シドニーへの旅

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 シドニーへの旅(写 真)


1.オーストラリアのシドニー

 私がまだ旅行したことのない国のうちで、一番行きたかったのは、オーストラリアである。この年末の休みは、そのシドニーへと、撮影旅行に出かけた。もう少し時間があればニュージーランドへも足を伸ばしたかったが、元旦によんどころのない用事があったので、シドニーに行ってそのまま帰ってくることにした。

 シドニーの雰囲気は、イギリスの地方都市そのものである。全て英語であることはもちろん、道路はイギリスや日本と同じく車は左側通行だし、大きな通りの名前も、エリザベス通り、カレッジ通り、リバプール通りなどとなっているから、余計にそう思える。オーストラリア人は、話すときは笑顔を絶やさず、ゆっくり話してくるなど、かなりフレンドリーで人懐っこい。

 街中を歩いていると、白人より、インド人、中国人などが非常に多い。ここシドニーだけかもしれないが、もはや非白人の方が数で白人を上回っているような気がする。かつて学校で習った「白豪主義」は、1980年代に撤廃されて「多文化主義」に移行したそうだ。それ以来、ベトナム人、中国人、インド人、黒人、マレーシア人などが多く移民してきたという。

 シドニーの空は、青くて綺麗だが、日本の秋空のような深みのある青さではない。こちらが、日本と反対側で夏空のせいかもしれない。しかし、それにしても入道雲はなく、色と高さの違う雲が無秩序に空に並んでいるだけである。でも、環境規制が徹底しているせいか、海の水が色も水質も実に綺麗で、空気も澄んでいる。とても過ごしやすい。気温は、真夏だというのに早朝は14度、お昼過ぎても22度くらいしか上がらず、とりわけ早朝は寒かった。

 シドニー市内は、坂ばかりだ。街中を歩くなら、かなり登ったり下ったりすることになる。観光スポットは、北のハーバーブリッジからオペラハウスまでと、真ん中の西の水族館と野生動物館、東にある大聖堂、それに南のチャイナタウンに囲まれた地区という、わずか南北3キロ、東西2キロのところに詰まっていて、見物しやすい。市内だけなら、3日で十分に回れる。ところが、郊外のブルーマウンテンまで行こうとすると、電車やバスで片道2時間もかかるので、丸1日を充てないといけない。


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 まずは早朝、その中心街にあるホテルからタクシーに乗り、ハーバーブリッジを通り過ぎてノース・シドニーまで行き、そこからブリッジの上を歩いて戻ってきた。オペラハウスを撮るには、光の具合からすると、午前中の方が逆光でないから良い。白い雲が浮かぶ青い空、海は深いマリンブルー色のところに、近未来的な独創的な形の白いオペラハウスが浮かぶ。その海にはたくさんの連絡船やらレジャー・ボートが白い航跡を残して行き交うという、天下一品の景色である。オペラ・ハウスの海を隔てた向かいの半島にあるレンガ色の住宅も、海の色に生えて美しい。

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 おやおや、桟橋には、世界最大級の豪華クルーズ船である「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ号」が停泊中である。なんと大きな船体なのだろう。五つ星ホテルがそのまま海の中を移動しているようなものだ。退職したら、いつかは乗ってみたいと思っている。さて、ハーバーブリッジを渡り終わり、古い建物が並ぶロックス地区を通る。オーストラリア・ホテルという名の、いかにも歴史のありそうな古い建物がある。それを見て、サーキュラー埠頭(キー)を歩いて回り、豪華クルーズ船のボイジャー号の巨大な船体を間近で見上げる。その脇では、大道芸人のエマというお姉さんが、小さな箱に自分の身体を押し込むという技を披露している。それに至るおしゃべりが上手いし、見物人の中から男性2人を選んで手伝わせるなど、なかなか演出が心憎い。見物客には、様々な人種がいる。

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 そして、6番から2番までの桟橋を通り、オペラハウスまで歩いた。それに、港内クルーズを組み合わせると、丸一日が過ぎる。オペラハウスの印象は、ハーバーブリッジから見るのと、こちら側から見るのとでは、大きく異なり、全く違う建物のようだ。さすがに世界遺産だけのことはある。それにしても、大変な人だかりである。お昼近くになったので、食事をしようとしたら、オーストラリア料理は、ハンバーガーばかりだ。私は、現在、ダイエット中でもあり、これはいただけない。仕方がないので、アジアン・テイストの寿司と飲茶を若干食べることにした。味はさっぱり系で、まずくはないものの、美味しいかと言われれば、そうでもない。しかし、外国での日本食は、こんなものだ。あるだけましと思わないといけない。それにしてもこの旅行中、オーストラリア料理の量の多さには困った。日本で食べるボリュームの5割増しくらいだ。それに、ミネラル・ウォーターのボトルも大きい。日本なら550ミリリットルが標準だけど、こちらはどうやらそれが600ミリリットルだ。

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 それから、港内クルーズに乗った・・・と思ったら、切符係が左だというのでそれに従ったところ、マンレイに行く違う船に乗ってしまった。実は、右の船だったらしい。ともかく、高速船でシドニー湾を突っ切って港内を見たから、まあ良いかという気になった。どこまでも青い空と、蒼い海、行き交うレジャーボートの白い航跡、海に面して建つ住宅の美しさ、どれをとっても素晴らしい。



2.シドニー水族館・野生動物館


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 さて次の日は、シドニー水族館(Sydney Sea Life Aquarium)とその隣の野生動物館(Sydney Wild Life Zoo)に行き、シドニータワー(Sydney Tower Eye)に登った。水族館は設備が相当に古くなっていて、この程度の規模なら、こんな展示だろうと思われるものばかりだ。沖縄の美ら海水族館などと比べれば、はるかに見劣りするのは否めない。特に、池袋のサンシャイン水族館のグレート・バリアリーフを上回る熱帯の海の展示を期待して行ったのだけれど、それよりかなり小さい水槽だったし魚種も少なくて、いささかがっかりした。

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 ただ、恐竜の時代のジュラ紀の海を再現した展示は、真ん中に恐竜の頭蓋骨があったりして、面白かった。水中に設けられたトンネルを歩いていると、ジュゴンがいた。日本だと、鳥羽水族館くらいしかお目にかかることはできない。また、こちらは、ノコギリザメ、ネコザメ、ヨシキリザメ、ホオジロザメなど、サメの本場らしく種類が豊富だ。魚のトンネルの中でぼんやり眺めていると、サメが突然、近づいてきて、しかもターンするときに、目と目が合ったので、ドキリとした。やはり、捕食者の目をしている。

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 その隣が野生動物館で、入り口で人形のスティーヴ・マックィーンが迎えてくれる。緑の蛇(Green Tree Python)、火食い鳥(Cassowary)、カンガルーやワラビーがいたりして見飽きない。火食い鳥は、七面鳥の親玉のような体の色で、なかなか愛嬌がある。しかし、なんといってもコアラは人気の的で、つぶらな瞳が可愛い。人間でいえば、1歳児のようなものである。観光客は、いくばくかのお金を支払って、抱かせてもらっている。オーストラリアならではの体験である。そういえば、昔、母がこちらに来て、コアラを抱いている写真があった。私が旅行好きなのは、母からの遺伝かもしれない。飼育係のお姉さんが、蛇を体に巻き付けている。観客の男性は皆、敬遠するが、どういうわけか手を挙げて自分で蛇を触りたがるのは女性である。シンガポールの動物園でもそうだったから、日本以外の世界的傾向かもしれない。不思議なことだ。

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 シドニータワーでは、登る前に4D映画を見せられた。例の色付き眼鏡を掛けるタイプだ。昔、子供を連れて遊園地で見たことがある。そのときはあまり大したことがなかったが、今回は確かに、飛んで来る蝶がすぐ前にいるような感覚を味わった。展望台は、260メートルの上で、高さもちょうどよく、シドニー湾や繁華街、公園内などがよく見える。特に公園は、上から見下ろすと、幾何模様がまるで図面のように見えて面白い。これは、地上を歩いていても、まず気がつかないだろう。それに東京だと、湾の風景が今ひとつだけれど、こちらのシドニー湾の場合は海岸が入り組んでいるので、それだけ美しい。

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 少し時間があったので、シドニータワーから見下ろしたハイドパークに行った。そして、セントジョーンズ大聖堂を見物した。内部は荘厳なゴシック建築で、ステンドグラスが美しい。大聖堂から出ると、そこで借景をして結婚記念写真を撮っているカップルがいた。もう夕方になった。オーストラリア博物館に立ち寄ったのだけれど、閉館まであと30分しかないと言われて入れなかった。これと、アボリジニ美術館を見学すればよかったと思う。もう少し計画的に行動すればよかった。でも、知らない街で気ままに、あちらを見てキョロキョロ、こちらを見てキョロキョロという旅も楽しいものだ。

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 タクシーは、欧米の国にしては珍しく、流しである。だから、日本と同じ感覚で手を上げれば止まってくれる。ただ、手を真上に上げるのではなく、真横かちょっと斜め下に上げる(しかも、手首をだらりとして少し上下させる)というのが当地のやり方だそうだ。でないと、誰かと挨拶を交わしていると間違われるらしい。初乗り料金は4豪ドル(約390円)で、大したことはないが、メーターが10セント単位ですごい勢いで上がっていくのにはびっくりする。でも、着いてみると日本並みの料金である。タクシーの乗り方を観察したが、乗客が一人だと、男でも女でも、その半分くらいの人は、後ろの席に座るのではなくて、前の助手席に座るので驚いた。現地の人に言わせれば、相互扶助の精神だそうだ。

 ところで、タクシーといえば、空港に向かっているときのことである。黒人の運転手だった。あまり黙っているのもどうかと思って、「あなたは移民なのか」と聞いた。すると、「そうだ。ギニアから来た」という。「なぜ移民になった」と聞くと「ギニアは、本来は貧しくないのに、途中の腐敗で庶民にまで富が回って来ない仕組みで、貧富の差が著しい。こんな国にはおれないと思った」という。「英語は、お上手だけれど、最初からしゃべれたのか」と尋ねると「いやいや、アゴラのカレッジを出たときは少しは自信があったけれど、こちらに来て、人々が何をしゃべっているのかわからず、英語が全然通じないのには驚いた」という。 


 私が「そうだなぁ、何しろ『I'm going to the hospital today』の最後を「トゥダイ」(To die)(死ぬため)と発音するからね」というと、面白がって笑った。そして「いや、その通りで、慣れない英語の表現を一生懸命に勉強した。生きていくのに必要だからね」という。「どんな仕事をしたの? 最初からタクシー運転手はできないでしょ」と聞いたら「最初は建設作業員から始まって、色々な仕事をして、やっとこの運転手になってからようやく生活が安定した」と答える。「それじゃ、本当に苦労したんだね」というと、感極まったような顔をしていた。これが、移民一世の実情だろう。


 食事は、ホテルでの朝食はまあ普通だったが、お昼の観光地のものは、ほとんどがハンバーガーで、これにはげんなりした。そこで夜は上質な食事をしようと、チャイナタウンに行き、中華料理屋を探すことにした。よくわからないから、お客の出入りが多い店が確実だと思い、そういう店の一つ「ペタリン・ストリート」という店に入ってみた。すると、これが正解で、それはそれは美味しかったのに、値段はそこそこである。量は、オーストラリア風で、とても多かった。ちなみに、同名の通りがマレーシアにもあるので、お店の人に聞いてみたら、やはりそこから取った名前とのこと。その帰りにワールドマーケットに立ち寄ってサクランボを買ったが、これまた美味しかった。



3.ブルーマウンテン・フェザーデール野生動物園


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 シドニーといえば必ず推薦される観光地のブルーマウンテンに行ってみた。ここは、元々は無煙炭の炭鉱で、長年にわたり採掘していたが、近くに露天掘の大炭鉱が発見されたので、廃れたという。行くのに、片道2時間以上かかる。まず、エコーポイントという展望台に行くと、左手にスリーシスターズという3つの岩山が目に入る。正面には下に広がる大地と、そのはるか向こうに霞む平らな山が見える。右手にはテーブルのように突き出す岩山がある。

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 そこから「スカイウェイ」というロープウェイで「シーニック・ワールド・トップステーション」という駅に渡る。そこから「ケーブルウェイ」で240メートルの谷底に降りる。そして、桟道が設けられているので、それを通って樹海を散歩すると、途中、シダ植物のような見慣れない植生を多く目にする。シダ植物の親玉のような見慣れない木があって、いささか驚く。岩も、緑の苔に覆われている。かつての炭鉱の跡を見て、さらに行くと、「レールウェイ」という昔、炭鉱の運搬用に使われていたトロッコ電車の発展形がある。つまり、何かというと、部分的に急勾配のレールに対応して乗客を乗せるために、座席の角度をその通るレールの角度に合わせて可変にしてあり、ひどい時は身体が地面に対して直角になったような気がしたほどだ。まるで今時の遊園地の乗り物のようだった。

 ところで、そのトップステーションで、オーストラリアの3つのお土産を買った。一つは、蜂蜜である。昔からオーストラリア産は美味しくて有名だそうで、オーガニック(有機)のものもある。蜜を集める花に応じて、色々な種類があるのには驚いた。いずれも試食させていただいたら、味が全く違うのである。

 二つ目は、マカダミア・ナッツである。たんぱく質、脂肪、炭水化物の他、ミネラル、ビタミン、食物繊維などを豊富に含む。特に、コレステロール値を下げるとされる「一価不飽和脂肪酸」を含んでいるのが良いという。これは、オーストラリアが原産で、発見者のオーストラリア人ミュラーは、友人マカダムの名前をつけたという。マカダミア・ナッツの現在の主産地はハワイであるが、それは、元々防風林として木そのものを送ったものが、ナッツ生産に転用されたものだそうだ。

 三つ目は、ブーメランだ。土産物屋で売っているのは飾りのものが多いが、敢えて実際に飛ぶものを買った。これは、縦に投げると、横になって戻ってくるものらしい。その逆に横に投げてしまうと、縦に回転して戻ってくるから、取りにくいという。初孫くんと、試しに投げてみよう。ただ、これは武器になるので、投げる際には気を付けるようにと言われた。


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 フェザーデール野生動物園では、オーストラリアの動物を間近に見られて、とても有意義だった。コアラ、カンガルー、エミュ、ウォンバット、火食い鳥、駝鳥、ペンギンと、なかなか見ごたえがある。ケージの中に入れてもらえるのも珍しい。

 余談だが、観光スポットでは、説明の案内板が、英語→中国語→日本語→韓国語の順となっている。こちらのチャイナタウンの隆盛を見たり、また中国人移民の多さからして、むべなるかなという気がする。しかし同時に、まるで、世界における日本人のステータスが次第に下がっていくのを現に目にしているようで、いささか悲しい気もする。



4.帰りの機中でジュラシック・パークIV

 ともあれ、収穫の多い旅だったと思って、満足して機中の人となった。日航の機内で、たまたまハリウッド映画のジュラシック・パークのシリーズ第4作「ジュラシック・ワールド」を見た。わずか4ヶ月ほど前に公開されたばかりの映画だ。ところが、そこに出てくる木がやたら背が高いシダ植物だと思ったら、ブルーマウンテン公園で見たものと同じだった。しかも、もっとびっくりしたのは、迫ってくる恐竜の冷たい目が、あの水族館で見たサメと同じだったことだ。





(2016年12月31日記)


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名古屋城の本丸御殿

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 名古屋城の本丸御殿は、天守閣とともに昭和20年5月14日の空襲で焼失してしまった。国宝第1号だったのに、本当に惜しいことをした。このうち天守閣は、昭和34年10月に鉄筋コンクリート製で再建された。かつてのように金の鯱が置かれて、名古屋を代表する建築物として今に至ってい.る。「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」の次に「尾張名古屋は城でもつ」といわれるゆえんだ。

 ところが、天守閣の足元にあった本丸御殿は、焼失して70年間も手付かずであった。しかし、ようやく最近になって復元が進められ、その第1期工事(玄関と表書院)が一昨年(2013年)6月に完成し、その部分が公開された。次いで第2期工事(対面所と上台所)が来年(2016年)6月に完成と聞いて、これは今のうちに是非とも見てこなければ、地元に帰ってからの話題に欠けると思い、東京から足を運んだのである。ちなみに第3期工事(上洛殿と黒木書院)は、2018年の完成予定である。

 いただいたパンフレットによると「かつて名古屋城の本丸には、天守閣とともに本丸御殿がありました。この本丸御殿は、近世城郭御殿の最高傑作として、現在、国宝となっている京都二条城の二の丸御殿と並び、武家風書院造の双璧と言われた建物で、1930年(昭和5年)に城郭建築として国宝第1号に指定されました。しかし、大変残念なことに1945年(昭和20年)に空襲により天守閣とともに焼失してしまいました。戦後の復興に伴い、天守閣は1959年(昭和35年)に多くの市民の皆様の熱意に支えられ再建されましたが、本丸御殿は長年の間、その復元が待ち望まれていました。

 2009年(平成21年)1月、ようやく復元工事に着手しました。江戸時代文献や焼失前の正確な実測図、多くの古写真をもとに、御殿の入り口部分から工事を進めており、全体の完成は2018年(平成30年)の予定です。2013年(平成25年)5月、玄関と表書院の完成に伴い、第1期公開を開始しました。」
とのこと。

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 なお、建物は木造平屋建てこけら葺きである。復元時期は、将軍の上洛殿として使用され書院造りの意匠を持つ寛永期(1624年から1644年にかけて)とされている。実際には、その後、防火が考慮されて瓦葺きとなった。昭和になって撮られた写真とは異なるのは、そういう事情だそうだ。ところで、「こけら(柿)葺きの「こけら」というのは、杉などの木材を3mm程度の厚さに割った板です。これを1枚ずつ竹釘で打ち付け、屋根の下から上へ向かって少しずつ重ねます。薄い板を使うことで、独特の造形美を作り出すことができます。」という。

 この建物は書院造だそうだ。そもそも「書院造は、接客や儀式のための書院(居間)が建物の中心にあって、住む部屋とは別に設けられたものです。書院には、中国からの輸入品である陶磁器などの唐物や掛け軸を飾るため、床(とこ)、違棚、付書院などの『座敷飾』が付けられ、主人の座る部屋は他の部屋より一段高くなっている『上段之間』をつくるなど、格式や権威などを視覚的に表現しました。」とのこと。


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 建物正面のてっぺんには、瓦製の「獅子口」なるものがある。これは「屋根の棟飾りのひとつで、鬼瓦の一種です。本丸御殿の屋根のほとんどは『こけら葺き』ですが、棟の部分だけは瓦を使います。この棟の両端に獅子口を設置します。大きいもので100kg以上の重さ」があるそうだ。

 その下には唐草模様の「破風金具」がある。これは「八双(はっそう)と三つ葉葵紋、懸魚(げぎょ)などがあります。漆を塗った上に金箔を貼っています。」という。そのうちの懸魚(げぎょ)は「元は、建物の火除けの意味があったと言われています。最初に木を彫り形を作り、その後、漆塗りされ、周囲を金物で覆います。懸魚(げぎょ)の中心にあるものを『六葉(ろくよう)』という」そうだ。いずれも細かい手作業で、熱田神宮や伊勢神宮の修理や遷宮を引き受ける技能集団が名古屋にはあるから、出来る仕事である。


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 玄関は「本丸御殿を訪れた人がまず通され、取り次ぎを待つ建物です。玄関といえども、一之間、二之間の2部屋からなっており、一之間には床(とこ)もあります。四周の壁や襖には、来訪者を威圧するように、勇猛な虎や豹が描かれています。」。特に、正面の虎が尻尾を立てているのが、躍動感があるし、なるほど来訪者への威圧になるだろう。また、表書院の部屋では「雉子や花などの花鳥図で迎えます。」という。

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 ところで、本丸御殿の障壁画には、虎と豹の図柄が多い。しかも共存している。それどころか、まるで「つがい」のようだ。何か変だなと思ってお聞きすると「江戸時代の絵師は生きた虎を見たことがなくて、毛皮を見て想像して描いたに違いない。そして、虎と豹の区別がつかず、多分、豹を雌の虎と間違えたのではないか。」ということだった。

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 こうした絢爛豪華な障壁画は、狩野派の絵師によって描かれた。「1945年(昭和20年)の戦災で建物は焼失してしまいましたが、襖や杉戸など、取り外せるものは全て外して疎開していたため、貴重な財産は戦禍を免れることができました。」という。これを模写したのが、加藤純子氏及び愛知県立芸術大学日本画保存模写研究会の皆さんである。

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 「本丸御殿の復元にあたっては、狩野派の絵師たちが全身全霊を注いで描いた障壁画を400年前の鮮やかな色に蘇らせるため、1992年(平成4年)より、本格的な復元作業を実施しています。復元模写とは、描かれた当時の状態を再現するものです。原作を忠実に復元するため、当時に絵師たちが用いた技法や素材の分析を重ね、江戸時代の伝統的な画法を明らかにし、当時の絵師たちの感性や流麗な技の再生に挑戦しています。復元された本丸御殿には、復元模写した障壁画を取り付けます。」とされている。

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 障壁画を眺めていて、不思議なことに気がついた。隣の部屋との境に、何にも描かれていない金箔の襖が混じっているのだ。聞いてみると、名古屋城の本丸御殿には、戦時中、陸軍の参謀本部が置かれたことがある。その時に使い勝手が悪いということで、襖の一部が取り払われてしまった。だからそれがどういう意匠のものだったかわからなくなり、復元ができないので、取り敢えず金箔を貼っただけにしてあるそうだ。

 表書院は、正規の謁見に用いられた大広間に入る。上段之間、一之間、二之間、三之間、納戸之間の5部屋からなる。廊下の天井を見上げると、一見すると、長い棒が通っている変わった天井である。解説によると「本丸御殿の室内は、相手より自分の方が偉い人であることを示すために、様々なもので格の違いを見えるようにしています。天井もその一つです。玄関や廊下の天井は、竿縁(さおぶち)と呼ばれる部材の上に天井板をのせたものです。」という。ところが、表書院に入ると、天井は、もっと格の高い格天井(ごうてんじょう)である。これは「格式を重んじる部屋に使われるもので、格縁(ごうぶち)と呼ばれる部材で格子を作ったもの」という。


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 しかしこれで驚くのはまだ早い。表書院一之間はもっと格が上がって、格天井の格間(ごうま)の中にさらに細かく組んだ格子を入れた小組格天井となっていた。そして、将軍が座った表書院上段之間は、壁との間の接続部分を直角ではなくて折り上げた、もっと上の折上げ小組格天井となっていた。ちなみに京都の二条城の大広間は、二重折上格天井となっているらしい。

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 障壁画に近づいて写真を撮ることができる部屋があった。フラッシュや三脚を使わなけれは幾らでも撮ってよいそうだ。ちなみに、このように障壁画に近づける部屋は、定期的に変更しているという。ちなみにこの日は、玄関二之間だったが、玄関上段之間や一之間を近づいで見たかった。

 外に出てみると、二期工事部分が来年(2016年)6月の公開を目指して完成間近で、建物を覆う工事用の建物がクレーンで取り払われている最中だった。また、工事用の建物の中に入って、職人さん達の仕事振りを見せていただける構造になっている。入り口には、大工仕事で出た木っ端を持ち帰ることも出来るから面白い。


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 天守閣に登る。階段でもエレベーターでも上がれるようになっていて便利だが、味気ない。5階に上がって更に階段を上ると、そこが眺望階で、尾張平野が一望の下にある。名古屋駅、テレビ塔、名古屋ドーム、栄方面がわかる。それにしても、駅以外で高層ビルが増えたものだ。下の階に降りると、刀剣、甲冑、火縄銃の類いが展示してある。面白かったのは金の鯱で、それに跨ったりして写真を撮れるようにしてあるコーナーがあり、中国人観光客の人気を呼んでいた。彼らの感性にぴったり合っているようだ。


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 今の天守閣は、建てられてちょうど50年ほどだが、コンクリートの割れ目から進入した雨や空気でコンクリートの中性化が進む。そうすると鉄筋コンクリートの鉄筋が錆びてきて最後は爆裂し、周辺のコンクリート片を押し出す。そして建物に影響を及ぼすという経過をたどる。このまま行けば、あと40年しか持たないという。加えて、耐震診断をしたところ非常に脆弱で、震度6で倒壊の危険があるそうだ。そういうわけで、今の河村たかし市長が音頭をとって、この際、天守閣を本丸御殿のように昔通りに木造で復元してはどうかという話が持ち上がっているそうだ。

 天守閣を離れて外に出た。石垣の一つ一つには、これを持ってきて積んだ藩の紋章が入っている。空襲の時の石垣そのものを使っているから、熱で傷んでいて、ところどころにまだ黒い煤の痕がある。今の天守閣を鉄筋コンクリートで再建した時に、この石垣には荷重を掛けられないので、コンクリート製のパイルを打ち込み、その上に天守閣を載せている。ただ、この石垣はもう限界に来ており、天守閣を取り巻く石垣は、本来なら下向きの優雅な曲線を描くところ、その逆に途中で膨らんでいる部分が出てきた。だから、いつまで持つか、心配だそうだ。

 本丸部分には幾つか櫓がある。そのうちの一つの清洲櫓は、清洲城の木材をそのまま持ってきたものだそうだ。100年おきくらいに改修しているとのこと。櫓には、もちろん徳川家の葵の紋が付けられている。ところが、名古屋城は戦前の一時、宮内省の管轄になった時があり、その時に改修された櫓には、皇室の菊の紋章が付けられているそうな。

 ということで、本丸御殿から始まって、色々、トレビア的な知識を教えていただいた。こういう文化財は、長い目で見て、次代に伝えていかなければならないものだと考えつつ、名古屋城をあとにした。今晩は、櫃まぶしでも食べて、帰京しよう。



(2015年12月23日)


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徒然286.ある日見たら片目が真っ赤

点眼薬


 ある日の夕方、左眼のまぶたの裏に、何やらゴロゴロとした異物感がある。あれ、おかしいなと思いつつ鏡を見たら、真ん中の虹彩部分は普段のとおりだが、白眼(結膜)部分の両端に少し血管が浮き出て見える。別に痛くはないが、まぶたを開け閉めしてもゴロゴロ感は変わらない。ゴミでも入ったかと思った。それなら、涙で自然に出てくるだろう。それなら気にしても仕方がない。

 それから予定通り、夜の室内練習場でテニスをしてお風呂で汗を流し、家に帰って午後10時頃にまた、ふと眼を見たら、あらら、これは大変なことになっている。左眼が真っ赤ではないか。こんなことは初めてだ。少し痛くなってきて、眼を開けていられなくなった。でも、こんな時間では医者にかかることもできない。救急の夜間診療をお願いするほどでもないから、やむを得ない。今晩は寝ることにして、明日の朝、眼科に行くとしよう。そう思って布団に入った。それにしても、なぜこうなったのかとつらつら思って、考えついたのが、その前々日の出来事だ。

 その日は、晴天だったが、風の強い日だった。お昼に食事に出て、蕎麦を食べた。ところがまだ時間があったので、その辺を一周することにした。オフィスの周りを40分近く歩いたのだが、道路のアスファルト上に落ちた枯葉がバラバラになって、時折り風で巻き上がる。それが、眼に入りそうになって、眼を閉じたことがしばしばあったが、それかもしれない。

 翌朝、目ヤニがあって左眼が直ぐには開けられなくてまごついたが、恐る恐る眼を開くと、視野が普通でホッとした。近所の眼科医院に行って看護師に症状を伝えたら、それは、『はやり目』つまりアデノ・ウイルス性の結膜炎かもしれませんから、万一それだと人に移りやすいので、こちらへ来てください。」と、他の患者から隔離されてしまった。これは大事(おおごと)だ。もう、何ということだ。

 診察室に入って女医さんに診てもらった。まず、下まぶたを見て「アデノ・ウイルスならここにイボイボが出来るのですが、あなたの場合はそれがないので、普通の細菌によって引き起こされる結膜炎です。念のため、角膜を見ましょう。」といって診てもらったところ、眼を気にされてこすったせいか、少し傷ついていますね。これを修復するお薬もだしましょう。」ということで、次の2種類の点眼薬を処方された。

 第1は、クラビット点眼液 1.5%で、「細菌のDNA複製を阻害し、増殖を阻害することにより、抗菌作用を示す」とのこと。第2は、ヒアレイン点眼液 0.1%で、「ドライアイやコンタクトレンズに伴う眼の表面の傷を治す」という。私は点眼薬なるものを使ったことがなかったので知らなかったが、点眼するときには先端を眉毛に触れさせてはいけないそうだ。そこから細菌が入るからだという。

 この二つを点眼していたら、もう翌日の夜には赤い部分がごく薄くなり、更に一晩過ぎたらすっかり良くなったから、驚いた。その後、数日間ほど点眼を続けていて、何ともないので、止めることにした。病状が出るのは急だったが、治るのもあっという間で、晩秋の珍事だった。




(2015年12月15日記)


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初孫くんは小学校1年生

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自称「ドッジボールの達人」

1.学校の選択

 初孫くんは、今年の春に小学校の学齢に達して、地元の小学校か、それとも幼稚園から通い慣れているインターナショナル・スクールかの選択を迫られた。そして地元の校長先生のみならず、教育委員会の人まで出てきて一悶着あったものの、結局、本人の希望もあって、親は引き続きインターナショナル・スクールに通わせることにした。

 その一方、インターナショナル・スクールと日本の小学校とでは学期がずれるので、前者がないときには後者に通わせようということになったそうだ。そこで、インターナショナル・スクールが6月下旬に終わったので、夏休み前の約1ヶ月間、日本の小学校にランドセルを担いで通ったのである。

 最初は、インターにはない給食の時間などに戸惑ったようだが、おおむね大過なく過ごし、心配してくださった校長先生や担任の先生をいたく喜ばせた。友達とも仲良くすごせました。学力も十分にあります。」と認定されて、1ヶ月の通学が終わったときに、年度末の先日付の1学年修了証(?)をもらってきたほどである。



2.4桁の4つの数字の計算

 約1年ほど前から、学習塾の公文に通い始めた。算数と国語である。この二つは、日本の小学校に通っていないと、ついつい疎かになりがちな科目である。公文は、所定のペーパーを何枚かやるだけだから、家でも出来て、あまり子供の負担にはならない。それにしても進度が早い。これを始めたつい1〜2年前には、やっと数字が書けるようになったと喜んでいたのに、最近は九九を口ずさんでいるから驚いてしまう。

 思い出してみると、私が九九を初めて学んだのは、小学校3年生のときだから、2年も早くなっている。国語などは確か、「小学校1年になるときには、自分の名前くらいは平仮名で書けるようになっていなさい。」というものだったし、算数なんて、絵を見て「アヒルは何羽いますか?」と言って、2+3=5などとやるのがせいぜいだった。

 1週間ほど前に初孫くんと2人で中華料理店に入った。パクパクとよく食べてくれて、さあこれからお勘定という段になった。私より一瞬早くお勘定書きを手にした初孫くんは、980円、500円、160円と書いてあるそれを一瞥して「うーんと、1,640円だね。」と一言。3つのお料理の合計額を一瞬にして計算したのである。レジで会計してもらうと、まさにその額だった。980円だの、160円だのと、さほど簡単でもないのだが、もうこんな計算が暗算で出来るのだと感心した。

 さらに、その1週間後に家内とともに初孫くん連れて、またそのお店に行った。今度は家内も一緒だったので、品数は4つになっている。今度は計算が出来ないだろうと思って見ていると「うーんと、うーんと、3,450円だね。」という。それもまた当たっていた。かくして、4つの数字の暗算が出来るようになっているとは思わなかった。

 とまあ、そのように感心していたら、今度は別のお店で食事をし、3つのお皿の合計を出すときに、間違えてしまった。あらら・・・やっぱり普通の小学1年生である。どうやら、ぬか喜びだったようだ。でも、早熟の天才でも20歳過ぎてタダの人になるより、私は遅咲きの努力家になる方がよいと考えている。もっとも、努力するタイプかどうかをみるには、少し早いようだ。まあ今のところは、勉強でも遊びでも、ともあれ楽しくやってもらうのが一番だ。



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3.ドッジボールの達人

 初孫くんは、スクールバスに乗って午後4時半頃に帰って来る。それから夕食まで少し時間があるので、小学校の学童保育の部屋に入れてもらっている。そこで何をやるかというと、ドッジボールである。最近のドッジボールは、とても凄い。使われるボールは、もちろん柔らかいが、重さもあるから、当たるとズンッと衝撃を感ずる。ましてやそれが顔に当たるとかなり痛い。初孫くんは、顔に何度も当てられ、鼻血を何回も出しながら、食らいついていった。なかなか、根性がある。

 このボールは、かなりの速さで飛び交う。ボールを下手で投げると、グーンとカーブして、バナナのようになって飛んでくるから、避けるのがそれだけ難しくなる。そういうボールもマスターして、初孫くんは、自称「ドッジボールの達人」だそうだ。確かに、同学年では敵う者がいなくなり、専ら高学年の組に入れて貰って、「今日は5年生に当てた!」などと言っている。幼稚園の頃から比べれば、ずいぶん逞しくなったものだ。



4.僕って天才

 日曜日は、私が初孫くんの面倒をみる日なので、天気が良い日には、遠くへ連れ出すことにしている。先日は、昭和記念公園に出かけた。西立川駅で降り、走って入った。すぐに池に行き、スワンボートに乗った。ところが、あのペダルを漕ぐには、私の脚が長過ぎるし、しかも、ジーンズをはいているから回しにくい。初孫くんはというと、逆にペダルが離れすぎていて、これまた漕ぎにくい。

 困ったと思っていると、ペダルがぐんぐん回り始めた。見ると初孫くんが、両手を突っ張って身体を浮かし、それでペダルを漕いでいるではないか。へぇ、なかなかやるものだと思った。でも、ボートの周りにやってきた大きな鯉たちに気を取られて、すぐに止めてしまうのは、まだまだ子供である。持っていたお菓子を鯉にあげて、皆よく食べると喜んでいた。

 ボートが終わり、そこから更に奥に位置する子供の森に行き、滑り台、ふわふわドーム、ネットのジャングルジムなどでさんざん遊んだ。少し早いがさあ帰ろうということで、売店の前を通りかかった。すると、直径15センチくらいのゴムのボールがある。それを見つけて、「ねぇ、これを買って?お願いします。」という。見ると600円くらいのものなので、まあ良いかと思ってお金を渡して買い求めさせた。

 すると、帰る途中に大きな芝生の土地があり、そこでサッカーをやろうという。「ああ、良いよ」と答えて、買ったばかりのボールを網から出そうとした。ところが、上手くいかない。仕方なく、網に入ったままボールをぶら下げて歩いて行こうとした。そうしたところ、突然、ボールがポーンと3メートルほど飛び上がり、そのついでに、網から外れた。背後から初孫くんが、いきなり蹴ったのである。そして一言。「僕って天才!」。確かに、網から外す手間は省けた。もう、笑いが止まらなかったのは、言うまでもない。

 それからそのボールを使って、20メートルほど離れて、蹴りあった。手で投げるほどには、初孫くんの蹴りは強くなかったものの、それでもまあまあサッカーになっている。去年までのことを思えば、かなりの進歩である。腕にも少し筋肉が付いたし、それにつれて、失敗を恐がらなくなった。この1年で、随分と進歩したものだと思う。



5.黒と赤の絵から色彩溢れる絵に

 この子は、振り返ると3歳の頃から、絵を描くとなると、どういうわけか火山が噴火する絵ばかりを描いていた。山体が黒色、噴火が赤の2色の凄まじい絵である。これは、保育園のほかに、年端も行かずに通わされていたスパルタ式の英語学校での不満が爆発しているのではないかと思ったほどである。ところが、我が家に来てから3年弱ほどになるが、その英語学校とやらに通わなくなったからか、随分と平和な雰囲気になり、描く絵の題材も変わってきた。

 例えば先日、インフルエンザの予防接種を受けたクリニックで、ご褒美にシールをもらった。それをどうするのかなと見ていたら、自動車のシールばかりを取り出して、白い紙の一番下に、一列に並べ始めた。そしてその上に、マンションのような建物をたくさん描いた。そして、そのうちの一つに「ぼくの家」と書いた。もっと驚いたのは、これまでの赤と黒ではなく、初めて青色を取り出して、それで画面の多くを塗っていたことである。これを見て、家内と二人で、大いに安心したのである。

 また、次の絵は、親子でディズニー・シーに行ってきて、帰ってから描いた絵である。中央の模擬火山の脇に上がった花火と、その周囲の湖で海賊船を模したパレードが行われている描写である。いかにも楽しかった雰囲気が伝わってくる絵だ。


ぼくの絵


 さらに次は、学校で作ってきた「ピカソ」もどきの作品である。「これは何を描いたの?」と聞いた。するとアイスクリームと、ソフトクリームと、ケーキ」だそうだ。いずれにせよ、「おお。色のついた絵になっている」と感激した。

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 その後、親と軽井沢で雪遊びをした帰りに、たまたま花火を見た。そして、その様子を帰りの新幹線の中で白い画用紙にクレヨンで絵に描いた。すると、今までだったら、黒と赤のクレヨンしか使わずに、しかも四方八方に爆発するような絵しか描かなかった。それなのに、嬉しいことに、今度はあちこちにお花のような模様を描いて、しかもそれがあらゆる色彩で満たされるようになった。家内は「心象風景がとても豊かになりましたね。」と、感慨無量だった。



6.ゴルフの真似

 先日、秋も深まったし、実家の母はどうしているのかと思って、初孫くんを連れて帰省した。すると、近くに住む妹たちに支えられながら、まあ元気に暮らしていた。初孫くんは、そのおばあちゃんを家の前の公園に連れ出して、何やら遊びだした。公園の端から、ゴムボールを使って、二人でゴルフのようなスイングで打っている。狙いは公園の反対側の砂場だ。砂場の半分は、ちょうど西洋のお城の城壁の上のような凹凸のある段差で囲まれていて、そのところどころに穴が開けられているから、ちょうど良いショートホールになっている。それを越えた砂場の真ん中に穿たれた穴が目標だ。


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 最初、初孫くんは空振りが続いたものの、30分もすれば安定してきた。ポーンと打つと、時にはボールが空中を舞って、公園を横切るように飛び、砂場の脇に置かれた椅子に直接乗ってしまうこともあった。そして、それを入れて、辺りじゅうに響き渡る大声で「イェーイ!これはイーグル、いやアルバトロスだ!」と大喜びで叫ぶ。近所の人が、何事かと思って出て来て、その様子を見て笑っている。母は「ひ孫なんです。」と、ニコニコして説明している。

 そのうち、何か変だなと気づく。確か、母はゴルフなどしないし、ゲートボールもしない。すると、初孫くんと母が持っているあのゴルフ用のクラブは何だろう。そう思ってよく見たら、何とそれは、母が日常愛用している老人用の杖ではないか・・・。あれあれ、これは困ったと思って、それを手にとって見たら・・・ああっ! 一番肝心の手のひらで包み込む取手のところが、ボロボロに傷ついている。やってしまった!

 母に謝ると「いいよ。いいよ。」と言ってくれる。その大人のやり取りも何のその。初孫くんは、そのクラブならぬ杖を再び手に取ると、「さあ、今度もアルバトロスだ!」と言って、勢いよく公園の反対側に掛けていく。それを、母と二人して、いささか複雑な笑いをして見送った。いずれにせよ、この年回りだと、元気で天真爛漫なのが、一番である。



7.学校での出来事

 ある日、学校の先生からこんなメールが送られてきた。「今日、Aくん(初孫くん)が、Kくんの胸のあたりを強く噛んで、怪我をさせてしまいました。すぐにKくんの胸を確認したところ、赤紫色に内出血していて、ちょっと歯の後が見えました。担当の先生が二人と話をしたところ、初孫くんが先に座っていた場所にKくんも座りたくてぐいぐいと押したから、かっとなって噛んでしまったということでした。二人とも悪かった点を認め、納得した様子でした。ご家庭でも、かっとなった時に噛むことで気持ちを伝えるのではなく、言葉で気持ちを表現することをもう一度話し合ってください。どうぞよろしくお願いいたします。」

 元気が良すぎるのも、ほどがあると思ったものの、学校からも親からも、こっぴどく怒られるだろうから、我々が叱ると初孫くんの居場所がなくなるだろうと思い、学校から帰ってきた初孫くんから、事情を聞くだけにした。すると「僕が座っていたところに、Kくんがやって来て、しつこく足で蹴ったり、肩を何回も小突いたりしてきて止めないから、つい噛んじゃった。」というものだった。

 それから程なくして、親が学校に呼び出されて、親子ともども大変叱られたそうな。相手の子にも非がありそうだが、何しろ、傷付けてしまったことはよくないので、その親御さんにも、誠に申し訳ない気がする。だから、「これからはいきなり噛むというのでなく、ちゃんと言葉で『止めて頂戴』と言えるようにね。」と諭すと、眼に涙を浮かべていたそうな。幸い、大した怪我でもなく、学校で二人の様子を聞くと、仲直りをして全く普通どおりに過ごしているそうで、良かった。

 とまあ、ここまでは普通のおじいさんとしての感想だけれど、世の中、そう善意の人間ばかりではない。私が小さかったこのぐらいの年頃には、都会から急に田舎に引っ越ししたものだから、言葉が標準語だというだけで虐められて、結構、暴力も受けた。多勢に無勢だから、どうせ敵わないのだけれども、私が我慢に我慢を重ねた末に、この初孫くんのように、一度くらい相手に歯型がつくくらいに噛み付いていたとしたら、一体どうなっていたのだろうかと思ってしまう。こいつは危ないヤツかもしれないということで、あるいは、虐めは止んでいたかもしれない。そういう意味で、実はこの初孫くんの行為を、あながち責める気はしないのである。


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ハローウィンでの三銃士の仮装


8.優しい初孫くん

 普段の初孫くんは、なかなか優しいところがある。先日、気候が乾燥してきたからか、力がかかったときに私の爪に割れ目が生じた。すると初孫くんはそれを見て、「ちょっと待って」と言って、どこからかバンドエイドを持って来て、紙をはがして甲斐甲斐しく手当てをしてくれた。なるほど、こんな面もあるのかと、見直した。

 だから、学校では乱暴者ではなく、優しいということで、女の子にも人気があるようだ。それは、時々ランドセルの中にラブレターが入っているのでも分かる。例えば、次のような調子だ。まあ、ませていると言えばその通りだが、この調子でどこまでモテるかが問題である。できれば、この子が良き伴侶を得るのを見届けるまで、家内とともに長生きしたいものだ。あと20年ぐらいだから、おそらく大丈夫だろう。


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(2015年12月 1日記)


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