徒然263.東京と横浜の秋 2012年

(1) 東京の銀杏の黄葉

東京大学本郷キャンパス構内



 東京の銀杏の黄葉(写 真)


 東京都のシンボルともいえる銀杏の木々が、都内各地で色づいている。まずは、自宅近くの東京大学本郷キャンパス構内に行ってみた。正門から安田講堂へと続く道の両脇にある銀杏並木は、既に真っ黄色の世界である。そこへ太陽の鋭い光が斜めに当たり金色に輝いている様は、思わず神々しさを感ずるほどだ。それに加えて銀杏の木を下から見上げたときの真っ青なの空とこの金色との対比がまさに鮮やかで、それを眺めてしばし茫然と佇んでいた。同じ秋の風景でも、もみじの紅葉とはまた異なる趣きで、素晴らしいとしか言いようがない。はっと我に返って、あふれんばかりの銀杏の葉の金色の洪水を写真に収める。気が付くと、ついさきほどまで傍にいた家内の姿が見えない。見回すと、はるか遠くのところで、iPhoneを手にして黄葉の写真を撮っているではないか。

東京大学本郷キャンパス構内


 次いで、明治神宮外苑の銀杏並木に行ってみた。ここは私にとっては銀杏というよりテニスのホームグラウンドではあるが、それでもかつて、1年を通じて同じ場所から銀杏の木の定点観測を試みたことがある。この銀杏並木の美しさは、何といってもそのシンメトリカルな美であり、天高く尖っている銀杏の木の梢が、正面の絵画館に向かって遠近法で描いたかのように低くなっていくところである。種を明かせば、そういう効果が出るように、わざと木々の高さを次第に低くする剪定法をとっているとのことであるが、目の錯覚を利用した名所である。

明治神宮外苑の銀杏並木


 次に、日比谷公園に向かった。ここには、かつてこの公園を作るときに道路の拡張で切られそうになり、担当者が「首を掛けて」植え替えたという銀杏の巨木があるので有名である。もちろんその巨木は、しっかりと公園内に根付いて、今日でも多くの黄色い葉を地上に落としている。もう11月の中旬というのに、薔薇がまだ咲いていた。

日比谷公園


日比谷公園


日比谷公園


 最後は、皇居前の行幸通りの和田倉門付近である。この道は、東京駅に行く天皇皇后両陛下が利用したり、あるいは日本に赴任してきた外国の大使を馬車で送迎するときに通ることで有名である。道の両側には銀杏の巨木が立ち並んでいて、これらは剪定がされないので、自由自在に枝を伸ばしていて、その分、黄葉が落ちるのも早い。さらにその外側の歩道にある銀杏は剪定されているので、これらの巨木の葉が落ちても、まだ枝には葉が多く残っている。和田倉門の噴水が見事である。昨年の今頃は建設中であったパレスサイド・ホテルは出来上がった。昼食をとろうと家内と立ち寄ったが、人気のせいか満席だった。


(2) 横浜港山下公園の秋

横浜マリン・タワー



 横浜の山下公園の秋(写 真)


 家内と私、それに娘一家と横浜の山下公園に行ってみた。私の家からは千代田線の大手町駅で半蔵門線のみなとみらい線に乗り換えると元町中華街まで直通で行くことが出来る。横浜ニュー・グランド・ホテルのレストランで待ち合わせて一緒に食事をする。ここは、スパゲティのナポリタンの発祥の地らしいから、それを頼むと間違いなく美味しく食べられる。初孫ちゃんにこんなリッチな食事はどうかと思ったが、実はこれが大好物とのこと。贅沢な子だ。ついでにクラブ・サンドイッチも注文したら、これもなかなか美味しかった。

横浜マリン・タワーからベイ・ブリッジを望む


 昼食が終わり、皆で歩いて山下公園に向かう。公園の端に水が流れていて、初孫ちゃんは水に浮かぶ枯葉の流れに興味を持ったらしくて、しばらく無言でそれを目で追いかけていた。そのとき、誰かから「マリン・タワーに上ってみない?」という提案があった。よし、久しぶりだということで、そちらの方に向かったのである。

横浜マリン・タワーからみなとみらいを望む


 マリン・タワー内のエレベーターで昇り、展望室に行く。この日は快晴だったので、周囲がよく見渡せる。右から左とへ目を転じていくと、まずは大黒ふ頭とベイ・ブリッジ、山下公園と氷川丸、その向こうには大桟橋とみなとみらい地区が続く。ランド・マークタワーを指さして、初孫ちゃんが叫ぶ「あっ、イマジン・タワーだ!」。実はこの子の通っているイマジンという名の幼稚園がその中にあるからだが、それにしても直截的な言い方だと、思わず笑えてきた。マリン・タワーから真下にある山下公園を見下すと、もうすっかり秋の装いだ。紅葉・黄葉の木々に囲まれて、なかなか美しい。二階建てになっているマリン・タワー展望室の一階下に降りると、その床には、透明なガラスの部分があって、障害物なしに地上を見下ろすことが出来る。大人たちが初孫ちゃんに向かって「さあ、ボク、ここから下を見ることが出来る?」と聞く。それを聞いた初孫ちゃんは、恐る恐るへっぴり腰でそのガラスを覗いたので、大人たちは一斉に笑った。すると初孫ちゃん、プライドを傷つけられたと思ったのか、「えい、えいっ」とガラスを蹴り始めたので、あわててママが抑えていた。一寸の虫にも、五分の魂だ。小さいからといって、馬鹿にしてはいけない。初孫ちゃんに悪いことをした。

横浜港内を一周する船


 マリン・タワーを出たら、港内を一周する船が出るところだった。全員分の乗船券を買って、乗り込んだ。船の中は甲板が透明なアクリル板で覆われていたから、とても暖かい。岸壁を離れて、まずベイ・ブリッジの方に向かう。そこで、地図を指さしてグランマが初孫ちゃんに説明する。「ほら、ここから船に乗ったのよ。それでこちらのベイ・ブリッジに向かっていて、やがてブリッジの下を通るわよ。見ていて」。そこで私は、暖かいアクリル板の部屋からドアを開けて船尾に出て、船がブリッジの下をくぐる写真を撮ろうとした。ところが、あろうことか、我々の乗った船はブリッジの手前でUターンして港内へと戻っていくではないか。「あれれ、おかしいな」と思って、グランマと初孫ちゃんのいるところへ戻ると、ちょうど初孫ちゃんがこう言っているところだった。「グランマ、船はブリッジをくぐらないよ!」。グランマは、大汗をかいて説明した「あらあら、普通の60分コースならくぐるのにねぇ。これは時間が短い40分コースだったから、通らなかったみたいね。ご免なさい。また今度来たときに、乗ろうね」。それにしても、よくわかっているものだ。こういう子には、決して誤魔化してはいけないと思った次第である。


横浜港内を一周する船からみなとみらいを望む


 船が港の桟橋に戻り、我々が最後になって、船から出て桟橋の上に立った。そこには、船長のような制服制帽の人が立っていて「有り難うございました。またのご乗船をお待ちしています」と律儀に挨拶をしていた。そこでグランマが初孫ちゃんに「ほら、船長さんだから、ご挨拶して」というと、こっくりと頷くようなお辞儀をした。それを見たこの人「いやいや、私は船長ではなくて、機関長です。坊や、船長さんは学校を出ないと、なれないんだよ。勉強してね。」といい、聞かれないのにこう語った。「私はもう、40年間、この海の仕事をしています。最初は、しけのときの船酔いで、辛かった。しかしあるとき、先輩に聞いた秘策を試したのです。気分が悪くなって胃のものが上がってくると、それをまた飲み込むのです。元々自分の体の中にあったものだから、別に汚くはないんです。そうやって、船酔いを克服しました。長い海員生活です」と。まあ、大変苦労されたようで、おっしゃることはよくわかるのだが、それにしてもそんなことを乗客、とりわけこんな小さな子に言うことではないだろうと思い、一同は、少し顔をしかめた。するとこの機関長さんはあわてて、「いやいやこれは、海上保安庁でも自衛隊でも、やっていることなんです」という。まったくもう・・・やはり、船長さんになるには、少し早いのかもしれない。

 という変なことがあったものの、それから皆で横浜高島屋に行き、小龍包が美味しいと評判の中華レストランに向かった。注文して小龍包が来ると、皆、さきほどの出来事は忘れて、黙々と食べ始めたのである。美味しいと、口を利かなくなるというのが我が家の習いで、初孫ちゃんもついついそれに引きずられて、そのよく食べること、食べること・・・驚くほどだった。




(2012年11月24日記)


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iPhone5へ機種変更

新しく買ったiPhone5とそのカバー



 2012年9月21日にアップルがiPhone5を日本で発売した。テレビによるとその前の日から銀座のアップル・ショップはたいそうな人だかりだったので、何も急いで買うこともないと思い、2週間ほど経ってソフトバンク銀座支店に予約を入れておいた。ところが、忘れられたのか、11月に入っても何の連絡もない。そうこうしているうちに、自宅近くのソフトバンクの支店では、今なら予約なしでiPhone5をお持ち帰りになれます」などというポップ広告が風にひるがえっている有り様だ。では、こちらに頼もうと、17日の土曜日に、そこへ2台のiPhoneを持ち込んだ。私の使っているiPhone4Sと家内に使ってもらっているiPhone4だ。私は、iPhone4Sの方をiPhone5へと機種変更し、iPhone4をiPhone4Sにして、そのまま家内に使用してもらうというつもりだった。

 朝10時からの開店らしいが、その時刻の少し前に行ってみると、まだシャッターが下りていた。しばし待っているとシャッターが開き、私はその日の第一号の客となった。担当は、若い女の子である。持ち込んだiPhoneをその目の前に二つ並べて、機種変更を申し出た。まず、やりたいことを整理すると、私のiPhone4SをiPhone5へ機種変更し、iPhone4Sに家族サービスを付ければよい。ただしその場合には、家内の電話番号とメールアドレスが変更になるそうだ。家に電話をして変更の了解をもらい、そうすることにした。残ったiPhone4は余るので自分で持っているか誰かに使ってもらうか中古品として売り飛ばすか、ご自由にということらしい。この方針が決まるまで、約30分もかかってしまった。

 それでは具体的な手続に入るということで、運転免許証の確認を行い、現在の契約内容を見てもらうと、意外なことがわかった。現在、私の使っているiPhone4Sに対して、家内のiPhone4は既に家族サービス扱いとなっているのだ。その状態で私のiPhone4SをiPhone5へと機種変更すると、その分の解約金が発生するかもしれないという。でも、実質的に同じことでそのひも付き契約をそのまま引き継ぐわけだからそれでどうかと、ちょっと本部に聞いてもらうことになった。電話をしてもらったところ、たらい回しされたり延々待たされたりした挙句、やっぱりダメという結論になった。それで解約金9,975円が発生した。まあこれは、努力してもらった結果だから、致し方ない(注)。その次に、現在、私の使っているiPhone4Sには残債があるので、どうするかということになり、それはただちに精算して支払うことにした。これが4万円強である。

 それで、新iPhone5の料金体系の話に移り、パケットし放題フラットというプランに加入すると、月5,460円になる。これは旧iPhone4S時代と比べて約1,000円高く、AUに顧客が流出している原因である。だいたい、携帯電話会社が他社から顧客を奪おうといろいろな割引などを用意しているから、長く契約している者ほど損をするという仕組みになっている。これなどもそのひとつといっても過言ではないという気もするが、今から携帯電話会社をAUに変えるのも面倒なので、そのままソフトバンクを継続することにした。それで、料金プランはホワイトR(i)月980円で24時間とテザリングオプションを付けて契約した。まあ、ごく平均的なものだ。

 それで新しく家内のものになるiPhone4Sはというと、料金プランはやはりホワイトR(ゼロから定額)(i)、パケット割引もゼロから定額(最大4,980円)、キャンペーンは4G/LTEスマホ家族キャンペーンというもの。ただ、この点は2年後に区切りが来るらしい。この契約はもちろん新規扱いとなるので、新たな電話番号が付与されて、メールアドレスも新規に与えられた。電話番号は特に頼み込んで、結論からいうと、元の番号とたった2つの数字だけが異なるものにしてもらった。これなら、関係者に変更をお願いしやすい。以上の手続きが終わって出てきたのは、午前11時半だから、1時間半もかかったことになる。プランの検討や比較でそれなりに頭も使ったし、これだけ担当者とやりとりしたわけだから、いやはや、少し疲れ気味である。そこでお昼は、家内と近くのフレンチ・レストランに行って、野菜たっぷりのフル・コースをいただいて元気の回復を図った。

 実はこの機種変更の前日、有楽町のビックカメラに立ち寄ってiPhone5専用の青い皮カバーと、iPhone5の表のガラス面に張るフィルムを購入していた。iPhone用として売られている普通のカバーにはいろいろと種類はあるが、いずれも裏面から抱き付くような形のものばかりである。しかしそれだと、表のガラス面を保護することにはならないので、私は裏面だけでなく、表の面をも覆ってカバーしてくれるものが欲しかった。ネットで調べると、本型のものがあったが、それだと薄さと軽さを誇るiPhone5のせっかくのセールス・ポイントが減殺されてしまう。ビックカメラでそのようなものがありはしないかと探していたら、このカバーに出会った。これは、いわば観音開き風に裏も表も覆ってしまうタイプで、しかも軽いし薄い。でも、心配な点もある。それは、カバーの上下が開いているから下からすっぽりと落ちそうなのだ。しかし、iPhone5本体が落ちないように特殊な粘着フィルムが貼ってある。それにくっつけると、あら不思議。iPhone5がぴったりと留まるという仕掛けである。本当かなとやや疑問に思いつつもそれを買い、実際にiPhone5を収めてみたら、ぴったりはまって落ちないことを確かめた。それから、表面に張るフィルムとして、今はやりの眼によくない青い光線を遮断するというものを買った。これは、日の光にかざすと薄い青色で、値段も倍くらいだけれど、私は日常よくこのiPhone5を使うから、必要な投資だと考えた。実際にiPhone5の表に張ってみると、なかなか具合がよかった。

 ところで、この機種変更の直前、自宅のパソコンのiTunesを開いて私のiPhone4Sのバックアップを行ってあった。もちろん、家内のパソコンでも同じくiPhone4のバックアップを完了していた。そこで、自宅に帰り、iPhone5をパソコンのiTunesに接続して復元した。途中で画面を見ると、各画面ともごく一部しか復元されていなかったので、これで大丈夫かと思ったものだ。しかし、2時間ほど経って終了したときに改めて見たところ、元のiPhone4Sと寸分違わない配置になっていたので、安心した。iPhone5本体の画面は更に美しくなっていて、大いに満足した。しかも前述したように最下段に4つのアプリが入るので、画面を再構成して画面の枚数を少なくすることが出来た。

 それぞれの調子はどうかと、アプリをひとつひとつ開けていったが、唯一問題が生じたのは、Keeperという暗号保存のアプリである。これは年850円と、iPhoneのアプリとしてはかなり高い料金のものであるが、ともかく使いやすいので私は常時使用している。これを開けたところ、「この機器は登録されていないから、料金を支払え」という表示が出た。実は2か月前に支払ったばかりなのである。そこで、払おうとしたら、今度はメールが来て「2つ分の日割りで1200円ばかりを払え」という請求である。そんな無体な・・・これはどういうことになっているのかと思い、次のようにサポートに連絡した。

 「Hi I changed from iPhone 4S to iPhone 5. When I started iPhone 5 it showed that I had to pay 850 yen. However after this, your company sent me email that I had to pay around 1,200 yen for two devices during the rest 270 days. Then the Keeper of new iPhone 5 still shows that I didn't pay. So I can't backup it. Why like this ?」

 すると、2日経って、次のような返信が来た。問題解決ということである。やはり、何でも言ってみるものである。しかしやはりこういうものは、自動的に残りの日数をサポートするようにシステムを組み直すべきだろう。

 「Dear Customer, You are all set now, we have refreshed your subscription. Please once again login into keeper from your new device and try to sync. This will resolve the issue. Regards, Keeper Support」

 iPhone5は、薄いし軽い。動きも早い。これまでのiPhone4S時代にはしばしばよくあった「Memoryが足りません」などという無粋な表示も出て来ないのは有難い。それに一番良いことは、電池の持ちが長くなったことである。今までは、4時間も連続して使っていたら、もう電池切れを起こしてしまっていたが、このiPhone5はそれが6時間ほどに伸びたような感じである。そういう機能面に加えて、画面が縦に細長くなったからその分、横一列つまり4個分のアプリのアイコンが余分に入るようになった。これは使っている身には有難い改善である。できればもう少し、画面を横にも広げてもらえば更に良かったと思うが、それはまた来年にでも出る次世代のiPhone6に期待することとしよう。

 というわけで、iPhone5の方は無事に機種を変更することが出来た。難渋したのは、家内に使ってもらうこととなったiPhone4Sである。最初、何も考えずについうっかり、iPhone5の場合と同様にiTunesに繋げて、「あれ何にも起こらないな」と思った。それもそのはずで、だいたい電話番号とメールアドレスが変わったのだから、復元の前に既存のApple IDを新しくそれに変える必要がある。というわけで、そのステップが抜けていた。それで、パソコンに既存のApple IDの変更画面を出して新しくしようとしたら「そのアドレスは、既存のApple IDのサブのアドレスとして登録済みです」と出て、受け付けてくれない。仕方がないので、Gメールでまた新たにアドレスを作って、それを新しいApple IDとした。そこで再びiPhone4SをiTunesに繋ぎ、まず工場出荷の段階に戻して、その上で新しいApple IDから復元していった。そもそも元のデータ量が非常に少ないから、わずか10分もかからないうちに完了した。パソコンのiTunesから中を見ると、復元は成功のようだ。

 そこまでは順調に来たのだけれど、iCloudを起動しているときに失敗してしまった。というのは、家内のアドレスブックがiCloud上にあるとは知らずに、結果的にそのデータを消去してしまったのである。ああ、これは失敗だと直ぐに気付いたが、もう時既に遅かった。幸い、使わなくなったiPhone4上にはデータが残っているので、それを複写するなり引き写したりしてくれば復元は可能である。ただ、家内のアドレスブックがやや複雑になり過ぎているから、手入力で整理しながら復元しようと思った。しかしそれが運の尽きで、そこから延々と作業して、全部終わったのが4時間後だった。家内はあきれて先に寝てしまうし、孤独な作業だったが、ともあれ終わった。あとは、電話番号の打ち間違いがないことを祈るのみである。それから身内や家内の友人にメールで変更を連絡して、何とか終了した。

 さて、気が付いてみると、使わなくなったiPhone4が残された。これは私にとって初めて手にしたiPhoneだから愛着がある。古くなったとはいえ、まだ十分に使える。これをどうしようかと思っているときに、良いことを思いついた。初孫ちゃんが来たときの遊び道具にするのである。この子、もうすぐ4歳になるが、ともかくメカが好きで好きでたまらない。我が家にやってくると必ず家じゅうのボタンというボタンを触りまくり、押しまくり、しかも直ちにその使い方を覚えてしまうという特技を持つ。我々のiPhoneには特に興味を持っていて、あれば必ず触るから、アプリのアイコンのタッチの仕方もうまくなった。そういうことでこれは本物のiPhoneだから、この子に持たせて遊ばせれば、我々のiPhoneにまで手を出すことはないだろうと思ったのである。

 そこで、翌日、初孫ちゃんがやって来たとき、テーブルの片隅にさりげなく置いておいた。目ざとくそれを見つけた初孫ちゃん、満面の笑みを浮かべる。そして、スタートボタンを押し、画面を器用にスワイプして、一発で始動した。それで、アイコンをひとつひとつタッチしている。ガハハーッと大きな声で笑ったのは、コンパスのアプリで、その針が動くのが気に入ったらしい。そして私に「おじーさん、このミュージック、動かないね」と聞く。ああ、なるほど、家内のiPhone4には音楽はなかった。それで「今度、入れておくね」と言っておいたが、ということはつまりこの子は、ミュージック・アプリの使い方を既に知っているわけだ。これを見せたのはかなり前なのに、よく覚えているものだ。その次に言ったのは「写真は、これでいいの」という質問。「そうそう、それでいいんだよ」と答えたが、写真アプリまで覚えていたとは知らなかった。それで、「ここにいるおじいさんを撮って」と頼むと、「いいよ」と気楽に引き受けてくれた。そしてiPhoneをカメラのごとく構えて言われた言葉は、「おじいさん、動かないでね。はい、チーズ」・・・これには、チーズの顔をするどころか、大爆笑してしまった。孫が去った後、口を開けて大笑いしている私の写真が、手元に残った。


 (注)中途解約金条項の適法性


 2012年11月20日、携帯電話の2年単位の契約プランを途中で止めた場合に課せられるこの9,975円の解約金につき、原告の京都消費者契約ネットワークがソフトバンクを被告としてその差止めを求めた訴訟の判決があった。それによると、解約に伴う会社の損失がこの解約金を上回っているので、消費者契約法上、無効とする場合に当たらないとし、原告が敗訴した。ちなみに、これに先行してNTTドコモとKDDI(AU)に対して起こされた同様の訴訟では、ドコモについては適法、KDDIについては一部無効とされ、控訴中である。ところで、この判決とは別に、この2年契約は、契約満了日の翌月に解約すれば解約金はかからないが、今回のように中途解約になると一律この解約金が課せられるというのは、そもそもそういうことを予め契約者に通知すべきであるのにそれを怠っているというのはいささか不実の感がするし、加えて一律同額を課すというのも合理性に欠けると思うが、どうであろうか。



【後日談】 USBケーブルが30ピンから8ピンへ

 iPhone5とそれまでのシリーズとの大きな違いは、iPhoneと家庭用電源やUSBコネクターを繋ぐケーブルである。iPhone4Sまでは平べったくてしかも表裏のあるコネクターだったから、iPhone4SやiPadにつなげるときにいちいち表裏を気にしないと繋げなかったけれども、iPhone5では、その裏表がなくなり、しかも5分の1ほど小さくなったのは誠に有難い。規格上は、30ピンUSB(ドックコネクタ)ケーブルから8ピンUSB(Lightning/ライトニング)ケーブルになったそうだ。しかしその反面、従来からのケーブルとの互換性がなくなったのは、不便である。私の場合、iPhone4時代から引き続いて、家に純正品をひとつ、オフィスにサード・パーティ製のコードの長いものをひとつ、それからチャージするための電源用にひとつをそれぞれ持っているから、後二者を新たな8ピンUSB(Lightning/ライトニング)ケーブルに変えるのはとても面倒だ。そこで、ケーブル全体ではなくて、30ピンを8ピンに換装するその部分だけのコネクターをアップル・ストアへ買いに行った。そうしたところ、そういうコネクターがあるのはあったのだが、アップル純正品というものしかなくて、1個2,800円という高い値段が付いている。サード・パーティの製品はないのかと聞くと、アップルの審査が通らないからまだ出荷できないというのである。なるほど、アップルはこういうところでも、阿漕に稼いでいるのかと思って急に嫌になり、それ以来どこへ行くのにも8ピンUSB(Lightning/ライトニング)ケーブルをポケットに忍ばせている。ただ、以前のiPhone4Sより電池の持ちがよいので、さほど不便を感じたことはない。





(2012年11月17日記、30日追加)


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徒然262.湯島天神の菊まつり

湯島天神の菊まつり・高倉上皇



 湯島天神の菊まつり(写 真)


 昨土曜日は、朝から大雨でかなり強く降り、東北から北海道にかけて雷や降雪で大変だったらしい。ところが、今日の日曜日は誠に良い天気で、出掛けるには好都合である。しかし私は、昨日からのiPhone4SからiPhone5への切り替え騒ぎで疲れてしまって、午前中は出掛ける気にならず、お昼過ぎになってようやく外へ行く元気が出た。それで選んだのが湯島天神の菊まつりである。こちらの菊まつりには、2008年に行ったきりで、しばらくご無沙汰をしている。何しろ湯島天神まで歩いて20分ほどのところに住んでいるので、もう少し頻繁に行ってもよさそうなのであるが、家のすぐ近くに根津神社や神田明神もあるし、ちょっとバスに乗ると浅草寺だから、中途半端に近いところにはついつい足が向かなくなるのである。

湯島天神の菊まつり



湯島天神の菊まつり・白色と黄色の菊の大作り



湯島天神の菊まつり・白色と紫色の菊の大作り


 今日は、男坂を登って湯島天神に着いてみると、境内のあちらこちらに菊が飾られていた。先週は新宿御苑の皇室ゆかりの菊花壇展を観たばかりなので、そのきっちりとした様式美に目を奪われたものだ。しかしながら、こちら湯島天神では、大きな菊花はいずれも各協賛会社によって寄付されたもののようで、いやもうそれは豪華かつ奔放なつくりである。たとえば菊の大作りでは、新宿御苑ではひとつの鉢には当然同じ色と形の菊の花ばかりが咲いているが、こちら湯島天神では違う色の菊の花が混じっている。それも白色と黄色だったり、白色と紫色だったり、いろいろである。これは果たして一本の茎から出ているのか、それとも違う色の菊の接ぎ木でもしているのか・・・だいたい菊は一年生草本だったはずだから、接ぎ木なんて有り得ない・・・ではどうやってするのか・・・ひとつの鉢に数本の菊を植えているのか・・・そういうものを大作りと呼べるのかなどと頭を悩ました。どなたか、ご存じの方がおられたら、お教えいただきたい。

湯島天神の菊まつり


湯島天神の菊まつり・神前結婚式一行が渡り廊下を通る


湯島天神の菊まつり・平清盛と源義朝


 本殿では、懸崖作りの菊が並んでいる中で、神前結婚式がとり行われていた。式が終わった後、一行が渡り廊下を通って行った。その脇にも、たくさんの懸崖作りの菊が並べられていて、きらびやかで厳粛で、なかなか良い雰囲気である。社務所の左手には、菊まつりの目玉である大河ドラマの主人公の菊人形が飾ってあった。私はどうもこの平清盛の一生をテーマにしたドラマが肌に合わず、ほとんど見ていないが、人形は、その清盛、建礼門院、高倉上皇、源義朝であった。しかしどういうわけか、平清盛と源義朝とが同じ顔だったのには、笑ってしまった。ミスではなく、費用節約のためらしいとみたが、どうであろうか。

湯島天神の菊まつり・七五三参りの親子


 この日は七五三参りの親子も来ていて、子供さんは小さいながらもいずれも和服を着て、大菊を背景に写真に納まっていた。なかなか、可愛い。特に女の子は、髪を結い白粉をはたき口紅をさすと、もういっぱしの女性になってしまうから不思議である。でも中には、その足が草履ではなくてピンクのズック靴だった子がいたのには、これも笑ってしまった。草履は履き慣れないので、子供がすぐに脱いでしまうようだ。

湯島天神の菊まつり・懸崖作り


 菊について、いろいろと説明が書かれていた。たとえば懸崖作りでは、「磯菊が断崖の上から垂れ下がっているさまを思わせるのでこの名がつきました。長さによって180センチ以上を大懸崖、100センチ以下を小懸崖、その中間を中懸崖と呼びます。また、写真の前垂型の他に静岡懸崖などがあります。前垂型が一般的です。全部の花が一斉に開花し断面がカマボコ型になるように仕立てたものが良い作品です」とある。ちなみに、前垂型というのは私の言葉でいうと涙滴型、静岡懸崖というのは人形が踊っているような造形である。

湯島天神の菊まつり・江戸菊


 また、江戸菊というのは広義では、江戸、伊勢、嵯峨、美濃、肥後、奥州で発達した古典菊のことを指すらしいが、そのうち江戸で盛んに栽培されたのが狭義の江戸菊とのこと。これは、「はじめ花芯を見せて平らに咲き、その後平弁やサジ弁がよじれながら立ち上がって花芯を包み込み、品種特有の花型になります。この特殊な花弁の動きから、狂い菊とか芸菊とも云われました」という。そういえば、江戸菊の中には花弁が倒れたり捻じれたりしているが、これがその特徴なのだ。

湯島天神の菊まつり・管物(管咲き)


湯島天神の菊まつり・管物(管咲き)


 盆養〜管物(管咲き)というのは、「花弁が管状になっているためこの名で呼ばれ、花弁の大きさによって太管(3〜5mm)、間管(あいくだ、2〜3mm)、細管(ほそくだ、1〜2mm)、針管(はりくだ、1mm以下)に分けられます。花の中心部が茶筅状と盃状になるタイプがあり、品種の特徴が表れていることが求められます。外側に長い走り弁があり、花芯を囲んで段々になる抱え弁の先端が硬く玉巻きになっている戦災な美しさが命です」とのこと。確かにもそういわれて花を改めてみると、その違いがわかってくる。写真を撮るということでは、上から日が当たっているときより、斜めから日が当たっている方が適当だ。というのはその方がたくさんの管の陰影がよく表れて、ぞくっとするほど美しく見えることがあるからである。

湯島天神の菊まつり・厚走り


湯島天神の菊まつり・厚走り


 盆養〜厚走りというのは、まるで人の頭ほどもある、こんもり・もっこりとした美しい菊である。「厚物の花の下部に長い花弁(走り弁)が放射状についたもので、走り弁がある分、花が大きく見えるので人気があります。走り弁は、袋状で先が尖ったものを剣走りと呼び、良い花とされています。近年の代表的品種は国華由季」という。なるほど、これこそ菊中の菊というわけか。さもありなん。


湯島天神の菊まつり


 ああ、猿回しをやっている。この猿、両手を腰の後ろに回して気をつけの姿勢をする。そして、ハードルを飛んだりするのは普通のことだが、ふわふわのサッカーボールに対して、オーバーヘッドキックを披露したのには見物人が驚き、やんやの喝采を浴びていた。

湯島天神の菊まつり・猿回し





(2012年11月18日記)


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和紙人形と富士山の日没

秋田のナマハゲ



 和紙人形と富士山の日没(写 真)


 天高くどこまでも青い空という典型的な秋晴れの日、新宿御苑で菊花壇展を見物した。大造りの見事で豪華な菊や、赤ちゃんの頭くらいある見事な菊の列を堪能した後、家内が東京都庁の展望台に行こうという。何でも、富士山の頂上に落ちる夕日を見ようというのである。これをダイヤモンド富士というそうだ。西新宿駅から都庁の建物に向かった。南展望室は北と南とがあるが、そのうちエレベーターが2台あって登りやすい南展望室に上った。すると、たまたま和紙人形作品展が開かれていた。まだ夕日の時間までは間があると思ってそれを見始めたのだが、これがあまりに素晴らしいので、ついつい作品のすべての写真を撮ることに夢中になっていた。まずはこの和紙人形作品展の概要を記しておくと、11月7日から11日までの開催で、主催は全日本紙人形協会、協力がお茶の水・おりがみ会館である。作者の方々は大勢いらっしゃるが、いただいたパンフレットにその名前があった方の作品で印象に残ったものを中心にここに記録しておきたい。

ベルサイユのばら


 眼の前にまずあったのは『ベルサイユのばら』(考寿富行さん作)で、「宝塚の舞台を参考に」したとのこと。男装の麗人オスカルとフランス王妃マリー・アントワネットをめぐって描かれた漫画だが、実は私はこの種のものが苦手である。昔、家内と娘と3人で、東京宝塚劇場でかかっていたこの劇を観ようと3人分の切符を買った。それで3人そろって劇場の中に入り、席に座った。ところが、私だけひとり、どうもあの女性の雰囲気がむんむんする雰囲気になじめず・・・というか、いささか気持ちが悪くなって、そのまま出てきたことがある。あとから家内と娘に冷やかされたが、演劇を観てあんなに・・・英語でいえばuneasyな気分になってのは、初めてである。ともあれ、この紙人形のたぐいが動いていたのなら、そんな気分になるようなことはなかったのだろうが、これが生身の女性がピンクの照明を浴びて「やあ、オスカル」などとやっているから、妙な気分になったのである。

秋田彩祭


 次の『秋田彩祭』(草薙郷子さん作)は、本日の白眉ともいえる作品群で、男鹿のナマハゲ、秋田竿灯、薩琴の駒踊り、火振りカマクラ、綴子の大太鼓などの秋田の地元のお祭りの様子がいきいきと描写されている。なかでも、男鹿のナマハゲは「大みそかの夜、赤面青面をつけた鬼が、怠け者を罰するために『泣く子は、いねが』と叫びながら家々をまわる」というものだが、先日の国際通貨基金の総会の際に行われたJapan Paradeでも披露された。ところがこの草薙郷子さんの作品、その本物の雰囲気がよく伝わってきていて、それを越えているかのごとくである。

公家の行列が描かれた和服


花魁


 印象に残った作品は、作者名が不詳で申し訳ないが、公家の行列が描かれた和服と、それを立体にしたかのような花魁の姿は、和紙の特性が生かされたもので、感心した。おそらく江戸時代の頃だと思うが、桜の下で花見をしている庶民の夫婦の人形は、実に写実的である。眼の形と向き、酒のとっくり・おちょこの持ち方と腕の方向など、どれをとっても一分の隙もなく、よく練られた造形である。また、酔っ払ってぐっすりと寝入っている姿もよい。こういう人形が、しかも和紙で作られているとは、驚きである。

桜の下で花見をしている庶民の夫婦


酔っ払ってしどけなく寝入っている職人


 あれあれ、次は明治の鹿鳴館時代か。時間と空間が自由自在に飛ぶなぁと思うが、そこがこういう人形の面白さ。乗合馬車や洋装の紳士淑女と和服姿が入り乱れる。見たこともないだろうに、よく作れるものだ。そういう街頭の様子とともに、隣には鹿鳴館で舞踏会が催されている。長沼隆代さんの作という。同じ作者で、日露戦争の従軍看護婦(新島八重がモデルらしい)の作品もある。

乗合馬車や洋装の紳士淑女と和服姿


鹿鳴館時代



日露戦争の従軍看護婦


 『妹背山道行』(岩城竹男さん作)があった。求女を挟んで酒屋の娘お三輪と橘姫のふたりが恋の鞘当をする道行であるが、人形がまるで生きているかのようで、芝居の雰囲気が伝わってくる。暗い緑に赤い神社の灯篭が続く背景も、道行の先を暗示しているかのごとくである。おっと、これも作者が不明で恐縮だが、赤い半纏の奴が素晴らしい。単なる紙で出来ているものとは思えないほど、動きがある。

妹背山道行


赤い半纏の奴


私の通っている美容室


 次は、『私の通っている美容室』(小山英子さん作)は「大事な美容師資格書と懐かしい昭和初期時代の職業婦人のお写真を見せていただき、創作致しました」とのことである。ああ、これこれ、「ぬ」組の纏いを持った大勢の町火消が、火消し半天にもも引き姿で演技を披露している。木遣歌の中で、竹で作られた梯子の頂上で梯子乗りの妙技が披露されている。これまた作者が不明だが、西瓜割りをやっている。おお、これは懐かしい。お母さんが持ってきた切られた西瓜がおいしそうだ。

「ぬ」組の纏いを持った大勢の町火消



西瓜割り


 ううむ、これは会津戦争の様子ではないか・・・たまたま新島襄の婦人の八重が話題となっているが、彼女のエピソードが思い起こされる。会津藩の什の掟があった。「一、年上の言うことに、背いてはなりませぬ。 二、年上にはおじぎをしなければなりませぬ。 三、うそを言うことはなりませぬ。 四、卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。 五、弱いものをいじめてはなりませぬ。 六、外でものを食べてはなりませぬ。 七、戸外で女と言葉を交わしてはなりませぬ・・・ならぬことはならぬものです。」

会津藩の什の掟


 最後に、これは凄いと思うのは、江戸の芝居小屋の内外を再現した大きなジオラマである。小屋の外には、沢山の通行人が行き交う。その中には、水戸黄門ご一行がいたり、だるま売りや招き猫売りがいる。小屋の中は、枡席になっていて、まさに芝居が演じられている。これは力作中の力作というところ。

水戸黄門ご一行


江戸の芝居小屋


江戸の芝居小屋


 さて、せっかく来たのだからと、都庁展望室からの風景も撮っておいた。やはり人気は、東京スカイツリーで、この日は晴れだったので、綺麗に写った。もちろん、六本木ヒルズと東京タワーも見える。

東京スカイツリー


六本木ヒルズと東京タワー


 さて、そろそろ日没の時間の午後4時38分である。富士山に雲が掛かっていないことを祈るばかりだ。今は日が眩しすぎてよく見えないが、どうやら富士山そのものには、雲はないようだ。山の頂上に赤い夕陽が次第に落ちていく。超望遠レンズ(35mm換算で400mm)を向けた。測光を富士山に合わせるのか、それとも太陽の近辺にするのかで、写真の印象が全く違う。太陽の日没の瞬間を撮るのだから、明暗がくっきりした方がよいので、太陽にした。そうすると、日が沈んでいく様子がよくわかった。あっという間に日は富士山の陰に落ち、空には残照が残るばかりである。これがダイヤモンド富士か・・・正直いうと、日が沈むのがあまりに早くて、感慨にふける間もなかった。まあしかし、自然というものは、人間の気持ちにはお構いなく、物理の法則に従って動いていくものだなと改めて思う。

富士山の頂上に赤い夕陽が次第に落ちていくダイヤモンド富士の瞬間






(2012年11月10日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:52 | - | - | - |
徒然261.新宿御苑 菊花壇展 2012年

新宿御苑菊花壇展の第一露地花壇



 新宿御苑 菊花壇展(写 真)


 新宿御苑の菊花壇展の季節となった。同じ菊の花を使った展示といっても、新宿御苑の菊花壇展は、そんじょそこらの菊人形展の雰囲気とは大いに違う。菊人形は人形の頭を付けて、菊花の玉からできた衣装を身に付けるいかにも庶民的な楽しみである。これに対して新宿御苑はその日本庭園の回りに特有の上屋(うわや)を設けて、雅びた様式で展示するいわば貴族的な楽しみである。それもそのはずで、この菊花壇展は、宮内省が明治11年に赤坂の仮皇居で催した「菊花拝観」に端を発する。それが昭和4年から観菊会として新宿御苑で行われるようになったというのである。

懸崖作り花壇


 この菊花壇展のそれぞれの花壇は、パンフレットの説明によれば「順路に沿って観ると最も美しく鑑賞できるようにデザインされている」とのことであるが、実は私は、今回初めて、その順路に沿って巡ってみた。まず最初は、第一露地花壇で、背の高い黄色と白色の菊の花の回りに背の低いピンク色の菊を配した美しい花壇である。懸崖作り花壇「野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を模して、1本の小菊」を長い三角の形に大きく垂れ下がる株に仕立てている。大正5年から作り始めているそうだ。

伊勢菊


丁子菊


嵯峨菊


 次の伊勢菊、丁子菊、嵯峨菊花壇は、独特な雰囲気がある。まず丁子菊はダリアを思わせるように花の中心がこんもりと盛り上がって咲く。別名アネモネ咲きというらしい。そのような丁子菊とは真反対に、伊勢菊と嵯峨菊はいずれも紐を思わせる細い細い花びらを持っているが、この2つはその咲く方向が反対だ。伊勢地方で育てられた伊勢菊は、細長くて縮れた花びらを下にだらりと垂らしている。逆に京都の嵯峨野で発達した嵯峨菊は、細長い花びらが真っすぐ上を向いている。この3種類の菊を一堂に集めて観るのが、この花壇なのである。その作り始めは、昭和30年とのこと。

大作り花壇


 大作り花壇は、いうまでもなくこの新宿御苑を代表するもので、その豪華絢爛たる優美な菊作りの技法は、一度見たら忘れないほどである。これは「初冬に出てくる芽を1年がかりで枝数を増やし、1株から数百輪の花を半円休に生前と仕立てて咲かせる」ものということだ。今年は、白と黄色の2色しかなかったが、例年なら、これにピンク色の株がある。見ていて、そのシンメトリーな様式美の美しさに感動するだけでなく、これがたった1本の木から出来ているとは、とても信じられない気がする。作り始めは、明治17年。

江戸菊花壇


 さて、日本庭園の上の池を渡って江戸菊花壇に行く。これは、私に言わせれば「乱れ咲き」であり、細長い花びらがあちこち勝手な方向に向いて咲く。説明によると「江戸菊は江戸時代に江戸で発達した菊で、花が咲いてから花びらが様々に変化し、色彩に富んでいるのが特徴で、そうした花の変化を鑑賞する菊」とのこと。新宿御苑の菊花壇の中では最も歴史が古くてその作り始めは、明治11年とのこと。

一文字菊、管物菊花壇


一文字菊


管物菊


 一文字菊、管物菊花壇は、いずれも白い紙に支えられた菊である。説明では「一文字菊は、花びらの数が16枚前後の一重咲きの大輪菊で、花の形から御紋章菊と呼ばれ・・・管物菊は、筒状に伸びた花びらが放射状に咲く大輪菊でも糸菊とも呼ばれている」というそうな。大正14年から作り始めている由。特に一文字菊は、この白い紙がなかったら、どうなってしまうのかと気になるほどである。それにしても、「管物(くだもの)」とは、よく名付けたものだ。

肥後菊


 肥後菊花壇「古くから肥後地方で作られた一重咲きの古典菊で、主に武士の精神修養として発達し、その栽培方法や飾り方は江戸時代に熊本で確立した秀島流の厳格な様式にもとづいて」いるとのこと。ただ、花の盛りが違うようで、ここにいわれる精神修養の糧になるかどうかは、わからなかった。作り始めは、昭和5年。

大菊花壇


大菊


 大菊花壇は、これも大作り花壇に続く本花壇展の白眉中の白眉で、これほど粒のそろった大菊が一堂に会している姿は、なかなか見られない。大菊とは「菊の代表的な品種で、花びらが名の中央を包み込むように丸く咲くのが特徴で、それを神馬の手綱模様に見立てた『手綱植え』と呼ばれる新宿御苑独自の技法で39品種311株の菊を、黄・白・紅の順に植え付け、全体の花がそろって咲く美しさを鑑賞」すると良いとの由。作り始めは、明治17年とのこと。誠に、目の保養になった。帰り際には、第二露地花壇があり、第一露地花壇とはまた異なる美しい幾何模様と色合いのものである。

第二露地花壇




(2012年11月10日記)


カテゴリ:徒然の記 | 23:08 | - | - | - |
徒然260.ドリーム夜さ来い祭り

舞桜枝_お台場会場



 ドリーム夜さ来い祭り(写 真)


 10月7日の日曜日に池袋で行われた「東京よさこい」とは別に、11月3日と4日の土日に今度は第11回ドリーム夜さ来い祭りというイベントがあった。これはそのHPによると、「『日本の夢を東京から世界に発信』をコンセプトに、約90チーム、6,000名の踊り子の参加と観客50万人を見込んだ、東京でも最大の規模と質を備えたお祭りです」というもので、臨海副都心を中心に開催される。いやそれが、ものすごい過密スケジュールなのである。何しろ9つの会場で開催され、たとえばそのうち一番長い会場では朝の10時半から夜の7時半まで6分きざみで次から次へとひっきりなしに踊りのチームが出てくる。だから、踊っている方もそうだろうが、見ている方もたいそう疲れる。

舞桜枝_お台場会場


 私はこの祭りをお台場の会場にまで見物に行ったのだけれど、まずはその次から次へと出演するチームの多さにびっくりした。それが相互に何の脈絡もなくいっぱい山ほど出てくるのだから、小一時間ほど見ていて何だか頭が痛くなり、そのまま帰ってしまった。そのわずかな間に見物したのはほんの10チームばかりだったのだけれども、いずれも踊り子さんたちが一生懸命やっているのを見て、やはり来て見て良かったと思った次第である。

舞桜枝_お台場会場


 なかでも印象に残ったのは、お台場会場の舞桜枝チームと、フジテレビ会場のFunnyチームである。前者の舞桜枝チームは、先頭に4〜5歳の男の子がいて、その子が旗を振るものだから、もう可愛くて観客の視線を一身に集めていた。そのバックダンサーを務める大人たちも、黒とピンクの忍者スタイルでなかなか格好が良く、また全員で扇をうまく使ってポーズを決めていた。素人でも、こんなに上手に踊りの構成が出来るものなんだと感心したほどである。それから、不思議なことに同じ顔の美人さんがあっちにいたかと思ったら、こっちにもいるとのでどうなっているのだろうと驚いたが、全員そろったところでよく見たら、何と双子さんだった。これまた配役と位置取りの妙がトリッキーで、面白い効果を生み出している。

Funny_フジテレビ会場


 次に、帰る途中で見た後者のフジテレビ会場のFunnyチームは、まさに品の良い衣装を身に付けた正統派のよさこいを踊りで、これには観衆も思わず目を引き付けられていた。まずその衣装は、上体が紫とピンクだったが、後半ではそれがあっという間に金とピンクに反転した。ボトムは白と縞模様のスラックスで、その上下の衣装をまとめてみると、美人さんが多いこともあって踊るたびにとても優雅な印象を受けた。また、私は裏方に当たる二人の旗振りさんを撮りたかったが、私のいた位置からはたくさんの踊り手さんの影に隠れてうまく撮ることは出来なかった。でも、力任せに旗を単に振り回すのではなく、音楽に合わせて旗を交差させたり、地面に置いたりと、何かとそれなりに工夫しているようにお見受けしたのである。

Funny_フジテレビ会場



Funny_フジテレビ会場


 お台場は、天高く秋晴れの日で、白いレインボー・ブリッジと、その前に立っているフランスの自由の女神の青銅色が実によくマッチしていた。わずかに潮の香りがするそよ風も心地よく、本当に気持ちの良い日だった。

お台場の自由の女神





(2012年11月 4日記)


カテゴリ:徒然の記 | 19:30 | - | - | - |
徒然259.東京時代祭 2012年

東京時代祭



 東京時代祭(写 真)


 また昨年に引き続いて、東京時代祭の見物に行ってきた。もう何回も見ていると、さすがに「ああ、あれを言いたいのか」とか、「実はこんなことだったのか」などと色々わかってくるから面白い。とりわけ、浅草観光連盟のHP(その内容は、下記の「東京時代まつり行列歴史絵巻」)を見ながら行列の有り様を思い浮かべると、そうだったのかと気が付き、改めて30チーム、1600名の参加者の皆さんの苦労もしのばれるというものだ。

江戸城石垣の搬入


 総じてこの行列、浅草神社の有名な3つの舞、つまり金龍の舞、びんざさら舞そして白鷺の舞が一度に見られてパフォーマンスまでしてくれるし、まるで日本史を忠実になぞるように歴史的事実を踏まえた行列があるし、最後に水戸黄門ご一行や一心太助など見物人を楽しませるちょっとした工夫もある。

白鷺の舞



白鷺の舞


 ところで金龍の舞は比較的わかりやすくて、龍の目標である金の玉があり、それを龍が追いかけるという程度のことだと思うが、白鷺の舞の方がそうたやすくはない。たとえば今回、まず立ち止まって両翼を広げ、そのまま一周して翼を閉じ、それから頭と上半身を前に傾けて、まるで白鷺が餌をついばむような仕草をしていたが、これはどういう意味なのだろうか・・・知りたいものである。それにもまして難解なのはびんざさら舞で、今回初めてそのパフォーマンスを見たが、両手で持つアコーディオンのような「びんざさら」を開いたり閉じたりしていて、そのときに四角に細かく切られた紙ふぶきが舞っていた。これは、五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄などを祈るものだそうだ。

在原業平



武士


 それにしても思ったことは、歴史的事実を踏まえた行列のところで、たとえば在原業平、太田道灌、徳川家康、徳川家光などを政治家や都庁の役人さんなどが扮していたけれど、政治家はそれなりに堂々と周囲に手を振り愛嬌を振りまいていた。ところが、これに対して役人さんの方の表情は硬く、全く場慣れていないのには、思わず笑ってしまった。こういうところにも、職業の差が出るものである。慣れないことは、するものではない。

徳川家康


会津藩奴隊


 パフォーマンスでは、わざわざ会津から来ていただいた会津藩奴隊というのが面白かった。顔を赤く塗り、奴髭を描き、それで元気よくきびきび動くから、見ていて楽しい。せっかくお金をかけているのだから、こういう要素をもっと取り入れていくと、人を呼べる行列になると考える。ところで、行列に参加するのはほとんどが素人だと思うが、それにしても皆さん、その顔に表情がなさ過ぎる。いま少し、愛嬌があった方が良いと思う。浅草のサンバカーニバルでは、参加者は皆、満面に笑みを浮かべて各人各様の愛嬌を振りまいていたが、あのようにするともっと良いのではないだろうか。たとえば、江戸芸者の場合は・・・もちろん現役の浅草芸者さんたちがやっているからだろうが、この行列に参加しながら「本日は、ようこそおいでくださいまして」などとやっているから、これも見ていて笑いが止まらなかった。だから、多少、年増の芸者だろうが何だろうが、そういわれると、なかなか可愛げを感じてまた来年来ようと思うのである。

江戸芸者


水戸黄門ご一行



一心太助


 ところで、テレビではもう終了してしまった水戸黄門ご一行や一心太助の姿がこの雷門通りで演じられたのには、大いに満足した。きっぷの良い一心太助を暇な若侍たちがいじめ、それを助さん格さんが懲らしめ、最後に葵の紋を見せて水戸のご老公であることを示すというもので、ちゃんと物語の筋を外していない。まるでワンパターンのようなこんな勧善懲悪ものを小さい頃とはいえ我ながらよく見ていたものだと思う。ウチの父などは最後までこうしたテレビを見ていた。熱心なあまり、実家には水戸黄門の目覚まし時計まであって、時間が来れば「助さん格さん、時間じゃぞ」などと叫んでいたほどだ。それにしても懐かしいなぁ・・・今度帰ったときに、母に頼んであの時計をいただいて来ようかと思っている。

新撰組・近藤勇




(2012年11月 3日記)







東京時代まつり行列歴史絵巻



日時:平成23年11月3日(文化の日)午後12時30分 浅草寺本堂北側広場にて出発式 午後1時出発 午後4時30分 浅草寺本堂裏広場にて解散
主催:東京時代まつり実行委員会
後援:東京都、台東区、ときめきたいとうフェスタ推進委員会
協力:浅草神社奉賛会、ボーイスカウト東京連盟、ボランティアスタッフ:都立白鴎高等学校、都立浅草高等学校
役員:東京時代まつり実行委員会会長:浅草観光連盟会長、名誉会長:台東区長、名誉顧問:浅草寺貫首
編成人員:30チーム、1600名

一 浅草のよろこび 金龍の舞/金龍の舞、楽人、役員/(浅草寺舞保存会、浅草寺幼稚園)
二 安宅丸
三 東京時代祭/本旗、手古舞/(桑沢デザインスクール、地元有志)
四 奉行/役員(黒紋付・裃・一文字笠)/(浅草観光連盟)
五 東京のあけぼの 浅草観音示現/十童子、観音像網得の図、土豪(土師真仲知)、漁師(檜前浜成、檜前竹成)/(浅草寺幼稚園、浅草馬一町会) 推古36年(西暦628年)3月18日。隅田川の清流を漁労中の檜前浜成・竹成 の兄弟が、漁網の中から黄金の観音像を 発見しました。 土地の豪族土師真仲知は、これに深く感銘。自宅を改め寺とし三人は礼拝に生涯を捧げます。これが浅草寺の起源であり、後生この三人は、浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ、三社祭へと発展していきます。秘仏の観音像は浅草寺本堂に奉安され、今なおこの都を守り続けています。 観音像が祀られたその夜のこと。堂舎を守るようにその周辺に千本の松が生え揃い、その三日後天より長さ百尺の金鱗の龍が舞い降りたと伝えられています。金龍山浅草寺の山号はその故事にちなんだものです。昭和33年本堂完成記念ご開帳に際し金龍は再びこの世に舞い降りてきました。長さ15メートル重さ150キロ先頭に観音像を表した蓮華珠。いなせな男衆があやつる金龍の舞は勇壮華麗の一言に尽きます。
六 在原業平 東下り/在原業平(狩衣) 、狩衣侍女、従者/(千束小、田原小、一般公募 、立正佼成会)
七 源 頼朝 隅田川陣営/武者行列、源頼朝、豪族・江戸氏、供侍、畠山重忠、千葉常胤 侍大将、武者、土肥実平/(浅草商店連合会、郵政・浅草グループ、区民参加、朝日信用金庫、地元有志)
八 北条政子 浅草寺参詣/北条政子、女官、供侍/(区民参加)
九 三社大権現祭礼 船渡御 /びんざさら舞、白鷺の舞、神輿一之宮、神輿二之宮、神輿三之宮、江戸囃子/(びんざさら舞保存会、浅草寺舞保存会、金竜小、浅草神社総代、奉賛会事務局、各町会長、浅草寺幼稚園、地元有志、区民参加、三町会(馬二、浅二、浅草中央)、三網、浅草神社、花二岩戸、美風連社中)  浅草神社の三社祭は、江戸下町を代表する伝統の祭礼です。三社大権現を祀る本社宮神輿3基が町内を練り歩き、神社では、田楽踊りの名残を留めるびんざさら舞と浅草寺に伝わる白鷺の舞が奉納されます。江戸末期までは神輿を奉ずる船が隅田川を駒形まで漕ぎ上がる船祭も伝わっていました。この船渡御を舟形の山車で再現しています。
十 江戸開祖 太田道灌/太田道潅(狩装束)、重臣、従者・山吹娘/(東京都、地元有志、根岸小、谷中小、台東育英小、自衛隊協力本部、桑沢デザインスクール )  康正2年、西暦1456年、太田道灌は、12世紀の豪族江戸重嗣の屋敷跡に、江戸城を築城します。江戸城は攻め難く、守り易い名城として当時から評判でした。また道灌は和歌の素養も高く、鷹狩りに出て雨に遭った際、実のならない山吹で蓑のない事を告げた娘の逸話は有名です。
十一 江戸城築城 御石曳き/(御徒町台東中学校)
慶長8年、西暦1608年、征夷大将軍となった徳川家康は江戸城の大拡張工事を発表し、諸大名に命を下した。城に適した岩を産出し、しかも江戸に近いという条件から、相模や伊豆海岸が選ばれた。
十二 徳川家康 江戸入府/徳川家康・秀忠、小姓、四天王、井伊の赤備え(徳川慶喜公顕彰会、台東区川柳人会、立正佼成会、墨田区観光協会、墨田区観光課)  天正18年、西暦1590年、関東平定に功遂げた徳川家康は江戸に入府。江戸城を修築し、浅草寺を祈願時に定め、元和2年、西暦1616年には自ら参詣しています。その信仰の厚さは二代秀忠の二天門、三代家光の三社権現社建立へと受け継がれ、安らかなる江戸の礎となってきました。
十三 徳川家光 三社権現社再建寄進/徳川家光、柳生但馬守、松平伊豆守、土井大炊守、小姓、警護侍/(台東区長、台東区、田原小、少年リーダー研修会、自衛隊台東出張所)
幕藩体制がより強化された徳川家光の時代。慶安2年(1649年)に浅草神社(三社大権現)が建立された。300有余年前の江戸時代初期の権現造として知られ重要文化財に指定されている。
十四 参勤交代 大名行列/供侍、家老奉行、小姓、奴、露払い/(会津藩奴隊、付添、区民参加、東泉小、リーダー研修会、自衛隊協力本部 )  長槍を先頭に、軍陣の体裁を整えたものものしい行列。「下に下に」のかけ声と共に、重厚なる一段が街道を往く-寛永12年(1635年)徳川家光によって確立された参勤交代制は、諸大名に一年ごとの大移動を義務づけました。格式を整えての長い旅路は、多額の費用を要し、この時代に独特の光と影を投げかけています。
十五 大岡越前守と江戸町火消/大岡越前守忠相、与力・同心、町火消/(江戸消防記念会、NTT東日本-東京) 享保2年(1717年)。八代将軍吉宗は、大岡越前守忠相を江戸南町奉行に任命します。有名な大岡裁きの他にも、目安箱の設置。新田の開発などに尽力し、特に家屋の構造を心得た鳶職・大工を中心に江戸町火消いろは48組を組織した功績は大きく、後世の評判に違わぬ名奉行でした。
十六 浅草市村座七福神舞/福聚の舞/(浅草寺舞保存会、鳶)
恵比寿に大黒、弁財天・・・・七福神は福徳の神として知られています。江戸末期、歌舞伎・市村座の座主は浅草観音への信仰厚く、一座の興業の前狂言として「七福神踊り」を上演して観音様の功徳をたたえました。昭和39年、宝蔵門落慶の記念行事としてこの踊りは復興し、見る人を和ませています。
十七 猿若三座 江戸歌舞伎/白浪五人男、花川戸助六、髭の意休、中村座、市村座、守田座/(浅草小学校、地元有志、自衛隊台東出張所)  出雲大社の巫女・阿国(おくに)を祖とする歌舞伎は、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎が江戸に一座を開いたのを皮切りに、隆盛期を迎えます。その後、一時は人気役者と奥女中との不義密通事件から全座休座を命じられますが、やがて中村座、市村座、守田座のみが興業を許され「江戸三座」として日本の伝統芸能を育て上げていきました。
十八 江戸の人気者/水戸黄門、一心太助、松尾芭蕉、播随院長兵衛、水野十郎左衛門 他/(地元有志、六真企画)
火事と喧嘩は江戸の華。気っ風の良さは誰にも負けぬ。天下御免の一大事。一心鏡の如く駆け抜けりゃあ、義理が憂き世のしらがみでえ。男侠気に人情話。ちょいと知られた伊達男。江戸は今宵も大騒ぎ。ええい!控えい!この紋所が目に入らぬかあ!
十九 江戸芸者/芸者衆、出の衣装/(東京浅草組合)
芸者の起源は元禄時代、遊廓で遊女の伎芸不足を補うために生まれた、太鼓専門の女性がその始まりだったと伝えられています。吉原の場合は特にその傾向が強く、明らかに遊女とは一線を引いた、三味線音楽と踊りの専門家でした。町芸者では浅草、広小路芸者、深川の辰巳芸者が有名で、下町の夜に小気味よい爪弾きの音を響かせていました。
二十 日野市新撰組/近藤勇、土方歳三、沖田総司、隊士/(日野市観光協会)  幕末期、騒然となった京都の治安を維新志士達から守るために結成された、朱に「誠」の文字の旗、浅黄色にだんだら模様の羽織姿で京の街中を震え上がらせた新撰組。近藤勇、土方歳三、芹沢鴨、沖田総司など今に名を残す強者は結集した。まさに幕末時代を駆け抜けた最後の剣客集団。しかし、新撰組の結成から土方歳三の死まで、わずか6年の運命だった。
二十一 第十五代将軍 徳川慶喜/徳川慶喜公、小姓 警備侍/(徳川慶喜公顕彰会、金竜小)
幕末。時代が大きくうねりを上げ、多くの優れた人物が自らの血を理想に捧げた時代。最後の将軍・徳川慶喜---家康以来の知性といわれ、幕府最後の砦と頼られながらも、日本の将来のために大政奉還を決意し、徳川三百年の歴史に潔く幕を引きます。その日大政奉還の提案者・坂本龍馬は、慶喜の精神の高貴さに感涙したと伝えられています。
二十二 江戸から東京へ/西郷隆盛、勝 海舟、山岡鉄舟、大久保利通、坂本竜馬、彰義隊、官軍/(一般公募、浅草中学校)
慶応4年(1868年)。慶喜の大政奉還によって、元号は明示へと改まりましたが、安定した時代を築くためにはさらに多くの血を必要としました。同年5月には、旧幕臣2000名余りが上野の山に集結。彰義隊として官軍に徹底抗戦を試み、無惨にも壊滅させられていきます。西郷隆盛・坂本龍馬・大久保利通・・・・命をかけて日本の夜明けを築いた多くの偉人たちのように、彰義隊もまた時代の礎であり、やがて江戸は東京へと移り変わっていくのです。
二十三 文明開化 鹿鳴館/樋口一葉、郵便、巡査/(車夫、一般公募、地元有志)  残切頭を叩いてみれば、文明開化の音がする---急速な近代化への流れの中で、馬車が走り、ガス燈が灯り、銀座通りに赤煉瓦の洋館が建ち並ぶ。この時代に樋口一葉が24年の短い生涯のうちに、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった珠玉の作品を生み出しました。今発行されている五千円札の肖像に採用されており、私たちの身近にいつもいます。
二十四 浅草奥山風景/飴売り、瓦版売り、玩具売り、唐辛子売り/(六真企画)  浅草寺裏手、奥山の栄えは江戸時代より。諸国から集まる見世物小屋・大道芸人。境内には水茶屋・瓦版。江戸の賑わいを一手におさめるほどの繁栄は、文明開化の世にも変わらず。明治17年(1884年)浅草六区指定後も、十二階凌雲閣・軽業・芝居に活動写真、活気と熱気の交差の中で、東京の娯楽は常に浅草から出発していった。ご覧あれ、浅草奥山の主たちの姿を。なつかしくもあり、新しくもあり、そして何よりたくましい。
殿[しんがり]


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