六義園の紅葉 (写 真)

 六義園の紅葉(写 真)は、こちら


六義園の入り口


六義園の池


六義園の池


六義園の松


六義園の緋鯉


六義園の紅葉


六義園の紅葉


六義園の紅葉


六義園の松


六義園の紅葉


六義園の雁を水面下から見上げる鯉


六義園のススキ


六義園の空


六義園の紅葉


六義園の落ち葉


六義園前の文京グリーンコートのクリスマス







 六義園の紅葉(前 年)は、こちら

 六義園の紅葉(前々年)は、こちら




(2011年11月25日記)


カテゴリ:写 真 集 | 23:04 | - | - | - |
徒然214.新宿御苑の秋

小福桜(こぶくざくら)


 秋も深まってきた今日この頃だが、先週末のテニスで左手首を痛め、全治10日ということである。ギブスとまではいかないが、それに近い状態で左手を包帯でぐるぐる巻きにされてしまっている。だから、日常の動作は右手一本で済ませなければならない有り様だ。でも、幸いE−P3はミラーレスだから軽いので、片手でカメラくらいは構えられ、そのままシャッターも押せる。ということで、遠出は控え、比較的近い新宿御苑に出かけた。家内も足にいささか違和感があるはずなのに、一緒に来てくれて、ほぼ3時間ほど園内を歩き回った。恒例の菊花展は既に終了して、展示の跡だけが残っていた。園内でまず眼に入ったのは、小福桜(こぶくざくら)で、十月桜と同じく、春と秋の二回咲く桜である。花は八重で、花びらの先端がハート型になっている。青い空をバックに見上げると、可憐な花てある。

石蕗(つわぶき)の花


石蕗(つわぶき)の花


 その次にあったのが、石蕗(つわぶき)の花で、目に染みるような黄色をしている。大勢が群落を形成していて、とても目立つ。菊の仲間らしく、花はそれらしき形をしているが、菊とは異なり葉が大きいのが特徴である。その石蕗の花は、今がちょうど真っ盛りのようで、蜂やら蝶やら蛾が飛んできて、盛んに蜜を吸っている。私がカメラを持ってこんなに近づいても、逃げようともしない。日本も、文明国になったものだと思った。

紅葉の木と子供さん


枯れ葉


枯れ葉


 さて、肝心の紅葉だけれど、桜の木の葉は既に枯れて落ちかかっているものの、もみじの木の紅葉はまだまだである。最近の都心は、かなり暖かくて、早朝になっても気温が10度を下回るという日はまだ数えるほどだから、さもありなんという気がする。そこで、数少ない赤くなった葉を目立たせようとカメラの鮮やかフィルターを使って写真を撮ったら、いやまあこれは、本物より遙かに美しくなってしまった。やり過ぎだ・・・。

プラタナスの並木


 フランス庭園のプラタナスの並木に差し掛かった。葉が落ちるには、まだ早い。もう少し後にならないと、「プラタナスの枯れ葉舞う、冬の道で・・・」の歌(1969年北山修氏作詞)のような雰囲気にはならない。そうそう、それには、木枯らしが吹かないと、感じが出ないではないか・・・。

青々とした紅葉の緑の葉


紅葉の木


紅葉の木


 さらに進むと、日本庭園に差し掛かった。中の池の方を見ると、池の水面に青々とした紅葉の緑の葉が映るのが、幻想的な感じさえする。「何しろ、秋も深まるといいたいのに、こんなに紅葉の木の葉が青々と茂っているなんて、写真にならない」と思いつつ、それでもわずかに始まっている紅葉にカメラを向けて、それらしき景色を切り取ろうとしていった。

山茱萸(さんしゅゆ)実


 赤いグミのような実を見つけた。説明を読むと、これは山茱萸(さんしゅゆ)で、江戸時代に漢方薬(強精薬、止血、解熱)として輸入されたという。花が咲くのは春で、「木全体が早春の光を浴びて黄金色に輝くので、春黄金花(はるこがねばな)というらしい(季節の花300さん)。そういえば、「庭の山茱萸の木・・・」という歌(稗搗(ひえつき)節)があったなぁ・・・。ああ、今日は歌を思い出す日かもしれない。

歴史建造物の旧御涼亭


 中の池から上の池の周囲を回っていく途中、歴史建造物の旧御涼亭があった。これは、昭和天皇の御成婚を記念して台湾の人々から寄贈された中国福建省形式の建物で、反り返った軒先が独特の雰囲気を醸し出している。昔々、マレー半島の中部のヌグリ・スンビランという地を訪れたとき、軒先が空に向かって大きく突き出している建物を眼にして、「あれはいったい何ですか」と案内してくれた人に聞いたところ、ミナンカバウ様式といって、対岸のスマトラ島に住んでいる民族の家です。ミナンカバウ人は商才に長けていて、母から娘へと相続する女系家族なんですよ」と説明してくれたことを、突然思い出してしまった。何十年も前のことが、新宿御苑であの反り返った軒先を見たとたん、茫洋たる記憶の中から急に浮き上がってくるとは、人間というものは、なかなか面白いものである。

面白いカーブ


面白い剪定の木








 新宿御苑の秋(2011年)は、こちら。

 新宿御苑の秋(2008年)は、こちら。




(2011年11月23日記)


カテゴリ:徒然の記 | 22:08 | - | - | - |
子供は可愛がるべし

さくらぽっぷさんイラスト



 毎週末のテニスの試合中に、ボールを深追いしすぎて転び、左手をしたたか打ってしまった。一晩様子を見ていたが、良くならなかった。そこで、翌日仕方なく病院に行き、整形外科で順番待ちをしていたときのことである。2歳くらいの小さな男の子が、バタバタっと走ってきて、私の目の前で止まった。体を動かすことが嬉しくてもう仕方がないようだ。実に楽しそうにキャッキャッと言って身体を揺らしている。ああ、歩き始めたばかりで、歩くこと自体がとても楽しいのだろうな。元気な良い子だ・・・思わず私も、ニコニコした。

 すると、次の瞬間である。血相を変えた若いお母さんらしき人が、長い茶髪をなびかせて飛ぶように走って来た。いわゆるヤンママ(Young Motherの略か?)である。今はやりの短いパンツに、黒いストッキングを履いている。子供の前まで来ると、無言のまま左手でその子の腕を掴み、右手でその子の顔をピシャリと大きな音を立てて叩いた。周りの人が、ビックリして見守る中、その子を抱え上げてそのまま走り去った。あっという間の出来事だった。お母さんの肩越しにチラリと見えたその子の顔は、大きく歪み、べそをかいていた。

 私はその一部始終をたまたま目にして、とっても、その子が可哀想に思えた。だって、やっと歩き始めることが出来て、自由にあちこち行けるようになったばかりだから、それ自体がとても嬉しいことなのである。病院の中で通行人がいくらいようがいまいが、そんなことは関係なく、自由に走り回れることそのものが喜びなのだ。それをいきなりピシャリと叩かれては、何が何だかわからないではないか。ましてや言い聞かせても人の話を理解できる年頃ではないのだから、自由にさせるべきだし、もし危ないと思うなら、手を掴んで離さないとか、いくらでもやり方があるはずだ。

 最近、親に無視(ネグレクト)されて子育てを放棄され、遊びまわっていた親が家に帰ってきたら、子供が餓死していたという悲惨な事件、あるいは子供を虐待して全身痣だらけで死亡させるという信じられない事件が相次いでいる。この病院での出来事は、そういう極端な事件ではないものの、それでも最近の世相の一端を見た思いで、誠に悲しい思いがした。しかし考えてみると、これは単なる一時の子育ての方法の問題ではなく、実はその子の一生の問題を決めてしまうほどの恐るべきことなのだと考えている。

 もとより、子供は、その親にされたようにする。もう20年近く前のことになるが、私の子供たちが通っていた小学校で、とても乱暴な子供がいて、何か気に食わないことがあると、誰かれ構わずに顔や頭を叩くという悪い癖があった。PTAの会合に出て来たその子の母親は、悪びれずにこう言った。「うちは、もうホントに厳しくしていまして、そんなことは絶対にありません。うちでそういうことをすれば、父親が折檻しますから」。これを聞いた周りのお母さんたちは、ああこれが原因かとすぐにわかったのである。家で常に父親に叩かれている子にとっては、問答無用で人を叩くのは、日常的でごく当たり前の世界なのである。

 近頃は、ますますそういう常識のない親が増えた。私の妹が小学校の先生として、クラス担任をしていた頃のことである。ある子供がどうにも手に負えないので、親を呼んで注意しようとした。やって来た母親を見て、二の句がつけなかったという。その母親も、頭がライオンのように爆発しているような形の金髪で、とてもまともな話が出来る相手ではなかったというのである。また別の話であるが、家内によれば、最近こんな光景を目にしたらしい。まだ10代そこそこのような年若い母親が、3歳くらいになる女の子を連れて駅の構内を歩いていた。その子がお母さんを見上げて一生懸命に話し掛けているが、お母さんは知らん振り。そのうち女の子が抱っこと言って両手を差し出したが、それも無視。近くを通っていた年配の女性がたまりかねて「あんた。抱いてやんなさい。この子が求めているんだからね」というと、しぶしぶ抱く真似をしていた。

 これなどは、小さな子供にとっての親というのは、果たしてどういう存在なのか、まるでわかっていないのではないかと思うのである。人格が徐々に育っていくこの小さな時期に、親とよく話をしたり抱かれたりしていれば、成人して他人とどう接してよいかが自然と身についてくる。ところがこの時期にそういう経験をあまりしていないと、大人になって他人にどう話しかけてよいかがわからなかったり、他人と接する一種の勇気のようなものをなくしてしまうのではないか。その結果、さしずめ現代なら、家に引きこもって昼夜逆転のゲーム中毒になるか、あるいは家に帰っても面白くないので夜遅くまで遊び回って犯罪に巻き込まれたりということになってしまうのではないだろうか。

 太宰治は、津軽の旧家に生まれたが、父親からほとんど無視されて育ち、それが一生のトラウマとなって、非業の死を遂げたのではないかと私は思っている。要するに、幼いときにとりわけ親に愛されたことがない人間は、そもそも人をどう愛してよいのかもわからないというわけである。逆にいえば、子供は可愛がれば可愛がるほど良い子に育つ。そして、子供はそうやって親に愛されることを通じて、人格を親に認めてもらいたいのである。これは万古不易の真理である。しかもそれは、更にまたその子の子供に対する態度にも受け継がれ、ひいてはそのまま次の世代にも愛情が受け継がれていくという好循環が生まれる。人生というものは、ほんのちょっとしたことで大きく変わっていくものだが、自分の子をどれだけ可愛がるかで、その子孫の行く末まで左右するとは、なかなか深遠な意味を含むものだと思う。

 その点、我が一家の一粒種の初孫ちゃん、もうすぐ3歳の幼子はどうかと、いささか気になるところである。つい最近、娘からこんなメールが来た。「いま添い寝しながら『ありがとうね、ママは、あなたが居て幸せだわ』って言ったら、なんとあの子が『You're welcome』と言い、続いて『ドウイタシマシテ』って言ったんだよ!!すごくない!?」 あれあれ、それはそれは・・・「まだ3つにもなっていないのに、そんな子はいないよ。すごいね」と返信した。ちょっと出来過ぎの話でもあるし、いささか親バカでもあり、加えて爺バカ気味でもあるような気もする、まあこの調子で子供を自然に可愛がる親子関係を続けてくれれば、まず大丈夫だと思った次第である。



(2011年11月23日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:38 | - | - | - |
韓国で国際会議に出席

金滉植首相



 お隣の国、韓国で法律関係の国際フォーラムがあり、珍しいことに私に声が掛かったので、出席してきた。外国出張など、ここしばらく全くなくて、おそらく10数年ぶりである。かつては国際派を自認していたつもりなのだけれど、もうすっかり国内派となってしまった。それで、その国際派だった頃には、数えてみるとこれまで、28ヶ国に行った・・・これは滞在したことがある国の数だが・・・残念ながら韓国には行ったことは一度もなかった。そこで、今回の訪問でここが29ヶ国目ということになる。それでは将来30ヶ国目をどうしようかと、鬼が笑いそうなことを考えているのだが、暇になったら家内とゆっくりオーストラリアにでも旅をしようかと、今から楽しみにしている。まあ、そんな先の話はともかくとして、韓国の印象はどうかといわれれば・・・わずか3泊4日でしかも会議場で缶詰になっていたり行事に縛られていたりしたことからすると、そんなことを言う資格がないのかもしれないが、それを大目に見ていただくとすると・・・街中にハングル文字があふれている以外は、おおむね日本とさほど変わらない国だった。それもそうで、人種からして顔つきも身体つきも似ているし、そもそも日本と韓国は古事記や日本書紀の時代から交流があり、今では韓流ドラマが流行っている。だいたい羽田からわずか2時間余りで行ける国なのだから、当たり前か・・・。

 ところで、街中どこを見ても目に入ってくるそのハングル文字のことだけれど、聞くところによると、これは1446年に李氏朝鮮第4代国王であった世宗が、朝鮮語を表記するため「訓民正音」として定めた表音文字だそうな。それまで朝鮮民族は、朝鮮語を表記する固有の文字を持たなかった。支配階級の両班はもちろん漢字を駆使していたが、その他民衆はいわば、万葉仮名のように漢字の音を借りてこれを表記していたらしい。そこで、朝鮮民族にも固有の文字をということになったようだが、驚くことに保守派からは猛反発を受けた。ウィキペディアによれば、「蒙古族、女真族、日本などは固有の文字を持つが、そんなものは未開人のやることだ」などと言って反対したという。どこの国にも、またいつの時代にも、どうしようもなく頭の固い人種がいるものだ。まあ、そういうことで、ハングルは支配階級の間には広まらず、もっぱら民衆の間で便利に使われていたようだが、日本の明治維新以降に当たる開花期頃からやっとハングルが公式に使われ出したという。

 そんなことで、今や韓国内では、新聞、街中の看板や高速道路標記などはハングルばかりで、漢字はおろかローマ字表記もほとんどないため、外国人には何が書いてあるのかさっぱりわからず、いささか旅行しにくい国である。たとえばこれが中国の新聞のように漢字ばかりだと、漢字仮名まじりに慣れている日本人にはやや頭が痛くなるかもしれないが、それでも6〜7割は意味がわかる。これが漢字圏の良いところだ。ところが韓国ではすべてハングルのため、そういう便法がまったく通用しないから、困ってしまうのである。それでもシンガポールのように街中に英語の表記があり、英語が通じるならよいのだけれど、韓国の一般の人は日本人と同じく英語が苦手ときている。観光業ではむしろ日本語の方が通じるくらいだ。こういうところだけ似ていても、よろしくないと思うのだが・・・。今回、Songdo cityというところで会議をしたのだけれど、韓国語の通訳さんに、ここは漢字ではどう書くのと聞くと、「ええっと・・・宋島か・・・松島ですかね」と言って、サムソンのギャラクシーで検索すると、松島が正解だとわかる。なるほど、こういう同音異義語のようなときには、困ってしまうのだ・・・。その点、日本語は同音異義語の塊のような言葉だから、とてもハングル方式はダメだなと思ったりする。

 こんなことでは、表意文字としての漢字の良いところがなくなって、肝心の韓国伝統文化が消えてしまうのではと、ついつい心配する。話は飛ぶが、シンガポールでは住民の9割を占める中国人に専ら英語教育をしてきたために、自分の名前すら漢字でまともに書けなくなってしまった人ばかりになってしまった。私も、シンガポール人の知り合いにその人自身の名前を漢字で書いてもらったが、ミミズがのたくっているような漢字らしきものを書いていたのには、びっくりしたことがある。これには、さすがにシンガポール政府も反省して、軌道修正をしているほどである。もっとも、韓国では私がこの短い滞在の間に接した知識階級の間では、まだまだ漢字の知識が残っているようで、しかもそれは侮れないレベルである。今回ご一緒した韓国のある国会議員さんは、そのウェルカム・スピーチで「Our friends, who stay some remote areas, kindly come and see us. How wonderful it is!」などと言うので、テーブルに戻ってきたときに、それは孔子の「朋あり遠方より来る。亦た楽しからずや」ではないですかと言って、やや怪しげな日本風の漢文を書いて渡したところ、その横に「有朋自遠訪来 不亦説乎 論語」と正しく書き返してきたのには、参ってしまった。専門家でもないのに、生兵法は怪我の元だ。よく覚えておこう。




泊まったホテルからの眺め



 2日目のシッティング・スタイルの歓迎ディナーの席で、たまたま私の隣に、「Chief Prosecutor」という肩書きの紳士が座っていた。検事総長さんかもしれないその人と、最近の日本と韓国の立法事情をあれこれ話していたときに、私が、今度の国会に刑法改正案が提出されているということを「The Cabinet has already submitted the amendment of Penalty Law, which introduces to suspend execution of sentence partly.」といって説明したが、何を言っているのか全くわからない模様。そこで、「Partly suspending jail term」などというと、やっとわかったようで、手元の箸の包み紙に「執行猶予」と漢字を書いた。そこに私が「一部」を付け加えて「一部執行猶予」としたので、「ああ、やはりそうか・・・そんなことよく考え付くな」という顔をした。内容を詳しく聞きたがったので、いろいろと背景を解説しておいた。特に薬物犯罪の再犯防止などには効果的だろうというと、深く頷いた。来年あたり、韓国で同じ刑法改正案が出てくるかもしれないが、そのきっかけがこの漢字談義だったとしたら、予期しないところでこの会議が役に立ったということになる。




泊まったホテルの前に日の丸がはためく。国際会議が終わってこれを見ると、ほっとした気分になる。



 会議が行われた仁川近くのSongdo cityには、高層建築が立ち並んでいて、一見すると近未来都市のようである。私の泊まったホテルは22階建で、その横にまるで日本の幕張の国際会議場を彷彿とするような、とてつもなく大きな国際会議場があり、さらにその脇には、50〜60階建ではないかと思われるほどの超高層建築物があった。後者はまだ建設途中だが既に外観は完成していて、内装の仕上げ段階のようである。韓国政府の人に「これは高い建物ですね。建築にかなり時間がかかったでしょう」というと、「いやいや、これなどは、1年です」などと平然と言うので、びっくりしてしまった。後で聞くと、韓国には地震というものがないそうだが、それにしても極端な・・・。iPhoneのマップでこの場所の地図(これもハングルだから、さっぱり分からない)を見ると、確かにこれらの建物の形が描かれている。ところがそのマップと航空写真の組み合わせを見ると、この位置には単なる荒れ地が広がっている写真があるだけだった。つまり、ここは元々は埋立地で、それから急ごしらえで超高層建築物を建てたらしいことが、よくわかる。たとえは悪いかもしれないが、はるか昔の出来上がったばかりの頃の幕張コンベンション・センターを思い出す。高層ビルと幅の広い道路以外、本当に何にもないのだから・・・韓国政府の人が嘆いていた。「ソウルからここまで、1時間半もかかるから、困ってしまう。来年はソウルでやりたい」と。



泊まったホテルの隣にある国際会議場



 これには、私も大賛成だ。もっとも、来年また行くとは限らないけれど・・・。そういうこともあって、このSongdo cityは、滞在していて全く面白みがないのである。何しろだだっ広い道路が縦横に走っていて、その間のブロックにはこれまた高層建築物が建ち並ぶだけで、ちょっと買い物をしたり食べ物を求めたりなどという楽しみがほとんど味わえないのである。日本でも、かつて出来たばかりの頃の筑波センターも、そんな風だったと聞いたことがある。会議に来た韓国の人に、「ここは周りに何にもないから、本当に会議の内容に集中できるところですね」と言ったら、苦笑していた。それでも、ほかの国の人は逞しい。同じ会議に来ていたフィリピンの人は、ここから約3キロメートル離れた仁川市内中心部に出かけて、ちょっと一杯やったらしい。私などは、明日の会議で15分ほどスピーチをしなければならなかったし、この会議全体に関して日本ではあまり情報がなく、こちらに来てから知った内容もあってそれをどう取り入れるかなどと戦略を考える必要があったので、残念ながらホテルから遠出することなど考え付きもしかった。



泊まったホテルと国際会議場と高層建築



国際会議場を出て眺める



 その夜は、シッティング・ディナー形式で歓迎のレセプションがあり、私の隣には、ある有名大学の法科大学院長さんが座った。小柄な女性である。名刺には、Dr.とあったので、呼び掛けるときにはこれを忘れてはいけない。まあ、私もたまたま法科大学院の先生をしているから、これはちょうど良いということで、日本の法科大学院との比較の話をした。彼女がいうには、韓国の法科大学院の数は25校で、1学年の定員は2000人、首都圏に15校と地方に10校あり、国立と私立のバランスもよいとのこと。私が、「日本では文部当局に設立や定員の総数を管理する発想がなく、雨後の筍のごとくにどんどんと増えていって、いまでは74校も乱立し、定員は約5800名にもなっています。その上、当初は司法試験の合格者数として3000人を予定していたのですが、合格者の質がいまひとつ評価されていないという問題と需要が伸びないこともあって、実際の合格者は2000人。しかも5年間以内に3回という受験制限がかかっているからどんどん溜まっていって、今年の合格率はとうとう23%になってしまったのです。3回目でも合格できなかった学生さんから残念なメールをいただいたりしたが、可哀想で仕方がありません」というと、「ああ、こちらでも同じで、2000人の定員に対して1400人しか受からないから、その分また翌年に受けるので、合格率は下がる一方。ちなみに韓国では、受験制限の5年間は同じだけれど、毎年受けられるんですよ」と語っていた。韓国も日本の司法制度改革を見て自国の改革を試みたようだが、まだまだ試行錯誤の過程のようであるが、法科大学院の数を絞ったというのは、さすがである。



国際会議場で催された民族舞踊



 そんな話をしていたところ、これから民族舞踊があるという。各国代表団に対する韓国側の歓迎の意である。何があるのだろうと前のステージの方を見ていたところ、いよいよ始まりそうなのでちょっと失礼といって、バックからカメラを取り出したときのことだった。雅びな音楽とともに、韓流ドラマの宣伝に出てくるような優雅な衣装を身に着けた踊り子さんたちが出てきた。この衣装、どこかで見たことがあると思ったら、竜宮城の乙姫さんたちだ・・・と思った瞬間、我ながら歳を感じてしまった。今なら、韓流ドラマの女優さんの名前でも上げるべきだろう・・・ま、ともかく、とても雅びたスタイルである。それはよいのだが、その踊りたるや、もう・・・まだるっこくなるほどゆっくりなのである。ああ、これは日本の雅楽のテンポそのものだ・・・いわゆる宮廷の踊りというわけか・・・。それをしばし見ていたところ、しずしずと去って行き、今度はずっと早いテンポの音楽とともに、ポン・ポンという音がして、小さな太鼓を手に持ち、きびきびした動きの女性が出てきた。ああ、前の踊りと全く違う、いかにも農村風のバイタリティあふれる激しく動き回る踊りであった。静と動を組み合わせた、なかなか センスの良い演目の選択である。テーブルの上に踊りの解説があったが、周りとしゃべっているのに忙しく、じっくりと読む時間がなかったのは残念である。

 翌日、朝の10時から会議が始まった。首から、名前と国名とその属性を書いたカード(冗談のようだが、私には、首に「Head」と書かれたもの)を吊り下げられて、まず控室に案内された。そこには、今回出席の30ヶ国・地域のうち、主な8ヶ国からHeadが呼ばれて集まり、立ちながら自己紹介と談笑をしていたところ、急に警備の人が入ってきた。何かと思ったら、金滉植首相がわざわざ立ち寄っていただけるのだという。首相はすぐに入って来られて、何と私のすぐ横に立った。韓国側のカウンターパートが、私を紹介してくれる。「イルボン」と言っていたのが聞こえたので、そうとわかった。私が「Nice to meet Your Excellency!」というと、英語でいいのかと思われたのか、立て続けに東日本大震災のお悔やみを言われ、福島の原子力事故のことを尋ねられた。そこで、「大震災時には韓国から本当に暖かいご支援をいただいて深く感謝申し上げます。それから福島の事故につきましては原子炉からの放射能漏れの心配はもうなくなりましたが、原子炉周辺の地域から避難を余儀なくされた方々は本当にご苦労されていて、政府も放射能の除染に手を付け始めていますが、相当な時間がかかるかもしれませんが、着実に進めています」とありのままを申し上げたところ、眉をひそめられて、「それは大変なことです。深くお見舞いを申し上げます」と述べられた。誠に、心のこもった言葉で、非常にありがたく思った次第である。その他、首相はよく各国のことをご存じで、フィリピンの前大統領訴追の動きのこと、ベトナムの産業開発のこと、サウジアラビアのプラントのことなどをそれぞれの国の人に聞いていた。

 会議の基調講演が始まった。まずはその金滉植首相が、歓迎のスピーチをされた。私は、これは地味な法律のセミナーであるだけに、まさか首相に来ていただけるとは思っていなかったし、ましてやその首相と隣り合って直接お話をさせていただけることなど想像もしていなかったから、正直なところ、誠に光栄な経験をさせていただいたと思う。さて、会議では、私も参加国として基調講演を行うひとりなので、何番目かとスケジュール表を見てびっくりした。事前に聞いていたのは確か1時間で4人、ひとり15分のはずだったのに、いつの間にか6人になっている。このいい加減さが、アジアでの国際会議の特徴である。こんなことに驚いてはいけないが、これではひとり10分ではないか・・・でも、こういう場合は長引くのが常だから、8分くらいになるのではないかと思い、せっかく用意した冗談をいくつかカットすることにした。英語の冗談を思いつくのはなかなか骨が折れることなのだけれど、もったいないが、仕方がない。

 さて、自分の番がやってきて、名前が呼ばれた。実は立ち上がる前に、自分の英語をチェックしようとiPhoneの録音をセットしたのだけれど、急に呼ばれたのであわてて出てしまい、肝心の録音ボタンが押せなかった・・・まあ、ともかく壇上に向かうときには、胸を張って背筋を伸ばし、大きなスライドで歩くようにした。人間、外形が肝心である。うまいことに、演説台は、比較的高くなっていて、原稿が非常に読みやすい。これなら、なるべく顔を上げて話すことが出来る。こういう時の心構えを昔、先輩に聞いたことがある。それは、「なるべく原稿を見ず、会場全体を『Z』字になるように順番に見渡し、数字や固有名詞を語るときは、特に強調して言うこと、必要に応じて両手を動かしたり身振りも取り入れるべし」というものである。つまり、まずは原稿を見るではなく、なるだけ聴衆全員の顔を見るようにせよということである。そのためには、『Z』字、つまり顔を動かす方向として、右手前の聴衆から始まりそのまま左へと平行に見ていき、左の端に付いたら今度は会場を斜めに右端の奥に動かし、そして奥のラインを今度は左に平行に動かすと良いという。そうすると、聴衆は自分に目を向けてくれているという意識が持てて、話も聞いてくれるというのである。

 それを思い出して、なるべくそうしようと思っていたのだが、あまりうまくいかなかった。というのは、予定より時間が短くなったことから、話を多少短くするためにあちこちを省略することを余儀なくされた。そうしたところ、パワーポイントを操作する私のアシスタントくんが私の話に付いて来れなくなって、私の話とスライドが前後したりしてしまったのである。そのスライドが追いついてきたり、行き過ぎたのを戻すのを調整したりするなど、そちらのカバーするのに気がとられて、先輩の教えを完全に実践することは出来なかった。なかなか、難しいものである。そのアシスタントくんには、事前にそのパソコンを見に行ってもらって試してもらったはずなのに、この有り様。ひょっとして私に代わって緊張して上がってしまったのかもしれない。まあしかし、スピーチの後、向こうの政府の人が、私の話はなかなか目新しいことで、参考になり、英語もわかりやすかったと言ってくれたのは、社交辞令だとしても、それなりに良い気分がした。

 私の後、壇上では韓国の人が二人ほど続いて、韓国語でスピーチをし、それを英語に直したものを通訳が読み上げていた。でもやっぱりこの方式は、時間が半分になるし、現地語を長く聞いているのは一聴衆としても飽きる。そのほかの各国の人たちは大体がお国なまりの強い英語でスピーチをしていたが、まあおおよその意味は分かった。しかし中には、ミャンマーの人の英語のようにいささか聞きづらい例もあった。ウズベキスタンの人は、何とロシア語で話をし、それを大使館員らしい人が英語に訳していた。驚いたことに、後ほどのパーティで、ベトナムの人がこの人に対してロシア語で流暢に話しをしていた。この人、ロシアに留学したのか・・・歳を聞くとまだ48歳と若いのに・・・。

 メイン会場のスピーカーとして、日本のある国立大学の教授が出てきた。この人は、文字通りのカタカナ読みで英語をしゃべっておられた。日本人の私としては誠に分かりやすかったが、聞いているうちにだんだん恥ずかしくなってきた。内容は自分の大学は法律関係を勉強する留学生を受け入れているし、英語の授業もありますよということらしい。もちろんいたずらに他人の悪口は言うものではないということは重々わかってはいるものの、この先生には悪いが、これではまるで逆効果ではないかと思った。もっとも、私の英語も、他人が聞くとこういう調子なのかもしれないので、この先生と良い勝負なのかもしれないと思ったりもしたのである。話は飛ぶが、私が兼職している大学でも、なるべく国際化を進めるようにしており、留学生にはすべて英語で単位がとれますよと宣伝をしている。ところが、留学生によくよく話を聞くと、英語の授業といっても日本人の先生の話すことは、よく聞き取れないとぶつぶつ言っているし、逆に日本人学生は、授業が英語で行われるというと、誰も受講してくれないのである。

 さて、再び会場に話を戻そう。私がメイン会場で他の国の人の講演を聴いている間、サブ会場で、グリーン法制、災害対策法制、産業発展法制などの討議が行われたようだ。何でも、韓国は排出権取引法案を国会に提出中のようで、それで大いに自信を深めているそうだ。それにしても、産業発展法制というのは、何だろう。法律は規制をもってその本来の役割があるが、それが振興といかに結びつけるかが課題である。お土産に韓国の産業振興法制という分厚い本をいただいてきたので、時間のあるときに読ませてもらおうと楽しみにしている。ところで、面白いことがひとつあった。この会議の第1日目に、会場の正面に参加国一覧表が大きく掲げられていて、その最も下の行に「Taiwan」とあった。ところが翌日、その一覧表の前を通ったところ、最下行には、白い紙が貼られて、そこだけ隠されていたのである。もしかすると、中国代表から本件についてクレームがあったのではないかと想像を逞しくしたが、さて、真相はどうなのだろうか。韓国側には、敢えて聞かなかった。

 お昼休みに入った頃、「各国の代表者は、お集まりください」という声がかかり、主要8ヶ国のひとりとして皆と一緒に記者会見室に入った。記者がたくさんいたが、何とその中に、頭にターバンを巻いたシーク教徒のインド人がいた。一般にインド人の英語は日本人には聞きにくいので、そうだとすると質問を聞き直した方が安全だろうなどと思っていたら、その記者から、グリーン法制、災害対策、都市計画について各国ひとりひとり順番に質問があった。まあまともに理解できる英語だったので、一安心。最初に答えたベトナムの人は「いやいや、われわれはまだその討議をしていなくて、それは午後のセッションなのですよ」などと辟易しつつ答えていた。それはそうなのだが、私は知っていることを話そうと、マイクのスイッチを入れて、こんなことを語った。

 「とりわけ災害対策は、今回の3月11日の東日本大震災と大津波には既存の一般法制だけでは対応できなかったので、新たに20本の法律と71本の政令が作られ、まずは復旧、そしてこれからは復興段階に入っている。しかし、いろいろと問題がある。たとえば都市計画の観点からすると、津波で流された住民は、一般には元住んでいた場所に戻りたいという意識がある。特に漁師さんなどは海の近くで潮風を感じて住みたいという方々が多いと思う。しかし、地方自治体としては、再び津波の被害を受けないように住宅は高い所に移したいと計画することが多い。そうすると、なかなか話がまとまらない」。すると、記者さんは理解したらしく、うんうんと頷いていた。これ以上の追加質問はないようだ。さあ、私の隣のサウジアラビアの人の番だと、私は左を向いた。するとびっくりしたことに、確かに私の隣にいたはずの大柄のサウジ人が、いつの間にか煙のごとく、消え去っていたからである。何たる早業か・・・それとも中東で暮らすために必要な知恵か。

 その日のランチもまたシッティング形式で、ひとり置いてその先には、日本でいえば経団連会長さんという方が座った。その会長さんが私を日本人と知って曰く「韓国では一人の大統領なのに、その間に日本では首相が6人も代わっている。官僚組織がしっかりしているから良いようなものだが、これが他の国なら国が不安定になるところだ。特に政権交代があってからというもの、全く非現実的なことばかり言っているように聞こえてくる」と少々キツイことをいう。これに対して、「いやいや、それを言われると、誠に恥ずかしくなります。ただ、民主党も、3人目の首相ということでだんだん現実的になってきたという評判なので、少し長い目で見てあげてください」と弁解するしかなかった。会長さんが、「戦後60年以上となるが、あなたの公平な目でみて、どの首相がベストと思うか」と尋ねるので、「私より少し歳上の人は、吉田首相というかもしれないが、年代が異なるから私はもちろん直接会ったこともないので、判断のしようがない。私が直接お会いした中では、中曽根首相がベストかもしれない。90歳を越した今でも、なお矍鑠としておられる。今の野田首相も会いに行って大所高所からの助言をいただいたようだ」と答えた。会長、深くうなづく。その他もろもろの話をし、帰り際、「今日は面白いお話がいろいろとできて、本当によかった。ありがとう」といわれた。私も、少し話せばその人がどの程度の方がすぐにわかる方だが、この会長さんは非常に博学で様々なことに興味と関心をお持ちであり、ほとほと感心した次第である。それにしても、日本の経団連の最近のお偉いさんたちには、私はまだ会ったこともないが、果たしてどの程度の方たちなのだろうか、こういう竹林の清談が出来る人たちなのだろうかと、ついつい思ってしまった次第である。

 その翌日、産業ツアーと称して、参加国全員が、韓国が誇る世界的企業であるサムソンを訪れたというか、より有り体にいうと、連れていかれた。細かいことは省略するが、液晶テレビにしても、ギャラクシーにしても、いやまあ、ハードは素晴らしい水準だと認めざるを得ない。特に今回、気に入ったのは、ギャラクシー・スマートフォンとギャラクシー・タブの中間に位置する・・・確か画面の大きさが7インチと言われたように思うが・・・大きめのスマートフォンのような新製品である。アップルの製品でいえば、iPhoneとiPadの中間サイズのものだ。入力ペン付きで、しかもそのペンを本体中に格納することが出来る。私のように、いささか視力が弱くなってきた者や、指が大きくてタッチパネルの押し間違いをよくしてしまう者には、とっても魅力的な製品である。これは韓国では既に9月から売り出していて、世界各国には来年から売り出すといっていた。消費者の需要を先取りし、なかなか良いところを衝いている。

 それにつけても思うのだが、こんな製品は、日本企業の独壇場であったはずである。たとえばソニーであればウォークマンを生み出した盛田さんなどの創業者が健在であったなら、作ることが出来たはずのものだ。ところがトップに迎えているのは、ハリウッド業界の英国人で、どう見てもITの世界とは縁遠いように思える。この人に、果たしてiPhoneやiTunesの価値がわかるものだろうか。もちろんかつてのような単なる格好付けだけの軽薄なトップはいらない。物作りにこだわりがあり、しかもソフトに土地勘のあるセンスのよい経営者でなければ、このスマートフォン大競争時代を生き抜けないのではなかろうか。いや、ソニーのほか、最近のパナソニックにシャープも、まったく生彩がない。円高やデジタル特需の反動の影響もあるのかもしれないが、このサムソンの元気の良さと比較して、これは何ということだと、ついつい溜息が出てしまった。日本の企業には、もっと頑張ってもらいたい。

 前夜の歓迎ディナーのとき、韓国側の要人のスピーチの通訳として、演説台の脇に美人の若い女性がついて、見事な英語で訳していた。ネイティブの発音ではなく、後から勉強したものと思われる発音と抑揚であるが、それがかえって我々アジア人にはわかりやすい。その要人がスピーチを終わって私の隣に座り、私との間に椅子をもって来させてその通訳さんに座ってもらい、私との間の英語と韓国語の会話を通訳させた。そうこうしているうち、その要人は忙しい人で、ちょっと失礼といって各テーブルの政府要人や経済界の人に挨拶をしに、しばらく席を空けた。私とその美人の通訳さんがそのまま取り残されたので、この際とばかりにいろいろと韓国の通訳事情を聞いてみた。若いと思ったらそのはずで、まだ大学院生だという。「もうこんな実践(プラクティス)をしているの」と聞くと、「そうなんです。大学を出て、語学専門の大学院に行っています。ここは、入るのも出るのも難しいんですよ」と、いささか誇らしげにいう。そうだろう。彼女は場慣れしているから、実践で相当の経験を積み重ねていると見える。

 この通訳さんが、韓国の学歴社会でのスーパー・エリートに属しているとすれば、他方で会場で私たちの案内をしてくれたRくんは、言葉は悪いが、落ちこぼれ寸前の様子である。サムソン見学の帰りの車内で、私が無邪気に「サムソンに就職するには、どうするの」と聞くと、「そんな方法があったら、私が教えてほしいです」と投げやりにいう。何でも、ソウル大学、建国大学、高麗大学などの一流校をトップの成績で出て、英語試験TOEICで満点近い成績をとり、たぶん強力なコネも必要で・・・などと延々と聞かされ・・・それでもダメなことはしょっちゅうあることらしい。私が、「そんな一流志向は止めて、最近よく日本で話題になっているような伸び盛りの中小企業に行ったらどう?」と気楽に言ったのだが、韓国では大企業と中小企業の待遇の差がまるで天と地のようなものだから、そういう選択肢はあり得ないようなのである。その結果、韓国では大学新卒の就職率が48%となってしまっているとのことである。

 さらに聞くと、1997年のアジア通貨危機から、こんな厳しいことになってしまったとのこと。その頃、国家財政がIMFの管理下に置かれ、公務員や会社員の給料が50%もカットされるなどの塗炭の苦しみを味わったようだ。それ以来、韓国の企業は好況になっても正社員の数は増やさず、要するに派遣社員で対応している。日本でも、小泉竹中路線で規制緩和が進められた結果、製造業にも派遣が可能となったことから、正社員の数は増やさずに派遣社員の数を増やして対応していった。そうすると、不況期になると契約の期限が切れたら職そのものだけでなく住む場所もなくしてしまい、2008年末にはホームレス状態の人が集まる派遣村が出現して社会問題になった。それと同じようなことが、韓国では既に10年近く前に起こっていたのである。

 そういう経済の荒波に揉まれているせいか、今回、韓国の要人と話をしていて、韓国というところはアメリカのように、文字通り強い者を優遇する国だと強く感じた。私が「日本では数年前に派遣社員切りが大きな問題になったし、今は生活保護の人がどんどん増えている」といっても、全くといってよいほど同情されない。それどころか、あからさまに言ってしまえば「努力しない者が不利益を被るのは仕方がないし、強い者をますます強くしないと国や企業は強くなれない」とおっしゃる。私が「日本では、ミクロでいえば生活保護の額が年金の額より多いと問題になっているし、マクロで見ても国家財政中で社会保障の占める割合はとうとう3割を越した。防衛予算は5%くらいだけど」というと、なんて馬鹿ことをしているという表情をする。もちろん、北朝鮮と常に対峙しているという韓国の特殊事情はあるにせよ、こういう国と世界中で経済戦争を争っていくには、今の我が国は、いささかひ弱すぎるのではないかという気がしたのである。



韓国民俗村のアクロバット的な舞踊



 その他、皆とともに韓国民俗村という昔の農村生活を彷彿とさせるところを見学した。農家の前にたくさんの壺が置かれ、牛がモーと鳴き、野菜畑が広がる。郡代というか村長さんの屋敷では結婚式がとり行われ、男女別の区画がある。そういう風景である。なかでも、男性陣によるアクロバット的な舞踊が忘れられない。レバノン、ウズベキスタン、ミャンマーから来た代表団の一行が特に興味をそそられたらしく、あちこちで立ち止まってしきりに覗き込んでいた。



昌徳宮秘苑



 帰国のため金浦空港に行く途中、飛行機の時間待ちを兼ねてソウルに立ち寄り、景福宮や昌徳宮を駆け足で見させてもらった。ほとんど時間がなく、慌ただしくて走るように一周したが、なるほど、これが韓国の文化かとその一端を味わったような気がしたのである。ちなみに、お土産は、韓国民俗村で購入した民族衣装を着た結婚式の二人の人形と、朝鮮人参のお茶にした。もう少し買いたかったが、今回の国際会議でたくさんの書類や資料や本をもらい、これで大きなトランクの半分近くが占められてしまったから、大きめのお土産は買えなかった。ところでこれらの膨大な書類、帰って、一応その全部を読まなければと思うと、いささか気が重い。日本語なら斜め読みが出来るのだが、英語ではそれが出来ないのが、私の弱点である。 



景福宮の衛兵



 また別の話題であるが、私は韓国に着いたときに金浦空港で現金2万円を両替したところ、27万6000ウォンをもらった。すごく得をした気分になったが、慣れていないと計算が面倒である。ソウル市内でタクシーに乗ったら、2400ウォンといわれた。一瞬それは高そうだという気がしたものの、このレートでいけば、わずか170円となる。今度は、そんなに安くていいのかと思った。どうも物価は、生活感覚が合わないと、なかなかその高い安いがピンと来ないようである。しかしこれで、韓国という国の一端に触れることが出来た。次の機会があれば、今度は家内とともに済州島あたりにプライベートで行ってみたいものである。

 


家内へのお土産の韓国人形








 韓国を訪問 (写 真)は、こちらから。




(2011年11月13日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:12 | - | - | - |
息子の結婚式

チャペルでの結婚式


 息子の結婚式が無事に終わった。とっても良い式だった。家内とともに、まずは肩の荷を下ろしたという気がして、満足感で一杯である。それとともに、まるで幸福のお裾分けをしてもらっているような気持ちでいる。今日もまた、卓上アルバムにした結婚式当日の写真を、家内と二人でニコニコしながら見返している。写真の中でも、お嫁さん、お婿さんともに自然と笑みがこぼれ、二人とも、本当に幸せそうである。また、私の親類はもちろん、遠方からわざわざ大挙して出席された先方のご両親の親戚縁者の方々皆さんの顔が、喜びに包まれている。結婚した二人が幸せなのはいうまでもないが、出席者の皆さんがここまで屈託のない笑顔を見せる結婚式は珍しいと、会場の係の人から言われたほどである。

 お嫁さんの方のお宅は今回が子供たちの中で最初の結婚式ということなので、かなり力が入っていたようである。ところが、私たちの場合は、これが最後の子供の結婚式であることから、まあ何というか、我々のサイドは「ああこれで終わった。終わった」という感じで気持ちに総じて余裕がありすぎた。だから、緊張するどころかむしろ気持ちが弛緩してしまい、万が一にも失礼がなかったか、いささか気になるところである。そういうことを割り引いても、いやそれにしても、結婚式当日の写真で見る我々のニコニコした顔・顔・顔は、誰が見ても幸せがいっぱい。ついでにいえば、私、妹、母、そして息子は、明らかに同じような顔で、これはもう一族血縁であることが一目瞭然だ。昔は決してそうではなかったのに、歳をとるに連れて、親類一同の顔が同じように収斂していくなんて、思いもしなかった。げに、DNAのなせる技とは、恐ろしいものと言わざるを得ない。

 この日、息子とお嫁さんが挙式したのは、日本橋にあるホテルである。私たちは指定の美容室に朝早く行き、家内は髪のセット、私は既に支度が終わった新郎新婦が館内でプロが写真やビデオを撮るのに付いて回った。実は私も愛用のカメラE−P3を持って、プロの邪魔にならないように気を付けながら、写真を撮ったのである。あちらのお父さんは、この結婚式に備えて最新式のビデオカメラを買ったというから、さしずめビデオ担当である。もちろん、正式な写真やビデオは、それぞれプロにお願いしたのだけれど、写真もビデオも、被写体となる人物はどういう人かということを理解して撮らないと、どうしてもいささかピント外れのものになりやすい。たとえば、親類のテーブルの写真を撮っても、あの人とこの人は兄弟だから、バランスよく画面に収めようなどという配慮が出来る。ところがプロとはいっても全く何の縁もない人には、もちろんそういう配慮が出来るはずがないものだ。その点、私は親類中の親類、花婿さんの父親だから、少なくもこちらサイドは完璧に知っているし、あちらサイドについてもある程度は教えてもらっているので、まあ最適というわけである。それに、息子とお嫁さんの晴れ姿を自分のカメラで撮りたいという気持ちを抑えることなど、不可能なことである。

 まあ、そういうわけで、この日の朝、モーニングコートに着替える前、館内での撮影会に、私も加えてもらった。このホテルは、高層ビルのホテル・事務棟の隣に、元は著名銀行の本店を改装した建物を併設していて、その重厚な雰囲気の場所で二人の写真を撮らせてもらえる。最初は何もそんなミスマッチなところでと思ったものだ。ところが、元は銀行の重役会議が行われた部屋とか、廊下やそこに突き出ている大きな金庫の扉の前とかに、モーニングとウェディングドレス姿が並ぶというのも、実際に行ってみてみると、非日常的な感がして、なかなか面白い企画である。もちろんホテル内のあちこちでも撮る。中でも私がこれは良いと思ったのは、ホテルのレストランである。ここは、一連の内装が異国情緒あふれるものだし、お嫁さんが外に面している階段の踊り場に立ったとき、そのウェディングドレスの長い裾が階段にベールのように垂れる様は、何とも言えず優雅そのものである。それにここは、外光がふんだんに入ってくるから、二人の肌の色がとりわけ素晴らしく映る。ここで、二人をモデルに、たくさんの写真を撮った。お嫁さんは、優雅で気品があり、清楚という言葉がぴったり来る。

 それがひとしきり終わった頃、今度は二人がそのモーニングとウェディングドレス姿で外へ出て、日本橋の辺りで写真を撮るという。しかし、残念ながら私の着替えの時間が迫っていたので、私はそちらの方へと急いだ。ホテルの美容室に行ってみると、家内がもう終わりかけだったが、そのヘア・スタイルを見てびっくり仰天した。前髪が真横にすぱっと一直線という摩訶不思議なヘア・スタイルとなっている。「何それ?」と聞くと、家内もおかしいと思ったらしく、美容師さんと再交渉してまた髪のセットが始まった。それを見ていて「あれあれ、この美容師さん、また変なことをしている。髪の毛が天に向けて逆立てるなんて、これでは怒髪天を突くか、よくて雀の巣なのではないか」と思ったりしたが、それ以上ダメ出しをするとまた時間が遅れるので控えることにした。

 そこへ娘が顔を出した。こちらの方は、着ているドレスの雰囲気に合わせ、顔の前はひっつめ髪風、後ろはくるくるカール髪風で、なかなか似合っている。どうにも合点がいかなかったのは私の妹のケースで、髪とお化粧で合計1万8千円を支払ったはずなのに、美容室から出てきたその顔と髪は、どう見てもいつもと全く同じである。これなら、私の母と同じく、何もしない方が良かったのではないか・・・それにしても、「化粧」という言葉通り、もう少し化けさせてあげるべきだったと思う。おそらく、担当となった美容師の力量が足りなかったのだろう。まあ、結婚式だから、花嫁さんだけ、とびっきり美しければ、後の人は引き立て役なのだから、それで良いのかもしれない。

 親族が一堂に会し、花嫁と花婿を真ん中にして並び、皆で写真を撮った。こちらサイドは、もうすぐ3歳になる初孫ちゃんが、ネクタイをして私の膝にちょこんと座り、皆の注目の的となって照れ気味だった。この子、場の雰囲気がわかるのか、この結婚式を通じて大きな声を出すこともなく、全般的に大人しくお利口さんでいてくれて、大いに助かったし、その忍耐力に感心もした。ときどき、その場の雰囲気も読めずに泣きわめいたり、会場を走り回ったりする子供がいる。しかし初孫ちゃんは、そういうタイプではなくて、何か違う雰囲気を自然に感じ取って、それに合わせて行動してくれたようだ。爺バカ気味の物言いだが、これならちゃんとした子に育つに違いないと思った次第である。

 さて、案内されて、一同がホテル内のチャペルに向かう。水の流れる涼やかな音がし、真ん中に十字架が浮かび上がっている。向かって右手には、チェロやバイオリンやフルートの奏者がいる。左手には、後ほど合唱隊が入ってきて一列に並ぶところがある。さて、お婿さんと牧師さん(神父さん?)とともに入ってきて、正面から入り口を見据えて立った。緊張しているかと思いきや、いつもの通り、ニコニコしている。荘厳な音楽とともに、チャペルの扉が開き、お父さんに付き添われた花嫁さんが現れた。そのままヴァージンロードを祭壇に向かって進む。お父さん、かなり緊張しているのがよくわかる。「花嫁の父」の第一幕だから、当然であろう。しずしずと歩き、祭壇の前でお婿さんに交代し、二人で牧師さんの方を向く。花嫁さんのウェディングドレスの長く伸びた裾が階段の下まで続いて、とても美しい。

 まず、牧師さんの指導の下に、皆で立ち上がって賛美歌を歌う。賛美歌なんて、私にとっては何十年ぶりのことである。賛美歌312番の歌詞をいきなり渡された。それを眺めて、いったい何だこれはと思っていたら、メロディーが流れてきて、「かがやく夜空の星の光よ・・・」との歌詞が頭に浮かんだ。ああ、これは昔懐かしい歌「星の世界」だということがわかった。確か、文部省唱歌ではなかったか。まあ、どちらでもよいが、それがこのチャペル内では「いつくしみ深き 友なるイェスは、罪とが憂いを とり去りたもう。・・・」となっている。私はキリスト教徒ではないが、これは歌えるとばかりに、最後まで歌った。だんだん、結婚式のムードが高まって来た。

 牧師さんの司会が始まる。説教や司会の言葉は最初は日本語だったが、次第にアメリカ風の英語になっていった。日本語でも英語でも、まあそれはどうでもよい。よい牧師さんの言っていることは、自然に聴衆の胸に染み入り、それこそ言葉の壁を越えて良くわかる。いよいよ、この二人が夫婦になったのだなぁ・・・月並みだが永遠に幸せにという言葉が頭に浮かぶ。そっと家内の方を見ると、少し顔が紅潮しているが、まあ普段通りである。これも、二人目の余裕のなせる業かもしれない。ところが、先方のご両親は子供さんの中でも最初のご結婚なので、とりわけお父さんの眼が、心なしか潤んでいるように見えた。それも、それだろう。私だって・・・と、昔の娘の結婚式のことを思い出したのである。結婚式は滞りなく進み、牧師さんの結婚宣言で幕を閉じた。良い結婚式だった。私の母などは、「キリスト教式の結婚式は、初めて出たけれど、いや本当に良いものだねぇ」などと感想を述べていた。私は帰り際に牧師さんに、英語で心からの御礼をいい、よい結婚式で心から感動したと申し上げたら、牧師さんもこちらこそと言ってくれた。そういえば、先日亡くなった私の父にも、もう少し生きていてもらって、この孫の晴れ姿を見せたかった。教会式など、出席したことがなかったはずだ。人の寿命のことだから何ともいえないところではあるが、つくづくそう思う。

 披露宴が始まった。私たち親族の席は、右左の後方の端である。私も、なるべくたくさんの写真を撮りたかったが、何しろ花婿の父でモーニング姿の私が、会場のあちこちにカメラを持って出没するのはいささかはばかられたので、その代わり超望遠レンズで自席から撮ることにした。すると、当たり前のことだが、新郎新婦の席までに至る人々の顔が障害になって、撮影ポイントがなかなか見つからない。やっと特定のポイントを見つけて、そこから二人の表情を撮っていった。昔なら最後に両家を代表して新郎の親が挨拶していたものだが、近頃はそれも省略で、新郎自らが挨拶をして、それでおしまいというサッパリしたものだ。結婚は、家どうしではなくて、二人のものという考えが普及したからだろう。

 来賓や友達の挨拶が始まる。メインのテーブルに着いている来賓たちは、同じ法律事務所の上司や仲間たちである。特に上司の挨拶は、息子の仕事ぶりがよくわかり、とても面白かった。とりわけサウジアラビアに行ったときの活躍などは、まさに抱腹絶倒で、いかにも息子らしいなと、家内と一緒に大笑いさせてもらった。また、お嫁さんサイドの来賓は、何とこの日のために赴任したばかりの海外事務所から帰国して出席してくれたとのことで、誠に有り難いと感謝している。総じて、二人を知っている人は、良くお似合いだと言ってくれて、私も家内も本当にそうだと思い、嬉しくなった。

結婚式の料理



 会場で、新聞の号外が配られた。何かと思ったら、この二人の和服姿の花嫁花婿姿の写真が載った記事が両面に印刷されている。ここにご紹介できないのが残念だが、本当に良く出来ていると思ったら、本日出席している大学時代の同級生で、本物の新聞記者が作ったものだという。「二人は、本紙の取材に対し、『お互い思いやりを持ち、暖かい笑顔あふれる家庭を築いていきたい』とするコメントを発表した」などと書いてある。二人のプロフィール中には、息子のところには「趣味は都内散歩、読書など。モットーは『無理しない』とあり、お嫁さんのところには「趣味は映画鑑賞、料理など。モットーは『勇気を出せば何とかなる』が身上」とあった。これらのモットー、男女逆ではないかと思ったが、まあそこはそれ、いかにも息子らしい。息子は万事この調子で、中高一貫校入試 → 学士 → 留学 → 修士 → 博士 → 法曹という数々の難関を、飄々と乗り越えて来た。普通なら、どの段階でも、まなじりを決して必死の形相で勉強するところだが、この人は昔からそういうところが全くなかった。ご近所の人たちからも、「あんなに遊んでいたあの子がねぇ・・・なんで受かるの」などと不思議がられたものである。実は私も、いつ勉強しているのだろうと思っていたが、本人の心の中も、やはり「無理しない」ということだったのかと、半分わかったような気になり、そして残りの半分はやっぱりまだよくわからないところが残ったのである。

結婚式の花束



 お色直しの時間となった。まず花嫁が先に会場を出た。花婿もそれに続こうとしたのだが、そこでハプニング。友達が4人ほとで馬を作り、花婿をその馬に乗せたのである。その格好で、最初は勢いよく動き出したが、何しろ息子の体格が良すぎて、重たくなったらしい。途中で馬が崩れそうになるも、そこを何とかこらえて、出口まで走りきり、やんやの喝采を浴びていた。息子は、素晴らしいお嫁さんだけでなく、こんなに良い友達を持って、本当に幸せだと、家内と顔を見合わせた。

 しばらく披露宴会場で歓談が続き、私は、会場の特に来賓テーブルの方々と先方の親戚の皆さん方とにご挨拶をした。しばらくあって、装いも新たに新郎新婦が再登場した。息子は、グレーのモーニング、花嫁さんは薄いピンクのドレスで、頭の上に載せたピンクの花のティアラと手元に持った花束が見事なまでに気品のある美しさである。ああ、これは素晴らしい。結婚式の成否は、花嫁さんの美しさとメイン・スピーチで決まると言われるが、今日のこの結婚式は、いずれも満点である。さて、次に、友人のスピーチがひとしきり続いた後、うちの初孫ちゃんが、二人に花束を贈呈する番である。小さい体にネクタイを締め、紺色のジャケットに半ズボンを履いた姿で、お父さんに連れられてスタスタと歩き、二人の前で立ち止まって花束を渡した。皆から注目されていることで、いささか緊張気味の顔をしている。花嫁さんがこぼれるような笑みを投げかけるが、緊張したままである。それで、二人から御礼にと、小さな包みを受け取った。自分の席に戻り、それを開けてみたら、筑波エクスプレスの模型である。初めて、笑顔がこぼれて、それで遊び出した。大役、ご苦労さま。小さな体で、よく頑張った。

結婚式の料理



 さて、結婚式のハイライトであるウェディング・ケーキにナイフを入れる瞬間が来た。カメラを持っているものが集まってもよい。私もいそいそとカメラの集団の中に加わり、その瞬間を撮った。近くに行ってわかったのだが、この背の高いケーキは、普通の結婚式ならその切るところだけが本物のケーキという張りぼてなのだが、これはすべて本物のケーキとなっている。これも、息子夫婦らしい選択である。さて、ケーキを切った後、それをお互いに食べさせるという趣向がある。こういう企画は、我々の時代にはあまりなかったが、なかなか微笑ましくて、良いものである。微笑ましいといえば、会場で二人の小さい頃からの写真が映写された。何か、小さい頃から、この二人は良く似ている気がしたものである。

結婚式の花束



 そういうことで、無事に結婚式が終わった。花嫁さんはどこまても美しく、息子も堂々としていた。しばらくは仕事の上で大変な激務が続くが、このまま何とか凌いで、その道では専門家といわれる法曹になり、まずは仕事を安定させてもらいたい。幸い、お嫁さんもそういう仕事の内容は良くご存じのようだから、協力してもらえるだろう。そういうしているうちに、二人の二世誕生ということになれば、ますます絆は深まるし、良い家庭が自然と築かれると思う。まずはこの二人に、永遠の幸あれかしと、心から思う今日この頃である。





(2011年11月6日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:08 | - | - | - |
徒然213.表参道を散歩

石津謙介さんの写真



 表参道を散歩した。といっても、カメラ片手に歩き回っただけなのだけれど、一番の目的は、表参道交差点の山陽堂書店の壁に大きく、石津謙介さんの写真が描かれていて、それを撮りたかったためである。石津謙介さんと聞いても、今の人で知っている方はほとんどないと思う。ましてや、直接、言葉を交わした人は、もうあまり残っていないと思うが、実は私は、石津謙介さんとご一緒して、話をしたことがある。

 その前に、石津謙介さんがどういう方かといえば、以前書いたものと重なるが、ここで敢えてご紹介しておこう。石津謙介さんは、1911年10月20日に岡山県の老舗の紙問屋の家に生まれた。明治大学商科専門部卒業後、中国天津で衣料会社に入り、帰国後、大阪レナウン研究室に勤めたが、1951年に同地でヴァンヂャケットを創業した。商標のVANを付けて最新のファッション商品を創出し、55年には東京の青山に進出して本社を置いた。ブレザーとボタンダウンシャツに白い靴下というアメリカ東部のアイビー・リーグの大学生のファッションから、アイビー・ルックを生み出し、若者の間に大流行させた。また、石津さんは、東京オリンピックの日本選手団のブレザーをデザインしたり、TPOという言葉を作り出したことでも知られている。残念ながら、1978年に同社は倒産したが、その後も食べ物などに活躍の場を広げて、常にファッションの最先端に位置しようと努めていたが、2005年5月25日午前2時2分に肺炎で死去された。享年93歳ということである。

 私はある日、仕事でたまたまその石津謙介さんと、シンポジウムのパネラーとして同席する機会があった。会場に到着するまでに時間がなかったので、あわててタンスからひっぱり出したのが、かつて無理した買ったジーパン生地風のシャツである。あまり考えずにそれを着て、それからシンポジウムの場に飛んでいった。討論が終わった後、石津さんが私に向かっていった。「あなた、そのシャツとジャケットの組み合わせは、なかなかいいですよ」。ああー、VANの創始者にして男性ファッションの天才教祖から、誉められてしまったのである。

 ところで今回、2010年10月から11月3日にかけて、表参道の交差点角にあるその山陽堂書店で、石津謙介さんの生誕百年展が開かれた。これは、石津さんの会社VANが青山に来てからここが「VAN」タウンとよばれるようになり、それ以来、青山がファッションの街として大きく発展したという。そういう石津さんに対して地元の人からの感謝の思いの現れであるそうな。

アニバーサリー


ハロー・キティのはとバス



 いつも日曜日には、表参道の隣の外苑前駅の室内テニス場で、童心に還ってテニスボールを追いかけている私なのだが、表参道の周辺は、表参道ヒルズとその近くの骨董品店しか行ったことがない。そういうわけで、今日もまた、表参道の交差点から表参道ヒルズに向けて歩いて行った。途中、アニバーサリーがあり、いつもの通り結婚式が行われていた。ハロー・キティのはとバスが通って、道行く女の子たちが歓声を上げるという場面があったりした。表参道ヒルズに着くと、表にディスプレイの馬車の模型があり、家族連れが代わる代わる写真を撮っていた。

表参道ヒルズの馬車の模型


表参道ヒルズのクリスマス・ツリー


表参道ヒルズのクリスマス・ツリー



 表参道ヒルズの中に入った。まだ11月の初めというのに、もうクリスマス・ツリーが飾られていた。それが青、ピンク、黄色などに染まり、とても綺麗だった。私は今年は新兵器を持っている。それは、カメラE−P3のスターライトという機能で、普通なら専用のレンズを付けるところだが、このカメラは、ボタンひとつでそれが可能となる。光が四方八方に十字形に流れて、とても美しい。

表参道ヒルズのクリスマス・ツリーのスターライト撮影


表参道ヒルズのクリスマス・ツリーのスターライト撮影


 表参道ヒルズを出て、帰る途中、新潟県のアンテナ・ショップの前で、不思議な着ぐるみ人形がいた。思わず、まじまじと見てしまった。これはひょっとして、雪国湯沢のゲレンデを開いた伝説の外国人を模したものらしい。

雪国湯沢のゲレンデを開いた伝説の外国人




(2011年11月5日記)


カテゴリ:徒然の記 | 00:56 | - | - | - |
| 1/1PAGES |