徒然258.秋の園遊会

秋の園遊会



 秋の園遊会が赤坂御所で開催された。私のところにも招待状が届き、参加することが出来た。ドレスコードは、モーニングコート、制服又は背広ということなので、まあ普通はモーニングを選ぶのが無難だろう。私も、そういうことで、モーニングを着用して出掛けることにした。予め配布されたマークを付けた車に乗り、午後1時45分頃、赤坂御苑内に入った。下車してテントの前の係の方に半券をお渡しし、それから差し出される飲み物のグラスを手にする。上司、同僚、知己と交々挨拶を交わして雑談し、時にはモクモクと煙をあげているテントまで行って、そこで焼かれている焼き鳥やジンギスカンにまで手を出したりした。そうしてまた色々な話題が飛び交う場に戻り、和やかな時を過ごす。眼を上げれば、空はもうすっかり秋だ。真っ青でどこまでも続く空の中に、白い筋雲が浮かぶ。芝生の前には、懸崖造りの菊の花や大輪の菊の鉢が並べられていて、いかにも秋らしい。その横にある赤紫色の花は何かと思って近づくと、杜鵑(ほととぎす)ではないか・・・しかも花が集まって咲いている。こんなに杜鵑の花が集合しているのは、見たことがない。隣には、大きな丸い緑色の葉っぱから出る長い茎の上に黄色い花がある。ああこれは、石蕗(つわぶき)の花である。

秋の園遊会


秋の園遊会


 はて、前回はたくさんの各国大使がいたが、今日はいないなぁ・・・と思ったら、それは春の園遊会のことで、この秋の園遊会には外交団は招待されないそうだ。前回は、特にアジア各国の大使さんたちとよく話が合った。これというのも、私が若い頃に東南アジアに3年間いたことがあるので、良いことも悪いことも含め、それぞれのお国の事情がわかるからかもしれない。これに対して、ヨーロッパの大使たちは仲間内だけで集まる傾向にあり、あまり接触する機会はなかった。それにしても、アフリカの大使夫人たちの衣装のカラフルなこと・・・まるで熱帯の鳥のような華やかさである。今日は、またあの方々と話しが出来るかと期待していたが、それは叶わなかった。

秋の園遊会


 しばらくして、まず皇太子殿下と秋篠宮殿下ご夫妻、そしてその他の皇族方が車から降りられて、芝生の上に一列に並んだ我々のところまで来られて、ひとりひとりに会釈をされた。皇太子殿下は、やや臙脂がかったモーニングコートを着用されてグレーのシルクハットを手でお持ちになり、にこやかに、そしてさわやかに次々と軽く会釈をされていった。そしてちょうど列の終わりまで来られたときに、くるりと来た道を戻って行かれた。間もなく天皇皇后両陛下が到着されるからである。時計を見たら午後2時10分過ぎ、両陛下の車がお着きになった。そして、車からお出ましになった両陛下は、その直前に皇太子ご一行がされたように、列をなして並んでいる我々のひとりひとりに、端から端まで挨拶をされようとした。陛下が我々のいるところまで来られたときのことである。何とまあ、恐れ多くも、陛下の頭に赤トンボがとまったではないか・・・私は、ああっと思ったが、陛下は何事もなかったかのように、にこにこと自然な笑みを招待客に向けて通り過ぎられた。私はいったん目礼をしたあとで頭を上げてもう一度、陛下の頭に目をやると、すでに赤トンボの姿は消えていた。だからそれは、ほんの数秒間の出来事だったのかもしれない。

 それを見て、私の隣にいた友人の奥様がいたく感じ入ったようで、陛下が去って行かれたあとで、「赤トンボ 陛下の頭で ひと休み」と詠んだ。のどかで素直な句だ。するとその友人は、「私のは、あんな子供っぽい句ではないからね」といい、「御苑の宴 不敬知らずに 秋あかね」を披露してくれた。ははぁ、なるほど、彼がこれほど句心のある人だとは思わなかった。お見それした。それを見て私も負けじと詠んだのが次の句だが、我ながら川柳風なのが悲しい。どうも私には、句をひねる資格はあまりなさそうだ。

 「此は何処と 心得るのか 秋あかね」


秋の園遊会





(2012年10月25日記)


カテゴリ:徒然の記 | 22:45 | - | - | - |
シティバンクはもうこりごり

シティバンク銀座支店



 日本の都銀の通帳に記入された外貨と円貨の預金額の印字を見て、やれやれ、やっとこれで終わったかと、心から安堵した。というのは、これは今日に至るまでのシティバンクとの延々とした煩瑣なやりとりの末に得た成果だから、これが安心せずにいられようかという高揚した気分にすらなる。これを裏返していえば、シティバンクという外国銀行の、日本人にとっては実に使いにくい側面 〜  あまりにセクショナリズムが強過ぎ、それに外資系特有の不親切さが加わり、かつまた、セキュリティ第一のやり過ぎ 〜 を次々に見せつけられたからである。

 事の発端は、遠いところにいる義理の両親が高齢になって、二人とも老人ホームに入居したことである。その結果、実家が空家となった。そうすると、家自体について、不用心だし、不法駐車はされるし、台風のときなど何か飛んでいって隣近所にご迷惑をかけないか心配になるし、あるいは夏の間に少し目を離すと庭の空地に人の背丈ほどの雑草が生えてきてしまうし等々で、いやもう大変面倒なことになる。これを称して「家の管理」といえばそれまでなのだが、管理人のいる別荘地ならばともかく、街の中心にあるそんな大きな家の管理を引き受けていただけるところは簡単には見つからない。

 その家の管理の話はまた別の機会に譲るとして、たとえば郵便物の管理というと、そんなものは単に回収に行くだけではないかと思われる。それはその通りなのであるが、遠いところにある実家に、わざわざお金と時間をかけて、配達されているかいないかもわからない郵便物を取りに行くことほど、はっきり言って下らない仕事はない。基本的には、近くに住んでいる妹に頼むのだが、そうそう毎回、頼むことも出来ないし、お互いそれ相応の歳になると、通院やら家族や友達、介護のことやらで、何やかやと用事があってそういつもいつも依頼するわけにはいかない。それだけでなく、そうした手間と時間をかけてやっと回収したとして、実はその回収してからその郵便物の中身をいかに処理するのかが次なる問題となる。たとえば先日、郵便物を回収すると、電気保安協会が設備点検に行くから、何月何日に立ち会ってほしいというメモが入っていた。安全の問題だから、放っておくわけにはいかない。やっとのことで時間を調整して、近くの妹が立ち会うことにしたが、こういうのは、まだ簡単な方だ。

 その郵便物の中に、シティバンクからの口座内容の取引明細書(兼 取引残高報告書)というものがあった。これがこの問題の発端である。ご存じかもしれないが、外資系のシティバンクにはそもそも通帳というものがなくて、この3ヵ月ごとに送ってくるステートメントがその代わりを果たしている。ちなみに両親は、このシティバンクのほか、複数の地元の銀行やら都銀やら、そして農家ではないのだけれども近所付き合いで農協など、あちこちに預金口座をいくつも持っている。考えてみると、両親はもう、老人ホームに永住すると決めたのだし(もっとも、老人ホームに何か支障ができたり、あるいは重い病気になって老人ホームから出ざるをえなかったり、はたまた気分転換のために近くの妹の家に滞在することはあり得るが、それはともかくとして)、これから連絡先としていちいち実家の郵便箱をチェックしに行くというのもたまらないから、銀行口座を1箇所に集中することにした。ここを年金の受け皿とし、老人ホームの費用その他の引き落としや支払の口座に統合すればよいという発想である。

 そこでまず、口座を持っている地元の銀行、都銀、農協(火災保険料の支払い)を事前に回って、その口座解約届出書や住所変更手続届出書をもらってきた。両親の分それぞれだから、二人分ずつである。手分けして集め回った。邦銀の場合の口座解約をする手続きは、父の体の調子の良いときにその銀行などに連れて行って、そこで通帳と届出印を示し、それに本人の住基カードを見せて本人確認をしてもらい、併せて母の分についてはあらかじめ委任状を用意して、無事に手続は終わった。母の場合も解約をするときは、銀行によっては本来、本人が来なければならないようだが、夫婦とも同時に行い、しかも同じ住所への転居をするというものだから勘弁してもらった。こういうところは、邦銀がフレキシブルなところである。そして最後に、唯一残してそこに集中させる口座の住所の変更届を出して、これを現地の妹の家(○○方)ということにして送付した。こちらは解約と違って、郵送という簡単な手続きで済む。なぜ住所を妹の家に変えたかというと、銀行関係について、老人ホームにいちいち連絡をされたり、書類を送られたりしては、面倒だからである。いずれにせよ、この住所の変更は、全く問題なく終わった。

 ちなみに、父の場合は、急な風邪などで発熱でもしていない限り、ちゃんと歩けて文字を読んだり書くことができるから問題ない。もちろん、両親は二人とも、認知症ではない。そして「書く」という行為は、まだ老境に至っていない人たちにとっては学校教育を受けている限り当たり前に出来るわけである。しかしながら老人の場合には、認知症でなくとも、また高等教育を受けていたとしても、手や指の力が弱まっていたりすると、そもそも書くという行為に必要な筆圧が足りないときがある。そうした体調も、その日によって違うことがあるので、始末に負えない。それがいかなるときに影響するかというと、たとえば銀行の解約届などは2〜3枚のカーボン・コピーが合体した書式になっている。こういう書式に書き込むとき、筆圧が弱いと、一番下のコピーには文字が何にも写らないときがある。加えて母の場合には、骨粗鬆症気味で、普段から車椅子生活を余儀なくされている。そこで、銀行に行こうとすると、車椅子対応のタクシーを予約しなければならない。東京ならいつでもどこでも簡単に来てくれるが、両親のいる地方都市では、これを予約するのが一苦労である。だから、我々が付き添って、父ひとりで銀行窓口に行ってもらい、母の分は委任状で対応したが、元より筆圧が十分でないし、そもそも解約届の記入欄がごく小さく狭く設計されているから、そこに手書きで記入することそのものが非常に大変であった。それが何口座もあったから、書いてもらうだけで一同げんなりするほどである。思い出したくもないくらいであったが、ともかく邦銀の口座統合をやり終えた。

 この段階であと残っているのはシティバンクだけということになった。うれしい。あとひとつだと思い、たまたまその実家からシティバンクのコールセンターに、どうすればよいかと電話をした。すると、電話の自動応答で、カード番号(16桁)と、電話暗証番号(4桁)を入れさせられた挙句に、やっとオペレーターのお嬢さんが出てきた。口座解約をしたいから手続を教えてほしいというと、いろいろ言われた末に、やっとのことで解約に必要な書類だけは送ってくれることになった。その際、オペレーターが気になることを言った。「はい、これはご登録の住所からの電話だと確認しました」というフレーズである。ははぁ、この銀行は、その口座からの連絡について、いちいち固定電話を通じた本人確認を行っているとみえる。しかし、この段階では、まだこれがどういう事態を招くことになるのかが、十分にわかっていなかった。いずれにせよ、そのときそのオペレーターから聞いた話では、円貨と外貨(米ドル)それぞれ別の送金となり、しかも相手先は円貨なら国内銀行の円貨口座、外貨なら国内銀行の外貨口座に限られるというわけだ。やれやれ、また面倒なこととなったと思いつつ、その集中しようとしている国内銀行の口座を調べると、都合の良いことにかつて外貨口座を開設してあり、少し米ドルの残高もある。これを使おうと思った。

 さて、解約に必要な書類が実家に送られてきた。これは、例のとおりわざわざ実家まで行って郵便受けをチェックし、入手することが出来た。ところが、やはりその記入の仕方で、どうしてもわからないことがある。たとえば、解約で送金してもらうときには、その金利相当額を知らないと正確な額を書けないが、それにはどうするべきかなどである。こういうことを再び実家の固定電話を使ってオペレーターに電話するのも、わざわざ現地に行かなければならないから面倒だ。そこで、シティバンクの支店が銀座にあることを思い出し、そこで記入の方法を聞くことにした。銀座松坂屋の向かい側のビルの2階にあるその支店を訪ねた。幸いここは、土曜日でも開いている。行ってみると、邦銀ならとてもあり得ないような店の造りになっていた。そもそもカウンターなるものがなく、単に記入机があるだけで、行員はすべて壁の向こうに隠れるような構造だ。なぜだろう? 銀行強盗にでも備えているかのごとくである。ともあれ、そこで案内係の女性行員さんに来訪の趣旨を伝えると、しばらくして壁の向こうから男性行員が出てきた。そこでわかったことは、(1) 解約後の邦貨の送金先の記入は日本語でよいが、(2) 外貨の送金先の記入は英語でなければならないこと、(3) 外貨の送金額は空欄にしておくこと、(4) 解約のためにはその旨を登録の固定電話からシティバンクのオペレーターに掛けて、あらかじめ通告することなどである。そのほか、この口座を作ったときには署名だったのか印鑑だったのか、印鑑ならどういう印鑑だったのか、本人たちは完全に忘れている。こういう場合は、どうするのだろう?

 いずれにせよ、このようなことがわかったので、老人ホームに行って、両親に解約届と外為送金依頼書に記入してもらうことにした。これがまた、前にも書いたように、とてつもなく大変なことなのである。少し白内障気味で眼がよく見えない上に筆圧も足りないという状況で、小さくて狭い欄に細かい字をたくさん書かなければならない。しかし、これは邦銀の解約届でも同じことなので、ともかく時間をかけてやっとの思いで書き終えた。次なる問題は、外貨の送金フォームである。慣れないアルファベットを書いてもらわなければならない。「U」の大文字には小文字「u」のような右の縦棒はいるのかなど細かいところに徹底的こだわり、ひとり1時間もかけてやっとの思いで書き終わった。

 さて次の仕事は、実家に連れて行って登録の固定電話からシティバンクのオペレーターに掛ける必要がある。なぜこんな面倒なことをしなければいけないのかと思ってしまう。私の思うところ、この外資系の銀行は世界中のお金持ちだけでなく、世界の百戦錬磨のワル・・・それもいわゆるマネーローンダーやハッカーなども含めた名うてのワルで、困ったことに世界中に散らばっている・・・などをも相手にしていることから、念には念を入れた方法で口座の管理を行う仕組みになっているのだろう。そもそも、日本というぬるま湯に浸かっている邦銀とは、その背景にある文化や論理が違うのである。そうでも解さない限り、単に解約するだけのこの一連の騒動は、とても理解できないからだ。ともあれ、やれやれ本当に面倒だと思いながら、介護タクシーを頼んで、車椅子の母と、それから自分で歩けるもののいささか歩き方のおぼつかない父を乗せて実家に行った。それで、固定電話から電話しようとしたが、それは2階にあることに気が付いた。車椅子の母を抱えて2階に行くなど、出来るはずもない。そもそも背骨が問題なので、運ぶ途中で支障が出たりすると、健康に影響しかねないからだ。いやいや、これは困った・・・これで断念すべきかと思った。しかしそのとき、ふと、子機で通話が出来るかもしれないと思いついた。「電波よ届け」と念じながら試してみると、嬉しいことに何とか通話が可能だ。

 それで、シティバンクのオペレーターに電話をした。「解約のために電話をしているんです。銀座支店に聞くと、そちらのオペレーターの方にまず電話せよといわれたからです。」というと、オペレーターさんは「えっ、そうなんですか」などと信じられないことをいう。「でも、銀座支店でそういわれたんですよ。確認してください」というと、「しばらく、お待ちください」と言ったまま、かなり待たされて、やっと出てきたときには、「そのようですので、承ります」という。こんな簡単な事務手続きくらい、末端のオペレーターにちゃんと教えてほしいものだ・・・それはともかく、本人確認ということで、父と母、それぞれ本人に電話を替わった。ところが、耳が遠いもので、オペレーターが何を言っているのか、そもそも聞こえない。いやもう、最悪だ・・・その結果こちらも「あっ、あっ、あっ」と言って、会話にならないではないか・・・まるで悪夢そのものである。たまりかねて思わず受話器をとり、「耳が遠いので、大きな声で言ってください」というと、電話口の先から大きな声が響いてきた。それでまあ、両親が「はい、はい、はい」と答えて、何とか終わった。一体、どういう質問に対する「はい」なのか、おそらくわかっていないのに、これで良いのかと思うくらいだ。最後に思い出して当方が電話口に出て、「もしもし、今、書類を書いている途中なんですが、登録しているのは署名でしたでしょうか、それとも印鑑だったでしょうか」と聞いたら、「印鑑ですね。印鑑の形は、お父様は丸いの、お母様は四角の」と教えてもらった。ちなみにこの情報がなかったら、またひと手間掛かるところだったので、大いに助かった。最後に、そのオペレーターの名前を聞いたら、沖縄に多い苗字だった。なぜ沖縄でこの電話をとっているのだろうかと不思議に思った。(注)

 とまあ、そういう綱渡りをしてやっとの思いで書類に記入押印し、その一式を封印して送った。念のため、特定記録郵便とした。これだと、一連番号を入れるだけで、パソコンやスマートフォン上で、現在その郵便物がどこにあるかが追跡できる。それを見ると、その日のうちに集められて、もう翌朝には、那覇にある私書箱に入れられ、午前7時15分には、渡したとある。ものすごく早くて、びっくりする。それで一安心と思っていたら、なんのことはない。3日ほど経って全部の書類が送り返されてきたではないか・・・そんな無茶苦茶なことあるかと呆然とした。しかもそれを開いてみると、「記入に不備がある」とだけ書いてあり、何をどうすべきかのインストラクションが全くない。ただ、送金額の欄が黄色く囲ってあるので、ひょっとしてこの部分かな?と推察するだけだ。あまりにセクショナリズムが過ぎて、本当に不親切だと思う。ちなみに上記(3)にあるように、これについては私も疑問に思ったので、銀座支店にわざわざ聞いた点である。すると、空欄でよいと言ったではないか・・・。銀座支店と事務センターとで、真反対に見解が食い違うのは一体どういうことか。これほど不親切な上に、銀行内部で事務処理方針がバラバラなのは、全くもって理解できない。ええい、たった数百万円のことだから、内心、ここで諦めようかという考えも一瞬、脳裏をかすめなかったわけでもないが、いやいやせっかくここまで漕ぎ着けたのだから、もうひと踏ん張りしてみようと思い直した。そこで、その書類を返送してきたメモ中の担当者の名前を頼りに、沖縄にある事務センターに電話をしてみた。すると、結論からすると、ここは空欄ではなくて、日本語で「全額」と書けばよいそうだ。それならそうと、返送してきたそのメモ中に書くべきではないか・・・それと銀座支店で間違ったインストラクションをしないでもらいたい・・・。つくづく、シティバンクというのは、不親切な上に内部の事務処理が統一されていない銀行だと思う。まあ、そんなことで立腹するより、取り返すべきものを取り返さないと何にもならない。そこに日本語で「全額」と書いて、また特定記録郵便で送り返した。時間が惜しいので地域の集配局に直接持参すれば届くのも早いだろうと思い、本郷郵便局に午後11時半頃持って行った。すると、ものの1時間も経たないうちにピックアップしてくれて、翌朝、那覇の私書箱から運び出されていた。最近の郵便局は、とても素早いから感心する。

 それから数日間、経過した。シティバンクから何の連絡もないと思っていたら、既に外貨口座を開いてある邦銀の支店で、先ほどの送付書類中でそこをシティバンクからの送金先としているところから、電話で呼び出しが来た。やっと入金されたかと思ったが、その一方で聞きたいことがあるという。あれあれ、また問題発生かと嫌になりながら行ってみると、やはりそうだった。その邦銀の担当者が言うことには、「シティバンク大手町支店の扱い口座なのに、なぜ沖縄から送られてくるのか」という質問に尽きる。だいたい、それはシティバンク自体の事務処理体制の話だから、そんなことを我々に聞かれても、わかるわけがない。だから、そんなことを聞いてくれるな」と内心で思いつつ、仕方がないので、一連の解約書類のコピーを見せて、あれこれ説明してようやく納得してもらった。この青いマークの邦銀も、担当者をちゃんと教育してもらいたい・・・とりわけ、シティバンクというのは、元々そういう銀行であることを。

 いずれにせよ、シティバンクに口座を開くと、解約の場合にはとんでもないことになるということを身をもって体験した。皆さんのご参考になればと思う。しかし、長年しみついた企業体質や事務処理方法などというものは、そう簡単には直らないのではなかろうか。


(注) コールセンターは沖縄へ

 最近の新聞によると、この種のコールセンターは当初、大都市に置かれていた。ところが人件費節約のために次第に地方へ移すようになったという。沖縄県では1998年から通信費の補助を始めたことから、各社が移転してくるようになり、2012年1月までに69社の誘致に成功し、15,000人以上の雇用を生んでいるという。沖縄振興のためには、良いことである。ただ、電話してくる顧客は必ずしも紳士的な人ばかりではないようで、そのために心に負担を感じて離職率が高いという。まあ、ストレスの多い現代の縮図かもしれない。その点、われわれ消費者側も、言葉使いなどに気を付けたいものだ。ちなみに2年前のことだが、セキュリティ・ソフト大手のノートンに電話をしたら、中国大連のコールセンターにかかって、やや覚束ない日本語を話す中国人女性に繋がってびっくりしたことがある。ただそれは技術的な問い合わせだったので、十分に用を足すことが出来た。しかし、今回のようなこともあるので、仮にシティバンクのコールセンターがさらに海を渡ったりすると、ますますややこしいことになると思う。





(2012年10月22日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:46 | - | - | - |
海上自衛隊観艦式 2012年

護衛艦ひゅうが、護衛艦ちょうかい



 海上自衛隊観艦式(写 真)


 海上自衛隊観艦式があり、私も参加することができた。午前8時半までに乗船しなければならないので、文京区の自宅を車で午前6時半に出て、入谷から首都高速道路に乗った。こんな朝早くだから、我々のほかに車は一台も通っていない。まるで貸切道路だと冗談を言い合って走った。そうして、途中うつらうつらしていると、もうお台場の観覧車が見えて船の科学館の脇から東京湾の下を潜るトンネルに入っていた。そこを出て羽田空港だなと思ってしばらく目をつぶり、また目を開けると工場の煙突が立ち並んでいた。運転手さんに、ここは川崎ですかと聞くと、いやもう横浜に入っていますとのこと。大黒ふ頭のベイブリッジを通った。そうこうしているうちに高速道路を下りて、今度は横浜横須賀道路を通ったと思ったら、しばらくして横須賀の長浦港にある海上自衛隊の基地に到着した。時計を見ると、午前7時15分だ。なんと、わずか45分で東京の都心から横須賀まで来たわけで、これには驚いた。早く着きすぎたからしばらく時間を持て余したが、遅れるよりは、はるかに良い。8時になったので、基地内に入った。

護衛艦いせ


観閲艦となる護衛艦くらま


 実は私は、平成15年に一度、やはりこの観艦式に参加したことがある。そのときは小泉内閣の時代で、観閲官は、小泉純一郎内閣総理大臣だった。今回は、野田佳彦内閣総理大臣ということになる。前回は初参加だったから、いまひとつ要領が掴めないところがあったけれど、今回は全体の進行や構成について、少しは慣れているつもりだ。それに私の出る幕などないので、カメラを持って、ひとつ存分に写真を撮ろうという気持ちである。オリンパスのE−P3に先日買った新標準望遠レンズを付け、もうひとつのE−P1には200mm(35mm換算で400mm)の超望遠レンズを付けて、なるべく目立たないように手持ちカバンに入れておいた。しかし、気になるのは天候が曇りで、雨模様である。護衛艦は、ただでさえ船体はグレーに塗られているから、空が曇りだと背景に溶け込んだようになって、目立たなくなる。晴れて空が青いと映えるのにと思いつつ、天候が悪化しないようにと願っていた。しかし、その思いもむなしく、途中、ポツポツと小雨が降ってきた。案内していただいた自衛官の方に聞くと、観艦式はたとえ雨でも、ずぶぬれになりながら挙行するものだそうだ。「そうだろうな、防衛に雨も晴れもない」とは思いつつ、自分の身はともかく、持参したカメラや、買ったばかりのレンズが少し気になった。

観閲艦となる護衛艦くらま甲板上に整列し防衛大臣の乗船を待つ。


護衛艦くらまの対潜水艦ミサイル、ASROC


 いただいたパンフレットによると、「観艦式の起源は、1341年、英仏戦争の時、英国王エドワード3世が自ら艦隊を率いて出撃する際、その威容を観閲したことに始まるといわれています。我が国では、明治元年天皇陛下をお迎えし、大阪・天保山沖で実施された観兵式が観艦式のはじまりであり、当時の兵力は6隻2,452トンに過ぎませんでした。観艦式という言葉が最初に使われたのは、第4回目にあたる明治33年神戸沖で行われた大演習観艦式です。帝国海軍最後の第19回観艦式は、昭和15年横浜沖において実施された紀元2600年特別観艦式であり、艦艇98隻596,000トン、航空機527機が参加した極めて壮大なものでした。海上自衛隊 〜 昭和31年に自衛隊記念日が制定され、翌32年に自衛隊記念日記念行事の一環として観艦式を実施することが定められました」とのこと。最初は、東京湾、大阪湾、博多湾、伊勢湾などで行われていたが、昭和56年以降は、平成14年の東京湾を除いてすべて相模湾で行われている。ちなみに前回は、平成21年10月25日だった。

護衛艦くらまの54口径5インチ単装連写砲


護衛艦くらまの前甲板


 私が乗せていただいたのは、観閲艦くらま(5,200トン)で、3機のヘリコプターを搭載しているが、この日は500人近い招待客に乗せるために格納庫にはヘリコプターの姿はなく、代わりに招待客用の折り畳み席が敷き詰められていった。甲板上では音楽隊が綺麗に整列し、数人の海上幕僚長と艦長らしき人が赤じゅうたんの脇に並んだ。まず陸上幕僚長と航空陸上幕僚長が乗船し、敬礼をもって迎える。次にその人たちが艦長たちの後ろに並び、今度は防衛副大臣や政務官を迎える。最後にシルクハットとモーニング姿の防衛大臣が乗船して(これを栄誉礼というのかどうかは承知しないが)、威風堂々たる音楽に迎えられて儀式は終わった。

出港直後の護衛艦くらまの舷側に突き出しているところ


 出港時間となり、艦は岸壁を離れる。汽船が出港するときのような汽笛がボーッという賑やかしい音は何もない。あっさりしたものだ。その代り、舷側に突き出しているところに水兵さんや士官が頻繁に出入りして、望遠鏡を覗いたり、何やら大忙しにしている。すぐ目の前には、狭い水路があり、そこには自衛艦だけでなく、漁船やら何やらいろいろな民間船がてんでバラバラに浮かんでいて勝手な方向を向いている。その中を何千トンもの巨体の船が進んでいくのだから、普通に考えれば事故がないのが不思議なくらいに思えてしまう。とりわけ、今回の観艦式の参加艦艇の数は40だというから、その全部がここ横須賀から出向するのではないにしても、それでも何十隻となる。衝突しないように神経を使うのは、当たり前である。

護衛艦くらまの周囲にいる漁船の群れ


護衛艦の間を斜めに突っ切って行く漁船


 しばらく経ち、やっと出港時のあの痺れるような緊張感はなくなり、艦は白波を立ててどんどん進んでいく。右前方を見ると、20隻ほどの小さな漁船が集まっている。これら漁船とこの護衛艦くらまと比べると、アラジンの魔法のランプから出てくる大男と、マッチ棒くらいの違いがある。今は昼間だからよいようなものの、夜間特に月のない明け方などは、どうやって見分けるのだろうと心配になるほど小さな存在にすぎない。これでよく、事故が起こらないものだと思って見ていると、護衛艦くらまと、それに続く護衛艦ひゅうがとの間の狭い狭い海面を、事もあろうに斜めに突っ切って行く漁船があるではないか。士官の方に、「ああいうのは、危なくないですか」と聞くと、「いや、そうなんですけれど、戦前の帝国海軍の頃から、軍艦の前を横切ると大漁だという迷信みたいなものがあって、それでああいうことになるのではないですか」と言っていた。なるほど、しかし危険なことこの上ない。

護衛艦はたかぜ


受閲艦艇部隊


 相模湾を目指してしばらく進んでいくと、次第に艦艇の隊列のようなものが出来てきて、全体の姿がわかるようになってきた。我々は、観閲部隊というものの中にいて、先頭艦が護衛艦ゆうだち(4,550t)、次が我々の護衛艦くらまで、これが観閲艦であり。ついで随伴艦である護衛艦ひゅうが(13,950t)、護衛艦ちょうかい(7,250t)、護衛艦あたご(7,750t)と続く。その観閲部隊に付属するのが観閲付属部隊で、護衛艦いなづま(4,550t)、試験艦あすか(4,250t)、潜水救難艦ちはや(3,050t)と訓練支援艦てんりゅう(2,450t)である。受閲艦艇部隊が、旗艦の護衛艦あさづき(5,050t)以下、護衛艦、潜水艦、掃海艦、輸送艦、ミサイル艇や、ホバークラフトLCACまである。これに附随して祝賀航行部隊という外国の艦艇、オーストラリア、シンガポール、アメリカの艦がいる。さらに、受閲航空部隊が第1群から第10群までいる。以上のうちから選抜して、訓練展示艦艇部隊と航空部隊とに分かれて、祝砲を売ったり潜水艦の浮上があったりIRフレアが発射されたりするという。

ヘリコプター編隊


観閲部隊の護衛艦ひゅうが以下


 そういう説明を聞きながらも、艦はどんどん進んでいく。我々乗船客は、てんでに艦内を歩き回ってよいらしい。私は、艦橋、食堂、機関室、格納庫の上などを見て回った。後ろ甲板から後方を見ると、ヘリコプター空母のような護衛艦ひゅうがの舳が視界いっぱいに広がり、その後ろにはイージス艦である護衛艦ちょうかい、あたごなどが続く。実は、ひゅうががあまりにも大きすぎて、それらイージス艦隊が見えないほどなのであるが、艦隊が方向転換をしたようなときなどに、視界に入る。私は、乗艦している護衛艦くらまの艦尾の日章旗と、その護衛艦ひょうがとの構図が気に入って、その写真をたくさん撮った。何しろ空はどんよりとした曇りの上に、護衛艦の色もグレーで写真の被写体としては物足りないが、この白と赤の日章旗がはためいて時々刻々その形を変えているので、それと後方に続くひょうがの巨大船体の組み合わせは、またとない被写体である。後刻帰港してニュースを見ると、皆私と同じ構図を狙っていた。

日の丸構図


護衛艦ちょうかい


護衛艦くらま甲板上と格納庫


 さて、三浦半島の南方海上のあたりでヘリコプターに乗った野田総理が着艦し、訓示が行われた。最近は、尖閣列島や北朝鮮をめぐってなかなか厳しい国際環境となっていることを反映してか、あるいは自衛隊員を父にもつ総理自身のご趣味のせいかはわからないが、聞いていて、なかなか勇ましい文言が多かった。たとえば、旧海軍兵学校の五省である「一、至誠に悖る勿かりしか。 一、言行に恥づる勿かりしか。 一、気力に缺くる勿かりしか。 一、努力に憾み勿かりし。 一、不精に亘る勿かりしか」を読み上げたのには、心中であれっと思ったし、最後の〆の言葉も「諸君が一層奮闘努力することを切に望む」であり、これも確か日本海海戦でZ旗を上げたときの言葉ではなかったか?

護衛艦に着陸するヘリコプター


 いよいよ観閲が始まった。タイミング悪く、雨が降ってきた。それでもさほど強い降り方ではなかったので、カメラをかばいながら何とか写真を撮ることが出来た。ただ、潮のせいか雨のせいか、レンズに雨粒が付く。それを拭いながら撮るということを繰り返していて、写真の出来は悪いだろうと思っていたら、レンズのマジックか、実際には雨粒は全く写っていなかった。それより、海上を航行中のためにそのピッチングやローリングが多少あって、そちらのせいで被写体がぶれることの方が問題だった。これは、シャッター速度とISO感度を上げることによってある程度は防げるが、雨のために光の量が少ないことから、そのようにすると画面が暗くなったりザラつくので、いささか難しい。

護衛艦護衛艦くらま甲板上に整列した自衛官と後方の護衛艦ひゅうが


潜水艦乗りの決死の敬礼


 まず、前から受閲艦艇部隊が我々の艦の右舷にやってきて、すれ違う。各護衛艦に乗っている白い帽子に黒い制服の海上自衛隊員は、遠くから見るとまるで人形のようにこちら方向に一定間隔を置いて立ち、いずれも敬礼している。なかなか壮観である。その船の士官は全員、出ているのではないかと思うくらいに、鈴なりの状態だ。その船のナンバーと手元の資料を対照して、ああ、あれは「護衛艦あきづき」だとか、「護衛艦いせ」だぁー大きいななどと言っている。そのうち、潜水艦隊がやってきた。けんりゅう、いそしお、わかしおである。もちろん潜水艦も艦橋が海面上に出て航行している状態なのであるが、びっくりしたのは、その艦橋の両脇に突き出ているヒレ部分はそもそもとても狭い。ところがその狭いところに、3人も立っていて、あまつさえこちらに敬礼までしているではないか。艦のスピードはかなり出ている。これは命がけだと思った。それから掃海艦隊がやってきて、母艦はともかく、掃海艦はとても小さい。こんな小ささでむかし、はるばるペルシャ湾まで派遣されて危険な任務に当たったのかと思うと、胸に迫るものがある。

ホバークラフトLCSC


ミサイル艇くまたか


 さらに艦隊は続いてやってくる。ホバークラフトLCACがやってきた。すごい音を立てている。乗っている人は、大変だろう。しかしこれは、港のないところなどでの輸送には最適だ。ミサイル艇しらたかが来た。これは、身軽なだけに、早くかつ自由にあちこち動けそうだ。それから、各国の軍艦が航行してきた。まずはフリゲートSYDNEYというオーストラリアの艦(4,200t)、揚陸艦PERSISTANCEというシンガポールの艦(8,500t)、そしてアメリカの巡洋艦SHILOH(9,957t)である。いずれも、制服を来た乗組員が並んで敬礼するという方式は、同じである。

護衛艦はたかぜ祝砲


ヘリコプター編隊


 そうやって艦隊同士がすれ違った後、まずは航空機の観閲ということで、P−3Cやヘリコプターが飛んできて観閲を受ける。次に、祝砲が発射され、護衛艦数隻の一斉回頭があり、潜水艦が浮上し、護衛艦から哨戒ヘリコプターが発艦し、補給艦から護衛艦への洋上給油がある。そして、向こうの方から白波と大音響を立てて小さなものが突進してくると思ったら、ホバークラフトLCACだった。いやその早いこと・・・海上なのに、時速35kt(65km)だそうだ。それに続くミサイル艇も、同じような速度で走っている。上空からP−3Cが対潜爆弾を投下した。大きな波しぶきが上がる。それに見とれていると、また別のP−3Cから、IRフレアーが発射されて、曇り空に斜めのすだれのようなものが形成された。そして最後に、救難飛行艇US−1Aと、同じく飛行艇US−2が海面すれすれに飛んでくると思ったら、そのまま着水し、しばらくしてまた飛び立っていった。結構荒れていた海面だったのに、こういう海面の発着が出来るというのは、高度な技術なのだろう。それらがすべて終わり、観閲官の野田総理は、再びヘリコプターに搭乗して艦を離れ、観艦式の一連の行事は終了した。ときおり、カメラに水しぶきが付いたが、何とか写真を撮ることが出来た。

潜水艦が浮上


補給艦から護衛艦への洋上給油


P−3CからIRフレアー発射


飛行艇US−2が海面すれすれに飛んでくる


 さて、「これで終わりか、それにしても横須賀港まで遠いな」と思っていると、格納庫に椅子が並べられて、これから海上自衛隊東京音楽隊によるコンサートがあるという。私もそこに座って観客の一員となった。すると、コンサートが始まり、それが非常に素晴らしい。特に、ゴッドファーザーを奏でた自衛官、そして大きな透き通る声で坂の上の雲の主題歌を歌った女性自衛官(三宅由佳莉さん)には、大きな拍手が送られた。そうしているうちに、やがて横須賀港に帰りつき、海上での長い1日は終わったのである。艦を下りてみると、やや少し頭と体が揺れている気がしたけれど、たいしたことはない。護衛艦くらまは、ヘリコプター発着艦だから、スタビライザーが付いていると聞いたが、そのおかげかもしれない。

大きな透き通る声で坂の上の雲の主題歌を歌った女性自衛官


 ところで今回、くらまの機関室に入り、部屋の機器を眺め回してびっくりした。丸いタコメーターばかりで、画面といえば、ごく小さな燃焼状況を示すものしかない。思わず、「これはかなり古い船ですね」と、脇にいた乗組員に聞いた。すると、「いや、そうなんです。今どき、ガスタービンでなくて蒸気タービンで走る艦は、これともうひとつしかありません。古いものを大事に使っています」とのこと。これでは、燃費も悪かろうし、馬力も出ないだろう。それにもうひとつ、くらまの兵装の思想が、やや時代遅れになっているのではないだろうか。すなわち、対空兵器は、短SAMランチャー(シー・スパロー)と高性能20mm機関砲、54口径5インチ単装連射砲であり、対潜水艦兵器は、アスロック(アンチ・サブマリン・ロケット)と短魚雷である。これと哨戒ヘリコプターと合わせると、どうやら潜水艦に重きを置いていて、相手の航空戦力が非常に弱いということを前提にしているかのごとくである。これから、相手が航空戦力を充実させてくると、この艦は、かなり苦しくなるのではないかという気がする。

 まあ、ともあれ、護衛艦に乗船して乗組員の方々と話をしたり、艦隊の機能を見学するなど、誠に貴重な経験をさせていただいた。海上自衛隊の皆さんに、心から感謝したい。ただ、ひとつだけつまらない笑い話がある。それは、総理がヘリコプターで着艦するというので我々招待客一同が格納庫に並べられた椅子に座っていたときのこと、格納庫全体に、ブーンとカレーライスのかぐわしい香りが流れてきたことである。招待客の中には、ああ、お昼は海軍名物カレーライスかと思って期待した人も多かったと思われる。ところが招待客が食堂に行くと、出てきたのは単なる箱弁だった。ご馳走になって別にあれこれ申し上げる立場にはないが、これにはがっかりした人も、中にはかなりいたと思う。もうこうなると笑い話で、帰りの車内では、その話でもちきりだった。人間というのは、食べるということに、よくよくこだわるものだと思い知った。 日頃、国防に心血をそそいでおられる海上自衛隊の皆さんには、申し訳ない限りである。



(2012年10月14日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:24 | - | - | - |
ジャパン・パレード

ファッション・ショー



 ジャパン・パレード(写 真)


 10月9日から14日まで、東京でIMF世界銀行年次総会が開催された。会場は有楽町の東京国際フォーラムと日比谷の帝国ホテルである。世界188ヵ国から公式・非公式の参加者が計3万人とされる世界最大規模の国際会議だという。ちなみに日本銀行はそのHPで「IMF世界銀行年次総会とは、国際通貨基金(IMF)と世界銀行、それぞれの最高意思決定機関である総務会が、毎年秋に合同で開催する会議です。総会は3年に1度、IMFと世銀の所在地であるワシントン以外で開催することが通例となっています。2012年の年次総会は、東京で開催されます。日本での開催は1964年以来2度目、また2012年は日本がIMF・世銀に加盟して60年目の節目にあたります。総会には世界中の財務大臣・中央銀行総裁等が参加するため、主要会議のほかに数多くの二国間会談や通例、G7、G20、G24、G10、コモンウェルス大臣会合等の会議、各種イベントが開催されます。また、大臣や政府幹部だけではなく、金融関係者、報道関係者、CSO(Civil Society Organizations)関係者等、民間セクターからも多くの人が集まり、セミナーやシンポジウムが開催され、対話とネットワークの機会が提供されます。期間中は大小約200の会議・イベントが開催されます。公式参加者が1万人、非公式の参加者を含めれば2万人とも言われる、世界最大規模の国際会議です」と書いている。

 約3万人というその参加者数の多さから、これを日本を世界の人々に知ってもらう好機だとして、丸の内を中心に、あちこちでイベントが繰り広げられた。なかでも張り切っていたのは、観光庁と、丸の内の大家と評される三菱地所である。丸の内仲通りには、例年より1ヵ月早く冬のイルミネーションを点灯して歩行者天国とし、街路樹をシャンパンゴールド色に彩り、そこを舞台に日本各地の観光の魅力を紹介するPRイベント「Japan All In」なる催しを行った。その中心となるのが10月13日夕刻の「ジャパン・パレード」である。これは、ファッションショーから始まって、全国からお祭りやら郷土の伝統芸能やら、もうそれは雑多というほかないほどいろいろな技を披露するパレードである。新聞によると、21団体約600人が参加したそうな。ちなみに私は、いつもの通り、オリンパスE−P3を持ってその様子を撮ろうとした。ところが、何しろこのパレードは午後6時から7時半という暗い時間帯に行われたので、あまり良い写真を撮ることができなかったのは残念である。ともかく、参加者の動きが早すぎて、ブレてしまう。それを防ごうとシャッタースピードをできるだけ遅くし、かつISO感度を上げるのたが、前者をやり過ぎると暗くなり、後者もやり過ぎれば画面がザラ付いてとても見られない写真になる。ともかくカメラは難しい。そこで、ビデオを撮り、むしろこちらが多かったくらいである。そうした中で、ここでは、何とか使い物になると思われる写真だけを掲げてある。それでは、いただいたパンフレットから、パレードが行われた順に挙げていこう。

(1) ファッション・ショー  まず皮切りに、丸の内仲通りをランウェイとして、ファッション・ショーが行われた。最初、通りの暗い照明の脇に、赤青緑などの色の強烈な照明が置かれて、いかにもファッション・ショーらしい雰囲気が醸し出された。ところが、そういう照明では、撮った写真も当然そういう色となる。これは困ったと思ったものの、どうしようもない。しかし、始まってからは普通の照明となって、大丈夫であった。ところでこのファッション・ショー、もちろんプロのモデルさんたちが出演していたのであるが、それがまさにモデルさんだなとわかる表情、姿勢、態度、歩き方である。まず表情としては、能面のような顔つきをする。たまに笑みを浮かべる人もいるが、そうすると観客の注目はその人物の顔に集まってしまって、肝心の着ている服には集まらないから、そういうことなんだろう。姿勢は、我々のような直立不動の形や、その逆のダラーッとした脱力姿勢はとらない。どこか不自然な固まった姿勢をしている。それが何なのだろうと以前から思っていたが、この日は、それは陸上でいえばいわばマラソンのスタート時の姿勢に似ていると気が付いた。「よーい」と言われてやや斜めを向いて構える、そのときの姿勢にそっくりだと思う。最後に歩き方は、素人は絶対にこのようなことはしないと断言できる歩き方だ。まず、目線はあくまで水平線と並行、胸は突き出し、腰はゆらゆらと揺らすような感じである。この日のモデルさんたちも、そういう感じだった。

ファッション・ショー


(2) 祇園の舞妓  人力車に乗って、二人の京都祇園の舞妓さんが優雅に登場した。説明では「年間五千万人もの方々が訪れ、四季折々の美しい自然、寺院、神社、京町屋などの趣深い町並みが多くの人を魅了し続ける京都」というわけで、実は私も家内も、それにどっぷりと浸かっている。

祇園の舞妓


(3) 徳島県/高円寺阿波踊り  次に現れたのが、阿波踊りの一行だ。女性はピンクの浴衣に網笠を深く被り下駄を履いている。「あ、えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイーっ」で始まるテンポの良いリズムに乗って踊り出す。女性は優雅に、男性は中腰になって手降り足を曲げ、にこやかな表情で踊っている。ああ、いいものだ。説明では「『阿波踊り』は、徳島県を発祥地とする約400年の歴史を持つ日本三大盆踊りのひとつ。徳島に次ぐ歴史と規模を誇る『天翔連(東京高円寺)が太鼓や三味線、笛などの日本楽器の生演奏に合わせて賑やかに踊ります」とのこと。ちなみに東京の高円寺での阿波踊りの歴史は、もう50数年だそうだ。 >

徳島県/高円寺阿波踊り


徳島県/高円寺阿波踊り


(4) 沖縄エイサー  いやいや、勇ましいったらないと思うのがこの沖縄エイサー集団で、鉢巻をまいた頭に、赤の縁取りのある黄色い上着を着て、黒いズボンに白い靴、それに独特のリズムで太鼓をたたく。いつ見ても、これは凄いと感心する。本州の田舎の、(やや語弊があるが)陰気な感じすら受ける盆踊りとは大きな違いで、いかにも南国の楽しさに溢れている伝統舞踊だ。説明では「『エイサー』は、沖縄県でお盆の時期に踊られる伝統芸能。伝統的なエイサーで使用される古典曲に加え、沖縄のロックやポップスも取り入れる創作エイサー団体『琉球舞団・昇龍祭太鼓』による独創的なパフォーマンスをお楽しみください」とある。ああ、だから音楽も少し変わっていると感じたのかと納得した。おおっと・・・白いカラフルな獅子が近づいてきた。ああっと思ったら、私の前に座っているおばさんの頭をガブリっと噛みついた。おお、結構、乱暴物なんだ。

沖縄エイサー


(5) 秋田なまはげ  「悪い子は、いがねぇがぁー」という声が通りいっぱいに響き渡り、何だろうと観客が振り返ったところに、赤と青の鬼の面を着けたなまはげが登場した。太鼓叩きを引き連れている。ときおり、キッとあたりを睨むを仕草が実に様になっている。なまはげそのものの着ぐるみは、寒くなると上野松坂屋に置いてあるから知っているが、私は実際に動いているなまはげを見たことがないので、感激した。でも、秋田の子供たちは、怖いと思うだろうなぁ。うちの初孫ちゃんも、これを見たら直ぐに泣き出しそうだ。説明では「なまはげは、怠け心を戒め、無病息災、豊作豊漁をもたらす来訪神。毎年大晦日に秋田県で行われる伝統的な民俗行事です。その昔は、小正月に行われていました」とある。 

秋田なまはげ


(6) 千代田区民踊連盟  浴衣姿のご年配のご婦人方たちが勢ぞろいして、何だろうと思ったら「ハァーっ 踊り踊るなら チョイト東京音頭 ヨイヨイ 花の都の 花の都の真中で・・・」という私にとって懐かしい東京音頭が聞こえてきて、踊りが始まった。毎年8月になると、日比谷公園の盆踊り大会でやっているあの踊りである。実は私も東京に長いから、踊り方を知っているのが、ちょっと恥ずかしい。

千代田区民踊連盟


(7) 高山祭闘鶏楽  2本の赤い長い旗が上がり、白い文字が書かれている。何だろうとそれを読むと、「飛騨高山」、「山王闘鶏」とある。それに続くのは江戸時代の裃を付けて笠を被った武士姿の人たちだ。これはわからないので説明を読むと「国重要無形文化財の高山祭は日本三大美祭のひとつ。闘鶏楽は、鳳凰の衣装で鉦を打ち鳴らす祭を彩る伝統芸能で、片野組闘鶏楽は、春の高山祭で奉納されます。衣装の梅小鉢は、高山城主金森氏から使用を許された家紋で、歴史の深さを物語ります」とされる。チーン、チーンという鉦の音が聞こえてきて、ああ、確かに派手な衣装・・・これが鳳凰か・・・を着た人たちが、ゆっくり歩いてきた。この一行が高山の田舎道を行く風景が目に浮かぶ。とりわけあのカン高い鉦の音によって、異次元の世界に引き込まれていくかようだ。不思議な日本を見た思いである。

高山祭闘鶏楽


(8) 千葉県成田・おどり花見  その一行の後には、今度は打って変わって、まるでドラえもんのようなキャラクターが出てきた。何だこれと思ってよくみると、両手の下にまるでジェット機のエンジンの吸い込み口のようなものがある。先頭の旗を見ると、「成田市観光キャラクター、うなりくん」とある。彦根のひこにゃんを真似たご当地キャラクターのようだ。でも可愛いというよりは、いささか浮き上がっている気がしないではない。そのキャラクターに続くのが、鶯色の浴衣を着た奥様方で、説明によるとこちらは「おどり花見」といって「神仏をなぐさめ、悪疫退散を祈り、五穀豊穣を願うこの踊りは、約300年前の元禄年間頃から行われており、千葉県指定文化財に指定されます。毎年4月3日、三宮埴生神社を出発点とし、町内の神社や仏堂16ヶ所を回ります」とのこと。

千葉県成田


千葉県おどり花見


(9) 福島わらじ祭り  神主さんと、赤い天狗が先導して、大きな太鼓が来たかと思うと、何やら平らで大きなものをたくさんの人たちが重そうに担いできた。私は道端に他の人たちとともに腰を下ろしているので、目線が低くて、その平らで大きなものが何かはよくわからない。説明によるとこれは「日本一と言われている羽黒神社の大わらじ(長さ12m、重さ2t)の伝統を守り、毎年8月に行われる夏祭り。健脚を願って奉納する『暁まいり』(2月)が由来。大わらじのパレードのほか、『わらじおどり』や『わらじ競走』なども行われる」という。

福島わらじ祭り


福島わらじ祭り


(10) よさこいK-one動流夢  赤が主体の派手な衣装のチームが出てきた。よさこいチームで、K-one動流夢(ケーワンドリーム)といって、横浜を中心に活動しているそうだ。活発に踊り始めたが、その踊りの勢いが激しすぎるので、とてもカメラで追い切れなかった。元気でよろしい。最後に登場した旗振りは、2本の旗を操っている。すごい。

よさこいケーワンドリーム


よさこいケーワンドリーム


(11) 新潟県鬼太鼓  あらら、また赤鬼と青鬼の出現だ。説明によると「『鬼太鼓』は、五穀豊穣や家内安全を祈願し、家々の厄を払いながら門付けを行う新潟県佐渡島を代表する伝統芸能。起源は諸説あり、佐渡金山で働く人々がタガネを手に舞ったのが始まりとも言われています。現在は、約120組の鬼太鼓が存在します」という。

新潟県鬼太鼓


(12) 今戎神社の福娘  ああ、今度は神社の可愛い巫女さんたちだ。大阪市の今戎神社の皆さんらしい。説明は「『福娘』とは、毎年1月9日〜11日に執り行われる『十日戎』と呼ばれる大祭で神社にご奉仕されている巫女さんのこと。米俵や小判、鯛などの小宝を新しい笹に付けることで、訪れる人々に幸福や成功をもたらすと信じられている」としている。

今戎神社の福娘


(13) 浅草阿波踊り  台東区の浅草阿波踊り「浅草橋連」で、なかなか品の良い阿波踊りだった。結成は、平成23年11月とのこと。まだ、1年も経っていない新しい連である。

浅草阿波踊り


(14) 風樂會X元気ジャパン  次は、お御輿をかつぐ元気な集団である。説明によると「『風樂會』は、神輿から日本文化を発信するために発足した団体・・・今回は元気ジャパンと連携」するという。ワッショイ、ワッショイと、ものすごい勢いでお御輿を担いでいった。

風樂會X元気ジャパン


(15) たいとう音頭踊り隊  和服の男女が紅白のねじり模様の棒をそれぞれ1本ずつ両手にもって、台東区の公式音頭という踊りを始めた。

たいとう音頭踊り隊


(16) 日向ひょっとこ踊り  ああ、これは面白い。いろんな表情をしたひょっとこ、おかめが、剽軽な姿で可笑しい踊りをする。観客は、大喜びだ。説明には「『日向ひょっとこ踊り』は、宮崎県日向市の郷土芸能です。毎年恒例の夏祭りでは、豆絞りの手拭いをかぶったキツネ、オカメ、ひょっとこが、笛、鐘、太鼓の軽快なリズムに合わせてコミカルに踊り、観客に笑いを振りまきます」とある。

日向ひょっとこ踊り


(17) 仙台すずめ踊り  宮城県の宮崎大学娘すずめの皆さんで、カラフルな特徴的な衣装を着て、これまた色物の扇子をひらひらさせている。説明では「仙台すずめ踊りは伊達政宗公による仙台城移徒式の宴席で、石工たちが即興披露した踊りが起源と言われています。踊る姿が雀に似ていることから名付けられました。戦後途絶えかけた伝統が400年の歳月を経て甦り、仙台からの復興の力と元気を発信します」となっている。

仙台すずめ踊り


(18) 梅后流江戸芸かっぽれ  東京で、梅后流江戸芸かっぽれを知らないと、常識を疑われるほど、あちこちの祭りやパレードに出てくる常連の団体である。いずれも、かなりのお年を召した方々ばかりだが、それにしても、楽しそうにキビキビと上手に踊るものだと、いつも感心している。

梅后流江戸芸かっぽれ


(19) 夜桜乱舞静岡祭り  これは、わざわざ静岡からおいでになった、女性ばかりの、よさこいチームのようだ。説明では「1996年の40周年を機に、『見る』祭りから『参加する』祭りへと生まれ変わった静岡祭り。従来の『ちゃっきり節』と『さくらさくら』をアップテンポにアレンジし、『夜桜乱舞』と命名。今回のパレードでは、ジャズダンスバージョンを披露します」とある。確かに音楽は、良く聞いていると「歌はちゃっきり節〜〜」と聞こえてくるが、その割には踊っているダンスが妙にアメリカ的で、ブロードウェイでもかくありなんというもので、そのアンバランスに、眼がくらみそうになる。おっと、いやいや、ここは日本なのだ。

夜桜乱舞静岡祭り


(20) キモノプロジェクトと武楽座  男女も年齢も問わない人たちが出てきた何だろうと思うと「着物の普及を願い、着物を着る粋な機会を幅広く提供する『キモノプロジェクト』と、『武の美』をテーマに、武道や伝統芸能に現代の音楽、光や映像を組み合わせた総合芸術エンターテインメント集団『武楽座』のコラボレーションは必須です」とあるが、残念ながら、私のいる位置のもっと前の方から出発してしまって、そのパフォーマンスを十分に見ることは出来なかった。

キモノプロジェクトと武楽座


(21) 山形花笠踊り  これはいうまでもなく、東北四大祭り(秋田の竿灯、青森のねぶた、仙台七夕)のひとつで、毎年8月5〜7日に山形市で開催される。説明では「山形県の花『紅花』をあしらった笠や、華やかな山車が夏の夜を鮮やかに彩ります」としている。

山形花笠踊り


(22) 高知県よさこい踊り  よさこい踊りの本場の高知県から、「ドリーム夜さ来い祭り オフィシャルチーム」がやってきた。チンチン、ドンドンというお囃子に合わせて、実に軽快というか華麗というか。舞うように踊っていて、本当に素晴らしい。

高知県よさこい踊り


(23) 丸ビルで地方展とSake Bar  今回の「Japan All In」では、三菱地所が頑張っていて、その代表的な持ちビルである丸ビルの1階では、日本各地の名産・特産品を集めたマーケットや、それに全国の銘酒を味わえるSake Barを開いていた。


丸ビルで地方展とサケ・バー





(2012年10月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:23 | - | - | - |
新型標準レンズ

新型標準レンズ



 私の持っているオリンパスE−P3にいつも付けている、標準3倍ズームレンズ「M. ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F.3.5-5.6 」(35mm判換算で、28-84mm相当)の調子が悪くなってきた。このレンズは、ともかく軽量小型で高性能だから気に入っている。これさえチョンとカメラボディの前にくっつけておけば、目の前の被写体はもちろん、3倍の望遠なので少々遠くの被写体でも、画面の真ん中に持ってくることが出来る。それだけでなく、3倍となるギリギリいっぱいにしてマクロ撮影的なことをするようなことも可能で、しかもそうやると背景をボケさせることができる。だから、景色だけでなく、花を撮るにもとっても手軽なのだ。私が持っているオリンパスE−P1とE−P3の二台のカメラでは、過去3年間ほとんどこのレンズを使ってきた。もう何万枚の写真を撮ったことやら・・・というわけである。

 ところが、その標準レンズの調子が悪くなったのである。というのは、撮り終わってスイッチを切ったときに、先頭のレンズ部分がガガカッと妙な音を立てるようになってしまったことである。今までこのレンズの良いところばかりを述べてきたが、このレンズの悪いところは、撮り始めのときに手動で胴を繰り出さなければならないところである。これを忘れてスイッチをオンにすると、画面に「レンズの状態を確認してください」と出る。まあこれは、コンパクトなレンズにするためにモーターを使わず、最初だけ手動にしたというところだろう。それで、スイッチを切って再び手動で胴を収納するのだけれど、そのスイッチを切るときに、レンズの先端がちょっと回る。そのときこれまでは静かにちょっと回るだけだったのに、最近は変な音を立てるのである。これは、壊れる前触れかもしれないと思うようになった。

旧型標準レンズ


 実はこの標準3倍ズームレンズは、最初に買ったE−P1のときのレンズで、それをE−P3でもそのまま使い続けている。だから、もう3年以上も絶え間なく使っているので、さすがの精密機械も悲鳴を上げているのかもしれない。ではもう取換え時かと思って、その第2世代に相当するE−P3の標準レンズ「M.ZUIKO DIGITAL 14-42mm F3.5-5.6 II 」はいくらかネットを調べてみた。すると、最近は何もこの標準望遠レンズにこだわらなくても、たった一本のレンズで標準望遠レンズと本格的マクロレンズの役割を果たすものが売り出されていることがわかった。発売日は2012年1月27日で、もう8ヶ月以上経っているからネット上のコメントを調べてみると、なかなか評判も良い。やや全長が長いというのは困るが、標準望遠もマクロも一本のレンズで間に合わせたいという私のような物ぐさにはぴったりだ。それで、買うことにした。そう思い立ったのが6日(土)の午後11時半頃で、楽天にしようかアマゾンにしようかと思ったが、楽天は買った後に次々と広告メールが来て、それらをいちいち配信停止にするのがとても面倒だ。アマゾンを選んで調べると、ちゃんと在庫があって、しかもレンズフードやプロテクターもある。10分もしないうちに購入手続は終わり、午後11時43分に確認のメールが来た。購入したのは、次の通りである。配送料は無料とのこと。

 (1) OLYMPUS マイクロ一眼レンズ防塵 防滴 電動ズーム M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ 34,178円
 (2) OLYMPUS PEN用 LH-55B レンズフード 3,518円
 (3) KENKO 52S PRO1D プロテクター(W)ワイド 1,584円

 そして、驚いたことに、8日(月)の午前9時には届けられた。早い! 発注してから、まだ33時間しか経っていない。これは、3連休中だったからまだ遅かった方で、平日だともっと早いのかもしれない。アマゾンは、年々、進化している。これほど迅速な出荷をするには大量かつ多種類の在庫を抱える必要があるが、そうならないように、販売と在庫を一貫して管理するシステムと、自動出荷倉庫システムのようなものを組み合わせて、そのような離れ業が出来るのだろう。このアメリカ系企業のシステム設営能力を、日本企業も見習うべきだ。しかしそれにしても、iPhoneひとつ操作できない。その意味も理解できないという、そもそもITが何たるかをわからないトップが牛耳っている日本企業が多い。そうであるなら、もう全くもって、何をかいわんやである。

上野公園噴水の周辺



上野公園噴水の周辺に置かれた芸大の学生さんたちが作った、稲わらのこけし人形


 それはともかく、今朝着いたその「M.ZUIKO DIGITAL ED 12-50mm F3.5-6.3 EZ」、長いので「新型標準レンズ」と短くして呼ぶことにするが・・・防塵・防滴の仕様だった。これは便利だ・・・小雨なら気にしなくてよいかもしれない。でも、肝心のカメラ本体がそうではないから・・・やっぱり、ダメか。ま、ともかくそれを持って、少し浮き浮きする気持ちになりながら、家内と二人で上野公園方面へと歩いていく。お昼だから、途中、伊豆榮の梅川亭に立ち寄って、鰻を食べた。上野公園では、新しくなった噴水の周辺に、大根やら稲穂やら蕎麦が植えてある不思議な展示があり、その前にも、鏡のように反射する大きな壁が斜めに置いてあるオブジェがあって、なかなか面白い。それだけでなく、芸大の学生さんたちが作った、稲わらのこけし人形のようなものもある。それらを眺めていると、東京の真ん中にいるにもかかわらず、日本のどこかの田舎にいるような気になるから不思議である。

> 蕎麦のピンク色の花


 さて、肝心の新型標準レンズであるが、その脇にあるマクロボタンを押しながらズームリングを前にスライドするとマクロモードになり、この状態でレンズの焦点距離は43mmで固定されるから、それで撮ることになる。眼の前にあった唐辛子を撮ってみたが、被写体があまりにも平坦すぎて、果たしてマクロになったかどうか、良くわからなかった。最初のマクロ写真の被写体としては相応しくなかったなと思いながら、今度はピンク色の蕎麦の花を撮った。それを見ると、確かに周辺がボケている。色もなかなか綺麗である。ああ、これなら実際に使えるようだ。次に、マクロモードからズームリングを戻して胴体の真ん中にもってくると電動ズームになる。その状態で撮りたい倍率になるよう手で前後に動かすと、その動きを電動で助けてくれて、ピントが決まる。動作音は全くせず、非常になめらかで、実に気持ちよく動いてくれる。これは、撮りやすい。気のせいか、前のレンズより、オート・フォーカスが速くなった感もある。撮った写真を家で見てみたが、色彩が良くて、満足できるものだ。この買い物は、良かったと思う。さてまた、このレンズをEーP3の前に付けて、面白い写真を撮りに行って来よう。


鏡のように反射する大きな壁が斜めに置いてあるオブジェ



鏡のように反射する大きな壁が斜めに置いてあるオブジェ





(2012年10月 8日記)


  
カテゴリ:エッセイ | 23:18 | - | - | - |
徒然257.東京よさこい大乱舞

東京よさこい



 東京よさこい(写 真)


 10月7日の日曜日、池袋でよさこい祭りを開催中というので、お昼過ぎに出掛けて行った。池袋周辺では、9月22日、23日の両日、「ふくろ祭り」というものがあって、チア・ダンス、歌謡ショー、御御輿パレード、沖縄エイサーがあったそうだが、そのときは連日32〜33度を超す猛暑日が続いていて、とても出掛ける元気は持ち合わせていなかった。ところが最近は、気温も20度近くに下がってきて、過ごしやすくなってきた。この日とその前日は、「東京よさこい」と称して、全国からよさこい踊りの100チームが一同に会して、池袋を中心に舞い踊るというわけだ。ちなみに、ふくろ祭りの方は、今年で45回目を迎えるが、こちらの東京よさこいは、15回目とのこと。

東京よさこい


東京よさこい


東京よさこい


 実は、私は上京して40年近くにもなるが、池袋はサンシャイン・シティーにたまに行く程度で、池袋の街そのものに行ったという記憶は、ほとんどがない。特に、池袋西口に行くのは、初めてではないかと思う。だから、池袋のJRの駅を下りて、西口に行きたいのに、なぜ東武という表示ばかりがあるのかと、妙に思ったりした。ところが池袋では、西武鉄道とデパートは東口にあり、東武鉄道とデパートは西口にあるというのは、常識なのだそうだ。ともあれ、地下を進んでその辺で適当に地上に上がると、池袋西口アゼリア通りというところに出た。すると、その眼の前で、よさこいの演技が繰り広げられていた。

東京よさこい


東京よさこい


 さっそく、その場で見物することにした。午後1時から2時過ぎというわずか1時間強のばかりの間に、次の14ものチームが駆け抜けていった。大塚華麗(ビューティー)、おどりんちゅ、踊るBAKA 東京、東京農業大学ソーラン部「大黒天」、天華、舞士道、東海大学 響、バンブーレボリューションZ、ところざわ武蔵瀧嵐、舞TAKANE、うしく河童鳴子会翔舞美人隊、アッピーよさ連、一期一笑、好舞衣流・・・。

東京よさこい


東京よさこい


 このチームの名前は、一見してよくわからないものが多いが、その服装も様々で、黒づくめの忍者風のもあれば、まるで竜宮城の乙姫様風、孫悟空風など、まさに色々で、区々まちまちである。主に大学のチームだが、大きく叫んで元気いっぱいに踊るチームがあるかと思えば、鳴子を鳴らしつつ比較的静かに優雅に踊るチームもいる。もうかなりご年配の人たちもいるかと思うと、小さなお子さんもいるというのは、これは家族皆で楽しめるよさこい踊りの良いところだ。音楽も、「土佐のぉー、高知のぉー、はりまや橋で、坊さん、かんざしぃー、買うを見たー、よさこーい、よさこい」で始まるのが多くて、それからは区々まちまちとなる。いやまあ、凄いとしか言いようのない大乱舞で、庶民のパワーとエネルギーが一気に爆発したようだ。

東京よさこい


東京よさこい


東京よさこい


東京よさこい


 私が注目したのは、いずれのチームにもある、旗振り役である。だいたいはチームの最後にいて、あの大きな旗を大空高く、ぐるぐると振り回す。いやこれは、並大抵の力では出来ない。ほとほと、感心した次第である。どのチームも、一番の力自慢に任せるようだが、その奮闘ぶりには、大いに敬意を表したい。あれあれ、あのチームの旗は、少し小ぶりだなと思ってその旗手を見たら、何とまあ、女性だった。重そうな旗をぐるぐる回して自由に操っているではないか・・・す、凄い、凄すぎる。

東京よさこい


東京よさこい


東京よさこい


東京よさこい


東京よさこい





(2012年10月 7日記)


カテゴリ:徒然の記 | 16:59 | - | - | - |
徒然256.タキシードの着方

タキシード



 私は昔から、男は黙々と仕事が出来ればよいという主義で、食べ物はともかく、着るものには全くといってよいほど無頓着であった。ところが、最近はそういうわけにもいかなくて、三越のドーランドハウス・オブ・ロンドン 程度の背広を夏と冬に合わせてそれぞれ何着か誂えて、とっかえひっかえして着ている。それはそれで見栄えがし、かつ着心地もよいので、もっと早く気が付いていれば、人生が変わったかもしれないなどと思うほどである。

 もっとも、そうやって黙々と働いて得たわずかな稼ぎの使い道を振り返ると、住宅ローンは仕方がないとして、一番かかったのは子供たちに対する巨額の教育費用だ。中高一貫校から始まり、大学院3つ分で、しかもうちひとつはアメリカの大学院への留学費用だから・・・これがまた物入りの最たるものだった。こうした教育費を合計すると、地方の住宅を2軒くらいは余裕で買えるほどだ。まあこれらは、投資というより、むしろ賭けのようなものだと心得ていたものの、そんなことをして全く成果がなかったら、本当に浮かばれないところだった。幸い、子供たちはそれぞれに頑張って、医者と弁護士になってくれたので成果はあがった。だから、小さな家でもそれなりに満足して暮らしている。

 地方から上京して、ファミリーがそれなりの社会的地位を獲得するためには、その東京定住第一世代の人間か、あるいはそれ以降のどこかの世代の人間が無理をしてでも頑張らなくてはならないのは確かだ。まあそんな気持ちだったが、そういうことを顧みると、衣服やおしゃれにかける余裕などなかったというのが正直なところだ。その点、家内も宝石やら毛皮やら高級和服などに全く関心のない人だったから、大いに助かった。その人が何を食べたかを知ることは、その人自身を知ることになるという警句があるが、さしずめ私の場合は、何を食べたか、何を着たかということを云々する前に、全部、教育費で消えてしまった。

 しかし、もはや教育費に費やす必要もなくなり、住宅ローンも返し終わって、身辺のものにもお金を回せるようになった。とりわけ今の仕事に就いてからは、宮中の行事や外国の賓客の接遇に時おり呼ばれるようになった。そうすると必要なので、しっかりしたモーニングを誂え、それを着て出かけている。それでかなりの場数を踏んでいるから、モーニングの着こなしには自信がある。そういうことで、モーニングを着るのには、今や迷うことは何もない。一回だけ、ドレス・コードが「ホワイト・タイ」というのがあり、これはさすがに持っていないので日本橋のデパートで借りた。そのときは、どうやって着るのか、店員さんにずいぶん教えてもらったから助かった。ところがついこの間来た招待状を見ると、ドレス・コードが「タキシード」とあるではないか・・・これは、初めてのパターンである。実は私は、昔々誂えたタキシードを自前で持っているのだけれど、もう何年も着たことがない。服本体と付属の小物を引っ張り出してきて、さあ、どれがどれかとその迷うこと、迷うこと。ここでは、備忘録を兼ねて、覚え書を残しておきたい。

黒の蝶ネクタイ(ブラックタイ)と黒のカマーバンド


 アメリカの映画を見ると、パーティといえばタキシードが定番で、実によく着る機会があるようだ。イギリス映画の007を見ても、ジェームス・ボンドはパーティでは必ずこのスタイルだ。これは、なかなか恰好が良い。なぜかというと、まず、へちま襟といって、胸の前部の両襟が瓢箪を半分に割ったような形で優雅な下膨れの曲線を描いていて、しかもその部分に光沢がある。次に、お腹に巻く黒のカマーバンド、それに黒の蝶ネクタイ(ブラックタイ)がなかなか粋である。ちなみに、タキシード用シャツとしてウィングカラーを着る場合には、この蝶ネクタイを付けるときにそのシャツの首の真後ろにある紐の輪(背テープ)にあらかじめ通しておかないと、上にずれてカラーを外れてしまうので、注意しておきたい。

 ところで、この写真にあるカマーバンドというのは、見れば見るほど妙な存在である。よくよく見ると、旅人が持つ腹巻そのものではないかと思ってウェブを調べると、本当にそうだったので、驚いた。これは、我が国でもフォーマル・ウェアの草分けであるカインドウェアという会社のホームページである。「カマーバンドの原形は、駱駝に乗り砂漠を渡る商人たち(キャラバン)が腰に巻いた帯状の布だといわれています。当時、商人たちは腰に巻いた布中に財産を入れていました。この布はウルドゥー語で『腰』を意味する『kammer』と呼ばれ、やがてシルクロードを渡り、中近東から東欧諸国の民族衣装となっていきました。19世紀の後半、タキシードの中にベストを着るスタイルが狩猟でした。しかし、当時イギリス領だったインドに駐留中のイギリス将校たちは、年間を通じて暑いインドの気候に耐えかね、インド人が使用していた幅の広い帯をベストの代わりに着用しました。これがカマーバンドの発祥といわれています。そして、現在の『Commerbund』して定着していきました」とある。

 最後に、ズボン、つまりスラックスは、その脇に1本の縦線(側章)が入っている。ただ、強いていうと、私が持っているタキシードは、へちま襟ではなくてもっとストレートであるが、その代わりシングルではなくてダブルである。どちらかというと、英国風なのだそうだ。カジュアルというより、オフィシャルな感じを与えるようだ。宮中で着るには、その方がよい。まあともあれ、昔オーダーしたものだから、まだ体に合うのかと危惧したものの、着てみたところ、全く問題ない。

黒のエナメル靴


 タキシード一式と書いて一括して保管してある荷物を探ると、黒のエナメル靴が出てきた。ぴかぴかでなかなか素敵だが、残念ながら靴の形が細長すぎて、2Eもない。これは、外国人仕様だ・・・私の足は日本人らしく4Eか、それを通り越してなので、私にとってこの靴は幅が小さすぎる。昔々、これを履いていて痛かったのを思い出した。ところが、今回はシッティング・ディナーがメインなので、まあ大丈夫だろうと安易に考える。なお、この靴は「オペラバンプスといって、元々オペラや舞踏会の際に履く靴でした。靴墨を塗らなくとも光沢を保てるエナメル革を使用しているため、パートナーの女性の大切なドレスやシューズを靴墨で汚さずにするというところから公安されました」とのこと(出典:前出のカインドウェア)。サスペンダーつまり吊バンドが入っている箱があった。そもそもサスペンダーなるものは、肩が凝るので日常生活では私はしたことがない。でもまあ、この場合はやむを得ない。ちなみに、モーニングの場合のサスペンダーは白と黒のストライプだが、タキシードの場合は黒一色である。両端にボタンに引っ掛けるような物が付いた革製の紐が3本あったが、これはサスペンダーをスラックスに留めるためのものだ。

サスペンダー


 白いシャツは、胸の両脇に白い縦襞が付いているタキシード専用のものだ。これを着るためには、オニキスのカフスボタンと胸ボタン(スタッズ)がいる。2つあるうちのひとつの箱を開けると、漆黒に輝くオニキスの周りを金色に輝いているカフスとスタッズが現れた。するともうひとつの箱は、銀色の方だ。ただ、先に金色の方を開けていたので、こちらの方を使うことにした。それにしても、このスタッズは小さいなと思う。これでは、ボタン代わりにシャツに着けるときに落ちてしまうのではないのか・・・これが、まず納得できなかった。次に、シャツの上に黒のカマーバンドを巻いてからサスペンダーをするのか、あるいはその逆にサスペンダーをしてその上にカマーバンドを巻くのかが気になった。後者だとは思うが、いまひとつ自信がない。ポケットチーフもあったが、絹製なので、やや黄ばんでいるように見える。これは新しく買おうかという気になる。

オニキスのカフスボタンと胸ボタン(スタッズ


 そこで、旧知のカインドウェアのお店に電話をした。すると、ポケットチーフの在庫は丸いものしかないという。丸いポケットチーフって何ですかと聞くと、四角い普通のポケットチーフではなくて、文字通り丸くて縁にちょっと色が付いているものらしい。だから、スリーピーク、つまり白い正方形のポケットチーフに3つの山を作って胸ポケットに飾るというありきたりのフォーマルなものとはならない。そうではなくて、もともと丸いその形の真ん中を持ち上げてそのまま胸ポケットに入れれば、ふわっとしたボリューム感が出て、見栄えの良いものになる。その逆に真ん中の部分を胸ポケットの中に沈めて、周囲の縁の色が出るようにすれば、これは派手な感じになるという。これは良さそうだ、では、それを買おうということになって、そのお店を訪れた。その際に、先に述べた2つの疑問点を教えてもらった。

丸いポケットチーフ


 まず、タキシード用のシャツの上3ヶ所に付ける胸飾りボタンつまりスタッズが小さいのではないかという点については、シャツのボタン穴の構造が、上が縦方向、下が横方向にそれぞれ穴が開いていて、それでもって留めるから、落ちるということはまずないとのご宣託だった。簡単な構造だけれども、非常に実用的だ。これには、なるほどと深く納得した。次にサスペンダーとカマーバンドとの関係は、やはり私の推察通り、カマーバンドの方がサスペンダーより上にくるものだという。まあ、これは当たり前で、カマーバンドはいわば飾りで、サスペンダーは下着の一部のようなものだから、そのようなものを上に持ってくるはずがないという。その次に、「カマーバンドはどう付けるのかご存じですか」と聞かれた。しかし、それくらいは、私でも知っていた。これは、横襞の向きが上に来て受け皿のごとくになるようにつけるのである。というのは、昔はここに、カジノで遊ぶコインやチップ、場合によってはトランプのカードを挟んだりするという役割をしていたからだと聞いたことがある。だから、上に向けて着用しなければならないのだ。

 それやこれやで、モーニングと比べてタキシード(ブラックタイ)の場合は、付属品が多いし、それぞれ一筋縄ではいかない。そうこうしているうちに、出発の時間が迫った。まずシャツを着て、それにオニキスのカフスボタンをした。それから胸ボタン(スタッズ)を付けようとしたら、3つのうち、下の2つはすぐに付けられたが、一番上のスタッズがなかなか留められない。さすがにこれは、後で秘書さん(男性)の手を借りて、何とか取り付けた。次に、スラックスのサスペンダーを装着する番だ。これは3ヶ所、難なく付けて、それを穿いた。するとどうだ・・・サスペンダーが長すぎる。それを何とか短くして、体にぴったりの長さにした。これが緩いと落ちてくるし、短いと肩が凝るのでちょうど良い塩梅の長さが必要となる。そうそう、カマーバンドを付けなければ・・・最初、本来装着する位置通りに、その前の部分をお腹側にして、両手を後ろに回して留めようとしたが、とても出来るものではない。仕方がないので、本来なら後ろ側となる留め金部分をまず前にもってきてそれを眼の前で留めて、しかる後にカマーバンドをぐるぐる回して180度回転させた。まるで着物の帯の着付けの要領である。次はと・・・蝶ネクタイだ。これも、長さを調節して、首の回りに着ける。背テープを通すことを忘れてはいけない・・・シャツの襟は、いわゆるガル・ウィングだから、これは付けやすかった。そして最後に、上着を着る。その状態で、記念の写真を撮ってみた。我ながら、まあまあ、恰幅良く写っているではないか・・・馬子にも衣装という言葉が頭に浮かぶ・・・これで良しとしよう・・・おっと、よく見ると、蝶ネクタイが曲がってる。



(2012年10月 4日記)


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