佐賀大分への旅

明石大橋

瀬戸大橋

 2泊3日で佐賀と大分に行ってきた。例のとおり、日中は全く暇がなく、びっしりとスケジュールが入っていて、僅かに早朝と夜しか時間がない。そこで夜は休み、大分では早朝に起きだして別府の温泉地獄めぐりをしてまた引き返すということをした。全くもって、慌ただしいのにも程がある。

 それはともかく、今回は行きと帰りの機内から、よく外の世界が見えた。昨年9月から規制が緩和されて、iPhoneなら機内モードにしておけばいつでも写真が撮れるようになったことが大きい。最初は、ああ、あれが三浦半島だ、駿河湾だと思っているうち、眠たくなったのか、しばし目を閉じた。再び目を開けて、同行者に「あれ、これは伊勢湾かな」と言っているのをアテンダントさんに聞きつけられ、「いやいや、もう神戸ですよ」と言われたのには、参った。そういえば、あれは神戸のポートアイランドではないか・・・目をつぶっていたのはほんの一瞬のことのような気がしたのに、その間に飛行機は、静岡から神戸まで飛んでいたとは驚いた。まあ、人生とは、こんなものかもしれない。ああ、それではあれは、明石大橋だ。次に瀬戸大橋も見える。それではしまなみ海道も見えないかと思ったが、残念ながら雲に隠れてしまった。四国の佐田岬半島が眼下に見えた。この海を越えれば、いよいよ九州だ。


阿蘇山の活火山である中岳が噴煙を上げている

噴煙を上げる阿蘇中岳

 緑の美しい平原が見える。これは阿蘇ではないか。阿蘇山の活火山である中岳が噴煙を上げている。結構、高くまで白い煙が上がっている。鹿児島の桜島といい、雲仙の普賢岳といい、九州での最近の火山活動はかなり活発である。やがて着陸というアナウンスがあり、機体は佐賀空港に向けて高度を下げていった。地上には碁盤の目のように綺麗に整備された田圃が並び、大きな川が流れている。九州新幹線のトンネルと線路が見える。そう思っていたところ、すぐに有明佐賀空港に着陸した。車で中心部に向かったが、その途中、道の周囲はまだ新しい干拓地らしく、住宅や店舗も古びたものはなくて、経済がうまく回っているように見える。30分ほどしてホテル・ニューオータニ佐賀に到着した。ここは外見はともかく、部屋もサービスも30年前のようなホテルだ。懐かしいといえば懐かしいが、その間、色々と世界のホテルを渡り歩いてきた身としては、実に物足りない。

佐賀県庁

泊まったホテルからの眺め(佐賀県庁)

 その代わり、佐賀城公園に面し、目の前は佐賀県庁であるから、眺望はよい。早朝、その周りを散歩してみた。この地のシンボルは楠(クスノキ)らしくて、お濠の周りに大きな木が多い。これが、佐賀の乱、西南戦争などを見てきたのかと思ったが、樹齢は意外ともっと若いのかもしれない。それにしても、あまり大きくもないお濠で区切られた区画の中に、高校やら中学やらがあるのはまだ良いとして、幼稚園やら、普通の住宅まで立ち並んでいるのには驚いた。なぜこのようなことになっているのか、時間があるなら地元の物知りとじっくり話をして聞きたいところだが、今回の要務からしてそうはいかないところが悩ましい。お濠にを巡っているときに、1羽の鷺らしき鳥がいた。それが抜き足差し足、そっと水面に近づき、そこで止まって動かない。私も決定的瞬間をとらえようと、その場でしばらくカメラを構える・・・しかし、何も起こらない。諦めて、もと来た道を戻ろうとして振り向いた瞬間、ばしゃばしゃっと音がして、その鳥はもう小魚を咥えていた。絶好のタイミングを逃がしてしまった。

お濠に1羽の鷺

お濠に1羽の鷺

 翌朝は、新幹線と在来特急を乗り継いで、大分に向かった。4月にできたばかりという真新しい大分駅頭に立つ。佐賀と比べるとこちらの方がはるかに都会だという印象を受ける。もちろん佐賀にも、高い建物がちらほらとあったが、そのほとんどが民間のマンションで、それ以外の大きい建物は、県庁と県警本部それに私の泊まったホテルくらいしか目につかなかった。ところが大分市には、マンションはもちろんたくさんあるが、それ以外の高い建物も、負けじとこれまた数多くある。しかも、かなり高い建物ばかりだ。私が泊まったのは、大分オアシスタワー・ホテルという地上21階の101メートルの建物で、出来たばかりの県立美術館と繋がっている。私は19階だったので、部屋からの眺めは非常に良かった。目の前にお猿さんで有名な高崎山があった。先月に、生まれたばかりの猿の赤ん坊にシャーロットと名付けて、英王室の赤ちゃんと同じ名前だと騒がれたので、最近は世界的に知られてしまうことになった。

大分オアシスタワー・ホテルからの眺め

大分オアシスタワー・ホテルからの眺め

 その日は、仕事のあとは早く寝て、翌朝は6時半に朝食をとり、すぐに別府に向かった。鉄輪(かんなめ)の「地獄めぐり」をしようというのである。いただいたパンフレットによると、「ここ鉄輪・亀川の地獄地帯は、千年以上も昔より噴気、熱泥、熱湯などが噴出していたことが『豊後風土記』に記され、近寄ることもできない、忌み嫌われた土地であったといわれています。そんなところから、人々より『地獄』と称せられるようになり、今も鉄輪では温泉噴出口を『地獄』とよんでおります」とのこと。これには地獄は8つあり、(1) 海地獄、(2) 鬼石坊主地獄、(3) 山地獄、(4) かまど地獄、(5) 鬼山地獄、(6) 白池地獄、(7) 血の池地獄、(8)龍巻地獄の4つだそうだ。しかし、時間が限られていることから、タクシーが回ってくれたのは、(1) 海地獄、(7) 血の池地獄、それにこれには挙げられていない天然記念物「坊主地獄」の3つのみで、間欠泉の(8)龍巻地獄は赤いランプがまだ点いていないから素通りした。そして、慌ただしく9時までには、大分駅前に帰り着くという強行軍だった。

海地獄



血の池地獄


 それはともかく、この地獄めぐりは、40年前と15年ほど前に来ていて、今回が3回目となる。今やどこの「地獄」も立派に整備されているので、往時と比べればそれだけでも感慨深いものがある。「海地獄」の青色は、熱帯の珊瑚礁を彷彿させるいわゆるマリン・ブルーで、とても美しい。この色は、昔と全く変わっていない。「血の池地獄」は、昔は赤い色がもっと強かったように思えて、おどろおどろしい気がしたものである。それに比べると今回は、大人しい赤色だった。最後の坊主地獄は、なるほど、温泉の泡が泥を持ち上げ、プクッ、プクッと出ている。その説明によると、「古くから名高い別府の三大地獄の中でも天然記念物 坊主地獄は伝説と景勝と共に随一の名勝と讃えられています。昔、鶴見の里と云われたこの地には延内寺という立派な寺があり、いで湯と霊泉の修養の聖地でした。ところが今から凡そ480年前の大地震の時、延内寺の床下から突然大爆発が起こり住職の円内坊は一瞬の間に噴き上げられ、地の底深く、姿を消していまいました。その後絶え間なく噴き上がる熱泥が坊主頭の様でしたので何時からともなく、坊主地獄と呼ばれるようになりました。当地獄は泥火山の特異な現象として高く評価され天然記念物に指定されています。」ということだった。なるほど、坊主頭か、さもありなん。それにしても、あり得る話だ。こちらが天然記念物だとすると、それではパンフレットにあった鬼石坊主地獄は、天然ではないということか?


天然記念物坊主地獄




 さて、慌ただしく大分駅に戻り、仕事と昼食を済ませて、国東半島にある大分空港に向かった。ところが、車で1時間もかかり、地方空港にしては珍しく遠い。いくつかお土産を見繕って、再び機内の人となった。今回は雲があり、とぎれとぎれにしか見えなかったので、どこを飛んでいるのかは、いまひとつ分からなかったのは残念である。







 佐賀大分への旅(写 真)




(2015年5月29日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:07 | - | - | - |
新潟の風景と佐渡の珍味


 新潟と佐渡ヶ島に一泊二日の駆け足で行ってくることになったが、予定を見ると朝から晩までぎっしりと詰まっている。自由な時間は、文字通りの早朝と晩遅くしかない。「せっかく時間と旅費を使って行くのだから、仕事はしっかりやるのはいうまでもないことだけれど、それにしても、仕事以外でも何か印象に残るものがないものか」などと思ったが、こんな過密スケジュールでは何ともやりようがない。そう思って上越新幹線Maxときに乗った。新潟市には、かつて40数年前に来たことがある。そのときは佐渡ヶ島の友達を訪ねるのが主な目的だったので、市内には泊まらず、ただ通り過ぎたにすぎなかった。だから新潟市の印象はとても薄く、中心部の道路は広いが、古い地味な建物が多くてあまり特徴のない街だったという記憶しかない。

朱鷺メッセ


 ところが今回、20階建ての「新潟日報メディアシップ」の最上階にあがってみると、ゆったり流れる信濃川の風情は変わらず、その先の日本海に接するところに31階建ての「朱鷺メッセ」という優美な姿を見せるコンベンションセンターがあった。青い空とマリーン・ブルーの日本海の色が、建物のガラスに反射して溶け込んでいる。なるほど、これが新潟のランドマークかと納得する。当初、こちらのホテルに泊まるつもりだったが、医系の学会が開催されるのと重なってしまい、満室で予約できなかった。ということは、閑古鳥が鳴いているというわけではなくて一応、ちゃんと設備が稼働しているということか・・・結構なことだ。


さて、夕刻のスケジュールが終わり、やっと自由な時間となる。とりあえず、どこか適当なレストランに寄って、地元の名物を食べて来ようと思った。ホテルの人に聞くと、新潟伊勢丹の7階に行くと、それなりのお店があるという。朝から車中と会議ばかりで運動不足だから歩く。バスターミナルの脇を過ぎて伊勢丹に着き、7階を巡っているうち、「越後長岡 小嶋屋」という蕎麦屋さんがあった。ああ、これだ、これだ。ここにしよう。当地に「へぎ蕎麦」というものがあったことを思い出した。北陸新幹線が出来る前は、東京から北陸方面に行くときには、越後湯沢駅でほくほく線に乗り換えたものだ。そのとき、乗換え時間の合間に改札口を出たら、駅構内に、へぎ蕎麦を出すお店があって、食べてみたところなかなか美味しかった。ちなみに東京でも、地下鉄千代田線の湯島駅の近くにこれを出すお蕎麦屋さんがある。

ところで、「へぎ蕎麦」は海藻をつなぎに使ったものだという知識はあったが、それをこの「越後長岡 小嶋屋」さんのHPは、次のように伝えている。「へぎそばといえば近年では関東でも知られた名前になりましたが、ではこの『へぎ』とは一体なんでしょう?この『へぎ』、実は『剥ぐ=はぐ=へぐ』のなまりで、木を剥いだ板を折敷にしたもののことであり、ざるそばやせいろ同様、『へぎ』という器に盛られたそばのことを言います」とある。私はてっきり、蕎麦の名称と誤解していた。江戸時代には、「当時この地方では小麦の栽培は行われておらず、そばのつなぎにはもっぱら山ごぼうの葉や自然薯などを使っていました。ただ、この地方は織物の産地であり、織物の緯糸(よこいと)をピンと張るためにフノリ(=布海苔)という海藻を使っていましたので、このフノリは容易に入手できる環境だったのです。そこで[小嶋屋初代の]重太郎は『このフノリを使ってそばはできないだろうか』と研究を重ね、現在のフノリそばを完成させたのでした」とのこと。



 この伊勢丹の小嶋屋の支店で私は、天麩羅へぎ蕎麦を注文してみた。私はほとんど酒を飲まない性質なので、メニューの写真が酒を飲むことを前提に蕎麦の量が少な目になっているのが少し気になり、蕎麦の大盛を頼んだ。やがて持ってきた料理を一見すると、天麩羅は衣が厚すぎて、あまりヘルシーとは言い難い。ただ。味は良かった。まあ、カロリーが高い分、蕎麦で調整するようなものである。ところで肝心の「へぎ」に盛られた蕎麦は、なかなか美しく盛り付けられている。たれに付けて一口、食べると、ひんやりした滑らかな食感で、つるつるっと口に入っていく。出雲のわんこ蕎麦のように、これでは、いくらでも食べられそうだ。私は、織物工場に行って織布のときに使う「のり」を見たことがあるが、てっきりあれはお米から作っている糊だと思っていた。ところがそれがここでは「布海苔」だったとは知らなかったし、ましてやそれをこうやって蕎麦として食べるとは思いもしなかった。

メディアシップ


 さてその翌朝、午前7時に起きてホテルの朝食をとり、カメラを持ち代橋を渡ってその「新潟日報メディアシップ」まで歩いて、ちょうど8時に着いた。そのときの展望フロアからの眺めは誠に良くて、眼下には水量豊かな信濃川が日本海に向けて流れている。通ってきた萬代橋は、重要文化財だそうだ。港の方には、地上143メートルの高層ビル「朱鷺メッセ」が非常に目立っている。反対側に目をやると、まだ雪をいただく山々が見えたので、それでやっと新潟に来た気がしたものである。

まだ雪をいただく山々


高速船ジェットフォィル


 午前9時に新潟港に向けて出発し、すぐに佐渡汽船の乗り場に着いた。佐渡ヶ島に向けては、従来通りのカーフェリーと高速船ジェットフォィルという2種類の船があり、前者は2時間半(料金は1等3,570円、2等2,510円)、後者は65分(同3,520円)である。ところが高速船は天候が荒れると運休になることもあるというので気になっていたが、幸いこの日は天候も穏やかで無事に出発することができた。ジェットフォィルというのは、船体の前後に水中翼があり、強力なポンプでくみ上げた海水を噴射させてその反動で進む船で、海面上1.5mを浮いて時速80km航行する。私は乗るのは初めてで、昔のコンコルドのようにエンジンの音がうるさいかもしれないと思って乗ったが、とても静かで、しかも海面上を浮いてそんな高速で走っているとは全く思えないほど滑らかな乗り心地だった。ただ、船室から外を見る窓が汚いので、せめてガラス掃除くらいすればよいのにと思った。



 そのジェットフォィルで佐渡ヶ島へと無事に渡り、仕事をすませてお昼になった。近くの料理屋「魚処 かすけ」で食事をすることになって、メニューを見たところ、普通の定食とは別に、「鮑の踊り焼き」というものがあった。いささか高いが、せっかく来たのだからと、同席の皆さんにも食べていただくことにし、注文してみた。すると、ご覧のように鮑を丸ごと1個、七輪の上にて焼くものだった。鮑が殻付きのまま火にかけられている。よく見ると鮑が身をよじるように動いている。あれあれ、要するに、生きているのだ。いささか残酷な感もするが、新鮮そのものである。数分経ったらひっくり返して裏面をまた火にあぶる。そうして食べてもよい頃となる。ナイフで身を切り分けると、肌色の身が出てくる。それをフォークで刺していただく。ほのかに磯の香りが鼻の中に広がったかと思うと、海産物の旨味が口の中いっぱいに満たされている。生の鮑の身は、コリコリしているが、こうやって火を通した鮑の肉は、弾力性はあるものの、柔らかい。また、肉以外の身は、さざえのように苦くもなくて、そのまま全部を美味しく食べられた。定価2,700円也。


 この鮑は、記憶に残る味となった。また、それとは別に「ふぐの子粕漬け」というものを注文した。これは佐渡ヶ島在住の友人が教えてくれたものである。佐渡沖で毎年6月から7月にかけて採れる「ごまふぐ」の卵巣を2年以上塩漬けして毒抜きし、更に酒粕で1年間漬けて熟成させたという料理だという。日本では佐渡特有のもので、永年の伝統と優れた技術がもたらす最高の珍味とのこと。眼の前に出されると、意外に大きいし、3年前のものにしては卵の原形を保っている。もしこれが採れたときに食べたなら、フグ中毒で確実に死んでしまったのかと思うと、神妙な気がする。一切れを口に入れた。たらこより粒がしっかりしている感触だ。すると、酒粕のために確かに日本酒のような味わいがする。しかし、とても塩っぱい。既に酔っ払っている酒飲みだと、わからないかもしれないが、これをたくさん食べるのは、素面の身にはなかなか辛いものがある。ということで、二切れをいただいて、後は同席の人に譲ることにした。しかし、考えてみると、これはすごい技術である。フグ毒のテトロドトキシンは青酸カリより強力だが、それを無害化するとは・・・乳酸菌が分解してくれるらしい。「永年の伝統と優れた技術」という売り文句のとおりである。定価594円也。なお、平成20年3月12日付けの朝日新聞に「名品の舞台裏にいがたの味」という題で、これを作っている「須田嘉助商店」の記事がある。






 新潟の風景と佐渡の珍味(写 真)




(2015年5月22日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:37 | - | - | - |
徒然284.箱根・山のホテルつつじ祭り

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 箱根の芦ノ湖畔に、山のホテル(小田急系)があり、そこの庭園でつつし・しゃくなげフェアが行われて観光客を惹きつけている。つまり、ちょうど躑躅と石楠花が満開なのだが、それと背景の富士山が同時に見られて、何とも美しい風景なのである。また、反対方向に目を転ずれば、ホテルの建物とともに芦ノ湖を一望することもできて、これまた美しい。躑躅は人の背丈以上にもなって、こんもりとしているし、石楠花も木の丈いっぱいに花を咲かせている。これは別格の庭園だと思ったら、それもそのはずで、岩崎家の別邸だったところで、明治の頃イギリスから苗を取り寄せたという。ホテルだけでなく庭園自体も、最近、改修されて歩き回りやすくなった。

 さて、また富士山と躑躅に話を戻すと、赤、白、ピンク、紫などの躑躅のこんもりとした木々に背景に白い雪を被った頂を見せる富士山は、何回見ても素晴らしい。加えて、視界の左手にある三本の木がまた、風景全体にアクセントを添えている。また、庭園の右奥に上がっていくと、たくさんの石楠花の木があって、これまた白、ピンク、紫などの花を咲かせている。それらに目を奪われていると、どこからか「ホーホケキョ」と鶯の鳴き声がして、何とも風情がある。しばし滞在し、お昼は和食処で食事を済ませた。それから、芦ノ湖畔の散策道を元箱根の方向へと歩いて行った。新緑の季節なので緑がまぶしいくらいである。箱根神社あたりで湖の方を見ると、遊覧船、特に海賊船が大忙しで、着いたと思ったらもう乗客を乗せて元来た航路を戻っていった。湖畔の料理屋兼休み処に入ると、お客の半分以上は欧米系の外国人で溢れ返っていた。でも、店員さんが片言の英語でちゃんと対応している。日本も、なかなか捨てたものではない。




















 山のホテルつつじ祭り(写 真)




(2015年5月17日記)


カテゴリ:徒然の記 | 23:53 | - | - | - |
タイ・フェスティバル 2015年

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 代々木公園は、昨年夏以来のデング熱騒動で、その最初の発生地になってしまったことから、それ以来あまり近づかないようにしていた。というのは、デング熱には特効薬も予防薬も開発されていないからであり、しかも私が東南アジアで見聞きしたところでは、一度罹患して得られた免疫ですら1ヶ月しか続かないからである。現に私の知人は、デング熱で高熱を発して寝込んでしまったが、せっかく治ったのにまた1ヶ月もしないうちに再びデング熱に罹ってしまった。よほどデング熱を媒介する蚊がたくさんいる地域に住んでいたのだろう。また、別の人の話だが、その奥様は初回に罹ったときには割と軽症で、さほどのことがなく順調に治ったのに、2度目に罹ったときにはいわゆるアナキフィラシー・ショックを起こして亡くなってしまったとも聞いたことがある。これは体質によるから一概にいえないが、いずれにせよ、デング熱に罹らないに越したことはない。

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 ところが、本年は5月16・17日と、代々木公園で例年通りタイ・フェスティバルが開かれている。前回は3年前に行ったが、とりわけタイ舞踊は、なかなか魅力的だ。これを見逃す手はない。一瞬どうしようかと思ったが、梅雨明けならともかく、いまはデング熱の蚊が飛ぶにはまだ早いと思って行くことにした。そういうわけで、あまり事前に調べていかなかったから、舞台で人形劇などが行われたのに見逃してしまった。代わりに、司会の話では「タイの人間国宝」という年配の女性が出てきて、歌を歌い、その後ろでダンサーが踊っていた。しかし、それにしても、会場にはタイ料理の出店がいっぱい並んでいて、それぞれのお店には、どんな料理を売っているかがわかる絵入りの看板があった。いわば、写真付きの巨大なメニューである。各店それぞれで、それらを見て回るだけでも面白かった。

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 実は、2つ、お目当ての食べ物があった。それは、先日のバンコク旅行のときに食べられなくて、いささか心残りだったデザートのカオニャオ・マムアン(マンゴー、ココナツミルク、もち米)で、これがもしあったら食べてみたい。それに、出来ればドリアンがあれば、これも食べてみたいというものである。探すまでもなく、カオニャオ・マムアンは入口近くで売っていた。それも、一応綺麗なカバー付きのトレイに入っていたので、買ってみた。マンゴーは甘いし、もち米とココナツミルクもよい組み合わせで、なかなか美味しいものだった。

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 次にドリアンだが、さっと見渡しても見当たらない。そこで案内所で聞くと、フルーツ市場というのがあるので、そちらに行ったらよいという。指示の通りに向かってみると、色々なフルーツが売られていて、あったあった、ドリアンが。そのほか、マンゴ、マンゴスティン、ドラゴン・フルーツに、ランブータンまであった。最後のランブータンは、緑色と赤色が混ざったような色をしていて、表面にもじゃもじゃと髪の毛(マレー語で「ランブート」)のようなものが出ている果物である。実は、東南アジアに住んでいたときに、自宅の庭にこの木があって、季節になるとこの果実がたくさん生っていたので、懐かしい。実を剥いてみると、ライチーのような白くて半透明の中身が出てきて、非常にあっさりとした味で美味しい。それはさておき、果物の王様のドリアンは、丸ごと1個が4000円だ、しかし、ひとりでこれを食べるのは多すぎる。というわけで、カップに入れられた一切れ500円を買ってみた。一口食べると、誠に美味しい。ジューシーで、良質のチーズとクリームを合わせたような、これぞ天国の味である。

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 さて、満足して帰ろうとしたところ、入り口近くにタイ美人が3人いて、「Miss Thailand」の襷を掛けている。なるほど、確かに美人さんたちなのだが、日本のどこにでもいるお嬢さんたちの顔のようにも見える。そういえば、日本の女優さんにも、この手の顔の人がいなかったかと、つい思ってしまうほど近しい気がする。ともあれ、その合掌のポーズといい、優雅な身のこなしといい、なかなか魅力的なお嬢さん方だった。

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 帰りがけに、代々木公園の中を通って千代田線の明治神宮原宿駅に向かったが、少し寄り道してバラ園に立ち寄った。古河庭園とはまた違った種類のバラも植えられていて、今を盛りとばかりに咲きほこっている。それにしても、公園内を行きかう人々の数は多く、芝生にも大勢の人々が座り込んでそれぞれに楽しんでいる。昨年のデング熱騒動がまるで嘘のようだった。日本人は、忘れやすいのか、図太いのか、それともデング熱の怖さを知らないのか・・・。どれも当たっていそうで、それがまた怖い。

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 タイ・フェスティバル(写 真)




(2015年5月16日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:59 | - | - | - |
徒然283.青和ばら公園


 青和ばら公園(東京都足立区青井3丁目18−15)という公園がある。つくばエクスプレス線で北千住駅からわずか一駅の青井駅からほど近いところにある。都営住宅や普通の民家を抜けていくと忽然と現れて、薔薇ばかりが植えられている。ベンチでは近くのおばあさんたちが世間話をしたり、買い物で余ったキュウリをあげたり、貰ったり、とても庶民的な公園だ。

 普段は、わざわざ来るようなところではないかもしれないが、この季節は、主な薔薇100種類が、大きなヤシの木やドームを背景に咲き乱れている。それも、ノック・アウト、ラ・フランス、プリンセス・ミチコ、芳純、ホワイト・クリスマス、パパ・メイアン、プリンセス・ドゥ・モナコ、ケアフリー・ワンダー、ゴールデン・ボーダー、クイーン・エリザベス、ブルー・ムーン、かぐや姫、ブルー・ボーイ、シャルル・ドゥ・ゴール、ヨハン・シュトラウス、月光、ピース、リオサンバ、楽園、アプリコット・キャンディ、アシュラム、エアフロイリッヒ、アンドレルノートルと、本格的なものばかりで、単なる住宅街の公園として捨てておくには、もったいないほどである。





















 青和ばら公園(写 真)は、こちら




(2015年5月10日記)


カテゴリ:徒然の記 | 23:20 | - | - | - |
バンコクお寺巡り

ワット・トライミットで建物の外にあった仏様。表情が上品で、慈愛を感ずる。


 久しぶりの休日、タイのバンコク市内の寺院巡りを楽しんだ。それにしても、この地は暑い。外に出ると強い日光がジリジリと照りつけるし、何よりもムーっとする熱気が身体にまとわりつくから肺の中にまで暑い空気が入ってくる。それに幹線道路沿いでは排気ガスがひどくて臭い。かつて、タイの隣国で3年間を過ごしたことがあるが、これほど暑くて臭いことはなかったと記憶している。暑さについては、地球温暖化のせいか、それともシャム湾の奥まったところにあるというバンコクの地形によるものか、よくわからない。ホテルで見かけた日本人らしき観光客が、ジャングル探検のようなダブダブの半パンをはいている理由がよくわかった。こういうところは、エアコン付きの車でサーっと回るのが一番だ。でないと、無駄に体力を消耗する。前日、ホテルのコンシェルジェに個人ツアーを頼んでおいたので、朝の9時にガイドさんと待ち合わせた。半日で2,100バーツ(7,566円)と、いささか高かったが、1人だからやむを得ない。ちなみに、あと1人増えるごとに500バーツ(1,800円)だから、人数が多いほど1人当たりの料金は安くなる仕組みである。

 さて、そのガイドさん、通称サニーさんと、8人乗りくらいの、割ときれいな車に乗り込んだ。サニーさんは40歳くらいの女性で、典型的なシャム系の顔。短く刈ったモジャモジャした髪を金髪に染めているから意外な気がした。英語とドイツ語ができるという触れ込みだ。英語はかなり上手なのだが、語尾にやたらと「Baby」と付けるのが聞き辛い。いや、こそばゆくてかなわない。私は「Baby」どころか、「おじさん」、ひょっとして「おじいさん」なのだけどと思いつつ、何かのついでに理由を聞くと、やはりドイツ人のボーイフレンドがいたそうだ。さもありなん、お付き合いをする中、英語とドイツ語を実践で学んだものだろう。


ワット・トライミット


中華街のヤワラートの門


 まず最初は、ワット・トライミット(黄金仏寺院)を訪れた。中華街のヤワラートの門が、すぐ裏手にある。寺院の門をくぐると、白い建物だが、屋根からまるで天上の世界に繋がっているように金色に輝く装飾が、上の真っ青な空へと伸びている。これが独特の雰囲気を醸し出している。建物の正面には国王の肖像画が飾られ、とても知的なお顔をされている。王家への尊敬の念の篤さが見てとれる。建物の中に入るには、大理石の上で靴を脱ぐのだが、そこに日光が当たっていると、足の底が燃えるように熱い。私は靴下を履いていたから、さほどでもなかった。しかし、同じ参拝客の中には素足にサンダル履きの白人女性がいて、そういう人はとても熱そうで、爪先立ちであわてて中に走って入っていった。

ワット・トライミットのご本尊


 その熱い大理石のゾーンを通り抜け、階段を上がって黄金仏の前に立つ。半跏、つまり片方の足を他方の大腿部の上に置いて座っておられるが、日本で見かけるような半跏思惟像ではない。両手はむしろ体の前に垂らしてある。右手は五本の指を揃えて膝に乗せ、それを自然に前に垂らす形をとっている。左手は掌を上に向けて膝の上に乗せている。金色にピカピカ光るお顔は、薄く開いた眼を下に向けて何か瞑想しておられるようだ。その前にオレンジ色の袈裟を着たお坊さんがいる。ひざまずく参拝客の右手に紐のようなものを繋げ、それを巻いてひと結びし、ハサミでパチンと切ってブレスレット様のものを作ってあげている。仏様との縁を繋げているとのこと。実は、ガイドの案内で私もやってもらったが、それを右手に付けてもらっただけならまだしも、水を含んだ短い竹の箒みたいなものでバシバシ頭を叩かれたのには参った。

ワット・トライミットの合掌の仏様


 もうひとつの建物で、やはり黄金仏を拝見したが、こちらは合掌されている。まだ近しい感じはするものの。日本の煤けたような年代物の仏様をたくさん見慣れた身には、どこか落ち着かない気がした。というのは、こちらの仏様は、確かに美しいけれども、これでもかとばかりにピカピカ光って辺りを睥睨するかのような感じがしたからである。表情もうかがえない。でも、これも慣れの問題かもしれない。ガイドに仏様の由来を聞こうとしたが、よく知らないようだった。ただ、日本の運慶、快慶のような個人の名前が残っているわけではなく、工芸作家のグループが作っているというようなことは言っていたが、本当かどうか。

ワット・スタット


ワット・スタット


ワット・スタット


 その次のワット・スタットテープワララームは、ラーマ1世が建立したお寺が元になっている。ネットで調べてみたところでは、礼拝堂の本尊は、1808年にわざわざスコータイから運ばれてきた8mのシーサーカヤームーニー仏で、14世紀に鋳造されたものとのこと。やはり半跏像であり、右手を膝に乗せて下に垂らしているのは勝利宣言の印だそうだ。仏様の周囲に描かれた壁画も、なかなか趣があってよいが、それにしてもどこかで見かけたと思ったら、前日の夜にネクタイを買いに行ったジムトンプソンの包み紙とそっくりだった。なお、このお寺には、まるで日本の鳥居を髣髴させる赤い大きな枠組みがあった。ガイドによると、実はこれは「サオ・チン・チャー」とよばれる巨大なブランコで、昔は本当にお坊さんが乗って地面に水平になるまで漕いで天上世界に近づいたそうだ。しかし、落下事故が相次いで、1935年以降は使われなくなったという。まるで、漫画のような話だ。

ワット・ポー


ワット・ポー


ワット・ポー


 ワット・ポー(ワット・プラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム=ラーチャウォーラマハーウィハーン、涅槃寺)は、アユタヤ王朝末期のプラペートラチャ王時代(17〜18世紀初頭)に建立されたといわれるバンコク最古の寺院という。横になって寝そべっている全長46メートル、高さ15メートルの涅槃仏で有名なお寺である。私がついうっかり「Sleeping Buddha」と言ったら、ガイドに「No it's the Reclining Buddha」と直されてしまった。確かに、上を向いて寝ているわけではなく、横を向いて目を開けていらっしゃる。でも、「Reclining」だと、私は座椅子や電車のシートを思い出してしまうから、横になって寝そべる姿を表現するには、どうもしっくりこないのも事実である。

 さてその涅槃仏は大きい。その前に柱がたくさんあるから正面の全身写真が撮れない。背後からなら撮れるから、何とかならないかという気もするが、これもタイ風の有り難みを醸し出す手段なのかもしれない。涅槃仏は、全身が金箔で覆われており、目もぱっちりして可愛さすら感じる。足の裏には指紋風の渦巻きがあり、また螺鈿で何かが描かれている。インドと中国とタイの混合したもので仏教に関することだそうだ。なお、この寺の敷地内には、マッサージ学校があり、医療とともに衆生の苦しみを和らげるものだという。同じお寺の境内に、仏様の高い立像があった。なかなか、すっきりとしたお姿で、光の当たり具合のせいか、お顔がよく見える。私の気に入った仏様のひとつである。


ワット・ポー


ワット・ポー


ワット・ポー


ワット・ポー


ワット・ポー


 実は、これらのお寺にくわえて、ワット・プラケオ(エメラルド寺院)にもぜひ行きたかったのだが、あいにくこの時期は、御釈迦様の入滅の儀式の準備の関係で、一般の参拝はできなかった。また、次回に訪れるとしよう。

 なお、バンコク旅行の注意点として、タクシー、あるいはそれに代わる手軽な乗り物であるトゥクトゥクの乗り方がある。問題は運転手にあり、あまり良い印象がない。どの運転手も英語がほとんど通じないか、あるいは通じないふりをしているのに加えて、実に不誠実である。例えば、空港でタクシーに乗ったのに、運転手は英語が話せない。ここまでは日本を訪れる外国人と同じかもしれない。そこで、ホテル名を英語で書いた紙を見せた。タイ語でないとわからないらしい。仕方がないので、グーグルマップを出してそれを拡大したら、かなり小さめの字であるがタイ語表記があったので助かった。次に、タクシーは一応メーター制なのだが、目指す場所に一直線に行くのではなくて、かなり遠回りをして料金を稼ごうとするので困る。大したお金でもないから好きなようにさせておくのも一案だが、そうすると他の観光客にも間接的に迷惑が及びかねない。だから、グーグルマップで現在地を確認して、道を外れるようだったら、運転手に注意するようにした。料金的には、グーグルマップを動かす通信料金の方がはるかに高いから、そんなことをするのは損なのだけれど、妙なところに連れて行かれても困るので、セキュリティ確保の一環でもある。


トゥクトゥク


 それにしても困ったのは、トゥクトゥクである。あるとき、ホテルからタクシーでわずか60バーツほどの料金の所に来て用事を済ませ、またタクシーで帰ろうとした。昼間のことである。ところが、近すぎたのか、3台もタクシーを止めたけれど、乗せてもらえない。仕方がないので、初めてトゥクトゥクに乗った。しばらく行って、運転手が2本の指を示すので、「20バーツか、そんなものかな」と思ったら、何と200バーツだという。大した額ではないが、外国人がこのように甘く見られても困る。そこで、「ここに来るときはタクシーで60バーツだった。それは高い。60以下にすべきだ」というと、「150でどうだ」、「ダメだ。だいたい、タクシーより高いトゥクトゥクはない」、「では、100にする」、「ダメだ。まだ高い」などとやって、そのうちホテルに着いたので、ドアマンの前で60バーツを支払って、ゆっくり降りた。今から思うと、乗る前に料金を交渉すべきであった。運転手にも生活がかかっているのだろうが、外国人観光客の一人として、不合理なことには相手の言いなりにならないことが大事だと思う。いずれにせよ、重要な公共交通機関がこの有り様では、安心して観光ができない。





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(2015年5月4日記)


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