郷土の森博物館(写 真)
府中市にある郷土の森博物館を訪ねてみた。京王線の分倍河原駅で降り、そこからバスで10分もかからないところにある。駅を降りてロータリーの方へと向かう。その中心に騎馬武者の猛々しい姿の銅像がある。あれ、これはひょっとして新田氏かと思って台座の前に回り名前を確かめると、「新田義貞公之像」とある。高校時代に歴史を学んでおいてよかった。確か、鎌倉時代末期(1333年5月)に幕府に反旗を翻して上野国において挙兵し、幕府軍と小手指原とこの地、分倍河原において戦い、戦勝を得てさらに南下し、鎌倉に至った。そこであの有名な切通しを突破しようとしたものの跳ね返されるが、稲村ヶ崎を通る海のルートから鎌倉に突入し、これによって北条氏は壊滅した。なるほど、あの分倍河原かと、誠に懐かしい気がした。でも、それから679年後の現在は、当時をしのばせるものは何もなく、単なる平和な町にすぎない。
郷土の森博物館に着いてみたら、「あじさい祭り」という幟が立っていて7月8日までということだった。しかし、先週の飛鳥山公園の紫陽花の様子からすると、もう盛りをとうに過ぎている・・・というより、むしろまさに終わりかけの頃で、7月8日に来たらもう花は完全に枯れているのではないかという気がする。花の咲く時期をあらかじめ当てるのは難しいという典型だ・・・それはともかく、この博物館のひとつの売りは、敷地内に昔の建物を移築したり復元していることである。なかでも面白かった建物として、まず旧府中町役場庁舎がある。薄緑色のモダンな大正期の建物で、表手が洋風、裏手が和風という不思議な組み合わせであるがとても軽やかな雰囲気の建物である。その隣が赤い郵便ポストのある旧府中郵便取扱所(旧矢島家住宅)であるが、郵便制度が始まったばかりの当時は各地の有力者に取扱いを任せたというが、この矢島家もそうだったのかもしれない。中にあった小さな机と椅子が、私の小学校時代を思い起こさせる。
そこから少し離れて、旧田中家住宅(府中宿の大店)という建物があるが、この家は幕末から明治にかけての府中宿を代表する商家だったそうな。明治天皇の休憩所や宿所として利用されたこともあり、その御座所として使われた奥座敷が残っている。見て回ると、品の良い屋敷に落ち着いた庭など、なるほど大店だったことが一目瞭然であり、居心地が良かった。実はここにしばらく長居をしたのである。というのは、単に居心地の良さだけでなく、美味しいお蕎麦屋さんが入っていたからだ。そこで天ざるに舌鼓を打ち、明治天皇の御在所を眺め、その庭の景色を堪能した。これは面白かったと思いつつ、そこを辞去してしばらく行くと、旧河内家住宅というものがあった。この家は、人見街道に面した旧人見村にあったという。移築した母屋は、ハケ上の農家としては一般的な造りらしい。ここで「ハケ」というのは、関東平野の中に位置する武蔵野台地の崖のことで、ハケの上は水に乏しいから畑作、ハケの下は湧水があるので稲作が行われていたという。その農家特有の造りを見ていたところ、台所にお米を炊いたお釜を見つけた。私の家はサラリーマン家庭だったが、昭和30〜40年代にかけてこれと同じものがあったことを思い出し、懐かしい気がした。何十年ぶりに再会したようなものである。さらに歩き、萩のトンネルを抜けると、そこには水車小屋があり、ゆっくりと動いていた。
紫陽花の見物をし、水の遊び場を通りさらに奥へ進むと、そこには旧三岡家長屋門というものがあり、江戸時代の文政12年(1829)の建築とされる農家の長屋門だそうだ。旧是政村の名主を勤めていた三岡家の分家の門として建てられたとのこと。ちなみに長屋門とは長い建物の中央に門が開くようになっている造りをいうらしい。両側の部屋は屋根の下を含めてすべてが厚い土壁で覆われている置屋根構造の蔵造りとなっているとされる。確かに、そうでもしないと物騒な時代に家を守ることは出来なかったろうと思う。
外歩きの最後に、まいまいず井戸を復元したものを見た。これは、地面を大きくすり鉢状に掘っていった井戸で、すり鉢状の窪みの斜面を螺旋状にくだって水を汲むものである。その形状から「まいまい」つまり、かたつむりと名づけられたものであり、武蔵野台地や伊豆諸島に特有なものという。少なくとも平安時代の昔からあるそうだ。私がなぜ知っているかと言うと、私の子供たちが小学校のときに、これを見学に行ったからである。
さて次に、郷土の森博物館そのものへと入った。最初は、大國魂神社「くらやみ祭」の展示である。まず万灯の飾りがあり、その出来映えやそれを操る者の技、力強さを競い合うものらしい。それからもちろん、山車の巡行や御御輿の渡御があるようだ。私は先年、川越祭りを見に行って、山車の巡行にいたく感激したが、同じものが府中にあるとはこれまた知らなかった。5月の連休中に開催されるそうだが、私も長く東京に住んでいながらこのような伝統ある行事については、全く知らなかった。今度是非その見物に行きたいと思っている。
それから武蔵台遺跡出土の石器が展示されている部屋となる。2万年前、1万年前の石器、それに縄文時代の矢じりである。2万年前の石器より1万年前の石器の方が、より洗練されているし、縄文時代の矢じりに至っては、ロクな道具もない時代に、よくもこれだけ繊細なものを作れたものだと感嘆するばかりだ。縄文時代の石斧や土偶にまざって装身具があったが、耳ピアスなるものがあるので、笑ってしまった。当時も耳に付けていたものとみえる。しかも、こんなに大きいものを・・・穴をあけるのも痛かったろうにと、苦笑する。その次に古墳時代のアクセサリーもあったが、こちらはガラス製の小さなもので、確かに時代が進歩したものだと実感する。
さて、府中の原点となる武蔵国府と国分寺の設置であるが、未だに解明されていないところが多いが、それでも発掘が進んで、少しはわかってきたという。展示物の中に、古代の銭があった。和銅開珎もある。私の高校時代は、日本書紀に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があり、これが和銅開珎で、まさに日本最古の国産銭と習ったと記憶しているが、いまではそれは否定されていて、先行する貨幣として富本銭というものがあったらしい。武蔵国府の発掘により、昔の瓦や土器の破片に、当時の郡の名前などが書かれている。立派な漢字である。今どき、墨でこれほど書ける人がいるだろうか・・・とりあえず、私は無理だ。鉄製の小道具がいくつかあったが、大きさも手ごろで、なかなか使いやすそうだ。びっくりしたのは櫛で、出土した本物の櫛の破片の写真はブレてしまってここには掲げていないが、その形は参考出品されている現代の櫛と全く変わらないのには、驚いた。
中世の府中は、戦乱の真っただ中にあり、鎌倉街道を通じて上野国から押し寄せた新田義貞の軍勢は分倍河原の戦を戦い、その勢いをかって鎌倉幕府を倒したものの、その子は人見原の合戦で足利尊氏に敗れて歴史から消えてしまった。戦国時代にこの地は、後北条氏の支配に組み込まれて、小田原の指令を受けていたそうだ。商業が繁栄したようで、宋、元、明のたくさんの銭があった。
江戸時代の府中は、16村中、中央の3村が宿場町だったようだ。府中の大半は幕府の天領に組み込まれ、一部は旗本の領地だった。一般に天領は年貢も安くて支配もゆるくて比較的自由だったから、さぞかし繁栄したものと思われる。また、この頃になると、一般庶民が読み書きを習ったものとみえて、手習いの読本などが残っている。「そもそもひつがくのみちは、にんげん よろず ようたしのこんぽんなり」とは、よく言ったものだ。このような読み書きの知識が現代日本の発展の礎を作ったものと思われて、とても興味深い。それにしても、むずかしいことを習ったものだ。
明治になってもこの教育はさらに重視されて、尋常・高等小学校の教科書が作られたし、唱歌集まで出来た。また、京王線が開通したようで、その路線図まであって、面白い。昔の印刷機、蓄音機、ミシンまである。と思ったら、戦時下の生活の展示があり、モンペ、召集令状、戦時国債、配給券まである。話には聞いていたが、召集令状や配給券の実物を見るのは、始めてだ。それにしても、召集令状は赤紙と称されていたのに、これは白紙だ・・・臨時とあるから、そのせいかもしれない。
生活用品の展示があった。さすがに糸車は知らないが、七輪、お釜、お櫃、盥(たらい)、湯たんぽ、臼と杵、氷を使った冷蔵庫は、母が使っていたから私は小さい頃に見たことがある。白黒テレビは、私が小学校高学年の頃にやっと買ってもらった。あのチャンネルをぐるぐる回したら抜けてしまい、叱られたことを思い出す。いやはや、懐かしいの一言である。来て良かった。
それから博物館の外へ出て、再び紫陽花を見に行った。大ぶりの西洋紫陽花と額紫陽花がたくさんあり、それがまた川の両側にこんもりと咲いていて、とても美しかった。なお、こちらでは、敷地の奥の方に、梅林があった。これもなかなか見事で、シーズンになると賑わうらしい。ところで、その梅林を通っていると、梅ジュースのような良い香りがした。それもそのはずで、地面に梅の実がたくさん落ちている。ああ、もったいないと思ってその梅の木を見ると、「野梅(やばい)」と書いてあったのである。妙に記憶に残る名称である。
(2012年 7月 1日記)