秦の始皇帝と大兵馬俑

大兵馬俑


 東京国立博物館で開催されている「始皇帝と大兵馬俑」は、ぜひ見ようと思っていた。気が付いてみるとその会期末があと1ヶ月余りとなっていたので、見逃さないようにと、今のうちに行ってみた。

東京国立博物館


 公式Webサイトによれば、「今から約2,200年前に『最初の皇帝』を名乗り、中国大陸に統一王朝を打ち立てた秦の始皇帝。その巨大な陵墓のほど近くに大量に埋められた地下軍団『兵馬俑』は、20世紀最大の考古学的発見のひとつであり、1974年の出土以来、続々と新しい知見と驚きをもたらしつづけています。本展は、最新の発掘成果を採り入れながら、始皇帝にまつわる貴重な文物を一堂に紹介するものです。バリエーション豊かな兵馬俑をはじめ、絶対権力者だからこそ実現できた作品の圧倒的な迫力を示すとともに、始皇帝が地下を含む陵墓一帯に空前の規模で築き上げた『永遠なる世界』の実態に迫ります。」とのこと。

兵馬俑・弩の射手


 兵馬俑は、現実に存在した個々の軍人をモデルにしたと考えられているが、それほど、一つとして同じ表情のものはなく、いずれも生き生きとした顔付きを見せる。将軍俑は、思慮深い顔に、威風堂々としたがっちりした体である。現在まで発見された約2,000体の兵馬俑のうち、将軍俑はわずか10体だそうだ。それに、部隊長クラス、重武装の歩兵、弩の射手など、それぞれいかにもそのような顔付きと体をしている。その他、馬丁の「馬丁俑」や、日本の相撲取りにそっくりの体をしている芸人の「雑技俑」などもある。

 これらに加え、説明によれば、「会場では数千もの兵馬俑が整然と並んで出土した発掘現場『兵馬俑坑』を迫真の手法で再現します。兵馬俑は一体ずつ鑑賞してももちろん素晴らしいものですが、臨場感あふれる会場で『軍団』としての圧倒的な迫力を体感することで、これまでとは違った魅力に出合える」という。確かに、これらが所狭しと縦に集団で並ぶ様は、大きな迫力を感じる。

 兵馬俑は今でこそ土色をしているが、完成当時は実に色彩豊かなものだったようだ。発掘されて現代の空気に触れた瞬間、5分ほどでその色が消えてしまうそうだ。それでも、中にはわずかに色が残っている兵馬俑があり、その色を元に彩色して兵馬俑を復元したビデオが映し出されていたが、まさに豪華絢爛たる軍団である。

 その他、公式Webサイトから引用すると、「辺境の一小国に過ぎなかった秦が巨大帝国になるまでの『サクセス・ストーリー』を代表的な作品で分かりやすく紹介します。始皇帝による中国統一の前に、500年以上にわたる秦の波乱に満ちた歴史ドラマがありました。魏、楚といった強力なライバル国との競合のほかに、衰退した周王朝に対する『後継者』としての意識、高原地帯の民『西戎』との関わりなど、これまでにない視点を盛り込んで秦の天下統一に至るプロセスを辿」るという展示があった。


始皇帝


 始皇帝(諱は)は、隣国の趙に人質に出されていた秦の公子「子楚」の子だった。子楚は、政が10歳の時に太子となったために本国に戻されて3年後に即位したが、直ぐに亡くなり、その跡を継いでが秦王となった。そして荊軻による暗殺未遂事件を乗り越え、次々に隣国を滅ぼし、遂に紀元前221年、39歳のときに中国を統一した。その統治方式は、歴代王朝の範となったもので、全国に郡県制を敷き、実力主義で登用した官僚によって統治し、字体、貨幣、度量衡を統一するというものだった。

 小さい頃から他国の人質となっていたところは徳川家康と同じだし、国主の家を継ぐに当たり肉親で血で血を洗う争いを繰り広げたり、天下統一に際して官僚に当たる部下を派遣して統治させたり、度量衡を統一したのは、織田信長のようでもある。やはり戦国時代を統一するというのは、中国でも日本でも、同じような経験と過程を経るものなのかもしれない。





(2016年1月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 16:33 | - | - | - |
皆で暮らすことの大切さ

ノートルダム寺院のステンドグラス


 私は中学2年生のとき、田舎から都会の名古屋に転校した。新しく通うことになった中学校は、全校生徒数が4,300人にも達した日本一のマンモス校であった。さすがに私が通う頃には分校が行われて生徒数は減ったものの、それでも私の学年には、1,000人近い生徒がいたものである。これだけ生徒数が多いと、田舎ではまずお目にかからないような、ピンからキリまでの色々な生徒がいて、目を見張る思いがしたものである。

 たとえば、家にクラシック・ミュージックのレコードが2000枚もあって、それを毎日聴いているという高尚な趣味の男子がいた。私は、羨ましくて仕方がなかった。でも、その子のお屋敷のような家と比べれば、こちらは社宅住まいの転勤族だから、仕方がないと諦めていた。しかし、せめて音楽の時間に教えてもらうクラシック音楽くらいは覚えようとしたものである。あるいは東京からの転校生で、どう見ても勉強しているとは思えないのに、テストを受けるとどの科目も満点に近い点をとるという天才肌の同級生がいた。

 そうかと思うと、奇声を上げて机の間を走り回って男子の股間を触る変な男子とか、何か気に食わないことがあると、他の生徒を直ぐに殴る暴力的な男子がいた。いわゆる問題児である。どちらも近づかないに越したことはないが、特に後者には、悩まされた。

 私は、ラジオの気象観測情報で、例えば「汕頭(スワトウ)、南の風、風力3。気圧986ミリバール」などと各地の観測値が読み上げられるのを一生懸命に聞いてメモをとり、白地の地図に落とし込んで気圧の等高線を引いた。そして、日本周辺の天気図を作って明日の天気を予測するのを楽しみにしていた。我ながら、オタクっぽい趣味だった。(ちなみに、この気象観測情報は、つい最近、廃止された。気象観測衛星の精密な画像が入手できる今日では、もはや無用の長物となったというわけだ。しかし、あの独特の口調とテンポで読み上げられる放送は、今でも私の記憶に残っている。)

 ある日、その白地の地図を買いに名古屋気象台まで行った帰りに、運悪くその乱暴な男子に呼び止められた。「何を持ってる。」と言われて「白地の気象地図だよ。」と答えたら、「よこせ!」と言うので、「嫌だ。」と言ったとたん、いきなりストレートで右眼付近を殴られた。相当、痛かった。帰って顔を見たら、眼の周りに青い隈ができていた。こちらは転校してきたばかりだから、そんな粗暴なヤツだとは、ついぞ知らなかったので油断した。

 今なら、刑事事件もので補導対象となるところだが、当時は、まあ何というか大らかなもので、同級生や親にまで「なに、その顔」と笑われて、それでおしまいだった。ところがその男子は、あちこちでそういう乱暴狼藉を働いていたらしい。しばらくして姿が見えなくなったと思ったら、風の便りに、少年院送りとなったと聞いた。どうも、父親が土木作業員の乱暴な人で、家庭でもよく殴られていたらしい。だから、人に対して、そういう接し方しかできなかったのだろうと思う。

 それから、はるか後年になって、自分の子供が小学校の高学年になったとき、やはり友達を殴る癖のある子供がいて、クラスの会合で問題になった。家内がその場にいた。家内からのまた聞きだが、たまたま、その子の母親も出席していて、その人が言うには「そんなこと、絶対にありません。父親は、それはそれは厳しくしていますから」。いや、それが原因なのだと、皆が思った。つまり、その厳しさというのが、おそらく日常的に子供を殴ることだと思うのである。家でそういう扱いを受けているからこそ、学校でも何の躊躇もなく、人を殴り、それが普通のことと思ってしまうのだろう。

 そうしてみると、子供が小さい頃から、愛情を注いで接することが、まず何よりも必要だ。そして、社会生活上で良くないことがあれば、問答無用とばかりに直ぐに殴るなどというのは論外で、なるべく言葉で諭すようにすべきである。そうやって、言葉を通じて周りの人と触れ合う習慣を身に付けさせることが、非常に大事なことだと考えるのである。・・・などと考えていたら、先日、小学校1年生の初孫くんが、同級生に噛みついたことを思い出した。

 本人に理由を聞くと、「ボクが椅子に座っていたところにその子がやって来て、追い出そうと肩で押して来たり脚を蹴ってくるので、つい噛んじゃった」という。正当防衛の中の過剰防衛的な出来事だったようだ。いずれにせよ、学校側が「何かそういうことがあれば、噛んだり叩いたり蹴ったりするのではなくて、まずは言葉で自分の気持ちを伝えなさい。それでもダメな時は、先生に言って解決してもらいなさい」という指導をしてくれて、その後は問題なく仲良くやっているようだ。

 まあしかし、社会生活を送る上で、こうした何らかの軋轢は付きものなので、まだ精神的に未熟な時代にかえってある程度あった方が、自分で解決する経験を積みやすいと考える。話は飛ぶが、最近の新聞記事をみると、引きこもりの人が増えているという。それも、20歳台や30歳台ならばともかく、40歳台や果ては50歳台まですらいるというから、驚いてしまう。こういう人は、小さい頃から他人と触れ合い、その中で折り合って生きて行くということをした経験がないのではなかろうか。

 子供の周囲にたくさんの大人がいて、いつも誰かがさり気なく見守ってくれていたり、あるいは嬉しいことや悲しいことがあれば、大人が一緒に喜んだり慰めてくれたりするような環境にあるのが、子育てに相応しいと思う。そういう環境にいつも置かれているのなら、人を信じ、時には裏切られなどしながら、社会でやっていく勇気が湧いてくるというものだ。ところが現実の家庭環境は、激変している。かつての大家族から、夫婦単位の核家族に移行し、さらにそれが「おひとり様」のシングル世帯になりつつあるという。その結果、今や男性の5人に1人が、生涯一度も結婚しないという社会になっているらしい。それでは、人口が減るわけだ。日本は、どこかで道を誤ったのかもしれない。

 京都大学霊長類研究所の松沢哲郎教授が、「チンパンジーと博士の知の探検(34)助け合い子育てする人間」で、西アフリカの森の中で狩猟採集生活をする人々について書いている(日本経済新聞平成28年1月10日付け)。それによると、「人間の特徴は、おとなの男女や親族が共同して子育てすることにある。人間は高度に発達した脳をもち、おとなと呼べるようになるまでに長い時間がかかる。子育てに時間がかかるので、一人ずつ産み育てていては間に合わない。子どもを次々と産み、共同で養育するようになった。・・・家族が複数集まって暮らし、さらには離れて住む血族や姻族の力も借りて、互いに助け合いながら暮らす。子どもたちは、その集団生活の中で歳月をかけて、子育てのしかたや森での生活に必要な知恵を学ぶのだろう。」

 全く同感で、それが人類のあり方だと思う。学校はそのための公的なインフラで、昼間の集団生活を送る場だが、子供の面倒を四六時中見る場所ではない。つまり、かつての大家族による子育てを完全に代替するものではないのである。やはり、大勢の親切な大人によって、子供が常に見守られている社会を作る必要があるのではないか。

 そのためには、手っ取り早く昔のように大家族制に戻るのも一案である。一緒に住まなくとも、親戚が近くにいて、何かあればすぐに助けてくれるという体制にあれば、それと同じようなものだ。あるいは、たとえ血がつながっていなくとも、親しい家族同士でシェアハウスをするような仕組みもよいだろう。そういう関係ができなくても、学童保育でもよいし、私の住んでいる下町のように、町内会や青少年育成協議会がしっかりしているところでは、子供の見守り活動をしているから、その類でもよいので、集団で助け合うという場をもっと作るべきだろう。

 子供の時代は鍵っ子、大人になって未婚で個食、老人になって孤独死というのはあまりにも寂しすぎる。どうやら戦後の日本は、個人主義が行き過ぎ、個々バラバラになり過ぎた。そろそろ、皆で暮らすことの大切さ、つまり家族集団や疑似家族集団の普遍的価値という面に、もっと目を向けるべき時期に来ていると思う。





(2016年1月10日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:14 | - | - | - |
娘一家がドバイで災難

ブルジュ・ハリーファ


 この年末年始、娘一家はアラブ首長国連邦のドバイに行った。世界一高い超高層ビルである「ブルジュ・ハリーファ 」(828メートル、160階)を舞台に行われるカウントダウンの花火を見るのだそうだ。しかし、花火なら日本のものが世界一だと思うので、 何もわざわざ中東まで行かなくとも・・・という気もしないではない。しかし、私も、こと旅行に関してはかなり物好きだと自覚しているので、娘たちのことは言うまい。それに、息子、つまり私にとっての初孫くんに、幼少期から英語に触れさせるのは大事なことだ。そういうわけで、帰ってきてからの旅行話を楽しみにしていた。

周辺の地図


 私がオーストリア旅行から帰ってきたばかりの2016年元旦の朝7時頃、たまたまテレビをつけてNHKニュースを見ていた。すると、娘たちの泊まっているパレスホテル(ブルジュ・ハリーファの目の前の人造湖の向かい側にあるホテル。図の赤い丸2番)の二つ隣にある63階の高層ビル「ジ・アドレス・ダウンタウン・ドバイ」(図の赤い丸1番)で、大晦日午後9時半頃に、火事があり、モクモクと火が出て燃え盛る様子が映し出されているのを見てびっくりした。確か、年越しの花火を見るため、その近くにいると聞いていたので、とても心配してしまった。

パレスホテルの自室からの眺め


パレスホテルの自室からの眺め


 ところが、ほどなくして娘から電話があり、全員無事とのことで、家内とともに、ほっと胸を撫で下ろした。初孫くんの説明によると「火事があって消防車や救急車がいっぱい来て、手をつないで逃げたの」ということらしい。それにしても、単なる火事にとどまり、最近流行りのテロではなくて良かった。

火事の数時間前のジ・アドレス・ダウンタウン・ドバイ


 帰国してから話を聞いてみると、かなりの火災だったらしい。娘一家の滞在していたホテルは低層の4〜5階建てで、そこへ火元の63階建ての高層ビルから大勢の人が避難してきたという。「何か騒がしいので部屋の外に出てみると、人で一杯だった。風向きの関係で、やがてこちらにも煙やガラスの破片が飛んで来た。それで、このホテルも避難しなければならなくなり、皆で手に手を取り合って人造湖を時計周りに逃げた」のだそうだ。

燃え上がるジ・アドレス・ダウンタウン・ドバイ


ブルジュ・ハリーファの花火


 息子を抱きつつ人造湖の周りを走りに走って、半周したところにある「ジ・アドレス・ドバイ・モール」のホテル(図の赤い丸3番)が、パレスホテルからの避難者を受け入れてくれて、羽毛布団をくれたり、バイキングの食事を提供してくれたので、全く困らなかったそうだ。「そこで燃え盛る火事を見ていて、真夜中の12時近くになった。これでは、年越しの花火大会どころではないから、中止に違いないと思っていた。ところが、ドドーンと音が聞こえて、何と花火大会が始まった。それからというもの、夜空の下、池の一方では花火がどんどん打ち上げられているかと思えば、池の反対側では火事が燃え盛っていて、なかなかシュールな光景だった」という。中東ならではの風景だ。

翌朝、再び同じ高層ビルから火災



火災のあった高層ビルが無残な姿を晒す


 翌朝、火災のあった高層ビルが無残な姿を晒している中、ホテルに戻ったそうだ。やれやれと思ったのも束の間、またその高層ビルから出火した。前夜の燃え残りのようで、完全に鎮火していなかったらしい。再び同じように逃げ、またその避難先のホテルにお世話になったという。まるで、漫画のような話である。

ブルジュ・ハリーファの展望台からの眺め


 でも、このハプニングを除けば、あちらこちら世界一ばかりで、目を見張るほどだったらしい。ブルジュ・ハリーファの高さは世界一、その前の人造湖で繰り広げられる噴水ショーは噴き出る水の高さが150メートルもあって世界一、東京ドームが23個も入ってしまうドバイモールは世界一、その中の無料の水族館に行けばこれも世界一、5つ星どころか7つ星ホテルのブルジュ・アル・アラブ(舟の帆のような形をしていて、娘一家が年末年始に泊まろうとしたら、5泊で300万円と言われたので断念)は、もちろん世界一だろう。

ブルジュ・アル・アラブ


 しかし、設備は世界一でも、その運営は、とても一流とは言いかねるようだ。たとえば、火事のため、ホテルを退去して下さい。」と言われて避難手形のようなものをもらっただけで、どこへ行って良いのか、何のインストラクションもない。一緒に逃げる人たちの各国語の中から英語を拾って、情報を仕入れながら走って逃げる始末。たまたま自分達を受け入れてくれたホテルも自力で探したわけだし、そこで一晩過ごしたにもかかわらず、自分が泊まっているホテルの従業員が探しに来るわけでもない。気が付いたら、一緒に避難している人達が、一人減り、二人減りと、どんどん少なくなっていく。そこで、自分のホテルに戻ってみると、何事もなかったように、いつも通り平然と営業している。まるで狐に化かされたような塩梅だったそうだ。

 これは、どう理解すればよいのか。そのヒントは、Webサイトで見つけたわずか35年ほど前のこの地の写真にあると考える。これを見ると、この地は、少しは建物があるものの、全体の様子は、土漠の中の荒涼たる寒村という風情だった。だから、先ほど紹介したこれら世界一を誇る建物群は、いずれもこの10数年ほどの間に、オイルマネーに物を言わせて作られたものだという。だから、それを運用する人間が、まだ育っていないのだと思う。そういうわけで、火事などの非常事態についての訓練が行き届いていないのだろう。それにしても、63階建の高層ビルが、20階から出火して、あんなに簡単に一気に燃え広がって一晩で廃墟になるものか。信じがたい。難燃性のカーテンやら室内装飾品が使われていないのに違いない。まるで、アラビアン・ナイトの蜃気楼の上に建つ世界ではないか。


35年ほど前のドバイの写真


 今回、火事を起こした高層ビルの人的被害であるが、現地の警察によれば、避難時の混乱で1人が心臓発作を起こして死亡し、その他15人が折り重なって軽い怪我を負ったものの、その他大多数の宿泊客などは、無事に避難できたそうだ。亡くなった1人には申し訳ないが、一つの高層ビルが丸焼けになった割には、その程度の被害で済んで良かったというか、不幸中の幸いだったというべきであろう。しかしそれにしても、この焼け焦げた写真を見る限り、建て直しをするほかなさそうだ。日本だと、こういう火災を契機にして、事故に対する知見が形成されて、消防法の規制内容の見直しが随時行われるところであるが、そういうことがされているのか、いささか疑問である。

 ところで、帰ってきた娘一家のコメントはというと「泊まるのなら、低い階に限る。でないと、子供を抱えて外に避難するのは大変だ。でも、面白かった。また、行ってみたい。」・・・なんと・・・全然、懲りていない。





(2016年1月5日記)


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