徒然270.まち並みウォッチング

本郷図書館内の汐見地域活動センター集合


 平成25年度第1回文京区まち並みウォッチングなるものに参加して、区内東部を歩き回ってきた。主催は文京区都市計画部計画調整課、説明者は北海道大出身の東京大・大学院卒の人で近くに事務所を構えている若手の人である。私も、実は景観法の制定と最近行われたその一部改正に携わったことがあり、実際にどのように景観法が運用されているかを知りたかったためでもあるし、ひょっとして私の知らない話でも聞けるかもしれないという期待もあった。

島薗家住宅から説明開始


 当日は日曜日で、本郷図書館内の汐見地域活動センターに朝9時の集合である。私は暇にしている初孫ちゃんの手を引いて参加。会議室に集まったのは、定員の30名を超えていそうなぐらいの盛況である。ただし、若い人は皆無といってよく、おおむね50〜70歳台というところである。30分くらいの説明を聞いて、さて本郷図書館を出発という段になる。

 まずは(1) 島薗家住宅。かつての東京帝大医学部教授の住宅で、設計は矢部又吉。外から見ると黒塀で囲まれ、見越しの松ならぬ木が生えていて、私の小さい頃にはよく見かけたちょっとした住宅に過ぎないが、今や国登録有形文化財だという。へぇえーと驚くとともに、自分が歳をとったことを実感したようなものだ。

島薗家住宅


 その前を走る単なる道路なのだが、(2) 千駄木小学校前通りで、約10年前に整備されたコミュニティ道路だという。その「起源はオランダのボンエルフ(woonerf、「生活の庭」)で、住民たちが生活道路に車が進入することを防ぐために花壇や敷石を置いたのが始まりで、1971年にデルフトで実用化された」そうな。そんなことを勝手にすれば刑法の往来妨害罪になりかねないが、「日本ではコミュニティ道路として行政が取り上げるところとなり、1980年に大阪市阿倍野区長池町で初めて設けられた」という。確かに、わざと車道を狭くし、またカーブを付けたりして、車は通りにくいような道にしてある。それとは別に面白かったのは、電線の地中化が中途半端になっていた点である。どういうことかというと、この道路には確かに電線はなく、すべて地中に埋まっているのだが、相変わらず電柱が突っ立っていて、そのてっぺんにはお馴染みの変圧器がちょこんと乗っているのである。見方によると、なかなかシュールに雰囲気がするが、慣れれば、電線がないだけすっきりして気持ちがよい。

コミュニティ道路の中途半端な電線の地中化


 このコミュニティ道路なるものを見て思い出したのは、若い頃駐在していた東南アジアでの出来事である。私の住んでいた地区は、幹線道路の交差点から道路を一本入ったところにあって、その二本の幹線道路を大きく弧を描くように繋いでいるまさに「生活道路」があった。ところがモータリゼーションが急速に進み、そこに相当なスピードで進入して来る車やオートバイが増えてきた。その苦情が市役所に入ったのか、ある日突然、道路の入り口と中途の各所に工事が入った。そして出来上がったものを見て住民はびっくり仰天した。そこには、「牛の背中」と呼ばれる盛り上がりが道路をまたぐように二つ並行に作られていて、そこをスピードを上げて車が通ると、ガッタンガッタンと二回大きな衝撃を受ける。当然、そこを通過する直前にはほとんど止まらんばかりにまで速度を落とさないと、車に乗っている人は舌をかんだり頭を天井にぶつけたりしかねないという有り様だ。住民は最初は喜んだものの、すぐに嫌になった。なぜなら、自分たちの車もそういう目に遭うだけでなく、その付近に住民は車が通るたびに急ブレーキの音とこのガッタンガッタンという騒音に悩まされるようになったからである。これを除去させるべく、住民の代表者が署名を集めて運動していたことを思い出す。

安田楠雄邸


 (3) 安田楠雄邸庭園は、「大正7年、豊島園の開園者として知られる藤田好三郎がこの地を購入し、邸宅を建設した。大正12年、安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入し、昭和12年に長男楠雄が相続した。建物は、伝統的な和風建築の書院造りや数寄屋造りを継承しながらも、内部に洋風の応接間を設けるなど、和洋折衷のスタイルも取り入れた」とある。実はここは、公開されているときもあるので、私も何回か訪れたことがある。本日は、ただ外から見るだけだ。

千駄木宿舎の生垣のある部分とない部分


 (4) この千駄木小学校前通りに千駄木宿舎という公務員住宅があってフェンスに囲まれている。ところが道路に面した部分はフェンスだけなのに対して、脇の道に面した部分にはフェンスだけでなく生垣がある。これを評して説明者は、「この設計者に景観を大事にするという発想があれば、これを逆にすることも出来たのに、惜しいことをした」という趣旨のことを語っていたが、まさにその通りだと思った次第である。

大給家の屋敷にあった大平イチョウ


 (5) 大給坂(おぎゅうざか)というのは、「かつてこの坂上の子爵・大給家の屋敷があったことから名付けられた。大給氏は、戦国時代に三河国加茂郡大給を本拠とした豪族で、徳川氏の母体となった松平氏の庶流。近くの千駄木第2児童遊園にある大イチョウはもともと大給家の屋敷にあったと言われるもの。屋敷には総理大臣大平正芳も住んだこともあり、敷地を文京区に寄付したことから大平イチョウとも呼ばれる」とある。確かに、なかなか立派な大銀杏が児童公園の隅にそそりたっていた。

千駄木三丁目のまち並み


 (6) 千駄木三丁目のまち並みとあるが、正直言って何がポイントなのか良くわからなかったものの、上り坂の付き当たりに緑が見えるところが何かほっとする気がするし、それから周囲の家の塀の雰囲気がどこそこ調和している感じがした。まあ、そもそも高級住宅地だから、雰囲気が良いのは当然である。

須藤公園


 (7) 須藤公園は、私もよく行く素晴らしい公園である。都会の真ん中にはあり得ないような深山幽谷の趣きがあり、中でもその池はさすがに大名屋敷だった頃の面影が残っている。池とその周辺の緑、そして池を巡る橋の欄干とお社の緋色の対比が秀逸である。ここは「江戸時代、加賀前田藩の支藩大聖寺藩主松平備後守の屋敷であった。このあたりは江戸の郊外で、閑静で敷地も広く、地形を立体的に巧みに構成して、遊歩道をめぐらした趣のある庭園」とある。

森鴎外記念館


 (8) 森鴎外記念館中庭で、「文京区千駄木は、鴎外がその半生を過ごした地。記念館の建つ場所は鴎外の旧居『観潮楼』の跡地」ということだが、ここはしばらく改築工事がされていて、2012年に新しいこの建物が完成した。しかし、私はこの新しい記念館が、どうにも好きになれない。まるで中世の城のようで、鴎外の時代の雰囲気も何もあったものではない。むしろ。前の建物の方が、庭の大銀杏のところから海の方をしばしば眺めていたという鴎外を偲ばせるものがあったと思う。

藪下通り脇道の上り坂


 (9) 鴎外記念館から、藪下通りに入って根津へと向かう。ここは「鴎外の散歩道といわれ、団子坂や駒込への間道として、大地の縁辺を自然に踏み固めて出来た道である。台地上一帯は、太田道灌の子孫といわれる太田備中守の下屋敷木があった」とのこと。この道は、散歩の行き帰りなど、不忍通りの喧騒を避けて千駄木に行くときに、私もよく使っている。なかなか雰囲気のある道だとは思っていたが、なるほどそういうことだったのかと初めて知った。坂の途中に丸い石を使った脇道の上り坂があった。初孫ちゃんは、しばしばここを駆け上がって降りてくる。

根津神社楼門


 (10)根津神社は、「五代将軍綱吉の兄である甲府中納言綱重の屋敷で、六代将軍綱豊が生まれた地であり、根津神社はその産土神となった。後、宝永3年(1706)に綱吉は現在地に社殿を造営した。本殿、拝殿、幣殿、唐門、楼門が国の重要文化財に指定されている」ということで、私の初孫ちゃんなどは、ほとんど毎日のようにここに来て、鯉や亀と戯れ、鳩と遊んでいる。歴史があるのに、普段はとても静かな社だが、躑躅の季節と秋の例大祭の時期には、人波でごった返す。地域にとっては、なくてはならない大切な空間である。

根津神社のつつじの木


 (11)根津2丁目の建物は、最近建てられた単なる民家ではあるが、その施主の話として「昨年2月に建て替えた。周辺にある建物の色を参考にしたり、様々なサンプルを見た上で木目調の格子を選択したりと、根津のまちの雰囲気をどうしたら残せるのかをよく考えた上で、意匠を決定した」とのことで、なるほど、地域にぴったりのデザインの家となった。願わくば、このような家を孤立させるのではなく、町全体がこれに倣えばよいのにと思う次第である。

根津2丁目の民家


 (12)釜竹と老人ホームについては、「石蔵は明治43年に建てられ・・・現在はうどん店として活用されている・・・老人ホームは平成17年に竣工し、設計は隈健吾建築都市設計事務所」とある。実はこの地には、かつては茨城県の宿舎があって、昔ながらの和風の雰囲気の良い建物であったが、あれあれよという間に、この老人ホームとなった。でも、正面には竹が植えられ、老人ホームの各階は木造のテラスのようなものがあり、これはこれで、なかなか趣のある建物となっている。この蔵を利用したうどん屋である釜竹には、しばしば訪れる。

釜竹と老人ホーム


 (13)最後は、国登録有形文化財はん亭で、「大正6年に建てられた木造3階建、瓦寄木棟屋根の店舗建築である。ほぼ同面積の階を三層に重ねた町屋で、根津地区のランドマークとして知られる。現在は内部を改装して串揚屋になっている」ということだが、確か元々は浅草の下駄屋さんの建物だったと聞いたことがある。確かに、見るだけで心安らぐ建物ではあるが、それにしても、ここは裏通りであることから、電線や光ケーブルがたくさんもつれ合うほどに縦横無尽に張り巡らせてあって、これは何とかならないものかといつも思っている。

はん亭


 ということで、根津のふれあい館で解散となった。初孫ちゃんも、頑張って付いて来てくれた。ご苦労さまと言いたい。それにしても、文京区もなかなか良い施策を行ってきていて、たとえば「文の京 都市景観賞」というものを作って建築物・道路・公園などから区を代表する景観形成に貢献している建物や団体を表彰し、あるいは景観や屋外広告物や色彩のガイドラインを設けている。最近では、今年5月から景観法に基づく景観行政団体になって、建築物の形態、色彩、意匠などについて、法に基づく規制等を行うことが出来るようになったとのことである。景観を良くするため、どんどん進めて行ってほしいものである。




(2013年 5月26日記)


カテゴリ:徒然の記 | 19:48 | - | - | - |
法曹養成制度検討会議

舎人公園の菖蒲



 法科大学院について、しばらく大きな動きがなかったことから、私もこれをフォローすることは控えていた。ところが、2013(平成25)年4月9日、政府の「法曹養成制度検討会議」(座長:佐々木 毅 学習院大学教授・元東京大学総長)が、中間的とりまとめを公表した。これは、法曹有資格者の活動領域の在り方から始まって、今後の法曹人口の在り方、法曹養成制度の在り方に及ぶもので、法科大学院を巡る様々な問題点を指摘している興味深い報告書である。これに即して、私なりに考えるところを披露すると、次のとおりである。

 第1に、司法制度改革当時の見込みと異なり、「法曹有資格者の活動領域は広がりつつあるものの、その広がりは未だ限定的といわざるをえない」。考えてみればそれは当然のことで、この20年以上にわたって経済は低迷が続いてきたし、それ以前に日本は、アメリカのような訴訟社会ではないから、そもそも法律の専門家に対する社会のニーズはそれほど高くはない。その一方で司法試験合格者の数を毎年1200人程度から2000人を上回るほどに急増させたものだから、需給バランスが大きく崩れてしまった。法曹人口の数は法科大学院制度が開始された2004年と比べて5割も増加した。その結果、昨年12月に司法修習を終えた人のうち就職先となる法律事務所が見つからずに弁護士登録を見送った人は26%にものぼった。ちなみに2007年はこれは7%にすぎなかったので、就職難がそれだけ進んだということである。これに伴い、弁護士間の収入格差が開き、下位に属する階層が増えた。

 第2に、今後の法曹人口の在り方につき、「現在の法曹養成制度を取り巻く状況に鑑みれば、現時点において、司法試験の年間合格者数を3、000人程度とすることを目指すべきとの数値目標を掲げることは、現実性を欠く。現状においては、司法試験の年間合格者数の数値目標は設けないものとすることが相当である」とする。現実に、ここ数年の合格者数は2000人〜2100人程度(合格率25%)にとどまっていることから、当分はこの程度の数字で推移するものと思われる。

 第3に、法曹養成制度の在り方についてであるが、まあこれは「そもそも法科大学院制度なるものは止めてしまえ、現実にその導入前と同様の受験を可能とする司法予備試験の出願が2013年に1万1255人に達し、しかもその合格者の司法試験合格率が68%と、法科大学院修了生の25%を大きく上回ることからも、法科大学院は不要であることが明らかだ」などとする主張に反論するためか、「法科大学院を中核とする『プロセス』としての法曹養成の考え方を放棄し、法科大学院修了を司法試験の受験資格とする制度を撤廃すれば、法科大学院教育の成果が活かされず、法曹志願者全体の質の低下を招くおそれがある」としている。しかし、法科大学院に行くとなると、私立の未修者の授業料だけで400万円近く、これに生活費を加えると1000万円ほどの費用がかかる。優秀な受験者にとっては、果たして合格率が単年25%程度の『プロセス』にそれだけ支払う価値があるものかどうか疑問であろう。

 ここはやはり、法科大学院修了者の合格率を当初想定の7〜8割とし、それに見合うように法科大学院の定員を大幅にカットすべきであろう。半減させてもよいくらいである。ところが現実には、制度発足当初の法科大学院の数は74校、定員は5825人にのぼり、もうそれだけで単年合格者数の3倍である。もっとも、その後、定員をカットして2013年度は4261人となり、また姫路独協大や明治学院大など6校が既に学生募集を停止し、東北学院大も2014年度から募集をせず、また桐蔭横浜大と大宮法科大学院は2016年度から統合の予定であるが、それでも定員はまだまだ大幅に過剰である。とりわけ問題なのは、法科大学院間の合格率の格差が激しく、2012年では一橋大57.0%、京都大54.3%、慶応義塾大53.6%、東京大52.2%のようなトップクラス校とは対照的に、合格率が10%未満の法科大学院が20校もあるという見るも無残な状況である。こういう法科大学院は、学生や社会に対して責任を感じてしかるべきだと思う。

 この点、今回の報告書は、「現在の教育力に比して定員が過大な法科大学院が相当数あり、また、全体としても定員が過大になっていることから、入学定員については、現在の入学定員と実入学者数との差を縮小していくようにするなどの削減方策を検討・実施し、法科大学院として行う教育上適正な規模となるようにすべきである。その上で、その後は、法曹有資格者の活動領域の拡大状況、法曹に対する需要、司法試験合格者数の推移等を見つつ、定員の見直しを行うべきである。司法試験受験資格を原則として法科大学院修了者に限定している以上、法科大学院が法曹養成の中核としての使命を果たし、それにふさわしい教育の質を確保する観点から、課題を抱える法科大学院の自主的な組織見直しを促進するためにも、公的支援の見直しの方策を更に強化すべきである。その際、財政的支援の見直しのみならず、人的支援の見直しについても実施すべきである」とする。全く、その通りである。

 以上が今回の法曹養成制度検討会議報告書について、私の思うところである。しかし、問題はこれだけではない。私は、都内の国立と私立の法科大学院で数年間教えていたことがある。そのときの経験によれば、法科大学院の理念に基づくカリキュラムと教師陣の構成が、そもそも学生のニーズに合っていないのではないかと思うのである。つまり、学生は、要するに司法試験に合格したいし、合格したらすぐに「実務の専門家」として働きたい。しかし、法科大学院の理念は、私なりに解釈すれば「かつてのような司法試験受験塾ではなく、もっと高度な学問の香り豊かなことと様々な専門分野を教えるもの」というものである。その結果、法科大学院の先生方の構成は、大半が法学部の先生方で、これを中心に裁判官や検察官や弁護士などの実務家を若干入れるということになっている。ところが、誤解を恐れずに敢えて一般論を言えば、法学部の先生方は学問の香り高いことを教えるのは得意であるが、判決文や起訴状の起案や具体的事例に即して各種の証拠を積み上げていくという訓練などはほとんど経験がないであろう。その反面、実務家は学問の香り高いことは苦手ときている。

 このような教師陣の構成は、そもそも法科大学院の理念とは相容れるものではないのである。だから、法科大学院は既修者の2年コースであれば、1年目は学問的なことを教えてよいが、2年目はすべて実務家が教員となって、判決文や起訴状の起案をどんどんさせていって、またそういう問題を司法試験として出せばよいのである。ところがどの法科大学院でも、法学部の先生方を中心に教師陣を組み、学問的なことばかりを教えようとするから、最終学年になっても法律的な文章も書けないという目を覆いたくなるような学生さんを輩出してしまうのである。私は、そういう学生さんを見ていて悲しくなり、自分でも工夫してなるべく実務的な文章を書かせるようにしてきたつもりである。それはそれなりに学生さんからは評価されたが、本来であれば、どの教師もそのようにしなければ、実務家の養成など、出来るものではない。それに加えて、もうひとつ大きな問題がある。このようにすると、今度は「法科大学院は、受験塾ではない」などという不思議な反論に遭いそうなのである。もうこのあたりは、法科大学院信者のドグマとしか言いようがない。しかも、こんな受験教育はしないなどということが法科大学院評価の重要な基準となっているから、ますます始末が悪いのである。私は、法科大学院の教師陣を法学部の先生主体ではなく実務家主体とし、かつての司法修習所の1年目でやっていた座学と同じことをすればよいと思うのであるが、そうすると、教育者を任ずる皆さんからの強い異論が予想されるところである。



(2013年 5月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:53 | - | - | - |
初孫ちゃんと遠足 (2)葛西臨海公園

葛西臨海水族館



 先週の日曜日は初孫ちゃんと2人で遠足をし、東京の西にある昭和記念公園に行ったばかりであるが、今週の日曜日はそれでは東京の東にある葛西臨海公園に行ってみた。葛西臨海水族館には2年前にも行ったことがあるので、行き方はわかっているつもりである。しかし、我が家からどうやって行くのが合理的かを改めて時刻表アプリで検索してみた。そうすると、以下の3ルートには若干の運賃の差はあるものの、驚いたことに、その所要時間はいずれも47分と出た。

(1) 我が家(千代田線)→日比谷駅で日比谷線乗換え→八丁堀駅で武蔵野線(京葉線)乗換え→葛西臨海公園駅(運賃計320円)
(2) 我が家(千代田線)→日比谷駅で有楽町線有楽町駅乗換え→新木場駅で武蔵野線(京葉線)乗換え→葛西臨海公園駅(運賃計380円)
(3) 我が家(千代田線)→大手町駅で丸の内線乗換え→東京駅で武蔵野線(京葉線)乗換え→葛西臨海公園駅(運賃計370円)

 これを比較すると、要するにどの駅で武蔵野線(京葉線)乗り換えるかということに尽きる。ただ、この手の時刻表アプリでは出て来ない重要な要素として、乗り換え位置の問題がある。たとえば、(2) 新木場駅ルートの欠点は、日比谷駅で有楽町線有楽町駅に乗り換えるところで、かなりの距離がある上に、階段を上がったり下がったりで、こんなところを4歳の子の手を引いて行く気はしない。(3) 東京駅ルートも、大手町駅で丸の内線乗換えというところが狭い通路を延々と歩く必要がある。その点、(1) 八丁堀駅ルートというのは、思いつかなかった。別途の構内図を参照すると、この方が日比谷駅でも八丁堀駅でもはるかに乗換えやすい。そこで、このルートにして実際に行ってみたら、子連れにとっては非常に楽だった。この場合はたまたま運賃の関係で最安値が最適ルートではあったが、やはり時刻表アプリというのは、あまり鵜呑みにしてはいけないが、役に立つこともあるという見本である。

 それはともかく、初孫ちゃんも、海が見られるということそれだけで、もう最初からルンルン気分。上機嫌で、電車に乗った。途中、武蔵野線(京葉線)に乗ったところ、これは、ディズニーシーに行く電車だよー」という。なぜ知っているのかと聞いたら、親とともにディズニーシーの年間パスポートを持っていて、いつも通っているルートらしい。よく聞くと、(2) 新木場駅ルートの日比谷駅で有楽町線有楽町駅乗換えて行っているという。おやおや、これは知らなかった。

葛西臨海公園駅前噴水


 葛西臨海公園駅に着いた。駅前に噴水があり、小さな虹が見えて、初孫ちゃんがそれをじっと眺めている。そして、「ねえ、どうして虹が見えるの?」と聞いてきた。以前も、日比谷公園の大噴水の虹について聞かれたことがあったなぁ・・・「お日様の光が、水しぶきに当たって7つの色に分かれたんだよ」と答えておいた。その駅前の噴水の向こうには、大観覧車が見えた。さて、駅前から海に向けて歩き出した。初孫ちゃんが「あっ、鯉のぼりだ」と叫んだ。なるほど、道の向こうの方にいくつか鯉のぼりがぶら下がっている。横一線に張られたロープにまるで目刺しのようにぶら下げられている。そのうちの何匹かは、風でロープを一周してしまったかのようで、痛々しい。これは、ロープを緩めて地面に下ろさないと直せないだろう。

葛西臨海公園駅前鯉のぼり


 歩いて行って、パーク・トレインの停留所のところに出た。あと5分で出発だという。満員に近いが、何とか2人で乗ることが出来た。ガタガタガタ、ジョリジョリジョリという騒音を立てながら、トレインは走り出した。係員の方が手を振り、初孫ちゃんもそれに答えて手を振った。そして「この電車、うるさいね」などと生意気なことをいう。確かに、耳障りなうるさい音を立てる。整備が悪いのか、それとも機材そのものが古くなってしまっているのかだろう。公園内を一周するから、どこに何があるのかがよくわかる。海が見えた瞬間、初孫ちゃんが降りたがったが、都バスのような停止ボタンはないし、はてどうしたものかと思っていたら、どうやら止まりたいところで手を上げれば、最後尾にいる車掌さんが世話をしてくれるらしい。

葛西臨海公園のパーク・トレイン


 それで結局、かなり行った後で大観覧車近くの停留所で降りた。さてここから海にどうやって行こうかと考えながら歩いていると、色とりどりの花が丘いっぱいに咲いているところに出た。いやこれは壮観だ。初孫ちゃんと一瞬、その非現実的風景に見とれる。咲いている花の色は主に赤だが、ピンクや紫がある。赤やピンクは、ケシ科のポピーの花だ。赤いお椀のような花びらの真ん中にやや妖しい雄蕊や雌蕊がある。これが咲くまでの緑の蕾がまた、ひげが生えていてなかなか妖しい雰囲気を持っている。私が写真を撮っていると、ひとつひとつの花には全く興味がない初孫ちゃんがどんどん行ってしまうので、十分に撮れなかったのが、いささか心残りである。

葛西臨海公園の丘いっぱいに咲いているポピーの花


葛西臨海公園のポピーの花


 そうやって2人で進んでいくと、思わず淡水の池に出たのである。しかもそこに、ピンクの美しい睡蓮が咲いていた。その周囲に大きな本物の鯉がいて、初孫ちゃんは、パンくずをやりたがった。幸い、ママお手製のパンが手元にあったので、それをあげると、初孫ちゃんは喜んで池の中に投じた。全長80センチはあろうかと思われる大きな鯉が近づいてきて、パンをガボッと音を立てて飲み込む。すごい迫力だ。それを喜んだ初孫ちゃん、全身をエビのように反らせて、パンのかけらを投げ込む。それがはるかに遠くに着水した。いつの間にこんな投げ方を覚えたのかと思うほどである。それをひとしきりやっていたが、いよいよ我々が食べるパンがなくなりそうだという段になり、何とか止めてもらった。

葛西臨海公園駅の淡水池の美しい睡蓮


 その池を過ぎていくと、バーベーキュー広場に出た。初孫ちゃんは興味深々で焼いているところを見ている。こんなものを見るのは、初体験だから面白かったのだろう。欲しがる前に、あわててそこを通り過ぎた。すると、いよいよ海である。広々として、波打つ海面がきらきらと輝いている。初孫ちゃんは、その海を見た瞬間、両手を上げて喜ぶ。さんざん歩いた後のことだから、嬉しかったらしい。それで急に海に向けて走り出した。かなりの速さで、追いつくのが大変だ。私がハアハア、ゼイゼイと追いついたのを尻目に、海中に築かれた護岸の大きな岩の上を行き出した。危ない危ないなどとあまり口煩く言うと小粒な人間になりかねないので、よほど危険な場合を除いて、細かいことは言わないことにしている。案の定、足を滑らせかけたが、自分で踏みとどまった。結構、結構。男の子には、こういうちょっとした冒険が必要だ。そうこうしているうちに、その辺で拾った石を投げ始めた。そこで初めて、「周りに人がいないことを確かめてね」と声を掛けた。本人は、「うん」と頷いて、黙々と石拾いと投擲にいそしんでいる。

 やがてその石投げスポットにも投げる材料がなくなり、移動することにした。そこでこの際、「あっちのなぎさの浜に行かない?」と聞き、それはどこだという顔をしたので、対岸を指さした。「うん、行こう」と短く答えたので、2人で葛西渚橋を渡って西なぎさに行った。白い三角屋根のテントがあったので中を覗くと、潮干狩りの人用の足洗い場である。そういえば、たまたま行った時間が引き潮のときで、砂浜が露出していて、たくさんの人が熊手を持って掘っている。初孫ちゃんが「あれは、何をしているの?」というから「この間、グランマがアサリの味噌汁を作ってくれたでしょ。あのアサリという貝を探しているのだよ」と教えた。「ぼくもやりたい」というのかと思ったが、そうはならなかったので、ややほっとした。

 その辺りを散策し、そのうち砂浜を駆け巡り始めた。さきほどのテントやトイレの他には見渡す限り何もさえぎる物もないし、もちろん車や自転車もないから走り回る子供を見守るには便利なところだ。しかし、かんかん照りのお日様の下なのに、よくこれほどまでに元気なものだと感心してしまった。それに引き替え、いやもうこちらは脱水気味で、お腹も空いてきて、グロッキー気味になった。そこで、初孫ちゃんが私のところに戻ってきたときに「お昼を食べない?」と聞くと、あっさりOKした。

 それで、潮風の広場まで戻ってベンチに座り、ママお手製のパンをかじり、桃のジュースとラフランス(西洋梨)のジュースを飲んだ。特にこのラフランスのジュースは、実は果汁20%のゼリーで、駅の自動販売機で300ミリリットルのボトル入りとなっている。何しろゼリーだから、キャップを開けて飲もうとしても、そのままでは出て来ない。キャップを占めた状態で10回ほど振れと注意書きにある通り、簡単には飲めない。初孫ちゃんはかえってそれが面白いらしくて、振っては飲み、振っては飲みを繰り返し、とうとう飲み干してしまった。

葛西臨海水族館の丸いドーム


 そこで、初孫ちゃんに問うた「大観覧車に行くか、それとも水族館に行くか、どっちがいい?」。すると、案に相違して「水族館がいい!」と言ったので、展望台の建物の脇を通って葛西臨海水族館に行った。入場料を支払い階段を上がっていくと、いつものガラス製の丸いドームが現れる。前回来たときは、曇り空のせいかあまり美しいとは思わなかったが、この日は快晴の青空のおかげで、その中にすっくと立つ丸いドームはどこまでも美しかった。また、ドームの手前にある池も、水をたたえて誠に綺麗で、その向こうにまるで3隻のヨットのように見える白いテントの上部と良くマッチしていた。

葛西臨海水族館のヨットのように見える白いテント


 丸いドームの地下に降りていって水族館に入ったが、こちらの呼び物はクロマグロの大水槽だ。たくさんのクロマグロがいたが、近畿大学の水産研がこの完全養殖に成功したことを思い出した。ぐるぐる回る速度は速いなと思ったら、最高で時速160キロも出るそうだ。しかも、そうした高速の回遊をしないと窒息して死んでしまうと聞いたことがある。そういうことを初孫ちゃんに説明しようとしたら、あれあれ「ねぇ、暗い所から早く出ようよ」と言う。トンネル状の暗い場所は嫌いなようだ。それに続く熱帯の海などを見たいのに、さっさと手を引っ張られてドームの中の上階に出た。そこは明るい。しかも、その上に階段があって、各水槽の上を見下ろすような造りになっている。しかもあまり人がいない。初孫ちゃんは急に別人のように生き生きとして、その階段や渡り廊下のようなところを走り回り始めた。いやはや、元気だ。

葛西臨海公園駅クロマグロの大水槽


 そこを出て、併設のレストランに入る。見本を見て「何を食べる?」と聞くと、マンゴープリンだそうだ。では私は、抹茶プリンにした。それらをプレートに乗せて席に座り、スプーンを握ると、ニコーッとして、実に嬉しそうな笑みを浮かべる。そして、マンゴープリンの上に乗っている白いクリームを食べ始めた。それだけでは足らずに、私の抹茶プリンの上に乗っているクリームも欲しいという。やれやれと思ってあげると、それも勢いよくぺろりと平らげてしまった。

葛西臨海水族館の熱帯魚


 そのレストランから出てテラスに行くと、初孫ちゃんは、その開けた空間でまた高速回遊を始めた。この暑い気候であまり元気に走り回られて熱射病になっても困るので、適当に切り上げてペンギン舎に行き、「この中に(2012年3月に)逃げ出したフンボルトペンギンがいるんだよ」と説明した。初孫ちゃんは、あまりピンと来ていない様子だ。それで、屋外の水辺の自然を見て、帰ろうとしたら、初孫ちゃんが聞いてきた。「さあ、イルカのショーを見に行こうよ。あの、水がザブーンと掛かるの」。確かに、エプソン水族館や品川水族館には、いるかのショーがある。しかし、この葛西臨海水族館には、そういう展示はない。そんなことを説明したら、いささか物足りなさそうだった。それを期に、家路につくことにした。帰る途中に案の定、電車の中で「抱っこ」と言われて、腕の筋肉の訓練をさせられた。そのときは何ともなかったが、翌朝、起きたら両手と両肩が痛かった。

葛西臨海水族館のペンギン





(2013年 5月12日記)


続きを読む >>
カテゴリ:エッセイ | 23:03 | - | - | - |
孫娘ちゃんは2ヵ月

孫娘ちゃん



 我々にとっての孫娘ちゃんは、息子夫婦のところに生まれた初の子供である。特に何事もなくて無事にすくすくと順調に育ち、2ヵ月となった。どの赤ちゃんもそうだが、とりわけ生まれたばかりの数ヵ月は、赤ちゃんは夜と昼の区別もなく2〜3時間おきに泣くしミルクをねだるしで、両親やその周りで赤ちゃんに接する人たちの負担は極めて重い。孫娘ちゃんもその例外でないが、聞けば聞くほどご本当に苦労様と言わざるを得ない状態から、ようやく脱しつつある。たとえば、夕方にお風呂に入れば、夜は6時間ほど続けて寝てくれることも多くなったという。それに、泣き方も一様ではなく、ミルクが欲しいとき、甘えたいとき、おしめが濡れたときなどの泣き方も、それぞれ違っているように聞こえるなど、赤ちゃんも親もだんだんペースをつかんできたようだ。

 先日、ゴールデン・ウィークの連休前に、皆で孫娘ちゃんのお宮参りに行った。ぽかぽかと暖かい日曜日の朝、明治神宮本殿前に集合して、神楽殿の中に入った。そこで、お母さんのご実家に用意していただいたお宮参りの衣装を家内が付けたが、肩に回す紐と衣装の関係はこれで良いかどうか、どうも自信がない。でも、記念写真を撮るときに写真屋さんに聞けばよいと気楽に考えることにする。しばらく待たされた後、いよいよ我々の番となり、20〜30人の人たちとともに、160畳の広さがあるという内部の「願主席」という畳敷きの大きな部屋に入った。その前から3列目くらいに座り、そこで儀式の開始を待つ。

 やがて、ドーン・ドーンと厳かな大太鼓が打たれ、神主さんによるお清めのお祓いが行われるので、参加者が一斉に頭を垂れた。合図で顔を上げ、神主さんによって朗々と奏上される祝詞を粛々と聞く。まあ、ここまではどこの神社でも行っていることであるが、さすが明治神宮だなと思ったのは、この後、二人の巫女が手に花を持ち、神楽「倭舞(やまとまい)」を舞ったことである。なかなか華やかなもので、一緒に行った初孫ちゃんも、目を丸くして見ていたほどである。明治神宮のHPによると、「この舞は、神楽殿で祈願をされる方のために作られた明治神宮独自の舞です。人生のそれぞれの節目にはご祈願祭を受けて心清々しく、幸せと安らぎに満ちた日々をすごしましょう」とあり、なるほどその言葉通りに清々しい気分になった。

 それから、皆で地階の写真室に行き、そこで記念写真を撮った。写真師さんは二人で、面白かったのは、「何枚も撮りますから、大人の方は、何があっても前を見ていてください」という指示である。つまりこれを解釈すれば、赤ちゃんや一緒に来た初孫ちゃんはどこを向いているのかわからないので、大人にはともかく前を向き続けてもらって写真をたくさん撮り、その中から子供たちがたまたま前を向いている瞬間のものを選びたいということだろう。最近はデジタル時代だから少し気の利いた写真屋さんなら、アドビのフォトショップでも使ってパソコン上でたちまち修正してしまいそうだが、どうやらこちらはまだ、アナログの時代にとどまっているようだ。ともあれ写真は、3週間後に送られてくるようだから、楽しみである。

 さて、主役の孫娘ちゃんだが、最近も息子のところに遊びに行き会ってきたが、いやもう丸々と太って実に健康に育っている。顔もぽっちゃりとしてふくよかで本当に可愛い。誰に似ているかというと、どちらかというとお母さん似だと思うが、赤ちゃんの顔はどんどん変化していくものだから、まだ決めつけるには早い。肝心の健康状態だけれど、もともと体重が3000キログラムを超えて生まれたこともあるが、その後も母乳をどんどん飲んで大きくなり、定期の健康診断でも全く問題なしだという。結構なことだ・・・太股もむっちりとしていて、おむつ替えのとき家内がそこを両手でさすってやると、気持ちよさそうにしている。我々が行ってのぞき込むと、目を開けて両手を突き出し、両足をばたばたさせるが、特に声を出すようなことはしない。ところが、我々が帰ったら大きな声で泣くそうだから、かなりの内弁慶のようである。

 一緒に行った4歳の初孫ちゃんが、赤ちゃんを抱きたいという。そこで私がオリンパスのE−P3を取り出し、家内が手を貸して赤ちゃんを支え、3人で写真に納まった。この3人の目線が一致するのを待っていて撮るというのはほとんど不可能なので、明治神宮の写真屋さんのことを思い出し、何枚かを連写したところ、なるほど、そのうち1枚だけが使えるものだった。初孫ちゃんはおそるおそる両手で赤ちゃんを抱いてやや無理な笑顔を作り、赤ちゃんはキョトンとした顔をし、その後ろで家内はあらあら大変とばかりに苦笑いのような笑みを浮かべている記念すべき写真である。この子たちの将来が、明るいものでありますようにと、心から祈っている。




(2013年 5月 9日記)



カテゴリ:エッセイ | 21:10 | - | - | - |
初孫ちゃんと遠足 (1)昭和記念公園

立川の昭和記念公園


 ゴールデン・ウィークも楽しく過ぎ、あれあれと思う間に、もう最後の日となった。見回すと、家族の中で暇なのは私だけ。ではまた、子守で連休の最後を飾ろうと初孫ちゃんを連れて、立川の昭和記念公園に行った。なぜここかというと、日頃ちまちまとした都心に住んでいて、緑の上を走り回ったことのない初孫ちゃんのために、どこか広々とした処で運動させようと思ったからである。ところが、家を出て御茶ノ水駅に向かったときにはまだ、東へ行って葛西臨海公園に行くか、それとも西に向かって昭和記念公園に行くかを決めかねていた。しかし、千代田線の新御茶ノ水駅を降りてJRの御茶ノ水駅に向かったときに、結構な良い天気だから、これは外遊びに最適だと気が付いた。そこで西に行くことにした。というのは、葛西臨海の方には水族館もあるから来月の梅雨のシーズンにまた行くとして、今日は青空の下で遊べるから、西の立川に行こうと思い定めたからである。昭和記念公園は西立川駅のすぐ前が入り口だし、ともかく緑と花が豊かだから思い切り遊べて初孫ちゃんも喜ぶだろう。

立川の昭和記念公園


 ということで、たまたま乗った中央線の快速電車は青梅行きだった。立川で乗り換えなくて済む。これ幸いと、一路、西へと向かう。初孫ちゃんは、座席に膝立ちをして、飽きずに外を眺めている。そして電車のドアが閉まるたびに「次の駅は何?」と聞いてくる。四谷、新宿、中野まではよかったが、休日は高円寺は飛ばされるのだと思い出し、次は荻窪だと答えた。それくらいはわかるが、都心を離れれば離れるほど、地理が怪しくなってくる。あまり慣れていない吉祥寺と三鷹って、どちらが西かなどと一瞬迷ったりして、どうもそれ以降は駅名の記憶が怪しくなっちきたので、iPhoneのアプリを参照して何とか答えた。ともあれ、立川を過ぎて、西立川駅に到着した。

立川の昭和記念公園


 入り口で園内マップをもらうが、これがまた・・・広大なことといったら、ない。まず、水鳥の池に向かったら、たくさんの人が白鳥ボートを漕いでいるのが見えた。もうすぐお昼だから、大勢の人たちが集まってお弁当を買う列を作っている。そこで買おうかという考えが一瞬、頭をかすめたが、せっかく電車を降りたばかりので、まず歩こうということで、左手に夏のレインボープールのあるところを抜けて、ぐんぐん北上する。橋を渡ったところで右折し、大きな「みんなの原っぱ」に出た。あの有名な樫の木が一本、すっくと立つ緑の原っぱである。

立川の昭和記念公園


 その入り口あたりに、「わんぱく遊具広場」がある。とても凝った造りの滑り台と、その横にはソフトクリームの頭のような白くて大きなクッション様のような大遊具があり、初孫ちゃんは、そちらの方を向いたかと思うと、もう駆け出していた。その大きな滑り台は、ジャングルジムを兼ねていて、面積は、ちょっとした住宅並みである。そこには色々な滑り台・・・もちろんその中には初孫ちゃんが苦手としているトンネル状の滑り台・・・があり、トントントンとわたって行くところがあったりと、なかなか面白い。そういうわけで、ぼーっと眺めていると、初孫ちゃんの姿が見えなくなった。あれあれどこだと思って見渡すが、やはり見つからない。ひょっとしてと思ってトンネル状の滑り台の方に行くと、何だ、ちゃんと滑っているではないか。

立川の昭和記念公園


 そんな調子で小一時間ばかり、そこで遊び、それから大草原を元気に鬼ごっこといいたいが、こちらは60歳代半ばに達しようという年寄りなのに対して、あちらは4歳のぴちぴちボーイだから、徒競走なんて最初から勝負にならない。それでも、ここぞとばかりに一生懸命走って追い抜くと、初孫ちゃんは悔しそうな顔をしている。そうそう、その顔がキミの将来を作るのだよ。せいぜい、悔しいと思った方が、明日へのバネになるはずだ。

立川の昭和記念公園


 そうこうしているうち、お腹が空いたなぁと思って時計を見ると、もう午後2時を回っている。あたりを見回すと、レストランなどなくて、焼きそば程度のものを売っている店しかない。それも長い列を作っている始末だ。仕方がないので、こういうときに用意してきたバナナを食べようと思ったが、ベンチはもう人また人で一杯だ。仕方なく、日陰に行き、そこの芝生に行ってと初孫ちゃんと腰を下ろした。私は、縁石があったので、そこに座り、さて初孫ちゃんはどうするかと思ったら、持ってきたリュックサックの上に腰掛けた。そして、バナナの皮をむいて小さな口を大きく開けて食べ始める。

初孫ちゃん


 それが、なかなか恰好良いのである。ちょっと高いリュックサックの上におろした腰から、地面に向けて斜め上に両足を曲げて伸ばし、しかもその両足をちょっと交差させるようにしている。まるで西部劇の一シーンにでも出てくるようなしゃれた座り方だ。ところがその次の食べ物がまた面白い。初孫ちゃんの好きな菊見のお煎餅だ。どうも西部劇のイメージとは合わなくなった。それをバリバリ、ガリガリと強烈な前歯で噛んで、あっと言う間に平らげた。まあ、これでしばらくは持つだろう。

立川の昭和記念公園


 それから、私の好きな日本庭園に行った。こちらの池は、水は青く澄んで綺麗だし、その水が空の青さと周囲の新緑の緑と、そして遅ればせながら咲いているサツキの赤や白の花と非常に良くマッチして美しい。池には、亀が何匹もいて、池の中の岩に登って甲羅干しをしている。青い菖蒲が早々と咲き、シャガも咲いていた。初孫ちゃんと、その周りをぐるぐると何周も回った。途中、ちょっとした滝が流れていて、そこでしばし眺めて休憩をとった。いやまあ、初孫ちゃんと遠足とは、平々凡々だが、気持ちと身体がじっくりと休まる休日だった。

立川の昭和記念公園


立川の昭和記念公園


立川の昭和記念公園


 帰りの中央線は、もうこれでもかというくらいの混雑ぶりで、参った。リュックサックを棚に上げて、初孫ちゃんがつぶされないようにずーっと抱っこしていたが、いやまあ、腕が痺れるは、電車が揺れるはで、大変だった。我ながら家まで良く持ったものだ。後から新聞を見ると、この日は高尾山に多くの登山者が押しかけて、麓の高尾駅から山頂まで、満員電車並みの大混雑だったそうな。

立川の昭和記念公園






(2013年 5月 6日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:53 | - | - | - |
| 1/1PAGES |