邯鄲の夢

洗足池の桜の咲き始め



 最近、暇があるとiPhoneで、青空文庫を読んでいる。いずれも著作権が切れたものばかりだから、明治大正期の作家の作品が中心である。しかし、これがまた私の青春時代に読んだものが多くて、もう懐かしくて楽しくてたまらない。寺田寅彦、森鴎外のシリーズが終わり、芥川龍之介に入っているのだが、その中で、ふと心に残ったのが「黄粱夢」である。これは元々、唐の沈既済の小説「枕中記」中の「邯鄲の夢」の故事から題材をとったものであるが、芥川龍之介による独特のひねりが効いていて、一般に邯鄲の夢として伝統的に知られる寓話とは全く逆の結論となっているから、面白い。私はむしろこちらの芥川龍之介の解釈の方がこれまでの自分の感覚に合う。それでは話の順序として、その芥川龍之介の解釈の話の元となった、これまで伝統的に知られてきた寓話「邯鄲の夢」とはどのような物語なのか、まずそちらを説明しておこう。

 時は唐の玄宗皇帝の世である。呂翁という名の道士(日本でいう仙人の類)が、趙の都の邯鄲の旅館でひと休みしていた。すると、廬生と名乗り、実に粗末な格好をした若者が現れて、その呂翁に話しかけてきた。廬生がいうには、「自分は人生の目標など特に持たないままに故郷を離れてこの花の都、邯鄲に来ている。しかしこのままだと、これからの自分は、ただ単にあくせくと働きながら平々凡々な日々を送らないといけないのかなどと思うと、苦しくて苦しくて堪らない」と、現在の辛い心境を語った。そこで可哀想に思ったのか、呂翁は、廬生に夢が叶うという枕を授けた。その枕を借りて寝た廬生は、夢の中で、立派な家に住み、名家の出ながら心優しい娘を娶り、進士の試験に合格して官吏となる。そして順調に出世し、首都の長官にまでなった。そればかりか、武事にも才能を発揮して、夷狄を破って武功をたてたこともあるほどだった。ところが、あまりに順調に出世していったからか、時の宰相の妬みを招いて辺境の地の長官へと左遷されてしまう。そこでしばらく雌伏を余儀なくされていたが、再び都に上がる機会を得て、程なく宰相に取り立てられた。それからというもの、天子を補佐して良く政を治めたので、世に比類のない名宰相と言われるまでになった。

 ところがある日、思わぬことに謀反の濡れ衣を着せられ、いきなり捕縛されてしまった。そこで盧生は、妻子に心境を吐露した。曰く「自分の故郷には、わずかばかりの田があった。そこで普通に百姓をしていればよかったものを、たまたま大志を抱いて官の禄を食むようなことをしてしまったから、このような酷い目に遭う羽目となった。あのボロを纏って邯鄲の都をとぼとぼ歩いていた頃の、貧しかった自分が心底懐かしい」と・・・そういって廬生は、刀で自殺しようとしたが、妻が身を呈してそれを防いでくれたので、未遂に終わった。しかし、世の中はわからないもので、盧生と同時に捕縛された者は全て殺されたのに、たまたま盧生だけは宦官が助けてくれて、流罪となった。しかしまたこれも、冤罪ということが判明し、再び中央に戻った盧生は中書令になり、さらには燕国公に昇りつめた。しかもその五人の子はいずれも高官となったばかりでなく、それぞれ名家と縁組みをして多くの孫に囲まれ、一家は繁栄を極めた。かくして、盧生の晩年は極めて幸せなものであったが、寄る年波には勝てず、次第に健康が衰えてきて、とうとう命がなくなる日が来た。※

 そこで盧生が目を覚ましてみると、自分の身体は邯鄲の旅館に寝ており、その傍らには呂翁が座っているではないか。旅館の主人はというと、盧生が眠る前に黄粱を蒸していたのだが、その黄粱もまだ蒸し上ってはおらず、すべては寝入る前の通りであった。盧生は、飛び起きて思わず叫んだ。「なんだ。あれは全部、夢だったのか」。呂翁は笑いながら言った。「人生というものは、一夜の夢より短い。どうせそんなものだよ。わかったか」。廬生はあらぬ方を見てしばし呆然としていたが、やがて意を決したように呂翁の方に向き直ってこう言った。「おかげさまで私は、栄辱も、貴富も、死生も、何もかもすっかり夢の中で経験いたしました。これというのも、先生が私の欲があまりに深いので、これを直そうと思ってしていただいたものと考えます。よくわかりました。私は、今のままで結構です」。かくして廬生は、もと来た邯鄲の道を、ゆっくりと歩いて故郷へと去っていった。


洗足池の紅梅白梅


 いかにも、道教思想そのものであるが、これに対して、芥川龍之介の「黄粱夢」(大正6年10月)は、上記「※」のところから始まる。短いものなので、青空文庫から、以下にそのまま引用する。

 盧生は死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅が足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。  すると枕もとには依然として、道士の呂翁が坐っている。主人の炊いでいた黍も、未だに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があってもうすら寒い。

「眼がさめましたね。」呂翁は、髭ひげを噛みながら、笑みを噛み殺すような顔をして云った。
「ええ」
「夢をみましたろう。」
「見ました。」
「どんな夢を見ました。」

「何でも大へん長い夢です。始めは清河の崔氏の女と一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうして明年、進士の試験に及第して、渭南の尉になりました。それから、監察御史や起居舎人知制誥を経て、とんとん拍子に中書門下平章事になりましたが、讒を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州へ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、冤を雪ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令になり、燕国公に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」

「それから、どうしました。」
「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」
 呂翁は、得意らしく髭を撫でた。

「では、寵辱の道も窮達の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着も、熱がさめたでしょう。得喪の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」
 盧生は、じれったそうに呂翁の語を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。
「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
 呂翁は顔をしかめたまま、然とも否とも答えなかった。


洗足池の桜の咲き始め


 この邯鄲の夢は、「栄枯盛衰の道は、誠にはかない。だからそんなつまらない立身出世の夢など見ないで、自分の足元をよく見て地道に生きなさい」という意味である。しかし私は昔から、これはいかにも人生に疲れた年寄りの愚痴のような気がしていた。こんなものは、まさに道教の教えを体現していると思うのである。むしろ若者なら、「Boys, be ambitious!」というクラーク博士のような精神で、それぞれの夢に向かって邁進し、富や名声に向かって努力していくべきであろう。もちろん、人生は努力だけで左右できるものではなく、何を行うにしても運・不運が付きものだから、その結果として富や名声を現実に手に入れることができた人もいれば、それが叶えられなかった人もいる。年をとったら、もはやそうした結果を受け入れるしかないのである。しかし、少なくとも若者の時代は、芥川龍之介のこの短編のように、「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたい」と考えるべきだと思うのである。もっとも、こうした「夢」に乗せられて頑張っても、富と名声の両方を得られる人は、ごくごく一部というのが人生の経験則である。大多数の人が、盧生そのものだということだろう。

 ところで、私は2000年10月以来、ホームページをこつこつと作成し公開してきて、それを2005年1月から「悠々人生」の題名に変更した。このたび、ホームページの制作方針を変更するのを契機に、その題名を「邯鄲の夢」にしたいと思っている。その意味はもちろん、芥川龍之介の「黄粱夢」と同じである。ただ残念なことに、私は限られた人生という貴重な現実の時間を相当使ってしまっている。だから、今もって相変わらず邯鄲の夢の中に居て人生に取り組んでいる最中とはいえ、もはやかなりの終盤に差し掛かっていることは否めないから、今さら何をかいわんやというところかもしれない。




(2014年3月30日記)


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ホームページ制作方針の変更

湯島天神の梅



 昨年、私自身が「転職」したことにより、同じ法律関係の職でも仕事内容がかなり変わってしまった。前職では、忙しいときには日が変わるまで仕事をすることもしばしばであったが、その代わり暇なときには早めに・・・といっても普通のサラリーマンと同じような時間であるが・・・帰宅すると、有り余るほどの時間的余裕があった。だから、そうした暇な時間を利用して、好きなエッセイを書き溜めたり、撮った写真を整理したり、このホームページ「悠々人生」に手を加えたりする余裕もあったというわけである。ところが今度の最高裁判所での職は、毎日毎日、たくさんの事件が舞い込んで来て、恒常的にとんでもなく忙しい。目の前を次から次へと案件が通り過ぎて、しかもそのひとつひとつが、それこそ、人の一生にかかわる問題であることが多いので、あだやおろそかはできない。それに伴い書く仕事がとても多いものだから、これらに加えてエッセイなどを書くという、暇人の特権のようなものもなくなって来た。誠に残念ながら、とても「悠々」と過ごすどころではなく、要は仕事に追いまくられるようになったのである。

 次に私の身辺に生じた大きな変化は、孫が私たち夫婦の家に居着くようになったことである。もともと孫は、共働きの両親の下に生まれてから此の方、保育園とベビーシッターで育てられて来た。しかし、特に娘がクリニックの責任者となり仕事がますます多忙になって、とうとうそれも限界に来てしまった。加えて、本格的なインターナショナル・スクール系の幼稚園に入れたいということもあり、そこに通うのに便利な我々夫婦の住まいのごく近くへと引っ越して来た。そこで、我々も最初はごく短期間のベビーシッターの役を果たすことにしていた。ところが、孫や我々もお互いになじんでくるうち、次第に孫の日々の躾けや世話のため、我々の家に寝かせ、食事やお風呂などの日常生活を送るようになってきた。それからというもの、我が家そのものが、孫のホームグラウンドのようになってしまった。というわけで、実は私も毎日、孫とお風呂に一緒に入り、キャッチボールと称するゴムボール投げの相手をし、絵本を読んであげ、寝かし付けまでを担当するようになってしまった。それだけでなく、日曜日には、何処かへ連れて行くことになっている。だから、パソコンを開けてエッセイをつむいだり、ホームページ「悠々人生」の手入れなどをしている暇は、ほとんどなくなってしまったのである。

 第三として、昨年、私は第一の職業人生を終えたので、まだ記憶に新しい内にと思って、これまで自分が歩んだ道を思い出して、文章にし始めたところである。日本経済新聞が「私の履歴書」という記事を設けているけれど、まあ、そういうものだと思っていただいてよい。これは別に公開するつもりで書いているわけではないが、例えば、私の子供たちや孫たちに、私と家内がこういう人生を歩んで来たのだということを知っておいてもらえれば嬉しいという程度のものである。

最後になるが、第二の職業人生で私は、日々、事件の処理を行っている。それぞれに公式な記録はあるものの、このような気持ちや考え方でそのように結論付けたという、いわば背景描写のようなものは、公式記録上のどこにも残らない。仮に将来それを振り返って自ら反省をしたり、あるいは別の事件処理のよすがとするようなこともあるだろうから、そうした場合に備えて、短いものでもよいから、記録を付けておきたいのである。これも別に公表するつもりはなく、あくまでも個人的な心覚えのための記録である・・・というわけで、ただでさえ忙しいのに、自分からまた忙しくしている。

湯島天神の梅


以上のような次第で、私のこのホームページも、制作のペースや頻度をやや落とすことにした。もちろん、このホームページ「悠々人生」は、私にとっても日々の日記帳のような面があって、思索の記録や写真の整理には欠かせないものであるし、親戚や友人の皆さんたちに私の近況をお知らせするよいコミュニケーション手段でもあるから引き続き継続して行くつもりなので、読者の皆様のご理解をお願いする次第である。なお、これに伴って、近々、ホームページの名称や体裁を少し変更することにし、その作業に取り掛かっている。


(2014年3月25日記)


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