初孫ちゃんの幻の花火大会

不忍池の蓮 2013年



 いやはや全くもう、これは本当に大変な一日だった。夏の暑い土曜日のことである。朝ふと起きると、何かしら気力が充実している。そうだ、今日は数ヶ月に一度の家族ランチの日だ。久しぶりに孫娘ちゃんに会える。それに、夕方は花火を見に行くつもりだ。何と本日は、隅田川花火大会、立川花火大会、八王子花火大会と、三つも重なっている日である。それなら、人出も多少は分散されるだろうから、真ん中の立川にでも行くとするかと考えた。ただ、唯一の懸念は、天候である。都心は午後7時頃から雨、ただし2ミリ程度との予報である。立川はもう少し前の午後6時頃から2〜3ミリの雨とのこと。それなら、隅田川の方に行けばよい。家から近いし・・・でも、初孫ちゃんに花火を見せるのが目的だから、あそこは人出が多すぎて、ゆっくり見るどころではないからあまり適当とはいえないなぁ・・・。その点、立川は自宅からは遠いけれども、駅から数分と近いし、芝生の上でピクニック気分でゆっくりと見ることができる。まあこれは、直前の天気予報次第だと考えた。

不忍池の蓮 2013年


 その前に、初孫ちゃんがランチのときに騒がないように少し体力を使ってもらおうと、午前中に上野の不忍池まで蓮の花を見に行くことにした。ちょうど7月末のこの時期が満開の頃である。4歳半となった初孫ちゃんの手を引いて、家から15分ほど歩き、不忍池の畔に到着した。大きな蓮の葉が初孫ちゃんの背の高さ以上に生い茂り、池というより一面が緑の林のようである。その中にぽつぽつと、ピンクの蓮の花が咲いている。午前10時半となってもこれほどの数の花があるので、これがもっと早い午前5時過ぎの開花時刻なら、はるかに多く咲いていたことだろう。そのピンクで美しい花を200ミリ(35ミリ換算だと400ミリ)の超望遠レンズで次々と撮っていく。初孫ちゃんには、どこに被写体として適当な花があるのかを教えてもらった。「あっ、あそこにーっ。こっちにもー」などと指さしながら叫んでくれる。なかなか目が良いので助かる。優秀な助手だ。そのたびに写真を撮るのだが、ときどき、カメラ側で鮮やかな色を強調するフィルターを使ってみる。そうすると、当たり前だがますますピンク色が鮮明になって、美しい写真がたくさん撮れた。このフィルターはこのためにあるようなものだ。途中で驚いたのは、フクロウがベンチにとまっていたことである。こんな近くで、しかもオリ越しではないフクロウを見たのは初めてである。ふと見るとその前には飼い主さんがいて、フクロウの足を紐で縛っている。きょろきょろと動くフクロウの顔を、初孫ちゃんとともに見入ってしまった。もちろん、写真を撮ったことは、いうまでもない。よしよし、今日はなかなかの豊作だと思いながら、初孫ちゃんの手を再び握って、家に帰った。二人でざっとシャワーを浴び、それから家族ランチに向かった。

不忍池ので見かけたフクロウ


 場所は、いつもの通り、帝国ホテルのサールという「バイキング形式」のレストランである。何でも、こちらで日本で初めてのバイキングを始めて、今年で55周年だそうだ。ホテルで色々な種類の料理を並べ、各人がセルフサービスで思い思いに好きな料理をとってきてそれをいただくというこのスタイルをバイキング形式というのは、日本のこのホテルが命名したそうだ。海外のホテルで「ビュッフェ(Buffet)形式」と言っているのが、これに相当する。もっとも、海外のどんな一流ホテルでも、特にアメリカの場合は毎朝毎朝ほとんど同じメニューのビュッフェが多くて、2〜3日ですぐに飽きてしまったなぁ・・・たまに日本食を用意するホテルもあるが、そういう食事に限って、お味噌汁は薄くて具がほとんどないし、鮭の切り身、カップ入りの納豆、そして情けないくらい萎びた沢庵なんてことがあった・・・。

 そんな昔の記憶が一瞬、頭の中を過ぎるが、いやいやこれから楽しい家族ランチだった・・・。我々が帝国ホテルの入り口から入ろうとすると、ちょうど息子夫婦がタクシーから降りるところだった。これで娘のところと我々とで全員そろったので、正面玄関近くの生花・・・この日はひまわりの花だったが、その前で記念写真を撮った。フラッシュを使ったが、やや光量不足で、写真としてはいまひとつだ。これなら、フラッシュのない方が良かったと反省する。初孫ちゃんが楽しそうにスキップをする中、エレベーターにたどり着いて17階に行き、サール・レストランに入った。案内されたのが窓際だったので、良く全員の顔がわかるし、写真うつりも良い。孫娘ちゃんは、もう5ヶ月となった。笑い掛けると、それに応じて笑い返してくるから、その可愛いことといったらない。しかもその体は、いやもう、ふわふわ、ぽちゃぽちゃっとしている。抱かせてもらったが、初孫ちゃんとは大違いだ。初孫ちゃんは男だから、体が硬くて、あちこちごつごつとした筋肉に包まれているという感触だった。それを思うと、孫娘ちゃんとは雲泥の差である。既にこの頃から、男女の差がついているようだ。

不忍池の蓮 2013年


 まずウェイトレスさんが、飲み物の注文を取りに来た。三家族いるが、面白いもので夫婦が注文するのは、全く同じものだ。各家庭、仲良くて結構なことである。それが済むと、バイキング形式だから、まずは各人が第1回目の食事をとりにいく。皆はサラダ類を乗せた皿と、肉や魚とお米やスパゲティを乗せた皿を持ってくるのが一般的だ。もうこの段階から個性が出ていて興味深い。私は、もちろん帝国ホテル名物のパン生地を巻いたロースト・ビーフに直行する。これと、デザートを食べたら、もう後のものはいらないと思うくらいだ。ふと横を見ると、初孫ちゃんがお皿を前に黙々と食べ始めた。いやまあ、すごい速さで肉とパンを口に入れている。その脇で、大人たちが口々に近況を話し合っている。医師と弁護士という職業を付いている2人の子どもたちは、いずれも三十路の半ばなのでちょうど脂がのってくる年代だ。仕事がますます多忙になる一方で、人生を楽しんでいることがよくわかった。それを聞いて、家内ともども心から安心した。ときどき初孫ちゃんも話の中に入ってきて笑いを誘い、愉快なランチが終わった。

不忍池の蓮 2013年


 それから、一度、自宅に戻り、リュック・サックに準備したものを入れて、初孫ちゃんの手を引いて西立川駅に向かった。昭和記念公園の現地に着いたのは、午後6時過ぎである。駅前が花火会場の昭和記念公園の入り口で、そこから中に入ったものの、すぐそこに池と芝生地があったので、もうその場所から眺めることにした。子連れだから、入り口に近い方が何かと便利である。レジャー・シートを広げてそこにリュックを置き、初孫ちゃん用に持ってきた簡単な折畳椅子をしつらえて、そこに座ってもらった。芝生がやわらかいので、私はそのまま横たわる。頬を撫でて吹く風が心地よい。そこで、リュックからパンと水を出して初孫ちゃんに渡すと、満面の笑みをもって嬉しさを表す。それを食べつつ、「あちらの広場の方から打ち上げるので、あそこの上に花火が上がるよ」と説明する。初孫ちゃんは、いちいち頷いて聞いている。

 ただ、唯一の心配は天候である。iPhoneのウェザー・ニュースは、午後7時くらいから雨が降ると予想している。朝にチェックをしたときは午後6時頃からだったから、ちょうど1時間遅れたことになる。この調子でまた1時間ほど遅れれば、花火がある程度見られるから、それで帰途につけばよいと考えた。空を見上げると、西から黒い色の雲が低く垂れこめて来ている。しかもそれらが猛烈なスピートが東に向かって動いているのでまさに雨模様だが、幸い降る気配はない。それどころか、西の方の空は、明るくなっている。それなら天候は持つだろうと自己流の判断をした。夏の夕暮れに、芝生の上に寝転がって初孫ちゃんとじゃれ合うのは、実に楽しい。

 そうこうしているうちに、次第に風が強まってきた。近くの誰かのレジャー・シートが風で飛ばされそうになったと思ったら、私たちのレジャー・シートの四隅が捲れ上がった。これはいけないと、私の靴を四隅の対角線上に置いたが、それでも巻き上げられそうになる。そこで初孫ちゃんが、風で浮いてくるレジャー・シートの四隅の残りの対角線上に、私の真似をして自分の靴を置きに行った。「おお、なかなかやるな」と思っていたら、いやいやそれどころではなかった。新しく来た家族がつい隣の芝生にレジャー・シートを敷き、その四隅の穴にピンを打ち込んでいた。それを見ていた初孫ちゃん、私たちのレジャー・シートが入っていたビニール袋を取り出して、その中からピンを見つけ、それを四隅に打ち込み始めたから驚いた。何もいわれなくて、自主的にそうしたのだから、なかなかの学習能力である。これは凄いと、喜んで、家族にメールで知らせたほどだ。

 そうこうしているうちに、花火大会の始まる時刻である午後7時20分が近づいてきた。ああ、あと5分だと思ったその時、西の空に雷鳴が大きく轟いた。あまつさえ、ピカピカッと稲妻が空に大きく走る。これはいけないと思った瞬間、ドドトーッと豪雨が降ってきた。稲妻と雷鳴がもの凄い。あわてて荷物を取りまとめ、リュックを背中に背負い、初孫ちゃんに小さな傘を渡した。私は、リュックもあるから傘をさすというわけにもいかず、そのレジャー・シートをそのままひっくり返してレインコート代わりとした。そして初孫ちゃんの小さな手を引き、公園の出口に向かった。当然のことながら、豪雨と稲妻を避けようとする人たちで大混雑となった。降りしきる激しい雨の中、我々二人も、駅に向かう大勢の群衆の中にいた。そして、一歩一歩、じわりじわりと駅に向かって歩かざるを得ない。その途中では、初孫ちゃんを励まし、逆に「おじいさん、大丈夫?」などと励まされたりもした。雨がかかるといけないと思って初孫ちゃんを抱き上げたり、しばらくして腕が痛くなってまた下したりを繰り返した。普通ならたった5分しかかからない距離を、何と1時間もかかってやっと駅構内にたどり着いた。ほっとして、駅の改札前の片隅で、初孫ちゃんの濡れた衣服を着替えさせた。そうやってほうほうの体で東京行の快速電車に乗り込んだのである。幸い、乗客の皆さんに、初孫ちゃんがひとり座れるスペースを空けていただいたので、そこに座ってもらった。この一連の行程で、初孫ちゃんは泣きもせず、終始、冷静でいてくれたので、とても助かった。自宅に帰ったらもう午後10時近くで、そのままお風呂に入った。

 お風呂から出てきた初孫ちゃんに、家内が聞いたそうだ。きょうは、大変だったねぇ。」これに対して、初孫ちゃんが答えたそうな。「雷も大雨も怖かったし、駅までは雨が冷たくて長かったけれど、おじいさんが守ってくれたから、良かったよ。おじいさんって、親切だねぇ。」家内の感想は、三つの意味で良かった。一つは、おじいさんが親切だと改めて認識したこと。こういうことは、家に閉じこもって同じことをするだけでは知りえないことですね。二つ目は自分中心だった狭い世界から、人の気持ちや行動を客観的に評価できるようになったということ。三つ目は、いざというとき、自分はどういう行動をすべきかが少しは分かったことですね。」そういうことなら、今日は非常に意義ある一日だったけれども、ともかく疲れた。


不忍池の蓮 2013年






(2013年 7月27日記)


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徒然271.地方都市の表玄関の衰退

高岡大仏



 用事があって、富山県高岡市に行ってきた。羽田空港からANAで富山空港まで飛び、それからリムジン・バスで高岡駅前まで行くという行程である。駅前に到着したというので、バスから降りようとしたところ、駐車場や古ぼけたビル、空き地のような荒寥とした風景しか目に入らなかったので驚いた。私の記憶にある高岡駅前とは全く似ても似つかない風景が眼前に広がっていたからである。いったいここはどこだろうかと、自分の立つ場所がさっぱりわからなくなった。そこで思わず、そのバスの運転手さんに「ここは、高岡駅前ですか?」と聞いてしまった。運転手さんは、「はい、電車に乗られんなら、そこを右に行って、また左に行けば駅ですがや・・・」と富山弁で教えてくれた。その教示された通りに行って駅の階段を上がろうとして気付いた。ここは、昔の高岡駅でいえば裏口に当たる南口へとつながる道だった。いやいや、自分は昔の高岡駅前に行きたいのだがなぁと思ってiPhoneを取り出してGoogle Mapを見たところ、何だ、いま降りた場所から反対側に行くと、目指すホテルがあったのだとわかった。こんなことなら、最初からGoogle Mapを見ればよかった。

高岡駅前の寂れよう


 まあ、それにしてもこの駅前の寂れようといったら、目を疑うほどだ。地元の方々には失礼な物言いで恐縮だが、街の中心部が、あたかも爆撃を受けてそのまま放置されているかのようだ。私の記憶にある数年前の高岡駅前は、かなり衰退していたとはいえ、富山県第二の都市として路面電車が出発し、地下街もあり、それなりの駅前という体裁をしていた。20年ほど前は、忙しく往き行く通行人、荷物を抱えた旅行者と送迎の人、通学途中の学生さんなどで殷賑を極めていた。それなのに今では全く様相が異なっている。たとえば駅の向かって左手にある「高岡駅前ビル」というのは、かつては飲み屋さんが軒を連ねて繁盛していたものだが、今ではまあ、何と言うか、ぼろぼろで荒れたお化け屋敷のようだ。この一帯をよく見ると、駅舎そのものは改築工事をしているようであるが、その駅舎の周辺には、建物が取り壊されたままの空き地や駐車場が広がり、その谷間に打ち捨てられたようにポツンと立つ古びたビルが寂しげにあちらこちらに立っている。地元の人に聞くと、新駅舎は来年春あたりに完成するという。それならこの時期には新しい建物が次々に建築されていてしかるべきなのに、このままではたとえ新駅舎が完成しても、その周辺はこのようにどうしようもなく荒れ果てた状態のままで、変わらないのではなかろうか。

 悄然として言葉もないまま、宿のホテル・ニューオータニ高岡に着いた。なぜこんな地方にニューオータニがあるのかと聞くと、創業者で力士だった大谷米太郎が、この地の出身だったからだという。Wikipediaによると、正確には高岡市ではなくて隣の小矢部市の出身らしいが、その地の貧農の子に生まれて、大谷重工業を作り、加えて満州にまで進出し、当時の「鉄鋼王」とまで呼ばれたそうな。戦後は東京オリンピックにためにホテル・ニューオータニを創設して今日に至っているという。ニューオータニ高岡は、まあ東京の基準からすると星二つにもならないありきたりのホテルで、宿泊料金もそれなりだ。私は禁煙の部屋を頼んでいて、フロントもその旨を復唱していたのに、いざ部屋に入ってみると煙草の臭いがただよっている。これは一体どうしたことだと思った。ただ、それほどきつい匂いではない。ふと見ると、部屋の片隅で空気清浄機が動いていた。こういうのは、禁煙の部屋とは言わないのだが、このホテルはそうではないらしい。

高岡大仏


 まだ日が落ちていないので、外に出てみることにした。ホテルの前から、すぐ近くにある高岡大仏に向かう。奈良・鎌倉と並んで日本三大仏のひとつということだ。鎌倉大仏と同じくこの大仏様は、殿舎のようなものはなく、やはり露天に晒されている。正面から見上げると、両頬がふっくらとしている割には引き締まった印象を受けるお顔をしているから、仏様としては一流の顔をお持ちであると思った。入口の両脇に立つ四天王の分身たちも、それぞれ力強く躍動しているようで、なかなか立派だ。それもそのはずで、この高岡の地元の産業のひとつは鋳物や銅器なのだから、当たり前ということになる。

高岡大仏


 さて、高岡大仏を出て御旅屋通り商店街に向かう。ここは、かつては街を代表するアーケード商店街だったと記憶しているが、土曜日の夕方という稼ぎ時のはずなのに、シャッターが下りている店が多い。これはまた、寂しい・・・なんということだ・・・。出口に近い御旅屋セリオ(高岡大和)という小さなデパートのような建物に入り、その上のレストラン階に行ってみたが、ほとんどのレストランは営業していないようだ。これは、ひどい、旅行者が食事するところがないではないか。仕方がないので、そこを出て、末広町という駅前商店街の方へと行ってみた。20年ほど前は、ここが高岡市の中心市街地だったのだが、今はほとんどがシャッター通り化している。わずかに九谷焼、証券会社、本屋、居酒屋、薬局、パチンコ屋などが店を開いているのみ。客はほとんどいない。侘しい限りだ。道を歩いている人といえば、歩道にたむろしている若者が数人、パチンコ屋から出てきた年配のおじさん、携帯電話で声高にしゃべる中年女性・・・おっとこれは中国語だ。それから、自転車に乗っている黒人女性、あるいは男性数人のグループ・・・これはタイ語で話しているではないか。つまり、寂れた中心街には、外国人ばかりが目につくのである。もっとも、私が行ったときにたまたまそうだったのかもしれないが、いや、それにしてもかつての高岡市のイメージとの落差に驚いた。国勢調査の人口をみると、1975年の181,151人から徐々に増えて、1985年が最高となって188,006人、それから徐々に減ったものの1995年の段階ではあまり変わらずに186,827人。ところがその辺りから次第に減少していき、2005年は181,229人、2010年は176,109人であるが、現在ではさらにここから減っているものと思われる。若者が都会に出て行って、代わりに外国人が生活費の安さを求めて入って来たのではないかと考えている。

 東京の真ん中に住んでいると、街の中や電車の中に人が溢れているのは当たり前の風景である。ところが、こうして地方都市の姿を目の当たりにすると、これが人口減少の社会の縮図で現実のことなのだという思いがする。それにしても、ここまでとは想像しなかった。一家に一台どころか、大人一人に一台というモータリゼーションの進展と、道路網の整備、それに郊外立地型のスーパーやモールの出現が、街の中心部の衰退をもたらしたのである。狭くて駐車場の確保も出来ない駅前や中心部などは、モータリゼーションの社会からは疎外されていくしかない。

 地元の皆さんによればあと2年もすれば北陸新幹線が金沢まで伸びるので、その途中の高岡にも新駅が出来る。そうなると東京まで2時間半で行けるという。現在、東京・富山間をJRで行こうとすると、上越新幹線経由で、ほくほく線へと乗り継ぐから4時間かかっている。それが半分近くになるというから朗報ではあるものの、それで若者の人口流出が止まるかどうか疑問である。ただ、そうなると新幹線の駅の方に商業施設が集まり、在来線の駅の方はますます寂れるので、それもあって商人の皆さんは従来の高岡駅周辺に投資することはしないのだろう。

 そんなことを思いながら、帰京の途に就いた。富山空港で乗ったANAの機体がいやに新しい。ひょっとしてと思って機内の案内をみると「ボーイング787−8」とあった。ああ、あれだ・・・バッテリーからの出火が2件も相次いだことからアメリカ連邦運輸局から1月に運行停止命令が出され、原因不明のまま対策を講じて4月下旬にやっとその命令が解除されたばかりの機体である。つい先日は、バッテリーとは関係ないとはいえ、駐機中のエチオピア航空機でまた出火騒ぎを起こしている。進んで乗りたいとは思えない機体だ。しかも私の席は、問題のバッテリーが装備されている場所(翼の下)の真上ときている。こういうときは、危ないかもしれないと思いつつ乗っていたが、幸い、特に何事もなく順調に飛行して着地することが出来た。




(2013年 7月15日記)


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