直系くんのお宮参り


 7月のとある吉日、赤坂山王神社において、直系くんのお宮参りを行った。その日の主役の直系くんはフリル付きの白い可愛い服を着て、パパとママに抱かれ、3歳になったお姉さんに付き添われている。そして、我ら夫婦とママのご両親が参加した。気温が32度にもなる暑い日で、蝉がジンジンと元気よく鳴いている中、まず皆で写真館に立ち寄り、家族写真を撮った。直系くんは、生まれて以来どんどんミルクを飲み、体重がもう2倍近い5kgになり、皆を驚かせている。顔もふくよかになった。それだけでなく、余計な泣き方はせず、いつも非常に機嫌が良く、育てやすい子だという。そういう点は、パパとそっくりである。お姉さんも、赤ちゃんを可愛がってくれて、良い関係にある。

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 写真館では、直系くんが主役だから、カメラマンの助手が音の出るおもちゃであやして直系くんの注目を引き、正面を向いた写真を撮ろうとして、一生懸命に奮闘してくれた。それが、(1) 直系くん1人、(2) 一家の4人、(3) 8人全員と3回も重なったのに、直系くんは一回も泣き声を上げることもなくやり過ごした。これは、かなりの大物になるという予感がする。

次いで本殿隣の夢殿へ行き、お祓いをしてもらった。まずは、神主さんがパパとママ、そして直系くんの名を読み上げて、その一家安泰と健やかな成長をお祈りし、丁寧にお祓いをしてくれた。それから巫女さんが舞いを奉納し、最後に全員で鈴を鳴らして二礼二拍一礼をし、お神酒をいただいて無事に終わった。皆で平和な気持ちになり、直系くんの将来に幸あれとそれぞれ祈りながら、自然解散した。




(2016年7月31日記)


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不忍池の蓮

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 毎年7月中旬から8月中旬にかけて、近くの不忍池の蓮池では、蓮が満開の季節を迎える。広い池の一面に、人の背丈より高い蓮の葉が林立し、緑一色となる。この時季には、その緑ばかりのあちらこちらに、美しいピンク色の蓮の花が咲き、実に素晴らしい景色となる。とりわけ今日は、蓮の花の数が多くて、まるで極楽浄土の天にも昇る心地という気持ちも言い過ぎではないように思う。

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 蓮池の前の「不忍池の大賀蓮」という看板には、このように書いてある。 「大賀蓮は、大賀一郎博士(1883ー1965)が、昭和26年(1951)、千葉県検見川の東京大学総合運動場(当時は東京大学厚生農場)の地下の青炭層から発掘したハスの実を発芽・開花させて得られた系統です。発掘されたハスの実は二千年以上地中にあったと推定されています。そのため、古代蓮などと称され、各地の池や公園で栽培されています。不忍池の大賀蓮は、発掘後、東京大学で大切に育てられてきた大賀蓮の根(蓮根)を分けていただいたものです。鮮桃色の大輪の花を咲かせ、優雅な美しさと悠久の時を超えた生命力が尊ばれています。」

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 昔、大賀蓮のことを聞き、2,000年以上も地中にあった蓮の実がまだ生きていて、それが現代で美しい花を咲かせるなんて、奇跡のようなものだと思ったことがある。つまり、蓮の実の生命力の強さに感心するとともに、2,000年前の弥生人も、私と同じようにこの美しい風景を見ていたのかと思うと、実に感慨深いのである。小さい頃、「蓮はあのような泥の中から生えるのに、少しも泥に染まらないであれほど美しい花を咲かせる。あのようになりなさい。」と諭されたことがある。しかし、生意気盛りだったものだから、そう言われると反発し、「とすると、自分の周りは泥ばかりなのか?」と思ったことがある。いま思えば、正解は、「泥もあれば澄んだ水もある。それが世の中だ。」ということなのだろう。

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 昨年、ベトナムを旅行してきた友人から、ベトナムの蓮池の写真とともに、「Lotus Tea」(蓮茶)なるもののティーパックをお土産にいただいたことがある。色や味という中身は普通の薄めの烏龍茶のようなものだけれど、蓮の花の香りがして、十分に楽しむことができた。これは、お勧めしたい。

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 不忍池の蓮(写 真)




(2016年7月30日記)



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彦根城への旅

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 彦根城への旅(写 真)


 私は大学時代に彦根城を訪れたことがあるが、それはもう半世紀近くも前のことである。彦根城は、最近でこそ、キャラクターの「ひこにゃん」で少しは有名になったが、その頃は日本全国のごくありふれたお城の一つに過ぎなかった。しかし、江戸時代の天守閣がそのまま残っているという意味では、姫路城、松本城、犬山城、松江城と並ぶ国宝5城の中に入る。それに、何よりも、江戸末期に大老として開国を決断し、桜田門外の変で水戸浪士たちに暗殺された井伊直弼の居城である。もう一度、行ってみたいという気持ちが募っていた。そこで今回、三連休を利用し、祇園祭りの見物後に、彦根に行ってみることにした。帰りは、彦根から米原に出て、東海道新幹線で帰京すればいい。便利になったものだ。

 彦根駅の西口から、彦根城が遠望できる。駅近くのホテルに投宿し、美味しそうな夕食を食べたいと、駅前を歩きはじめた。ご多分に漏れず、こちらも駅前は寂しい。もう少し向こうのキャッスルロードの方に行くと、少しは賑やかな区画があるようだ。歩くにしてはやや遠いかなと思いつつ、そちらに足を向きかけた時、「先祖は、彦根藩御馳走奉行」という看板が目に入った。私も歴史好きの端くれだから、こういう文句には弱い。お店に入り、愛想のよいお嬢さんに、うな重を注文した。それなりの値段である。かなりの時間待った。炭火でじっくり焼いてくれているらしい。焼きあがって持ってきてくれたが、いかにも食欲をくすぐるようなタレの香りがブーンとして、鼻腔いっぱいに広がる。私はその日の午前中の祇園祭りの見物で、暑くて疲れきっていたから、これで元気回復だ。この鰻、実際に食べてみて、美味しいかというと、もちろん美味しいに決まっているが、まず蒸してから焼くという関東風の調理法に慣れていると、特に尻尾の近くは硬めに感じる。こちらは関西風だから、蒸さないでそのまま焼いているらしい。肝吸いも品良く仕上がっていて、たいそう満足した。彦根城には、翌日の午前中に行くことにした。チェックアウトは正午でよいというので、お城を見学して大汗をかいても、ホテルに帰ってきてシャワーを浴びればよいという心積もりである。


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 いただいたパンフレットによると、「慶長5年(西暦1600年)、関ヶ原の合戦時の功績により、井伊直政が石田三成の佐和山城とその所領を徳川家康から拝領した。慶長9年、直政の子直継が彦根山で普請を開始し、慶長11年にとりあえず完成した。その後、大阪夏の陣のあと、引き続き普請が行われ、元和8年(1622年)に今の形が出来上がった」そうだ。彦根城が明治維新のときになぜ残ったかというと、「彦根城は、維新後の明治5年に陸軍の所管になったものの、同11年に解体の決定がされた。そこで、参議大隈重信が天皇に上奏したところ、解体を中止することになった」と、城近くの石文に書かれていた。危ないところだった。

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 復元された馬屋の前を通って表門から入った。登り石垣の近くのまるで木のトンネルのようなところの階段を通って登っている。大したことのない階段なのに、登るのが結構大変だ。なぜだろうと思ったら、解説によれば敵の侵入時に疲れさせるため、わざと階段の幅や高さを変えたりして、工夫しているそうな。太鼓門、続櫓と過ぎて、やっと国宝に指定されている天守閣前の広場に出た。真近で仰ぎ見る天守閣は、実に美しい。正面の入母屋風破風、その直ぐ下の左右にピンと跳ね上がる唐破風、さらに下の三角形の形をした左右の優雅な三角形をした切妻破風が、見事に調和している。彦根城の中に入る。切り立った崖のような急な階段を何回か登って、最上階に着いた。まその眺めがよいことといったらない。眼前には琵琶湖とその中の竹生島、そして市街地が広がり、眺めて飽きない。反対側には、佐和山城がある。隠し部屋まであって、いざという時には、城主を隠したのではないかと思われる。

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 天守閣から出て、近くの国名勝「玄宮園」に向かった。こちらは回遊式庭園で、江戸時代には下屋敷兼隠居所の槻御殿(けやきごてん)があったという。藩主の14男に当たる井伊直弼は、ここで産まれたそうだ。着いて池の回りを歩きだしてみて驚いた。よく手入れされた松といい、池の趣向といい、和歌にちなんだ国内の名所を模した橋などの造作といい、背景のちょうど良い位置に天守閣が見えることといい、東京の六義園のような著名な大名庭園にも勝るとも劣らない素晴らしい庭園である。いやいや、それ以上である。だから、どこから見ても写真になる。これには、驚いた。

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 「玄宮園」から、お堀に沿ってグルリと回り、彦根城博物館に入った。赤地に金色で「井」と書いた井伊家の旗、井伊家の兜、甲冑、刀剣、茶道具、能面や能装束などをじっくりと鑑賞した。また、帰り際に、お茶菓子付きの抹茶をいただいた。井伊直弼が父の死をきっかけに中堀に面した屋敷に移り、「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠んでそれを「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けたそうだが、時間がなくて行けなかったのは心残りである。

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 午前10時半から「ひこにゃん」が天守閣前でパフォーマンスをするらしい。それに間に合うように再びお城に戻って、待っていると「ひこにゃん」が出てきた。30度を超える猛暑の中で、あの縫いぐるみを着て30分間、演じるようだ。ご苦労様なことだ。さて、その「ひこにゃん」のパフォーマンスは、ちょっと体を傾けたり、手の先だけを動かしたりと、徹底的な省エネスタイルだ。それでも、上手に可愛らしさを醸し出していて、感心した。また、「ひこにゃん」に限らず、地元の人たちが、いかにこのお城を大事にして次の世代に引き継いでいこうとしているかが、よくわかった。それやこれやで、なかなか印象深いお城だった。

ひこにゃん公式HPによるプロフィール

 彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる"招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編成のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクター。愛称の「ひこにゃん」は、全国よりお寄せいただいた1167点のなかから決定。また、巷ではひそかに「モチ」という愛称も……。

(注) 誕生して、今年で10周年になるそうだ。




(2016年7月18日記)


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京都 祇園祭り

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 京都 祇園祭り(写 真)



1.祇園囃子の中の山鉾巡行(前祭)

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 コンチキチン、コンチキチンと聞こえる祇園囃子が次第に大きくなってきた。いよいよ来たかと期待が高まる。遥か先にある四条河原町の交差点に、大きな長刀鉾が姿を現した。そこで、鉾が直角に方向転換(辻まわし)をする。1回では足りないので、普通は3回、時には4回に分けて、方向転換を完結する。そのたびに、長刀を先頭に取り付けた鉾頭が大きく揺れる。300mmの望遠レンズを通して眺めると、鉾が辻まわしで次第に方向転換をしているのがわかる。後でテレビを見たら、あの大きな車輪の下に割り竹を敷き詰めて、その上に水を打ち、大きな掛け声を合図に、曳き方が一気に引いて回していた。それでようやく、その真北に位置するこちらまで引いてきて、我々の前に来るという塩梅である。この辻まわしを見たかったが、四条河原町の交差点近くは非常に混雑して、とても入れなかった。

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 次第に私のいる場所まで、長刀鉾が近づいてくる。高さ25mの巨体の鉾頭つまり頂上にある長刀が左右に揺れて、じわりじわりと私の前に来た。ちなみに、この切っ先は決して御所の方を向かせないそうだ。鉾の1階に当たる先頭には、音頭取という扇を持った2人の男の人が左右にいて、扇を動かしながら引き手たちに合図をしている。2階の正面には、化粧をしたお稚児さんがいて、脇には囃子連がコンチキチンの囃子を流している。時々、鉾の脇に垂らした紐を引いて、拍子を付けている。屋根を見上げると唐破風形式で、その上に屋根方が乗っていて電線などにぶつからないか見守っている。その更に上の棒の部分には、下から上へと神社のような榊、真木、天王台とあって、頂上が長刀である。

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 鉾の次には、山が続く。最初の長刀鉾や最後の船鉾などの例外を除き、順番はくじ引きになっているそうだ。今年は、長刀鉾の次は、山伏山、白楽天山、孟宗山と続いて、函谷鉾になった。鉾のところで時間をかけて大きな辻まわしをする。だから、間隔が空くので、ひとつの大きな鉾が小さな山を3つ引き連れているようだ。

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 そういう大きな鉾としては、函谷鉾のほか、月鉾、鶏鉾、菊水鉾、放下鉾がある。鉾は、前懸、胴懸として重要文化財級の絨毯などを惜しげもなく使っている。山も同様だが、鉾(重量7〜9t)と比べて規模は小さい(重量0.5〜1t)し、構造も異なる。山は、朱大傘に御神体(人形)と真松を載せる台のようなものである。

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 山のうち、面白かったのは蟷螂山である。宵山で、蟷螂(カマキリ)の人形が乗っていたのに気が付いたのだけれども、本日の巡行では、見物人が大きく拍手すると、動いたのである。それも、まるで、「やあ」と挨拶するように、片手を上げたり、羽根を広げたりという具合である。

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 綾傘鉾では、「棒振り踊り」が披露された。赤熊という不思議な被り物をかぶった踊り手が、鉦、太鼓、笛に合わせて踊り出す。公家の装束をしたお稚児さんも行列に加わっている。暑い中、ご苦労さまなことだ。四条傘鉾も、同じように赤熊さんがいて、踊っていた。

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 最後に、山鉾巡行のしんがりをつとめる船鉾である。これはつい最近、再建されたそうで、新しいだけあって、先頭の金色の瑞鳥、舵に施された螺鈿細工、タペストリーその他の飾りなど、どれをとっても見事である。

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 さて、これで巡行の見物が終わった。山鉾は、この巡行後すぐ解体されるそうだ。これは、山鉾が街中を巡行することで厄を集めるとされているので、その集めた厄を留めないようにするためだという。元々、祇園祭りは貞観11年(869年)に、日本全国の災忌の徐去を願って始まったものだそうで、その起りから、さもありなんと思う。なお、それぞれの山鉾には、長い歴史のあるこの祭りらしく、それぞれに興味深い言われがあるので、 インターネットなどで参照されるとよいと思う。

【本年の前祭の山鉾巡行の順番】

 1番 長刀鉾(なぎなたほこ)
 2番 山伏山(やまぶしやま)
 3番 白楽天山(はくらくてんやま)
 4番 孟宗山(もうそうやま)
 5番 函谷鉾(かんこほこ)
 6番 太子山(たいしやま)
 7番 四条傘鉾(しじょうかさほこ)
 8番 占出山(うらでやま)
 9番 月鉾(つきほこ)
 10番 芦刈山(あしかりやま)
 11番 蟷螂山(とうろうやま)
 12番 保昌山(ほうしょうやま)
 13番 鶏鉾(にわとりほこ)
 14番 伯牙山(はくがやま)
 15番 綾傘鉾(あやかさほこ)
 16番 霰天神山(あられてんじんやま)
 17番 菊水鉾(きくすいほこ)
 18番 木賊山(とくさやま)
 19番 郭巨山(かっきょやま)
 20番 油天神山(あぶらてんじんやま)
 21番 放下鉾(ほうかほこ)
 22番 岩戸山(いわとやま)
 23番 船鉾(ふなほこ)


2.暑さと人混みの宵山見物


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 宵山というからには、夕方からが本番だろうと思ったので、まだ日中の混み合わないうちに、各町内の鉾を見物に行こうとした。私は新幹線で、お昼に京都に到着した。京都に行くと必ず立ち寄ることにしている駅構内の八条口脇の「松葉」で、いつもの通りニシン蕎麦を注文し、それを食べ終わったのが、午後1時過ぎである。それから地下鉄で四条烏丸に行き、地上に出て、さあどこへ向かって歩こうかと見回した。その時、位置確認に使ったグーグルの地図に、鉾の位置がレイヤーとして重なってきた。これは便利だと思ったが、残念ながら、鉾の名前までは書いていない。しかし、自分の位置からどの方向へどれだけ歩けばよいかがわかる。

 そこでまず、烏丸通りの南から巡って行こうとした。そうして、巡って行った鉾を順に並べると、雛鉾 → 綾傘鉾 → 伯牙山 → (鉾ではないが、杉本家を見学) → 芦刈山 → 油天神山 → 太子山 → 木賊山 → 船鉾 → 白楽天山 → 保昌山 → (烏丸通りを渡って) → 四条傘鉾 → 蟷螂山 → 放下鉾 → 霰天神山 → 山伏山 → 占出山 → 菊水鉾 → 函谷鉾 → 月鉾 → 長刀鉾。これで全部だと思ったが、実は孟宗山を見落としていて、これは改めて夕方から見物することにした。合計で23基である。


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 その日の京都の気温は31度で、曇天だったが午後2時半過ぎると日が照ってきた。湿気も高く、とても暑い。汗が滝のように流れる。薬局で買った体液補給の水分を4本、つまり2リットルも飲んで熱中症予防にする。汗で下着まで濡れるのが気持ち悪くて、ホテルに着くまでに3回も着替えた。祇園祭りは暑さとの闘いだった。

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 宵山までにひと通り見終わって満足したので、午後4時半と、少し早いが京都大丸デパートの8階のレストランで、食事をすることにした。飲茶を食べていると、冷房が効いているはずなのに、まだ汗が出てきて止まらない。体温調節機能がおかしくなったのかと心配したほどだ。それでも、30分ほど経つと、やっと治まって、着替えることができた。

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 宵山直前までに見物した22基の山鉾の中で、最も記憶に残ったのは、先に述べた船鉾で、次に、長刀鉾、月鉾、放下鉾などの大型鉾である。今でこそ、大した高さではないが、昔は天を衝く高さだったのだろう。このほか、蟷螂山では、本当に蟷螂(カマキリ)の模型が乗っていたのには、驚いた。しかも、前述のようにそれが愛想よく動いたから、ますます驚いた。

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 暑さにやられた身体もレストランで冷えて十分に安まったので、それでは本当の宵山見物に行こうと建物を出た瞬間、とてつもない人混みに驚いた。この人出は、昼間には全くなかったものだ。それでも、長刀鉾 → 孟宗山 → 占出山 → 山伏山 → 霰天神山 → 放下鉾 → 郭巨山 → 四条傘鉾 → 油天神山 → 太子山ときたところで、あまりの人混みと、時間も午後8時45分と遅くなったので、これ以上、回るのを断念した。実はもう一度、宵山の提灯が点灯された「船鉾」を見たかったのだが、船鉾のごく近くまで行って目の前に見えたものの、一方通行の壁に阻まれて行けなかったのは、残念至極である。

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 なお、宵山では、厄除けの粽、御礼、お守りなどが授与される。このほか、太子山では子供たちが「どうですか、どうですか」と、蝋燭を売っていたが、その口上があまりに可愛いので、見物人が立ち止まって聴き惚れていた。太子山は、聖徳太子にちなんで作られただけあって、あたかも菅原道真のように、学問の神様のように祀られているようだ。


3.お祭り雑感

 かつて「そうだ、京都に行こう」というキャンペーンがあった。私は毎年、数回はそういう気分になって、京都に行っている。言ってみれば、里帰りみたいなものである。友達に会ったり、大学時代の同級生と同窓会を開いたり、寺社を訪ねたり、桜や紅葉を見に行ったりするのが常である。ところが、今年はまだ1回も行っていない。そろそろ行きたくなったと思った頃に、今年の祇園祭りは7月16日(土曜日)に先祭の宵山、17日(日曜日)に先祭の山鉾巡行が行われると聞いた。しかも18日は祝日だから、見物するには、もってこいの状況である。

 ただ、思い立ったのが遅かったので、山鉾巡行の観覧席は既に売り切れていた。ならば、3時間ほどの巡行に過ぎないから、沿道から見物すればよいと考えた。次に宿の確保については、京都市内のホテルはどこも満室だったので、大阪でホテルを手配した。ただ、京都の夏は暑い。暑すぎて、体と頭がどうにかなりそうなくらいだ。家内に一緒に来るかと聞いたが、それほど暑いのなら、遠慮するということで、単身で出掛けることになった。

 山鉾巡行の見物の場所であるが、朝8時、淀屋橋駅から京阪電車特急に乗って、京都に着いたのが9時少し前である。山鉾巡行中に直角に方向転換(辻まわし)が行われる四条河原町交差点に出ようとしたら、もう群衆でいっぱいで、入れなかった。そこで、辻まわしを見るのは諦め、河原町通りを裏の高瀬川の方からしばらく北上して、河原町通りに出たら、少しはゆっくりと見物できるスペースがあった。

 当日は曇天だったので、光の方向は写真にさほどの影響はなかったが、もし晴天だったら、午前中だからこのように東側から撮った方が良かったはずだ。ところが、どういうわけか山の人形は、全て道路の西側を向いていたから、これが撮れなかったのは、残念至極だった。後から祇園祭りのパンフレットを見ると、確かに左側から写真が撮られていて、人形が正面から写っていた。まあ、予め調べるにはどうしても限界があるので、仕方のないことだと諦めるほかない。




(2016年7月17日記)


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