小江戸 川越祭り 2014年

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 川越祭りに行って来た。2014年10月18日の晴天の土曜日のことである。ちなみに、前回この祭りに行ったのは、2005年10月15日だったから、それから9年もの月日が流れている。前回は昼だけの見物だったが、今回は夜の祭りも見物したいと思っている。川越は池袋から行くと東武東上線の急行でわずか30分の距離で、意外と近いという感じである。私はこの方面には疎くて地理をあまりよくは知らないが、川越には東武東上線の川越駅と川越市駅、そして西武新宿線の本川越駅があるようだ。もちろんそれぞれは別の駅だが、地図を見ると、このお祭り見物には本川越駅の方が近くて便利である。しかし東武東上線を選んだので、午後1時半頃に、わざわざ一番遠い駅に着いてしまった。午後2時には、川越市役所で「山車揃い」と称して山車が何基か揃って居囃子を披露するという。だから、それまでに到着しなければいけない。今から思うと、川越駅から川越八幡宮の脇を通って普通の街並みの間をすり抜けて行き、大手町経由で川越市役所にようやくたどり着いたのである。知らない道なので長く感じたが、わずか20分くらいのものだったろうか。

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 市役所の前には大きな駐車場があり、そこから市役所のすぐ前に立ち並んで勢揃いしている山車を見物するという趣向であるが、惜しいことに市役所の建物が大規模修繕中なので、何しろ背景が悪くて、せっかくの山車がさほど美しいとは感じないくらいだった。それでも、猩々(川越市)、日本武尊(宮下町)、天鈿女命(大手町)、牛若丸(元町一丁目)などが我々観客の目を楽しませてくれた。これらの山車はいずれも、台座(せいご台)があって、それに縦二段の箱(鉾)がある構造で、下の箱には屋根がせり出していて、囃子台が設けられている。そこの中の向かって左手で、おかめ、ひょっとこ、狐、獅子などが演じ、その真ん中に笛の吹き手や鉦のならし手、左右に太鼓たたきが配置されていて演奏する構造である。その下の箱の上に乗っている箱は、下から上へとせり出す仕組みとなっている。その上の箱のさらに上に、日本武尊やら菅原道真やら羅陵王などの人形が1基だけ乗っている。これらの人形も、上にせりだす構造なので、私が見ているときにするするするっと下がって、首だけを出している状態になったこともある。また、これらの囃子台には精巧な欄間や唐破風が、縦二段の箱(鉾)には金襴緞子の飾りがあって、非常に見応えがある。夜になると、これらの唐破風や鉾の周囲に丸い提灯が付けられ、極彩色となって、それはそれは見事である。

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 いただいたパンフレットによると、まず歴史であるが、「慶安元年(1648年)、当時の川越藩主である松平信綱が、氷川神社に獅子頭や神輿などの祭礼道具を寄進したことに始まります。それから3年後、神輿行列が初めて町内を渡御。その行列の後を、超に形は仮装して随行しました。これが、川越祭りのルーツです。当時、新川岸舟運によって江戸との交流が深かった小江戸川越。やがて祭りの形態は江戸天下祭の影響を強く受け、絢爛豪華な山車が曳き回されるようになります。江戸の祭りは神輿主体に変わりましたが、川越祭りはかつての江戸天下祭の様式や風潮を今に伝えています」とのこと。また、この絢爛豪華な山車は、川越名物の「時の鐘」や「蔵造りの街並み」とよく似合う。

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 また、囃子もなかなか聞き応えがある。これについては「山車と並んで川越祭りに欠かせない囃子。文化・文政時代に江戸から伝わったもので、源流は葛西囃子です。流派は大きく分けて『王蔵流』、『芝金杉流』、『堤崎流』があります。笛1人、大太鼓1人、小太鼓2人、鉦1人で編成され、流派によって、リズムやメロディーに微妙な違いがあります。宵山では、提灯に明かりが灯り、幻想的に浮かび上がる山車の姿とともに、囃子の音色に耳を傾け、流派の特徴をじっくりと楽しむことができるでしょう。曲目は、屋台・鎌倉・ニンパなどがあり、これに合わせて天狐、おかめ、狸などの面を付けた踊りが披露されます」との由。ただ残念ながら私には、いくつかの山車で演奏された囃子を聞いても、それがどう違うのか、恥ずかしながら全く聞き分けられなかった。ただ、狐のいかにも野性的な踊りや、おかめ・ひょっとこのひょうきんな踊りを心から楽しむことができた。またあるときには、囃子台から獅子舞が降りてきて、その辺の子供や大人の頭を噛んで歩き始めたとき、私の回りの子供たちが怖くて泣き叫んで逃げて行った。仕方なく、一人残された私が、獅子舞の口に頭を差し出して挟んでもらったことがある。

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 その後、近くの喫茶店に入って食事をした後、午後7時から札の辻の交差点で行われる曳っかわせ(ひっかわせ)を見物するために歩いていった。これは、「川越祭りの一番の見どころ。山車が各町内の会所前にさしかかる時や、他の山車とすれ違う時、山車の正面を向け、街どうしの挨拶として囃子の儀礼打ちを行います。交差点などでは複数台の山車が集まり、舞台が回転して囃子の競演を行う様子は圧巻です。特に夜の曳っかわせは、曳き手の提灯が乱舞し、囃子方への声援が飛び交い、祭りのムードは最高潮に達します。」とある。いや全くその通りで、札の辻の交差点では都合4台の山車が集合し、それらの囃子台がいずれもくるりと交差点中央部を向いて、ひょっとこ、おかめ、狐などが各々踊りを演じ始める。すると、たくさんの曳き手たちが縦長の提灯を振りかざして、掛け声をかけながら飛び跳ねて応援する。山車の提灯は揺れるしで、辺りは見物人も含めて祭りの興奮の坩堝の中にたたき込まれているようである。カメラで写真を撮るどころではない。久しぶりに、見物していて、ついつい私も気持ちが高ぶってしまった。

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 その札の辻での曳つかわせが終わり、4台はそれぞれ離れていったので、私も川越の「蔵造りの街並み」を本川越駅方向に歩いていった。満員電車並みのたいへんな人混みである。その途中に会所があると、進んできた山車がその前に停まり囃子台の舞台がそちらの方へとぐるりと回転して、特別に演ずる。それを応援すめために、縦長の提灯を振りかざす曳き手たちが「せーのぅ」という合図とともに「わっせ、わっせー」とばかりに飛び跳ねる。もみくちゃになりながら、それを飽かずに見物する私がいる。この蔵造りの街並みは、明治26年(1893年)の川越大火という未曽有の惨事の経験から、その際に焼け残った建物が蔵造りであったために商人たちが競って自分の商家をこの様式で造ったことによるのだという。光り輝く提灯に照らされた色彩豊かな山車がその黒っぽい蔵造りの商家の前を通っていく姿は、なかなか幻想的である。

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 そうしてようやく、西武新宿線の本川越駅にたどり着き、そこから所沢駅で乗り換えて池袋駅に向かい、家に着いたのは午後10時頃だった。疲れたが、絢爛豪華な江戸の雰囲気を味わった実り多い1日だった。ところで、今回の川越祭りを見物して気が付いたことは、おかめの舞い手、笛の吹き手や太鼓手などに、女性が活躍していることである。先般、秩父祭りに行ったときには、ここ川越にも勝るとも劣らないほどのあれだけの大祭なのに、地元でも女性は参加していないことに気付いた。商店に入っておかみさんと話していると、「秩父祭りは伝統的に男だけで、たとえば自分は嫁いできて40年になるけれども、いつもお留守番だから、ただの1回も参加していないし、見たこともない」と語っていた。その点、川越祭りは女性の力がないと全く成り立たないようだ。また、山車の曳き回しでは、先頭に近いところにいる可愛い手古舞(てこまい)衆というお嬢さん方が花を添えている。川越祭りを紹介するHPによると「吉原つなぎの着物に緋ちりめんの右肩を3枚、5枚と肌脱ぐ。黄八丈のたっつけ袴をはき、名入りの提灯と金棒をもつ様子は、祭りに華をそえる小江戸小町の見せどころ」だそうだ。


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(2014年10月18日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:53 | - | - | - |
金閣寺・東大寺と同窓会

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 大学入学以来45年になるのを記念して、京都で大学教養部時代のクラスの同窓会が開かれた。前回の40年記念のときには、30名が集ったが、今回もそれとほぼ同じ人数が集結した。前回の同窓会は東京で開催し、その模様は「ベスト・アンド・ブライテスト」という題名でエッセイを残してあるので、今回のものと併せて読んでいただくと面白いかもしれない。ところで今回の同窓会の会場は、京都市役所北隣にある「フォーチュン・ガーデン」という築85年の「島津製作所旧本社ビル」を改装した結婚式場を兼ねたフランス料理店で、竹と池のある庭を眺めながらの優雅な会食ができる処である。ところで、今回は10月12日の夜の予定であり、11日から13日までの中日にあたる。それでは、この機会に初孫ちゃんに京都と奈良を見せてあげようと、家内とともに3人で行くことにした。

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 10月11日のお昼に京都駅新幹線八条口に降り立ち、喫茶モーツアルトの前から出るホテル行のシャトルバスに乗り込んだ。ホテルは堀川五条にあり、ちょうど10月なので、ハローウィンの飾りつけが面白い。ベルキャプテンにトランクを2つ預けて、金閣寺に向かった。あのようなキラキラ光るお寺の方が、もうすぐ6歳の若い頭脳の記憶に残るかもしれないと思ったからである。ちなみに、同窓会のメンバーのその日の過ごし方はまちまちで、昼から集まって一杯やっている連中がいるかと思えば、奥さんとじっくり大学構内を歩き回った人もいる。変わったところでは、大文字山に登ってきたという元気な人もいた。もちろんこれには、同行者は皆無だったそうだ。

 さて、この日の金閣寺(鹿苑寺)は、青い秋空に白い雲が映え、夕日に照らされた金閣舎利殿の金箔が光り輝き、またそれが鏡湖池面に映って逆さ金閣となり、本当に美しい。思わず溜め息が出るほどだ。さすが、「極楽浄土をこの世にあらわした」と言われるだけのことはある。まるでポスターのような写真が撮れそうだと嬉しくなって、位置を変えながらシャッターを切り続けていて、思わず初孫ちゃんの存在を忘れるほどだった。それから鏡湖池の周りを回って安民沢と白蛇の塚の方へ行き、売店の近くから寺域を出たが、その途中、初孫ちゃんがありとあらゆる賽銭箱にお賽銭を入れてお参りをしてくれた。普段から近くの神社に参拝しているから、そのお参りの仕草は、なかなか堂にいっていた。また、この日は入口に近くに鐘を撞かせていただけるようになっていて、初孫ちゃんも一つ撞いて、小さな手を合わせ合掌をしていた。

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 次いでこの日は、弥栄会館の祇園コーナーの公演を見物に行った。これは京舞・華道・茶道・琴・雅楽・狂言・文楽という日本が誇る7つの伝統芸能のさわりが1時間くらいで一気に演じられるもので、修学旅行生などの団体や外国人観光客が見物するのに向いている。要するに、ちょっと手軽に伝統芸能を味わおうというときにちょうど良い。だから初孫ちゃんにはこのくらいが適当でよいだろうと思い、行くことにした。こういう時には、ビデオや写真を撮りたいからかぶりつきに座るのが上策なのだけれど、幼児連れではそう機動的には動けない。午後6時からの公演で、30分前から並ぶことになっていたようだが、5時45分ほどに着いた頃には既にかなりの人が前にいた。だから、最前列ではあるが、かなり脇の方になってしまった。

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 茶道は私たちの席とは反対側でやっていたので、残念ながらあまり見えなかった。琴は、なかなか良い音色と調べではあったものの、残念ながら演奏が短すぎる。華道は、実は何をやっていたか良くわからないまま終わってしまった。あのような杉の葉みたいなものを生けて緑一色のつまらない生け花を作るのでなくて、もっと花を多く使ってカラフルに生けるべきではなかろうか。だからこれらは、落第点。雅楽は、宮中での催しで時折、見物させていただく機会があり、まさにそのものが演じられていた。よってまあまあの及第点。次に、狂言の「棒縛り」は、主人のいない隙に酒を飲む太郎冠者と次郎冠者に手を焼いた主人が、外出前に二人を縛り上げておいたところ、その恰好でも二人は酒を飲み機嫌よく宴会を開いていたというお話である。3人の息が合った良い演技だったので、高得点を与えたい。

 その次の舞妓さんが踊る京舞であるが、祇園小唄の定番を含めて2曲踊っていて、私は何回見ても飽きない。今回も良かった。だけど、残念ながら舞子さんの数はひとりだったので、これが惜しいところで減点するが、それでも及第点としよう。最後に、文楽の八百屋お七は、人形に女性の情念がこもっていて、鬼気迫るほどであった。思わずぞくりとしたので、最高点を進呈したい。そういうわけで、写真やビデオを撮りまくっていた後、ふと思い出して隣の初孫ちゃんの方を見ると、すやすや寝息を立てて見事に眠っていた。家内によれば、狂言のときはまだ起きていたけれど、舞妓さんが出てきて直ぐに眠ってしまった由。まあ、こんなものだ。

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 翌10月12日は、奈良に行ってみることにした。近鉄で行こうかそれともJRにしようかと思って京都駅に着いたところ、JRに「みやこ路快速」というものがあって46分で着くらしい。これは便利だと思って、それに乗った。初孫ちゃんは、先頭車両の一番前が見えるところに陣取り、すっかり運転手気分でご機嫌さんだ。たまたま乗ってきた知らないおばさんと話をしていて、盛り上がっている。絶好調のようで、誠に結構なことだ。途中、心配になったか、私のところにやってきて「どこで降りるの?」と聞くので、「奈良だよ。終点さ」というと、コックリ頷いてまた先頭に戻って行った。

 やがて奈良に着き、駅舎から出たところでタクシーに乗って、「東大寺大仏殿に一番近いところまでお願いします」と言った。やがて大仏殿に着き、ぐるりと回って拝観の窓口に着いた。青い秋空を背景に大きな大仏殿の威容が眼前に迫り、屋根の両端にある金色の鴟尾が美しい。大仏殿の中に足を踏み入れると、目の前に盧舎那仏が鎮座している。その名は、いただいたパンフレットによると「宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏、ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられます。」ということらしい。

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 盧舎那仏のお顔を正面から拝見し、左手に回っていったところで、家内と初孫ちゃんがどこかへ消えてしまった。しばらくして出てきて、瓦の寄進をしていたらしい。なんと、初孫ちゃんが筆で「ちきゅうがよくなりますように」と書いたそうだ。自由に書きなさいといったら、そういう文句を自主的に書いたようで、どこで覚えてきたのだろうと不思議に思ったという。ところで、私は私で、自分の子供たちが小学生のときにくぐった柱の穴がまだあるのを見て、初孫ちゃんにやってもらおうと思い、順番を待っていた。さて、我々の順番が来たので、初孫ちゃんにくぐらせたら、難なく出てきて得意顔である。それではと、家内にもやってもらったら、これも笑いながら出てきた。周りは外国人観光客も多くて、中には失礼ながらあんな太った体でどうするのだろうと思うような中国人の女性もいた。ところがやってみると、難渋してはいたが、何とかくぐることが出来た。どうなっているのか、魔訶不思議である。柱の穴は四角形なので、体を斜めにするのかもしれない。

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 その日は奈良から京都に戻った後、家内はホテルで休んでもらい、私と初孫ちゃんだけで清水寺に行くことにした。たまたま京都駅前から清水寺行というバスがあったので、それに乗ったのだけど、五条に着いてから延々と続く上り坂を登っていった。ところが、途中で音を上げかけた初孫ちゃんが抱っこをせがんでくる。仕方がないので、抱きながら登ることにしたが、これがなかなか辛いもので、もう駄目だと思った頃に、やっと仁王門が見えた。そこから本堂に向かった。本堂では、初孫ちゃんに護摩木のお札を奉納してもらおうとして、「やってみる?」と聞いてペンを渡した。すると、それを手に取って、すらすらと書き始めた。「ちゅきゅうが よくなりますように」と、東大寺のときと同じである。それが終わって、清水の舞台を眺めてからホテルに戻った。夕方からの大学の同窓会に備えて、ホテルの部屋でしばらく休むことにした。

 ところが、初孫ちゃんはなかなか休んでくれない。私がベッドの上で足を伸ばしてiPhone6プラスを触っていたところ、自宅から持ってきたおもちゃのゴルフセットでボールをびゅんびゅん飛ばしてくるから閉口する。でも、ベッドの下に入れて「おっ、OBだ」などとやっているから、思わず笑ってしまう。一体どこで覚えてくるのかとこれまた不思議である。それから、ベッドの下に潜り込んでボールを見つけるのに熱中している。まあ、本当に休む間もなくエネルギッシュに活動している。そういう元気な人と付き合う私や家内などは、だんだんと疲れてくる。でもまあ、体が続く限り、付き合ってあげようという気がする。

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 夕方、いよいよ「フォーチュン・ガーデン」でクラス会が始まった。冒頭、私に乾杯の音頭を求められて、次のような趣旨のことを話した。いや、正確には、これを話したかったが、会場の雰囲気から、早く飲みたがっていたようだから、かなり端折ってしゃべった。

「皆さん、本当にお久しぶりです。大学に入学して45年の月日が経ちました。四捨五入すると半世紀ですから、長い期間ですが、いまこうしてお顔を拝見すると、少し皺が出たり髪が薄くなったりしてはいるものの、昔と全くお変わりなく、こうして元気なお姿で集まることができて、誠にご同慶の至りです。

 我々の辿った道を振り返りますと、入学時には東大入試中止があり、卒業の頃には第一次オイルショックがあり、途中でバブル経済の狂乱を経て、つい最近ではリーマンショックと、まさに波瀾万丈の社会人生活を送ってきたわけです。そして最初の仕事の定年を迎えられ、第二の人生を歩んでおられることと存じます。

 こうやって、振り返ると、色々とありましたが、やはり我々の心の原点は、あの学園祭で結集したことだと思います。私はあのとき、普段の平々凡々な学生生活からは想像もつかない仲間の能力に驚きました。中でも、当時は大スターだった南沙織さんのところへ行って学割ギャラで出演を承諾させるなど、八面六臂の活躍がなければ、今日ここにこうやって集まることもなかったと思い、改めて深く感謝申し上げます。ちなみに私は何をやったかというと、Fさん、Sさん、Hさんらとともに、講堂の片隅で喫茶店をやったのですが、カップやお皿を買い揃えたりして原価計算が甘く、赤字を出してしまいました。ちょうど良い機会なのでこの場をお借りして、お詫びします。

 そういうことで、商売には全く向いていなかった私でもちゃんと受け入れていたわけですが、その他、様々な役割を果たして皆さんここにお集まりいただいたものと思います。本日は、そういう思い出を大切にし、また来し方を振り返って親睦を深め、さらにこれからも健康でいられるように願っております。最後になりましたが、本日のバーティーにご尽力いただいたWさん、Nさん、Mさんにお礼を申し上げて、私の挨拶にしたいと思います。」


 私はそのとき、南沙織さんの事務所に行って出演を交渉した人の名を実は間違えていて失礼したが、その交渉人だったKさんが後ほど披露した話によると、事務所に行ってマネージャーと意気投合し、話しているときに、ちょうどその頃、東京から九州の方に公演に行くことになっていて、その途中に京都に立ち寄ることにしてくれたから、普通の出演料(ギャラ)が一公演100万円が相場だったところ、交渉で15万円と、格安の学割価格にしてくれたそうな。その頃は、私など平々凡々の大学生だったから、そんなことは思い付きもしなかったけれど、もう既にこのような「剛腕」を発揮していた仲間がいると思うと、末恐ろしい気がする。ちなみにその人は、現在は税理士事務所をやっている。頼み甲斐がありそうだ。

 いざ宴会が始まるというときに、この日の幹事から「この会をどうしよう。京都に集まるこの同窓会をこの先5年おきにやるとなると、櫛の歯が欠けていくようなもので毎年誰かが消えていくかもしれないから・・・」などと心もとないことが言われた。なるほど、そうかもしれないと心中で思うが、なかなか認めたくない。どうやら、少なくとも、もう一回は大丈夫だろうと次回は5年後にすることにしたようだ。この日の宴会の肴は、大学時代の我々の写真である。一体どんな写真が発掘されたのかと思ってみてみたら、なんとその半分以上は、私のカメラのものだった。だから当然、私の顔が何回も出てくる。私に向かって「よく出てくるね」といわれたが、それは当たり前である。残りの半分弱は、Sさん撮影の写真なのだけど、彼の写真の特徴は遠目から撮るものなので、すぐわかる。だから、人物がアップとなっているのは私の写真、遠目で写してあるのは彼の写真である。後ほどの個別のスピーチの中で、「私の写真がなかった」などと出席した女性からクレームがついたが、帰ってから昔の写真フォルダーを探したところその女性の写真があったので、あらかじめこういうことをすると言ってくれれば用意して差し上げたのにと、いささか残念な気がした。また、次回の楽しみとしよう。

 しばらく歓談したが、家内は私とともに卒業後の第1回からこの同窓会に一緒に参加しているので、知り合いも多くて、色々と話が盛り上がっていた。私は、ちょろちょろする初孫ちゃんが気になっていたが、食べるものは食べるし、そのうち家内のiPhone6プラスを持って各テーブルを訪れ、写真やビデオを撮り始め、にわかカメラマンになっていた。後からそれを見てみると、なかなか上手にとれていた。もっとも、我々同級生の写真より、可愛いウェイトレスのお姉さんたちの写真ばかりが目立っていたが、これもご愛嬌だ。皆さんからは、私が、家内ばかりか孫まで連れてきたと冷やかされもしたが、私が「そうそう、土日は親が医者稼業で忙しいから、『イクメン』ならぬ『イクジイ』をやっているよ。私の担当は、日曜日。」というと、皆一様に同情してくれる。

 私の同級生はもう60歳代の半ばに差し掛かっているから、皆一様に第一の仕事の定年を迎え、どうかすると第二の職場で定年を迎えた者ばかりである。中には、会社で仕事をしていたときには健康診断でほとんど全ての数値に異常が出ていたのに、仕事を辞めてから体重が10kgくらい減ったら、そのほとんど全ての数値が正常の範囲内に戻ったと言っている人がいた。我々にとって、やはり仕事は相当なストレスらしい。もっとも彼は、夜の飲食もかなりのものだったようだから、その面でも文字通り「解放」されたのだろう。

 そうかと思うと、別荘にしょっちゅう行っている人などもいる中で、弁護士事務所を経営している人は、「自分の人生はこんな平々凡々な調子で終わって良いものか」などと言っている人もいた。まあ確かに、事件は様々であるとはいっても、弁護士の仕事は依頼者と裁判所と自分の事務所の間を行ったり来たりするものだから、それを40年近くやると、いかに成功したとはいえ、そういう述懐になるのかもしれない。また、この日は昔の学園祭のときに一緒に店をやってくれた女子大の皆さんたちが4人も来てくれた。こちらも、18歳のときの自分の写真と対面して、感無量といったところである。それぞれの人生を歩んでおられる。

 さて、そろそろ決められた時刻になるという頃、学生時代に戻った気分で、肩を組み一緒に歌おうということになり、定番の「さらば青春」、「琵琶湖周航の歌」などを歌って、再会を誓い、お開きとなった。5年後、ひとりも欠けることなく、また元気にお会いしたいものである。

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(フォーチュン・ガーデンの庭)





(2014年10月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:23 | - | - | - |
留学先からの嬉しい便り(2)

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 私が本郷の東大大学院でしばらく教えていたときの教え子だった学生さんたちの一人で、ロンドンに留学中の方から、前回に引き続き、メールが入った。そろそろ1年が経ち、最初の留学先での勉強が終わった頃である。前回は、留学から半年経った頃のメールで、言葉の壁の苦労などが綴られていた。ところが今回は、まあ、その逞しくなったことといったらない! もともと、とびきり優秀な学生さんだった方とはいえ、たった1年間の異国での勉学生活で、ここまで逞しく立派になるとは、思わず嬉しくなったほどである。

「先生、ご無沙汰しております。英国留学中の、Tです。お元気でいらっしゃいますか。 日本は今年の夏も猛暑だったようですが、最近はようやく秋の気候になってきたようですね。こちら英国も、日が短くなり朝夕はかなり冷え込むようになりました。

 私のほうは、ケンブリッジでの課程が終了し、10月からロンドンで、また1年間の修士課程に所属することになりました。ロンドンについては、昨年合格をいただいたもののケンブリッジで入学のため一旦入学を辞退していたのですが、本年度また、先生にご支援いただきました昨年の書類(筆者注:推薦文のこと)でもう一度審査してもらい、無事入学を認めてもらうことができました。改めて、その節は本当にありがとうございました!

 今は今月末のロンドンへの引っ越しに向けて徐々に準備に着手しているところです。ロンドンでは大学の寮に入居することになり、場所は大学まで歩いて5分程度、大英博物館の近くです。ケンブリッジは環境に恵まれた住みやすい町なので、離れるのは非常に名残惜しいのですが、また大都会ロンドンの新たな環境で頑張りたいと思います。勉強の内容面では、ケンブリッジは専門の学科を専攻したものの、ケンブリッジの特徴なのか、かなり哲学的・思索的な議論をすることが多かったのですが(正義とは何か、大学とは何か等等……)、ロンドンではより実務的な内容になりそうです。EUの政策形成・運営の実態や、それらの英国との関係等についても、勉強してみたいなと思っています。

 夏休みには、夫と夫の両親、私の両親が英国を訪ねて来まして、張り切ってツアーコンダクターを務めました。両親たちは初めての英国、また海外旅行もほとんどしない人たちなので、日本との違いに戸惑うこともあったようでしたが、ウエストミンスター寺院やバッキンガム宮殿、大英博物館、そしてケンブリッジの町なども案内し、英国の歴史と文化を色々と楽しんでもらうことができました。私も家族との久しぶりの再会で、とても思い出深い夏休みになりました。私の両親はちょうど結婚40周年だったので、両親にとっても記念のビッグイベントになったようでした。

 夫とは、私も初めてとなる湖水地方やスコットランドの方まで足を延ばしたのですが、ロンドンやケンブリッジとはだいぶ違った趣で、改めて英国の広さ・奥深さを感じることができました。湖水地方は特に日本人に人気のある観光地のようで、田舎町ながら多くの日本人旅行者にも会いました。町並みや文化は勿論日本と大きく違いますが、穏やかな美しい自然はどこか日本人の感性に合っているのかもしれません。夫も私もとても気に入り、また将来訪れてみたい場所になりました。ブログで拝見しましたが、先生もご家族と北海道や東北の3大祭りにお出かけになられ、素敵な夏を過ごされたようですね!綺麗なお写真の数々とお孫さんの可愛いらしいエピソード等、楽しく拝見させていただきました。

 英国や周辺のヨーロッパ諸国を旅していると日本と異なる壮麗な建物や美しい風景に感動しますが、改めて日本を思い返してみると、地方地方で異なるユニークな文化や豊かな自然、清潔な町並み、安くておいしい食事、礼儀正しい人々などなど、日本の魅力にも気づかされます。先生のブログを拝見していて、日本の温泉、お祭り、食べ物などが、少し恋しくなりました。とはいえ、この1年、色々ありつつもあっという間に過ぎてしまったので、ロンドンでの2年目はさらに早く過ぎ去ってしまいそうです。また気を引き締めて、さらに充実した留学生活になるよう、一生懸命頑張りたいと思います!先生におかれては、変わらずお忙しくされていることと存じますが、どうぞお体にお気をつけてお過ごしくださいませ。長々と失礼いたしました。またロンドンでの様子もご報告できたらと思います。

 添付の写真は、湖水地方の風景2枚(丘から見た風景、「ピーターラビット」シリーズの作者ポターの家)、ケンブリッジ・ケム川の舟から撮ったキングスカレッジ、エジンバラのホリールード宮殿の写真です。」


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 というわけで、わずか半年前のお便りのときは悩んでいた言葉の壁の問題が見事に消えて、公私ともに留学生活を満喫し、ご両親や夫君とともに旅行を楽しむ余裕が生まれたことがわかる。この方は、もともと英語の成績が特に優秀だった。だから当然だという気もするが、それにしてもキャッチアップが早い。まだ頭脳が若いうちにこうして留学することができたからだろう。ということで、私も次のように返信した。

「お便り有難うございます。どうされているかと思っていたのですが、いつも通りのご活躍で、思わずニコニコと笑ってしまいました。お元気で何よりです。イギリスはどこを見ても絵になる景色が広がっていて、今のうちになるべく見物された方がよろしいですね。

 とりわけメールの中にあった湖水地方は、私も当時は小学校1〜2年だった二人の子供連れで1984年に行ったことがあり、懐かしく思い出しました。ウィンダミア湖畔のオールドイングランドホテルに泊まり、二人の子供が庭の大きなチェス盤で、自分の背の高さくらいの駒を動かすのが面白くて、笑っていたことは、良い思い出です。当時は日本人のしかも一家で観光しているのが珍しかったようで、あちこちでジロジロと見られて閉口したことを覚えています。

 私の今の仕事は、ともかく書類ばかりです。たまにはじっくりと関係者の話を聞いてみたいという気になりますけれど、なかなかそうもいかなくて残念です。ただ、世の中いろいろな事件が起こるものだとの感想を持ちます。

 ところで、お願いなのですが、またこのお便りを、差し障りのないように加工した上で、以前と同じように私のブログに掲載させていただきたいのですが、よろしいでしょうか。出来ればお写真もお願いしたいところです。

 では、あと半分の期間、楽しい留学がますます充実したものになるように願って、筆を起きたいと思います。ご帰国の際は、ご主人様とご一緒に、またご連絡ください。お元気で。」

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 すると、さっそく返信をいただいた。

「ご多忙の中、ご丁寧なご返信を頂き恐縮です。先生もお元気そうで何よりです。内容・写真とも、先生のエッセーやお写真に比べるとお恥ずかしい限りですが、ブログに掲載していただけるなら大変光栄です!

 先生も湖水地方にご旅行されていたのですね。ウィンダミア湖畔のオールドイングランドホテルは、ウィンダミア湖で船に乗る時に見かけました!湖のすぐそばの、大きくておしゃれなホテルですね。今回夫とは、湖畔からは離れたウィンダミア駅近くの民宿(B&B)に泊まりましたが、次回来る時はこんなホテルに泊まってみたいね?と話していたので、先生がご家族でお泊まりになっていたと伺い、驚きです。先生がお出かけになられた際には日本人観光客が珍しかったとのことですが、私たちが旅行した際には、むしろ日本人観光客の多さが印象に残りました。車が運転できなかったので、現地の会社が企画しているツアーに申し込みマイクロバスで9つの湖を巡ったのですが、私たちを含め、ツアーに参加していた3組の夫婦は全員日本人、音声ガイドも日本語でした。30年前とはかなり様子が変わってしまっているかもしれませんね。

 いつも暖かい応援のお言葉、どうもありがとうございます。残りの留学生活、一日一日を大切にし、帰国した際には少しでも成長した姿で先生にお目にかかれるよう、努力したいと思います。」


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 留学生活は、1年目は慣れるのがやっとで、ようやく2年目にして周りに目を向ける余裕も生まれ、授業内容もよくわかるようになるので、これからの1年間を有意義に過ごしていただきたい。お帰りになる頃には、またひと回りもふた周りも大きくなって戻ってこられるだろう・・・そう思って、「留学の日々は、たとえ普通の生活でも一日一日が貴重ですから、お大事になさってください。ではまた、次にお会いするときを楽しみにしています。さようなら。」と返信したところである。 どうかお元気で、これからさらに1年を過ごしてほしいものである。





(2014年10月 8日記)


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徒然281.尾木ママ事件

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 今日のお昼のことだった。昼食をとろうと外に出て、半蔵門のとあるホテルに通じる歩道を歩いていた。すると、手にビデオカメラを持った若い人が近づいてきて、私に声を掛けてきた。

  「タレントの尾木ママをご存知ですよね。」

 私 「教育評論家の尾木直樹さんのことですか?」

  「そうです。その尾木さんが、昨日、ここで(と、歩道の盛り上がっている一角を指差し)、転んでしまい、顔を強く打ったんです。鼻のところですけどね。」

  「ほほぅ、それはとんだ災難でしたね。それで?」

  「あなたも、ここを通りかかって、転びそうになったことはありますか?」

 (何と、馬鹿なことを聞くのだろう、尾木さんとは年齢も違うし、私の方が道を知っているだろうにと思いつつ、これははぐらかそうと考えて)、「いやいや、私はそんなところは通りません。こちらの近道を行きますから。」と答えて、相手の苦笑いを後にして、その場を立ち去った。

 昼食をとったホテルのレストランで、旧知の支配人に聞いたところ「その話は、昨日、テレビでやっていましたね。ああ、ウチのホテルの前の歩道なんですか。そうだったのですか。」などと、さも驚いたように言っていたから、そのホテル関係者は、転んだ場所も知らなかったようだ。

 自損事故として諦めるか、それとも争うとすれば、区道設置者である千代田区を相手に、国家賠償責任又は民法に基づく土地工作物の瑕疵責任を追及するところだろうな・・・とすぐ思う。いやいや、つまらないことを考える。これは職業病に罹っているのかもしれない。これでは、いけない。そんなことより、尾木ママの早期快癒を祈るのが先だろう・・・と考えつつ、帰途についた。大丈夫だとよいのだが。




(2014年10月1日記)


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