徒然189.六義園の紅葉の美しさ

六義園の紅葉


 文京区駒込の六義園は、柳沢吉保が築造した代表的な大名庭園である。私の家の近くにあるので、少し散策したいときには、よく訪れている。中心部の池の周囲を歩くだけでなく、周辺部には和歌にちなんだ名所が作られていて、その由来を知るのもよいし、単に風景を眺めながら歩くだけでも、命が延びる気がする。しかも、春は枝垂れ桜とツツジを堪能し、秋には紅葉に染まった赤の世界を楽しませてくれる。とりわけ、あの豪華絢爛たる枝垂れ桜は、私とさほど年齢が変わらないというのに、あんなに枝が伸びて、春になるとピンク色の美しい花を空一面に咲かせる。それを見ると、私も「よし、また今年も、ひと花、咲かせよう」などという気になる・・・といったら誇張が過ぎるというものであるが、まあ、どこかしら、元気が出てくるというのは本当である。

六義園の豪華絢爛たる枝垂れ桜


 さて、秋には、もちろん園内すべての紅葉が一斉に色づき、少しある銀杏の木の黄色と並んで、これまた美しいといったらない。園内に藤代峠という人工の築山・・・それでも35mあるそうな・・・から見下ろす心字池は、ことのほか素晴らしい。まるで大名になった気分である。そのためかどうかは知らないが、私は和風庭園が大好きである。前置きはそれくらいにして、2年続けて11月の休みに見てきた秋の紅葉の写真をご紹介しよう。昨年は六義園の正門から入って、主として池の周りを時計回りに回ってみた。それに対して今年は、裏手の染井門から入って、主に外周を回ってきた。どちらかというと、池の周りは人工的な整った美というものを感ずるが、外周は野趣あふれる雰囲気がする。紅葉の美しさを引き立てるために、写真の一部には、Vivid、つまり鮮やかな色が出るフィルターをかけて撮ったものもあり、中には鮮やかすぎる色となってしまったものもないわけではないが、まあご愛嬌と思っていただきたい。

六義園の紅葉


六義園の紅葉


六義園の紅葉


六義園の紅葉


六義園の紅葉


六義園の紅葉








 六義園の紅葉 2009年( 写 真 )は、こちらから。

 六義園の紅葉 2010年( 写 真 )は、こちらから。




(2010年11月27日記)


カテゴリ:徒然の記 | 21:24 | - | - | - |
板橋熱帯環境植物館(再訪)

シロホシアカモエビ


 板橋熱帯環境植物館には、今年の2月末に初めて行ってみた。あれから9ヶ月経ち、その後どんなことになっているのだろうと思い、家内とともに再訪した。前回は、訪れた季節柄、いろいろなランの花が咲いていたが、それに比べれば今回はどうやら花の季節ではなかったようで、花よりはむしろ水槽の中の魚の方が見応えがあった。たとえば、シロホシアカモエビというのは、小型ながら赤い体に白い点がくっきりと入っていて、なかなか鮮やかで、かわいい。それに、体に縦横の格子模様が入っている魚「クダゴンベ」というのは、これまで見たことがない。

クダゴンベ


 タカアシガニは相変わらず手足を広げているだけだけれど、その他の脇役が面白い。特に、ユメカサゴだと思うが、この顔を正面から見ると、ヨソ者を心配げに見る田舎のおじさんのように見えてくるから、何かしら愉快さがこみ上げてきて、大いに笑えてくる。

ユメカサゴ


 それに、ハナミノカサゴという魚も、なかなかの役者である。体の回りにヒラヒラしたものを翻しながら、ゆったりと水中を移動している。こんな体で、果たしてエサが獲れるのかと思うのだけれど、以前テレビの番組で水中を撮していたときに、このハナミノカサゴが意外と俊敏な動きをすることを知った。人は・・・いや魚は、見かけによらないものである。

ハナミノカサゴ


 彩りがきらびやかな熱帯魚が泳ぐ水槽が現れた。白黒の縦縞とパレード先頭で旗を立てているようなハタタテダイ、体の後ろに大きな目のような模様のあるトゲ蝶々ウオ、黄色いキイロハギなどがいる。いずれも、熱帯魚の水槽の定番の魚である。ただ、小さいだけあってすばしこく、写真のピントがなかなか合わなかったり、シャッターを押したらもう目の前を通り抜けた後だったりして、写真を撮るにはなかなかの難物である。できれば、こちらに向かって来ている魚の眼にピントを合わせたいのだけれど、これが非常に難しい。

熱帯魚が泳ぐ水槽


 アジア・アロワナがいた。ちょっと生意気な感じのヒゲをはやし、流し目でこちらを見て、悠々と通り過ぎる。まるで悠々人生を地でいっているような古代魚である。あんな、しっぽのヒレもロクにない魚なのに、何を食べて生きているのかと常々不思議に思っていた。しかしあるとき、アマゾンの生物の様子を撮ったドキュメンタリー番組を見てその疑問は一気に氷解した。まさに百聞は一見にしかずということわざ通りである。つまり、何とこの魚は、水面に突き出ている枝の先にとまっている昆虫を狙って水中からジャンプし、見事それを咥えてまた水中に戻っていったのである。少なくとも水面から数十センチは飛んでいた。いやはや、俊敏なんていうものではない。電光石火のごとくエサに食らいついていたのである。普段の悠々とした泳ぎからは想像もできない出来事で、本当に驚いた。話は変わるが、その昔、東南アジアにいた頃、友達が釣りにいくというので、「何が釣れるの? 鯉かね?」と聞くと、「いやいや、アロワナだよ」と言われて、びっくりしたことがある。ともかくこの魚には、驚かされることばかりである。

アジア・アロワナ


 あった、あった。ジャック・フルーツ、現地名でパラミツである。これは、まだごく小さいものだが、現地では、数十センチのものが売られていた。いささか臭みがあるが、実を開けてみると、オレンジ色の小さな果実が綺麗に並んでいて、ジューシーでおいしい。現地のスーパーでは、この実がパックされて売っていたので、ときおり買っていた。

ジャック・フルーツ


 カカオの実は、春に見たものと同じかどうかはわからないが、もう黒ずんでいる。中を割ったものを見てみたい気がする。確か、赤い実で、これをローストするとコーヒーやココアになるらしい。木の幹に直接、生るというのも、私の知る限り、ほかの実にはない特徴である。

カカオの実


 次は、同じ実であるが、セイロンマンリョウの実で、成熟するにつれて白っぽいピンク、赤い色そして黒い色へと変わっていくらしい。いかにも鳥の食欲を誘い、鳥が好んで食べそうな実である。

セイロンマンリョウの実


 釣浮草(フクシア)の花があった。私の近所にもこの花の鉢を置いてある家々があるが、どの家のものも、その傘に当たる部分がピンクの釣浮草だった。それはそれで華やかで良いが、それに比べればこちらは白で、一転して清楚な感じを受ける。ところで、おそらくこの花が成熟したものだろうが、釣浮草の実が生っていた。まるで、アメリカのサクランボのような形をしていて、これまた面白い。

釣浮草(フクシア)の花と実


 二階には、クレアという喫茶室があり、休みながら、館内を見渡せる。ここでは、ナシゴレン、ココナツカレーなどを出してくれる。ナシゴレンというのは、ミー・スープと並んで、現地の庶民の食べ物で、要するに混ぜご飯をパームオイルで炒めた焼きめしである。ちょっと小さなエビを乗せたら出来上がりで、簡単に作ることができる。中華料理のチャーハンとはまた違って、あれほど油濃くなくて、もっとさっぱりとした味である。ちなみに、ミー・スープというのは、日本でいえばラーメンの類で、こちらも具次第で色んな種類がある。そんなものを家内と2人で食べて、しばし昔の思い出話をしたのである。

喫茶室クレア


喫茶室クレア見える全体像


 ウチにいたアマさん、つまりお手伝いさんは、40歳を過ぎた中国人の女性だったが、とても働き者であり、しかも知識の吸収に貪欲だった。家内が、天麩羅、巻き寿司、茶碗蒸し、焼き魚などの日本料理を教え込んだら、1年もしないうちに吸収していった。そうして、料理を任せられると思ったまではよかったのだが、そのうち、「私、辞めさせてもらいます」ということになり、こちらはせっかく料理を覚えたばかりなのにと落胆したものである。それで、どうするのかと思っていたら、その頃に進出してきた日本の建設会社の飯場に就職した。賄いおばさんになったというわけである。そのときの売り文句は、「私は、日本料理が出来ます」だったらしい。しかも、給料は私の家の倍になったというから、恐れ入った。まあ、これなら我が家が対抗できないわけだ。日本人のように忠誠心や世話になったという感覚は、どうやらないらしい。

 考えてみると、中国人とりわけこういう東南アジアで働いている華僑の人たちは、現地政府からは白い眼で見られ、ときには迫害され、加えて中国政府からは故郷を捨てた流れ者という冷たい扱いを受けている。だから、頼れるものとしては、親類縁者と出身地のつながりのほかは、自分の才覚だけである。それだけに、少しでも良い給料を求めてジョブ・ホッピングしていくのは、止められないし、止めるべきでもないと思う。そういうものとして、雇っていくしかないのである。現にこの女性、あの安い給料で、子息をアメリカの大学に留学させていて、せっせと仕送りをしていた。誠に感心な母親なのである。一度、一族郎党を引き連れて、我が家に来てくれたことがあるが、はてさて、今頃どうしているだろうか・・・まあ、こういうことを考えるのは、日本人くらいなのかもしれない。

 イギリス人による現地の人の使い方を見ていると、はるかにビジネス・ライクというか、上下関係をきっちりと仕分けるドライなものだった。それに対して日本人の現地の人との接し方は、我々も含めてウェットそのもので、とてもその足元には及ばない。まあ、ああでなければ、世界の7つの海にユニオン・ジャックをはためかせるということは、とても出来なかったに違いない。もう少しいえば、我々はアジア的村落共同体意識がまだ抜けきらない義理人情の世界に生きている。だから、アマさんを家族のように扱ってしまって、我々のように簡単に裏切られる。それに対して、もともと狩猟社会であった民族は、個の確立と契約に基づく権利義務の意識が発達した上下関係の厳しいピラミッド社会に生きている。そのためには雇う側と雇われる側の区別、そして指揮命令関係というものを常に大事にする。外国での人の使い方ひとつをとってみても、こうした何世紀にもわたる社会構造の違いから来る意識の相違が、潜在的な影響を及ぼしているのではないかと思っている。






 板橋熱帯環境植物館の秋 ( 写 真 )は、こちらから。

 前回の板橋熱帯環境植物館(エッセイ)は、こちらから。

 前回の板橋熱帯環境植物館( 写 真 )は、こちらから。



(2010年11月25日記)


 
カテゴリ:エッセイ | 19:39 | - | - | - |
徒然188.殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園の次郎弁天池の紅葉の木々


 お茶の水から中央線に乗って約30分で、国分寺の駅に到着する。その駅前にある母子の銅像を左に行くと、わずか2〜3分で「殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていえん)」に着く。実は私も、上京しておよそ40年が経ったというのに、きのう新聞で知るまでは、そのような庭園があるとは全く承知しなかった。いただいたパンフレットなどによると、 「ここは、大正初期に江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘が設けられ、赤坂の庭師『仙石』の手によって作られました。昭和4年に三菱財閥の岩崎彦弥太に買い取られた後、津田氏の設計により本館と茶室紅葉亭を追加し整備された回遊式林泉庭園です。園地は武蔵野台地の傾斜地に位置し、国分寺崖線といわれる崖地とそこら中から湧出する地下水を巧みに利用して、武蔵野の面影をよく残しています」ということなのだが、話によると「昭和40年代の開発計画に対し本庭園を守る住民運動が発端となり、昭和49年に都が買収し、整備後、有料庭園として開園しました。なお、庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来します」とのこと。

殿ヶ谷戸庭園の竹林


 もともと、実業家の別荘だったことから、たとえば柳沢吉保の六義園、水戸徳川家の小石川後楽園などの雄大な大名庭園とは比べものにならないほど小規模な庭園である。しかし、「和洋折衷の回遊式林泉庭園」といわれるだけあって、小さな敷地にもかかわらず、開けた場所に広い芝生が植えられているかと思えば、その脇に萩のトンネルや藤棚がしつらえてある。周囲は紅葉ばかりで、上を見上げると青い空の両脇に真っ赤な紅葉が迫ってきている。これは・・・すごい。紅葉の洪水に空が襲われているようだ。

青い空の両脇に真っ赤な紅葉


 さらにその先は崖の下で、小路に沿って行くと、京都の嵯峨野を彷彿とさせる竹林があった。もっと進むと、次郎弁天池というものがあって、崖からの湧き水がそこに流れ込んでいる。池の周りには、一面の紅葉の木々があり、まさに今が盛りで、辺りを一面の赤に染め上げている。池を半周して高台に登り、そこあるその名も「紅葉亭」で一服すると、弁天池と周囲の紅葉がよく見渡せるという寸法である。

殿ヶ谷戸庭園、鹿おどし


 紅葉亭では、これからお茶席が設けられるようだ。その脇には鹿おどしがあり、流れる水が竹筒に溜まってその重みで下に落ちるたびに、カターンという乾いた音があたりに響いていた。なかなか風流なものである。そうやって池を一周して再び芝生地へと戻り、管理所に行くと、岩崎家の家系図と家族写真があった。同じものを湯島の岩崎邸でも見たことがある。ここに写っている岩崎家の皆さんも、まさか100年後にこの写真がこうして一般に公開されることとなってしまったとは、思いもしなかっただろう。

殿ヶ谷戸庭園、岩崎家の家族写真








 殿ヶ谷戸庭園(写 真)は、こちらから。



(2010年11月21日記)


カテゴリ:徒然の記 | 19:33 | - | - | - |
初孫ちゃんもうすぐ2歳

さくらぽっぷさんのイラスト


 とある幼児向けの英語スクールのレッスンに見学に行った。外見は、まるで幼稚園のようだ。園庭があり、教室の出入り口には、小さな下駄箱がずらりと並んでいる。教室の中に入ると、普通の幼稚園にあるものより、もっと小さな机と椅子に、子供がひとり座っている。そのすぐ前に、イギリス人の若い男の先生がひとりいて、一対一で教えている最中だ。まず、先生が子供に対して、「Stand up, please!」と言い、立たせた後、かなりのスピードで「head, eye, ear, cheek, mouse, neck, chest, knee, leg」と言いながら、両手でそれぞれ言葉に対応する体の箇所を触っていく。すると子供は、それに応じてその言葉を反復しながら両手で同じように自分の体を触る。慣れたものだ。それがひとしきり終わったところで、先生はラジカセのスイッチを入れて、その言葉を繰り返しながらリズミカルに歌う音楽を流し、子供と一緒に自分の体をまた触っていく。

 それが終わると、再び子供を机に座らせ、精巧な果物の模型を見せて、ひとつひとつ、「What's this?」と聞く。子供は、小さな頭を振り振り、紅葉のような手で指しながら、「apple, banana, orange」と次々に答えていく。正解だと、先生はそのたびに「Good!」とか「Excellent!」と言うのを忘れない。ところが途中で、葡萄について子供が答えに詰まると、先生は「This is a grape.」と言う。それが終わると、ひと息つける間もなく、野菜の模型についても同じことをする。トマト、キャベツと正しく言えたかと思うと、人参のところで子供が「にんじん!」と日本語で叫ぶ。すると先生は苦笑いをして「No, No, This is a carrot.」と言う。そして、もうひとつ黄色くて細長いものを出してきて、「What's this?」と聞き、それに対して子供が「バナナ!」と言えば、同じように「No, This a corn」と訂正する。

 先生は、国旗が書かれた6枚のカードを出してきた。子供にそれを一枚一枚示し、「This is England. This is France. This is Japan. This is Holland. This is Belgium....」などと説明する。そのうえで、それらのカードをテーブルの上に並べ、「Which is France?」と聞く。すると子供は、迷わずフランス国旗のカードを取り上げて「Here it is!」と言って先生に渡す。そうやって日本の国旗、ドイツの国旗、そしてアメリカの国旗は言い当てたが、ベルギーとオランダの国旗については困った顔をした。すると先生は、これがそうだと説明している。しかし、いずれもドイツやフランスの国旗の縦のものを横にしたようで色も似ているし、私自身もわからなかった。

 次は、数字を1から10まで言わせる。子供は、はっきりとした発音ですべて言い終わった。その次はアルファベットで、AからZまでを指し示しながら言わせている。いずれも、かなりのスピードで、私もあのように言えと言われたら、舌がもつれるかもしれないと思ったくらいの早さなのであるが、子供は、健気にもそれに付いていっている・・・。まあ、そんな調子で延々と40分間も休みなくレッスンを続けていって、さあ終わりというときになった。すると、子供が立ち上がって両手を体に沿ってしっかり伸ばし、直立不動の姿勢になり「Thank you for teaching me, Mr. Jones!」と英語の文章をはっきり言ったので、その後ろで見学していた私は、椅子から転げ落ちんばかりに驚いた。

 いったいこれは何かというと、私たちの初孫ちゃんが一月前から受け始めた英語のレッスン風景なのである。この初孫ちゃんは、まだ1歳と10ヶ月、おしめも取れず、ときたま、ほ乳瓶でまだミルクを飲んでいるというのに、もうこんな調子で、英語がかなり出来るようになっている。日本語より出来るのではないだろうか。びっくりしたのは、我々の前では、でれでれと甘えに甘えた挙げ句に「嫌だぁ」としか言わないような「悪ガキ」なのに、どういうわけかこのレッスンの先生の前では、あたかも別人のように振る舞う。つまり、キチンと椅子に座って40分間、一度も見学中の母親を振り返らないで、じっとレッスンに集中しているのである。これが5歳や6歳くらいの子なら、わからないでもないが、まだ2歳にもなっていないこんな赤ちゃんもどきの子が、できるものなのだろうか? でも、確かに出来ているところをこの目で見たばかりだから、間違いない。それにしても、本当に不思議である。初孫の手を握りながらレッスンの教場から出てきたときには、まるでキツネに化かされたような気がした。

 その後、私も先生にお礼を言って、この子はどうかと聞くと「He has a very high concentration and good memory. He remembers what he had learned. He's so smart.」つまり、集中力と記憶力があり、賢いから、大いに期待できるというのである。話半分としても、うれしい話である。それに、今はお試し期間で一回に40分間しか出来ないが、正式に通ってくれれば、この子の能力だと2歳児クラスではなくて3歳児クラスに入れても十分に伍していけそうだと考えているとの有り難いお言葉である。

 しかしまあ、最近の幼児教育は、ここまで進んでいるのかと驚くやら呆れるやらで、一種のカルチャー・ショックを受けた。これが良いのか悪いのか、我々の世代には、およそ考えもつかないことが起きつつある。確かに、私も世界28ヵ国を旅し、条約交渉などの対外交渉事を限りなくやったし、外国に3年間住んでいたこともある。だから、英語を母国語とする人たちにも通ずる英語をしゃべる自信はあるつもりである。それを通じて学んだことは、たとえ発音が下手だったり、特に「r(アール)」と「l(エル)」の区別があやふやだったって、こちらの言いたいことが知的に整理されていて、しかも相手がインテリならば、それなりにしっかりと意思疎通が出来るし、十分に仕事や生活が可能であるということだった。ただ、正直いって、バイつまり一対一の会議ならこれで通じたけれども、それがマルチすなわち多数国間の国際会議になると、こちらが主張しようと思っても、会議の進行が早くてそれに付いていくのに四苦八苦したという記憶がある。加えてそういうときに、たとえばインド人が入ったりすると、あの巻き舌で何を言っているのかわからない上に、よくあれほどまくし立てる言葉があるものだと思うほどに長々と話されると、もうお手上げという気持ちになる。

 確かにそういう場合、こちらも流暢な英語が口からよどみなく出てくれば、対抗できると思った。しかしそのためには、大学を出てから初めて英語を話すことを経験するというのでは、明らかに遅すぎる。私より少し後の世代以降、私の息子の世代までは、大学を出てから留学すればよいというのが常識だった。しかし、発音や日常会話のうまさという点では、それでは全くといってもいいほど、間に合わないのは事実である。ただその反面、頭の中が空っぽだけれども英語の発音だけは良いという単純な英語通より、知識と学識を備え、それなりの中身のある会話が出来なければ、まったく意味をなさないとも思っていた。ところが、もはやそういう考えは、現代では通じなくなっている「古い常識」のようである。それどころか、次の世代に求められる必要条件は、日本人としての十分な知識経験はもちろん、流暢な英語をあやつり、英語圏の人とまったく普通に話せるバイリンガルということなのかもしれない。韓国でも、お父さんは自国で働いて稼ぎ、留学するためにアメリカに行ってしまった娘と付き添いの母親に送金するという家庭が多くなってきているそうだ。

 このレッスンを終えて帰る途中、東京駅の新丸ビル7階のレストランで娘たちと食事をしたところ、そこはたまたま外が良く見渡せる席だった。その席で初孫ちゃんが空を見上げると、たまたま満月がぽっかりと浮かんでいた。それを指さしてこの子は、大きな声で「moon」「エンム」と言うのである。後の方は、たぶん「」と言っているのだろう。「・・・ンム」と付け加えるところが、いかにも英語風ではないか・・・日本人の先生に教わっていたなら、こんなことはまず言えないと思う。そしてまた、たまたま東京駅の電車が見えた。すると今度は「train」と叫ぶ。これまた、ちゃんと「r」が発音出来ている。そうかと思うと、こちらを振り返って、「電車、青、ないねぇ」と言うのである。つまり、緑の帯の山手線の電車ばかり見えて、青い帯の京浜東北線の電車が来ないと日本語でしゃべっているのである。

 まったく、この歳にして、すでに日本語と英語とがちゃんぽんになってしまっている・・・と一瞬、思った。ところがよく観察すると、我々には日本語で会話してくるが、家内が英語でしゃべりかけても、知らんぷりだ。どうやらこれは、人の顔に応じて、しゃべる言葉を使い分けるという高度なことをやっているのかもしれないと思い始めた。我々が東南アジアにいたときも、我々は同様のことをやっていた。つまり、日本人相手だともちろん日本語で話し、西洋人相手にはむろん英語をしゃべり、中国人相手には結局は英語だけれども最初の挨拶は北京語か広東語などと、その相手の顔を見ただけで何も考えないで自動的にその人の言語が出てくるようになっていた。

 昔、何かの本で読んだ話では、確かアイザック・ニュートンは、お父さんは英語、お母さんはフランス語、お手伝いはアイルランド語、やってくる家庭教師はラテン語などと、人は皆、別の言葉をしゃべるものだと、長じるまで思っていたと伝記に書かれていたと記憶している。まあ、人間の言語能力というのは、とりわけ小さい頃のそれは、計り知れないものがあるのかもしれない。

 我々の脳細胞の数は、生まれてから3歳の頃にそのピークを迎え、それから次第に減じていくという研究がある。つまり、3歳までに、使わない脳細胞は次第に淘汰されて、使われる脳細胞と神経ネットワークだけが残るのではないだろうか。そういう意味で、その段階までにたとえば「l(エル)」と「r(アール)」の区別などを脳に入れてやると、そういう神経ネットワークが構築されて、それが残存するのではないかと思われる。とすれば、この初孫ちゃんのレッスンは、それなりの意味があるものと思いたい。しかし、壮大な人体実験であることは確かである。娘も、子供が嫌がれば、すぐに止めると言っている。さあ、どうなるだろうか。

 この学校へは電車で30分もかかるというから、これからどうするのと娘に聞くと、実はこの近くに引っ越すことにしたという。確か、今の住まいも子供を預ける保育園のすぐ近くに引っ越したのだから、そうすると、これは二回目の引っ越しということになる。孟母三遷というが、まだ2歳にもならないうちに、二遷してしまうというわけか・・・す、すごい。

 しかし思い起こしてみると、我々もこの娘が3歳、息子が2歳のときに、新宿のスイミングスクールに放り込んだ。体力を付けさせるとともに、アレルギーの予防と水難事故防止のためだったが、周囲から「おむつが取れたばかりのあんな小さな子をプールに入れて大丈夫?」などと非難めいたことを言われたことがある。しかしそのおかげで、子供たちはほとんど病気をしない強い体と、特に息子は180センチ台の半ばにもなろうという西欧人にも引けをとらない背の高さを得られたと思っているから、大成功したと思っている。この初孫ちゃんの場合は、どうやら体力より英語を選んだようだから、まあ、それも時代の流れで、よしとすべきであろう。





さくらぽっぷさんのイラスト


 先般、「初孫ちゃんもうすぐ2歳」を書いたそのわずか1週間後、娘夫婦がどうしても外せない用事があるというので、お昼頃から夕刻まで、初孫ちゃんの面倒をみることにした。ただ、昼食時には娘が、夕食時には「旦那さん」つまりお父さんが、それぞれ一緒に食べてくれたので、我々夫婦が実質的に面倒を見たのは、6時間ほどのことである。さて、それでどうだったかというと、翌朝起きたときには、私の両腕はパンパンに腫れ、両肩にはいつになくピリピリしたものを感じ、両太ももは明らかに痛く、足をちょっと曲げると左足のアキレス腱が悲鳴を上げた。いやはや、それは大変だった。

 デパートの子供売り場で、初孫ちゃんを連れた娘と待ち合わせたのだけれど、これから子供用の靴を買うのだという。何でも、最近は走り回るから、靴がすぐにすり減ってわずか1ヶ月で新しいものを買い換えなければいけないとのこと。初孫ちゃんを見ていると、ひょこひょこ歩いている最中、確かにしばしば靴のマジックテープ辺りをさわって、気にしている。やはり、靴が足に合わないらしい。それで初孫ちゃんの手を引いて靴売り場に行った。すると、売り場の店員さんは足の大きさを測って15センチのものを出してきた。足の大きさが確か14.5センチと聞いていたので、店員さんに、ちょっと大き過ぎるのではないかというと、「子供の足は、地面に接すると思ったより大きくなるので、靴は大き目の方がよろしいです」と言われた。なるほど、そうかもしれない。それで、15センチの靴を実際に履かせてみた。最初に試したのはナイキ製で、スポーツメーカーらしく、青い色を基調としピカピカ光る紺色の線が流線型に走っている。なかなか格好がよくて、たとえていうと最新の新幹線のようだ。大きさもちょうど良いように見えたが、よくよく観察していると、初孫ちゃんは、これを履いてもあまり歩こうとしない。

 どうもフィット感が悪そうだから、これは駄目だと思って、もうひとつの靴を試してみることにした。これは、日本のメーカーのコンビ製で、外見は基本的に白色だが、中央に青い地を背景として黄色い線がこれも縦横に走っている。ナイキ製ほどの格好の良さはないものの、それほどみっともないデザインではない。しかも、手にとってみると、まるで羽のごとくというのは言い過ぎにしても、とっても軽いのである。それを履かせたところ、スッと足に入って、そのとたんスタスタと歩き出した。これは良い。幼児向けとはいえ、やはり日本人には日本製の靴がしっくり来るようだ。

 さて、その靴を買い、それをそのまま履かせて靴売場を出たら、もうお昼の時間となった。そこで、デパートの上の階へとエスカレーターで上がり、どこか適当なレストランに入ることにした。ところがどのレストランにもお客が長い列を作っている。はてさて困ったなと思っていると、あるイタリア料理の店ではお客が全然並んでいなくて、すぐに入れそうだ。もっとも、そういう店に限って、全然美味しくないか、あるいは高いと相場が決まっている。でも、一流デパートのレストランだから、美味しくないということはなくて、おそらく高いからだろうと考え、ならばこの際、仕方がないと思って、そちらに入ることにした。

 そのレストランは、建物の中央部に丸く設けられている円筒のような部分に入っていて、外は廊下に面しているという不思議な造りである。窓を全部開ければ、通りがかりの人と顔が合ってしまうということになる。メニューを広げると、ピザの類でもひとつ3,000円程度だから、街のレストランのまあ2〜3倍の値段である。ただ、サイズはかなり大きそうだ。そこで、サラダ、ピザ、パスタの三品ほど注文した。そうやって、ひと息つくと、初孫ちゃんがじたばたし始めた。それでは料理が来るまでと思い、散歩に連れ出した。すると、初孫ちゃんは、店の前に並べてあるスチール製の丸椅子を盛んに玩び始めた。10脚ほどの椅子の間隔を開けたり狭めたり、ついには積み重ね始めたのには参った。1脚はけっこう重いのであるが、それなのに難なく持ち上げている。私は、それを元に戻したりして、いやもう、大汗をかいた。

 その作業をしていて、ふと初孫ちゃんの方を振り返ると、その椅子のひとつを押したまま、カラカラ軽い音を立てながら、前進しようとする直前であった。あわてて付いていくと、そのまま丸い廊下をどんどん走っていく。これがまた、早いの何のって・・・単に走るだけならわかるが、あの子供には重いはずの椅子を両手で押しながらだから、びっくりする。そのまま、その階を一周してしまった。100メートル以上はあっただろうか。それだけでは足りず、もう一周、また一周と続けて3回も廻ってしまったのだから、恐れ入る。

 その間、1回も転けなかった。それもそのはずで、押している丸椅子が支えになっているからだ。それはいいのだけれど、ときどき、見知らぬ人とぶつかりそうになる。そうすると、私があわてて止めようとする前に、自分でピタリと止まる。そして、その人の顔を見上げて「ごめん、ちゃい」と言うから、言われた人は大笑いだ。こちらもつい笑ってしまう。そしてまた、前方へと突進していく。こちらは中腰の無理な姿勢で付いていくから、腰がどうかなりそうだ。さすがに最後の頃になるとやや速度が遅くなってきた。そこでこれ幸いと、手から椅子を引き離すようにして抱き上げ、レストランの席に戻った。

 もう料理のお皿が運ばれてきていて、家内と娘が談笑しながらゆったりと食べているところだった。うらやましい。こちらは、腰は痛いし、息を整えるのも精一杯という情けない状態である。初孫ちゃんは、渡されたナプキンで紅葉のような両手を拭いたあと、テーブルの上のパンに手を出した。よい香りを放っていたから、ついつい手が出たのだろう。臭覚も利いているようだ。パンは、少し暖めてあるから食べやすかった。器用にそれを引きちぎって、食べ始めたので、私もひと息ついた。口が動いている時は、体の動きは静かになるらしい。ふと思いついて、パスタの中にあった柔らかく煮込んであるビーフをあげると、パクパク食べた。へぇぇ・・・と思ったが、聞くと最近は普段から結構、肉食なのだそうだ。この間は、野菜の煮込みを食べさせているときに、「にんじん、おいちいねぇ」と言ったものだから、野菜が好きなのかと思い込んでいたが、最近の傾向はむしろ肉食を好むらしい。

 なかでも、ハンバーグが大好物らしい。こんなに小さい子供向けのハンバーグなどあるのかと思っていると、それが現にあると見せてくれた。四角いパックが二段になっているハンバーグ弁当で、レトルト食品になっているから、開けるとすぐに食べられる。この日も、レストランの食事が食べられない場合に備えて、ひとつ持参していた。それを開けて備え付けのプラスチックのスプーンを渡すと、あれまあ、といいいたくなるほど、下段のご飯と上段のハンバーグをパクパクと口に運び、10分もしないうちに食べ終わってしまった。いやまあ、よく食べること・・・。肉食でしかもこれだけ食べるから、あれだけ走ることが出来るわけだと納得した。

 ひとしきり食べた後、また暇になったのか、何かと「嫌だぁ」と、最近の口癖を言い始めて、外へ行きたいとぐずりだした。娘に言わせれば、お腹がいっぱいになっても、運動すれば、また食べられるとのこと。本当かなと思っていたら、今度は家内が運動に連れていくというのでお任せして、私は食事を続けることにした。しばらくして、今度は家内がヘトヘトになって帰ってきた。まあ、私の場合と似たようなものだったらしい。主にエスカレーターに乗って、下の階に行ったらしいが、手をつなごうとすると、自分でやれるとばかりに振り払ってしまうから、気が気でなかったし、中腰で追いかけるのは疲れるとのこと。

 帰って来た初孫ちゃんは、驚いたことに、再び猛烈に食べ始めた。ビーフのかけら、チーズ、パン、パスタ、野菜などと、何でもござれだ。娘が言うように、運動してお腹がまた空いたらしい。大人ではあり得ないが、子供の胃は小さいから、そういうことだというのである。食べているだけでは水分が足りなくなるからと、ミルクを100ccほど作ってほ乳瓶で渡したら、それもチューチューと一気に飲み干してしまった。われわれも、コーヒーを飲む段階となったが、初孫ちゃんがまた暇そうにしだしたので、私が再び連れ出した。

 今回は、あの丸椅子を使う運動をさせまいと、両手で抱っこして、並んでいる椅子を見せないようにその前を通った。すると、視野が変わって面白かったのか、しばらくは大人しくしていたものの、床に降ろされるや否や、前傾姿勢となって、何処へでもカミカゼ戦闘機のように飛んでいく。「走る、歩く」などという生やさしいものではなく、まさに「飛ぶ」と表現するのがいいくらいの早さである。わずか半年前まではハイハイしていたというのに、これは何としたことだ・・・。私は、それを追いかけるだけで精一杯という有様な上に、何か危ないことでもあったら両手でこの子の体を持ち上げようとしているから、家内の言うように、常にお相撲さんのごとく中腰の中腰の前傾姿勢をとらなければいけない。そんな姿勢で、たちまち長廊下を2周してしまった。それだけでなく、再び丸椅子が眼に入ったようで、それをカラカラという音を立てて押しながら、なんとまあ、更に3周もしてしまった。いや、こんなに走り回るのなら1ヶ月に一度は靴を買い換えるという娘の話は、本当である。試しに初孫ちゃんの足の太腿を触ってみると、赤ちゃん時代のようなふわりとした脂肪の感触から打って変わって、弾力性のある筋肉がいっぱい詰まっていることがよくわかる。

 食事の後、駅に連れていったところ、ホームで次々に来る電車を指さして、甲高い声で「キャアァーアァー」と叫んだ。感極まったときの表現らしい。電車が到着すると「ドゥーオ、オウプンヌ」とやっている。ははあ、「door open」と言っているらしい。乗客の出入りが終わると、小さい指を立てて「クゥローズ」という。「close」だ。さっそく、習った英語で自然にやってみせている。この時期、何でもかんでも吸収する年頃だから、そのひとつとして、英語の英才教育というのも試してみるべきだと思うようになった。考えてみると、昔の武家は、男の子の孫が生まれると、3歳くらいからお祖父さんの前に座らせて、漢籍を読ませるという伝統があったけれど、まあそんなようなものかもしれない。四書五経が英語になっただけだ。

 駅から、娘夫婦の家に向かおうとしたところ、まだ工事人が入っていて、家の中が片付いていないから、我々がもう少し面倒を見ることになった。そうはいっても、外は寒いし、我々には地理不案内のところなので、そのまま駅ビルの中にいることにした。レストラン街の一角に、ちょうど適当な長椅子があったから、そこに座った。しばらくしたところで、それまでバギーの中で眠っていた初孫ちゃんが目覚めた。ただ、周囲を暗くしていたので、そのままウツラ・ウツラとしていて、夢見心地である。しかし、そのままでいてくれという思いもむなしく、30分ほど経過したところで、バギーを足で蹴り出した。外へ出してくれという合図だ。

 抱き上げてみると、良い具合にほっぺが真っ赤となっていて、よく眠ったようだ。喉が渇いているといけないので、家内があらかじめ買っておいたペットボトルのぬるいお茶を、小さなおちょこのようなもので飲ませた。すると、お酒を飲むような感じで、それをおいしそうに啜る。そして、指を一本立てて、「もう一個」という。ハイハイと言ってお茶を注いであげると、また飲み干す。そういう調子で、100ccほど飲んでくれた。さて、それからがまた運動の時間である。

 駅ビルの構内を、頭を前傾させて、どんどん走り抜ける。またまた追跡しなければいけない。途中で、木村屋のあんパンを売っているおばさんがいた。そのおばさんに、愛想よく手を振った。すると、試食のあんパンを楊子に刺して食べさせようとしてくれる。クセになるといけないと思って、丁重に断わっていると、もうかなり前へと走っていく。切符の自動販売機の前に来た。ボタンの数字をひとつひとつ数えて押していく。もちろん「0」から始まるが、これを「ズゥィーロゥ」などと日本人離れした英語風の発音でしゃべる。「ゥワン、トウゥー」ときて、途中「3」を日本語で「サン」などと言うのはご愛嬌だ。それがひとしきり終わると、今度はエレベーターの前に行って、身障者用に低い位置にあるボタンを勝手に押す。しばらくしてカゴが来たから、乗れという仕草をする。それに応じて乗ったら、一階に着いた。そして、ぐるりと建物を回って正面に行き、そこから3階までの階段を「行こっ」と言って一緒に登ろうという。階段は急なので、さすがに私に小さな手を差し出した。その両手をつかんでやると、どんどん足が回転して、階段を登っていく。

 もといた改札階に付いたら、おばあちゃんの待っているところに向かって走り出す。もう、建物の構造がわかっているようだ。途中のポスターの前でぴたりと止まった。それで、「チィンカンセン」としゃべる。なるほど、これは青森新幹線のポスターだった。この子、もう新幹線も知っているんだ。娘に聞いた話によると、この翌日、保育園に行く途中で、本物の新幹線を目撃したらしい。それで登園したとたん、保母さんに「新幹線、見た!」と報告したという。もしかすると、筋金入りの鉄道ファンになるかもしれない。鉄ちゃんの孫版だから、鉄孫ちゃんだ。

 へとへとになって、家内にバトンタッチをする。そうすると、どうも私とは違うコースをとって、駅ビル構内を駆け巡ったらしい。たくさん食べてよく寝たおかげか、激しく走り回り、ボタンというボタンをさわりまくり、あちこちで英語の単語を喋りまくり、いやはやものすごく活発な子だ。家内と2人、その元気さに閉口した頃にやってきた「お父さん」の顔が、まるで救いの神に見えた。考えてみると、私と同じような年齢で、子供を持つ人がいないではないが、こんなことを毎日しているのでは、体が持たないのではないかと思う。やはり、子供は親がなるべく若いうちに、生まれてくるのが理想だと思う。

 また、たった半日の出来事だったけれど、初孫ちゃんのお世話は、実に大変だった反面、とても面白かった。まるで、頭と体が何か新しいことをしたくてしたくて、たまらないと言っているようなものである。「海綿が水を吸うように」というのが知識を仕入れるときの比喩に使われる言葉であるが、いやいやそんな生やさしいものではない。この初孫ちゃんを見て、「ブラック・ホールが何物でも飲み込むように」とでもいいたくなるほど、あらゆることを貪欲に吸収中である。こういうと時期こそ、親は面倒くさがらずに、何でも教え、本物を見せ、やらせてみるということが、必要なのかもしれない。






  関 連 記 事
 初孫ちゃんの誕生
 初孫ちゃんは1歳
 初孫ちゃんは1歳4ヶ月
 初孫ちゃんは1歳6ヶ月
 初孫ちゃんもうすぐ2歳
 初孫ちゃんは2歳2ヶ月
 初孫ちゃんは3歳4ヶ月
 初孫ちゃんは3歳6ヶ月
 幼稚園からのお便り(1)
10  初孫ちゃんもうすぐ4歳
11  幼稚園からのお便り(2)
12  初孫ちゃん育爺奮闘記
13  初孫ちゃんは4歳3ヶ月
14  初孫ちゃんは4歳6ヶ月
15  孫と暮らす日々




(2010年11月22日記、12月 1日追記)


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徒然187.皇居と二重橋の秋

和田倉噴水公園


 よく晴れた秋の日、お昼に二重橋の駅に降り立ち、そこから散歩に出かけた。まずは和田倉噴水公園に向かう。公園の真ん中に三基の大きな噴水がある。秋らしい真っ青な空に高々と水が吹き上がり、空の青さとたなびく白い絹雲の対比が実に美しい。また、この季節はちょうど銀杏の黄葉が真っ盛りであり、これまた青い空のキャンバスに真っ黄色の影が食い込むがごとくで、本当に素晴らしい。まさに秋の最盛期というわけだ。公園の片隅に、現代オブジェのような噴水のカーテンがあり、いかにもヴィーナスが出てきそうな雰囲気のあるところが面白い。

和田倉噴水公園


 この二重橋から皇居に向かって行幸通りという大きな通りがある。この通りは、各国大使が信任状を奉呈する際に、迎えの馬車が通るところである。道の両脇には、立派な銀杏の木が並んでいて、こんなところを中世そのままの御者付き馬車に揺られて皇居に向かうというのも、なかなかよろしい趣向である。各国大使の記憶に長く残るものと思われる。

行幸通りの銀杏並木


 その通りに並んでいる銀杏の並木は、今が盛りの黄葉となっているが、都内のほかの銀杏に比べて、いつもここだけは黄葉が早い。現に今日も銀杏の木の先端では、もう葉っぱが落ちてしまっている。これはなぜか、そういう種類の銀杏なのかと思っていたら、ある新聞を読んで初めてその理由がわかった。陽当たりと剪定のせいだという。つまり、陽当たりがよくて剪定をしていないと、その葉はさっさと寿命を終えて黄色くなり、落ちてしまう。ところが、陽当たりが悪くて剪定をされてしまうと、その逆境の中で懸命に生きようとしてなるべく緑を長続きさせていこうとする。だから、黄葉になるのが遅れるのだという。なるほどそうかと納得した。

行幸通りの銀杏越しに見た青い空


 足は皇居の方へと向き、改築中のパレスホテルの向かいにある巽櫓に行く。ここは、よく時代劇でも使われるお馴染みの櫓(やぐら)である。真っ白い壁が桔梗濠に映えて、美しい。その濠に沿ってゆっくりと回る。途中、左右に見える松の木が誠に魅力的だ。あるものは2人でダンスをしているように見え、あるものは空に向かってイヤイヤながら伸びていっているようである。

巽櫓と桔梗壕


2人でダンスをしているように見える松の木

 


 やがて、二重橋のところに着いた。およそ半世紀前のことになるが、両親に連れられて妹たちとここにやってきて、まさにこの場所で写真を撮ったことがある。その写真は、まだ手元に残っている。これを見ると、妹たちは、ほんの4〜5歳といったところである。実は、ここから見える眼鏡のような橋は、二重橋ではなくて、その奥の方にあってよく見えない橋が本物の二重橋だと聞いたことがある。まあ、それはともかく、こうやって半世紀を隔ててまたここに来ようとは・・・いやそれどころか、毎日この前の内堀通りを車で通って通勤までしているとは・・・当時は思いもしなかった。人生というのは、意外の連続である。だから、面白いのかもしれない。

眼鏡のような橋の奥が二重橋


 最後に、丸ビルで食事でもしようとして、外堀通りに向かい、馬場先濠を渡ったところ、その濠の水面に映った銀杏の黄色や緑色、そして建物の色が素晴らしく綺麗で、思わず見とれてしまった。これだけでも、東京で40年近く、無我夢中で働いてきた甲斐があったというものである。

馬場先壕の水面に映った銀杏の黄色や緑色そして建物







 皇居と二重橋の秋(写 真)は、こちらから。



(2010年11月17日記)


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紅葉葉楓と帝釈天

水元公園



1.水元公園の紅葉葉楓

 都立の水元公園で、街路樹の「紅葉葉楓(モミジバフウ)」が紅葉を迎えていると聞いて、行ってみた。自宅から千代田線で金町駅に行き、そこから期間限定で走る循環バスに乗ると、30分もかからないうちに着いた。水元公園には以前、5月の菖蒲祭りのときに訪れて以来のことである。そのときの印象は、ともかくただっ広い水面が広がっている宏大な公園というものであった。私たちは、普段からせせこましい都心に暮らしている身であるから、そこはまるで異次元に属する空間のようであった。

モミジバフウの落ち葉


 ところで、そもそも「紅葉葉楓(モミジバフウ)」って、何だろうと思い、ウィキで調べたところでは、「モミジバフウは、マンサク科フウ属の落葉高木で、別名をアメリカフウという」とのこと。これを読むまでは、これはてっきり「モミジ」の「紅葉」「風」に違いないと思い込んでいたから、「フウ」というのは「楓」と知って、びっくりした。しかもそれは「カエデ」かと思ったら、それもまた間違った思い込みで、確かに似ているけれども、カエデは例のとおり、翼の付いた種をつけるのに対し、こちらの実はイガの付いた球形のものだから、それを見たらすぐに違いがわかるというので、また驚いた。そういわれてよくよく木を眺めてみたところ、なるほど、こちらの木には、ピンポンボールくらいの大きさで、イガイガのある小さな丸い実が成っていた。

モミジバフウの木


 この公園の水面は細長くてどこまでも続いている。地図を見ると、こちら側は東京都葛飾区だが、向こう岸は埼玉県三郷市である。同じような公園が向こう岸にも広がっているけれども、あちらは「みさと公園」というらしい。こちらから見ると、ちょうど光がそちらの方に当たっており、写真を撮りやすい位置と時間帯だったといえる。いやまあ、それにしてもだだっ広い。見渡す限りが水面で、そのはるか向こうに木々と公園の緑が少しだけ見えるとでも描写した方がわかりやすいかもしれない。聞くところによると、江戸時代からこの辺りは治水のポイントで、徳川将軍吉宗の時代に人工的にこうした「水溜り」が作られたというのである。確かに現代でも、現在の荒川放水路の近辺がもし水害に遭ったりすると、東京の都心まで一気に水没すると聞いているから、そうなのかもしれない。

モミジバフウの葉と実


 水面では、釣りが許されているようで、多くの釣り人が思い思いに竿を垂れていたが、不思議なことに釣れた人はひとりも見かけなかった。そんな水面に沿ってどんどん歩き、ようやく水元大橋というところに付いて地図を見たら、まだ全体の4分の1程度まで来たに過ぎないことがわかって、改めて公園の大きさを感じた。こんな調子では一周するのに日が暮れてしまう。

 そこで近くの「涼亭」というところに入り、二人で天ざるを注文した。しばらく待った後に出てきた天ざるは、けっこうおいしかった。それで店を出たところ、お目当ての「モミジバフウ」が、その辺りからずっと先の駐車場にかけて植えられていた。いやいや、なるほどこれは美しい。真っ赤なもの、黄色いもの、まだ緑色のものが混在し、それらが日光を浴びてキラキラ輝くほどに綺麗だ。その様子を写真に納めていったが、もう少し空が晴れていて、空の青色が紅葉の対比色として効いていたら、もっと素晴らしい写真になったかもしれない。まあ、欲を言っては限りがないので、今年はこんなところで満足すべきだろう。ひとしきり写真を撮ったので、そろそろ水元公園から引き上げることにした。バスに乗ったか、10分もかからないうちに、JR金町駅に着いた。そこからバスを乗り換えて、柴又帝釈天に向かった。


ベンチには先客の鳩がいた




2.柴又帝釈天の散歩

寅さんシリーズの舞台となった「高木屋」


 柴又帝釈天に着いた。バスから降りると、柴又駅から帝釈天に向かう参道の中途から入る形になる。すると目の前には、松竹映画の寅さんシリーズの舞台となった「高木屋」があるではないか。店内から白い割烹着を着たサクラさんが出てきそうな趣である。それでは、ここで草餅でも食べようかと、二人で店内に入った。あるある、寅さんシリーズの映画の記念写真がたくさん・・・。そのほとんどの写真がセピア色に干からびてしまっているが、中には数枚ほどカラー写真があって、マドンナをはじめとして出演者一同がニコニコしながら写っている。私は、ほんの2〜3の作品しか見ていないが、この写真には第45作目とある。調べてみると1992年のもので、「男はつらいよ 寅次郎の青春(風吹ジュン, 後藤久美子 宮崎県[油津]、岐阜県[下呂温泉) 」とある。特別編を除けば第48作まで作られたというから、たいしたものだ。店内には、若いときの山田洋次監督の写真があった。

第45作目の写真


 運ばれてきたお団子は、私はみたらし、あんこ付きの草団子、それに海苔付きの団子という三本組で、家内は草団子のかたまりである。食してみると、なかなか美味しい。私はあまり甘すぎるものは敬遠しているが、このお団子の甘さは控えめであるし、それに柔らかすぎず固すぎずで、団子の鉄則を守っているところが誠にいじらしい。周りには、おばさんの団体、夫婦子供連れ、カップなど様々であるが、食べている人たちは、皆、ニコニコしていて、幸せそうである。これぞ、庶民のささやかな幸福で、我々もその恩恵にあずかっているというわけだ。

「高木屋」のお団子二皿


 その高木屋を出て参道に戻り、帝釈天に向かう人並みの流れに再び身を任せる。菊の季節とあって大菊が三本セットで各お店の店先や脇に置かれていて、なかなか美しい。ああ、せんべい屋の店先にある丸いガラスの容器がとっても懐かしい。私の小学生の頃の近くの駄菓子屋は、まさにこれで売っていたものだった。そうかと思うと、その近くには漬け物屋があって、店頭で漬け物のキュウリにスティックを刺し、ちょうどウィンナー・ソーセージのようにして売っている。こんなもの誰が食べるのかと思うところだが、案に相違してこれが一番人気らしくて、老若男女だけでなく子供の人だかりも出来ていたから、人間の趣向というのは、わからないものだ。

せんべい屋の店先にある丸いガラスの容器


 今月は11月ということで、あちこちに七五三の晴れ着を身につけた子供さんたちがいて、華やかである。確か男の子は三歳と五歳、女の子は三歳と七歳だったと記憶しているが、来ている子をざっと見たところ、七歳らしき子はたったひとりしか見かけなかったが、五歳が3〜4人、三歳が7〜8人ほどいた。親も、子供が大きくなると、忘れてしまうのか、それとも面倒くさくなるのか、晴れ着を着させてお祝いするということをしなくなるようだ。先月は10月ということで、近くの八百屋の店頭にすらハローウィンのかぼちゃが出現する時代だというのに、日本古来の古き良き慣習というのも、かくして廃れていく運命なのかもしれない。

七五三の晴れ着を身につけた子供さん


 さて、柴又・帝釈天・題経寺の二天門が見えてきた。ネットで調べたら、初層左右に四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置しているから、この名が付いているようだ。それをくぐると、おなじみの帝釈堂が目の前にある。ちなみに、残りの四天王すなわち持国天と多聞天(毘沙門天)は、こちらの内殿に安置されているそうだ。その帝釈堂でお参りをすませた後、大庭園(邃渓園・すいけいえん)を見学させていただけるというので、そちらに足を向けた。こちらは、昭和10年に完工した総檜造りの大客間前の庭園である。その大客間の中を見ると、畳敷きの客間の天井からシャンデリアがぶら下がっているなど、何か不思議な気がしてくる。その奥の部屋には、例の力強い筆跡で「南無妙法蓮華経」の掛け軸が掛かっている。ああ、こちらは日蓮宗なのだと改めて思った。

帝釈堂前の雑踏


 大庭園には、廊下から三方を見渡せる小部屋がつきだしていて、そこに座ってガラス越しにお庭を眺めることができる。丸く綺麗に刈り込まれた松の木が美しい。ただ、この季節は、日の光を受けて輝く紅葉を庭の裏手に回って見るのがよろしいようだ。何枚かの写真を撮ってみたが、真っ赤な紅葉と黒い木の枝が思わぬ対比を見せて、実に美しい。この時期ならではの景観である。また、大客間からはよく見えなかった庭の池の水が、裏手からはよく見える。日本家屋と庭園と池の水とが一体となって、これも素晴らしい景色を紡ぎ出している。

大客間の庭園


大客間の庭園


 そこを退出した後、「彫刻ギャラリー」なるものがあるというので、軽い気持ちでそちらも見学させていただいたところ、素晴らしい彫刻群の数々に圧倒された。要するに建物の外壁に飾られた木彫りのレリーフで、法華経のハイライト・シーン・・・おっと、ついカタカナ英語を使ってしまうので、ここではふさわしくない・・・というか、その著名な場面を抜き出して彫刻にしたもので、大正11年から昭和9年にかけ著名な10人の彫刻師が分担して制作したという。描かれている場面としては、龍女成佛の図、法華経功徳の図、法師守護の図、病即消滅の図などである。

「彫刻ギャラリー」


 帝釈天を出て、また参道に戻り、来る途中で気になっていたお店、松屋の飴に立ち寄った。店内では、ご主人らしきおじさんが、細長い飴をハサミでチョキチョキ切っている。それも、手元を見ないで往来を行き来する通行人を身ながらの技である。素人がこんなことをやったら、飴の大きさがマチマチになるだけでなく、自分の指を切ってしまいそうである。最後の飴の大きさはどうなるのだろうと思って名人の手元を見ていると、ちょうどよい大きさの飴が切り出されて、終わった。さすが名人だけのことはある。私なら、中途半端な大きさとなってしまった挙げ句に、処理に困って自分の口にパクっと入れてしまいそうだ。ところで、何を買おうか・・・ニッキだのハッカだのというのは懐かしいが、一袋の単位で買うには大きすぎるし・・・と思っていると、五色飴というのがあったので、それを買った。家内は、実家へのおみやげだと言いつつ、きなこ飴というのを求めた。そちらの方も、なかなか美味しそうだ。

フーテンの寅さんの銅像


 松屋の店頭から離れて、参道を歩いて京成の柴又駅の方へとぶらぶら歩く。横切っている路を越えるとすぐその先に駅前広場があるが、その真ん中にフーテンの寅さんの銅像がある。頭にはあの帽子をかぶり、手には破れ鞄を提げている。顔はといえば、渥美清のあの下駄のような大きな顔である。「それを言っちゃあお仕舞いよ」というダミ声が今にも聞こえて来そうだ。






 水元公園の紅葉葉楓( 写 真 )は、こちらから。


 柴又帝釈天の散歩( 写 真 )は、こちらから。





(2010年11月13日記)

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新宿御苑の菊花壇と薔薇

見事な大作り花壇


 そろそろ秋の気配を思わせる季節になったので、また今年も、新宿御苑の菊花壇展に行ってみた。皇室ゆかりの伝統を受け継ぐこの菊の展示会の由来は、一昨年にも触れた。それ以来、特にこれという知識が増えたわけでもない。ただ、今年渡された地図を見ると、大作り花壇の裏手に、「菊栽培所(立ち入り禁止)」とあるので、これらの美しい菊は、ここで栽培されているらしい。

嵯峨菊花壇


丸っこくてかわいい丁子菊


台湾杜鵑(たいわんほととぎす)


 そこでまた今年も、江戸菊花壇から始まり、見事な大作り花壇を見て思わず「おおぅー」と声をあげそうになった。そして繊細さのかたまりのような嵯峨菊に見とれ、丸っこくてかわいい丁子菊に思わず微笑み、もう咲き終わりに近い伊勢菊を見て残念な気がした。実はその花壇の前に、台湾杜鵑(たいわんほととぎす)があって、こちらも紫と白のなかなか渋い味わいに、しばしの間、思わず見入っていた。それから懸崖菊花壇があったのだが、残念なことにここは日当たりがよすぎて、強い直射日光が懸崖菊のちょうど下半分に当たるものだから、あまり良い写真は撮れなかった。例年、ここでいつも同じ経験をする。

懸崖菊花壇


大菊花壇


 上の池に沿って歩き、その先にある中国風の建物は、旧御涼亭といって、台湾在住の邦人が寄付をしたものという。そこからの上の池の眺めは、湖面に木々が映り込むなど、とても素晴らしいものだった。それから、この菊花壇展の呼び物ともなっている路地花壇を横目に見つつ、再び元来た道を戻った。そこに、大菊花壇があり、人の頭ほどの大きい菊が並ぶ様は壮観の一言に尽きる。しかもそれが、白い菊、黄色い菊、紫がかった菊の三種類がバランスよく規則的に並べられているのは、素晴らしい。大作り花壇とともに、この大菊花壇が白眉中の白眉といってもよい。私が一番好きな菊である。家内もまったく同意見だった。

大菊のひとつ


 その次の肥後菊花壇は、まだ咲いていなかった。これは仕方がないとして、最後は一文字菊・管物菊花壇である。その形から、一文字菊は御紋章菊といわれ、管物菊は糸菊といわれる。いずれも、白い丸い支えがないと形を保てないほどの繊細極まりない菊であるが、まさに観賞用として栽培されてきた歴史を感じさせる。例年は、実に美しいのであるが、今年は、猛暑のせいかどうかはよくわからないけれども、ようやく展示することができたという感じの出来である。

一文字菊・管物菊花壇


 それから、周遊路を通って、フランス式庭園の方へと足を伸ばした。途中、中の池の周辺では苔の上の落ち葉が美しかったり、花にクモの子供がとりついていたりした。しばし歩いてフランス式庭園に着いてみると薔薇園に着いた。いまがちょうど薔薇の盛りを迎えているようだ。しかも、いつも写真を撮りに行っている古河庭園とは違う種類の薔薇が多い。赤、白、ピンク、黄色と素晴らしい薔薇の花が迎えてくれる。そのひとつひとつを写真に納めていった。

フリージア


 薔薇がすぐ目の前にあるから接写が出来る古河庭園とは違って、こちらは薔薇との距離が少しある。だから、薔薇の花を画面いっぱいに撮ろうとすると、いつも使っている普通望遠レンズではいまくいかない。そこで、45mm〜200mmの中距離望遠レンズに取り替えて、こちらを使ってみた。このレンズは最近ではあまり使ったことがないが、ピントさえ合わせられれば、とても良い写真を撮ることができる。幸いこの日は、あまり風がない日だったので、このレンズは最適の日よりとなった。ただ、画面のボケ具合は、いつもの標準望遠レンズのようにはいかない。標準望遠レンズの場合、たとえば画面に木漏れ日が入り込むと、それがぼんやりした丸い形として写って、画面に独特の味わいが出る。しかし、この中距離望遠レンズでは、それが一様にボケてしまうことが多くて、その種の一眼レフ特有の味わいが出ないのである。どちらかというと、背景の色がそのままぼやけて入ってしまうので、背景の選択に気を遣うところである。

カウンティフェアー


 まあ技術的な話はともかくとして、これほどたくさんの美しい花を目前にすると、こういうテクニカルな話より、先に手が動いてシャッターを切っている。次から次へと撮っていったのだが、正直言って、裸眼で見た花と、こうして写真になった花とでは、かなり印象が異なる。いわば、その「写真美人」のような花の名を挙げていくと、次の花が気に入った。まずは、フリージアである。薔薇の花には概して赤やピンクが多いが、これは黄色い。しかも、撮った花は、手前の小さい花とその後ろの大きい花とが、ちょうど入れ子のような形となって、面白いきれいな写真を撮ることが出来た。

トランペッター


フレンチ・レース


 そうかと思うと、カウンティフェアーという薔薇は、やや小型のピンク色で、なかなか可愛い感じの花だ。たとえていうと、アメフトのチアガールみたいなものである。これに対して、トランペッターという真っ赤な薔薇は、大人の女性の雰囲気がある。大人の女性といえば、白い薔薇フレンチ・レースは清楚そのもので、これもまたなかなか味わい深い。アラベスクという赤と白の混ざった薔薇は、つい先日見たよさこい踊りのように、大変賑やかな感じがある。あった、あった、プリンセス・アイコという花が・・・いつかこのように名付けた薔薇が出ると思っていた。ピンクで、かわいらしい感じの花である。そのほか鑑賞した薔薇は何十種類にも及び、とても楽しい一日だった。

アラベスク


プリンセス・アイコ





 新宿御苑 菊花壇展( 写 真 )は、こちらから。

 新宿御苑 秋の薔薇( 写 真 )は、こちらから。




(2010年11月7日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:55 | - | - | - |
白鷺の舞と東京時代祭

白鷺の舞


 つい一昨日の日曜日には、東京の各地で「よさこい」だの「琉球エイサー」だの、「江戸芸かっぽれ」やら果ては「阿波踊り」などが大乱舞を繰り広げているのを見て、びっくりしたばかりである。ところが今日の文化の日にも、また浅草で行事と別のパレードがあるという。それは何かというと、浅草寺境内での「白鷺(しらさぎ)の舞」と「東京時代祭」である。とりわけ東京時代祭は、浅草寺境内から出発して馬道通りと国際通りをぐるりと一周するほど大規模だという。ふむふむ、一昨日にはまるで「踊る阿呆に見る阿呆」だと我ながら思ったばかりだけれど、この日は最初から「見る阿呆」に徹しようと、朝から浅草二丁目行きのバスに乗った。言問通りを通って15分ほどして到着すると、もうそこには時代がかった衣装を着て集まる人でごった返している。その中を、白鷺の舞が舞われるという五重塔前広場へと歩いて行った。私も家内も、この舞を見物するのは初めてである。

 浅草観光連盟のHPによると、「白鷺の舞は慶安5年(1652年)の『浅草寺慶安縁起絵巻』の祭礼行列の中にある『鷺舞』の姿を浅草観光連盟が昭和43年に東京百年の記念行事として復興したものです。鷺舞の神事は京都・八坂神社の祇園祭りが起源で千百年以上の昔から悪疫退散の為に奉納伝承され、非常に盛んであったと云われますが、いつしか中絶し、やがて慶安2年(1369年)に大内引世が京都から山口に八坂神社を勧請建立するにあたり山口の祇園祭りの神事として登場させ、更に天文11年(1542 年)島根県津和野の城主吉見正頼が山口から移し、今日では全国的に有名となっています。浅草寺の『白鷺の舞』は京都の正統を基本に慶安縁起の遷座供養祭礼行列を復元したもので、武人3名、棒ふり1名、餌まき1名、大傘1名、白鷺1 名、楽人19名、守護童子、その他、『白鷺の唱』を演奏しながら舞い、練り歩く」とある(ちなみに、このHPでは「白鷺1 名」とあるけれど、実際には8名だったと思う。また楽人は19名とあるが、実際にはもっと少なくなっている)。

白鷺の舞を踊り終わって仲見世へ


 さて、本堂にて参拝をした舞姫たちの一行が、五重塔前にしずしずと進んで来て、所定の位置についた。プォーー、チャーンチャーン、ドーンドンと優雅な平安朝の笛と鉦と太鼓の音色が響き渡り、いよいよ神事の舞が始まった。と・・・なかなか、動き出さない。しばしの間そのままで立っていて、待ちくたびれた頃にようやく動いた。舞子さんたちは、頭の上の白鷺をかたどった冠り物が重そうで、そんな装束を着けているだけで大変そうなのに、その上で踊るから、どうしてもゆっくりしたテンポになる。しかしかえってそれが、優雅な印象を与える。全体の舞の構図は、大傘を差し掛ける人の前に立つ「餌まき」とおぼしきお姉さんが真ん中に立つ。その両脇で各4名の白鷺の舞子さんたちが輪になって踊るという仕組みである。中でも、舞子さんの白鷺が両手を広げると白い羽が美しく、見事なほど優雅な姿になるので、これは一見の価値が大いにあると思う。これを見ていると、しばしの間、浅草寺境内に鈴なりとなっている大勢の見物人を、平安朝の昔の雅び(みやび)の世界へと連れて行ってくれる。踊りは、案外早く終わり、それが終わった後、そのまま舞子さんも餌撒きのお姉さんも、笛や鉦や太鼓の人たちも全員、宝蔵門をくぐって仲見世へと出て行った。

 さて、もうお昼となったので、家内と2人で昼食を摂ろうと天ぷらの大黒屋に向かった。しかし、そこでも大勢の客が列を作っていて、ざっと50人もいるではないか! これでは時代祭の見物どころではなくなりそうなので、方向転換して、甘見処の桃園に入った。そこで、この店の名物の甘い物を横目で見つつ、おでんを食べて簡単な昼食を済ませた。それで、地図を見ながら、どこで時代祭りのパレードを見ようか色々と考えた末、パレードが出発したばかりで、まだ参加者の皆さんが元気そうな馬道通りに陣取ることにした。待っていると、私たちの周囲には外国人観光客が多かった。試しに隣の中年の外国人女性に「どちらから?」と聞くと、アメリカからで、こんなパレードは初めてだから、とても興奮しているとのこと。

金龍の舞


 そうこうしているうちに、パレードの前触れとして「金龍の舞」の一行がやってきた。何でも、浅草寺のHPによれば、「浅草寺の山号『金龍山』から名をとったこの舞は、『浅草寺縁起』に、観音示現の時『寺辺に天空から金龍が舞い降り、一夜にして千株の松林ができた(現世利益ともなる五穀豊穣の象徴)』とあることから創作されたもの」だという。そして、8名の元気のよい若い衆たちが、長さ約18メートル、重さ約88キロ(HPの記載による。パンフレットには150キロとあった)のこの大きな龍の体を自由自在に操作している。そして、道を蛇行しながら進み、ときおり、道の両脇の見物人にちょっかいを出す。見物人は慣れたもので驚く風でもなく、龍の鼻先をなでるという具合である。龍の金色の鱗が西日に当たって、きらきら輝き、それが体を左右に振って進んでいく様は、一幅の絵のような感じがした。

 それから、パレード本体がやってくるまで、しばらく待たされたのであるが、その間、今の場所では写真が撮りにくいことがよくよくわかった。というのは、もう日が傾いてきた結果、パレード参加者の顔が日陰になる一方で、その背景の家々に強い西日が当たってしまうから、これから時間が経つとますます参加者の顔が暗く写ってしまうのである。そこで、道の西側から東側の東武鉄道浅草駅に近いところへと移動した。その場所は、光の具合という点では悪くなかったが、後から撮った写真を見てがっかりしたのは、パレードの背景に、古びた看板が写り込んでいたことである。被写体がちょうど良い撮影ポイントに来たら必ずその古びた「駐車場」という看板が背景になるというのは、どうもよろしくない。とりわけ、やや遠目から撮ると、全面フォーカスとなってしまうからその看板もはっきり写ってしまう。だから、望遠レンズで拡大して映すことにより背景がぼけるように工夫したりして、なるべくその看板を撮らないようにした。

在原業平


 東京時代祭の始まりを告げる「本旗」がまず通り、十童子のかわいい幼稚園児たちが続く。それから浅草観音示現の三社様の出番となる。三社様とは、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟と郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも)の3人で、飛鳥時代、兄弟が江戸浦(隅田川)に漁をしていたときに、一躰の観音さまを網の中から発見し、郷司はこれを聖観世音菩薩として祀ったというのが浅草寺の縁起話であるが、それを表現した3人が舟に乗って登場した。在原業平は、平安時代に都からはるばる東国のこの地まで至り、「名にしおば、いざ言問はん都鳥、わが思う人はありやなしやと」と詠んだ人物だが、それをこの日は、なかなかの「イケメン?」が演じていた。

源氏の武将


 次いで時代は平安の昔から鎌倉の世に移り、源頼朝が源平合戦の折りに安房の国の豪族とともに隅田川に陣を張ったときの様子を表す武者の行列になる。ちなみに、源頼朝はもちろん、妻の北条政子も浅草寺に祈願したり参詣したりしたそうだ。北条政子さんはなかなかの美人ということだったが、残念ながらこの日は、頬に垂れる髪が分厚くて、表情も何もまったくわからなかった。これは、メイクの失敗作かもしれない。そのあたりで。浅草寺の三社祭で実際にかつがれる舟渡御として奉納される神事「びんざさら舞」や「白鷺の舞」が紹介され、一連の三社大権現祭礼が次々に通る。

徳川家康の江戸入府


 いよいよ江戸時代となり、最初はもちろん江戸の開祖たる太田道灌の一行で、例のやまぶきの歌のエピソードが紹介される。徳川家康の江戸入府の前に行われた江戸城の石曳きは、大がかりでなかなか面白かった。さて、徳川幕府が安定してきたことを示す大奥御殿女中のご一行と、浅草神社を寄進した徳川家光、参勤交代大名行列が続く。特に参勤交代は、会津の奴さんたちが顔を赤く塗って、大活躍をしていた。一昨日に、丸の内でよさこいを演じていた人たちらしい。

大奥御殿女中のご一行


元禄風の色彩豊かな衣装を着た大勢の女性


 世は元禄期に入り、元禄風の色彩豊かな衣装を着た大勢の女性たちか一斉に紅葉の枝をかざして踊りを披露した。中には・・・いやその大半が、必ずしもお若いとは言い難い人たちだったが、この際、そんなことはどうでもよくて、まあ参加することに意義ありということだ。次は、もちろん赤穂浪士討ち入りで、さらに江戸の町火消し、奉行所の同心たちと続いた。

歌舞伎の助六


魚屋はもちろん一心太助


 華やかな芝居衣装の人たちが来ると思ったら、浅草市村座七福神舞と、猿若三座江戸歌舞伎である。助六の由来を聞いて、庶民のヒーローだから人気があったということを初めて知った。ああっ、あれは大久保彦左衛門、とするとこちらの魚屋はもちろん一心太助か・・・。今の若い人には、なんのことやらわからないだろうなぁ。おお、助さん格さんを連れた水戸黄門ご一行のお出ましだ。江戸の芸者の綺麗どころが来る。黒い着物も、なかなか粋なものだ。

黒船来航のペリー一行


新撰組隊長、近藤勇


 あのナポレオンのような帽子を被った外人さんたちは何かと思ったら、黒船来航のペリー一行で、横須賀基地米海軍諸君が演じてくれているらしい。ここから幕末の動乱期に入る。ああ、新撰組隊長、近藤勇だ。日野市の有志が演じている。特に近藤勇役は、これこそ当たり役だと思う。その次に、あまり顔は似ていなかったが、徳川慶喜が現れた。引き続き山岡鉄舟、官軍と続いて、明治の世の中になったらしくて、文明開化で鹿鳴館時代が訪れた。巡査、郵便配達人がおもしろい。それから今度は、浅草の芸人さんたちになる。飴売り、唐辛子売り、お面売りで、いずれも本業の人たちのようで、なかなか様になっている。最後は、わざわざ岡崎の細川小学校からやってきた岡崎の三河万歳で、生徒たちが熱演していた。ご苦労様なことである。

浅草の芸人さんたち


岡崎の三河万歳


 そういうわけで、今日もまた文字通り「見る阿呆」になってしまった。





 白鷺の舞と東京時代祭(写 真)は、こちらから。



(2010年11月3日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:44 | - | - | - |
表参道青森ねぶた

神宮前の青森ねぶた


 すでに時刻は午後5時を回り、やって来た明治神宮の近辺が夕闇に包まれていく。そこから表参道に続くケヤキ通りが、次第に暗くなってきた。5時45分から、このケヤキ通りの下り坂を、青森ねぶたが通るというのである。両側の車線を止めてその一方をねぶたが通り、他方の車線は中央分離帯の低木のところまで出てきて見物してよいという。そうして待っていると、あたりを見回す時間もある。さすがにここは東京の繁華街だけに、通りの両側に立ち並ぶ美容室や飲食店、それにブティックやらブランド・ショップは、まるで不夜城のように煌々と電気の光を灯している。しかしそれでも、暗くなっていく周囲には抗いがたいようで、その照明の光、信号機の赤や青の光だけが暗闇に浮かぶがごとくである。

神宮前の青森ねぶたのハネト


 とそのとき、通りの先の方からかすかに、わーっという大勢の歓声のようなものが聞こえてきた。それとともに、ピョーヒョロロー、タンタンタン、ドン・ドンドンというお囃子の音が聞こえてくる。ああ、始まったようだ。ピョーヒョロロー、タンタンタン、ドン・ドンドン・・・これだこれ・・・昔、青森県ねぶた会館で聞かせてもらった懐かしい音だ。近づいてきて、カメラのファインダーに収まる位置に来た。私の周りの人々が次々にカメラを構えてシャッターを切る。私も負けじと、オリンパスのカメラを青森ねぶたに向ける。

神宮前の弘前ねぷた


 ねぶたの一行は、もっと近づいた。先頭には、大勢のハネトと呼ばれる派手な衣装をした集団が、口々に「ワッセー・ワッセー・ワッセイラァーッ」と叫びながら、上下に文字通り「ハネル」・・・わぁわぁ、これは本物だ。男性も女性も、もの凄い迫力である。確か去年は、こうやってハネトの数だけは何百人と多かったのだけれど、その大半が東京で公募したせいだろうか、「ハネト」というにはもう全然お粗末で、単にねぶたと一緒にあるいてお互いに写真を取り合っている始末。それに比べると今年の場合は、その点をちゃんと言い聞かしたか、あるいは本場の人を連れてきたかで、ともかく昨年のぐうたらハネトとは月とすっぽんの高い力量のハネトが多く、見物人としては、まがい物を見ることなく、本場の祭りの雰囲気を大いに味わうことが出来た。これはこれで、大きな進歩である。

神宮前の弘前ねぷた


 ちなみに、今年も運行する青森ねぶたのほかに、明治神宮前広場には弘前ねぷたも置かれていて、そちらの方にも行って、じっくりと写真を撮ってきた。こちらの方も、非常に派手な意匠でしかも形が丸いから、青森ねぶたとはまた別の味わい深いものがある。しかし、これが動いている姿も見てみたかった。







【後日談】 その後、私も人生に余裕が生まれ、青森ねぶた・弘前ねぷた、五所川原の立佞武多などを見物に行った。

 青森ねぶた・弘前ねぷた(エッセイ)

 五所川原立佞武多(エッセイ)





(2010年11月 1日記)


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