。その細い首で、ガチョウにも負けないほどの大きな声で鳴くから、見かけによらないものだ。たくさんの孔雀の雄がいたので、羽を広げてくれる孔雀の雄を撮ろうとした。ところが、待っても待っても広げてくれない。あちらの方で1羽だけ広げてくれたのを見たから急いで行ったが、残念ながら、すぐに閉じてしまった。

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 白い鸚鵡の仲間だと思うが、巣箱の背後から、覗き見るように身体を斜めに傾けて出し、直ぐに引っ込むという愛嬌のある仕草を繰り返している鳥(キバタン)がいた。とても可愛い。この鳥に限らず、一般に鸚鵡は、見た目が美しいし、大人しいし、人に良く慣れて愛嬌がある。しかも頭が良いから、芸を仕込むこともできる。鸚鵡とともに写真を撮るコーナーがあった。カラフルな鸚鵡が、そこに並んだカップルの腕やら肩やらそして男性の頭にまで何羽も載せられて、いざ撮影となったが、どの鸚鵡もちゃんとカメラの方を向いて、ポーズを決めていた。大したものだ。園内に、鳩のような形をした大きな鳥がいた。しかし鳩にしては大きいし、頭に綺麗な飾りが満載だと思ったら、やはり「ドバト」の一種だった。オウギバトである。そのほか、川に真っ赤なショウジョウトキ(朱鷺の一種)がいて、あまりに見事な赤だったから、しばらく見とれていた。

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 こちらの売り物は、嘴が大きくてオレンジ色をしたホーンビル、つまり「犀鳥」である。これは本当に見栄えのする鳥で、犀の角のような鶏冠を持っている。パーク中央の中央のエリアには、その名を冠したレストランがある。暑い中、園内を歩きまわって喉が渇いたしお腹が空いたので、そこに立ち寄り、まず飲み物として、ココナッツの実そのものを頼んだ。そうすると、実全体を冷やして天井に穴を開け、そこへストローとスプーンを刺したものが運ばれてきた。この中には、冷えた生のココナッツジュースがある。汗をたっぷりかいた身体には、何よりの水分である。別に生臭くも何ともないから、誰でも飲める味だ。それをストローでいただく。ううむ・・・甘露の味だ。栄養的にも、点滴液に匹敵するほどの栄養素があると言われている。

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 ここまでは誰でも楽しめるが、慣れていない人は、なぜスプーンが付いているのか不思議に思うだろう。実はここからが次の楽しみで、内部の周辺には、数ミリの厚さで、白くて少しコリコリした食感の固形胚乳がある。それをスプーンでこそいで食べるのである。これがまた、素朴な味がして誠に美味しい。ドリアン、マンゴスチン、ドラゴンフルーツ、パパイヤ、マンゴなどどともに、熱帯地方で楽しみな果物の味である・・・鳥の話をするつもりが、いつの間にか、食べるフルーツの話になってしまった。恥ずかしながら、「花より団子」が身に付いてしまっている。

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 ついでに、何を食べたかというと、当地ではごくありふれたメニューであるナシ・ゴレン、つまり焼き飯である。ただし、運ばれてきたプレートには、サテーやチキンが乗っていた。注文するときに、「スパイシーで良いか」と聞かれたので、スパイシーでないものにしてもらった。そうしないと、時々とんでもなく辛いものが出てくるからだ。もっとも、スパイシーでなくすると、物足りない味の料理が出てくるときもあるので、そういう場合は、テーブルに必ず置いてあるチリ・ソースをちょっと掛けて、調整すればよい。こちらで食するときの知恵のようなものだ。ちなみに、チリ・ソースとは、赤い色をした甘辛いソースのことで、街中のレストランに行けば、テーブルの上に必ず置いてある2本の赤い瓶のうちの一つだ。もう一方の瓶はトマト・ケチャップで、こちらも赤い色をしているから間違えやすい。トマト・ケチャップのつもりでチリ・ソースを掛けたりすると、口の中が火の海のようになるから、気を付けないといけない。

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(2016年9月 1日記)


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