本場おわら風の盆

越中八尾駅のおわら風の盆のポスター



 富山県の八尾では、毎年9月1日から3日まで、おわら風の盆が行われる。もの悲しい胡弓の音色の調べに乗って、時に優雅に、時に力強く踊る独特の盆踊りである。東京の白山にある京華商店街では、八尾出身の方が商店街会長をしておられるという関係があって、毎年10月になると八尾のグループの皆さんを招いてこのが踊りが通りを練り歩く。そこで、この踊りに魅せられた私は、一度は是非とも本場の踊りを見てみたいものだと思っていた。ところが9月早々の本番の時期にはいつも用事が出来て、なかなか見物に行くことがかなわないまま今日に至った。このままでは今年も仕事の関係で、9月1日から3日の本番の踊りは見られない。しかし、富山県東京事務所からいただいたパンフレットで、8月20日から行われる前夜祭なるものがあると知った。そこで、せめてこれに行ってみようと考えてスケジュールをやり繰りし、とうとう8月27日の夕刻、富山駅に降り立つことが出来た。そこから高山本線で越中八尾駅に着き、駅舎の待合室の中を見上げると、おわら風の盆のポスターが貼ってある。ああ、これだこれだと思ってそれらを子細に見ていくと、どうも町内によって、特に女性の衣装が違うようだ。なるほど、なかなか風情があるなと感心しながら、改めてポスターを眺め回しているうちに、ようやくここまでやって来たという実感が湧いてきた。

越中八尾の西新町の道の両脇にあるおわら風の盆ぼんぼり



 駅前から出ている町内循環バスに乗って、当日の会場である西新町・東新町へと向う。午後7時頃に着いたのだが、もう道の両側にはたくさんの人々が、敷物を敷いたり小さな腰掛けに座ったりしている。東京なら、押すな押すなの大騒ぎとなるところだが、一列目の人がそうやって座っていてくれるので、見やすいし撮りやすい。これは自然に出来たものなのかどうかはわからないが、なかなかマナーが良い。なんでも、前夜祭ステージというものがあって、そこからほど近い八尾曳山展示館というところでステージで、おわら踊りの観賞が出来るという。それが午後7時半頃に終わるので、それを過ぎるとそこからどーっと沢山の見物客がはき出されてこちらへと来るという話を聞いた。

越中八尾の西新町の道の両脇で待つ見物人


 だから、見物の場所をのんびりと探せるのは、それまでのことらしい。さて、それではどこで写真を撮ろうかと思い、道の両側で適当なところを見渡していたところ、地元の人たちが集まっている建物があった。その向かいには、小さなよろず屋さんがあり、その前に自動販売機が置いてあってその周囲が結構明るい。これは、写真を撮るときの光源になるかもしれないと思って、その前に陣取ることにした。陣取るといっても、単にその場で立っているだけのことである。やはりこの見物には、持ち運べる小さな椅子が、必須のアイテムである。

 さて、30分が経過した。通りの人の数が若干、増えただけで、何も変化はない。辺りは、すっかり暗くなった。この暗さで、果たして写真が撮れるものだろうかと思い、道行く人にレンズを向けて、申し訳ないが被写体になってもらった。そしてわかったことは、じっと座っている観客を撮るのには、このカメラE−P3は、なかなか良い写真が撮れる。ところが、さっさと歩く人にカメラを向けると、いずれもとんでもないゴーストになる。つまり、道の両側に座っている見物人ならばはっきりと撮れるものの、肝心のおわら節の踊り手さんたちは動いて行くので、まるでおばけのように写るということだ。いくらなんでも・・・お盆の季節とはいえ・・・これでは写真にならない。いったい、どうしようか・・・フラッシュを使うとわけなく撮ることができるが、だいたいこういう場の、このような雰囲気のところで強い光源を使うのは、マナーに欠ける。何とか、フラッシュなしで撮ることができないだろうかと思い、シャッター優先でいろいろと試してみたが、シャッター速度を10分の1秒にしても、全面的に真っ暗となって写真にならない。ISO感度を最大の12800に上げて、シャッタースピードを早くしても、画面の粒子が粗くなって、よろしくない。試行錯誤を繰り返し、結局、踊りのビデオは撮れるが、写真は撮れないということがよくわかった。

 でも、それではせっかく写真を撮るぞと思って、わざわざ東京くんだりから富山県までやって来た甲斐がないというものだ。あれこれ考えた末、こうすることにした。まずは、ビデオを撮ってこれで記録を残す。それから写真を連写で撮り、そのうち使えそうなものだけを選ぶ・・・というのは、おわら節は、踊りのテンポがとても遅いし、ポーズを作って一瞬、止まる時がある。そういう瞬間に連写で撮れることが出来れば、それで良しとしなければならない。だから、もう私は、シャッター優先だISO感度だなどという面倒な設定を止めて、オートかPモードでいくことにした。この方針は、意外と悪くなかった。というのは、おわら風の盆の最も雰囲気のあるところは、踊りだけでなく、あの胡弓の音色と歌声である。ビデオは、そのいずれをも記録してくれたので、あとから家に帰って楽しむことが出来た。

越中八尾の西新町の公民館の前。ホワイト・バランスは電球色



 それから、技術的にどうしようかと迷ったことは、ホワイト・バランスである。道の両脇にある街路灯は、いずれも電球色なのに、私がいる場所は自動販売機のせいで蛍光色で、色が混ざっている。だからというわけでもないが、カメラを向ける先が15度ほど違うだけで、撮れる写真の色合いが全然違うのである。踊り手は、もちろんそんなことにかまわずに、どんどん進んでくるからホワイト・バランスをいちいち調整しているヒマはない。結局、これもオートにした。もっとも、向かいの建物に集まる地元の人たちを撮る際には電球色を選択したら、確かに色合いがとても良くなった。

越中八尾の西新町のおわら踊り


越中八尾の西新町のおわら踊り


越中八尾の西新町のおわら踊り



 そうこうしているうちに、午後8時を回った。道の向こうの方から、囃子が聞こえてきた。ああ、始まったようだ。じっと待っていると、近くの人が「あの踊りはゆっくりしているから、なかなか来ないんだよ」と言ったので、皆で大笑いをする。さらに15分ほど待っただろうか、ああ、やって来た。先頭の向かって左には、男衆、右には女衆がいて、その間には、まだ学齢期に達していないような男の子たちがたくさんいて、踊ってくるではないか。なかなか、可愛い。あわてて、カメラを向けて、ビデオを撮る。このE−P3のビデオは、焦点を追いかけて連続して合わせてくれるのが特徴で、これは先々代のE−P1よりも進歩した点だ。それはいいのだが、この場合は、周囲は暗いし、被写体は遅いとはいえ移動を続けるし、加えてあちこちでフラッシュが焚かれるから、カメラの内蔵コンピュータが迷ってしまったようで、焦点がウロウロしていかにも困った様子を見せるときもあって、可笑しかった。まあしかし、おおむね及第点のビデオが撮れたと思う。

越中八尾の西新町のおわら踊り



 さて次に、写真の方である。Pモードにして、ともかく連写を試みた。さてその結果はというと、実は、ほとんど使い物にならなかった。ああ、残念無念だ。当初から想定していたこととはいえ、これほど撮りにくいものとは思わなかった。一番よくあったケースは、ひとりの踊り手さんは、非常によく写っているが、その前後の踊り手さんは、もうボケにぼけているというもので、これは、要するに踊りが各人てんでバラバラなのである。プロだとこういうことはないし、あっても少ないだろうが、これは素人の皆さんの年1回の盆踊りなのだから、まあ当然のことかもしれない。これでは、せっかくはるばる東京からやってきた甲斐がないと思い、申し訳ないが、何回か内蔵フラッシュを使わせてもらった。こちらの方は、フラッシュの光が届く範囲は、まあまあの写真が撮れた。ただ、踊り手さんたちには、迷惑だったかもしれないと反省している。

越中八尾の西新町のおわら踊り



 そうやって通りを通り過ぎる「流し」の踊りは、私が撮影に手間取っているうちに、あっという間に行ってしまった。これでは、愛想がないなと思っていたら、地元の人がやってきて、「あんたたち、運が良いね。ここで『輪踊り』をやるからね。ちょっと下がってね」と言われた。それでなぜここなのだろうと思って、向かいの格子柄の建物をよく見ると、「西新町公民館」とある。ああ、なるほどなるほど・・・いやいや、確かに運が良かった。見ていると、目の前に長細い輪を作るように椅子が並べられ。その内側に胡弓を持った囃子方が何人か入り、あのもの悲しいメロディをかき鳴らし、それに合わせて風の盆の歌が朗々と歌われる。そして、地元の皆さんが編み笠を外し、背にしょって、そこで輪になって踊り出した。小さい男の子たちもいれば、頭に飾りを載せた中学生のような女の子たちも混じっている。わあ、すごい、目の前でやってくれていると、感激した。やがてアナウンスがあり、「皆さんも、どうか入って一緒に踊りましょう」という。その声に釣られて、何人か見物人がその輪の中に入り、和気藹々と踊り出したのである。これで、都会の盆踊りと変わりがなくなった。でも、どの人は楽しく踊っている。いいなあ、と思っていて、ついつい写真を撮るのを忘れてしまった。

越中八尾の西新町のおわら踊り








 本場 おわら風の盆(写 真)は、こちらから。



(2011年 8月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:18 | - | - | - |
財政危機と10年後の職業

金箔の筒の天井。日本橋室町にて


 日本の財政は、毎年の国の歳出92兆円のうち、税収と税外収入が約半分の48兆円しかなく、残り44兆円については国債を発行してようやく賄っている。つまりは、非常に危うい状態にあるのである。その結果、国債の発行残高は、668兆円(平成23年度末)と、とてつもない額に積み上がって来てしまっている。これを一般家庭の一月分の家計にたとえると、月収が40万円なのに対して、支出は家計費が59万円(うち田舎への仕送りが14万円)、ローンの元金払いが18万円という状況で、不足分の37万円を借金に頼っているから、ローン残高が6,661万円にも達しているという有様になる(財務省試算)。

 もう少し数字を続けるが、国の歳出のうち、社会保障費は31%、地方交付税交付金は18%、文教科学振興費は6%、公共事業費は5%、防衛費も5%、その他が11%で、国債の債務償還と利払いが23%になる。しかもこのうち、28兆円と最も多い社会保障費は、毎年、1兆2,000億円もの自然増が見込まれるというのである。そうこうしているうちに、気が付いたら社会保障の重みに耐えかねて呻吟する国家になりかねない。いや、我々が気が付かないだけで、既にもうなっているのかもしれないのである。

 経済には門外漢の私でも、このような調子では、あと数年もせずに財政は行き詰まり、その前に日本国債の格付けが大きく引き下げられるのは、火を見るより明らかである。その結果、たまたま最近、欧州で大問題となっているギリシャ、スペイン、ポルトガルという財政破綻国家並みの大混乱に陥るのではないかと懸念している。ところが、現実に起こっていることは、これとは全く逆の現象なので、ただただ、びっくりするばかりだ。すなわち、近頃では日本円が国際的に評価されて、8月19日のニューヨーク外国為替市場では円相場が急騰し、一時1ドル=75円95銭と、戦後最高値をつけたのだから、私には何が何だかさっぱりわからない。

 その背景としては、世界経済への先行き不安がある。米国では米国債の償還問題で米議会とオバマ政権とがデフォルト覚悟のギリギリの攻防をみせた。このため米国債の格付けが1段階引き下げられ、しかも雇用情勢などの経済指標が非常に悪くなりつつある。そればかりか南欧の大借金国を救うか否かで独仏の二大国がはっきりとした態度をなかなか決めきれないうちにユーロ相場が混乱に陥った。そこで、ドルとユーロに嫌気がさした世界の投機資金が日本円の買いに向かったというわけらしい。何でもそうだが、こうして後講釈を受けると、なるほどそうだったのかと思うのだけれど、こういう話は、事件が起こる前に説明してくれないと意味がない。まあ所詮、経済の専門家といわれる人たちも、オツムのレベルは我々程度なのかもしれないと確認するくらいのことである。

 ところで、8月24日、米国の格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、日本国債の格付けを上から3番目の「Aa2」から、一つ下の4番目となる「Aa3」へと引き下げたと発表した。ただし、格付けの見通しは、引き続き「安定的」としたようだ。その格下げの理由として同社は、「多額の財政赤字と政府債務の増加、頻繁に首相が交代する政治の不安定さが経済・財政改革を妨げており・・・震災と津波、福島第1原発事故が景気回復を遅らせ、デフレを悪化させた」と説明した。

 そんなことは、ムーディーズからわざわざ言われなくとも全くその通りである。小泉首相以降の自民党政権では、3代続けて毎年のように首相が代わった。一昨年ようやく民主党が政権交代を果たして、これで長続きするかと思ったのも束の間、初代の鳩山首相はわずか9ヵ月も持たないで退陣に追い込まれ、続く菅首相は辞めろコールの中、粘り腰を見せたが、それでも1年と2ヵ月も続かずに退陣表明をするに至った。その後釜には、本日時点で7人が立候補の構えをみせている。

 ところが問題だと思うのは、そのうち増税の可能性に言及している候補者は、野田佳彦・財務大臣のたった1人だけで、残りの6人はいずれも増税に否定的だということである。つまり、眼前に財政破綻という文字を突き付けられるまでは、責任もってこれに立ち向かおうという気概のある政治家がほとんどいないというわけだ。このままでは、国民も政治家も、かつての平成花見酒経済以来の太平楽な気分に、ついついボーっと浸り切ってしまって、いつまで経っても目が覚めないのではないかと暗澹たる気持ちになる。そういうことで、私としては、これからの日本の行く末が大いに気になるところである。

 いやいやこれは、日本経済だけでなく、我々日本人の一人一人の明日の糧が掛かっている問題なのである。早い話、私もあと数年すれば年金生活に入るだろうから、そのときの自分の懐具合が心配にならないといえば、嘘になる。私のように60歳の壁を通り越してしまうと、自分の年金の額は、今さらどうにもならないので、それはすべての公職から身を引いたときに、身の丈に合わせて考えることとしている。

 今はそれより、これから先、次々と迫り来る内外の敵に対し、日本人、とりわけ若者はこれからどう生きていくべきかを真剣に考えていく時に来ていると思う。内外の敵とは、一つには着々と迫りつつある財政破綻、二つには中国やインドなどの追い上げ、三つには少子高齢化社会、四つには長引く経済低迷、五つには否応なしに始まる経済のグローバル化である。

 これほど次々に難しい課題が降りかかって来る中で、これから社会に出る人は、生きていくためにどういう職業を選ぶべきだろうかと、私はついつい考え込んでしまう。もちろん、社会全体の視点からすれば、あらゆる職業に優秀な人材が配置されていくことが望ましいし、国家が最後まで国民の面倒をみてくれる福祉が充実した社会、そして家庭を構成する家族すべての幸福が実現されていることが理想である。しかし、昔の共産主義の世界観ではあるまいし、そんなことはあり得ない絵空事である。早い話、東京の私の住むマンションでも、30歳を過ぎてどうかすると40歳にもなるシングルの子供が、男の子も女の子もちっとも家を出て行ってくれないと嘆く親の多いこと、多いこと・・・非正規社員なので収入が少ないから結婚しても妻子を養う力がなくて仕方なく親と同居している男の子、あるいは、もらった給料をすべて衣服や旅行に使うという独身生活をエンジョイしている女の子が、そういうパラサイト族の典型である。

 その前提として、昔はあった親からの「結婚しなさい」という陰に陽にかかる圧力、近所のおばさんで仲人が飯より好きな人、職場での身を固めろとの上司の言葉などが、今は雲散霧消し、古き良き社会が崩壊してしまったことがある。また、かつてのように、社会のあちこちでフツフツと煮えたぎるようになっていた高度経済成長の竈の火が夢幻のように消えてなくなり、社会の構造そのものがまったく変わってしまったことも、その違いの大きな要因であろう。まあしかし、そういう変化の是非を問うても、仕方がない。なってしまったものは、なってしまったのだ。そんなことより、これからの沈滞し停滞する社会、しかも財政危機に端を発する厳しい経済状況の中で、どういう職業なら、そこそこの収入を確保して安定した豊かな生活をすることが出来るのだろうか。

 そう思っていたら、東洋経済の今週号(2011.8.27)に、「10年後に食える仕事、食えない仕事」(渡邉正浩著)という記事が載っていたので、とても興味深く読んだ。結論からいうと、私の考えに近いところもある一方、そうでないところもあり、いささか出版界への身びいきが過ぎて分析が甘いのではないかと感じるところもある。それはともかく、この記事の秀逸な点は、2つの座標軸を提示しているところである。一つは、日本人としてのメリットを生かせるかどうか、2つは、知識集約的か技能集約的かである。それによって、4分類を行っている。(なお、[ ]内の言葉は、原文ではわかりにくいので、私がネーミングし直したものである。)

 (1) グローカル [日本的専門職] 日本人としてのメリットを生かせて知識集約的であるもの。(医師、弁護士、コンサルタント、マーケティング、グローバル営業、人事、システムエンジニア、記者・編集者)

 (2) ジャパンプレミアム [世界的専門職] 日本人としてのメリットを生かせないが知識集約的であるもの。(経営者、CFO、ディーラー・トレーダー、メーカー基礎研究者、会計士、ファンドマネージャー、財務経理、パイロット)

 (3) 無国籍シングル [日本的技能職] 日本人としてのメリットを生かせて技能集約的であるもの。(メガバンク地域営業、住宅営業、美容師、スーパー技能職、保険セールス、料理人、看護師、ホテルマン)

 (4) 重力の世界 [未熟練労働職] 日本人としてのメリットを生かせなくて技能集約的であるもの。(プログラマー、メーカー汎用品開発者、介護サービス、御用聞き営業、コールセンター、タクシードライバー、レジ打ち、ウェーター)

 そして渡邉氏は言う。「現在の20代、30代は、好むと好まざるとにかかわらず、グローバル化を前提として10年後のキャリアを考える必要がある。結論からいえば、日本人の強みを生かさない手はない。日本にいると周りが日本人だらけなので認識できないが、強みとはあくまで相対的なものだ。その場合の比較対象は10億人単位で存在するインド人、中国人になる。」

 いや、私も全くその通りだと思う。ともかく、中国人とインド人の上昇志向と押しの強さ、そしてハングリー精神と個人主義の徹底は世界一である。あれだけ人口が多い中で周囲の凡人から頭ひとつ抜きん出るためには、仕方のないことなのだろう。私が東南アジアに住んでいたとき、1ドルでも高い給料を求めてジョブホッピングを繰り返す人たちをよく見てきた。家のメードは、皿を落として壊したのに、「私が落としたのではない。皿が勝手に落ちた」といって責任は否定する。サービス業なのに、笑顔のひとつもない。そういう海千山千の個人主義の人たちを相手に勝負するわけであるから、得てして万事に遠慮がちな日本人は、ただでさえ損をする立場に置かれる。

 私に言わせれば、普通の日本人は、もっと確固たる信念を持って自己主張し、自らの言い分を徹底的に相手に受け入れさせなければならないのである。「いや、そんなこと言ったって、和をもって貴しとなすという聖徳太子以来の日本の伝統に反する」とか、「だいたい、学校教育からして出る釘を打つような教育をやっているのだから、そんなこと無理ですよ」という人もいる。確かに大多数の日本人には難しいかもしれないが、それでもたまには例外もいる。私が東大の大学院で教えていたとき、とても熱心な学生がいて、何でもガリガリと吸収しなければ収まらないという雰囲気なのである。おお、頼もしいなと思っていたら、卒業後はやっぱり、外資系コンサルタントに就職した。上の分類でいえば、(2)ジャパンプレミアム [世界的専門職]である。この分野で生きていくには、はっきり言って、日本人であることを捨てて、徹底的に世界の論理で戦うしかない。

 まあ、いずれにせよ、この(2)ジャパンプレミアム [世界的専門職]の類型になるには、高度な専門性と国際性が必要であるから、アメリカの大学に留学してMBAを取得しておくことが最低限の資格になるだろう。そして、朝から晩まで必死になって働く必要がある。経営陣になるにしても、日本企業のように年齢を重ねればトコロテン式に偉くなるというというものではなく、若い頃から選抜されて、上になればなるほど働かなければならない。その代り、欧米の企業のように、トップは何十億円という報酬を手にすることができる。この類型のディーラーやトレーダーも、四六時中、神経を研ぎ澄まして世界の金融や経済の動きを追い、たった一瞬で判断を下してそれが吉と出れば何億円もの報酬、凶と出ればお払い箱という厳しい世界である。図太い神経の人でなければ、持たないかもしれない。聞くところによると、最近は公認会計士がこの類型に入るらしい。というのは、会計基準がIFRS(国際財務報告基準)にとって代わられるからである。国際化のとばっちりである。

 順序は逆になったが、上記の分類のうち(1)グローカル [日本的専門職]の中でも一番のお勧めは、やはり医師と弁護士である。勤務医の年収は、中堅でも1500万円は上回るし、開業医になれば年収はおそらく2000〜3000万円くらいである。だからというわけでもないが、開業医でその子供を医学部に行かせる人も多い。私立大学医学部だと、家が一軒建つほどの高額の授業料を払ってまで医師にさせようというのだから、それだけ価値があるものと思われている。ただ、日本の財政がこれほど逼迫して来ると、いかに医師会が政治力を発揮したとしても、今の健康保険制度を支えきれなくなることは明らかである。そうなると、診療報酬の定額化と混合診療の解禁が行われることは不可避であろう。すると、お金持ちはたくさんお金を使って高度な最新治療を受け。そんな余裕のない人は、定型的な治療で我慢せよということに行きつく。その結果、優秀な自由診療技術を提供できない普通の医師の年収は、激減するのではなかろうか。しかし、そんなリスクはどの職業にもある。これは、腕に覚えのある人に限って、お勧めしたい職業である。

 医師と並んで(1)グローカル [日本的専門職]のもうひとつの雄となっている弁護士という職業である。日弁連の統計によると、収入が一番多いのが1000〜2000万円という層であるが、はっきり言って、いまや弁護士に、かつてのような高収入を期待することは出来なくなってきた。その大きな要因は、10年前の司法制度改革で、司法試験合格者の数が激増したからである。それまでの年間500人程度というレベルから、最近では2000人を上回るようになり、過当競争が起こっているのである。このため、かつては先輩弁護士の事務所に居候させてもらう「イソ弁」が基本で、これによって仕事を覚えていったものなのに、最近では軒先だけを借りて給料は出ない「ノキ弁」、自宅で携帯電話ひとつで仕事をせざるを得ない「タク弁」「ケータイ弁」というのも珍しくなくなった。そればかりか、登録をすると弁護士会費を払わなければならないから敢えて登録をしないという者まで現れ、昨年はその数が修習を終えた者の11%にものぼった。当然、弁護士の収入も下がりつつあり、司法修習を終えて弁護士になったばかりの新人弁護士の給与は、かつては500〜600万円程度だったものが、最近では300万円くらいに落ち込んでいる。もっとも、東京の大手事務所で渉外関係や企業法務を扱うところは、新人にまだ1000万円を超す給与を提示しているが、これは最も恵まれた処遇である。ただし、その代り仕事はきつい。毎日午前2時・3時まで仕事をし、土日もなく働かなければならない。ワーク・ライフ・バランスが最悪といったところである。まあしかし、その激務に耐えられる体力と知力があるというのであれば、お勧めであることには、変わりがない。

 (1)グローカル [日本的専門職]の部類に入っている職業の中にコンサルタントがあるが、これはまあ、そうかもしれない。何しろ1プロジェクトで何億円も稼いで、さあ次とばかりに去っていく、まるで狩猟民族みたいな人たちだからだ。マーケティングやグローバル営業、人事もそう思う。特に、グローバル営業などは外国に住んでいてよくそういう日本人とご一緒させていただき、いやまあ、本当に押しが強くてめげないなと感心したことがある。システムエンジニアというのも、日本企業の仕事の流れや発想を熟知していないと出来ない仕事だから、プログラマーと違ってこれはそう簡単に中国人やインド人にとって代わられることはないだろう。それはともかくとして、記者・編集者を(1)グローカル [日本的専門職]に入れるのには、私には異論がある。これは確かに日本語に対する深い知識がなければならないが、そもそもインターネット時代で、誰でも情報の発信が出来るようになった。早い話、既存のマスコミの果たす役割が小さくなりつつあるのである。現にアメリカでは、新聞が次々に休刊してインターネットに移行しつつあり、その過程で記者の大規模リストラが進んでおり、記者の収入が激減している。ところが日本のマスコミはまだそういう憂き目には逢っていないが、あと5年もしないうちに、同様の道をたどるものと思われる。だから、あまりお勧めしたくない職業である。

 以上のような(1)グローカル [日本的専門職](2)ジャパンプレミアム [世界的専門職] が、大学院程度の学歴が必要であるのに対して、(3)無国籍シングル [日本的技術職]は、手に職を付けている職人の世界であるし、(4)重力の世界 [未熟練労働職]は、もろに中国人やインド人とぶつかる世界である。前者はともかく、後者の未来は暗い。もちろん、当初は外国人単純労働者の移民は厳しく抑制されるものの、そのうちそういう規制も日本的にあやふやで曖昧になっていき、いつしか撤廃されるだろう。すると、この種の外国人労働者が日本中にあふれて、こうした単純労働の職から日本人はどんどん追い出されるか、あるいは賃金が引き下げられる方向に働くことが、容易に推定できる。これに、日本の財政危機と時期が重なると、最悪の事態になりかねない。そうならないことを願うが、近頃の私の予感は、どうも当たってしまうことが多いから心配である。



(2011年 8月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:06 | - | - | - |
東京大塚阿波踊りを撮る

大塚阿波踊り



 8月20日、文京区の大塚駅南口で、阿波踊りの催しがあった。第39回目となるらしいが、地元の皆さんが、老いも若きもごく小さい子たちも、流し踊りに輪踊りにと、それぞれたいへんに頑張った。やっとさー、やっとさーの掛け声、ピピロ・ピロピロ・ピイロピロの笛の音、ドドン・ドンドンドーンの太鼓の大音響が、まだ両耳から聞こえて来るようだ。

 現地は、私の自宅から地下鉄と山手線で15分程度のところにあるので、見物に行った。実は、新しいカメラのオリンパスE−P3を試す絶好の機会なのである。今年は節電のために午後3時頃からの日中の開催で、天気は曇りだった。そこで、踊り手の早い動きになるべくついて行こうとシャッター・スピードを250分の1秒とし、それから女性の踊り手の場合はどうしても編み笠で顔が暗くなるので、それを補うために+0.3だけ明るくなるように露出補正をし、加えて中央部露光にして、撮ってみた。(ちなみに、後からマニュアルをよく読むと、顔優先のオートフォーカスだけでなく、瞳優先のオートフォーカスという機能があった。これは、後者はカメラが自動的に人物の顔の瞳まで検出して、ピント合わせやデジタルESP測光の調整をやってくれるというから、恐れ入る。ただ、踊りのように激しく動いているときのような被写体には、使えないだろう。)

大塚阿波踊り


大塚阿波踊り



 すると、まあまあの写真となったが、やはり難しいのは焦点合わせである。流し踊りをしながらやって来る複数の人物を撮ろうとすると、ただでさえ踊る動きが速い上に、目の前を進む速度もけっこう早い。だから、焦点を合わせてじっくり撮ろうなどとしていたりすると、もう目の前に来て去って行ってしまう。そうなると、いったん合わせた焦点が使えなくなるし、肝心の踊り手が画面から外れ、出て行ってしまう。だから、シャッターを押すのに躊躇してはいけないのである。それにようやく慣れると、今度はまた別の問題が生ずる。

大塚阿波踊り


大塚阿波踊り



 横に並んでやってくる行進を斜めから撮っているので、どうしてもそのうちの誰かの顔に焦点を合わせなければならない。すると、当たり前だけれど、他の人に焦点が合わなくなる。被写体はどんどん動くから、狙った人物に合焦しているなら良いのだが、そうでなくてシャッターを押すと写真全体がダメになるという繰り返しである。それは特に換算後で400ミリとなる超望遠レンズを一番クローズアップしたときに起こる。これはやはり、誰かを集中的に、大きく撮るしかない。そのようにしてしばらく四苦八苦しているうちに、中央に狙った人物が来る構図となる写真がようやく何枚か撮れた。

大塚阿波踊り


大塚阿波踊り



 ところで、E−P3の焦点の合い方は、素晴らしいの一言に尽きる。あれだけ踊り手が激しく動いているのに、オートフォーカスはあっという間に合うし、あんなに遠くにいる踊り手さんの睫毛の一本一本や、菅笠の細かい線まで見えるほどぴたりと決まる。つくづく、これは良いカメラである。これから、夜景なども試したいものだ。

大塚阿波踊り


大塚阿波踊り



 また、オリンパスE−P3には、フルHDのビデオが撮れる機能がある。阿波踊りの行進などは、まさに絶好の被写体なのであるが、初めて撮ったので、慣れないことばかりである。家に帰って再生してみると、よく写っているし、画面も大きい。ただ、ファイルを見ると、拡張子が.MTSなのである。これは、デジタルカメラの動画と同じだ。あれあれ、MPEGではないのかとがっかりしたが、フリー・ソフトでMPEG4に変換できるらしいし、それもあまり画質を劣化させずに、データ量を4割程度まで圧縮できるという。今度、試してみようと思う。(なお、これは記録がてらに書いておくことだが、E−P3においては二つのボタンF1とF2に、自分がよく使う機能を割り当てることが出来る。E−P1のときはひとつだけだったので、顔の検出を割り当てていたが、このE−P3では、F1にオートフォーカスを全画面にするか、それとも中央の一点にするかを割り当て、F2に画像形式をJPEGにするかRAWにするかを割り当てた。)

大塚阿波踊り


大塚阿波踊り


大塚阿波踊り


大塚阿波踊り


こんなお姉さんたちもいた!




(2011年 8月20日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:55 | - | - | - |
徒然207.徒然なるままに

半蔵門駅で見かけた水槽



 iPhoneのアプリとして、角川書店が徒然草を出していたので、それをダウンロードし、暇なときに読み始めた。半世紀ぶりに兼好法師と向き合うことになる。幸いなことにまだ半分くらいはうっすらと覚えている懐かしい文章ばかりだ。若い頃に覚えるというのは、それこそ一生の財産になるようだ。およその意味もすんなり頭の片隅に浮かんでくるから、何が書かれているか、かなりわかる。どんどんと読み進んでいった。私もそれなりに人生経験を積んできているから、兼好法師の心境が良くわかるようになってきたのかもしれない。たとえば、その始まりの序段には、次のように書かれている

 つれづれなるままに日暮らし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ。

 いやこれは私がパソコンに向かうときの心境と同じだと悟った。学生のときには、硯に向かって文章を書いただけで、どうして心が千々に乱れて気が狂いそうなほどになるのかさっぱり理解できなかった。しかし、確かに今は、パソコンのキーボードに思いついた文章を打ち込んでいくと、ああでもない、こうでもない、そういえばこんなことがあったなと、まさに心がキーボードの上を千々に彷徨っている感じがする。これは、要するに歳をとるにつれて色んなエピソードが次々に頭の中に積み重なってきて、それをどう処理しようかと私の頭がオーバーヒートしているときの、その様子なのである。まあ長く生きてきて、良くも悪くも種々雑多な知識が溜まってきているから、その蓄積がなせる業なのだろう。

 最近は、やはり亡くなった父のことがよく思い出される。父も意外とマメな人だったので、たとえば20冊近い沢山のアルバムに、昔からの写真が整理してある。ただ、昔風のアルバムなので、一冊がとても重い。写真だと色が褪せるし、後々まで残るかどうかもわからない。今度帰ったときに、これらをすべてデジタル化してみようと思っている。仏壇でチーンとするより、故人を偲ぶという意味では、はるかに良いと思うが、どうであろうか。

 ついでに言えば、もし私が亡くなったとき、あんな田舎の墓に葬られたりすると、私の世代の人はともかくとして、それを過ぎると誰も墓参りなどに来てくれるはずもないことは目に見えている。それくらいなら、東京の真ん中のロッカー式のお墓で、ボタンを押せば黒い御影石の自前のお墓がガガガーッと出てくるという方がよほどいいではないかと家内に言うと「そうですかねぇ」と、あまり賛成の様子ではなかった。まあ、先の話だから、いずれ息子に決めてもらおう。

 それより、私もせっかく、パソコンとインターネットに習熟しているのだから、私のホームページ「悠々人生」のお墓版というのは、どうだろうか。ただまあ、死んでしまえば、ホームページの更新などはできないのだから、同じ画面だとすぐに飽きられる。だから、開くたびに、出てくる文章や画面をランダムに変えるように作っておくのである。数百パターンを用意しておくと、まるで私が生きていて更新しているように見えるところがミソである。しかし考えてみると、死んだ人のホームページなど、身内以外は誰も訪れないかもしれない・・・まあそれでも良いか・・・少なくとも孫がそれなりの年になって見てくれるのであれば・・・。

 ついつい道草を食ったが、再び徒然草に戻ろう。第三十段に、「人の亡き跡ばかり、悲しきはなし」と題して、こんな文章があった。

 中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたゝし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたゝめ、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞなど言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。

 ああ、これこれ、これはまさに、私が葬儀で親類から言われたことと全く同じだ。「中陰」というのは、今の四十九日のことであるから、兼好法師の頃から既に今のような風習があったのかということにまず驚く。それだけではない。心無い無神経な親類の言動もそっくり同じなのである。兼好法師は、人が亡くなって四十九日の間、山の中の狭苦しい所に親類縁者などが集まって冥福を祈る法事を行っているとき、まあ物知りぶって「あれはいけない、これも忌み嫌われることだ」などと悲しい気持ちでいる遺族の心中も全く忖度せずに、その気持ちを逆なでするようなことを平気で口にする無神経な輩がいるというようなことを言っている。昔からそんな連中がいたのだ・・・人間社会というのは、全く変わらないものである。

 兼好法師は、どうも山奥のその小さな庵で静かにあれこれ思いを馳せるというのを好むらしいが、私はまだそんな心境ではなく、今日も散歩を兼ねて、ちょっと出かけてきた。何しろ外は真夏の摂氏35度という暑さなので、すべて地下から行くことにして、千代田線から半蔵門線に乗り換えて、日本橋まで行ってみた。すると、三越前駅の改札口付近で、冒頭の写真にあるような水槽を見つけた。その中には、朝顔という意表を突いた水中デコレーションに、オレンジ色のグッピーが涼しげに泳いでいる。思わずしばらく見とれてしまった。

三越の入り口の暖簾



 それから、三越の前を通りかかったら、「越」の字を丸く囲んだ三越のマークがついた暖簾がかかっっているではないか。そこを家族連れがしずしずと入っていく。ああ、なるほど、300年ほど時を飛び越えて、どことなく江戸の情緒が感じられる。それを左手に見ながら、コレド室町に向かった。ここは、オープンしてまだ10ヵ月の新しい建物で、三井不動産が力を入れている室町地区開発の中心となるところである。まず入ると、金沢の金箔専門店『箔座』というお店があって、金箔入りのお酒、金箔をまぶしたお菓子の金つばや銀つばなど、伝統の金箔を今に活かした製品ばかりで面白い。お店の中央に、金箔を1万数千枚使ったという大きな筒のようなオブジェがあり、茶室に入るような小さな入り口をくぐってその中の椅子に座らせてもらうと、何だか妙な気がする。店の中に、加賀藩以来の伝統的な金箔作りの金槌と、何枚もの紙に挟んだ金の薄板が置かれていて、なかなか興味深い。そういえば昔、金沢を訪ねたときに安江金箔工芸という会社を訪れて、こういうものを見学させてもらったことを思い出した。

金箔専門店の箔座の金箔の筒



 さて、その金箔尽くしのお店を出て、建物の2階へと上がっていった。ここにたくさんのレストランがあったはずだ。すると、四川飯店というのが目に入った。「中華の鉄人・陳建一氏の店であり、日本の四川料理発祥の地でもある『四川飯店』の新店舗。陳建民から受け継いだ伝統的な四川料理に加え、陳建一・建太郎親子が・・・」とある。そしてテレビでおなじみのあの顔がドーンと出ている。総じて、テレビで取り上げられたような店は味が崩れていたり、客あしらいがひどく悪かったりして、そのうちつぶれるものだ。しかしちょうどそのときは、暑さのためにたまたま辛い物が食べたくなっていたときだから、あまりよく考えずにそこに入った。

飲茶ランチの飲茶。ボリュームが全く足りないが、一応それなりの味がする。



 飲茶ランチ1800円というものを注文した。最初に出てきた飲茶は、本場物に比べればボリュームが3分の1ほどのかわいいものだったが、デリケートな味がし、まあまあ美味しくて、これは及第点だった。ところがその次のメインで、評価が分かれた。私が頼んだ担担麺は、こってりとして味が良く、私はこれも美味しいと思った。まあ、ここの得意料理なのだろう。ところがどうしたことか、家内の頼んだ炒飯は、ひどかった。外見や具材は一応のものだったけれど、味が淡泊すぎて、胡椒を入れ忘れているのではないかと思うほど不味くて、これは明らかに落第点だった。こんなものより、ウチの近くの中華料理店の650円の炒飯の方が、はるかにマシというものである。やはり、名前に惹かれてはいけないという見本のようなものだと反省した。

飲茶ランチの担々麺。これは美味しい。


飲茶ランチの炒飯。美味しくない



 そこを出て、コレド室町の中をあちらこちらと歩き回った。面白かったのは、ロシア料理店があって、その前にマトリューシカ人形が飾ってあったことである。この人形、その昔、モスクワの赤の広場を訪れたときに、その脇の土産物店でこれがたくさん売られていた。ロシア女性はやがてはあのドーンとした偉大な体躯となるが、これはそうなるの前の可愛いロシア娘の顔と体が描かれている。それだけでなく、開けてみるとたくさんの人形が入れ子となって入っていて、思わず買い求めてしまった。しかし、ここコレド室町のロシア料理店の人形は、とても大きくて立派である。これに比べれば、私が買ったものなどはよほど小さくて、いささか恥ずかしいとすら感ずる。しかし、旅の土産物というものは、そんなものだ。だいたい、大きな人形を買っても、トランクに入れて持ち歩くのは一苦労である。かくして、我が家には世界各地のマメ人形ばかりが溜まっていくという寸法だ・・・。しかし、いずれも小さいながら、旅の思い出がぎっしりと詰まっているのである。少し暇になったら、ひとつひとつの思い出を書き出しておくのも良いかもしれない。でも、それこそ「あやしうこそものぐるほしけれ」になったりして・・・。

マトリューシカ人形





(2011年 8月14日記)


カテゴリ:徒然の記 | 23:12 | - | - | - |
E−P3を買う

オリンパス・ペンE−P3



 ミラーレス・デジタル一眼カメラの元祖オリンパス・ペンE−P1を買ったのは、2年前の平成21年6月22日のことである。それから2年と1ヵ月が経過した今年の7月22日、その三代目となるE−P3が発売された。そこで、ふらりと有楽町の家電量販店に立ち寄り、その新製品を手にしてみた。初代E−P1と比べて、まず、もっと軽くなったし、焦点を合わせる速度が非常に速くなった。液晶画面は有機ELだけあってしっとりとした感じで、発色が抜群に良い。ムービーも前のようなファイル容量がかさばるAVI方式でなくて、パソコンでおなじみのMPEG形式で撮ることができる上にコンティニュアス焦点つまり継続的にフォーカスしながら被写体を追っていける。店員さんの説明によれば、画像エンジンも大きく変わって非常に色が良くなったそうだ。しかも、初代にはなかった内蔵ストロボも付いている。

 うーむ、これは魅力的だ。でも、いま持ってるE−P1のレンズが使えないと不経済だなと思ったら、そこはもちろん同じフォーサーズ規格のレンズはすべて使える。それでは、予備バッテリーも買うと高いなと考えたら、いやいやそれも、いまのE−P1のバッテリーがそのまま使用できる。ははーん、それでは何の問題もないではないか。そういえばこれまで、E−P1を一台しか持っていなかったから、外出して撮っている最中に、実は標準望遠レンズではなくて、超望遠レンズやパンケーキレンズに取り替えて撮影したかったという場面が何回もあった。けれど、いちいちレンズ交換をやっていては、シャッターチャンスを逃すのでそのまま撮り続けて、その結果納得のいかない写真ばかりが残るということがあったっけ・・・。そういう場合には、最初から二台持っていて、そういう別種のレンズを元から装着しておけば、その二つのカメラを取っ替え引っ替えして撮ればよいのだ・・・などと、色々と正当化することを考えて、要するにこのカメラを買いたくなったというわけである。

 そのお店で値段を見ると、ツインレンズキットが119,800円、シングルレンズキットが99,800円である。いやはや、高いなという感じである。だいたい、私のように初代を持っている者には、レンズはいらない。そこでボディだけという値段を見ると、89,800円だ。しかし、それだとレンズ付きのものとわずか1万円しか違わないから、これでは逆にボディがかえって高く感じる。やっぱり、買うのは止めておこうと思って、有楽町を後にした。

オリンパス・ペンE−P3



 その日の夜、パソコンで書き物をしていたとき、ふとE−P3のことを思い出した。試しに、楽天市場ではどうなのだろうかと思って検索したところ、何とボディだけの最安値は7万円台そこそこである。しかしよく見ると、OCNか何かの回線と一緒に契約したらという条件なので、これは問題外である。その次に安いショップの値段は、78,400円となっていた。これなら、まあ合理的な値段といえる。胸のつかえがなくなり、買うことにした。初代のボディ・カラーはメタルなので、一見して間違いのないように今回はブラックを選んだ。すると、すいすいと手続きが進んで、4日後に送られてきた。

オリンパス・ペンE−P3



 あまりにあっけなく入手できたので、大丈夫だろうかと思ってカメラや付属品をいろいろと眺めてみたが、問題ないようだ。早速それに、標準望遠レンズを付けて家の中の写真を撮ってみた。焦点合わせの早さ、液晶画面の発色の良さ、スクリーンモードの選択の多さ、できあがった写真の良さなど、どれをとっても初代と比べて抜群に進歩している。私が初代のカメラで四苦八苦した背景をボケさせるのも自由自在のようで、専用のボタンまである。よしよしと、これをメインのカメラにして、一台目を予備にすることにした。

【後日談】 その後、そもそもカメラが小さくて軽いので、E−P3とE−P1のそれぞれに別のレンズを装着して、たすき掛けのように肩に掛けるスタイルが定着した。レンズを交換する必要がないので、これはとても便利である。

オリンパス・ペンE−P3



 いまはちょうどお盆の季節で、本来であれば帰省して父の菩提を弔うべきところだが、仕事の関係で東京23区内を離れられない。帰省できないのは、父はもちろん母や妹にも申し訳ないが、さりとてこのまま家に引きこもっていても仕方がない。それでは都内23区内で、この新しいカメラの試し撮りでもしようかと思ったが、外は気温が摂氏34〜5度の猛暑ときている。そうだ、今月の初めに改装が終わってオープンしたサンシャイン水族館なら屋内で涼しいし、動き回る熱帯魚はカメラの被写体としてちょうどよいと思ったのだが、インターネットで調べると、非常に混雑していて大変らしい。そういうところで試し撮りするのも迷惑なことなので、ほかに適当なところがないかと思い、板橋区立熱帯環境植物館に行ってみることにした。ここには、私は2回ほど行って写真を撮っている。家内は、「なんでまたこんな暑い時に、そんな暑そうなところに行くの」という顔をしたが、一緒に付いてきてくれた。

板橋区立熱帯環境植物館


 いざ行ってみると、お魚は小さなものが多くて、被写体として手頃なものはあまりなかったが、まあこういうチョコチョコと動き回る魚を捕るには、自分はまだまだ修業不足である。その代わり、花を撮ろうと思って温室内に入ったのであるが、残念ながらあまり多くは咲いていなかった。それでも、何枚か撮ってみたところ、ピント合わせは早いし、色の発色が本物よりこちらの写真の方が美しいくらいである。これで、ボタン操作に慣れれば、何とかなるという自信がついた。なるべく色々なシーンで撮ってみようと思っている。

板橋区立熱帯環境植物館


板橋区立熱帯環境植物館


板橋区立熱帯環境植物館


板橋区立熱帯環境植物館


板橋区立熱帯環境植物館


板橋区立熱帯環境植物館


板橋区立熱帯環境植物館





(2011年 8月14日記)


カテゴリ:エッセイ | 01:13 | - | - | - |
住宅ローンを完済する

借りた銀行の支店があった場所に咲くハイビスカス



 銀行から、待ちに待った書類が来た。それを元に、東京法務局のウェブのページからダウンロードした書式を見つつ、書類を作成した。普通なら、司法書士に頼むところだろうけれど、私はこれでも法律の専門家を自負しているし、法科大学院でも教えているから、これぐらい朝飯前だと思い、自分で登記申請をすることにした。ただ、法律の理屈はわかっているつもりでも、実務となると、いろいろと決まり事も多いだろうし、その分野の専門用語も使われているだろう。だから、書き上がったら、法務局に行ってプロに見てもらえばよいと割り切った。それにしても、私と同じような人が多いらしくて、そのダウンロードした書式の注書に、「これは記載例です。下に線が引かれている部分を,申請内容に応じて書き直してください。(別紙)や(注)は,記載しないでください。」などと書かれていたのには、思わず笑ってしまった。

 でも、ワードの書式にひたすら住所氏名などを打ち込んでいる途中で、あることに気が付いた。この記載例は、戸建て住宅の場合のものであって、私のようなマンションの場合には当てはまらないのではないか・・・はて、どうしたものか・・・このままでは法務局のお手本が役に立たない。これは、ひょっとして仕事を失いたくない司法書士サイドの陰謀ではないかという、失礼な思いすら頭に浮かんできたくらいだが・・・取り敢えずそれは口の中に飲み込んだものの・・・そうだ、マンションの場合は敷地権のはずだから、それも含めて契約書の当該部分の記載の通りそのまま書けばよいと思い直した。そこで契約書の当該部分をそっくりそのまま一字一句間違いなく引き写した。それで全体を見直したところ、これで間違いないという自信がみなぎってきた。これでよしと思い、その完成した書類をプリンターで打ち出す。さてと・・・時計を見ると約30分間の仕事だった。これに加えて法務局での手続きに何分かかるか知らないが、司法書士に頼んだら2〜3万円の報酬を支払うところだ。これくらいのことなら、経験のために自分でやってみるのもよい。

 銀行から来た書類を一緒に携えて、九段下にある東京法務局に出向いた。不動産登記の部門に行き、まず相談窓口にその書類一式を出して、係りの人に見てもらった。その人は、書類にすべて目を通して、「いいですね。良くできています」と言ってくれた。これが仮に「だめです」なんて言われたら、法律屋としてのプライドがズタズタになるところだったと思い、ありがたく、頭を深々と下げてその場を離れた。それで、2000円の印紙を買って書類に貼り、そのまま提出して終わった。1週間後に、登記が出来上がるというので、また来なければならないが、心と足取りは軽い。

 以上の顛末はいったい何のことだろうかとお思いだろうが、これは、私が住んでいるマンションの住宅ローンを完済したことから、銀行から抵当権抹消のための書類が送られてきた。それで自分で抹消手続を行ったときの様子なのである。銀行からは、(1) 抵当権設定契約書兼解除証明、(2) 銀行の現在事項一部証明書、(3) 銀行からの委任状及び印鑑証明書、(4) 登記識別情報通知の4点が送られてきたので、私としては(5) 登記申請書と(6) 印紙を用意して、申請したというわけである。1週間後には、登記完了証ができるので、ついでに私のマンションの登記の全部事項証明書をとって、権利書と一緒に保管しておけば、それで後々のためにもなる。

 これで借金なしの身となったと思うと、何だか清々した気分になる。住宅ローンとはいえ、お金を借りているというのは、「返さなくてはいけない、預金の残高は大丈夫か」などと常に気にしていなければいけないので、つまらないことだがフラストレーションがたまる。だから、冗談抜きで、借金するのはもう一生涯やめようと思っている。

 それにしても、この住宅ローンを借りてから、もう15年と6ヵ月が経過した。当初は、住宅金融公庫と三菱銀行からの借入金で、住宅金融公庫からの金額は2220万円、金利3.28%、35年返済、三菱銀行からの金額は1240万円、金利3.75%、28年返済という条件である。ちょうどこれを借りた頃は、二人の子供のうち、息子は大学へは自宅通学だったからさほどお金がかからなかったけれど、娘の方は国立大学医学部に通うために遠方で下宿していたから、そちらへ仕送りする必要があった。家計全体としてやっていけるかどうか、よくよく計算してこの住宅ローンを借りたつもりだが、あれやこれやと思いがけない出費がある。だから最初の頃は、いささかきつかったし、とりわけ1年目は仕送り額が少なくて娘に迷惑をかけたことは心苦しかった。しかし、次第に給料も上がり、それに連れて手元不如意ということはなくなったから、住宅ローンの返済はさほど気にならなくなった。そのうち、娘がめでたく卒業した頃入れ替わるように、今度は息子がアメリカへ留学という段になり、これまた物入りだった。しかし、単なる東大卒やら弁護士やらというのは世の中に沢山いるが、これは渉外弁護士になるには必須の実質的な条件である。こんなところまでたどりつけない若者が多くいる中で、これはめったにないお金の使い方であると思い、喜んで送り出した。振り返ってみると、このあたりが、我が家の家計が最も逼迫した時期である。しかし、それもわずか1年半余りのことで、それからはまた、巡航速度に戻った。

 マンションを購入して4年ほどが過ぎた頃、住宅ローンの金利の高さが気になりだした。しかも、借金の元本の額は、ほとんど減っていない。これはどうしたことだと思っていたら、その頃、シティバンクが借り換え住宅ローンというものを始めた。その金利は2.8%で、かなり安い。そのローンセンターがある新宿までわざわざ行って手続きをし、残っている3200万円くらいをすべてこちらに乗り換えた。このローンの良いところは、気が向いたときにいつでも割増返済が出来ることである。つまり、手元に2万円でも3万円でもあれば、それを口座に放り込むと、それだけ借金が減るという画期的な仕組みである。これは良いシステムだと気に入っていたが、恥ずかしながら肝心の余裕金が手元にあることがあまりなくて、十分に活用することができなかった。こうなるともう、笑い話である。

 そうこうしているうちに、日本経済の低迷が甚だしく、金利がどんどん下がって行った。私の住んでいる町の第一勧業銀行の支店が「金利を最大1%差し引くから、乗り換えませんか」というパンフレットを配っていた。これは銀行間の仁義なき戦いだなと思った。暇なとき、その店に入って試算してもらうと、今度の金利は2.2%となって、かなり有利である。よし、また乗り換えようと思い、手続きをしてもらった。そのときに計算書を見ると、シティバンクでは、2年間のあいだに借金の元本が130万円減っただけである。まるで金利だけ取られたようなものだ。その第一勧業銀行、現在のみずほ銀行には、4年間、お世話になった。すると今度は、私のオフィス近くの三菱東京UFJ銀行の支店でまたパンフレットを配っていた。それに目をやると、金利がもっと下がって1.75%となっているではないか。その頃には私の収入が上がってきていたから、毎月の支払い額を上げても構わないと考えていた。私の出せる最大の返済額で計算したらどうなるだろうと思い、その支店に入って、可愛い女性行員に試算してもらった。すると、あと2年半で返済が終わり、費用一切を考慮しても、70万円浮くという計算である。それで再び乗り換えることにした。都合3回借り換えて、再び最初の銀行に戻ってきたという、これも笑い話の種になるような世界である。

 これらを金利だけで比較すると、3.45%(加重平均) → 2.80%2.20%1.75% ということになる。こうして借り換えるたびに、登記費用その他の一括返済費用が求められて、損をしたのではないかという気にもなるが、いずれにせよ、本来は35年かけて返す予定であったところが、15年6ヵ月と半分以下の期間で返済を完了したので、私としては大いに満足している。ただ、今から思うと、固定金利ではなくて、変動金利を選択していればもっと早く返し終わったことは明らかであるから、そこに若干の悔いは残る。しかし私には、とてもそのような賭けをする勇気というか、無謀な蛮勇のごときものはなかったことは、確かである。ギャンブラーではないのだから、これで良いのだ。ああ、すっきりして実に爽快な気分である。加えて、家内が「よく頑張ったわね」と言ってくれたのが、何よりも嬉しかった。



(2011年 8月12日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:05 | - | - | - |
徒然206.入善ジャンボ西瓜

入善ジャンボ西瓜



 私のオフィスには色々な方がやってやって来られるが、その中に富山県東京事務所の人がいて、地元を紹介する季節のパンフレットを置いていった。ふとそれを見ると、富山県の特産品がたくさん載っていた。たとえば、鱒寿司だの、ホタルイカだの、清酒立山などが並んでいる中で、季節限定で「入善ジャンボ西瓜」なるものがあった。ラクビーボール形の堂々たる西瓜である。これは、昔は「黒部西瓜(くろべずいか)」と言われていたものではなかったかと思ってネットで調べてみたところ、やはりそうだった。最近は、こんな洒落た名前に改称したらしい。でも、藁帽子(「さん俵」という)で上下を包んだ包装といい、球体のような丸さではなくて長細い筒のような丸い形といい、縦に何本も走る筋のような模様といい、昔ながらの雰囲気そのままである。

 ウチのスタッフは、こんな西瓜は見たことがなかろうと思って、一個注文して真夏の差し入れにしようと考えついた。秘書さんがその富山県東京事務所の人に連絡をとって、どこに注文すればよいかを教えてもらった。何ヶ所かの候補があった中で、JAみな穂 営農センター(富山県下新川郡入善町入膳3489-1)という農協さんに決めた。こちらの特産物は、ネットに載せてあって、それを見て「入善ジャンボ西瓜 2Lサイズ(14〜16kg)」販売価格4800円を選んだ。送料が1200円だから、合計6000円である。ちなみに、Lサイズ(11〜13kg)の販売価格は3900円、3Lサイズ(17〜19kg)は同じく5700円となっていた。

入善ジャンボ西瓜



 さて、早く来ないかなと首を長くして待っていたところ、段ボール箱に入った写真のような西瓜が届いた。そこには、生産者の方の顔写真とともに、こういう解説が書かれていた。「北アルプス立山連峰の清流を注ぐ黒部川扇状地で100年以上栽培され、改良を重ねられた入善町の特産品です。サクサクした歯ごたえ、みずみずしく豊富な果汁、サッパリとした甘みを特徴とし、王者の風格を備え、古くから贈答品として愛用されています。生産者一人ひとりが丹精込めて育てた入善ジャンボ西瓜をご賞味ください」とのこと。

 まず、市中引き回しではないが、15キロはあるというその重い西瓜を各部屋に持ち回って見てもらった。誰もこんな大きくてユニークな西瓜は見たことがないらしくて、女の子も出てきて、指さして大笑いしたり、持ち上げようとしたり、携帯を出して写真を撮ったりして大騒ぎをしている。よしよしと・・・節電でこれほど暑い中、何か、面白いことがなければ、やっておられないではないか・・・しかるのちに、適当な大きさに切って冷蔵庫に押し込んだ。切った瞬間、ふわーっと瑞々しい香りが、辺り一面にただよった。あわててそれにラップをかけ、丸一日そのまま置いておいて、よく冷えた頃合いを見計らって、皆さんに食べてもらった。いやこれが、サクサクというより、甘みでホクホクしてとろけるように口に入っていく。確かに果汁が一杯だし、とても甘いが、それは砂糖のような甘さではなくて、まあ何というかしつこくない素朴な甘さである。いやぁこれは、美味しかった。



(2011年 8月 6日記)


カテゴリ:徒然の記 | 00:27 | - | - | - |
徒然205.ハワイアン・ダンス

ハワイアン・ダンス


 新橋のカレッタ汐留で食事をした時、地下の広場でステージを作っていて、何か催し物をやっていることに気がついた。汐博2011と称し世界各地のダンスを、なんと毎日、違う出し物で続けていくそうだ。期間は、8月1日から21日までとある。この日は、たまたまその最初の日で、ハワイアン・ダンスである。見ていると、出演者はもちろん日本人の皆さんで、一生懸命に踊っているから、終わったら大きな拍手の一つでもしたくなる。隣で見物していた中年を過ぎたおばさんたちも、どうやらハワイアン・ダンスの愛好家らしくて、隣どうし「ほら、この曲は良いわよ−。緩いテンポで踊りやすいし」などと話をしている。

ハワイアン・ダンス


ハワイアン・ダンス



 何でもハワイアン・ダンスというのは、かなり宗教色が強くて、ひとつひとつの曲のセリフはもちろんその仕草まで、深い意味があるという。そんなことは、私のような素人にはその意味は全くわからないにしても、あの両腕と体をくねらせる独特の優雅な身のこなしだけでも、見物していて感激し、ただただ感心しているばかりである。途中、おじさんも出てきて、女性とは全然違う仕草で踊っていたのには、これまた非常に面白いものを感じた次第である。

ハワイアン・ダンス


ハワイアン・ダンス



 最後には、アリアナ・セイユ(Aureana Tseu)というハワイ美人が出てきた。驚いたことに、この人の踊りは、それまでの人とは全然違うのである。いやもう、手の動かし方、腰の振り方、目の配り方、何から何まで年季が入っている。それもそのはずで、5歳の頃から習っていて、色々なコンクールを制覇し、美人コンテストにも選ばれた強者だそうだ。ハワイ州の観光局がスポンサーで呼んだらしいが、残念ながら、写真禁止であった。


(2011年 8月 1日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:42 | - | - | - |
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