向島百花園の初夏の花

雀


 向島百花園の初夏の花を見ようと出かけた。最近では、2015年2011年の秋、2012年の夏に訪れている。東武鉄道の東向島駅で降りて、ゆっくりと歩いていく。今は梅雨の真っ最中だが、どうやら空梅雨のようで、雨はほとんど降らない。紫陽花は必ず咲いているだろうが、ほかにどんな花があるのか楽しみだ。

カリンの実


 浅草経由で向島百花園に到着した。最初に目についたのが、カリンの実だ。まだ真ん丸だが、成長すると楕円形になるらしい。古くから咳止めに使われているらしい。確か、のど飴の成分に入っている。

山吹升麻と熊ン蜂


 さて次は何があるだろうかと思って進んでいくと、白くて長細い花に、熊ン蜂が取り付いている。少し遠目から撮影したが、なかなかこちらに顔を向けてくれない。もっとも、目が合って襲われでもしたら困るので、これくらいでちょうど良いのかもしれない。

山吹升麻と揚羽蝶


 あれあれ、同じ花に、今度は揚羽蝶がやって来た。こちらは、ひらひら飛び回るので、焦点なかなかを合わせられない。やっと蜜を吸うために花にとまったところを撮った。ところで、この花は、何というのだろうか。ネットで「季節の花」を見ると、一番近そうな花が「山吹升麻(やまぶきしょうま)」のようだが、あまり自信がない。

雀


 近くに、雀が飛んできた。さほど警戒せずに、チュンチュンと鳴きながら近くの棒杭にとまったところをパチリと撮った。シャッター速度を早くする暇がなかったので、どうかと思ったが、パソコンで見ると、非常によく写っていたので、大いに満足した。

孟宗竹


 孟宗竹の区域に入ってきた。上を見上げれば日の光を通して見る竹の葉の緑の色のグラデーションが美しいし、下を見ると幹の緑の色が濃いのがこれまた目に染みるようだ。そういえば、先週、鎌倉の竹林の寺である報国禅寺に行ったばかりだった。

花菖蒲


 花菖蒲が、ほんの少しのわずか10輪ほどだけだったけれども、池のほとりに咲いていた。もう少し、あると思ったのに、これは意外だった。帰りに堀切菖蒲園に立ち寄るということも考えたが、またの機会にしよう。

撫子


 ピンクの可憐なこの花は、撫子(なでしこ)だ。私の小さい頃は、田圃の畦道などにいくらでも咲いていた花で、あまり気にも留めなかったものだが、年をとってこうしてみると、なかなか可愛く感じる。

桔梗


 桔梗の花だ。確か、明智光秀の家紋である。日本に古くからある在来種だそうだ。5つの花弁から成る整然とした印象の花だが、つぼみも紙風船のような五角形だから面白い。

紫陽花


紫陽花


紫陽花


紫陽花


 やっと本日のお目当ての紫陽花だ。でも、その生育に適していない土地柄なのか、色合いがボケてしまっていて、色鮮やかな紫陽花には、ほとんどお目にかからなかった。

萩の花


 萩の花が若干咲いていた。こちらの百花園は、秋の季節には萩のトンネルが有名だが、今日現在ではトンネルの両脇にようやく生えかかっているくらいで、まだ天井には萩の木が届いていなかった。

美容柳


 美容柳は、このように黄色の花弁を持ち、中央に黄色い雄蕊がもやもやとある面白い花である。

 唐の時代、安禄山の乱で長安を追われた玄宗皇帝が逃げる途中、やむを得ず最愛の楊貴妃を殺さざるを得なかった。そして乱が収まり、2年後に戻ってきたときの状況を、白楽天はその長恨歌の中で描写している(冒頭の一部だけを引用)。

   帰来池苑皆依旧
   太液芙蓉未央柳
   芙蓉如面柳如眉
   対此如何不涙垂
[以下略]


 (帰ってくると、池も何もかも元の通りだった。太液池の蓮の花、芙蓉宮殿の未央柳。その蓮の花はあたかも楊貴妃の顔のごとく、その柳はまるで楊貴妃の眉のようだ。これを見て、どうして涙がこぼれてくるのを押さえられようか。)

 というように、この歌の中に「未央柳」が出てくる。それが転じて「美容柳」となったようだ。


下野(しもつけ)


 このピンクと白の面白くて可愛い花は、下野(しもつけ)である。調べたら、花名の由来は、下野国(栃木県)で発見されたことにちなむのだそうだ。それにしても、この花を見れば見るほど、もう少し、詩情あふれる名前を付けてあげればよかったのにという気がする。

日光キスゲ


 この黄色いユリのような花は、日光キスゲである。これが一面に咲いている風景は、素晴らしいが、こうしてほんの数輪でも、なかなか優雅で美しい。正式には、禅庭花(ぜんていか)というらしい。

柘榴(ザクロ)


 この赤い花は、実は柘榴(ザクロ)である。秋に来ると、大きな実が成っている。この花は、まだ蕾である。

ホタルブクロ


 ホタルブクロだ。この中に小さな電球でも灯すと、趣味の良いランプ・シェードになりそうだ。

浅草の交差点から見た風景


 最後は、浅草の交差点である。東京スカイツリー、アサヒビールのジョッキと筋斗雲の建物が見える。






 向島百花園の初夏(写 真)



(2016年6月18日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:22 | - | - | - |
明月院と報国禅寺

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1.明月院(紫陽花寺)


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 梅雨に入ってもう1週間近くなのに、空梅雨で雨が降らない。そうこうする内に、紫陽花の季節も終わりになるかもしれないと思っていると、近距離のツアーのチラシが目に入った。鎌倉のアジサイ寺と竹の寺だという。前者は明月院だが、後者は報国禅寺とのこと。報国寺は知らなかったから、ちょうど今は梅雨の晴れ間なので、どちらにも行ってみようという気になった。iPadで調べると北鎌倉駅で降りて10分間歩いて明月院に行き、見終わった後にまた駅に戻って鎌倉駅へ行き、着いたら東口から京急バスで浄妙寺バス停で降りて3分間の歩きで報国禅寺に着くという単純なコースだ。

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 時間があれば、帰りに鎌倉駅から長谷に行って長谷寺の紫陽花や高徳院の清掃が終わったばかりの鎌倉大仏を見て来るつもりだ。ただ、これだけ天気がいいと、皆さんも同じことを考えるだろうから、早めに行こうと思っていた。家内は、暑そうだからと不参加。やむなく単身となった。最近はこのパターンが多い。ところが、出発前にあれやこれやとあって、家を出たのがちょうど朝9時で、それでも10時20分前には、北鎌倉駅に着いた。あの狭いプラットホームに、電車を降りた乗客がすし詰め状態で、ゆっくりと前進するだけ。やっと途中の臨時出口から出て混雑から外れ、ひと息ついたものの、人波は円覚寺に入らずに、そのほとんどが私と同じく明月院を目指すようだ。これは、大変なことになった。

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 やがて、線路沿いの道から左手に折れて明月院に向かう途中で、順番待ちの長い列が出来ている。こんなことは、初めてだ。その列の中で待つこと30分、蝸牛の如く少しずつ前進してようやく明月院に入れた。いただいたパンフレットによれば、その前身である明月庵が創建されたのは、永暦元年(1160)で、この地の武将だった山内首藤俊通が平治の乱で戦死し、その供養のため、子の山内首藤経俊によるものという。その後、北条時頼が明月院のある場所の西北に最明寺を建立し、これを前身にその子時宗が福源山禅興仰聖禅寺を再興した。禅興寺は、足利幕府下で関東十刹の一位となるなど隆盛を誇ったが、明治元年に廃寺となり、明月院だけを残して今に至っているという。

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 それはともかく、拝観客の数が肝心の紫陽花の数よりも多いくらいで、こんなのは、見たことがない。明月院に入って左手に少しお花畑があるのでそちらを見て来ようとしたら、まるでメイン・ストリームから押し出されるようになってしまい、元に戻るのが大変だったが、何とかお茶屋の月笑軒前で合流できた。それでも、周囲の紫陽花にカメラを向けて、いくらかは綺麗な写真を撮ることができた。でも、うっかりあちこちにカメラを向けると、画面に人が入ってしまうから自粛した。だから、撮った写真は花が真ん中の日の丸構図のものばかりだ。

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 紫陽花の花は、青、紫、ピンク、白と、色合いが実に美しい。同じ株から青、紫、ピンクの花が出ているものがあって、一体どうなっているのかと思う。確か、色素のアントシアニンの働きで色合いが変わり。アルミニウムが吸収されると青色が、吸収されないとピンク色になる。酸性土壌だとアルミニウムが溶けるので青色になり、中性とアルカリ性土壌であればアルミニウムが溶けないからピンク色になると聞いたことがある。調べてみると、土壌の化学的な性質にかかわらず両方の色合いが出る品種もあるそうだ。なるほど。でも、まだ花が咲いたばかりで、花の中は薄い黄色で、回りが青やピンク色に発色し始めたのも、初々しくて、美しい。

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 鎌倉石の参道を大勢の人たちとともにゆっくりと登っていき、枯山水庭園に着く。須弥山をかたどり仏教観を現すそうな。庭の石の脇に小さな蟹がひっくり返っていた。なんだろう?その向かいの本堂の方丈の建物の方には、例の有名な丸窓の間がある。それを見ようと思ったら、ここも長い列だ。それに並んで、やっと写真を撮ることができた。いやはや、もうたまらないと思って、人がいないところはないかと探して、本堂後庭園に入った。意外なことに、花菖蒲が咲いていた。「意外」というのは、私の先入観のせいだ。つまり、アヤメだと5月中旬、カキツバタだと5月初旬に咲くはずだと思っていたので、てっきりそれらだと考えたからだ。でも、「花菖蒲」と書いてあったので、納得した。花菖蒲の咲く季節は、6月の梅雨のときだ。それにしても、花菖蒲は綺麗な花だ。接写すると、ますますそのように思う。あれあれ、蜻蛉が花の蕾にとまっている。驚かさないように近づいて、焦点を合わせて・・・パチリとシャッターを押し、何とか写せた。

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2.報国禅寺(竹林の寺)


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 拝観券の裏に書かれていた由来記によると、報国寺は建武元年(1334)創建の臨済宗建長寺派の禅宗寺院で、開基は足利尊氏の祖父の家時である。休耕庵という塔頭の跡に孟宗竹が生えて、現在の竹の庭になったそうな。お寺に入ったばかりのところにある緑の苔を随所に使った石庭が斬新だし、本堂に続く参道の途中にあるお地蔵様もしっとりした情感を醸し出している。

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 竹の庭に入ったところ、地面は竹の枯葉で覆われ、そこに30センチほどの等間隔で直径10センチくらいの孟宗竹が数多く生えている。その上は竹の緑で美しく、壮観だ。それをしばらく眺めていると、心が研ぎ澄まされていくような気持ちが生まれる。これは、なかなかのお寺である。参拝客の数が段違いに少ないというせいもあると思うが、明月院でざわついた心が、次第に落ち着いてきた感じがした。しばらく境内を眺めさせていただき、ゆっくりできたので、早めに帰ることにした。

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 鎌倉駅で東京行きの電車に乗ろうとして、グリーン券を買おうとしたが、湘南新宿ライン、成田空港行き、横須賀線、東海道線、常磐線、千葉行きなどが入り乱れていて、何が何だか即座には分からない。駅員の方に教えてもらって買う有様だ。これというのも、上野を飛ばして直通運転の車両ができたりと、最近のJRの路線がますます複雑になったからだ。次回は、事前に良く調べていくことにしよう。

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 紫陽花の明月院( 写 真 )

 竹林の報国禅寺( 写 真 )






(2016年6月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:38 | - | - | - |
直系男孫の誕生

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 先日、息子夫婦に、第二子が誕生した。2,880g余りの健康な男の子だ。私たちにとっては、直系の男孫ということになる。皇室になぞらえるのもいささか畏れ多いが、たった一人ではあるが男子直系で繋がったということになる。めでたいことだ。郷里の私の母も、手放しの喜びようだ。

 夫婦の第二子とあって、パパもママもさすがに慣れていて、まずパパの方は、赤ちゃんを慣れた手付きで抱いている。誕生の当日に、「名前は決めたの?」と聞くと、「いいや。まだだよ。本人の顔をよく見てから、決めるつもり。」と、物慣れした答えが返ってきた。なるほど、その通りだ。ママはというと、こちらもゆったりと構えていて、私が「誕生したその晩は、ゆっくり寝られましたか?」と聞くと、「ええ、最初の子は、いったん泣いたら止まらなくて、本当に大変でしたけど、この子はお腹が空いてミルクが欲しいときだけ泣くので、本当に楽です。」という。そして、「この子は、とっても育てやすそうです。」とニッコリする。手慣れた手つきで赤ちゃんを抱っこして授乳している。結構なことだ。


いらすとや


 私の家内が、「友達と話していて、『赤ちゃんの時から手のかかる子は、もう一生、手がかかって仕方がないけれど、逆にその頃から手のかからない子は、ずーっと手がかからずに行くんですよ。』ということになり、『本当にそうよね』と納得したことがありますが、この子はきっと、一生、手のかからない育てやすい子ですね。」と宣っていた。現に、息子がそうだから、おそらくその通りだと思う。

 それから数日して、息子パパ曰く「この子は、22世紀を見られる人だから、大事に育てたい。顔を見ていると、とても素直でまっすぐ育ちそうな様子なので」と前置きして、皆の前で、赤ちゃんの名前を発表した。その名前と、赤ちゃんの顔を見比べて、一同、なるほどと納得した。良い名前だ。その名の通り、すくすくと育ってほしい。



 ところで、姉となった女の子、つまり我々の孫娘ちゃんは、今年から幼稚園児となったが、お産の間は、母方の家で預かってもらっている。お母さんがいない中、健気に頑張っているそうだ。どうかこの一家が、いつまでも幸せでありますように。

 なお、この私のエッセイ中で、最初の孫は「初孫」、2番目の孫は「孫娘」と、それぞれ2文字で呼んでいるので、3番目となるこの直系の男孫をどう呼ぼうかと思案中だ。「孫男」くんというのも人の名前のようでよくないし、「男孫」くんは、これまた呼び慣れない。そこでいっそのこと「直系」くんで行こうかと思っている。




(2016年6月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:50 | - | - | - |
父の思い出と軍歴

父の学校


 父が亡くなってはや5年になる。もうすぐ命日が来るので、帰省して母や妹たちと、また父の思い出を話して来ようと思っている。私は18歳で上京して家を離れた。だから、それ以来、父とゆっくり話すのは夏と冬の帰省のときくらいであった。だから、父のことを隅から隅まで知っているかというと、必ずしもそうではなくて、雑談の中で断片的に話してくれたことを記憶しているにすぎない。それにしも、私が東京で忙しくしているうちに、故郷で父が急に体調を崩し、皆が心の準備ができないままに、突然亡くなってしまった。だから、父の最後の日々に、ゆっくりと話す機会がなかったことが本当に心残りである。今年は、皆と父のことを話すときの話題として、父の記録がないか、調べてみることにした。それに、今の内に父の記録を確認しておかないと、時間が経つにつれ、そうした記録が失われるかもしれないという心配もあったからである。

 父の父、つまり私の祖父は農家の三男坊だったことから、早くに自立する必要に迫られ、国鉄の職員となった。そして、父は8人兄妹中の男子の3番目として生まれた。その日付つまり生年月日と、生誕の地がどこだったかは、戸籍を調べればよい。相続のときに役場から、原戸籍を送っていただいたから、それを見れば、父だけでなく祖父や祖母の両親についても分かるようになっている。日本という国は、こういう庶民の記録までしっかり残っているから、何とまあ、すごい国だと思う。

 では次に、父が出た学校を調べようと思った。思い出したのは、生前に父と実家近くをドライブしていて、ある学校の前を通りかかったときのことである。父が、「この学校を出たんだよ。」と言っていた。私はこの地で育ったわけではないので、あまり地理に詳しくない。そこでグーグル・アースを動かして、その時のルートをたどった。すると、その行程上に高校がある。これは戦後の新制高校だから、父の時の学校を継承しているのかも知れないと思って、そのホームページで学校の沿革を見たところ、確かに戦前の学校名が出てきた。しかもその戦前の学校の同窓会は、現在の高校の同窓会に引き継がれているようだ。そこで、同窓会にメールを出して、父が卒業者名簿に載っているかを確認してもらった。すると、数日後に返信がきて、確かに載っているとのこと。その後、実家で昔の父の写真を見ていたら、その高校の同窓会に出席している写真があったので、間違いない。

 高校卒業後、父は上京して、東京の私立大学で学んだはずだ。でも、もう戦争の末期で学徒出陣になったと話していたから、卒業できたかどうかまでは、聞かなかった。そこで、その大学の同窓会に電話して、父の名が昭和19年か20年の卒業者名簿に載っていないかと尋ねた。すると、その場でパソコンで検索して、「昭和20年3月に卒業されています。」と答えてくれた。意外に簡単にわかったので、むしろ驚いた。

 確か学徒出陣してから、群馬の方の部隊に配属されたそうだ。すると、「上官から『おまえは学徒出身だから生意気だ。』などと、散々殴られたりした。それだけでなく、自分の足が元々大きくてそれに合う軍靴がなかなか見つからないのに、『足を靴に合わせろ。』などと無茶なことを命令されたりして、酷い目にあった。そういう不条理な日々を過ごしているとき、見るに見かねて勧めてくれる親切な人がいて、憲兵になる試験を受けた。そうしたところ、運良くこれに合格して、東京の中野にある学校に行った。陸軍刑法や刑事訴訟法を勉強し、それから馬に載って見回る教育訓練を受けているうちに、終戦となって故郷に帰った。」というのが、父の話だった。軍隊のような階級社会では、1階級違えば人間と虫ケラくらいの差がある。そのような状況の下で、学徒出陣兵はすぐに出世する立場にあったから、上官の妬みの的になったのだと思う。それにしても、捨てる神あれば拾う神ありだ。憲兵試験を勧めてくれなかったら、どうなっていたかわからない。

 こういう、軍隊に父が在籍中のことについて調べられないかなと思っていると、軍歴証明というのがあることを知った。読売新聞(2016年)によれば、戦後70年の節目を迎えて、最近、子や孫の世代による請求が増えているらしい。海軍と陸軍とは請求先が違っていて、旧海軍の履歴原表と旧陸軍の留守名簿(外地にあった部隊別の連名簿)は厚生労働省社会・援護局社会・業務課調査資料室に、旧陸軍の軍歴等の身上に関する資料は終戦(戦没)当時の本籍地を管轄する都道府県の担当部局に、それぞれ請求すればよいというのである。父は陸軍だから、本籍地の県に電話した。すると、まず父の名前が名簿にあるかどうかを調べて折り返し電話してくれることになった。2日後に電話があり、名簿に載っていたから、「旧軍人軍属の個人情報開示請求書」を県のホームページからダウンロードして、そこに書いてある書類を添付して送ってくれれば、該当箇所をコピーして送るとのことだった。そこで、ダウンロードした書類に、私の運転免許証のコピー、父の除籍証明、私の戸籍と住民票を添えて県に送付した。すると、3週間ほど経った頃に、父の軍歴が送られてきた。それは見開きの1枚で、次のように書かれていた。


軍歴



陸軍兵籍

 兵種:憲兵(「高射兵」を二重線で消してある)
 本籍族称:○○県○○郡○○番地
 氏名:○○○○(○年○月○日生) 戸主:○○
 出身別:現役兵
 現役:昭和19年9月1日
 技能:高手
 官等級:昭和19年9月 5日 二等兵
     昭和20年3月20日 一等兵
     昭和20年8月24日 憲兵兵長

履歴
 ○昭和19年9月 日 ○○大学○○科卒
 ○昭和19年9月5日 現役兵として高射砲第○○部隊に入営
 ○同日第一甲隊に編入
 ○昭和19年9月5日より昭和19年12月1日 ○○要地制空勤務に従事
 ○昭和19年軍令陸甲第○○号により昭和19年12月2日 独立高射砲第□大隊に専属 同日第一中隊に編入 12月5日 編成完結
 ○昭和20年3月20日 一等兵
 ○4月2日 昭和20年度憲兵下士官候補者を命ず
 ○4月10日 教育の為 憲兵学校に分遣
 ○8月26日 憲兵学校に転属

 なるほど、父の話と、全て符合する。唯一違うのは、私が調べた大学卒業年である。大学側の認識では昭和20年3月だが、陸軍側では実際に入営させた昭和19年9月としてある。これは、当局間の認識の違いだ。更にこの記録を眺めていると、憲兵学校の教育期間は6ヶ月だったようだから、本来なら昭和20年9月末に憲兵になっていたはずだ。その前の8月15日に終戦を迎えたのに、その後の8月26日に高射砲部隊から憲兵学校に転属になっているし、その2日前の24日、一気に憲兵兵長になっている。教育を終えていたのなら本来なるべき憲兵上等兵をも飛び越えての2階級の特進だ。これは、どうしたことだろう・・・軍隊を解散する前に、おそらく、もう最後だから、お手盛りで昇進させてやろうということだったのかもしれない。

 こうした戦時中を生き抜くのは、実に大変である。その点、父の2人の兄さん達は辛酸をなめた。5歳上の長兄は、私にとって誠に頼りになる叔父さんだったが、フィリピンに6年間も派遣され、最後は生と死の境を彷徨い、どうやら生還した。帰国してからも、時折マラリアの発作に苦しんだ。3歳上の次兄は、確かガダルカナルの戦いに参加したと聞く。ガダルカナルといえば、補給作戦が徹底的に妨げられた結果、武器弾薬どころか食糧が圧倒的に不足し、加えてマラリヤにも苦しめられて、将兵は骨と皮ばかりに痩せ細り、派遣された約3万人中、およそ5千人が戦闘で死亡、1万5千人が餓死又は病死し、帰還できたのは1万人だったと聞く。あまりにも餓死が多いので「餓島」とさえ言われたそうだ。そういうところから、叔父さんは何とか帰還することができた。とても温和な叔父さんだったが、そのときの無理がたたったのか、戦後十数年して急逝してしまった。このお2人に比べれば、父は、実に幸運だったと思う。たまたま生まれ合わせた年が遅かったために、外地にも派遣されず、実戦にも行かずに済んだからである。

 父にとっての本当の戦いは、故郷に帰ってから就職した銀行員生活だろう。全国各地を転勤して回り、我々3兄妹をいずれも遠隔地の大学に進学させてくれた。それだからこそ、今日の我々があると思うと、感謝してもしきれるものではない。父はお酒が全く飲めなかったので、趣味といえば、釣りに行くことだった。私も小学生の頃には、よくお供をした。夏の炎天下に、釣竿を持ってビクリともしないで何時間も釣っていた。よほど忍耐強くないと、できることではない。そういえば、温泉に入ることも好きだった。それも、熱い湯ばかりなので、私が一緒に入ると身体が真っ赤になって、のぼせるほどだった。晩年には県内の温泉を200近くも行ったと話していたから、ほとんど網羅したのではないか。まあ、そのような昔話を、母や妹と、またしてきたいと思っている。




(2016年6月7日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:19 | - | - | - |
鵜飼見物と川原町

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1.長良川の鵜飼

 おもしろうて、やがて悲しき鵜舟かな

 松尾芭蕉が45歳のとき、「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」、この句を詠んだそうだ。

 今回、私も芭蕉と同じように鵜飼観覧船に乗った。すると暗闇の中を、パチパチと勢いよく燃える篝火を焚きながら、鵜を操る鵜匠の鵜舟(うぶね)が一列縦隊で目の前を通り過ぎる。「狩り下り」だ。舟の舳先では、鵜匠に紐で繋がれた10羽ほどの鵜が水に潜り、鮎などの魚を咥えて水面上に上がってきて、魚の向きを変えて頭を下に飲み込む。ほんの一瞬のことだ。それが何羽も同時並行的に水に潜ったり水から上がったりしている。そういう鵜舟が5隻、目の前を次々に通り過ぎる。結構な早いスピードであるし、しかも風向きがこちらに向いているから、篝火の火の粉が飛んでくる。目の中に火の粉が入ってもたまらない。だから、火の粉を手持ちの厚紙で避けながらの見物だ。これも一興かもしれないと、思わず笑えてくる。


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 暗闇に目が慣れてくると、ああ、あれは事前に説明してくれた鵜匠の山下哲司さんの舟だと見分けがつくし、働いている鵜や、ちょっとサボり気味の鵜もわかる。面白い。これは面白い。鵜舟が我々の乗船している舟を通り過ぎたかと思うと、ぐるりと反転してこちらの舟を一周するというサービスぶりだ。その縦に連なった5隻の鵜舟が通り去ってあと、今度は「総がかり」といって鵜匠が「ホウホウ」と声をかけながら5隻が横になって鮎を浅瀬に追い込む漁が行われ、興奮は文字通りの坩堝に達する。それを潮に、次の瞬間、誠に呆気なくすべての鵜舟が暗闇の中を消え去っていった。すると「ああ、終わってしまったのか。」と、今度は急に虚脱感に襲われて、とっても寂しく物悲しくなる。なるほど、これが芭蕉も味わった「やがて悲しき鵜舟」の心境なのだと納得した。

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 乗船時にいただいたパンフレットによると、「鵜飼は鵜を使って魚を捕る伝統漁法で、長良川では1300年以上前から行われていました。かつては時の権力者に保護され、川の様々な権限が与えられていましたが、明治維新以降、特別な保護もなくなり鵜匠をやめる人が続きました。その後、明治23年からは宮内庁に属し、現在に至っています。岐阜市に6人いる鵜匠たちの正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といい、世襲で受け継がれています。」とのこと。私が行った日は、平日だったので、6隻ではなく5隻の鵜舟が出た。

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 また、そのパンフレットによると、鵜舟は全長13メートルで、3人が乗船する。主役はもちろん一人の鵜匠であり、船首にいる。二人目は操船責任者である「とも乗り」で、その名の通り「とも」(船尾)にいて、舟を操る。三人目は「中乗り」で、舟の真ん中にいて、鵜匠やとも乗りの助手を務める。鵜舟の舳先には、篝棒(かがりぼう)の先に篝(かがり)という鉄製の籠を付け、それに赤松の割り木を入れて火を付け、これを照明とする。一隻当たり10〜12羽の鵜に、それぞれ手縄(たなわ)という2メートル半ほどの縄を付けて、鵜匠がこれを操る。

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 鵜飼が始まる前、その日の担当の鵜匠である山下哲司さんから説明があった。まず、頭に被っている「風折烏帽子」は麻布で、頭に巻き付けて篝火の火の粉から髪の毛を守る役目があるそうだ。黒い漁服は木綿製、それに胸当てを付けて火の粉と松やにを避ける。藁製の腰蓑は漫画の浦島太郎のようだが、これが水しぶきをはじいて保温効果があって大いに役立つそうだ。最後に、裸の足に突っ掛けているのは、普通の草鞋の前半だけふっつり切れているような「足半(あしなか)」で、魚の脂や水あかで滑らないようになっているという。

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 鵜飼いの鵜には、体力のある海鵜を使う。茨城県日立市の海岸で野生の鵜を捕まえるそうだ。注文すると、その数だけ捕まえてもらう。鳥獣保護管理法第9条第1項第1号に規定する環境大臣の許可を規則第5条4号に基づいて得ているようだ。鵜匠は、我々の眼の前で鵜に鮎を捕まえてさせて見せてくれた。鮎を咥えた鵜は、器用に獲物の方向を変えて魚の頭を下にして、一気に飲み込む。頭から飲み込むのは、鱗で食道を傷つけないためだ。ところが、飲み込んでも首に手縄(たなわ)が掛かっているので、魚はそこで引っかかってしまう。鵜匠は、首のその所に手をやって魚を吐き出させる。これが鵜匠の技だ。ただ、鵜も人間に横取りされるばかりでは生きていけないので、その手縄の締め方をある程度緩めることにより、小さい魚は呑み込めるようにしているそうだ。なるほどと納得した。ちなみに、この鵜飼で採った魚には、鵜の嘴によってできた筋があり、これが鵜飼の獲物の証だそうだ。高級料亭で供されるそうな。こういう技を見て、いつも思うのは、最初に考え出した人は凄いということだ。しかも、それで、1300年間以上も食いつなげるというのは、さすがに発明した人は考えつかなかっただろうと思う。

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 見物人から、「鵜に魚を吐き出させるなんてひどい。」という声が上がる。これに対して山下鵜匠が曰く。「野生の鵜の平均寿命は、7年と言われています。これに対して我々鵜匠の元にいる鵜は、20年間、長いものだと30年間です。大事にしておりますし、毎年、血をとって健康診断をしております。」とのこと。また、頭に被っている「風折烏帽子」は、火の粉を払うのに必要なもので、ところどころに穴が空いていた。

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 鵜飼観覧船から乗船したのは、午後5時頃で、それから川の所定の位置に付き、待機していると、専用の鮎舟によって配られた鮎料理が供される。それを食していると、川中から大音量の音楽が流れてきた。何事かと思ってその方を見ると、何と浴衣姿の若い女性たちが踊っている舟が動いてくる。鵜飼の客をもてなしてくれているらしい。それからしばらくして陽が落ち、花火を合図に、冒頭のような鵜飼絵巻が繰り広げられるというわけだ。

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 実は、岐阜の鵜飼いは、もう30年近く前に一度見たことがある。ところがその時に持っていたカメラの性能では、ただ暗闇にぼんやりと篝火が写る程度で、まともな写真は全く撮ることができなかった。その点、今回はキヤノンEOS70Dがあるので、少しは見られる写真が撮れるだろうと楽しみにして行った。さて、その結果はというと、やはりフラッシュを使わないと無理だった。でも、少しは撮れたので、記念にはなった。それより、川面から金華山山頂の岐阜城を見上げると、その右隣に、大接近中の火星が見えた(上の写真の右上)。


 長良川鵜飼見物(写 真)



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2.川原町の町並み散策


 ところで、鵜飼観覧船は、長良橋の南端から出る。その近くに、芭蕉と川端康成の碑がある。芭蕉の方は冒頭の句で、川端康成の方は恋人の伊藤初代さんを追って岐阜に3度ほど来たことがあるので、そのゆかりの地ということらしい。観覧船に乗る前にそこから南西へと続く湊町、玉井町、元浜町(まとめて「川原町」という)の街並みが、素晴らしいというので、ぶらりと歩いてきた。案内人は、シルバー人材センターの方だ。この辺りは、かつて長良川の水運の中心だったようで、木材や美濃和紙、茶、関の刃物などの諸々の商品を扱う大店が連なっていて、大いに栄えたそうだ。なるほど、昔ながらの古い町家が並んでいる。家々の格子造りが、いかにもレトロな雰囲気を醸し出している。いずれも、狭い間口に長い奥行きだ。京の町家もそうだった。


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 日本史の知識によると、昔はその表通りに面している長さで町家に税が課せられていたので、どの町家も間口を狭くし、奥行きを長くしたそうだ。こちらもそうかと思って聞くと、わからないという。ところが、この長い奥行きの先まで行くと、昔はそこがもう川で、荷物の受け渡しに使っていたらしい。そして、細長い家は、受け渡しの商品でいっぱいになっていたとのこと。単にそれだけのことかもしれない。

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 道の左手にまず現れるのが、美濃和紙と竹に柿渋を塗って作る伝統工芸品の「岐阜渋うちわ」の住井冨次郎商店である。涼しげな団扇が並んでいる。次いで、岐阜銘菓の「鮎菓子」の玉井屋だ。これは品が良くて美味しいお菓子で、私もお土産に買ってきた。道の左手には、1860年創業の旅館十三楼である。その前には手湯が設けられて、向いの建物に水琴窟(すいきんくつ)があり、良い音がするというが、この日は入ることはできなかった。そこでふと金華山の方角を見ると、建物の間に岐阜城が忽然と見えた。

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 さらに行くと、シンプルな「卯建(うだつ)」のある家があった。これは、「民家の両妻に屋根より一段高く設けた小屋根つきの土壁又はこれにつけた袖壁をいうもので、家の格を示し、装飾と防火を兼ねる(大辞林)」。よく、「うだつが上がらない」などと否定的に使われるが、これを付けた家を建てられるほどお金持ちになって出世することがとても叶わない状態を意味する。その「うだつ」である。

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 とある家の前に「十二月十二日」と書かれた小さな紙が貼ってあった。これは、天下の大泥棒である石川五右衛門の生まれた月日で、京都だとその天地を逆さにして貼るから泥棒よけの呪いになるのだが、この地では、そのまま貼ってある。これだと、意味がないのではと思うのだけど、さてどうなるのだろうか。



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 この辺りの家の軒先にぶら下がる提灯には、なかなか趣味の良い鵜飼の絵が描かれていると思ったら、著名な日本画の大家の絵から使わせてもらっているそうだ。川原町屋という建物に到着した。唐傘、岐阜うちわなどの地元の伝統産品を売っていて、奥の方まで行くと喫茶店もある。表には、昔懐かしい赤い丸ポストまで鎮座している。その向かいの店には、1階の屋根の上に祠があると思ったら、これが町内を火事から守る秋葉神社の「屋根神様」で、洪水がよくあったことから、屋根の上に置いたのではないかと言っていた。

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 これらのレトロな家々の裏手に回ると、そこは昔の川の支流がそのまま流れていたそうで、今は川原公園となっている。それを通り抜け、岐阜公園に向かう。見上げれば、金華山の上の岐阜城だ。その途中に長良橋の「陸閘(りっこう)」があった。これは、橋の取付道路と堤防が交差するため、堤防より道路が3メートルも低くなり、昭和34年の伊勢湾台風のときにはそこから水が溢れて岐阜市内が水びたしとなったことから、洪水時にはここを締め切り、氾濫を防ぐのだそうだ。ということは、川原町は、堤防の外に取り残される。事実、あの土地は、川の中洲に作られているとのこと。



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 陸閘から少し歩くと、岐阜公園に至る。門前に織田信長の像がある。そのデザインは、どうも我々のセンスとは全く違っていて、非常に劇画的である。とても付いていけない。園内には、名和昆虫研究所があり、板垣退助殉難の碑も目立つ。これは、自由党首としてこの岐阜で遊説中、暴漢に襲われ負傷したとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話が残っている。ちなみに、このとき板垣退助を治療したのが後藤新平医師で、後々、彼が政治家になる契機となったといわれる。そのほか、織田信長の居館だったところを発掘中で、金箔の貼った瓦が出てきたそうだ。安土城に先立って、ここに使われたことが判明した。また、公園の一角に、友好都市となっている中国の杭州市との関係で作られた中国式の庭園がある。

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 なお、私は岐阜駅に降り立ったのは30年ぶりだが、今昔のあまりの変化に驚いてしまった。駅は最近流行りのガラスとパイプでできている建築物だし、駅前広場に立っているのは金ぴかの織田信長像である。だいたい、信長は尾張の人である。今川義元を討ち取るために出陣したのは尾張の清洲城である。徳川家康との盟約の地も清洲城だ。斎藤一族を滅ぼして信長は岐阜に移ったが、岐阜にいたのは48年の生涯中で10年間にすぎない。それで岐阜が信長で売り出すのは、尾張贔屓の私としては、どうにも納得のいかないところである。確か十数年前には、岐阜は古田織部の地だと言っていたような記憶があるから、ご当地の偉人というのは、いい加減なものだ。それにしても、駅頭に立ってみたら、昔の柳ヶ瀬の雰囲気はどこに行ってしまったのかと寂しく感じる。これでは、日本全国ミニ東京駅ができるばかりだ。情緒も何もあったものではない。


 川原町散策(写 真)







(2016年6月4日記)


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