センチメンタル・ジャーニー

徳川園の大曾根の瀧


 今まで、「センチメンタル・ジャーニー」などと聞くと、そんなことは暇な年寄りのやることだと馬鹿にしていたが、自分自身が歳をとっていざやってみると、なかなか良いものである。なぜそのような気になったかというと、私は、父親が全国を股にかけて動く転勤族だったために、子供の頃は、関西から北海道にかけて引越しと転校を繰り返した。だから、故郷といえる地は、もう住んで40年となる東京をおいて他にはないのであるが、それでも中学・高校という多感な年頃を名古屋で過ごしたことから、人に出身地を聞かれれば、愛知県名古屋市と答えることにしている。

 その名古屋の地で、ごく近所に住んでいて毎朝一緒に中学校に通い、共に難関の高校入試を突破して同じ進学校に通って同一クラスとなった友がいる。別に図った訳ではないが、気が付いてみると大学も一緒で、そして東京での勤め先まで交差点のはす向かいにあるという有り様。これはまた、お互いよほど縁があるなあということで、お人柄もほのぼのとしているということもあり、人生の節目節目で親しくお付き合いをさせていただいている。

 彼は私と同様に東京圏でマンションを購入し、長年そこに住んでいたが、定年近くになって退職したと思ったら、故郷の名古屋で私立大学の学長さんになって、いわば里帰りの形で帰っていった。折にふれて元気にしているかなあと思っていたところ、たまたま今回、大事な用で名古屋に帰る機会があった。そこで、入試で多忙な時期だろうけれど、会えないかなと思いながら連絡をとった。すると、その日は大丈夫、通った中学校や高校のルートを辿る二人だけの同窓会をやろう」というありがたい返事をもらったのである。

徳川園の牡丹


 そういう経緯で、新幹線で名古屋に向かった。実は2年ほど前にJR東海のEXーICカードを作ったのだけれど、それ以来あまり使う機会がなかった。だから、ちょうど良いから使ってみようという気になり、iPhoneで新幹線を予約した。行き帰りとも直ぐに予約できて、カードの使い方を調べた。要するに、SuicaとEXーICカードを重ねて新幹線の改札機にタッチし、その改札機から出て来る座席指定券を受け取り、車内の検札のときにそれを見せればよいらしい。切符のお値段はというと、早割りといって、確か330円ほど安い。この仕組みの良いところは、乗る新幹線の電車を直前までスマートフォンで変えられることである。帰る時間が定まらないような出張には最適である。もっとも、「帰りの時間が迫っていますから」などという言い訳が通らなくなったから、ビジネスマンは困るかもしれない。

 泊まったホテルは名古屋ヒルトンで、名古屋駅から地下鉄東山線で一つ目の伏見駅にある。構造やら装幀、設備、アーケードなどは、当たり前だが新宿ヒルトンによく似ている。当日朝10時に車で迎えに来てくれるというのでホテルの玄関で待っていると、来た来た。まあ何ともはや・・・可愛いらしいというほかないライトスカイブルー色の新型プリウスでやって来た。「やあ、しばらく」という簡単な挨拶をして乗り込んだ。

 最初に城山中学校の通学路に行こうということになり、千種区に向かう。そして通学の途中でよく出会った坂の下の椙山女学園前に行き、車を停めた。そこは、道の真ん中の中州のようなところで、松の木に囲まれて石碑があり、銅板に長文の漢文が書かれている。我々が中学生の悪童だった頃はそんなものに見向きもしなかったが、それから半世紀も経ち、読んでみる気になった。すると、石碑には創立50周年記念と書いてあり、その後ろの銅板は紀元2,600年に関係するものだった。

 はあ、そうだったのかと言いながら城山中学校に向かって歩き出した。両側の家々はそのほとんどが建て替えられているが、それでも道の佇まいは昔とそっくり同じで、懐かしい。脇道から今にも同級生が飛び出して来そうだ。歩きながら、「くんはどうしてる?」、ああ、彼は元気だよ。全く変わりがない。それから、元々、家が豆腐屋だったくんは、後を継いでまだ豆腐屋をやっているよ」などとたわいのない話をしていたら、彼も私も、頭の毛は薄くなったり後退しているとはいえ、心と記憶は半世紀の時を飛び越えて、一気に中学生に戻ってしまった。それからというもの、自分でも驚くくらいに昔の記憶が次から次へと甦り、自分の頭のどこにこんな記憶が眠っていたのかと思うほどだ。

 私が「ここは坂を下ったところだが、近くに電柱があって、そこには伊勢湾台風浸水位置という赤い線が引いてあったのだけれど、それが中学生だった自分の目の高さだったから驚いた」というと、彼は、「それは知らなかったが、あの台風は酷かった。近くの家では屋根が全部飛ばされていたよ。自分の家でもトタン部分が飛んでしまった。それでも翌朝、母から学校に行きなさいと言われて仕方なくランドセル背負って外に出てみたら、もう辺り一面が水浸しでいろんな物が転がっている。近所のおばさんから、『こんなときは学校は休みだよ』といわれたりした」。「へえー、それは厳しいお母さんだったね。でも、あのときは一晩で6,000人近くが犠牲になったから、今から思うと阪神大震災並みの大災害だったんだよね。」

 細い通りから大通りに出るところの道角に来た。「確かここに、剣道部のくんの和風の家があったはずだね。玄関の格子戸が風情があって良かった。10年くらい前にはまだあって、くんの表札が掛かっていたけど、まだあるかね」と言いながら見てみると、その家は既になくなっていて、とある会社の無機質なコンクリートの建物に変わっていた。彼の家は母子家庭だったが、そんなことを振り切るように一心不乱に剣道に打ち込んでいた彼の姿が、まざまざと目に浮かんできた。

母校の中学校正門脇の石碑


 大通りを横切るとすぐその先が母校の城山中学校だ。何しろ我々は団塊の世代に属しているから、子供の数が半端ではなかった。正規の教室には全生徒を収容出来なかったものだから、脇の公園に急遽プレハブの教室が建てられた。ところが、そこに教室が当たった人はもう悲惨なもので、夏は燃えるように暑くて、冬は凍えるように寒かった。1クラスの人数は55人もいたし、まあ、よくあんな時代を生きのびたものだと言って、友とお互いの顔を見合った。

母校の中学校脇の暗渠となった川と桜の木


 いよいよ母校の城山中学校の正門に向かう。あった、あった。昔の面影そのものの門が目の前にあるが、何か違っている。よく見ると、正門の左手に流れていた小川がない。暗渠にされて、道路の地下に潜っている。そのくせ、正門前に交差している道路を渡ると、そこからまた川が続いているから妙だ。そういえば、この川の脇には桜の木があって、春になると美しかったのになと思い出して眼をまた暗渠の方に戻すと、桜の木は残っていた。ほっとした気分になった。

母校の中学校の中


 正門から、校内にちょっと入らせてもらった。本当は誰かに断わるべきなのだろうけど、入るといっても学校の玄関まで行って直ぐに引き返した程度だから、休みの日でもあるし、まあ許してもらおう。3年生のときの私の教室は、この正門の左手脇にあり、17組あった中での16番目、そう、3年16組という恐ろしいクラス名だ。しかも一つのクラスの定員が55人ということは、1学年に935人もいて、3学年だからこの中学校に同時に最大で2,800人も在席していたとは・・・。マンモス校を通り越してゴジラ校だ。ところが、そんなことで驚いてはいけないようだ。グラフを見ると、私の時代の生徒数は約2,500人と、この計算とだいたい合っているが、その2年前は何と4,200人だった。こんな膨大な数の生徒を一体どうやって収容したのか、謎である。ちなみに今の生徒数は500人とのこと。安心した。

母校の城山中学校在籍生徒数の推移


 それでは、次は旭丘高校だということで、彼の車で向かう。直ぐに着いたが、母校の周りにはマンションが立ち並んでいて、往時を偲ぶものは残念ながらあまりない。ところが幸い、正門は、昔の面影を色濃く残している。彼にいわせれば、建て替えのときに今の河村たかし市長が文化財を残せなどと運動したからではないかということだが、それはともかく、なるべく昔のままで残っているのは、我々卒業生のノスタルジーを満足させるには、都合が良い。もっとも、現に校舎を使う人が優先されるべきだろうけれど・・・。

母校の旭丘高校の正面


 またそこでひとしきり二人で、同級生の消息で知っている限りのことを話す。二人だけの情報交換でこれだけわかるのであるから、もっと集まれば同級生のことは完璧に分かるのではないかと思うくらいである。そこで得た結論は、歳をとっても、人間の性格というものは、ほとんど変わらないということだ。

 ここでも、正門から入れてもらったが、校舎に入ってすぐ左手にたくさんの優勝旗などが飾ってある。よく見るとどこか見覚えがある。覗き込んで眼をこらすと、その大半は一中時代のものだ。ということは、私たちの時代にもこれがそのまま飾ってあったのかと気がついたら、何だか愉快になってきた。校舎のあちこちに美術作品が飾ってあったのは、美術部の作品だろうか。そうそう、我々の同級生くんがこの母校旭丘高校の校長になって、大いに活躍したそうな。結構なことだ。

徳川園の庭園


 それでは、センチメンタル・ジャーニーの最後の目的地である徳川園に行く。ここは、我々の間では普通の公園で、美術の授業で訪れたり、散歩したり、口角泡を飛ばして議論したり、人によってはデートしたりと、まるで聖地のようなものだった。ところが今回、入ってみてびっくりした。特に庭園の方が大きく変わっていた。黒門と牡丹園があるのは昔通りだが、共通するのはそれくらいで、後は何から何まで全く違っている。池などは、今は龍仙湖というらしいが、何だかだだっ広い感じがして、昔の面影は全くない。聞いてみると、2004年に都市公園から日本庭園へと整備されたそうだ。でもまあ、それもよし。気を取り直して池を一周し、脇の宝善亭というレストランに入った。彼が予約していてくれていたから無事に席に座り、宗春御膳なるものをいただいた。尾張の徳川宗春からとった名前らしく、「宗春が、尾張七代藩主を務めた享保・元文年間の食文化を再現したもので、名古屋の味20種が詰められたお弁当です。」とのこと。この写真のほか、鮎の塩焼きやお吸い物までついていて、特に鮎の塩焼きは久しぶりだったから、美味しかった。

宝善亭の宗春御膳


 本日は実に良き友と、有意義な一日を過ごしたものだ。それにしても、彼のように、中学高校大学と一緒の友達は、何を話してもお互いに通じる共通の話題があるから、ただそれだけで嬉しくなる。人生で持つべきものは、良き伴侶と良き友である。




(2014年 1月26日記)


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留学中の教え子さんからの便り

2013.12.25のウェストミンスター寺院



 私は、本郷の大学院でしばらく教えていたことがあるが、そのときに学生だった皆さんが、立派に社会へと巣立って、ときおりメールで近況を知らせる便りをいただくことがある。今朝、そうした教え子さんたちの一人で、ロンドンに留学中の方からメールが入った。これを読んで返信するのは、何よりも楽しい。教師冥利に尽きる瞬間である。

 「先生、ご無沙汰しております。イギリス留学中のです。遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。お忙しくされていることと存じますが、年末年始はご家族で、少しごゆっくりお過ごしになられたでしょうか。

 私の方は、クリスマスから年始にかけて、アメリカから友人が遊びに来まして、久しぶりにゆっくり休暇を過ごすことができました。主にはロンドンに滞在していましたが、フランスにも足を伸ばし、初めての美しいパリの町並みと美味しい食事に、感動しきりでした。ロンドン・パリ間はユーロスターで約2時間強と思った以上に気軽に行けるので、また是非訪ねてみたいなと思います。クリスマスには、にわかクリスチャンになってウエストミンスター寺院のミサやクリスマスキャロルのコンサートにも行ってきました。最初はミーハーな気分で参加してしまいましたが、荘厳な雰囲気に圧倒され、西洋において『クリスマス』がいかに重要な宗教的行事なのか、わずかばかりですが触れられたような気がしました。12月25日には空港までの主要な電車も含め公共交通機関は全てストップし、繁華街の店もほぼ全て閉まるという徹底ぶりです。美術館の数々の宗教画や繊細な教会の建築様式なども見るにつけ、ヨーロッパの精神世界を作ってきたキリスト教について、ちょっと勉強してみたくなりました。…仏教や神道も十分理解していませんが…。

 大学院の方は、10〜12月の秋学期が終わり、間もなく新たな学期が始まります。1学期を終えてみて、やはり相変わらず言葉の壁に苦労しています。レクチャーの内容は徐々に理解出来るようになってはきたものの(それでも聞き取れない部分もあるのですが)、授業は基本的にディスカッションをベースに進められるところ、ネイティヴの学生が白熱して議論していると、なかなかついていけず悔しく情けない思いをすることが多々ありました。来学期はもう少し成長できるよう頑張りたいと思っています。期末の課題としては6千語のエッセーを提出しましたが、英語の未熟な私にとっては、文献を読むのも、スーパーバイザーの教員と議論するのも、執筆するのも全てが大変で、6千語程度でこんなに苦労していたら2万語の修士論文はいったいどうなることかと今から戦々恐々としています。

 とはいえ、渡英してからこの約半年、思えばあっという間にすぎてしまいました。ぼんやりしているとあと1年半もすぐ終わってしまいそうです。もう一度気持ちを新たにして、一日一日を大切に、色々なことを吸収して帰れるように努力したいと思います。

 新年早々、お忙しいところ長文のメールを失礼いたしました。今年一年も、先生やご家族にとって素敵な一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。日本も寒さが厳しいようですが、お風邪等召されませんよう、どうぞご自愛くださいませ。

(追伸)添付のファイルは、ウエストミンスター寺院のクリスマス・ミサの様子と、パリの写真です。」


エッフェル塔



 これに対して、私は、こんな返信をした。

「明けまして、おめでとうございます。お元気にしておられるようで、何よりです。

 やはり英語で苦労されているようですね。まあ、それが留学とはいえ、もう少しの辛抱です。半年を過ぎれば、だんだん聞き取れるようになると言います。私の場合は、留学ではなくて、いきなり在外での実務で、しかも中国語その他の現地語なまりの英語で仕事しなければならなかったので困りましたが、半年を過ぎたある晩のこと、夢の中で中国語風の英語を話している自分に気がつき、ああやっと慣れたのではないかと思った翌日から、会話が楽になりました。

 外国、特にヨーロッパに行くと、ついつい日本との文化的、歴史的な対比をしてしまって、一種の国粋主義者になるか、あるいは西洋崇拝主義者になって帰って来てしまいます。ヨーロッパの歴史と文化は、実に偉大だから、これに直面したアフリカやアメリカの新世界の人たちは、ひとたまりもなく飲み込まれたわけですが、それなりの独自の文化と伝統を持つ日本や中国が生き残った理由でも、あるのでしょう。

 時間を見つけては、イギリスなら湖水地方、スコットランド、ウェールズ、フランスならパリの美術館巡り、葡萄農園、ドイツならミュンヘン(市内、ドイツミュージアムなど)、古城巡り、アウグスブルクなどの古代ローマ以来の都市、イタリア、スペインまで、足を運んでみることをお勧めします。私は一度、ロンドン発で2週間のヨーロッパ一周のバスツアーに家族4人で参加したことがあり、安全でかつ効率良く、しかもリーズナブルな値段で回れました。それに、世界中から色々な国の人が来てそのバスに乗っていて、その人たちとの交流も面白かったですね。車を運転されるのであれば、レンタカーで一周できますが、日本のような (地図で示すだけでなく、例えば「あと150メートルで右です」などと喋ってくれるような) 親切なカーナビがないのなら、よほど運転に慣れていない限り、左ハンドルでもあるこもあり、やめておいた方が無難でしょう。まあ、今回乗られたような鉄道や路線バスで旅行という方法もあり、現地で経験者に聞いてみるのも、よろしいかと思います。

 前職では、なかなか自由に東京を離れられなかったのですが、現職では、そういう制約がないので、このお正月は、娘一家と沖縄で過ごしてきました。本当に久しぶりの沖縄でして、前回はこの娘が2歳のときに来たので、30数年ぶりに家族で再訪したわけです。レンタカーで一周しました。首里城は建物が再建されて見違えるようになり、空港と首里を結ぶ『ゆいレール』など、色々と観光開発がされていました。特に美ら海水族館は、泳いでいるジンベイザメや熱帯魚たちも生き生きしていて、良かったです。また、東京の気温が昼間でも7〜8度というときに、日中は24〜23度と暖かく、おかげて風邪気味だった家内も、あっという間に治ってしまいました。また、行きたいと思います。

 というわけで、今年もよろしくお願いします。引き続き、学業に、旅行に、生活にと、それぞれなりのご苦労や楽しみがあると思いますが、あなたなら大丈夫です。ヨーロッパで長期間過ごすという機会はめったにありません。何でも吸収し、思うところを表現し、また心と体をリフレッシュして、お元気にお過ごし下さい。そのうちまた、近況のご連絡をいただけることを、心から楽しみにしています。(追伸) 私は、ネットにちょっとしたブログ(http://uu-life.com)を作っています。そこでよろしければ、あなたの今回のメールと写真を引用させていただく、お願い申し上げます。」

 これに対して、また返信をいただいた。

 「先生、お忙しい中ご返信をいただきありがとうございます。先生も素敵な年末年始を過ごされたようで、何よりです!!沖縄は私も大好きな場所です。美ら海水族館も数年前に駆け足で行きましたが、熱帯魚が泳ぎ回る壁一面の美しい水槽は忘れられません。暖かい気候も手伝って、開放的な気分になれますよね。

 英語については、私の場合はある程度準備してきたイギリス留学でかなり苦労していますので、もし自分がいきなり中国で仕事という環境に置かれたら…と思うと、当時の先生のご苦労が偲ばれます。英国に来て『半年』までもう少しですので、私も先生のように『英語をぺらぺら話している自分』の夢を見る日を夢見て(?)日々精進したいと思います!

 仰る通り、ヨーロッパにいますと、中世からこのような美しい大きな建物を造っていたなんて…など、壮大な歴史と豊かな文化にいちいち圧倒されますが、西洋とは全く違う文化を独自に築いてきた日本や中国は、ヨーロッパ人から見ると魅力的に映るようで、彼らの東洋文化への興味関心に時にこちらが驚くこともあります。先日訪れた大英博物館でもちょうど日本の春画展をやっていて、びっくりしてしまいました。

 また、若干ずれた例になってしまいますが、今イギリスでは若者の洋服のブランドで『Super Dry』というものが流行っていて、そこの洋服にはいつも変な日本語がプリントされています。店名も『Super Dry』と並んで『極度乾燥しなさい』という意味不明の日本語?がデカデカと掲げられていて、なんだか不思議な光景なのですが、、漢字や平仮名を理解しないイギリス人にとってみると、その文字の形がデザインとしてクールに見えるようです。>

 国粋主義でもなく、西洋崇拝でもなく、日本人としてのアイデンティティーを持ちながら彼らと柔軟に付き合っていけるのが、今またよく言われている『グローバル人材』なのだと思いますし、自分もそのようになれたらと思いますが、なかなか簡単ではないですね。自分の日本文化への理解の不十分さを反省することもしばしばです。

 2週間のヨーロッパ一周ツアー、素敵ですね!!ヨーロッパはやはり暖かい季節が一番良いようなので、春休みや、修士論文が終わった夏休みあたりにはまたイギリス内外を旅してみたいと思っています。田舎の両親も、海外旅行とは縁遠い人たちなのですが、娘の私がいるとさすがに関心も湧くようで、夏あたりにはイギリスに来たいといっています。その際には、今まで怠ってきた親孝行でもしたいと思います。

 写真やメールは、先生のブログに使っていただけるならむしろ大変光栄です!今後も先生のブログ、拝見させていただきます。きれいな写真もたくさんアップされていて、素敵ですね。六義園や丸の内のイルミネーションなど、懐かしくなりました。また折に触れて、メールで近況のご報告などさせていただきますね。ご多忙のことと存じますが、どうぞお体にお気をつけてお過ごしくださいませ。」



 この方は、勤めてからも引き続き大学院で勉強して修了したという頑張り屋さんである。それだけでなく、勤務先でもしばしば明け方になるという過酷な仕事に数年間も耐えて、イギリス留学組に選抜されたという知力体力人格のいずれも優れた人で、今後、イギリスでの経験をも加えて、ますますご活躍されんことを心から祈っている。こういう方が国の中枢にいる限り、まだまだ日本は大丈夫だという気がするのである。


パリ市内





(2014年 1月 8日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:15 | - | - | - |
沖縄への旅

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 美ら海とフルーツ(写 真)

 首里城公園玉泉洞(写 真)





1.沖縄への旅

 このお正月、2日から5日まで、娘一家を含む家族で、沖縄旅行に行ってきた。もちろん、5歳になったばかりの初孫ちゃんも一緒である。人数が多いのでそれだけ賑やかな旅であった。振り返ってみると、この娘が2〜3歳の頃、やはり家族3人で同じように沖縄に旅行したので、それから30年ほど経って、その娘の子を連れて、またこうして同じ地へと旅行が出来るとは思わなかった。その頃の沖縄は本土へ復帰直後で、こういっては申し訳ないが、目抜き通りである国際通りの建物は貧弱で、米軍人やその車両ばかりが目立ち、道行く人たちからは決して豊かな感じは受けなかった。観光地といっても、首里城は沖縄戦で粉々に破壊されて、守禮之門しか残っていなかったし、玉泉洞も文字通り地の底にある荒れ果てた感じだったことを覚えている。南部の戦跡も、ひめゆりの塔をはじめとして、涙なしには巡ることが出来なかった。

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 それに比べて今回は、沖縄の復興と発展が目に見えてわかり、往時のことを振り返れば隔世の感があって、とても嬉しい思いがした。モノレールの「ゆいレール」から始まり、本島中部に行くまでの高速道路は良く整備され、途中に見かける家々もなかなか立派で、自家用車もかなりの数が走っている。30数年前の記憶は、もう過去の遺物となったかのごとくである。もちろん、今でも基地の負担は重く、沖縄の皆さんの背負う負荷には大変なものがあるが、少なくとも外見からすれば、復帰直後と比べれば、生活水準、社会資本の整備その他の点で雲泥の差があるといってもよいであろう。

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 今回の旅行は、11月の下旬になって急に思い付き、JTBに駆け込んで宿を探したが、もうその時点では有名な所のほとんどは、予約で完全に埋まっていて、ほんの2〜3のホテルしか空いていなかった。美ら海水族館に行きたかったので本島中部に泊まろうとしたら、その付近のホテルはたったひとつしかないという状況であった。ではまあ、残り物に福があるかもしれないと期待して、その残波岬にあるホテルにした。後から沖縄出身の友人に聞くと、そこは一流ホテルとは言い難いということだが、やんちゃ盛りの5歳の男の子を受け入れてもらったのだから、それだけで良しとしよう。

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 飛行機の出発は午前のゆっくりした時間で、JALだった。わずか2時間半の空の旅で、申込が遅かったから座席をまとめて確保することが出来ずに、2組に分かれて座った。初孫ちゃんは親と一緒だったのに、私たちのところに来てしまい、膝の上で何だかんだとおしゃべりをする。幸い、ベルト着用のサインは出なかったが、困ったものだ。途中、エア・アテンダントから飛行機の模型をもらって、とても嬉しがる。これまで、この子の世界は新幹線などの鉄道だけだったが、これに飛行機が加わったようで、親にこんな質問をしたらしい。曰く「飛行機って、羽根が動かないのにどうやって飛ぶの?」これに困った親が、「おじいさんに、聞いておいて、何でも知っているから」と追い出したらしい。

 確かに、こういう機構を分かり易く説明するのは、なかなか難しい。そこで、絵を描いて「ほら、翼の両脇に、ジェット・エンジンというものが付いているでしょう。これは空気を吸い込んで、燃料を燃やして勢いよく吹き出して、その力で飛んでいくんだよ。でも、そのままだと、まっすぐ飛んで行ってしまって、地面の上は凸凹だから何かにぶつかるでしょ。そうならないために翼があり、(その断面図を描きながら)。ほら、上のカーブより下のカーブの方が緩いでしょ。ここに空気が流れるから翼には上向きの力が加わって、それで飛ぶんだよ」と話をした。その場では「ふーん、そっか」という答えだったが、翼とか、ジェット・エンジンという単語は頭に残ったようで、後から会話の中で使っていた。こういう風に、子ともが興味を持った時に真面目な回答をしていけば、何か少しでも記憶の片隅に残り、それが何十年後にまた頭の中から甦って使える知識になるものと思って気長に付き合うしかないと考えている。

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 那覇空港に着いた。初孫ちゃんがお腹を空かしているようなので、沖縄らしい食事をしようとしたが、あまりレストランの選択肢がないようだ。そこで、手荷物受取所近くにあった一番手近な店に入り、沖縄そば定食なるものを注文した。トッピングには、チャーシューではなくて、豚の三枚肉が出てきた。敢えていうと、客家料理の「東坡肉(トーロンポウ)」に似ている、もっとも、あれほどしょっぱくなくて、あっさり目の味付けである。麺はというと、これは蕎麦ではなくて、黄色い中華麺そのものである。小麦だというから、間違いない。全員で、おいしく食べた。初孫ちゃんは、例のとおり豚の三枚肉と麺だけ食べて後は適当に逃げようとするから、無理やり野菜を食べさせた。最近の初孫ちゃんは、弁が立つようになったから困る。こういうのも、交渉事になってしまうからである。

 たとえば、レタスが何枚か小さく切られていて、「それを自分で食べなさい」というと、「だってぇ」と渋る。そこで、一番大きいかけらを箸で取って口元に持っていき、「これを食べなさい」というと、首を左右に振る。「では、こちらにするか?」といってやや小さいかけらを指さすと「うんうん」と頷く。そして気が変わらないうちに、それを口に押し込む。実は最初の大きいかけらは単なるフェイントで、本命は食べさせた方だった。これがバーゲニング方式だとすると、そのほか、ゲーム感覚でリズムよく次々に食べさせるという手も、なかなか有効である。

 それやこれや、あの手この手のテクニックを駆使して、ひと口ずつ押し込み、一番最後に、最初のフェイントのダシに使った大きなかけらを2等分してそれらも口へと押し込み、やっとサラダ皿を完了した。この子の親はいずれも理科系で、こういう弁の立つ子に弁で対抗するという高等(口頭)テクニックを特に持ち合わせているわけではないから、こうした場合には、あまり役に立たない。そればかりか、「早く食べろ」というばかりなので、子供はそっぽを向く。取扱いの難しい年頃なのである。

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 那覇空港から送迎バスに乗って、赤嶺のトヨタレンタカーに行った。実に手際よくさばいてくれていて、セダンを一台借りて、出発した。私も運転しようかと免許証を持って行ったが、娘が「お父さんは20年ぶり、私は10年ぶりだから、私が運転する」というものだから、お任せして後部座席に体を沈めた。ところが、この10年間で車は色々と進歩している。「トランクが開かない」から始まって「エンジンはどうやってかけるの」「サイドブレーキが解除できない」など、難問が続出。トランクを開けるバーは昔通り、運転手席の右脇にあったが、その前にボンネットを開けたり、給油口を開けたり、いろいろとやってくれた末に発見した。エンジンは、鍵を車内に置いて、ブレーキを踏み、それでボタンを押して始動できた。これは、レンタカー会社の人に教わった。さあ発進という段になって、サイドブレーキのバーがない。いや確かに、シフト・レバーの脇にはないな・・・。窓を開けて、レンタカー会社の人を再度呼んでみたら「一番左の小さなペダルがそうですよ」とのこと。そういうことで、出発前から運転者の娘は汗だくになっていた。

 これにカーナビの操作が加わって、ますますややこしいことになった。しかしこれは、慣れるまで面倒だったが、5分ほど触ってみていったん操作方法がわかると、実に便利だった。施設名、電話番号、住所などで目的地を検索して、その通りに運転していけばよい。あと150メートルで斜め左です」などといわれてその通り運転するだけだ。「あと600メートル先に渋滞が発生しています。通過に5分かかります」などと言われる。これも良いのだけれど、いつもどこでも「通過に5分」と言われては、あまり信ずる気が起こらない。それに、高速道路に乗って行きたいと思っても、一般道路ばかりを行ったりする。もっともこれは、もう少し慣れれば、選択の余地があるのではないかと思う。つまり、道路標識を見て高速道路の方へと運転すればよいだけである。すると、カーナビさんが再度計算してくれる。とまあ、そういうわけで、外国に長期間行き、10年ぶりに帰ってきて、技術の進歩にびっくりしたようなものである。初孫ちゃんもいるから、空港周辺の観光はまた後日にすることとして、とりあえず残波岬へと直行することにし、カーナビさんに案内してもらった。途中、1か所で曲がる所を間違えたが、カーナビさんが再計算をしてくれて、大過なく元の道に戻ることが出来た。途中、それまで日本一、人口が多かった岩手県滝沢「村」が昇格して「市」になったということで、それまで人口2位だった「読谷村」が棚ボタ的に1位となったというその読谷村中心部を通って、目的のホテルに到着した。なお、カーナビだけだと現在地がどこかよくわからないので、これにiPhoneの地図のGPS現在地情報を併せてみるとよい。青い点で現在地を示してくれるし、それを拡大縮小すれば、どこにいるのか一目瞭然である。

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 ホテルには、お正月の飾りつけがしてあった。設備としてはプールがあり、その周囲にイルミネーションがあり、露天風呂があり、お土産の売店も充実していて、なかなか良かった。肝心の食事は、バイキングにしても、特に中華料理店にしても、我々の口に合うものが出てきて、家族一同、満足した。初孫ちゃんが大浴場に入るのは生まれて初めてで、どうかなと思っていたところ、女湯の方に行って先にママが入っていたら、もう自分で服を脱ぎ始めたそうだ。ただ、やはり風呂の中で走って、2回ほど尻もちをついたそうだ。ただ、頭は打たなかったので大事には至らなかったけれども、これは、あらかじめ注意しておけばよかったと反省した。露天風呂の方は、最初はおそるおそるという感じだったものが、いったん入るとすっかり好きになり、お湯の温度が低いということもあって、入りびたり状態だったとのこと。機嫌よく部屋に帰り、途中、ゲームコーナーで電車の運転手の役をやってますますご機嫌になり、敷いてあった布団に入ると、すぐに寝入ってくれた。私は、ホテルの舞台で午後9時から沖縄民謡や舞踊をやっていると聞いて、ひとり部屋から抜け出して見に行った。この晩は、民謡の方で天宮実来さんという歌い手が、なかなかの美声を聴かせてくれた。沖縄の方言はわからないが、あらかじめ説明してくれたので、理解して聴くことが出来た。

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2.美ら海とフルーツランド

 翌朝は、沖縄美ら海水族館へと出発した。カーナビさんのおかげで大過なく到着して、あっけないほどだ。ハイビスカスとブーゲンビリアの花が何とも言えず美しい。水族館の中の水槽を見て回る。初孫ちゃんが私にくっついて来ると、左手でその手を引き、時には抱っこをしながら、右手でカメラのシャッターを押すということになり、大変だ。カメラのシャッター速度優先などという操作をしている間もないから、Pモード、つまりプログラム優先の自動撮影モードですべて通した。それでも、魚が結構はっきりと良く写っていたので、意外だった。カメラの性能がそれだけ良いということだろう。水槽内の魚たちをよくよく見ると、東京の水族館の魚のように、せかせかと慌ただしく動くようなことはなく、皆比較的落ち着いてゆったりと泳いでいる。これというのも、近くの海から連れて来られた地元の魚からかもしれない。普通のPモードでもちゃんと撮れていた。

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 さて、いよいよ美ら海水族館の一番の売り物の大水槽中のジンベイザメである。近づいてきた。ああ、かなり上をいくなぁと思ったら、それは3匹のジンベイザメ中の一番上を泳ぐもので、3匹が上中下と住み分けて泳いでいるらしい。それを見て初孫ちゃんが呆然としている。「大きいでしょう」というと、「うん」と首を縦に振った。怖かったのかもしれない。そこで、気を落ち着かせるために、大水槽前にあるカフェテリアで食事とアイスクリームを食べた。大水槽を見上げながらよくよく見ていると、マンタもいるし、マグロのような大型魚もいるし、イワシの大群も中心部にいたりして、なかなか見応えがあった。

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 水族館の建物から出て、海岸に行ってみた。砂浜があり、初孫ちゃんが靴を脱いで喜んで走り回る。水は澄んで綺麗だ。オキちゃん劇場に行って、イルカショーを見ることにした。何しろ初孫ちゃんは、エプソン水族館で、1日3回もイルカショーを見たという強者だから、「ここは、イルカに乗らないの?」とか、なかなか目が肥えている。それにしても、大きなゴンドウイルカがバシャーンと跳ねてはるか上の色つきボールを蹴り、またドッシャーンと水中に戻って行く様は、なかなかの見ものである。

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 少し、雨模様になってきた。そろそろ美ら海水族館を離れる時間である。他にいろいろと子供の喜びそうな観光施設があるが、室内で遊べそうなところとして、沖縄フルーツランドというものが帰り道にあったので、立ち寄ってみた。すると、パパイヤ、スターフルーツ(上の写真)、バナナ、レモン、カニステルなどの果物が生っていた。このカニステルという果物は、私は初耳だったが、熱帯アメリカの産で、エッグフルーツともいわれ、食感は蒸したカボテャのようなものらしい。そのあと、建物の中で、パイナップルに盛られたフルーツの盛り合わせを食べてみた。なお、シーサー(神社の狛犬のような魔除け)を模したような素焼きの素朴な人形があり、思い思いの自由な格好をしていて、なかなか可愛かった。

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 ホテルに戻り、その夜は沖縄舞踊を見た。花笠を被った宮廷風舞踊があると思えば、農民風の衣装や、本土の剣劇のような格好とか、なかなかバラエティに富んでいた。初孫ちゃんのためにママが買ってきた半袖のTシャツに印刷された文字が面白い。「ほっとけ 俺の人生だ」、「少々理由(わけ)あり」。特に、家族写真を撮ろうとして全員横に整列している場面で、初孫ちゃんがひとり拗ねて背中を見せるようなとき、これまでは「ほら、前を向きなさい」と皆で説得していたのに、このシャツを来ていると、ひとり背中を向けていても、「少々理由(わけ)あり」という文字が見えて、思わず笑ってしまうということが多かった。

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3.首里城と玉泉洞

 さて、次の日、どこに行こうかなという話になって、沖縄に来た以上、新装なった首里城と玉泉洞は見て来なければということになり、まず首里城に向けて出発した。なんなく着いて、「昔はこれしかなかった」といいながら守禮之門をくぐり、歓会門を経て、瑞泉門に至った。その脇で国王一族の大切な飲み水である龍樋を見てこの門をくぐり、漏刻門に至って広福門から御庭、そして首里城正殿へと入っていった。色鮮やかな朱色に彩られた世界で、琉球王国の繁栄もかくやと偲ばせるものがある。中の展示物のひとつに、正殿の前の御庭で琉球王朝の百官が並んでいる模型があり、初孫ちゃんが「ああ、こうなっているの!」と声を上げたのが印象的である。

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 首里城を出て、まず玉泉洞を見ようと南下していくと、「おきなわワールド文化王国玉泉洞」というものになっていた。その玉泉洞だが、全長5000メートルの鍾乳洞で、秋吉台に次ぐ規模だそうだ。そのうち800メートルを歩けるようにしていて、まるで地底探検のごとくである。娘一家の初孫ちゃんたちが前を行っていたが、いつの間にか姿が見えなくなった。家内と、「どうしてるのかねぇ、怖がっているのかもしれない」などと話していたら、初孫ちゃん、別に泣かなかったが、やはりかなり怖かったようで、一刻も早く出て行きたいと、さっさと走るように行ってトンネルを出たという。私は、鍾乳洞そのものは見慣れているが、むしろ出口近くに展示してあったこの中で生きている魚というものに興味が湧いた。テラピアや琉球闘魚など、玉泉堂が出来たという30万年前近くに先祖がこんな場所に閉じ込められ、それからずーっと代々、子孫をつむいで地底の川で生きてきたとは、生命の神秘としかいいようがない。

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 最後の日の朝になり、飛行機の時間はお昼の12時半だが、レンタカーを返却する手間もあって少し早めに午前8時半に出た。嘉手納基地の脇の道を通って順調に南下し、10時前には那覇空港に着いて搭乗券をもらったのが11時前である。はて、どうするかと思って、空港から出ている「ゆいレール」にちょっと乗ってみることにした。結局、「旭橋駅」まで行って戻って来たのだけれど、東京の新橋から出ている「ゆりかもめ」をやや小ぶりにしたもので、高いところから市内を眺められて、観光客としてはなかなか良かった。ということで、久しぶりにお正月に行った家族旅行であった。


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(2014年 1月 5日記)


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徒然275.2014年の新年のご挨拶
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(注)河口湖の忍野八海から見た富士山 (平成25年12月29日撮影)


 明けまして、おめでとうございます。


 昨年は、私は第2の職業人生として最高裁判所で司法の道を歩み始め、また近くに初孫が引っ越して来るなど、公私ともに色々と多忙な年でした。とりわけ前職の仕事ではたくさんの皆様からご支援をいただいて、心から感謝申し上げます。後ろ髪を引かれる思いで職を離れたわけですが、信念を貫き通すにはこの結果を受け入れるしかないと思った次第です。

 さてその第2の職業人生ですが、同じ法律分野ではあるものの、法規範の「定立」ではなくて「適用」なので、共通するところは多い反面、違いも際立っていると思うようになりました。たとえば、前職ではすっぽりと抜けていた「証拠の評価」がそのひとつです。同じ事実に基づいて、これを証拠として採用するかどうかという問題であり、また、いったん証拠として採用されても、これをいかに解釈するかという問題です。それを当事者どうし、あるいは検察官と弁護人どうしが、百八十度違う解釈を展開するというのが普通の事件です。もちろん、一見して無理な立論を展開している場合も多いのですが、双方が優秀だと、一瞥した程度ではその真偽が容易にはわからないような巧妙なる理論を展開するので解釈に頭を悩ませるわけです。そうしたとき、どのように解決しているのか色々と観察したところ、法律の文理解釈一本やりで進めていく人、特に民事では当事者の間のバランスを重視して最適な解決を模索しようとする人など、実に様々です。その中で自分なりの道を見つけていこうと思っているところです。

 今年は、果たしてどのような年になるのでしょうか。経済面では、株価など経済指標が引き続き上昇し円安がますます進んで行くことから、長年のデフレ傾向からようやく脱却できることでしょう。しかし、4月からの消費税の5%から8%への引き上げ直後に景気の腰折れが起きないかどうか。アメリカの絶好調の経済に変調が生じてそれが日本経済に悪影響が生じないかが気掛かりです。政治面では、憲法9条の解釈変更のようなことが本当に試みられるのか、これが本当だとすれば、法治国家としての我が国の在り方が問われようとしていると思います。

 内外ともに多事多難な昨今ですが、皆様もお身体を大切にされ、引き続きご活躍ください。私も、日常の仕事を通じて、歴史に残るような良い仕事をしたいと思っています。今年もどうぞよろしくお願いいたします。



(注)富士急ハイランドホテルのお正月飾り


(注)富士急ハイランドホテルのお正月飾り (平成25年12月29日撮影)




(2014年 1月 1日記)


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