徒然227.日比谷公園の春

日比谷公園の菜の花の蜜を吸う蜜蜂



 
日比谷公園の春(写 真)



 私のオフィスの近くに、日比谷公園がある。春夏秋冬、四季折々の花が咲く、西洋風のすっきりとした公園である。私は若い頃から、疲れた体と頭をリフレッシュするために、昼休みに時間がある限り、しばしば散歩している。さて、3月も終わりになり、いつもの年であれば、そろそろ染井吉野の桜が満開となる頃であるが、今年は開花が遅れていて、ようやく高知県で咲いたという報道があった。桜には早いが、とっても天気が良いので散歩する気になった。オリンパスE−P3のカメラを片手に日比谷公園に向かった。


鶴の噴水


 今日は、厚生労働省の向かいの霞門から入る。すぐに、鶴の噴水である。紅葉の季節は、この池の周囲は、実に美しい。一昨年の私が撮った写真を見て比較していただければわかると思う。また、この鶴は、真冬に雪でも降ったり東京が氷点下になったりすると、次の日の新聞でその写真が取り上げられることが多い有名な噴水である。

クリスマス・ローズ


 その池の脇の道路を行くと、フラワーポットに、下向きの花が植えられている。ああ、これは、クリスマス・ローズだ。いつ見ても下向きに咲いている、稀代の恥ずかしがり屋だから、写真を撮るのに苦労する。この日も、下から上向きにカメラを構えて、パチリと撮ったのだけれど、ぶれて焦点が定まらない。それにしても、早春の季節に咲くのに、なぜクリスマスという名がついているのかと不思議に思う。この点、原種の「ノイガー」という花は本当にクリスマスの頃に咲くのだけれど、「レンテン・ローズ」という花は2月から3月にかけて咲き、日本では、これらをまとめてクリスマスローズと呼ぶそうだ。

水仙の花


 あった、あった。水仙の花が・・・早春にはこれがないと、春が来た気がしない。しかし、そこにあったのは、福井県産の可憐な水仙の花ではなくて、黄色くて力強い西洋水仙の花である。せっかく写真を撮ったものの、土の泥が花びらに付いて、あまり美しくない。そこで、白くて小さい方の水仙の花の写真を載せておこう。


山茱萸(さんしゅゆ)



 木の枝に、黄色い小さな花がいっぱい集まっている。ああ、これは、山茱萸(さんしゅゆ)、別名、春小金花である。昔、家内と多摩の方を散歩していたとき、この木を見つけて、「なんの木だろうね」などと話していた。すると、近くにいたおばさんがいきなり「庭のさんしゅの木いぃぃに・・・鳴る鈴ぅかぁけぇて・・・えぇぇ・・・」と稗搗節(ひえつきぶし)を歌い出したので、びっくりしたことがある。それ以来、この木を見ると、それを思い出すのであるが、実はこの歌詞は訛っているのであって、本当は「庭の山椒の木」だというのである。

松本楼



 松本楼の前を通った。窓に飾られている花が美しい。スイスのルーツェルンの街を思い出す。しかし、私などはこの建物を見ると、かつての学生運動の際に火炎瓶で焼かれてしまったり、それで再建されて、記念日に10円カレーをする店というイメージが強い。これまで何回か、二階のレストランでお客さんと食事をしたが、肝心のお味の方は、どれもこれも平板で、これは美味しかったという記憶はあまりない。まあ、趣味の問題なので、お許し願いたい。

紅梅



 松本楼の近くに、紅梅が咲いていた。しかし、梅が咲き始めてもう一月くらいだから、咲き終わりの頃である。香りも、すでに失われている。それでもいくつか八重の梅が咲いていたので、それをカメラに収めた。

菜の花と蜂


 さて、テニスコートの脇には、菜の花が真っ盛りである。香りがとても強くて、近くにしばらくいるだけで酔いそうである。じっと眺めていると、蜂が飛んできた。花から花へと、忙しく飛び回る。シャッター・スピードを320分の1秒にして、写してみたら、まあまあの写真となった。

大噴水の広場での家族


 大噴水の広場に出た。勢いよく、水が吹き上がっていて、それが強い風に吹かれている。風下に行くと飛沫がかかるから、たまらない。それを避けてぐるりと回ると、お父さんとお母さんらしき二人が、子供たちと噴水の脇に座っている。昼休みに会社が抜け出してきたお父さんと、その家族らしい。日頃、忙しくて、家族と過ごす時間がないのかもしれない。こうやって、触れ合いの時間を大切にしているのだろう。

ピンク色の乙女椿


花屋さんの日比谷花壇の建物



 その広場の脇に、ピンク色の乙女椿が咲いていた。実に可憐な姿である。いつ見ても良い。私にとっては、早春を代表する花だ。花屋さんの日比谷花壇の建物があり、何年か前に立て直された。私は昔の建物の方が味わいがあったと思うが、この新しい建物は、よくよく見るとなかなか感じが良くなった。

寒緋桜(かんひざくら)



第一花壇越しに見るペニンシュラホテルと寒緋桜



 第一花壇の方へと行く。桜のような花だと思ったら、寒緋桜(かんひざくら)と書いてあった。でも、咲くには咲いていたが、花はすべて下を向いている。まだ早いのだろう。第一花壇越しに見ると、ペニンシュラホテルと、かつてマッカーサー司令部が置かれた生命保険会社の建物とが見える。そこから第一花壇を抜けて、日比谷交差点の方へと歩いて行った。その途中、ポピーの花を見かけた。


ポピーの花





(2012年 3月29日記)


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徒然226.東京に住まう者の醍醐味

銀座ランウェイ



銀座ランウェイ




 銀座・有楽町・丸の内(写 真)は、こちら


 朝からしとしと小雨が降る中だったが、もう春めいてきて、それほど寒くはない。久しぶりに家内と銀ブラでもしようと、出かけた。千代田線から日比谷線に乗り換えて、銀座四丁目に着いた。地下鉄の狭い階段を上がってみると、銀座の中央通りあたりがどうも騒がしい。松屋から三越にかけて車道に細長く仕切りがあって、その中にずっと細い道のようなものが作られている。その道の両端には大きなテントが置かれていて、中の様子はうかがえない。これは何のイベントだろうかと思い、iPhoneで検索すると、「銀座ランウェイ」と称する初の屋外ファッション・ショーだった。中央通りに広島の貝原さんが提供した100メートルのデニム生地を敷き、その上でファッション・ショーが行われるらしい。しかも、あと30分ほどで始まる。これは、経済産業省が推進する「Creative Tokyo」の一環で、仕掛け人は太田伸之さんだという。ああ、この方は、昔からファッションの世界では有名な人である。お若いころ、確か東京ファッションデザイナー協議会を立ち上げた方ではないかと記憶している。今回は、銀座松屋のMD戦略室長として、公道の貸切りと関係先との調整を経て、やっと開催にこぎつけたという。テーマは、デニムとのことだ。うーむ、なかなか渋い・・・プロ向きの渋さだ。

銀座ランウェイ



銀座ランウェイ



 私が着いた午後2時過ぎには、幸い小雨も上がり、見物できる雰囲気となった。何の気なしにアップル・ストアの向かい辺りにいたら、そこは通行の支障になるというので、三菱東京UFJ銀行のATM付近、ちょうど教文館の真向かい辺りまで移動した。しばし待っていると、車道中央のデニムの道の直前まで動いてよいとのことで、そこまで進出した。その前には、座る席が用意されている。これはインターネットで販売されたらしく、もう完売状態で空いている席は全くないというので買うのは諦め、そのまま立って待つことにした。予定では午後2時半から始まるというのに、なかなか開始されなかったが、ようやく45分になって始まった。

銀座ランウェイ



銀座ランウェイ



 軽快なリズムに乗って、黒い服を着た何人かの女性が、まるで前衛創作ダンスのようなものを踊り始めた。何の意味があるのかと訝し気に思っているうち、いつの間にかそれは終わった。すると、銀座松屋前のテントからモデルさんたちが次々に歩いてきた。ところがその歩く速さの早いこと、早いこと・・・ファッション・ショーでは、もっとゆっくり歩くはずなのに・・・。私の位置からは、左右45度の範囲でしか撮れないので、モデルさんが私の視界の右に現れたかと思うと、もう目の前に来て、すぐに左手へと去っていく。つまり、右手に現われた段階でピントを合わせても、あっという間に目の前に来て、そのときにはもうピントがずれている。その修正をバタバタしているうちに、視界からすっと消え去るというものだ。なぜこんな、小走りのような歩き方をするのか・・・衣装をゆっくり鑑賞できないではないか・・・。先週は、湯島神社の梅に現れたメジロの動きの速さに手こずったが、まさか今週も同じような経験をするとは思わなかった。湯島のメジロは、近くの桜にピントを合わせておけば良かったが、このファッション・ショーではそれができない・・・ということで、仕方がないから、カメラをシャッター・モードにして手当たり次第に適当に撮っていった。こういうときには、連写機能が生きる。

銀座ランウェイ



 最初は、デニムのことはあまり意識しなかったが、ファッション・ショーも後半になって、上下ともにデニム生地が多くなってきた。藍というか紺色のグラデーションが効いていてなかなか良いし、またどこか古い日本の色だなと感ずるところもあり、デニムの良さというものを見直した。しかしその一方、今の若い人たちがこんなものを着るのか・・・かなり地味な色合いだし、着心地はごわごわしている・・・という気もして、私は懐疑的な気分になった。でも、色とりどりの刺しゅうの組み合わせれば、流行に乗るかもしれないという気もする。それとも、織り方を工夫して、なめらかな着心地になっているのか・・・そう思っているうち、モデル・ウォークが一巡した。すると、銀座泰明小学校の児童たちが出てきて、恥ずかしがりつつ、みんなで可愛らしく歩いていたが、よく見るとその先頭でニコニコしながら児童の手を引いている男性は、刺しゅう入りのデニム地のジャケットを着た枝野幸男経済産業大臣その人だった。

プラント・ハンターの仕事



プラント・ハンターの仕事



 それを見終わって、銀座から有楽町方面へと歩き出した。すると、桜が咲いているではないか・・・やっと梅が咲いたというのに、桜とは早すぎると思って近づくと、それは「Sakura Project」というイベントである。全国47都道府県から桜の木を集めてきて、しかもそれらを一斉に咲かせるという離れ業だという。西畠清順さんというプラント・ハンターの仕事だそうだ。ちなみに、この人は、これまで世界中を駆け巡って数千種類の植物を集めてきたそうな。

丸の内仲通り



丸の内仲通り



丸の内仲通り



 さらに歩いて、丸の内仲通りに出る。そこを東京駅方面に歩いて行った。途中で歩道の、私の頭の高さに吊り下げられている花が綺麗だ。ロンドンの町中にも、このようなお花でいっぱいのポット(ハンギングバスケット)が人の背の高さに置いてあったのを思い出す。なかなか、良い。それと、歩道の脇に置いてあるポットに、チューリップなどが植えられている。なるほど、最近公表された地価の調査で、丸の内の地価が銀座のそれと頭を並べた理由がわかる。この通りは全体に品がよく、ブランド・ショップも軒を並べているし、置かれている彫刻も趣味がよろしくて街並みの雰囲気に合っているから、歩いていて気持ちがよい。三菱地所が力を入れてきただけのことはある。三菱1号館の中を通り、設計段階でいろいろと議論を呼んだ東京郵便局ビルを通り過ぎる。そして、ビルに沿って建物の一番上を見上げたところ、あれあれ、自分の目がおかしくなったのではないかと、一瞬思った。というのは、見上げた東京郵便局ビルの東京駅正面に向いている建物の一番上の線が、「く」の字形に曲がっていたからだ。家内にいうと、「あれは、そういう設計なの」とのこと・・・何でも知っている。確かに、建物の途中から外壁がややへこみはじめ、それが一番上の階にいくと、「く」の字のように見えるのである。

東京郵便局ビル



 さて、丸ビルに入った。一階の広場に、大きな恐竜のレプリカが置かれている。恐竜展だそうだ。春休みを狙ったようだが、来て見ている子供たちは、いずれも元丸の内OLらしき女性が連れて来ている幼児ばかりだ。それはともかく、このTレックスのような恐竜は、アクロカントサウルス・アトケンシスといい、白亜紀前期のもので、アメリカのオクラホマ州で発見された。面白いので、その写真を撮っていたら、ちょっとした工夫を思いついた。恐竜の目の位置に空間があいているから、そこに背景のライトを入れて撮ったらどうか、迫力が出ないかというもの。試しにそうやって撮ってみたら、うまくいったように思えた。ところが帰ってからパソコンで拡大した見ると、何だ・・・目に相当するライトが二つ写っているではないか・・・これでは使えないかもしれない・・・。もうひとつ、恐竜の説明があった。それは翼竜で、上の方に吊り下げられていた。

アクロカントサウルス・アトケンシス



 きょうは、ファッション・ショーに、桜に、そして恐竜の日か・・・妙な一日だった。どれも、全く知らないで行き、そこで出会ったイベントだから、面白いではないか・・・。あちこちで、無数の人が限りないエネルギーを注いで、それを形に表している大都市だからこそのイベントの数々だ。これこそ、東京に住まう者のみが味わえる醍醐味かもしれない。

(2012年 3月24日記)





六本木ヒルズの草間弥生さん作・やよいちゃん



 と、ここまで書いたその翌日、今度は六本木に行ってみたら、昨晩から六本木アートナイト2012というイベントをやっていたようだ。あちこち、イベントばやりである。六本木ヒルズのアリーナでは、やよいちゃんという草間弥生さん作のビニール人形があり、なかなかの存在感を放っていた。草間弥生さんらしく、赤と白の水玉模様があるから面白い。その近くでは、テレビ朝日の人形が、小さい子の写真を撮っていて、これもかなりの人気だった。

テレビ朝日のイベント




東京ミッドタウンのいつつのゆびわ



 六本木ヒルズから今度は、東京ミッドタウンに向かった。こちらでは、入り口に淡いパステルカラーの置物があり、「いつつのゆびわ」というそうだ。その脇を通り、建物の中に入ってみると、巨大なこけしがあった。3階分近い高さがある。これはなかなかの見ものである。「花子」という名前がついている。しかも、くぐもった声で、何かしゃべっていた。これは、超近代的なビルと実に日本的なものとの組み合わせだが、非常に良くマッチしていたのは、私にとって新鮮な驚きだった。


東京ミッドタウンの大こけし・花子





(2012年 3月25日記)

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徒然225.湯島のヒヨドリとメジロ

湯島天神のメジロ


湯島天神のメジロ



 湯島天神の梅(写 真)は、こちら


 湯島天神には、2月11日に梅まつりを見に行き、そして3月に入って今度は咲いている梅を見ようと先週11日に再び行ったのであるが、まだ5分咲きといったところだった。なんでも今年は、梅が咲くのが3〜4週間も遅れて、こんなことは何十年ぶりかもしれないとのこと。その11日には、梅にメジロが来ている様子の写真を撮りたかったが、そもそも梅の花がまだ十分に咲かないのだから、来てくれなかった。そういうわけで、今日の春分の日こそはと思い、仕切り直しのつもりでまた行ってみた。

湯島天神のヒヨドリ



湯島天神のヒヨドリ


湯島天神のヒヨドリ


 すると、うれしいことに、鳥が来ているではないか・・・夫婦坂をあがってきて、咲いている梅の木をふと見ると、全長30センチくらいの精悍な感じの茶色の鳥が、梅の木にとまって、枝や花をついばんでいる。さっそく超望遠レンズをつけたカメラを取り出して、シャッター優先モードでバチャバチャと連射していった。私のこのオリンパスのカメラの性能では、連射といっても1秒間に3枚というのんびりしたものだが、それでも、何十枚も撮ればそのうち数枚くらいは使える写真を撮ることができる。まあ要するに、下手な鉄砲を数撃っている内に、一発くらいは当たるだろうというのと同じだ。

湯島天神のヒヨドリ


湯島天神のヒヨドリ



 あれ、それにしてもこの鳥、なんという鳥だろうと気になった。すると近くにいた物知りの人が、「これは、ヒヨドリではないかねぇ」というので、その場でiPhone を取り出して画像を検索すると、なるほど、おっしゃる通り、ヒヨドリに違いなかった。比較的動かず同じところにとどまっている。よく見ると、梅の花の蜜を吸っているときもあれば、梅の木の枝を突いて、昆虫を口にくわえているときもある。小さいながら、一生懸命に頑張っているではないか。健気なことだ・・・。

湯島天神のメジロ


湯島天神のメジロ



 さて、そのヒヨドリがいる梅の木に突然チチッと鳴き声が聞こえたかと思うと、小さな鳥が2〜3羽、飛んできた。おお、これこそ待っていたメジロだ。ウグイス色の体をしているし、眼の回りが白いから、間違いない。私が見上げていた梅の木をあちこち飛び回り、とっても機敏な動きをする。だから、その眼に焦点を合わせるのがなかなか難しい。いや、眼どころかその顔にすら、焦点を合わせるのが一苦労である。何しろ、顔をキョロキョロ、しかも左右どころか真後ろに180度も動かして、ともかく忙しくて常にせかせかしている。これが人間の子供なら「まあ、落ち着きなさい」とでも言うところである。だから、せっかく撮ることができてもあさっての方向を向いているからがっかりだ・・・カメラマン泣かせの俊敏さである。しかし、これも下手な鉄砲方式で、しばらく追いかけたところ、何枚かは使える写真となった。素直に嬉しいと喜ぼう。

湯島天神のメジロ






 ところで、この湯島天神での鳥の撮影の後、恵比須ガーデンプレイスの東京都写真美術館に行って、「フェリーチェ・ベアトの東洋展」を見てきたのである。説明によると、「19世紀後半の激動する東洋を駆け抜けた、漂泊の写真師フェリーチェ・ベアト。インド、中国、日本、朝鮮、ビルマという19世紀後半に開国した国々のイメージを西欧世界に伝えた彼は、クリミア戦争、インド大反乱、第二次アヘン戦争、下関戦争、辛未洋擾など東洋における国際紛争を記録した、戦争写真のパイオニアとしても知られています。彼は戦争のリアリティとして戦場の死体を撮影した最初の写真家であり、パノラマ写真を含む建築写真や地形写真、アジア諸国の人々の肖像写真など多様な写真作品を欧米に提供した、多才な写真家の一人でもあるのです。」ということだが、個々の写真は非常に細かいところまでよく写っていて、いささか驚いた。

 彼が活躍したのはちょうど幕末の頃で、日本に居留したのが20年にも及ぶという。日本関係の写真では、愛宕山から撮影したパノラマ、下関戦争で占領された長州藩の砲台、横浜に蝟集する外国船、大名屋敷、市民の市井の生活・・・たとえば籠に乗る女性、冬姿の女性、全身刺青の馬方、力士の姿、舟の中の人々、田圃の中の農民、弓を引く武士、刀の切っ先を向ける武士、あんまをしてもらう女性、芸人たち、僧侶と役人などがあった。中には水彩絵の具で色を付けている写真もあり、幕末当時の姿が実によくわかる。そのほか、阿片戦争当時の中国、大映帝国治下のインド、ミャンマーなど、とても興味深い。フェリーチェ・ベアト自身は、投機に失敗して全財産を失い、それで日本を離れたそうだ。それはともかく、お暇なときにでもご覧になってはいかがかと思い、ぜひお勧めしたい。5月6日まで開かれているそうだ。




(2012年 3月20日記)


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徒然224.浅草寺金龍の舞

浅草寺金龍の舞


 最近、浅草が元気である。近くに東京スカイツリーが完成したせいか、何か町全体に、この機を逃してなるものかという気概のようなものを感ずる。ただ、正直言って、浅草という土地は、私の父の世代は懐かしがるけれども、たとえば浅草寺の裏手などはどうも私の趣味に合う土地柄ではない。だから、雷門→仲見世通り→浅草寺本堂のいわば「東京観光の黄金ルート」はともかく、これまで特段のイベントで行く以外では、あそこへぜひとも行きたいという気が湧き上がるような所でもない。ところが、3月17日と18日、三社祭斎行七百年祭・浅草寺本尊示現会の浅草神社本尊神輿堂上げ・堂下げ、そして18日には古式三社祭舟渡御なるものを行うという。あわせて、五重塔前で金龍の舞を行うと聞いて、そういえば前回見物した白鷺の舞はなかなか優雅で、とても素晴らしいものだったと思い出し、行ってみる気になった。自宅近くの停留所からバスに乗っていけば20分ほどで浅草寺の裏手に着くが、今日は地下鉄を使って、千代田線大手町→東西線日本橋→銀座線浅草というルートで行ってみたら、30分ほどで着いた。少し遅れて家内は、千代田線大手町→半蔵門線三越前→銀座線浅草というルートだったが、来てくれた。時間的には、同じくらいである。しかしこのルートは、途中、乗り換えがあったり、駅と駅の間をかなり歩くのが面倒である。

浅草寺宝蔵門


 昨日は終日、雨だったが、今日は曇り空でいかにも降りそうであるが、それでも何とか天気はもってくれている。浅草駅に着いて雷門に向かったが、いやはや、すごい数の人だ。なかでも仲見世通りは満員電車並みに混み合っているので、その脇の裏通りを行こうとしたが、それでも、混んでいた。しかし、中には先を急いでいる人もいないわけでもないので、そういう人の後を付いていくと意外と早く宝蔵門に着き、その脇の五重塔前の小さな広場に出た。金龍の舞とやらは午前11時から始まるので、あと5分だ。人混みの中で、金龍らしきものがあるかと見ると、あった、あった。動くまで待とうと思ってその脇の宝蔵門の前に立っていた。門の両脇には、山形県から奉納された大きなわらじが掲げられている。あわせてその位置からは、5月22日に開場する634メートルの高さの東京スカイツリーも見えるのは、うれしい限りだ。それらを飽かず眺めていると、赤ちゃん連れの若い夫婦から、門を背景にカメラのシャッターを押してくれと頼まれた。よほど暇なおじさんと見込まれたらしい。はいはいっと気軽に引き受け、どういう構図がいいのと聞くと、縦にして門の上の文字を入れてくれとのこと。何とかご要望に沿うようにしてカメラを構え、赤ちゃんが笑顔でこちらを向くのを待って、パチリと撮ってさしあげた。


山形県から奉納された大きなわらじ



 ところで、この金龍の舞は、戦災で焼け落ちた本堂が昭和33年に再建されたのを記念して、創作奉納されたそうな。金龍の舞の名称は、浅草寺の山号の金龍山からとったという。浅草寺縁起に、観音示現の際、天空から龍が舞い降り、一夜にして千本の松林が出来たという。まあそれで、松林に見立てた幼稚園児たち、観音様を象徴する蓮華珠、それを守護する金龍(長さ18メートル、重さ88キロ)を8名で操作し、浅草組合花組のお囃子を引き連れて練り歩くというものである。金龍の操作は、なかなか難しそうだと思ったら、金龍の舞執行委員会委員長吉田健さんという方が「龍は8人で操作しますが10分間の舞を覚えるのに2年、頭を持つのには10年以上かかる。舞にはその人の生き様が現れます。・・・(会には現在75名が在籍)・・・金龍の絆は生涯の絆です。今年も心を込めて力の限り奉納いたします」とのこと。(東京メトロ沿線だより2012年3月号より)


金龍にかぶりつかれた女の子



苦笑いの女の子



 あれから、さらに2組に、カメラのシャッターを押すことを頼まれてしまった。そうこうしているうちに、ピーヒョロ・どんちゃん・どんちゃんという、浅草組合花組お囃子方による笛や鐘や太鼓の音がして、金龍が動き出したものの、どういうルートで行くのかわからなかった。写真を撮るのに適当なところにいたいと思うが、金龍の廻りはたいへんな人混みで、近づけない。やがて、金龍は宝蔵門の前を一周した。その途中、肩車された小さな女の子の頭に金龍がかぶりつくというハプニングがあり、大笑いとなった。その女の子は泣き叫ぶかと思ったら、意外と平気で、にこにこしている。なかなか度胸があるではないか。これが私の孫だったら、男の子なのに、ワーッと大声で喚き泣き騒ぐはずだ。それにしても、最近の女の子は強い。そういうしているうち、あれあれ、という間もなく、金龍は宝蔵門の下をくぐって仲見世通りの方へと行ってしまった。大変な人混みだから、その流れに逆らって追いかけるわけにもいかない。


浅草寺本堂



五重塔脇の花



五重塔脇の葉のしずく



 そういうことで、金龍を追いかけて写真を撮るのは別の機会にして、ちょうどやってきた家内と一緒に浅草寺本堂でお参りをした。本堂はついこの間まで修理中だったと思うが、あちこち実に綺麗になっている。瓦も、チタン製とは思えないほどに本物そっくりである。それから、近くにあった花が気に入ったのでこれを写した。それにしても、このピンクに黄色が混じってる存在感のある花は、なんだろう? 右奥にある紫の花は、ムスカリー(グレープヒヤシンス)に違いない。これは、紫の花だし、白い花もあることは知っていたが、ピンクというのは・・・知らなかった。これとはまた別の花であるが、その周りに植えてあったこの水滴が載っている葉など、本当に自然はうまくできている。これは、相当びっしりと細かいヒゲのようなものが、葉の表面に着いているのだろう。産業に応用できないだろうか。ちょっと、研究してみたくなる。

福聚のご一行



 隅田川の船着き場へと行った。着いたとたん、福聚のご一行と一緒になった。どうやら、子供たちが、七福神のお面を被っているようだ。それから、54年ぶりに復活したという舟渡御を見ようとしたのだが、あいにく、雨が降ってきて写真を撮るどころではなくなった。仕方がないので、蕎麦屋の十和田に立ち寄り、天麩羅そばを食べて、家に帰ることにした。また、5月に行事があるそうだから、そのときこそ、金龍の舞の写真を心置きなく撮ることにしよう。最後に、せっかく来たのだからということで、隅田川の向こう岸にある、東京スカイツリー、隅田区役所、アサヒビール本社の建物を1枚の写真に収めて、家路についた。ところで、この写真は吾妻橋たもとの浅草の船着き場で撮ったから、こういう順番になったのだけれど、構図からすれば、むしろ隅田区役所の右に背の高い東京スカイツリーを置いて、それからアサヒビール本社の建物が右側にくるという方がシンメトリーの関係で美しい。実は、そのように撮れる地点があるという。それは、隅田川をもう少し下った駒形橋の方へ歩いていくと、見つかるらしい。次回、桜の季節にでも来て、撮ってみようと思う。


東京スカイツリー、隅田区役所、アサヒビール本社の建物








(2012年 3月18日記)

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福島第一原発事故から1年

水蒸気の排出は収まったが、無残な姿をさらす2011年3月18日の福島第一原子力発電所(右から左へと第一号機から第四号機)。デジタル・グローブ社の衛星写真



 東京電力の福島第一原子力発電所事故から1年が経った。この間、原発事故の調査のため、官民で次の3つの調査委員会が立ち上げられて、報告や調査結果が順次公表されつつある。

(1) 閣議決定で設置された政府の「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会(政府事故調)」(委員長・畑村洋太郎東京大学名誉教授、工学院大学教授、失敗学会初代会長)
(2) 民間有識者で自主的に設置された「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」(委員長・北沢宏一前科学技術振興機構理事長)
(3)「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)」(委員長・黒川 清東京大学名誉教授、元日本学術会議会長)

 このうち、(1)の政府事故調は、昨年12月26日に中間報告を公表した。私が見るところ、これはあまりにも技術的に過ぎ、関係者の生の声のようなものがあまり伝わって来ないので、読んでいても、いまひとつというところであるのは残念であり、次の最終報告書で改善されることを期待したい(最終報告)。一方、(3)の国会事故調はまだ調査中で、その報告書は通常国会会期末の6月頃になるという話である。ところが、原発事故からちょうど1周年となる頃に、(2)の民間事故調が調査・検証報告書をとりまとめ、1周年に当たる3月11日に、書物や電子出版の形で売り出された。私はさっそくそれを買い求め、熟読したのである。折しもその頃になると、1周年ということでそれまで口が硬かった原発事故関係者が徐々に事故の模様を語りだすようになり、それぞれが持ち場で感じたり経験したりしたことが断片的にながらも、次第に報道されるようになった。これらを合わせて読むと、私自身も、当時の緊迫感その他一生懸命自分なりに推測したり感じたりしたことが脳裏にまざまざと甦ってきた。そこで、以下ではそれらを対比しながら、私の推測に対して事実はどうだったのかを中心に検証してみたい。

民間事故調の調査・検証報告書



 3月11日の私の記述によると、「政府は・・・11日夜になり、福島第一原子力発電所第二号機について、原子炉内の水位低下が認められるとして半径3キロ以内の住民約6000人を避難させるよう福島県、大熊町、双葉町に指示を行った。」

 この段階では、私は、テレビの画面で次々に映し出される大津波の惨状に目を奪われていて、原子炉の方も多少は気になったものの、単なる炉心の水位低下だということだから、まあ大したことはあるまいと思っていた。ところが、水位低下どころか、まさか空焚き状態になっているとは、全く想像もしなかった。

 実際には、午後2時46分の大地震の直後、福島第一原子力発電所に対して3時35分に4メートルの津波の第一波が、そして3時35分にはおそらく14〜15メートルを超える津波の第二波が来襲した。このため、3時37分から42分にかけて第一号機から第五号機のすべてで全交流電源が喪失した。これにより、核燃料の崩壊熱の逃げ場がなくなり、それが燃料被覆管の材料であるジルコニウムを溶かし、燃料自身と周辺のコンクリートなどの構造物を溶かしつつあった。そのまま放置すれば、あたかもチェルノブイリ事故のごとく、原子炉内部に閉じ込められている放射性物質を環境中に広範囲にしかも大量に放出してしまう結果となる。とりわけそのおそれは、非常用電源が回復せず、非常用の冷却装置も機能しなかった第一号機から第三号機、そして取り出したばかりの使用済み核燃料プールがある第四号機において高く、緊急事態に突入していた。とりわけ第四号機の使用済み核燃料プールは、単に原子炉建屋の中にあるだけで、普通の核燃料のように格納容器中に収められていなかった。だから、高濃度の放射性物質が飛び散るおそれは極めて高く、この点はアメリカ原子力委員会のヤツコ委員長が最も懸念していたところである。

 東京電力から福島第一原子力発電所で原子炉が冷却できなくなったという報告を受け、11日の夕方から夜にかけて官邸が中心となってあちらこちらに声をかけ、電源車を手配したようだ。それも、菅直人首相自らがどこに何台あるか、それがどこを出発してどこを通り、福島第一にいつ着きそうかということまで、事細かに管理し指示したそうな・・・しかし結果的に、こうした手配した40台もの電源車は、東京電力自身が所有するたった1台の高圧電源車(これはたぶん、柏崎にあったものだ)を除いて、コネクターの形状の違いなどにより、全く役に立たなかったという。これはもう、悲劇を超えて喜劇としかいうほかない。

 その一方、原子炉の損傷は科学の法則に従って徐々に・・・いやそれどころか急激に進む。既に11日午後10時の段階で原子力安全・保安院は、プラント解析予測システムが第二号機の状況について解析し、早ければ同日午後10時50分から炉心露出が始まり、翌12日午前1時50分から燃料溶融が始まると予測していた。しかし、そんなことは一般市民の私としては、全く知る由もない。この点、12日午後の保安院の中村幸一郎審議官の記者会見では、炉心溶融の可能性について言及したところ、官邸の逆鱗に触れ、おそらくそれが原因となって広報担当者の交代につながったとされる。広報担当者が二転三転した後、最終的に広報担当になった西山英彦審議官は、「燃料棒の外側の被覆管の損傷」と表現したが、これは明らかに事実に反していた。こういう場合は、シミュレーションによる推測結果であると注釈でも付けて、明確かつ正確に事態の推移を発表してくれる方がよいと思うが、どうであろうか。そうでないと、疑心暗鬼ばかりが生まれてしまう。

 3月12日の私の記述では、「それにしても、福島に第一・第二とある二つの原子力発電所の状態が気になる。冷却施設が津波でやられ、非常用電源も稼働させられなかったことから、核燃料のメルトダウンが始まったらしい。そこで原子力容器の爆発を防ぐために、放射性物質を含む排気を排出する作業が始まった。その直前、福島県内に避難指示が出た。それだけでなく、夕刻にまた地震があって、その頃に第一原発の4つの原子力発電所建屋のうち1つが爆発して骨組みだけになったようだ。そうこうしているうちに夜になったこともあり、この建屋の爆発で原子炉格納容器まで飛んでしまったかどうかはまだわからない。」とある。

 仮に原子炉格納容器まで噴き飛んでしまったのなら、まさにチェルノブイリの二の舞で、しかもこちらにはその何倍もの核燃料があるから、被害は4〜5倍以上となる。静岡あたりを境にして、東日本には、もう何十年間も住めなくなるのではないかとすら思った。この事故処理とは全く関係のなかった私でさえそう推測したものだが、同様に官邸でも「悪魔の連鎖」という最悪のシナリオが共通認識となっていったようだ。すなわち、福島第一原子力発電所のどれかの原子炉や使用済み核燃料プールが事故を起こしたら、爆発が次から次へと連鎖していって、あたり一帯に近づけなくなる。やがて福島第二原子力発電所にも近づけなくなって、そうすると200キロメートル離れた東京都民まで避難しなければならなくなるというものである。幸い、そうならなかったが、私は紙一重だったと思うのである。

 このときの官邸の様子は、菅直人首相、枝野幸男官房長官、海江田万里経済産業大臣などの周りに、頼りない東京電力本社幹部、現場の様子を何も知らされてない斑目春樹原子力安全委員会委員長、それに呆然自失状態の原子力安全・保安院幹部などの専門家が集まり、官邸地下の危機管理センターで対応を検討したようだ。そこで、原子炉内部の圧力を逃がして爆発することを避けるため、原子炉内部の気体を外へ直接放出すること(ベント)がとりあえず必要ということになった。12日午前1時半頃のことである。ところが、ベントをすると、原子炉から放射性物質がある程度出てしまう。そこで、菅直人首相は、第一原子力発電所周辺半径3キロメートルの住民に対し、午後9時23分に避難指示を出した。保安院は、午前2時頃から燃料溶融が始まると予測していた。

 ところが、官邸の指示に対して、ベントは一向に実施されない。官邸にいる東京電力幹部に聞いても要領を得ない。業を煮やした海江田万里経済産業大臣が、12日午前6時50分とうとう原子炉規制法に基づいてベントを実施すべしという命令を行った。しかし、それでもなお実施しない。この点について、ベントは電源があってできるものだから、手動で行うベントは初めてのことなので、図面から検討せざるを得ず、それで時間がかかったという説明が行われた。私も、「まあそんなものかな、確かに放射能が漏れているところに行くのは決死の覚悟がいるからな」と思っていた。ところがどうやら真実は、第一原子力発電所の現場が福島県との間で、住民の避難が終わるまでベントを実施しないという約束をしたから、遅れたらしい。全くもう・・・何ということだ・・・。呆れてものが言えない。これが、今回の事故対策の第1のポイントであると思う。これは明らかに、現場のサボタージュであり、東京電力本社も官邸も担当大臣の命令ですら、無視されたのである。私はこれがなかったなら、その後に続く第一号機から第四号機までの爆発は、あるいは避けられたかもしれないと思っているし、福島県の海側一帯から千葉県にかけて、あれほど広範囲に汚染されることはなかったのかもしれないとも考えている。もちろん、早期の海水注入ができていればという条件付きであるが・・・。

 第一号機のベントが実施されず、内部の圧力が高まったために、万が一に備えて12日午前5時44分、避難指示の範囲が第一原子力発電所周辺から10キロメートルに拡大された。ベントが実施されないことにいら立った菅直人首相は、自衛隊のヘリコプターに乗って第一原子力発電所へ出発した。このヘリコプター内で菅首相は斑目春樹委員長に対して水素爆発があるかと聞かれ、格納容器内ではすべて窒素に置換されていて酸素がないから、その危険はないと答えたそうだ。ヘリコプターは、午前7時11分に到着し、免震重要棟で吉田昌郎所長から決死隊を作ってでもベントをするとの決意を聞いて、菅首相は納得した。結局、ベントは午前9時4分に着手されて、午前10時17分に実施された。

 これで当面の問題は避けられたかと思ったが、ところがそうではなかった。ベントを実施した時期が遅すぎたのである。12日午後3時56分、第一号機が突然爆発した。この様子は、福島テレビが設置していたビデオカメラがとらえ、現地では数分遅れだったが、日本テレビの全国網では1時間も遅れたものの、放送された直後から大騒ぎとなった。これを官邸のテレビで見た斑目委員長は「ああーっ」と言って頭を抱えて前のめりになったという。これを見た官邸関係者は、専門家といってもこの程度かと、見下すようになった。これが今回の事故の第2のポイントにつながる。官邸関係者は、斑目委員長や保安院の能力に疑念を抱いた。

 後日談では、斑目委員長は水素爆発だと思ったが、ヘリコプター内で菅首相にそれはないと断言したので言い出せなかったという。その真偽はともかくとして、私が不思議でならないのは、技術的な助言をすべき立場にある保安院の平岡英治次長の言である。新聞記事によると「水素爆発は思いもしなかった。漏れた水素がどうなるかというのは、あまり考えたことがなかった。不勉強だったと思います」というが、あとからテレビ番組で見たアメリカの原子力発電所では、冷却機能が失われたときには当然のこととして水素爆発の対策が取られていた。もうこうなると、不勉強以上に、職務怠慢ではないかと言いたくなる。天の配材は、時として間違っていることがあると思う。この人は、いわゆる電気屋さんであるが、その後、安井正也保安院付という原子力関係の専門家が加わって、助言内容が格段に良くなったといわれる。

 3月12日、私はこう書いた。「万が一仮に原子炉格納容器が爆発したのなら、既に大量の放射性物質が吹き上げられた可能性がある。そうなると、スリーマイルやチェルノブイリ事故の再発になってしまう。その放射性物質は、目に見えないほどのチリの形で飛んでくる。これを口や鼻から吸い込むと、肺の中に入って一生、放射線を出すので最も危険だ。だから、これを避けるためには、外に出ないことが一番の対策となる。やむなく外出する時には、息をするときに、湿ったマスクやタオルで鼻と口を覆うことだ。特に、皮膚に付いたときには除洗といって洗い流すこともできるが、完全ではないので、なるだけ皮膚を露出させないよう、長袖、帽子、手袋、めがねを着用することが大切である。なお、この場合は風向きが大事で、この季節は寒いときは西から東、暖かいときは南から北に風が吹くことが多いので、それを頭に置いて放射性物質を含む排気を排出するタイミングを図るはずだ。しかし、仮に原子炉格納容器が爆発したのなら、全方向どこへ行くかはわからない。とても心配だ。 祈るような気持ちでNHKテレビの画面を見ていたら、午後9時頃になって官房長官から発表があった。それによると、爆発した原子力発電所建屋は、充満した水素による爆発であり、建屋は破壊されたものの、それは外壁のコンクリートだけだったようで、原子炉格納容器まで飛んでしまったわけではないようだ。ひとまず、安心してよさそうだ。」

 今から記憶をたどると、私は今回の原子力事故で、3回ほどとても緊張した覚えがある。そのひとつがこの瞬間で、最悪の場合、原子炉格納容器が爆発して、その中身が東京まで既に飛んで来ているかもしれないと思った。吉田昌郎所長もその退任時、数度、死ぬかもしれないと思ったことがあると告白していたが、そのうちの一回が間違いなくこれであると思う。私は、子供たちに上記のような内容のメールを送って、なるだけ外出を控えるように伝えた。結局、数時間して爆発後の周辺地域の放射線量が下がったことがわかり、この爆発は水素によるもので、原子炉格納容器が爆発したのではないことが判明した。私も、ひと安心したのである。

 12日の夕方から夜にかけて、官邸では、海水注入の是非をめぐり、激論が行われたようである。炉心のメルト・ダウンが進行しつつある中、外から消防ポンプ車や緊急に手当てをした電源車でポンプを動かし、淡水を注入した。しかしそれでは水源がとても足りない。そこで廃炉を覚悟で、海水を注入すべきかというもので、官邸の関係者はすべしという意見が一致した。午後5時55分、海江田経済産業大臣が口頭で海水注入を命令した。午後6時、そこへ菅首相が入ってきて、塩の影響は考えたのかと聞いた。斑目委員長が「再臨界の可能性はゼロではない」と、文字通りでたらめな説明を行ったため、首相は再臨界の方法を指示して散会したという。一方、東京電力の方では、海江田大臣の命令を受けて午後7時4分に海水注入を開始した。ところがそこへ首相の介入があったものだから、官邸にいる東京電力の武黒一郎フェローが吉田昌郎所長に直接電話をし、官邸の「雰囲気」を伝えて、海水注入を待つように指示した。一刻も早く冷却すべきときなのに何が「雰囲気」だという気がするが、これらの専門家は科学的知見も生かせず、何の矜持も自信もないようだ。これでは単なる茶坊主にすぎない。それに対して、現場の吉田所長は、なかなか骨がある。せっかく始まった海水注入を中止すると冷却ができなくなると危惧したらしい。注水の担当者に小声で「これから中止を命令するが、それでも注水を継続せよ」と言って、皆の前で中止を命令したというから、もう茶番というか、お笑いである。下手な芝居より面白いではないか。後から思うと、これがまあ、第3のポイントだったかもしれない。もっとも、民間事故調のいうように、上位機関の命令が下達されなかったという点では、危機管理上あるいは組織統制上、大いに問題である。

 第三号機には、13日午前9時25分から淡水注入が開始されたが、昼ごろにはそれが枯渇した。そこで、海水注入に切り替えて約52分遅れで注入が再開された。次いで14日の私の記述「朝11時に第三号機も水素爆発を起こし、第一号機と同じく建屋の上が吹き飛んだ。これで第一号機と第三号機の二つの建物の建屋が失われ、原子炉格納容器がむき出しになったことになる。ただ、周辺の大気中の放射能レベルをみると、原子炉格納容器はまだ健全だと判断された。しかし、今度は第二号機に大きな問題が発生した。こちらも、午後1時に冷却機能が失われ、午後4時に海水注入がされたが、やはり燃料棒が露出して炉心溶融が起こったようだ。それも、冷却ポンプを動かしていた作業員が見回りに行って帰ってきたとき、燃料が切れてポンプが止まっていたことに気が付いたという。これを聞いて私などは、こんな大事な時に、なんという凡ミスをしているのかと残念でならない気持ちになった。それはともかく、午後7時前、第一号機と第三号機の冷却が成功し、午後9時頃になって第二号機も、一時は完全に露出していた核燃料棒の半分近くまで水位が回復したと報じられた。」

 この通り、14日午前11時1分には、第三号機の原子炉建屋が水素爆発した。次いで、午後6時22分、第二号機の燃料棒が全露出し、絶体絶命のピンチを迎えた。東京電力本社と福島第一原子力発電所の現場、そして官邸の専門家は、原子炉内の炉心溶融が進んで核燃料が溶け落ち、それが高圧で飛び出して原子炉格納容器はおろか、原子炉建屋まで壊し、一気にあたり一面に飛び散るのではないかと想像をめぐらせた。これも、吉田所長が死ぬかもしれないと考えた2番目の事象ではないかと私は思っている。

 15日になり、私はこう書いている。「第三号機でも同じような事態に陥り、こちらでも海水の注入後、やむなく蒸気を大気中に放出する弁が開けられた。しかし、第一号機に比べて第三号機の場合は、ウランだけでなくプルトニウムをまぜたMOX燃料を使っているから、より毒性が高い放射性物質が放出されるおそれがある。こちらの方が深刻な問題だと思われる。この日午後8時過ぎに会見した東京電力の社長は、『想定を超える津波だった』と弁解をし、皆から失笑をかっていた。」

 当然のことながら、この原子力事故の影響は福島第一原子力発電所だけではすまない。これがやられると、放射線量が高くて近寄れなくなる状態は福島第二原子力発電所に及び、さらには東海原子力発電所や女川原子力発電所や柏崎刈羽原子力発電所にも及んで手が付けられなくなる。これを最悪シナリオと呼んでいたそうだ。今回の原子力事故の第4のポイントである。しかし、そんなことはもちろん報道されないから、一般国民は、知る由もなかった。しかし、前にも書いたが、「仮に原子炉格納容器まで噴き飛んでしまったのなら、まさにチェルノブイリの二の舞で、しかもこちらにはその何倍もの核燃料があるから、被害は4〜5倍以上となる。静岡あたりを境にして、東日本には、もう何十年間も住めなくなるのではないかとすら思った。」私はかつてチャイナ・シンドロームという映画も見たし、チェルノブイリ事故もかたずをのんで見守ったことがあるから、それくらいはすぐに見当が付いたのである。まあ、年の功というものだ。家内に、状況は最悪だと伝えると、家内は直ちに娘と連絡をとり、孫を連れてすぐに静岡へと旅立ってしまった。

 この大きな危機に際し、14日夜から翌15日未明にかけて、東京電力本社と官邸との間で、重大なやりとりがあった。東京電力の清水社長は、なんと福島第一原子力発電所からの全面撤退を官邸に申し出たのである。あとになって東京電力は、あれは全面撤退の趣旨ではなかったと言っているようだが、電話で直接話を受けた官邸側の人たちは、誰もがそう受け取った。これを聞いた菅首相は、清水社長を官邸に呼びつけ、全面撤退など絶対にダメだと申し渡すとともに、細野豪志首相補佐官を東京電力に常駐することを言い渡した。併せて、政府と東京電力との統合対策本部を立ち上げることとし、午前5時26分にそれを発表した。場所は東京電力本社である。発表後、そこに押しかけた首相は、居並ぶ東京電力社員を相手に、マイクを握ってこのように演説したという。「被害は甚大だ。このままでは日本国滅亡だ。撤退などあり得ない。命がけでやれ。情報が遅い、しかも不正確で、間違っている。撤退したら東電は100パーセントつぶれる。逃げ切れないぞ。60歳になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。おれも行く。原子炉のことを本当にわかっているのは誰だ。何でこんなことになるんだ。」などと語気鋭く怒鳴った。あまりの権幕に、これを聞いた女子社員の中には泣き出した人もいたというが、これが結果的には俗にいう「カツを入れた」ということになり、これ以降、東京電力の対応はより真剣になったといわれる。

 私の記述はこうだ。「15日を迎えた。これで、このまま事態が落ち着いてくれればよいなと思い、朝起きてすぐにテレビをつけた。すると、事態は収束どころかどんどん悪化していたので、びっくりした。まず、第二号機で午前6時14分頃に爆発音があった。こちらは、炉内の水位が下がって核燃料棒が露出し、14日夕刻には2時間20分間、深夜には6時間半も続いた。この爆発直後、原子炉格納容器の下にあるドーナツ上の圧力抑制室(サブセッションプール)の圧力が、3気圧から1気圧へと急減した。このため、どこかに穴が開いて、放射性物質が漏れている可能性が高い。それだけではとどまらない。発電所内の定期検査中で止まっていたはずの第四号機でも、午前6時頃に火災が起こった。続いて午前9時38分にも、大きな音がした。こちらは、定期検査中だから、使用済み核燃料が原子炉圧力容器から出されて、原子炉格納容器内にある貯蔵用プールの水の中に入れて保管されている。その温度は摂氏40度を下回っているが、やはり冷却をしておかないと、水が蒸発して失われる。ところが電源がすべて喪失しているので、貯蔵用プールの冷却ができない。だから、こちらも温度が上昇して水蒸気か水素による爆発をしたのではないかと推測されている。考えてみると、こちらは使用済核燃料が原子炉圧力容器から出されているし、爆発で建屋の壁が壊れてプールが露出しているから、この方がもっと深刻な問題ではないか・・・どうするのだろう。これら一連の事故のせいで、発電所施設内では放射線量が400ミリシーベルトを示した。この水準について枝野幸男官房長官は、『これまでとは桁違い。人体に影響する可能性の数値だ』と述べた。ちなみにこの放射線量は、普通の人が自然界から一年間に浴びる限度量の400倍に相当するらしい。作業員でも15分間しかその場におられない水準だそうだ。放射線量が500ミリシーベルトになると、血中のリンパ球が減少し始め、1000ミリシーベルトでは悪心・嘔吐があるらしい。このため東京電力は、現地所長判断で、注水作業に直接かかわらない作業員を現場から退避させた。福島県いわき市では15日午前4時に1時間当たり23.7マイクロシーベルトを観測した。茨城県北茨城市では午前5時50分に5.5マイクロシーベルト、東京都新宿区で午前中に通常の21倍の0.8マイクロシーベルト、神奈川県横須賀市では午前5時48分に0.2マイクロシーベルトをそれぞれ観測した。静岡県以西では、特段の放射能は測定されていない。」

 「ああ、やはり私が最初から想定していた最悪のケースになりつつある。これこそ絶対絶命だ、もう崖っぷちにいる」と感じた。心臓が高鳴り、動悸が大きく感ずるようになった。これが、今回の事故対策の第5のポイントである。これでいよいよ最後かと思ったのは、吉田所長だけでなく、私もそうだ。静岡で宿泊している家内に電話し、「東京都や神奈川県まで放射能が来たが、まだ静岡までには及んでいない。そちらへ行くのは時間の問題かもしれない」と言った。「チェルノブイリ事故だと、最大で650キロメートルまで汚染された例がある。もっとも、放射能ブルームの散らばり方は、風向き次第だから、本当にところは誰にもわからない」と説明した。すると「福島から650キロメートルはどこか」と聞くので、「まあ、滋賀県の大津辺りかな」というと、その翌日、孫を連れ、新幹線で大津どころか九州の博多まで一気に行ってしまったのには、驚いた。やり過ぎた・・・。しかし、もっと驚いたことに、その新幹線の中は、小さな子供をバギーに乗せた若いお母さんたちでいっぱいだったこと、そして博多で家内が泊まったホテルでは、空路や船で中国に逃げようとする中国人で満室だったということである。その中国人たちに、家内はこう言われたという。あなた方、政府の言うことなど信じるのは馬鹿ね。本当のことは絶対に隠していのだから、汚染はもっともっと広がっているよ。よく東日本の日本人は、逃げないわねぇ」なるほど、中国では、このように考えないと、生きていけないのだ。3000年の歴史は、侮れない。

 15日午前11時に菅直人首相が首相官邸で記者会見を開き、次のように述べた。「国民の皆さまに福島原発についてご報告したいと思います。ぜひ、冷静にお聞きいただきたいと思います。福島原発については、これまでも説明してきましたように地震や津波により原子炉が停止し、本来なら非常用として冷却装置を動かすはずのディーゼルエンジンがすべて稼働しない状態になっております。この間、あらゆる手立てを使って原子炉の冷却に努めてまいりました。しかし第一号機、第三号機の水素の発生による水素爆発に続き、第四号機においても火災が発生し、周囲に漏洩している放射能、この濃度がかなり高くなっております。今後、更なる放射性物質の漏洩の危険が高まっております。ついては、改めて福島第一原子力発電所から20キロメートルの範囲は、すでに大半の方は避難済みでありますけれども、この範囲に住んでおられる皆さんには全員、その範囲の外に避難をいただくことが必要だと考えております。また、20キロメートル以上、30キロメートルの範囲の皆さんには、今後の原子炉の状況を勘案しますと、外出をしないで自宅や事務所など屋内に待機するようにしていただきたい。」

 16日の私の記述「第三号機と第四号機の使用済核燃料を貯蔵するプール付近で白煙が上がり、火災が発生した。第三号機では爆発で既に建屋の屋上が吹き飛んでいる。他方、第四号機の方もやはり爆発が起こっているが、建屋の横のちょうどプール付近に穴が開いているという違いがある。この二つの原子炉から約1キロメートル離れた正門周辺では、この白煙と火災の発生で午後0時半には、放射線量が1時間当たり10ミリシーベルトを超えた。その後は午後4時20分になると1.4ミリシーベルトまで低下した。いずれにせよ、この二つの原子炉が差しあたり緊急の手当てが必要である。そういうことで、自衛隊のヘリコプターが山火事の消火の要領で、水を吊り上げて空から投下することになった。一度に7トン程度の水を浴びせることができるという。この非常手段は、屋根が壊れている第三号機について、特に効果があると思われる。何が幸いするか、わからないとはこのことだ。そういうことで、自衛隊のヘリコプターが現場から20キロメートル離れている基地から発進したという報道があり、大いに期待した。ところが、現場上空の放射能を測定した観測ヘリコプターによれば、自衛隊員に認められている許容限度の50ミリシーベルトの4倍という、予想をはるかに上回る放射能が観測されたとして、水の投下が中止されてしまった。これで私も大いに落胆したひとりであるが、報道によると、もともと自衛隊は地上からの放水の方が効果があると主張していたようだ。そのせいかどうかは知らないが、警視庁機動隊の高圧放水車にも出動が指示されたようだ。明日を期待したい。」

 さらに私は書いた。「それにしても、われわれ国民が心から感謝すべきは、この福島原子力発電所の危機に際して、現場で献身的に必死に努力している作業員、自衛隊員、警察官などの皆さんである。特に命がけなのは、原子力発電所のサイトでコントロールしようとしている東京電力の作業員の皆さんである。放射能レベルが上がっているから、中央制御室からは退避せざるを得ない状態で、そのために電気が切れて真っ暗な中を制御室まで走っていって計器の数値を確認して何とか対処しているという。また、弁を開けて高温高圧の蒸気を外に逃すといっても、これはあの危険な原子炉の建屋内で、真っ暗な中で手作業で行ったそうだ。我が身への危険を省みずに実に困難な作業を行う、まさに英雄的な行為ではないだろうか。」 いや、本当にそう思っていた。たまたまこの日は決心がつかなかったようだが、明日こそは必ず、自衛隊のヘリコプターが海水を投下してくれるに違いないと、祈るような気持ちでいた。

 そして、翌17日となった。私の記述は次のとおりである。「本日17日の午前、テレビを見ていると、自衛隊のヘリコプターが第三号機と第四号機に対して水を落とした。隊員に防護服を着てもらい。かつヘリコプターの床にタングステンの板を引いているらしい。放射線の遮蔽効果があるようだ。ただ、ホバリングせずに通過しつつ上空から水を落とすというスタイルなので、どうしても正確さは劣る。私が見ていた限りでは、5分の1くらいしか入らなかった。一回が7トン半ということだが、当初期待していたような効果はなかったかもしれない。次いで、午後7時半過ぎには、警視庁の機動隊放水車が原子炉から30メートルの距離に近づき、高圧で放水を行おうとした。一回の放水は4トンで、かかる時間はたった1分という計画だったが、放水は届かず、放射能の値が高いといって、撤退してしまった。そんなことで良いのかといいたいところだが、隊員の健康にも配慮しなければならない。だいたい、ひとつの使用済核燃料の貯蔵プールの水の量は、1450トンらしい。その全部の量の水は必要ないとしても、千トン単位の水は必要だろう。それなのに、わずか何十トンの水の20%程度が入ったところで、そんなものは、まるで蟷螂の斧ではないか。もう、本当に打つ手はないのか・・・映画タワーリング・インフェルノで消防隊長を演じたスチーブ・マックィーンのようなヒーローは、今の日本では期待できないだろうな・・・。これからは、まるで人類未知の世界となる。魔王に支配されるか、それとも菩薩が微笑むか、そのどちらかである。」 このときの焦燥感と絶望感は、まだよく覚えている。

 18日も、状況はあまり変わらない。「福島第一原子力発電所・・・第三号機と第四号機は、既に水素爆発や火災を起こして建屋が見るも無惨に損壊している。東京電力が飛行機を飛ばして上空から確認したところ、第四号機の使用済核燃料の貯蔵プールには水が残っていることがわかった。そこでこの日は、第三号機への注水が優先された。自衛隊は、この日は地上から50トンの海水を放水した。警察の機動隊の高圧放水車も、車内の4トンの水に加えて貯水してあった40トンの水も放水したが、直後に隊員が身につけている放射線の線量計が警報を発したので、あわてて退避したそうだ(あとから、誤報とわかる)。ああ、こんな体たらくでは、とても持たない。焦燥感が強くなる。タイムマシンでひとっ飛びして、昔の日本陸軍の爆弾三勇士でも連れてきたいものだ・・・」

 やっと19日になって、劇的な展開があった。私は、いささか興奮してこのように書いている「出た、出た、やっと出てくれた。今回の大事故を救ってくれるスーパー・ヒーローだ。東京消防庁の緊急消防援助隊のことである。福島第一原子力発電所の第三号機に対し、地上22メートルのところから放水できる屈折放水塔車を使って、10時間で推定千トン強もの海水を、地上から放水でぶち込んでくれた、佐藤康雄警防部長、ハイパーレスキュー隊の富岡豊彦総括隊長と高山幸夫総括隊長の三人が福島の現場から帰ってきて、千代田区の東京消防庁で19日夜に記者会見を行った。佐藤部長以下は「非常に難しい危険な任務だったが、国民の皆さんの期待されるところをある程度達成することができた」と語った。それによると、3月11日には都内で51件の火災があり、それに対応していた。その一方、今回のような核(N)事案があるのではないかと机上で研究し、16日には荒川で色々な状況を想定して訓練を行っていたという。これは、すごい、用意周到だ。さすがプロだと感じ入った。そして、いよいよ石原知事から出動命令があったとき、家に帰る時間がないので奥さんにメールを送ったそうだ。これから、福島へ行ってくる』と。すると部長の奥さんは『日本の救世主になってください』と一行の返事を寄越してくれたそうな。奥さんも偉い。こういうヒーローやヒロインがいてくれないと、こんな修羅場は収められない。ちなみに、被爆をなるべく押さえるために、最初は機械でホースを展開する予定だったが、いざ現場に行くと地震、津波、爆発による瓦礫が散乱していて車が通れないことがわかった。そこで隊員が自らの被爆を顧みずに外へ出て、人力でホースを展開したそうだ。私は大いに感激した。われわれ日本国民は、この英雄的行為に深く感謝しなければならない。」

 これにより、状況は明らかに改善するようになった。私の記録では、「原子力安全保安院によると、東京消防庁のハイパーレスキュー隊の大量放水によると思われるが、3343マイクロシーベルトだったものが、その後7時間経った時点で2906マイクロシーベルトと、500マイクロシーベルトも改善された。なお、これとは別に、第五号機について新たに非常用冷却ポンプが回復した。すると、その使用済核燃料貯蔵プールの温度は、その直前には摂氏68.8度だったものが48.1度と、20度以上も下がった。また、これに引き続いて第六号機についても、現在は67度であるが、冷却を開始し始めた。悪くなる一方だった原子炉の状況が、少しは好転してきている模様だ。」

 この頃をターニング・ポイントとして、それまでこの世の終わりに向けて一直線に落ちていく一方だった日本の運命を示す折れ線グラフが、ようやく上向きになってきた。上に掲げた私の日記には、その安堵した様子が描かれている。しかし、私にはひとつだけ腑に落ちないことがあった。空焚き状態だった第四号機の使用済み核燃料プールに、なぜ水が残っていたのかという点である。プールの中の水は冷却されないままでいたから、とうの昔に蒸発してなくなっているはずだった。そうなると、最悪の場合は(専門家はないというが)再臨界となりうるし、そうでなくとも崩壊熱で2000度を超す高温となって溶け出し、それが爆発的に周囲に飛び散る。もとよりこの使用済み核燃料は、格納容器内ではなく原子炉建屋の中にある単なるプールに入っていたもので、しかもその建屋自体が爆発して何の遮蔽もできていない。だから、周囲に使用済み核燃料の溶解したものが飛び散るということは、原子炉の中身を空中に向かって放り出すことに等しい。こうなってしまうと、チェルノブイリ事故とまったく同じことになり、その結果、福島第一原子力発電所には近づけなくなる。すると当然、福島第二原子力発電所にも人間が近づけなくなる状況に早晩追い込まれ、その後は悪魔の連鎖となって、もはや最後のシナリオに向かって一直線に落下していくしかない。ところが、ここで日本に神風が吹いたのである。

 事故から50日目に、私はこう書いている「福島第一原子力発電所の第四号機において、3月15日にどういうことが起こっていたのかにつき、誠に興味深い記事が載っていた。これが本当だとしたら、我々日本人は、ごくごく危ない道を渡りながら、ほとんど信じられないほどの幸運に恵まれて、かろうじて無事だったということになる。鎌倉時代の元寇に際して吹いた、神風のようなものである。それはどういうことかというと、次のような出来事だったらしい。3月11日の地震と津波で冷却機能が失われた。すると、使用済み核燃料貯蔵プールから、使用済み核燃料棒が次第に露出してきて、まさに燃料の溶融が起き始めようとしていた。その直前には、露出した燃料棒を覆う金属ジルコニウムが高温となり、水と反応して水素が次々に生成された。その水素が建屋内に溜まり、思いがけず水素爆発が起こった。かなり激しいもので、建屋の上部が吹き飛んでしまった。すると、その爆発の衝撃で、隣のスペースとの間の壁となっていたゲートが壊れ、たまたま隣(原子炉ウェル)に入れてあった数百トンもの水が貯蔵プールに流れ込んだ。そのような偶然によって、貯蔵プール内の使用済み核燃料棒が再び水に覆われ、結果的にそれが冷却機能を発揮し、燃料の溶融が止まったというのである。この第四号機は、第一号機から第三号機までと違って、定期点検中だったので、原子炉圧力容器から核燃料棒が搬出されていた。したがって原子炉圧力容器は空っぽとなっていたのだが、燃料棒を空気に触れさせずに移動させるために、たまたま原子炉圧力容器とその上の原子炉ウェル全体を水で満たしていたのである。だから、その水をせき止めていた壁に当たるゲートが水素爆発で「運良く」破損したために、その中の数百トンにのぼる水が隣の使用済み核燃料貯蔵プール内に流入し、それが溶融を止めたというわけである。この都合の良いハプニングがなかったら、1331本の使用済み核燃料棒が入っていた貯蔵プールが加熱して燃料棒の溶融を起こし、文字通りのメルト・ダウンになっていたものと考えられる。そうなると、チェルノブイリ事故のような水蒸気爆発を起こして、放射性物質が大量に世界中にまき散らされただろう。それだけでなく、冷却手段を失った第一号機から第三号機までの原子炉でも使用済み核燃料棒貯蔵プールで同じようなことが起こっただけでなく、原子炉本体に入っている核燃料棒すべてについても、また同じことになっていたはずである。」 これと全く同じことを官邸のスタッフのひとりも感じたらしく、民間事故調報告書によれば、この国にはやっぱり神様がついていると心から思った」(p119)と語っていたそうだ。まさに同感である。

 なお、この偶然について、今年の3月になって、新聞にもう少し詳しい解説が載っていた。それを要約すると、神風にも当たる嬉しい誤算は2つあったという。それは、震災直後の工事の不手際と、思いがけない仕切り壁のずれである。まず前者の方は、原子炉真上の原子炉ウェルという部分を取り換えるという大きな工事が行われていて、そのために原子炉真上の部分に水が貯められていた。放射能を帯びたシュラウドという大型構造物を切断して解体するときに無用な被ばくをしないように、水を放射能の遮蔽に使うためである。その原子炉真上の部分の隣にあるDSピットという部分にも仕切り壁を作って、シュラウドを解体した後はそこへ水を移して原子炉真上の部分からは水を抜くことになっていた。シュラウドの解体が終わったので、2011年3月7日までに水を移すはずだったが、補助器具の寸法違いのために工事が遅れ、震災が起こった3月11日時点では、水を張ったままにしておかれた。これが第一の幸運である。次に後者の方であるが、DSピットの反対側には使用済み核燃料貯蔵プールがあって、やはり仕切り壁で仕切られていて、プールの位置は原子炉ウェルよりも低かった。これがポイントである。そして、原因は地震のせいか、それとも第四号機が爆発したせいかはよくわからないが、仕切り壁がずれて、原子炉ウェル側からプール側へと、およそ1000トンにも及ぶ水が流れ込んだ。これこそが第二の幸運となったということである。これが崩壊熱で加熱されて蒸発したとみられるプールの水を補い、さらに3月20日からは、外部から放水することで、間断なく供給されたものだといわれている。まさに、紙一重だったと思う。




(2012年 3月18日記)


カテゴリ:エッセイ | 16:41 | - | - | - |
徒然223.東日本大震災から1周年

東日本大震災1周年追悼式



 今日は3月11日、あの東日本大震災が発生した日から、ちょうど1年が経った。東京では午後2時から三宅坂の国立劇場で、天皇皇后両陛下ご臨席の下、厳粛な追悼式がとり行われた。野田佳彦首相をはじめとする三権の長、衆参両議院議員、政府関係者、各国代表団、都道府県知事、被災者代表の方々が参加した。とりわけ、天皇陛下におかれては、心臓バイパスの手術後、つい1週間前に退院されたばかりだというのに、強いご意思でこの式にご出席され、しかも実に明瞭なお声でおことばを述べられたことから、出席者一同の間に、静かな深い感動の波が広がるのを感じた次第である。





【天皇陛下のおことば】

 東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

 1年前の今日、思いもがけない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。

 また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくよう、たゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。





【野田佳彦内閣総理大臣式辞】

  本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、東日本大震災一周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。多くの尊い命が一時に失われ、広範な国土に甚大な被害をもたらした東日本大震災の発生から、一年の歳月を経ました。亡くなられた方々の無念さ、最愛の家族を失われた御遺族の皆様の深い悲しみに思いを致しますと、悲痛の念に堪えません。ここに衷心より哀悼の意を表します。また、今もなお行方の分からない方々の御家族を始め、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。亡くなられた方々の御霊に報い、その御遺志を継いでいくためにも、本日、ここに三つのことをお誓いいたします。

 一つ目は、被災地の復興を一日も早く成し遂げることです。今もなお、多くの方々が、不自由な生活を余儀なくされています。そうした皆様の生活の再建を進めるとともに、生まれ育ったふるさとをより安全で住みよい街として再生させようとする被災地の取組に最大限の支援を行ってまいります。原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします。


 二つ目は、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくことです。自然災害が頻発する日本列島に生きる私たちは、大震災で得られた教訓や知見を、後世に伝承していかなければなりません。今般の教訓を踏まえた全国的な災害対策の強化を早急に進めてまいります。

 三つ目は、私たちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないことです。被災地の復興には、これからも、震災発生直後と同様に、被災地以外の方々の支えが欠かせません。また、海外からの温かい支援に「恩返し」するためにも、国際社会への積極的な貢献に努めていかなければなりません。我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、より逞しく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて、「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしてまいります。

 結びに、改めて、永遠に御霊の安らかならんことをお祈り申し上げるとともに、御遺族の皆様の御平安を切に祈念して、私の式辞といたします。





 その後、ご遺族代表の方々のことばがあり、岩手、宮城、福島の三県を代表する3人の皆さんが、それぞれの悲しい体験を話されたのである。そのひとつひとつが肉親との別れの悲しい言葉で、参加者の胸に大いに響くものがあった。今回の東日本大震災による被害を数えてみると、死者数1万5854人、行方不明者3155人、避難者数34万3935人、建物全半壊38万3246戸であるが、この数字の陰には、それだけの数の悲劇があると、改めて思い知らされたものである。

 ご遺族代表の3人の中で、宮城県の奥田江利子さんの話は、特に参加者の胸を打った。その語られたところによると、両親と23歳の息子さん、それに9歳のお嬢さんを亡くされたそうだ。その息子さんというのは、大震災の直前に結婚式を挙げて、昨年3月11日の大震災当日がその届出の日だった。大地震が起こり、そこで息子さんは、海からほんの数メートルのところにある避難所へ肉親を捜しに行った。そこへ大津波が襲い掛かり、避難所の近くでご遺体が発見された。その体にすがって、身重のお嫁さんが泣きに泣き、江利子さんご自身も一時は生きていく意味がないと思い詰めたという。ところが昨年7月にお孫さんが生まれ、順調に育っているようで、その子の世話が生き甲斐だというのである。

 これを聞いて、私は目頭が熱くなったが、私の隣に座っていた政府高官も、眼鏡を外してしきりにハンカチで目の当たりを拭いていたほどであった。




(2012年 3月11日記)


カテゴリ:徒然の記 | 22:15 | - | - | - |
徒然222.桃の節句の吊るし飾り

京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り



 ひな祭りは、娘を持つ家庭でその健やかな成長を祈って祝うものである。我が家にも娘がいたものだから、その健康とおしとやかな成長を願い、お内裏様とお雛様、三人官女と五人囃子などがコンパクトに入ったガラスケースを銀座のデパートで買ってきた。今から30年以上も前のことである。そして、毎年この季節になると、そのケースについていたオルゴールを鳴らして、「〜 五人囃子の笛太鼓、きょうは楽しいひな祭り 〜」などと一緒に歌ったものである。呑気でのどかな時代だった。ちなみにこのケースは、外国に住んだ時にも持って行ったほど気に入っていたが、娘の結婚を機に、お内裏様とお雛様だけを除いて、処分してしまった。その娘に生まれた我々のたったひとりの孫は、男の子だから、それ以来、このひな祭りの歌を家で聞く機会もない。

京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り



 そんなわけでもないが、新宿の京王プラザホテルで、「女性のためのひなまつり」と題して、江戸時代の稲取温泉で始まった「吊るし飾り」を展示しているということで、家内と一緒にそれを見に行った。ついでに、ひな祭りにちなんだランチもいろいろとあるというのである。着いてみたら、なるほど、ホテルのあちこちに吊るし飾りがたくさん飾ってある。説明を読むと、「これらの吊るし飾りは、江戸時代に稲取温泉で始まりました。その時代の多くの人々は、立派な雛人形が買えるほど裕福ではありませんでしたので、女性たちは一針一針縫って作りました。着物地で手作りされたその小さな人形吊るし飾りは、お雛様の脇に吊るされ飾られました。100種類を超える吊るし飾りには、その娘の成長や将来いいことがたくさんありますようにとの特別な意味があります。40ほどのパーツには、モモや梅、幸せを運ぶウサギ、美しい花などがあります」とのこと。

京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り



 中でも可愛いのは、布団にくるまれた赤ちゃんである。これと、赤い金魚は見飽きない。それに、朝顔や菊の花も、うまく作っている。オウムのような鳥は、色使いがとても綺麗だ。蓮根や人参、キノコもあるし、エビまである。牛に鶏にネズミ、虎や象までいる。おっと、これは金魚のデメキンだ・・・情けない顔つきの甚兵衛さん・・・あらら、こんなものまであるのか。ひとつひとつ、実に面白くて可愛い。それらを夢中で見て、写真に撮り、さあ、ここらでホテルお勧めのひな祭りの食事でもしようかと思った。そうしたところ、なんとまあホテル内のどのレストランも一杯だったのである。仕方なく、そのまま二人ですごすごと帰る羽目となった。そうか、今日は桃の節句のまさにその日だったのである。

京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り


京王プラザホテル、桃の節句の吊るし飾り








 桃の節句の吊るし飾り(写 真)



(2012年 3月3日記)


カテゴリ:徒然の記 | 22:36 | - | - | - |
世界らん展 2012年

面白いパフィオぺディラム


 東京ドームで開かれた世界らん展 2012年に行ってきた。これで世界らん展に行くのは、2001年2005年2008年2010年に次いで5回目であるが、最近では1年おきに通っていることになる。今年は、ディスプレイ審査部門と、フレグランス審査部門がよかった。もちろん、個々の花を展示する審査部門も、いつもの通り素晴らしかったけれど、何回か見ているうちに、本当に良い花しか目に入らなくなったのは、少し残念なような気がするが、一方で目が肥えたのかもしれない。でも、以前から面白いと思っていたパフィオぺディラムの種類が増したようで、その展示コーナーではじっくりと見てしまった。

今年の日本大賞受賞者大塚初枝(茨城県)作出のデンドロビューム属ノビルハツエ


 今年の日本大賞受賞者は、大塚初枝(茨城県)作出のデンドロビューム属ノビル‘ハツエ'ということで、たくさんの花がついていた。確かに、これは豪華絢爛というところである。ところで、この大賞を昨年も含めて3回も受賞したという記録ホルダーで、かつNHKの園芸番組などで懇切丁寧な解説をしていただいた江尻光一氏が昨年の5月にお亡くなりになっていたようだ。心からご冥福をお祈りしたい。

ディスプレイ審査部門


ディスプレイ審査部門


ディスプレイ審査部門


ディスプレイ審査部門


ディスプレイ審査部門


ディスプレイ審査部門



 ところで、フレグランス審査部門では、とても良い蘭の香りがあたり一帯にただよっていて、それを吸い込んだ上に、よせばいいのに、ひとつひとつの蘭の花に自分の鼻を近づけて、またその芳香を体に取り入れてしまった。するとその日の晩から、くしゃみと鼻水に悩まされることになった。これって、花粉症になったのか、それとも単に風邪をひいただけなのか、気になるところである。

【後日談】その後、1週間して症状がほぼ治まってきたから、どうやら風邪だったらしくてほっとした反面、あまりに花の香りを吸い込みすぎて一時的に花粉症になったのではと、今でも疑わしく思っている。

カトレア


カトレア


パフィオぺディラム


パフィオぺディラム


パフィオぺディラム


パフィオぺディラム


ファレノプシス


ファレノプシス


ファレノプシス


ミニチュアディスプレイ審査部門


ミニチュアディスプレイ審査部門



 ところで、この写真集では「その他のラン」としてしまったが、あの儚げな女性を思わせるリカステはともかくとして、私は未だにデンドロビュウム、シンビジュウム、オンジュウムの区別がよくわからない。これに、日本のセッコクなどが加わると、もう途方に暮れるというのが正直なところで、やはり一年おきに世界らん展に来るというくらいでは、この程度かもしれない。実は、その世界らん展でも、カトレア、パティオペディラム、ファレノプシスなどと定番の花を見た後にこれらの花を見ることになるから、もうその頃には疲れ果てていて、詳しく名称を確認する気力が残っていない。

 Web上の図鑑で調べると、デンドロビュウムはこの「その他のラン」中の073と075番の花、シンビジュウムは「その他のラン」中の068と069番の花、オンジュウムは黄色でいっぱい咲いている花で「その他のラン」中の034と035と094番の花であることがわかった。そのほかのランは、その写真を撮るときに併せて脇に於いてあるネームプレートをひとつひとつ撮っていけばいいのだが、それでは撮影に倍の手間がかかるので、大変だ。また、次回の課題にしよう。



リカステ










 世界らん展 2012年(写 真)は、こちら



(2012年 2月24日記)


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