徒然217.サンシャイン水族館

サンシャイン水族館の魚




 サンシャイン水族館(写 真)は、こちらから。


 先般、改装なった池袋のサンシャイン水族館に行って来た。我が家から30分程度と近いが、着いてみるとお客が長蛇の列をなしていた。これは別の機会にしようと思ったほどだが、特に用事もないしと思い直してそのまま30分ほど待っていると、ようやく入館できた。見物客の数が多いので、とても写真をゆっくり撮るどころではない。しかしそれでも、比較的お客さんの数が少ない水槽や、お客さんの波が途切れた瞬間に、何とかシャッターを押すことが出来た。そういうわけで、写真の諸元を考える暇もなかったことから、残念なことに、出来の良い写真はほとんどなかった。それでも、ひとつだけ撮影技術が我ながら進歩したと思うのは、クリオネである。以前、品川水族館で撮ったときには、焦点が合わなくてボケてしまったが、今回は、焦点とシャッタースピードの組み合わせがうまくいった。(絞り値F5.6、シャッタースピード1/20秒、ISOは1600)

 東日本大震災に襲われて散々だった今年も、あと2日。皆様におかれては、来年こそ、良いお年をお迎えください。



サンシャイン水族館のクリオネ


サンシャイン水族館の魚


サンシャイン水族館の魚


サンシャイン水族館のマンボウ


サンシャイン水族館のアジアアロワナ


サンシャイン水族館の魚


サンシャイン水族館の魚


サンシャイン水族館のクマノミ





(2011年12月30日記)


カテゴリ:徒然の記 | 22:01 | - | - | - |
徒然216.宇宙が3次元で誕生する仕組み

高エネルギー加速器研究機構の資料



 超ひも理論は、われわれの世界は10次元から成り、素粒子といわれているものの実体は、実はプランク距離という超微細な世界にある「超ひも」であるというものである。40年前に生まれ、この一見して意表を衝いた理論は、これまで誰もなし得なかったニュートン力学、相対性理論そして量子力学を統合し、物質に働く基本的な4つの力(電磁力、弱い力、強い力及び重力)を統一して説明ができる画期的なものである。しかしながら、「超ひも」があまりにも微細すぎて、それを実験で立証することが誠に困難であった。そのためこの理論は、数学オタクによる単なる計算上の世界として扱われることもしばしばで、その素晴らしい可能性にもかかわらず、物理学界では異端のように扱われてきた。

 ところが、私はおよそ4年ほど前に「超ひも理論をスパコンが検証」という文章を書いたことがあるが、これはブラックホールの蒸発というホーキング博士の理論を、「超ひも理論」の弦つまり「超ひも」の状態をスーパーコンピュータ(スパコン)で計算して立証したという画期的な成果である。これは、実験で立証することが極めて困難な「超ひも理論」について、実験の代わりにスパコンで計算して立証出来る可能性を示唆した初めての事例として、特筆できるものだと考えたからである。

 この研究は、高エネルギー加速器研究機構によるものであるが、それから4年の歳月が流れた今月22日、再び同機構・静岡大学・大阪大学によって、スパコンで「超ひも理論」を立証しようとする新たな研究成果が新聞に掲載された。これは、計算機シミュレーションを用いて、超弦理論の予言する10次元(空間9次元、時間1次元)から3次元空間を持つ宇宙が誕生する様子を解明することに、世界で初めて成功した」というものである。同機構のHPによれば、次の通りである。

【概 要】ビッグバン宇宙論によると、宇宙は約137億年前、目に見えないほどの小さな点から大爆発とともに生まれたと考えられる。この理論は、宇宙背景輻射や元素の組成などの観測データによって強く支持されている。一方、宇宙全体が小さな点であるような状況は、アインシュタインの一般相対性理論の適用限界を超えており、宇宙が実際どのように誕生したかを明らかにすることは、これまで成功していなかった。素粒子の究極理論とされる「超弦理論」においては、すべての素粒子を極めて小さな「弦」の様々な振動のしかたとして表すが、その中には重力を媒介する粒子も含まれ、一般相対性理論を素粒子のスケールまで自然に拡張することができる。このことから超弦理論を用いれば、宇宙誕生の様子を解明できると期待されているが、弦の間に働く相互作用が強いため具体的な計算は難しく、様々なモデルやシナリオに基づく議論がなされる状況がこれまで続いていた。特に、超弦理論においては、9次元の広がりを持つ空間が予言されており、我々の住む3次元空間とどう折り合いがつくのかは、大きな謎だった。今回、西村淳(高エネルギー加速器研究機構・准教授)、土屋麻人(静岡大学・准教授)、金相佑(大阪大学・特任研究員)からなる研究チームは、超弦理論に基づき、宇宙誕生の様子をスーパーコンピュータによってシミュレーションすることに成功した。その結果、宇宙は最初9次元の空間的な広がりを持っていたが、ある時点で3方向だけが膨張し始めることが示された。なお、本研究成果は、米国の科学誌『フィジカル・レビュー・レターズ』に2012年1月6日号(オンライン版1月4日)掲載予定である。

【研究内容】本研究では、弦の相互作用を表す、大きなサイズの行列を効率的に数値計算する手法を確立し、超弦理論に現れる9次元空間の様子が、時間とともにどう変化するかを計算した。
冒頭の図は、9方向の空間的な広がりを、時間の経過に対してプロットしたものである。宇宙の始まりに向かって過去に遡ると、確かに空間は9次元的に広がっているが、ある時点を境にして、3次元方向だけが急速に大きくなることが示された。この結果により、超弦理論の予測する9次元空間から、実際に我々の住む3次元空間が出現することが、世界で初めて解明された。今回の計算には主に、京都大学基礎物理学研究所のスーパーコンピュータ「日立 SR16000」(理論演算性能 90.3テラフロップス)が用いられた。

【本研究の意義】一般相対性理論を素粒子のスケールまで拡張する究極理論として、超弦理論が提唱されてから40年近くになるが、具体的な計算の難しさから、その実在性や有用性は明らかでなかった。本研究成果により、時空の次元の謎に対して新しい理解が得られたことは、超弦理論の実在性を示すものである。また本研究により、コンピュータを用いた超弦理論の新しい解析手法が確立したことは、この理論を様々な問題に応用する可能性を切り開くものである。例えば、宇宙初期に起こったと考えられているインフレーションや、今年のノーベル物理学賞の対象となった宇宙の加速膨張などの理論的解明が挙げられる。また、宇宙観測で示唆される暗黒物質や、LHC実験による発見が期待されるヒッグス粒子など、素粒子理論に残された謎の解明において、超弦理論がさらに発展し、重要な役割を果たすことが期待される。


 超ひも理論を知って私は、理論上の世界は10次元(空間9次元+時間1次元)といっておきながら現実の世界はなぜ空間3次元+時間1次元なのかとかねてより疑問に思っていて、これはそう簡単に解明できないだろうと踏んでいた。ところが、日本のお家芸ともいえるスパコンを使ってそれが世界で初めて解明されるとは、驚くとともに、非常に嬉しい気がしたものである。今回も、西村淳・高エネルギー加速器研究機構准教授を中心とした成果である。

 折しも、スイス・ジュネーブに設置されたCERN(ヨーロッパ合同原子核研究機関)の加速器LHCを使った実験によって、ヒッグス粒子が近く発見されそうな時期である。日米欧の研究者が参加した「アトラス」と、欧米の研究者が中心の「CMS」の2つの独立したグループが、ほぼ同一のエネルギー幅のところでそれぞれ98.9%の確率でそういう粒子が存在しそうだと一致したのである。その確率を99・9999%以上まで上げることが出来れば、おそらく来年中には正式な発見と認められるものと期待されている。このヒッグス粒子が発見によって、素粒子学のいわゆる標準理論の正しさが立証されたことになり、超ひも理論も新たな方向に展開していくものと期待されている。



(2011年12月25日記)


カテゴリ:徒然の記 | 21:41 | - | - | - |
iPhone4Sを購入

 12月10日、ついに私もiPhone4Sホワイトを買ってしまった。それまで使っていたiPhone4は、家内に進呈した。というのは、ソフトバンクがiPhone家族無料キャンペーンというのをやっていて、iPhone4からiPhone4Sへ機種変更し、従来使っていたiPhone4を家族がそのまま使う場合、100MBまで無料、最大月4980円の定額になるというのである。その代わり、従来から家内が使っていた電話番号は使えなくなる。これが難点ではあるが、iPhone4を使うチャンスだと言って、家内に頼んで実現した。その代わり、家内の電話帳をiPhone4に打ち込み、同時に家族に対して変更のお知らせメールを送るというお仕事を仰せつかったが、これくらいはお安いご用で朝飯前とばかりに、嬉々として処理した。

 ソフトバンクのショップに行ったところ、さほど待たずに応対してくれて、パソコンを通じて手続きをしていただいた。iPhone4Sの在庫があるかどうか確認するというので、見てもらったところ、64ギガのホワイトならあった。そこで、すぐその場で入手することができた。ところが、家に帰って気づいたことは、iTunesによるバックアップを前々日に行っていたものの、昨日にも少し変更を加えているので、それを復元できないのは困るということで、試しにiCloudによる復元を試みることにした。

 それでiCloudによる復元を開始したのだが、これがまたスピードが遅くて遅くて、午後2時から翌日明け方の午前5時頃までかかってしまった。たった3ギガ程度なのに、どうしたことだと思った。全世界からアップルのデータセンターにアクセスが集中しているのが原因なのかとも考えるが、詳しいことはわからない。でも、ともあれ復元が終わったので、確認してみたところ、アプリのデータを始めその並び方まで、完全に元通りとなっていた。それは良いのだが、音楽データやビデオのデータはiCloudによるバックアップの対象外である。これらは、iTunesから復元した。

 早速、iPhone4Sを使ってみた。反応は早いし、特段の問題はない。今まで使っていたカバーもそのまま使える。強いて言えば、バッテリーの減り方が尋常ではないほどの早さであるが、暇になったらアプリの設定を再検討してみようと思う。オペレーション・システムとしては、iOS5を使ってきたからiPhone4Sのほとんどの機能を知っているが、Siriだけは出来なかった。そこで試してみたら、まあちゃんと反応してくれて、こちらの言うこともわかるようだ。ただ、時々「I don't quite understand what you said.」などと言われるのが口惜しい。特に「quite」なんて言われるよりは、「もっと正しい発音でしゃべってください」と言われた方が、マシかもしれない。まあ、それはともかく、毎日、この人口知能と妙な英語の会話を楽しんでいる。来年には、日本語版を出すとマイクロソフトの幹部がテレビで語っていたから、とても待ち遠しい。そうなったら、面白い会話をして、皆さんにも紹介したいと思っている。来年は、期待の持てる年になりそうだ。



(2011年12月18日追記)


カテゴリ:エッセイ | 22:52 | - | - | - |
火山ブログが噴火

福島第一原発から漏れた放射能の広がり図



 もう今年の暮れまで、あと2週間というところに来ている。それにしても、今年の3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災は、本当に災難だった。この地震とその直後に東北各地の太平洋岸を襲った大津波で、約1万6000人の人が亡くなった。これは大震災による直接的な被害というものだが、それだけでなく、その津波で全電源が喪失した東京電力福島第一原子力発電所の原子力事故には、全国民が震え上がった。全部で6基の原子炉のうち、無事だったのはたった二つで、残る4基のうち三つがひどい水素爆発を起こした。高温となった炉心の溶融が止まらずに、メルト・ダウンを起こした模様であるが、映画で有名となったチャイナ・シンドロームにまで至るのではないかと本当に心配した。これは、消防、自衛隊、警察などの必死の注水作業で何とか回避され、その後の東京電力やその協力会社の作業員の皆さんの献身的なご努力で、事故から9ヶ月経った12月16日に冷温停止状態となったと発表されている。これらの事故収束に当たられた皆さんは、全員が「フクシマ」の英雄として、東北や関東地方の人々のみならず日本国民のすべてが深く深く感謝しなければならないと思っている。

福島第一原発から漏れた放射能汚染ルートとタイミング


2011福島放射能汚染の日時



 ところで、この原子力事故が起こるまで、私はもちろんのこと、一般の国民で原子炉の構造や仮に事故が発生したときの漏れ出た放射性物質の挙動について詳しい人は、まずいなかったと思う。ましてや事故直後の放射能の拡散状況など知る由もなかったことから、それだけに事故発生と聞いて汚染がどのように、どこまで広がるのかとても心配になった。しかも当時入手できたのはチェルノブイリ事故の際の放射能拡散地図のみであり、政府から何の発表もないこともあって、疑心暗鬼になったりしたものである。文部科学省が緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)という予測システムを持っていたのだから、もっと早くタイムリーに公表すべきだった。

福島とチェルノブイリ事故との比較



 そのような状況にあった本年4月初旬頃、たまたま眼にしたウェブ・サイトのひとつが、群馬大学の早川由紀夫教授が開設をされている「火山ブログ」であった。これには、こう書かれている。「私は火山の地質学が専門です。そのなかでも、噴火によって火山から吐き出される火山灰の分布に強い関心をもっています。東京電力福島第一原子力発電所から放出された放射能の分布は、火山灰に関する私の専門知識を応用してうまく理解することができます」・・・ということで、それ以来、原発事故直後のあの騒然たる混乱状態の中、東京電力福島第一原子力発電所から漏れ出た放射能の挙動とその汚染状況について、詳細な情報を提供していただいた。その当時、私などは、放射能汚染の知識など全く持ち合わせていないことから、この早川教授のブログはあたかも暗闇の中で一筋の光を見つけたようなもので、たいへん助かったものである。ちなみにその情報は、最近、文部科学省によって航空機を使って測定が行われた放射能汚染地図ともよく一致しており、その正しさが裏付けられている。

文部科学省測定の放射能汚染地図



 そのようなことで、放射能汚染の拡散状況が問題となった本年4〜5月頃には、私はこの「火山ブログ」をしばしば見させていただいたが、のど元過ぎればのことわざ通り、特に危機が去ったこの夏以降は、とんと忘れていた。ところが12月7日になって群馬大学がこの早川由紀夫教授のツイッターについて、「福島県の被災者や農家に対する配慮を著しく欠く不適切な発言」があったとして処分をしたという新聞記事が載った。それらを総合してみると、たとえば「セシウムまみれの干し草を牛に与えて毒牛をつくる行為も、セシウムまみれの水田で稲を育てて毒米つくる行為も、サリンつくったオウム信者がしたことと同じだ。福島県の農家はいま日本社会に向けて銃弾を打ってる。」と書き込んだ(7月11日)そうだ。

 その部分について早川教授はメディアのインタビューで、「自分や家族の健康のために、福島の米は食べるべきではないから、福島では米そのものを作るべきでない」ということをおっしゃりたかったそうだ。

 まあ、それはそうかもしれないが、まず批判されるべきは原因者たる東京電力と、それに対する監督が不十分だった原子力安全・保安院の国である。その上で、福島の農家は、最大の被害者であるから、そういういわば最も弱くかつ可哀想な立場の方々をダイレクトに批判するのはよろしくないと思う。ただ、消費者としては万が一にも健康被害を生じさせるような食物は食べたくないと思うのは当たり前のことだから、国の基準を上回る米がないかどうか、国や福島県は消費者に代わって常に監視していなければならない。

 ところが12月に入って福島県旧渋川村の農家1戸の米から、国の暫定基準値(1キログラム当たり)500ベクレルを超える780ベクレルの放射性セシウムが検出された。しかし、その前月の11月12日、福島県は今年の新米を対象にした放射性セシウムの本検査を行っていた。そして県内1174地点すべての検体で国の暫定規制値500ベクレルを下回ったと発表していたのである。あまつさえ福島県知事は、この結果に基づいて県産米について「福島県のコメの安全性が確保された」と堂々と安全宣言を出したほどである。ところが結局、この汚染の発覚で政府は12月5日、原子力災害対策特別措置法に基づき、福島県に対し、福島市の旧福島市全域の2011年産米を出荷停止とするよう指示をした。そのときテレビで見た福島県のある農家の奥様の発言が忘れられない。「(県による)あんなたった2つくらいのおざなりなサンプル調査で大丈夫かと思ったけど、やっぱりねぇ・・・」。そうそう、私などはこういうことが十分あり得ることだろうなと思っていた。

 こういう場合、国や県当局は、農家や生産者の立場だけでなく、消費者の立場に立ってしっかりと検査や調査をすべきである。特に消費者の信頼を確保するためには、公平で信頼性のある調査でなければならない。私がいささか驚いたのは、今年5月の頃の静岡県知事の態度だった。その頃、神奈川県の足柄産のお茶で、暫定基準値を超える放射性セシウムがあるものが見つかり、出荷停止となった。ところが静岡県は、「茶葉をそのまま食用にすることはほとんどない」として、当初は検査すらしない・・・いや、したくないなどと知事が発言していたからである。静岡県のお茶生産者を保護する立場からはそう思うのは当然かもしれないが、消費者保護の立場をすっかり忘れているのではないか。すなわち、消費者としては基準値を超えるお茶などを飲みたくないのは当然であるから、この知事の発想は見方を変えると全国の消費者の立場を全く考慮していないことになる。全国の消費者は、どの産地のお茶を飲むかの選択権を持っている。だから、県当局がいつまでもそういう考え方でいると、全国の消費者は、そんな生産者寄りの怪しげでおざなりな監督を行っているような県のお茶は、黙っても避けようとするから、自ずとそういう産地のお茶の消費が減っていくと考えるのが普通だろう。知事は、もっと深く考えて、そういうことにまず思いを巡らすべきである。

 今回の東京電力福島第一原子力発電所の事故では、このお茶農家のように、事故の最大の被害者が、結果的にではあるが実は消費者への加害者に転じてしまってその信頼を失うという、誠に皮肉なアンビバレントな状況にある。いわば、トランプのゲームで嫌われ者のババを引いてしまって、さあどうしようかと考えるようなものである。その結果、生産者側に立つか、消費者に立つかで見方は180度異なってしまう。その中で早川教授が消費者の立場に立って、ババを引いた人(生産者)がそれを隣の人(消費者)に押しつけようとするのは怪しかぬことだとばかりに、いささか過激で不穏当な発言をしたことから、世の物議を醸したというのが今回の事件の真相のようである。そこで私は思うのであるから、早川教授におかれては、他の研究機関や学者の追随を許さないような実証データに基づく素晴らしい地図を作成され、それを適切な時期に世の中に提供するという立派なことをされたのであるから、まずはこの客観的データの解釈をそれぞれの国民に任せてはどうであろうかと思うのである。

福島第一原発から漏れた放射能の広がりおでかけ地図



 つまり消費者で少しでも放射性物質の影響を受けている作物は食べたくないという人は、この地図を見てそういう産地は避けるとよい。私のように、もう歳だからどうでもよいと思う人は、そんなものは全く気にしないで何でも食べればよい。一方、農家で放射線量の高い地域で営農されている方にとっては、米などの農作物を作るな売るなと言われるのは断腸の思いではあろう。しかしながらさりとて、国の暫定基準値を越える米を消費者に対して売ることは、消費者の信頼を裏切り、結果的に当該産地の信頼性を大きく損ねることになる。だから、そういう米はむしろ作るべきではなく、手間ではあるが、原因者である東京電力に求償するという道を選択すべきだというのが私の意見である。つまり農家の方々は、これまで営々として続けてきた農業を当分続けることが出来ないという被害者であることは十分に承知しているが、その反面、放射線量が高い作物をそのまま作って消費者にいわば2次被害のようなものを与えるというのも、これは生産者として厳に慎むべきことである。早川教授も、この部分をおっしゃりたかったのだとは思うが、その際にサリンだのオウムだのと表現したのは、確かにいささか穏当を欠いたものではないかと考える次第である。




(2011年12月18日記)



カテゴリ:エッセイ | 01:14 | - | - | - |
東京モーターショー

ニッサンの車



 モーターショーなるものに、初めて行って来た。場所が東京ビックサイトだったから、我が家から40分ほどで着く。これなら手軽に行けそうだと思って、インターネットで前売り券を購入し、それを印刷して持って行った。ところが行ったのは土曜日の朝で、もうすごい人の波である。見渡す限りの人、人、人で、先々週の秩父の夜祭りどころではない。それでも、まだ午前中は車そのものを見る余裕があった。ところがお昼を過ぎてからは大変な混雑ぶりで、いやはや大変だった。後から新聞を見ると、前回2009年には61万4400人の入場者だったものが、今回は84万2600人と、4割ほど増えたそうだ。昔は幕張メッセでの開催だったが今回は東京開催で、場所が違うとはいえ、これほど込み合うとは思っていなかった。

ポルシェの車



 人並みに押されるようにして最初に向かったのが、たまたま「東」館であった。会場に入ると、いきなり近未来の風景が目に飛び込んできた。モデルさんたち4人が銀色の服に銀髪をし、それだけでなくご丁寧にその眼にも銀のラメを付け、スポーツ・カーの脇でポーズをとっている。二人ずつ組みになって動いて、スポーツ・カーの前後に来たら、腰をひねり、腕を輪のようにしてポーズを決める。数分したらまた動いて、別の場所で同じようなポーズをとる。これは面白いと思ってカメラを向けてしばしの間、シャッターを切り続けた。はて、これはどこのメーカーかと思ったら、ポルシェである。なるほど、確かにこれは、先進的なイメージが出ている。

三菱自動車


 そこを出て再び人の流れに身を任せると、「Mitsubishi Motors」と赤い文字の看板が出ている三菱自動車のコーナーにたどり着いた。ステージの前には、11時からショーが始まると書いてある。あと数分だと思って待っていると、軽快な音楽に合わせて、まずモデルさんたちが出てきて、車の脇で楽しそうにポーズをする。よく見ていると、そのモデルさんによっては、いかにも楽しそうな自然の笑顔を見せる人と、必ずしもそうではなく、文字通り商売用に無理して作った笑顔でやっている人など色々といて、ひとりひとりの個性が出ているから面白い。ひときわ音楽が大きくなり、正面に4人組が出てきた。黒人で短髪の男性、白人でいかにもイタリー人らしき軽い感じの男性、やや太っちょの黒人女性、それから帽子をかぶった日本人らしき小柄な女性シンガーという組み合わせである。どうにも統一感のないこのカルテットだが、まあそれなりに楽しそうに演じていて、ややチャランポランな感じが、電気自動車でミーブという名のこの会社が売りたい車のイメージに合っている気がした。つまり、消費者としては、現在の電気自動車については、走行途中でバッテリーが切れたらどうしようか・・・値段はまだまだ高いな・・・それに、車体がやけに小さいな・・・などと色々と気になるものだが、まあ、そんなことは気にしないで、ともかく楽しく乗ろうよなどと訴えかけているような感じなのである。大丈夫かな・・・。

三菱自動車


三菱自動車



 しばらく歩くと、鈴木自動車のコーナーに来た。これは、ある意味ではわかりやすくて、オレンジ色のカタツムリのような電気自動車を売ろうとしているようだ。その脇に若い美人のモデルさんを2人配し、かつまた和風美人のモデルさんも加えて、ちょっとお歳を召した人に対してもまるで「この車は良いですよ、ひとつどうですか」などと言っているかのようである。それをカメラで追っていくと、素人カメラマンとしては、専らモデルさんばかり撮して、肝心の車にはあまり注意を払わなかった。それもそうで、このモデルさんがいて初めて車が魅力的に映るのであって、このモデルさんたちを除いてしまったら、車はただの動く鉄の箱となるに違いない。ああ、なるほど、これがモーターショーの本質なのかと思い当たった。

スズキ


ススギ



 さて次に、ホンダの展示ブースに来た。ああ、やっている、やっている。さっそくアシモが活躍しているではないか。歩き方も、両腕や手首の動かし方も、昔よりはるかに滑らかになっている。ただ、へっぴり腰気味に歩く癖は、直っていない。でもまあ、ヒューマノイド型ロボットとしてこれだけの性能があれば、もう十分である。そして次に、いかにもホンダらしいショーが始まった。いささか軽いノリの若い人たちがたくさん出てきて、いずれもツナギ(みたいな)作業服を着て、トルコ帽のようなややトッポイ感じの帽子をかぶり、いかにも楽しそうに小型車や小型バイクを乗り回している。ああ、これこれ、これがホンダに対して私の抱くイメージそのものである。確か、本田宗一郎も、町のバイク屋のおやじよろしく、いつもこんな感じの自動車修理工さん風のツナギの作業服を着ていたっけ・・・つい、昔のことを思い出してしまった。

アシモ


ホンダ


ホンダ


ホンダ



 ホンダの展示ブースの前には、ヤマハのバイクがあった。この会社は、スノーモービルなども作っているようで、間近にこれを見たのは、初めてである。日立製作所のブースがあったが、いったい何を訴えたいのか、さっぱりわからなかった。およそ、この会場の雰囲気とはかけ離れている。これは広報が下手としか言いようがない。次のふそうの展示も、何か場違いのような気がした。というのは、例の大型トラックがドーンと停めてあって、その脇で高校生のようなモデルさんが、片方の手の平をはいどうぞとばかりに上へ向けている。およそ、本人も、どうやってこの大きな車の脇でポーズをとろうかと迷った挙句のスタイルらしい。あまりのアンバランスさに、思わず笑えてきた。これならいっそのこと、その大型トラックに蝉のごとく取りついてしまった方が、話題の提供になったかもしれない。

ふそう



 メルセデス・ベンツの展示場では、小型車A-Classのコンセプト・モデルがあった。恰好はよろしいが、側面の窓が小さすぎるような気がする。やはり、そもそもベンツという商標と小型車にはそぐわないのではないだろうか。昔の経験だが、ベンツという車は、ヨーロッパで生まれただけあって、やや中距離以上を行くには、あの背中のクッションの固さが心地よい。ところが市内をちょこちょこ走るには、トヨタのクッションの方が柔らかくて体に合う。ただこれは、長距離を車に乗っている場合には背中が痛くなり腰痛を引き起こす原因ともなりかねず、諸刃の刃ということになる。まあどういう風にその車を使いたいかということによるものだ。

ニッサンの車


ニッサンの車


ニッサンの車


 ニッサンのコーナーに来た。ステージの上には、未来型とでもいおうか、私にとっては妙な昆虫の形に思える数々の電気自動車ばかりが並べてある。リーフという名がつけられているものの、眼のように見えるライトが左右に突き出しているような車は、まさに虫そのもので、まるで漫画に描かれる車のようだ。いささか気味の悪さを感じているところに、軽やかな音楽が流れて、普段着のモデルさんというか俳優さんたち、若い男女の皆さんが出てきて、ピョンピョン跳ねながらステージ狭しと動き回る。これは面白いと、写真に撮ろうとするのだが、照明は次々に色を変えるし、モデルさんたちは動き回るしで、非常に撮りにくい。それでも、何枚かは見られる写真となった。やれやれと思って振り返ると、ニッサンの向かいには親会社ルノーのブースがあり、オレンジ色のガル・ウィングつまり扉が上に向かって開くスタイルの車が展示してあった。なかなか格好がよろしい。

ニッサンの車


ルノー



 「東」館から、「西」館に向けて、人の波の中に巻き込まれる感じで、無理に抵抗せずにそのまま移動していった。途中、大きな耳を付けた車があり、その耳に向かって何か叫んでいる女性がいたりして、なかなか面白かったが、そのまま通り過ぎた。BMWのブースに着くと、電気自動車i8のコンセプト・カーが展示してあり、観客から思わず「かっこいいなぁ」という声が上がっていた。私も、そう思う。とても先進的な垢抜けたデザインである。

大きな耳を付けた車


BMWの電気自動車i8



 ようやく、トヨタの展示ブースに着いたが、こちらも人また人の大混雑ぶりで、写真を撮るのもままならない有り様であった。高級車レクサスの展示もあったが、覗き込んでいる人は誰もいなくて、「ああ、これか」という程度の反応である。東日本大震災を経験した後では、高級車どころではないというのが消費者の反応だろう。そのトヨタだが、家庭でも充電できるプラグイン・ハイブリッドの車を売ろうとしているようであったが、何しろ山のような人がいて、十分に見物する暇がなかった。最後に、ドラえもんの漫画の主人公の、のび太、しずかちゃん、スネ夫、ジャイアンなどの人形が置いてあって、家族連れが一緒に写真を撮っていた。それ自体は微笑ましいが、そもそもモーターショーという雰囲気にはマッチせず、何のためにこういうキャラクターを借りてきたのか、いささか意味不明のところがあった。

ドラえもん


のび太、ジャイアン



 これからは、日本などの先進国では、ますますガソリン車・高級車離れが進み、軽自動車と電気自動車化が進むだろうし、それに加えて中進国や発展途上国では、昔のカローラのような、安くて丈夫な大衆車がどんどん普及する時期を迎える。とりわけ電気自動車時代の到来は、業界秩序を一変させるインパクトがある。これまでのガソリン車の時代には、特にエンジンの製造が難しくて、他業種から参入することなど不可能だった。ところが電気自動車の場合は、モーターと電池さえあれば、誰でも車を作ることができる時代になってしまった。その分、既存の自動車メーカーとしては、統一的な世界戦略を立てにくくなってきたと思うのである。しかしそうはいうものの、自動車という業種は、まだまだ我が国の輸出産業の中核を担っている産業なので、どうか引き続き頑張ってもらいたいものである。





 東京モーターショー(写 真)は、こちら




(2011年12月10日記)


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徒然215.皆既月食

皆既月食。東京都文京区にて。2011年12月10日午後11時8分



 昨日の真夜中に皆既月食があった。すなわち12月10日午後9時45分から始まって11時5分に皆既の状態となり、それが50分ほど続いた後、午前0時18分に元の満月にもどった。皆既月食とは、太陽と地球と月とがこの順番で一直線に並び、月が地球の影に隠れる現象である。ちなみに、日食は太陽と月と地球が一直線に並んで、太陽が月の影に隠れる。月食と日食との差は、日食の場合は太陽がくっきりと月に隠されるが、月食の場合はそうではなくて、隠された月のその部分が茶色やオレンジ色になる。これは、大気があるかないかの差である。月には大気がないのでその影がくっきりとしているが、地球には大気があり、それが太陽の光を乱反射して、それで影がはっきりしないのである。

 まあ、ということをあらかじめ勉強し、ついでに2〜3ヶ月前にネットで購入してまだ使っていない超々望遠レンズを持ち出して、撮ろうとした。ところが、自宅マンションのベランダから見えるはずの月が、なかなか視界に入らない。空の半分が雲に覆われているからかと思ったが、それにしてもまだ月が見えないというのは、変だ・・・ということで、外に出て空を見上げてみると、何と、月は真上にある。これではベランダからは見えないはずだ。

 そこで、自宅マンションの屋上に上がることにした。カメラにレンズをセットし、それに三脚を抱えてエレベーターで14階に上がり、そして屋上に繋がる階段を登る。いつもはこの階段の入り口の扉には鍵がかかっているが、今日は開放されている。既に先客がいるらしい。そこに上がっていくと、東大病院の先生一家と、高校生の坊やがいた。そうこうしているうちに、東大病院の別の先生一家もやってきた。やはり、こんな冬の寒空に暖かい家から出てきて天体現象を見ようなんていう物好きは、インテリか高校生に決まっている。

 さて、私はその狭い屋上の一角に三脚を広げさせてもらい、オリンパスE−P3に、ケンコー500mm望遠ミラーレンズをセットした。よく見ると、このケンコーのレンズには、「Made in Korea」とある。何しろ、使うのは今日が初めてで、そもそもカメラにセットできるのかと思っているくらいだから、我ながら手つきが心許ない。しかも、ターゲットはほとんど真上である。三脚のひとつの脚だけ長くして、何とかセットできた。ところが、超々望遠レンズというのは、視界が狭いから、なかなか月が視野に入らない。しばらく探して、やっと画面の真ん中に捉えることが出来た。ここまで数分かかり、もう皆既月食か始まっている。

 私は、最近は近眼プラス遠視気味になり、実は裸眼では月をくっきりと見ることが出来ない。これは仕方がないことだが、その点、このカメラのスクリーンを通して、よく見えるので、つぶさに観察することが出来た。だいたい、このケンコー500mm望遠ミラーレンズというのは、いわゆる反射鏡型で、表から見ると前の大きなレンズの真ん中に黒い丸型の反射鏡があるから、最初はこんなもので果たして見えるのかと思っていたが、いやいやこれほどはっきりと見られるとは思わなかった。良い買い物をしたと思う。

 そういうわけで、冒頭の写真は、皆既月食が始まったばかりの12月10日午後11時8分のもの、下の写真は、同59分のものである。前者はホワイトバランスをオートにし、後者は電球にしてみた。どうも、前者のオレンジ色かかったものが、肉眼で見た色に近いと思ったが、後者つまり下の写真の色も、月を普段から見慣れている人には違和感がないものだと思う。

 ちなみに、日本での皆既月食は、前回は2007年8月28日だったそうだが、次回は2014年10月8日とのこと。



皆既月食。東京都文京区にて。2011年12月10日午後11時59分





(2011年12月11日記)


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秩父の夜祭り

本町屋台


 秩父の夜祭りに出かけた。京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並ぶ日本三大曳山祭ということなので、是非とも一度は見たいと思っていたら、ちょうど土曜日に行ける都合の良いバスツアーがあった。東京を朝ゆっくりと出て、お昼過ぎに秩父に着いた。早朝は大雨だったので、これは大丈夫かと心配した。ところが、iPhoneで秩父地方の天気予報を見ると、午後からは晴れるとのことだった。それを信じて乗車してものの、途中、こんなにひどく雨が降っているのに本当に予報通り止むのかと思ったりしたものの、あら不思議。バスを下りたその瞬間にぴたりと雨が止んだ。それからは各人の自由行動で、夜遅く午後10時半頃まで続く秩父夜祭りを堪能するというわけである。私はこの祭りについては、ほとんど何の予備知識もなかったが、毎年12月1日から4日までのお祭りの日程だけは、昔から頑固に変えずにやりつづけているということだけは知っていた。それが今年はたまたま土曜日にかかったので、空いていた旅行会社のツアーに申し込んだのである。現地に着いてわかったことだが、このお祭りは、クラブツーリズム社の独壇場である。ざっと見ただけでも観光バス200台近くを送り込んでいて、しかもお祭りを見物する主要な観覧席の良いところをすべて押さえていた。料金を聞くと、私の申し込んだものよりかなり高かった。


本町屋台に描かれた達磨


 私は、秩父という東京に近いところだから、どの会社のツアーでもそう変わりはしないという先入観があった。しかし、私のようなまるで初心者の場合は、まずはこういうツアーを申し込むべきだった。加えて、ちゃんとした写真を撮りたいなら、予めどのようなお祭りで、どんな山車があってどういうルートを巡行するかなどと調べるべきだろう。しかし、昔の私ならともかく、仕事ではない限り、最近はそんな面倒なことはしないことにしている。計画派から、行き当たりばったり派になったということだ。ただまあ、世の中は面白いもので、このごくマイナーな会社が主催するツアーのバスに乘ったところ、たまたま隣り合った初老の男性が、秩父夜祭りの権威のような人であった。だから、バス中でその講義をたっぷり受けたから、秩父に着いたときには、私もこの祭りについて、いっぱしの物知りとなっていた。もう、笑い話のようなものだ。


秩父っ子


それで、秩父の元セメント工場跡地という駐車場に着いたのが午後1時である。それから道の駅ちちぶに向けて歩き、その辺のレストランで昼食をとった。それからまず、全ての山車(だし)が上がるという団子坂へと直ちに向かい、写真を撮る席を確保しようとした。お祭りのクライマックスには、この辺り一帯が通行禁止となるので、見物席を確保していない限り、運行する山車(笠鉾屋台)を見ることは出来ないというのだ。市役所前の広場にある観覧席は、あらかじめ行われた抽選になっているらしく、お祭り当日に入り込む余地など全くない。そこの隣を過ぎて、団子坂をちょうど上がりきったところに、とある席屋があったので、そこのおじさんと話をした。ここは、山車と花火の両方を撮ることが出来る最高の席という触れ込みである。ただ一番の問題は、立ったままということだ。夜中になると寒いだろうし、そんな中で最大で5時間立ちっぱなしというのはたまらないから、それは断念した。それで結局、団子坂下のT字路の脇にあるところに、座る席を確保した。席料4千円也だが、最大の問題は、山車は見えるがそれと同時に花火が見えないことだ。でも、パイプ椅子ではあるがともかく座ることができる席があったことは助かる。ちなみに山車(笠鉾屋台)とともに花火も見えるところは、クラブツーリズム社が押さえているようだ。まあしかし、私の選んだところは最前列だし、街灯の具合からして写真を撮りやすそうだ。席が決まったことで安心して、街中にお祭りを見物に出掛けた。


秩父神社境内にて


 聖人通りをまっすぐ行き、国道299号線に着くと、耳に心地よい祭り囃子の太鼓の音が聞こえてくる。それに惹かれて左に曲がった。すると、百貨店隣の駐車場で、秩父屋台囃子の皆さんが交代しながら華麗なバチさばきをみせてくれる。その中には小さな女の子まで入って、一心に太鼓を叩いている。ああ、一家総出というわけか・・・こういう祭りに一家で参加出来るなんて、何と幸せなことか。すると、バスの中で教えてもらった男性の声が私の耳に響く。「この祭りに参加できるのは、秩父生まれの人だけなんですよ。私の知り合いで、嫁いできて40年になるというのに、未だかつて、秩父祭りに参加したことがないという人がいます。その人の子供さんには、声がかかるんですがね。本人は、祭りの日はいつも留守番なんです」。はあ、そういうものか、田舎のしきたりのようなものなんだ。


秩父神社境内にて


 それで、道を逆にたどっていった。すると、本町の山車(だし)があった。それに愛嬌のある達磨の絵が描かれている。なお、この地方では後述のように、「山車」ではなく正式には「笠鉾と屋台」というそうだ。ただ、それでは露天商の屋台と間違えやすいので、露天商の方を露店と呼んでおこう。いうまでもないが、もうこの辺りになると、道には、人、人、人があふれている。まるで満員電車の中のようになってきた。後ろから着いてくるおばさんが友達にいう。「もうまったく、何という人混みなの!いつもはこの辺なんか、殆んど人通りがないというのにねぇ」。また、主な通りの両側がほとんど露店で占められていたことにはビックリした。人通りも多ければ、露店もすごく多い。一説によると、千店はあるそうだ。たこ焼き屋、お好み焼き屋、サツマイモのスナック、リンゴ飴屋、お面の露店など、私が小さい頃からお馴染みの露店ばかりだが、一つだけ珍しい店が何軒かあった。それは、ドネルケバブといって、固まりにしたくず肉を回転させながら焼いたものを薄く削ぎ落として、ナンのようなパンに挟んで食べさせるものだ。トルコの本場の味とある。確かにいずれもトルコ人らしき人たちがやっていた。またその人寄せの日本語が上手いこと、上手いこと。その本町の屋台つまり山車の付近は、山車の幅が道の半分を占めているから、道が狭められて人の流れがそれだけ一層ごった返している。そんなところに双子の乳母車を通そうとする人まで現れて、また大混乱。それでも、人々の顔はニコニコして嬉しそう。これが、日本の祭りの良いところだ。


秩父神社の神輿


 そういう雑踏の中を秩父神社へと向かう。関東屈指の古社というだけあって、既に平安初期の文献に当神社の名があるようだ。そういえば、昔、歴史の教科書で西暦708年に鋳造された日本最古の貨幣のひとつである和同開珎の材料となった和銅は、ここ秩父から献上されたものだと習ったことがある。その当時から秩父地方は鉱物資源が豊かだったらしい。近代には養蚕業が盛んとなり、秩父は絹織物業から生糸業へと転換しながら発展し、それが八王子を経由して横浜港から外国へと輸出された。ちなみに、それで儲けたのが三渓園を作った原富太郎だ・・・戦後は、セメントかなぁ・・・などと考えながら人並みをかき分けていくと、秩父神社が現れた。古式豊かな、いかにも古そうな神社である。以前、羊山公園で芝桜を見物した帰りに立ち寄ったときにはほとんど人がいなかったのに、今日の境内は、見たことのないほどの人の波で埋まっている。いや、すごいものだ。中に入ると、少しの身動きすら、ままならないくらいである。何枚か写真を撮った後ようやくそこから脱出し、そして振り返れば、境内で色づいた銀杏の木と、神社の緋色の対比がこれまた美しい。


秩父祭りの笠鉾と屋台


 秩父神社の境内の中に、一つの山車(宮地屋台)があり、運行練習でもしているのか、あの重たい山車がひざまづくように傾いでいる。そうして、何か車輪あたりに細工をした後、正面の乗り子さんたちが扇を振って「はえーっ」というと、ガガガァーという音を立てて方向転換をする。これを繰り返して、運行していくようだ。乗り子さんたちは、白い襷のようなもので、山車から落ちないようにその柱につながっている。バスの中で教えてもらった男性は、「これは名誉な役で、地元の有力者の縁者ですよ。これがあるから、多少の雨や雪では、中止出来ないんです。」ちなみに、山車には昇り鯉、猩猩、達磨さんなどの派手な絵柄が描かれている。面白かったのは、山車の絵柄を女性用のバックにしたりして、それを秩父神社の山車の周りで売っていたことである。紺色の地でなかなか良いと思ったが、三千円と聞いて、手を引っ込める人も多かった。


秩父祭りの笠鉾と屋台


 ところでこの秩父夜祭りについて、秩父神社のHPによると「重量感あふれる豪華な笠鉾と屋台とが、勇壮な太鼓囃子のリズムに乗って曳きまわされ、屋台歌舞伎や曳き踊りを上演すること。それに加えて冬の寒空に贅沢なほどの、打ち上げや仕掛けの大花火を競演する」とある。なるほどこのお祭りの見所を端的に表現している。他の地方のように「山車」とはいわずに「笠鉾と屋台」というのも、何かしらのこだわりを感ずる。ちなみに、「笠鉾」というが、それがないではないかと思ったら、普段は町内中にある電線が邪魔になるので、外してあるという。しかし、残りの「屋台」だけでも、非常に凝った作りである。「笠鉾と屋台」としては、次の6台がある。

 下郷笠鉾(したごうかさほこ)[白木造りで黄金の輝きをもつ]、
 中近笠鉾(なかちかかさほこ)[全体が黒の漆]、
 宮地屋台(みやじやたい) [前に階段がなく後幕には猩猩の絵]、
 上町屋台(かみまちやたい)[前に階段があり後幕には鯉の滝昇りの絵]、
 中町屋台(なかまちやたい)[前に階段があり後幕には海魚の絵]、
 本町屋台(もとまちやたい)[前に階段がなく後幕にはダルマと宝船の絵]。

 本来であれば、これらの屋台に張出を付け、芸座を組み立てて上演する屋台歌舞伎の光景を見たいところであるが、この日はそれを探す余裕がなかった。


秩父祭りの笠鉾と屋台


 これら笠鉾と屋台が午後8時頃から順次、私が陣取っている席の目の前を次々と過ぎていき、団子坂を引き上げられて御旅所に集まり、折から羊山公園から打ち上げられる花火と競演して、祭りは最高潮に達する。なぜ御旅所に集まるかというと、これも秩父まつりのHPによれば、「神社にまつる妙見菩薩は女神さま、武甲山に棲む神は男神さまで、互いに相思相愛の仲である。ところが残念なことに、実は武甲山さまの正妻が近くの町内に鎮まるお諏訪さまなので、お二方も毎晩逢瀬を重ねるわけにもゆかず、かろうじて夜祭の晩だけはお諏訪さまの許しを得て、年に一度の逢引きをされる」というのである。よく考え付くと思うほど、ややこしそうなストーリーであるし、いかにも、古代の祭りという香りがする。それほど立派なお話が伝わっているにもかかわらず、その武甲山がセメント材料を作る石灰石の採掘で、階段状に削られている姿を見るのは、なかなかつらいものがある。せっかくの恋物語が台無しというものである。


秩父祭りの笠鉾と屋台


 さて、団子坂の下の席の最前列に陣取って待っている私の話であるが、いよいよ午後8時を過ぎた。そのとき、まず秩父神社の神幸行列ご一行がやってきた。神輿が1基、御神馬が2頭、それに大真榊等をはじめとする神社の行列である。白い衣装を着た氏子さんたちが担ぐ神輿は、白木造りのようだ。神事だから、普通の御神輿のように「わっしょい」あるいは「セイヤッ」などという威勢の良い掛け声は御法度のようで、しずしずと進んでいる。御神馬は、前後に立つ人が綱を持って制御しているが、どうもこのお馬さんは、蹄鉄に何か挟まったようで、しきりにそれを気にして、左前脚を地面に擦りつけていた。


秩父祭りの笠鉾と屋台


 その神事御一行が過ぎてしばらくすると、威勢の良い屋台囃子に乗って、ひとつの笠鉾屋台が姿を現した。綱をおそらく100人近く数の人が曳いている。道が一杯だ。笠鉾屋台は大きい。私は座っているせいか、もう見上げるような姿である。それに日光東照宮のような凝りに凝った彫刻がほどこされ、緞帳にはこれまた精緻な絵が描かれている。文字通り、動く重要文化財である。の字交差点の中程に来た。まずは方向転換である。笠鉾屋台が大きく傾くほど傾け、それから乗っている乗り手の皆さんが扇をもって叫ぶと、その方向に回る。それでまた進むという手順である。私の目の前をたくさんの曳き手が通過していく。中には、我々見物人とハイタッチをする法被姿の若い女性もいて、我々も気分が盛り上がる。


秩父祭りの笠鉾と屋台


 その合間に、ポポポーン、ドン・ドーンという花火の音がして、パアッーと辺りが明るくなるが、残念ながら私の席からは直接見えない。それでもたまに端っこの方から尺玉か見えると、もうそれだけで大騒ぎとなる。バババッ、バババッという音は、スターマインか・・・。そうこうしているうちに、次の屋台が曳かれてくる。ああ、これは大きい。白木造りだから、パンフレットによると下郷笠鉾だ。先ほどよりはるかに多い数の曳き手が道一杯に広がる。同じく方向転換をして、皆で一気に団子坂を上がっていく。そういう調子で、合計6つの笠鉾屋台が通り過ぎた。私は、二台のカメラを駆使して、写真を撮るのに大忙しだった。しかし、やはり夜であったことと、しかも三脚を立てる方向が限られていたので主に手でもって撮ったことからブレてしまい、これだという納得のいく写真がなかったのは、残念である。それでもまあ、少しは記念になる写真が撮れたのではないかと思いつつ、家路に着いた。


秩父祭りの笠鉾と屋台









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(2011年12月3日記)



 
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