徒然266.ふるさと祭り 2013年

ふるさと祭り会場の全景



 ふるさと祭り 2013年(写 真)


 近くの東京ドームで開催された「ふるさと祭り」に行ってきた。実は平成23年1月10日、つまり東日本大震災の発災の日である3月11日の直前にも見物に行ったので、これが2回目となる。昨年、開催されたかどうかは知らないが、大震災と津波の被害からまだ1年も経っていないから、たとえ開かれたとしてもとても行こうという気はしなかったはずだ。しかし、どんなに悲惨なことがあったにせよ、人というものは忘れるのも早い。いや、これだけ自然災害に襲われる日本だからこそ、そうした一種の健忘症のようなものが必要なのかもしれない。

 というわけで被災地の皆さんには申し訳ないが、今回もそうした癖がつい出てしまい、1月14日と19日と2回も東京ドームに通った。おかげで全国各地のお祭りを10ヶ所も網羅することができた。見られなかった主な祭りは、仙台すずめ踊り(宮城)、牛深ハイヤ祭り(熊本)、佐渡おけさ(新潟)それに鳥取しゃんしゃん祭りだけだ。仙台すずめ踊りは見たことがあるし、ほかのお祭りもそのうち見物する機会もあるだろう。それに、19日は初孫ちゃんと一緒だったから、その反応がなかなか面白かった。

(1)五所川原立佞武多

五所川原立佞武多



 あの広い東京ドームの会場で、あたりを睥睨するように立っていたのが五所川原立佞武多(ごしょがわら・たちねぶた)である。高さは確か20メートル、重さは21トンもあると言っていたような記憶がある。ともかく、圧倒されるような巨大な像である。青森県五所川原市で毎年8月初旬になると、これが運行されるそうな。青森ねぶたは横に広い像だが、この五所川原立佞武多は巨人が立ち上がっているような趣があり、アラジンの魔法のランプから出てくる巨人を思い出してしまう。

五所川原立佞武多


 やがて運行という時になると、会場の電気は暗くなり、この五所川原立佞武多に煌々と電燈がともる。すると、法被を着た威勢の良い人たちが、鳴り物を持って登場し、「ヤッテマレ!ヤッテマレ!」の掛け声とともに会場を練り歩く。それとともに山形の花笠音頭の踊り手のような衣装を着た奥様方がしなやかな踊りを繰り広げる。ただし、青森ねぶたのハネト(跳ね人?)のようなカオス的踊りではなく、それなりのリズムと決まった踊り方のようだ。

 五所川原の立佞武多の館のHPによれば、これが記録に現れるのは明治40年頃で、その頃から巨大ねぷたは高さを誇るようになり、約10〜12間(約18〜21.6m)に及ぶようになったという。しかし、大正時代になり電気が普及すると、ねぷたは小型化の一途をたどり、戦後の2度の大火で設計図や写真が消失したことから、巨大ねぷたはいったん姿を消した。ところが、1993年に当時の設計図と写真が発見されたことから翌年に小さなねぷたが復元され、その後1998年になって、80年ぶりに完全復活をとげたという。いずれにせよ、この佞武多は貴重な文化遺産である。

(2)久麻加夫都阿良加志比古神社

久麻加夫都阿良加志比古神社


 久麻加夫都阿良加志比古神社(くまかぶと あらかしひこ じんじゃ)とは、石川県能登半島の七尾市にある神社で、熊甲神社といわれ、毎年9月20日に行われる例大祭のお熊甲祭では、鳥兜をかぶり、狩衣を着け、棒を持った猿田彦が、鉦や太鼓に合わせて不思議な踊りを踊る。その一方では数十人の若い衆が長さ20メートルは十分にある真っ赤な旗を担ぎ、しかもそれを地面すれすれに倒すという勇壮な祭りである。

久麻加夫都阿良加志比古神社


 特にその真っ赤な旗を倒すのは「島田くずし」といわれるそうである。つまり、旗を乗せた長四角の枠を全員で傾け、それをまた枠の上に乗った2人が旗の先に括り付けた紐で必死になってコントロールするという手に汗を握る演技だ。豊作や豊漁を祈るものだそうだけど、いやはや、これは凄いの一言である。

(3)八戸市日計えんぶり組

八戸市日計えんぶり


 次は八戸市の日計(ひばかり)地区の「八戸(えんぶり)」である。「木と八」の字を左右に組み合わせて「えんぶり」というそうだ。八戸市のHPによると、「えんぶりは、その年の豊作を祈願するための舞で、太夫と呼ばれる舞手が馬の頭を象った華やかな烏帽子を被り、頭を大きく振る独特の舞が大きな特徴です。その舞は、稲作の一連の動作である、種まきや田植えなどの動作を表現したものです。また、えんぶり摺りの合間の子供達による可愛らしい祝福芸も、見る者を楽しませてくれます」。

八戸市日計えんぶり


 ああ、なるほど・・・あの派手な被り物は馬の頭を模した烏帽子なのか・・・それにしても、これを被って頭を倒しながら左右に、あるいは丸く円を描くように振っているが、稲作の動作を真似ているとは知らなかった。それから、男の子や女の子が出てきて、竿を垂れて鯛を釣る様子を演じていたが、本人たちは真剣にやっていたのだけれど、少しユーモラスな仕草や動作だった。たまたま私の隣で写真を撮っていた同年輩の人が私に話しかけてきた。「あれは、私の故郷の踊りなんですよ。私の友達も、あれをあんな風にやっていました」。私が、「はあーっ、それはそれは・・・懐かしいでしょう」というと、少し涙ぐんで「いや、その通りです」などと言っていた。

 ところで、東京ドームのお祭り広場の赤絨毯の上で演じられていた八戸(えんぶり)は、それなりに重々しくて、見応えがあったわけであるが、やはり何かしら場の雰囲気にそぐわない気がしていた。しかし、会場の脇で放映されていた八戸(えんぶり)を見たところ、これは雪がしんしんと降る中で演じられていたのである。なるほど、元々はあのような雰囲気で行われる厳粛な神事なのかと、非常に印象的だった。

(4)南部俵積み唄

南部俵積み唄


 次に出てきたのは、どことなくのんびりした田舎の雰囲気を漂わせる南部俵積み唄である。だれが作ったか、その由来はどんなものななどは、一切わかっていないというが、三戸にあった掘っ建て小屋に一人で住んでいた俵づみ爺様から聞いたというHPの記述によれば、こんな唄らしい。これを見ると、お正月に家々を回り、門付をいただく際の唄であることが、よくわかる。

南部俵積み唄


「ハアー 春の始めに この家(や)旦那様サ 七福神のお供してコラ 俵積みに参りた。ハアー この家旦那様は 俵積みが大好きで お国はどこかとお聞きあるコラ 私の国はナアコラ 出雲の国の大福神 日本中の渡り者コラ 俵積みの先生だ。 ハアー この家旦那様の お屋敷おば見てやれば 倉の数が四十八コラ いろは倉とはこのことだ 一の倉は銭倉コラ 次のお倉は金(かね)倉で 次のお倉は宝倉コラ・・・」

 ところで会場では、この歌に合わせて青い法被を着た綺麗どころが舞いかつ踊り、最後には俵を山型に積み上げて、しかも日の丸の扇をかざしていた。人々の関心はもっぱらその美人さんたちに注がれていて、私も含めてその歌詞を聞いていた人は、あまりいなかったようである。

(5)おがみ神社法霊神楽

おがみ神社法霊神楽唄


 やはり八戸の神社で、おがみ神社の法霊神楽(ほうりょう かぐら)の権現舞というものを見物した。これには、たくさんの獅子頭を持った舞い手が出てきて、それが一斉にその獅子頭の歯をカチカチカチッと打ち鳴らすのである。それがまた独特の緊張感と厳粛さを醸し出して、不思議な気分に陥るのである。しばらくの間、この獅子集団の歯の合奏を聞いていると、何かしか怖い集団というイメージが出来てしまう。ところが、神楽の舞が終わって、その獅子たちが自分の顔を出してくると、再び驚く。というのは、演じていたのは、いずれも10歳代と思われる少年少女だったからである。

おがみ神社法霊神楽唄


 青森県のHPによれば、「おがみ神社は、もと龍神をまつる法霊神社で、八戸城内にまつられ、山伏たちは神楽奉納をした。戦後地元の青年たちが、旧八戸領内の九戸郡から市内に伝わっていた江刺家手という舞い方と、太鼓の打ち方を伝習したのがこの神楽である。八戸三社大祭ではおがみ神社の神輿に従う」とのこと。

(6)沖縄エイサー祭り<

沖縄エイサー祭り


 勇ましい琉球スタイルで、集団でぐるぐると体を回しながら太鼓をドンドンと打ち鳴らして行進する沖縄エイサーは、首都圏ではすっかりお馴染みである。私などは、エイサーとはそんな踊りなのかとすっかり思い込んでいたが、この日は、絣の着物を着た女性陣がやはり沖縄民謡を大きな口を開けて元気に歌っていたので、認識を新たにしてしまった。

沖縄エイサー祭り


 元々これは舞踊なのかと思っていたが、実は旧暦の盆にやってくる祖先の霊をなぐさめ、無事にあの世に戻れるように送り出すために祈願するお盆の行事だという。地元の青年団が旗頭を先頭として組織した団が、地域の各戸を回ってこのエイサーを踊って祈願し、酒や金を受け取ってまた次の家で踊って祈願を繰り返すものだとのこと。今回の出演は、園田町の青年団だった。

(7)高円寺阿波おどり

高円寺阿波おどり


 元々は徳島の踊りである。「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ。ヨイヨイヨーイ。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃな損損」で知られる阿波踊りは、後述の高知よさこい踊りほどではないものの、その強烈な印象から全国に伝播していて、中でもこの高円寺阿波おどりというのは、老舗である。確か、私が上京して杉並区に住み始めた頃には既に高円寺商店街で開催されていたから、すごく古い部類に入る首都圏の阿波踊りである。

高円寺阿波おどり


 実は一昨年の9月に、大塚で行われた阿波おどりを見物したことがあるが、そのときもあの独特のリズムと両手を上げて腰を振る特有の踊りに感心したものである。しかし、今回見物させていただいた高円寺阿波おどりは、失礼ながら大塚の踊りと比べて、格段に素晴らしかった。個人個人の踊る動きが非常に良いことに加えて、各連の練り歩く形がとてもうまいのである。いやもう、これにはただ驚いて見物していた。

(8)秋田竿灯祭り

秋田竿灯祭り


 うれしいことに、一昨年にこの同じ東京ドームで見物した秋田竿灯祭りの感動をまた味わうことになった。あの大きな東京ドームの中をたくさんの提灯をぶら下げた竿灯が、ゆらゆらと揺れながら集まったりまた離れたりを繰り返す様は、まるで生き物のよう。それを下から支える「差し手」の皆さん方は、竿を手で持ったり額で支えたり、果ては腰の脇に乗せたりと、様々な技を繰り出す。これは面白い。

秋田竿灯祭り


(9)高知よさこい祭り

高知よさこい祭り


 本場の高知のよさこい踊りは、もはや高知の枠には収まらなくなって全国版の踊りである。先日は、池袋で行われた東京よさこいを見物に行ってきたけれど、その若さあふれるエネルギーの発散に当てられて満足して帰ってきた。これに対して、こちらの「ほにや」の皆さんが演ずる高知よさこいは、音楽といい、踊りといい、またその衣装といい、まさに本場の正統派の踊りである。なかなか豪華で、品格のある踊りであった。

高知よさこい祭り


(10)盛岡さんさ踊り

盛岡さんさ踊り


 また今年も、二人のミスさんさ嬢を先頭に、跳ねるような元気でしかも優雅な踊りを披露してくれた。太鼓の皆さんも、にこやかに演技をされていた。また、今年に気が付いたことなのだけど、太鼓の皆さんは、どうかすると真上を見上げる所作をすることがある。誰もがそうだから、間違いないと思うのだが、妙な気がしてしまった。

盛岡さんさ踊り






(初孫ちゃん)

 ところで、この東京ドームで開催された「ふるさと祭り」に、4歳になったばかりの初孫ちゃんを連れて行った。いくつか面白いことがあったので、記録しておきたい。

 まず、自宅まで横須賀線で迎えに行ったのだけれど、電車に乗っているときに、窓のブラインドを指差して、「なんでこれがあるの?」と聞いてきた。何でも大人に聞くのではなくて、ひとつ自分の頭で考えさせようと思い、「キミはどう思うの?」というと、「眩しくないようにするため」と答えたから、「そう、その通りだよ」と褒めた。わかっていたのに、答えを確認したかったのだろうか。

 ふるさと祭りの会場に着いた。そこで、人混みで賑わうフードストリートを歩いていたら、あちらこちらで試食を勧められた。たまたまそのひとつの柚餅子を食べた。すると、嬉しそうな顔をして「これ美味しい」というものだから、では、皆の分を買って帰ろうと5個を買い、「これはママの分・・・」などと数えて、「あなたの分はこれ。どこで食べる」と聞くと、直ぐに食べたいという。そこで、席に戻って1個を手に持たせたら、あっという間に平らげてしまった。それを見て、残りの柚餅子を指差し、「これはママたちの分ね・・・」などと数えていたら、首を振って、「いやいや、みーんなボクの分」と言った。意外と欲深いんだ。まあ、これからの時代、こうでなくっちゃ生き残れないのかもしれない。でも、分け与えるということも、教えないと・・・。

 何かの拍子に、初孫ちゃんの言うことが無理無体だと思ったから、それを無視していると、「おじいさんがボクの言うことを聞かないなら、ボクもおじいさんの言うことを、聞かない」と言われて、参った。案外、理屈っぽいんだ・・・。法律家に向いているかもしれない。

 観客席に座っていたら、後ろの席のおばあさんと世間話を始めた。「みなとみらいに行ったことある?」「 ああ、横浜ねぇ」「観覧車、あるんだよーっ。大きなの」なんてやっている。「ディズニーシーでは、プロメテウス火山が、ドーンと爆発するんだよ」と、両手を高くあげて大袈裟な身振りをする。おばあさんから気に入られ、ビスケットなどを貰ってご機嫌さんだった。

 秋田の竿灯を見ていたとき、秋田の団長さんが、「どうか皆さん、竿灯に合わせて、どっこいしよ、どっこいしよと大声で掛け声を掛けてください」といったものだから、皆に合わせて、初孫ちゃんも「どっこいしよ」と言っていた。意外と、乗りやすいんだ。

 沖縄のエイサーの太鼓を叩くのをたいそう気に入って、立ち上がって敲く物まねをするだけでなく、「ボクもやりたーい。太鼓たたきたーい」などとただをこねたから困った。



(2013年 1月20日記)


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137億年の物語

「137億年の物語」の表紙



 この1月12日から14日の成人の日までの3連休は、初孫ちゃんを上野公園へ連れて行くという「育爺」の仕事に半日だけ費やしたほかは、おおむねは「137億年の物語」という大部な本をじっくり読んで過ごした。これは文字通り137億年前の我々の宇宙の草創期から始まって地球の歴史、先史時代、人類の歴史が平易に書かれた500ページを超える大部な書物である。普通なら、宇宙物理学、地質学、古生物学、考古学、文明史、アジア史、ヨーロッパ史、中世史、近代史、現代史などの知識を総動員して、やっと書けるかどうかという代物だ。

 著者は、クリストファー・ロイドというケンブリッジ大卒の元新聞記者で、中世史を専攻した後にサンデータイムスの記者となり、科学と工学を担当した。それから教育出版社に転職して、たまたま5歳と7歳の子を自宅で教育することとなり、翌年、家族で欧州を一周したときに自然科学と歴史を同時に教える必要に迫られてこの本を着想したそうだ。でも、別の新聞記事によると1年で執筆したというから、まあ新聞記者的にコピー&ペーストをしていったのかもしれない。膨大な情報量だから、パソコンとインターネットとデータベースがあるからこそ、出来たものだろう。

 それで、書かれた内容はというと、まあこれは新書のはしがきを寄せ集めてきたようなものであって、これを読んでも決して高度な知識が身に着くという代物ではないという人もいるかもしれない。ただ、これだけの膨大な知識を子どもでもわかるように読みやすくして一冊の本にまとめるというのは、並外れた才能である。それに、理論物理を専攻している人は歴史には詳しくないであろうし、逆に歴史ばかりを論じていても、実はそのときの地球の自然環境は今とはこれくらい違っていたということを知らないと、たとえばなぜあんな生物の大量絶滅が何回も起こったのだろうかなどということの真の原因と理由はわからない。そういう意味で、日本風にいえば文系と理系の知識の融合を目指しているといってもよい。私はたまたま宇宙論が大好きだし、高校の授業では地学を学び、これでも大学入試は生物と世界史と日本史を選択したから、これらがある程度わかる。そういう自分の知識を整理するとともに、大学を卒業して以来のこの半世紀余りの間の古生物学や歴史学の進歩と発見の「さわり」や新しい研究成果に触れられたという意味で知的好奇心をくすぐられ、とてもためになった。中でもいくつか、最新の理論に基づく非常に興味深い仮説や説明がなされている。これによって自分の知識のアップデートをする機会をいただいたのである。記憶に残ったところを順に紹介していきたい。

 (1) 地球の生成過程で、なぜ地球の核には鉄があれほどあるのかという点である。鉄の核があると、地球の回りには磁界が出来て、それが太陽風から地球上の生命を守るという重要な効果が生まれる。実はこれは、太陽が輝き初めてから5000万年後に、地球と対をなしてたまたま同一軌道上にいた「テイア」という原始惑星が地球と衝突し、その鉄のコアが地球の核と合体したからだという説があるそうだ。そしてこの衝突は地球の衛星である「月」を生み出し、月は地球の自転軸を安定させたという。ついでにいえば、月は隕石の衝突から地球を守る役割をも果たしたから、地球がテイアと衝突したのは何と言う僥倖だったのかという気がする(16p)。

 (2) この地球の地殻はいくつかのプレートに分かれていて、それが移動していくというのが、プレート・テクトニス理論つまり大陸移動説から導かれる理論である。その結果として、大陸が特定の配列になったときに、この地球は気温が下がって全球凍結という状態になったというスノーボール理論がある。過去に何回かあったそうだ。そのひとつに、大陸の移動の結果、8億5000万年前〜6億3000年前の間に起こったこととして、陸地のほとんどが赤道あたりで一列につながりハロディニア大陸というものが出現した。すると、地球上の最も暑い地域に陸地が集中したために集中豪雨が連日続き、それが空気中の二酸化炭素を雨に溶かして炭酸塩として流し去った。その結果、温室効果ガスが減って気温が下がり、地球は雪の玉(スノーボール)になって、これが数百年間続いた。しかし、やがてまた大陸移動の結果、火山が噴火して温室効果ガスが放出されて暖められ、地球環境は元に戻ったそうな。そのたびに生物はいったん大量絶滅し、進化した形で生まれてきて再び繁栄を繰り返すということを続けてきたのが地球の歴史らしい(29p)。

 (3) 光合成する植物が繁茂してきたおかげで地球の酸素濃度は当初のゼロから次第に上がってきて、現在では空気の21%を占めるようになった。ところが、今から3億5000万年前の石炭紀の頃には、繁茂した森のおかげで一時的に酸素濃度は35%に上昇したという。すると何が起こったかというと、生物が海から陸へと上がり、昆虫が出現した。その昆虫というのも、たとえばトンボが現在のカモメ程度の大きさになるという巨大生物だった。濃い酸素は呼吸を助け、しかも空気が重たくなって昆虫が飛び上がり易くなった。その中で最強の捕食者となったのは巨大トンボである。しかし、狩りをされる側の小さな昆虫もそれなりに対抗策を持った。それは、イエバエのようにその翅を折りたためるようにして、狭い場所にすぐに逃げ込めるようになったのである。なるほど、これは面白い。盾と鉾のようなものだ(52p)。

 (4) およそ2億8000万年前〜2億6000年前に出現した爬虫類の一種のディメトロドンは、体調が3メートルに達する大トカゲであるが、おかしなことにその背中に大きな「帆」のようなものを持っていた。しかしこの時代にこれが生き残りの大きな鍵であったという。この時代には、動物はみな冷血動物であったために、体が温まるまでに時間がかかっていたが、ディメトロドンは背中のこの「帆」をあたかも熱交換器のように利用してその体温をいち早く上げて狩りに出かけることが出来た。そして他の動物がまだ動き回ることが出来ないうちに有利な立場で狩っていたとのこと。妙な形状でも、やはりそれなりの合理的な理由があるわけだ(59p)。

 (5) 7万5000年ほど前にインドネシアのスマトラ島で起きたトバ火山の大噴火によって、塵が何年も地球を覆い、氷河期のような状態になったと思われる。おそらくこのせいで、人類の人口が激減し、その当時は世界全体でわずか1000人から1万人の間になったらしい。というのは、人類ホモ・サピエンスの遺伝子が驚くほど多様性に欠けていて、チンパンジーと比べるとそのバリエーションは10分の1にも満たないことからも推測できるという。ところでそのわずかであったホモサピエンスの人口が、今では70億人にもなっているのは、いかに考えるべきだろうか(120p)。

 (6) 人類の農耕の始まりである。約2万2000年前に最終間氷期がピークを迎えた後、気温が7度以上も上昇し、数千年かけて氷河が溶けて、最後のわずか500年のうちに海水面が25メートル上がっていき、世界のあちこちの狩猟に適した土地や森林を飲み込んでいったり、砂漠化していった。そういう頃、今のレバノンの付近にナトゥーフ人が住み着いた。その一帯は豊かな恵みのある土地だったので、狩りをしながら定住に近い生活をしていた。ところがそういう彼らを1万2700万年前に、ヤンガードリアスと呼ばれる亜氷期が襲った。気温が下がり始めてわずか50年間で再び氷河期の気候に逆戻りしてしまった。狩場が海面下に沈み、豊かな森が低木しか生えない不毛の土地と化していったのである。そこでナトゥーフ人は、これまでの狩猟採集民と異なり、土地を耕し、小麦などの植物を植えて農業を始めた。更にナトゥーフ人は、オオカミを飼い慣らしてイヌとした。これを契機に人類は、羊、山羊、豚、牛、馬などを家畜化していったという(140p)。

 (7) エジプトがなぜ数千年近くにわたって繁栄したかというと、地軸の向きが変わって上ナイル地方が乾燥して砂漠化し、これが敵の侵入に対する自然の防波堤となったこと、それに、北からエジプトに侵入するには、ナイル川の河口の葦の茂る沼地を突破しなければならないので、これも困難だったことによるという。それにしても、匈奴の侵入に悩まされた中国の王朝が艱難辛苦の末に万里の長城を営々と設けていったことを思い起こさせる。またこうした天然の要塞だけでなく、エジプトが幸運だったことは、エジプトを南北に貫くナイル川の存在である。これが交通の動脈の役割を果たせたのは、下りは川の水の流れにあわせ、上りは単に帆を上げるだけで北から南に向かって吹く風を受けて航行できたからだというのである。そのほか面白かったことは、エジプトには女性のファラオも数名いたけれども、つけひげを付けて男性として振る舞ったという話である(162p)。

 (8) 現在、インドと中国が世界で最も多い人口を抱えている理由は、早くから稲作を始めたからだという。米は生産性と栄養価が高いことから、ほかのどの作物よりも多くの人口を支えられるそうだ。また、中国特産の絹は、既にローマ帝国の頃から地中海沿岸の人々の間の最も価値のある贅沢品で、中国に計り知れない富をもたらしてきた。その製法は、本家の中国では長く秘密にされてきた。ところが西暦550年頃になって中央アジアを訪れた2人の修道士が竹竿に隠して蚕の卵を持ち帰り、ビザンツ皇帝に献上した。ところがここでも製法は門外不出の秘伝となった。しかし、12世紀の半ばから13世紀になってノルマン人や十字軍がビザンツ帝国を襲い、ここに養蚕技術はヨーロッパ全域に広まった(191p)。

 (9) インドのカースト制がなぜ出来上がってきたのかという説明があった。それは、インド亜大陸をたびたび異民族が襲ったという歴史そのものである。次々に侵入してきた新たな文化集団が、既存のグループと混ざり合うことなくそれぞれの層を作り、ケーキのように積み重なってきたからだという。何度となく移民が押し寄せてきても、この制度があれば、それまでの生活様式を変えることなく既存のカーストの上か下に納まったから、既存の習慣やしきたりを根本から調整する必要がなかった。カーストがあるから、インドでは古代の文化や信仰がそのまま残り、ヒンドゥー教が古代から連綿と続いている理由もそこにあるという(203p)。

 (10) この本はユダヤ人の苦難の歴史について、とても詳しい。まずはモーゼによる出エジプトの直前の時代で、それまで400年にわたってエジプトで奴隷にされていた(212p)。紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアに襲われて4万人が奴隷となった(213p)。紀元前597年に南のユダ王国がバビロニアに占領されて2万7000人のユダヤ人が捕虜とされた。もっとも、この最後のときはペルシャのキュロス大王によって紀元前539年に解放され、故郷のエルサレムに帰ることが出来た(213p)。次の苦難は第二回十字軍で、ユダヤ人が大量虐殺された(325p)。そのほか、本書にいくつか出てきて、その最悪なのは、もちろんナチスによるホロコーストである。

 (11) スパルタというギリシャのポリスが行ったことがすごい。それは、人間の品種改良という過激な実験である。虚弱な赤ん坊は捨てられた。男の子は7歳になると訓練所に送られ、ムチ打ちの儀式で迎えられた。食事は十分に与えられず盗むことが奨励された。戦士のホプリタイと農奴のヘイロタイに分かれ、戦士の訓練の仕上げに農村地帯で日が沈んでから出歩くヘイロタイを殺すことが命じられた。戦い方は、ファランクスという縦4列の密集隊形で盾と槍を重ね合わせるもので、ひとつでも弱い場所があれば隊形が崩れるので、兵士全員が一丸となる必要があった。武勲を上げた兵士は、20人もの女性と交わる機会が与えられた。逆に戦場で失敗した兵士は家族から勘当され、死刑を宣告された。まるで全体主義の悪夢を見ているようである(227p)。

 (12) この表現が誠によい。「ローマ帝国はまさにハリケーンのように、誕生後またたく間に巨大に成長し、すべてを破壊し尽し、やがて消えていった。その大きな渦を動かしていたのは、穀物と戦利品と奴隷だった。そして、勢いを支えたのは、富める支配階級が贅沢な暮らしを続けるためにふるった暴力だった」(242p)。なるほど、そういうことかと、一目瞭然にわかる言葉である。ローマ人は、物まねが得意で、つねに外へ目を向けていた結果、良いものは何でも取り入れていったという表現も面白い。ギリシャからは重装歩兵戦術、神話、芸術と建築、ペルシャからは重騎兵や馬術、フェニキア人からはその造船技術というわけだ(243p)。また、ローマ人はかなりの鉛中毒だったという。これは初耳だ。ローマでは、鍋釜、水道管に鉛が使われ、帝政ローマ時代の人骨にはそれ以前のものと比べて最大10倍もの鉛が含まれていた。もしかすると、これが歴代皇帝の狂気にも関係したのかもしれない(249p)。

 (13) 5世紀、ゲルマン民族がフン族に圧力を加えられて押し出されるように西ローマ帝国内に侵入し、これを滅亡させた。東ローマ帝国も、イスラム勢力の攻撃を受けて息も絶え絶えとなった。その結果、西暦500年頃のヨーロッパの人口は2750万人ほどであったが、150年後には1800万人へと激減した。加えてペスト(黒死病)が流行した。541年にはコンスタンチノープルでは人口の40%が失われた。その後ペストはヨーロッパ各地に広がり、300年間で2500万人が犠牲となった。その背景には、535年からの556年の間にインドネシアのクラカトア火山が大噴火したことによる急激な気候変動の影響があったと言われている(319p)。しかし、800年頃から1300年頃には温暖期が訪れ、重量有輪犂や三圃農法などによって農業生産力が増したので、西暦1000年頃のヨーロッパの人口は3700万人を超え、1340年には7400万人となったといわれる(324p)。しかしその反面、森林は次々と破壊され、西暦500年頃にはヨーロッパの8割を覆っていたものが1300年には半分を切るほどに激減した。

 (14) 1347年から流行したペスト(黒死病)は、ヨーロッパの姿を大きく変えた。イングランドではかつて700万人いた人口が1400年頃にはわずか200万人になっていた(328p)。この頃のヨーロッパ人の平均寿命はわずか17歳だったというから驚く。ところがこうしてペストを生きのびた人々には、まったく違う世界が開けていた。虐げられていた農民は待遇改善を求め、国内を自由に移動するようになった。英語の発音とつづりが違う原因は、このころに生まれたといわれている。ペストが流行する前、「make」は「マク」、「feet」は「フェト」と発音されていたが、ペストを契機に農民が都市に流れ込むようになって母音を伸ばすようになり、そのほか様々な地方の方言が混ざり合って中世英語と近代英語とで発音が異なるようになったとされる(329p)。初めて聞いたが、長年の疑問が解消された思いである。

 (15) 14世紀から16世紀にかけてのヨーロッパは、本当に悲惨な状態であった。北は氷に、西は果てしない海に、東と南はイスラム勢力に囲まれて、まさに八方ふさがりであったし、大飢饉とペストはそれに追い打ちをかけた。起死回生の十字軍による略奪の試みは失敗した。ところがイタリア半島だけは例外で、この時期には交易によってベネチアなどの都市国家が栄え、ルネサンスが生まれた。しかしそれは、ヨーロッパ全体の富には繋がらず、かえって周辺国の嫉妬を引き起こしてイタリア戦争を招いた。そうした中、何とかしてイスラム世界を通らずに東の産物を手に入れることはできないかと試行錯誤を繰り返した結果、西回りで東に行く航路が開拓されて、大航海時代が訪れた。ヨーロッパの国々が覇権を争い、宗教改革が進む中、貧しさと混乱から抜け出そうと人々は新天地へと移住した。ヨーロッパ人はインカ帝国など中南米の古代国家を滅ぼし、ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病は先住民に壊滅的打撃を与え、その豊かな金銀などの財宝を奪い取った(339p)。

 (16) 新大陸からもたらされた新しい作物は、ヨーロッパとアジアに伝えられた。中でもトウモロコシとジャガイモは、栄養価が高く、痩せた土地でも栽培できることから急速に普及した。しかし、これらが普及するまでには問題もあった。トウモロコシを食べるとペラグラという皮膚病になり、その原因がわかるまで何千人と死んだ。実はこれはトウモロコシばかりを食べるとナイアシン欠乏症になるからで、それを防ぐには石灰や酵母を加えればよいことがわかった。またジャガイモについては、当初はアンデスの先住民が食べるものとして見下されていたが、次第にヨーロッパ中に広まり1800年頃には裕福な人々の間でも食べられるようになった。そして特にアイルランドでは主食になったという。ところがジャガイモを枯れさせる疫病が1846年から49年にかけて猛威をふるい、アイルランドでは150万人が亡くなった。このとき新天地のアメリカに向けて100万人のアイルランド人が大西洋を渡ったのだという(385p)。

 (17) 日本について言及されているのは、ごくわずかだ。それは、日本では大和朝廷が出現して中国を手本として国を治めようとしていたこと(307p)、ヨーロッパの大航海時代に敢えて門を閉ざした日本(398p)、福島の原子力発電所の事故(424p)、日本の発展(452p)である。これをみると、日本が世界第二の経済大国になったりしたのはついこの間で、私などはそれを誇りに思って仕事に勤しんで来たのに、それは人類史の中ではほとんど目立たない出来事であったようだ。まあともあれ、日本はアジア諸国の中でタイとともに唯一植民地化を免れ、特に江戸期以来培ってきた国民の力でこの19世紀から21世紀までの激動の時代を乗り越えてきたことは、まさに誇るべき事柄と考えている。

 最後に、これを読んでいるときに4歳になったばかりの初孫ちゃんがやってきた。これ何?と聞くから「おじいさんの絵本だよ」というと、興味深そうに覗き込んで、「あっ、ダイナソー」という。「そうそう、これはね。昔のむかしのそのまた昔に生きていた動物で、この帆のように飾りにはこんな意味があるんだ・・・」と説明したら、神妙な顔をして聞いていた。なるほど、この手の本は幼児の子守にも使える。


「137億年の物語」の最後




(2013年 1月15日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:15 | - | - | - |
初孫ちゃん育爺奮闘記

日比谷公園の大噴水にかかる虹



1.育爺の出番

 初孫くんは、昨年末にめでたく4歳となった。ところがこの年末年始、娘のところは揃いも揃って業務多忙による過労気味でダウンし、元気良く跳ね回る初孫くんだけがポツンと取り残された。家内はというと、これまた実家の両親のことやらを含めて年末年始に何かと多忙を極めたことから休養を要する状態である。他方、いつもお願いしているポピンズのシッターさんは、どうにも都合がつかないという切羽詰まった局面だ。

 よし分かった、今こそ「育メン」ならぬ「育爺」の出番だと思い、1月早々の土日に、初孫くんのお世話を引き受けた・・・とは言っても、一日中お世話するのも堪らないので、初孫くんを午前9時過ぎに引き取って時間をつぶしてからお昼時に日比谷の帝国ホテルのベビールームに連れて行き、そこで預かってもらう。そして夕方にまた迎えに行って一緒に夕食を摂り、午後8時過ぎに送り届けるというものだ。うむ・・・これなら楽だ・・・初心者でも出来る。何しろほとんどがベビールームのプロによるお世話に頼るのだから、必要なのは行き帰りの手間だけというわけである。

 とはいえ、これまでのようにママやグランマによるお世話を横で見ているのと、こうして一人で実際にやってみるのとは大違いである。最初の土曜日に初孫くんを帝国ホテルに送って行ってから自宅に帰ったのだが、慣れない育児であまりに疲れたものだから文字通り疲労困憊し、昼食を食べた後すぐに眠くなってそのまま寝入ってしまった。はっと眼を開けるともう外は暗くなっていてお迎えの時間が迫っているという有り様だ。いやまあ、大変だった。その育爺の奮闘した顛末をここに記録しておきたい。


2.水遊び

 初孫くんは、水の流れにたいそう興味がある。できれば自然の中にある小川のせせらぎでも見せてあげると非常に喜ぶと思うのだけど、何しろ都会の真ん中にいるからそうもいかない。だから、その代わりともいえる公園の噴水を見かけたりすると、もう大喜びだ。たとえば日比谷公園の大噴水などは20分でも30分でも身じろぎもせずにじーっと見入っているから恐れ入る。やがて単に見ているだけでなく、水のぐるぐると渦巻く流れに自分も参加したくなったのか、どこからか枯れ葉や小さな枝の切れ端などを持ってきて水に投げ入れ、くるくる回ってその流れ行く末を見つめている。とりわけ、噴水が高く上がっているときの水面の大きなざわめきと、噴水が止まっているときの静かな水面とで、枯れ葉の動きが違うことを興味深く見入っている。

 噴きあがる水が最高潮に達したとき、目の前の水面からも、自分の背丈以上に高く水柱が立ち上がった。そして叫んだのである。ああっ、Rainbow!。どこにもそんなもの見えないのにと思って不思議だったが、しゃがんで初孫くんの頭の位置に私の眼を持っていったら、なるほど噴水の水が風にあおられ、その部分に小さな虹が見えていた。そして私に聞く。おじーさん、なんでRainbowが出てくるの?」・・・ううっ、それは難しい質問だ・・・取り敢えず「お日さまの光が水の壁に当たって、7つの色に分かれて見えるんだよ」と答えたが、正しかったかどうかは未だに自信がない。ちなみに私がいない局面で同じく噴水を見ていたとき、グランマは「ねえ、なんで噴水は上がるの?」と聞かれて答えに窮したそうだが、これからはそんな質問を連発されそうだから、心しておこう。

 そうそう、初孫くんは、ワルガキの片鱗をも見せてくれている。千代田線日比谷駅のホームには、掃除の都合上なのか、水栓がある。水の受け皿に、上向きの蛇口が突き出ている。その固くしまった水栓を、真っ赤な顔をしてぐいと力を入れると、水が迸り出る。最初は遠慮がちにチョロチョロと出していたが、慣れて来ると大胆になってジャーッとたくさん出し、しかもその蛇口の穴を指で抑えるものだから、これは一大事。辺りに水が飛び散ってしまうので、慌ててやめさせた。すると、名残りおしそうに、「もう一回だけ」と懇願するので、「では、ちょっとだけよ」と言って認めると、喜々としてまた始める。水の無駄遣いだから、早々に止めさせたいのだが、なかなかうまくいかない。たまたま乗る電車が来たので、それに飛び乗る形でやっと止めさせた。


3.石拾い

 初孫くんは、石を拾うのが最近の流行である。それも、所構わずである。公園では本物の大小の石、工事現場近くではコンクリート片、神社ではこともあろうに玉砂利に手を出し、ホテルのお正月の飾りつけの角松の下に敷いてある白い石に大いなる興味を示す。そういう普通でない石を見かけると、実に嬉しそうに「良い石だねぇ」と年配の人のように言うから、笑ってしまう。ホテルのベビールームの先生に言わせると、どういうわけか、この年頃の男の子は石に興味を示します。女の子はそういうことはないんですがねぇ」と言っていた。そして石を手にすると、困ったことに、それを持ち帰りたいという。公園の石などは持ち帰っても許されるとは思うものの、やはり清潔とは言い難いからやめさせたい。しかしどうしても言うのであれば、ビニール袋を用意しておいて、それに入れる形で持ち帰り、そっと処理した。やれやれと思っていたら、翌日になって「あの石はどこ?」と聞かれて、答えに窮した。いつもお願いしているベビー・シッターさんも、このお子さんは、何でもよく覚えていらっしゃるから、誤魔化せないんですよね」と言っていた。まあ、それだけ頭も働き、記憶力も備わっていることを意味しているから、決して悪くはないということだろう。

帝国ホテルのお正月の飾り物


 ところで、帝国ホテルでは、この時期はお正月らしく正面玄関を入ったところに大きな松と竹の飾り物が設えられている。それを見て私が「ああ、これは門松なんだ」とつぶやくと、初孫ちゃんは「違うよ、これは、門松じゃないよ」といって言下に訂正されてしまった。しかし、その飾り物に近づくと初孫ちゃんの態度が急にハイになる。「うわわーっ、こ・これは・・・」と言ったまま、両手を体の前に合わせて、身震いをしながら「す・・すごい」と絞り出すように言う。まるで長年待ちわびた恋人に会ったような大袈裟な身振りをする。別に、松や竹や灯篭に感激しているのではない。その周りに敷いてある白くて丸くて美しい玉石に感激しているのである。そして次に言うセリフは「これ、ひとつ、いいでしょ」となるに決まっているから、あわてて手を引いて、そのままベビールームへと連れて行った。


4.風船とハンカチ投げ

 子供の世話なので、いくつか小道具を用意しておいたら役に立つことがあるだろうと思い、ゴム風船とふわふわのハンカチを用意しておいた。この子の家では、ゴム風船をいくつか膨らませておいて、それを地面に落ちないように、「ひとーつ、ふたーつ、みっつ・・・」などと数えながら皆で順番に突いたり叩いたりするという遊びが流行だ。だんだん上手になって、先日は33を数えるまで行ったから、立派なものである。ところがこの遊びは、外では風船が飛んで行ってしまって、あまりよろしくない。そこでこの日は、ふわふわのタオルハンカチを用意して、それを風船代わりに2人で順番に上にあげて相手にそれを掴まえさせるという遊びを、丸の内の地下広場でやった。これを称してハンカチ投げであるが、傍から見ていると、お正月で人通りがほとんどない地下街でお爺さんと孫が妙なことをやっていると思われたことだろう。ハンカチだと、高く上にあげるだけでなく、回転を掛ければ遠くにも飛ぶし、斜めに抛り投げればブーメランのように返って来させることも出来る。それだけでなく、柔らかいから顔を目がけて直接投げてもよい。子供は全身で受け止めたり、追いかけたり、地面に落ちる前に掴んだりと、いろいろな動きで出来て、良い運動になる。

 それでさんざん疲れたので一服したいと思ったのだけれど、休む間もなくこの子が「おじーさん、かけっこしよう」と挑戦してくるので、丸の内のJPタワー側からオアゾ方向へと全力疾走した。最初に脱落したのは私で、行幸通りの真下辺りでギブアップ。しかしこの子は、そのまま小さい足を高速回転させて、新丸ビルの入り口あたりまで走っていってしまい、あれよあれよという間に、体がとても小さく見えるほどに遠くなった。その付近でニコニコしながら、ゆるゆると引き返して来た。勝ったと思ったのだろう、さぞかし気分が良かったに違いない。


5.ペーパークラフト

 初孫ちゃん、ついこの間までは、A4サイズの紙を丸めて筒を作り、それをセロテープでとめたものを大量に作っていた。それを重ねてどんどん上に継ぎ足して行って、天井に届くとか、まだ届かないということをやっていた。ところが最近は、折り紙やA4の紙を使って紙飛行機をたくさん作るのが流行である。一点を中心に放射状に折っていくという単純な飛行機である。それで、作ったものをその作ったそばからどんどん飛ばすのである。あんなもの、飛ぶのかなと思えるほどしごく単純な造りなのだけれど、それが実に良く飛ぶ。部屋の隅から投げて次の部屋に飛んで行ってしまうことも、しばしばである。直線的な構造なので、飛びに無駄がないのかもしれない。

 これをツバメだとすると、これに対して私の作る紙飛行機は、アホウドリのようなもので、風に乗って木の葉が舞うようにひらひらと複雑に飛び、左へ行ったり右へ曲がったりしてポトリと落ちてくる。だから直情径行を好む初孫ちゃんには、お気に召さないようだ。半世紀以上前だと、これもひとつの標準スタイルだったのにと思うが、そのうち、直線系だけでなくこうした複雑系の良さというものがわかってもらえる日が必ず来ると思う。


6.おしっこ漏らし

 丸ビル地下の商店街で2人で楽しく食事をして、さあ、地下広場へ出ようと手を繋いで歩き始めたとき、初孫ちゃんが情けない顔をして「ああ、漏れちゃった」と言う。「ええっ、ひょっとしておしっこが漏れたの?」と聞くと、ますます情けない顔をして「うん」と頷く。ホテルのベビールームを出るとき、「ついさきほど、おしっこをなさいました」などと言われたのに、何ということだと思った。こちらも、初体験のせいもあって、いささかあせりつつ、「あのトイレまで行こうよ」と言ってまっすぐそちらへ向かった。たまたま我々のいた場所は、丸ビルのトイレに近いところだったので、助かった。もうすぐトイレに着くというとき、ふと初孫ちゃんの方を見たところ、濡れたおむつが気持ち悪いせいか、ガニ股気味によたよた歩いていたので、やはり子供なんだと思わず笑ってしまった。

 トイレには、身障者用の部屋があって、それなりのスペースが使える。こういう場合には便利だ・・・脱がせてみると、あれあれ、尿パットだけでなく、おむつもズボンも濡れちゃった・・・。着替えのリュックに手を入れて捜したところ、尿パットとズボンはあったが、おむつがない・・・。仕方がないので、初孫ちゃんに着替えのズボンを履いてもらい、それに新しい尿パットをあてがった。「ごわごわするー」などといって嫌がっていたが、家に帰るまでの間だけ、まあ何とかそれで辛抱してもらえることになった。


7.グリーン車で対決

 初孫ちゃんを東京駅に連れて来るとき、横須賀線のグリーン車を使った。最初は大人しくしていたものの、次第に動き回り始めた。幸い、お正月の松の内で、同じ車両には他に乗客がいなかったから、好きなようにさせていた。すると、隣の席に飛び移り始めて、そこで遊びだした。ふと見ると、座席の頭が当たる部分に掛けてある白いカバーがずれた。そこで、気が気でなくなり、私が「それを片付けなさい」と命令口調でいった。すると初孫ちゃんの気に障ったらしくて、私の正面を向いて口を開いた。そして、「ぼくは、そういうの、嫌いなの」と、ませたことを言う。これが自分の子で私が若かった頃なら、「親に向かってなんてことを言う」といって頭をポカリとやり、子供がうぇーんと泣いて終わりという場面だ。しかし、血のつながっている孫とはいえ、こういうときの教育方針を親から聞いていなかったし、今時そういう乱暴なことをやると子供も暴力的になるからいけないと思い、いきなりポカリと実力行使をするようなことはもちろんしないで、代わりに説得することにした。「こういう電車の中で、ここがクシャクシャになっていると、次に乗るお客さんが、嫌な思いをするでしょ。だから、元に戻さないといけないんだよ」と説明すると、案外簡単に従ってくれた。この子は、命令口調には反発するらしい。ああ、面倒だ・・・古き良き昔の単純な世界が懐かしいけれど、これが現代風というものだろう。

 そういえばこの子、同じインターの幼稚園に、いつも意見の合わない子がいるらしい。そして私にぼやくのである。Mちゃんは、ぼくを叩くんだよ。もう嫌だ」。そこで私が、「へーぇ。どんなとき?」と聞くと「おもちゃを持って行くときなんかだよ」という。「へぇ・・・それで、どうするの?先生に言わないの?」と聞いたところ、「先生に言うけど、お話ししなさいって言うんだ」とのたまう。ははぁ、それは難儀なことだ。インターの幼稚園だから日本の幼稚園と違って、正義の裁きがすぐに下るというわけではなくて、まずは本人間の話し合いを優先させるらしい。家内が目撃したところによると、別室で2人でとことん話し合って対決させて、気が付いたら2人で同じおもちゃを使って遊んでいたそうな。そういえば、そんなことが昨年末の幼稚園からのお便りに書いてあったことを思い出した。


8.愛想の良さ

 駅の京樽の売場を通りかかったとき、たくさんのちらし寿司が並べて置かれていた。それを3人の女性の売り子さんが売っている。それを見て初孫くん、売り子さんに向かって「美味しそうな食べ物がたくさんあるね」と声を掛けて、笑われていた。そうかと思うと、電車の車内を通りかかった女性車掌さんに対して、必ずニコッとしてV字サインを送り、また笑顔で返されるのを楽しんでいる。どうかすると車掌さんが無反応でそのまま通り過ぎられたりする。そういうときも、女性車掌さんが視界から消えるまで辛抱強くVサインを送っているので、笑ってしまう。ある時は、車両を去る時に振り返った車掌さんに気が付かれて手を振られたから、大満足で私に向かってにっこりした。

 しかしこういうことは、男性の車掌さんには絶対にやらない。これって、いったい何なんだろうと思う。女性が好きなのか、それとも男性は気付いても何の挨拶もしてくれないからか・・・。ともかくこの子、稀に見るほど周囲の人、とりわけ女性に対して愛想が良い。これというのも、インターの幼稚園に通っているからかもしれない。それにしても思うのだが、日本の幼稚園の子はこれとは逆で、本当に愛想が悪く、朝晩の挨拶すらしない。たとえば、同じマンションに住んでいる家族の子で、ついこの間まで挨拶してくれていた小さな子が、幼稚園に通い出したとたん、挨拶しなくなって無表情になるのは、いったいどんな教育をしているのかと思う。家内が言うには、最近は物騒な事件が多くて周りの人も信用できないから、なるべく人の注目を引かないために、そういうように教えているのではないかということだが、本当だとすると世も末ではないか・・・日本の雰囲気が暗くなるわけである。

 逆にいうと、そういう中で初孫ちゃんにこれほど愛嬌があると、必ずや周囲の人に愛される存在になるに違いないから、将来なかなか有望ではないかと、身贔屓の育爺としては、ついつい考えてしまうのである。これも、親馬鹿ならぬ爺馬鹿の現れかもしれない。いやはや・・・我ながら何をかいわんやだ。






  関 連 記 事
 初孫ちゃんの誕生
 初孫ちゃんは1歳
 初孫ちゃんは1歳4ヶ月
 初孫ちゃんは1歳6ヶ月
 初孫ちゃんもうすぐ2歳
 初孫ちゃんは2歳2ヶ月
 初孫ちゃんは3歳4ヶ月
 初孫ちゃんは3歳6ヶ月
 幼稚園からのお便り(1)
10  初孫ちゃんもうすぐ4歳
11  幼稚園からのお便り(2)
12  初孫ちゃん育爺奮闘記
13  初孫ちゃんは4歳3ヶ月
14  初孫ちゃんは4歳6ヶ月
15  孫と暮らす日々




(2013年 1月 7日記)


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