東京湾クルーズ

マグロの解体ショー


 「クルーズ」といっても、竹芝桟橋から千葉そして横浜へと行く、わずか6時間ほどの船旅にすぎない。だからまあ、いささか恥ずかしい限りの「クルーズ」なのだけれど、それでも、ジャグリングあり、中国雑技あり、生演奏あり、そして極めつけのマグロを解体するショーまであるという盛りだくさんの内容である。元はといえば、家内がどこからか見つけてきたもので、東海汽船の「さるびあ丸」で東京湾の三都市間を三角形に航海するというのである。確かに、これら三つの都市を船でめぐるツアーなんて、いかにもありそうでいて、聞いたことがない。だから、興味が湧いた。珍しいもの好きの本能が揺さぶられたというわけである。その名も「東京湾エンターテイメント・クルージング」というらしい。

 そもそもこの「さるびあ丸」は、伊豆諸島航路や東京湾納涼船として使われているのだそうだが、この日だけは、東京湾内の大都市を結ぶデイ・クルージングを行うというのである。東海汽船のHPを見ても、これ以上の情報はない。だいたい、当日の出し物はもちろん、スケジュールすら載っていなかったから、妙といえば、妙なのである。そういうわけで、少し心に引っかかるものがあるままに、その当日になった。調べてもわからないのは仕方がないので、ともかく言い出しっぺの家内の後に付いていくことにした。そして、午前10時の出港直前に、竹芝桟橋からその「さるびあ丸」とやらに乗り込んだ。この時点では、まあちょっとお昼頃までの2時間くらいのものだろうと二人とも思っていたのだから、おめでたい。

「さるびあ丸」に乗船


 船の中で、乗客が歩き回ることのできる区域は、AデッキからEデッキまでで、このうちAデッキがいわゆる甲板階であり、ここに舞台や模擬店のたぐいを設けている。模擬店には、まるで神社の縁日のごとく大勢の人が群がっていて、賑やかである。そして、下の階たとえばBデッキでは島の写真展を開いているし、階段の横では似顔絵まで描いている。そうかと思うと、Dデッキに行くとリクライニング・シートがあって疲れればこちらで休むことができる。Eデッキでは平らなところがあって、何ならここでごろりと横たわってもよいというわけだ。乗船時に4000円の乗船料を支払うと500円分のチケットがもらえて、模擬店ではそれを使って買い物が出来る。まあ、そういう仕組みなのだが、食事をするようなときにはもちろんそれだけでは足らないので、現金を足すということになる。周りの乗客を見渡すと、家族連れ、それも小さなお子さん連れが多いし、我々のような年配のカップルも数多い。確かに、船だと歩き回る必要がないので、そういう方たちには好都合である。

大学生のDJ


 この夏は、つい前日まで連日摂氏30度を超える猛暑日が続いて、夏を通してみるとそれがほとんど続け様に71日間もあったというひどい暑さだった。しかしこの日は、それがどうしたことか一転して気温が日中で22度と、10度近くも下がってしまった。加えて、何しろ短くとも航海だから、海上を走るとその分、海風が体に凍みて寒く感じる。それに空からはポツポツと雨が降ってきて、天候もよろしくないときている。航海には最悪の日だ。まさか船が沈むということはなかろうが、何かロクでもないことが起きるかもしれないという気がしないでもない。

ジャグラーのお兄さんと観客の坊や


 そんな私の嫌な予感を振り払うように、さるびあ丸はボボーッという軽やかな汽笛の音とともにゆっくりとその巨体を動かして、竹芝桟橋を離れた。埠頭では、船会社の係員たちが大きく手を振ってくれている。なるほど・・・色とりどりのテープが乱れ飛ぶというものではなかったが、胸が一瞬ジーンと来た。船出というのは、なかなか好いものである。船は、そのまま一路、レインボーブリッジの方向を目指して走り出した。さっそくAデッキの舞台では、大学生のDJの司会にあわせて、ジャグラーが出てきて、その華麗なピンさばきを見せてくれる・・・はずだったが、何しろ船の天井が低いものだから、ピンを高く放り上げることが出来ずに、それはすぐに終わって、代わりに一本の長い棒を2本の棒で操る演技に移った。まず、体の前の方でそれをやり、それから棒を背中から回して演技をし、ということで、集まった家族連れの子供たちを釘付けにしている。さすが、プロの腕前である。そのうち、ジャグラー氏は、小さな子供を舞台に上がるように呼びかけている。ははぁ、観客を参加させて、一緒に楽しんで貰おうという常套手段である。ところが呼びかけても、皆もじもじして埒があかないので、ジャグラー氏は、舞台から降りて、4歳くらいの男の子を連れてきた。そして、サッカーボールをぐるぐる回し始めた。その回っているボールを男の子に渡す。男の子は、しばらく持ちこたえたから、やんやの喝采を浴びた。

 ところがその演技のバックグラウンド・ミュージックとなっている軽快な音楽が突然、中断したと思ったら、黒い制帽をかぶり、金色のモールで縁どられた白い船服を着た船長さんらしき人物がマイクを持って現れた。そして、こう言うのである。「お客様の中に、お医者様又は看護師様はいらっしゃいませんか。急病人が出て、至急手当てをする必要があります。」これを聞いた観客は、ざわざわとしているだけだったが、後ろの方から、いがぐり頭の男の人が手を挙げた。「医者です」といったような気がした。そして、船員さんたちに先導され、小走りで下の階に消えて行った。船の外を見ると、レインボーブリッジをさあこれからくぐろうかという位置である。舞台では、何事もなかったようにそのジャグラーさんの演技が再開され、船はそのままお台場の先の「船の科学館」のある位置まで進んでいた。しかし、そこで、ぐるりと大きく回頭して、たった今くぐったばかりのレインボーブリッジにまた向かっていくではないか。ははぁ、これはよほど容態が良くないと見える。

 しばしの時が経ち、船は竹芝桟橋の手前に着て、これから接岸しようとしていた。桟橋には、救急車が待機している。船はゆったりとした速度ながら大きく旋回し、接岸したとたん、ドドーンと大きな音がして、皆が一瞬にして横っ飛びに1メートルほど跳ね飛ばされた。いやはや、乱暴な操船である。よほど、あわてていたらしい。乗客の多くは、桟橋側から一斉に下を覗き込んだ。患者というよりは、船体が心配になったからである。すると、アナウンスがあって「大勢の方があまり桟橋側に寄ると船が傾くので、海側に寄ってください」とのこと。大きな船なのに、そんなに微妙な重量の調整が必要なのかと思う。そうこうしているうちに、患者の担架が運び出されて、救急車に搬送された。年配の男の人だったようだ。周りの人から、心臓麻痺!という声が上がった。本当なら、それは生死にかかわる重病である。これは大変だ。前日と比べて10度も低くなった気温のせいかもしれないし、あの冷たい海風が引き起こしたのかもしれない。それにしても、楽しかるべきクルーズに乗船してすぐ発病するとは、何とまあ、運のない人だったのだろう。早期の回復を祈るばかりである。私が出港時に「何かロクでもないことが起きるかもしれない」という気がしたのは、これだったのかと納得した。

途中で追い越した貨物船


 そんなことがあって再び船は出発したのだが、これでもう1時間は遅れてしまった。次は千葉の埠頭に行って何人かを乗せ、その次は横浜の大桟橋に立ち寄ってから、またこの竹芝桟橋に午後4時10分に戻ってくる予定というのだから、全員がこの調子ではその戻りが午後5時過ぎになるのは間違いないと思った。ところがその後、船は順調にというか、どんどん走り、先を行く貨物船などはすぐに追い抜く。そういう調子で竹芝桟橋に戻ってきたのは、何とわずか20分遅れの午後4時30分だった。今もって、どうやってあれほどの遅れを取り戻したのかはよくわからない。寄港時間を削ったにしても、40分間も出ないはずだし、航路についも、短縮する工夫の余地はなさそうだ。さるびあ丸の予定を聞くと、この日はいつも通り午後7時すぎから納涼船となるようだから、やはり、予定より早く走って戻ってきたというのが、正解のような気がする。船というのは、案外、融通無碍なんだ・・・。まあ、例えて言うとこれは、いつもの散歩の時はあっちへ寄ったりこっちを見たりしてトロトロと歩いている犬のポチが、いざとなったらちゃんと走ることが出来たからビックリしたというようなものかもしれない。

中国雑技の女性


 再び竹芝桟橋を出た後のAデッキの舞台に戻るが、ジャグラーの次は、男女二人の中国雑技である。女性は、すらりとした背の高い美人で、日本風に言うと、フラフープを扱う。まずひとつ、次に2つ、それから6〜7本を体全身を使ってぐるぐる回している。私が小学校の頃は、これがブームだったからこの技がいかに難しいかよく知っているが、最近の子供たちはもちろんその若い親もフラフープそのものを知らないようである。しかし、それでも、皆その演技を食い入るように見つめている。女性の体は胸とヒップが出ていて、腰がくびれているから、同じ直径のフラフープの動きは、どこの体の部分で回されているかによってそれぞれ異なる。ぐるぐる回るそのフラフープの数多くの輪を目で追って行くとなかなか面白くて魅力的だ。ちなみにこの演技している女性は、クラシック・バレーの素養もあるらしい。というのは、その両腕の使い方が、バレーの仕草のようで誠に優雅そのものであったからである。最後に、何十本ものフラフープを一気に回して力尽きたようになり、それでおしまいとなった。彼女の演技が終わってから思ったのだが、中国雑技には、フラフープというものはあったっけ・・・いささか怪しいところである。少なくとも、20年前に本場で見たときには絶対になかった。

中国雑技の男性


 そう思っていると、男性の演技者が出て来た。この人は、京劇か何かで見た仮面の早変わりを演じていた。つまり、一瞬にして、被っている仮面が、赤色になったり青色になったりする、あの中国特有の芸である。確か十数年前に中国に行ったときには、これはとある地方の秘中の中の秘伝だと聞いたように記憶しているが、今やこうして遠く日本の、しかもこんなしがないクルーズ船内で演じられるようになっているとは思わなかった。小さな子供たちの中には、それを見てびっくりして泣き出してしまう子もいたので、よほど怖かったとみえる。このパフォーマーは、後の演技で、例の壺芸つまり重い壺を頭で扱う芸も演じていたから、なかなかの芸達者である。これこそ中国雑技だと、感心してしまった。

マグロの解体ショー


 急患のために予定が狂ってお昼時間をかなり過ぎてから、マグロの解体ショーが始まった。本日のメイン・イベントである。「三崎市朝市協同組合」とある。舞台の背景に大漁旗などが所狭しと並べられて、雰囲気たっぷりである。その中のマグロの絵がかわいい。取り扱うのは、メバチマグロで、ざっと見て、1メートルはある大物だ。氷を敷き詰められた箱に入れられている。それを取り出し、まな板の上に乗せて、黒い法被を着た鉢巻き姿の若い衆が、黙々と切っていく。それを隣にいる組合の重鎮らしきおじさんが、解説をするという具合である。まず頭を切り落として、それからいわゆる三枚におろすというわけである。真ん中の中落ちと背骨を取り除いたところで、その若い衆とおじさんとが交代し、おじさんが自らしゃべりながら解説を加えていく。腹びれのところをちょっと切り落としたかと思うと、それを掲げて「ほら、これが大トロです。この一本から、たったこれだけしか取れないんですよ。だから、高くなってしまうんです」という名調子である。なるほど、わかり良い。それが20分ほどで終わり、それからその解体したマグロを有料で乗客に配ることになった。列を作って並んでいると、間の悪いことに船外の雨が猛烈になり、ついにそれがAデッキの我々に向かって横なぐりの風とともに吹き込んできた。いや、これはたまらないと、皆が逃げ惑う中、三崎港のおじさんたちは、さすが漁師らしく慣れた手つきで青いビニール・シートを開いている舷側に縛り付けた。そしてまた、配布を再開したのである。私もそれをいただいたが、いや、なるほどおいしかった。

解体されたマグロ


 船は、千葉港に着いた。それも、片側にはコンビナートの煙突からモクモクと蒸気が上がり、反対側にはサイロが立ち並ぶというような、狭い水路を通ってである。千葉港といっても、何もない、だだっ広い薄汚れたコンクリートの岸壁で、目立つものといえば右手にある高いガラスのタワーと、はるか左手にあるこれもガラスの建物のみという寂しさ。なるほど、これでは東京湾の三都市間を船でめぐるツアーというのが成立しないわけだ。地図で見ると、県庁所在地の千葉市役所がすぐそばだというのに、これは何としたことか。千葉県の港湾開発は、幕張がメインだったからかもしれない。

 それから横浜港に着くまで、外は雨で何も見えないし、寒いしで、我々はDデッキのリクライニング・シートで体を横たえて休んでいた。模擬店では、いろいろと売っていたので、それを買い込み、抱えて食べながらである。まあ、東京湾上の、カウチ・ポテト族というわけだ。それで満腹になった上に、船の心地よい揺れが加わってウトウトとしていたところ、「間もなく横浜です。降りる方は、Cデッキにお集まりください」という声が聞こえた。それで、起き上がってデッキに出てみたところ、船は横浜港の大桟橋に横付けするところだった。その反対側には、先日行った横浜ランドマークタワーのほか、レンガ倉庫街やぷかり桟橋が見えた。もし雨の日でなかったら、我々もここで降り、中華街に立ち寄って食事でもするところであるが、まあそれは止めて、このまま船中でリクライニング・シートに身を横たえ、船の動きの合わせてユラユラと揺れていることにした。そして次に目を開けたら、本日は三度目となる竹芝桟橋に着いていた。まあ、妙な一日であった。行く前は写真を撮ることも楽しみにしていたのであるが、残念ながらこの日は外は雨だったので、主に船内の舞台の様子しか撮ることが出来なかったのは、いささか心残りではある。


横浜港に着いて、すぐに出港







【備考】 ところでこの「東京湾エンターテイメント・クルージング」という企画、てっきり東海汽船が通常の商業ベースで行っているものと思っていたが、船内でもらったアンケート用紙には「首都圏の九都県市(埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、横浜市、川崎市、千葉市、さいたま市、相模原市)では、首都圏の広域観光振興を目指し、東京湾における旅客船運航実験、広域周遊モデルコースの策定や旅行商品化の促進、首都圏観光キャンペーンの展開、など5つのプロジェクトを展開します。」とあって、この企画はその一環としての「東京湾での新たな船上エンターテイメント」であることがわかって、びっくりした。なるほど、だから東海汽船の案内がどこか他人事のようだったのかと、納得がいった。 


(2010年9月26日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:49 | - | - | - |
第5回新司法試験の合格発表

法務省赤レンガ庁舎での合格発表


 平成22年9月9日午後4時に、法務省庁舎内で発表された第5回新司法試験の結果は、関係者の「悪い予感」が当たったといえる。というのは、最終合格者数が2074人と、前年の2043人と比べて大差なく、かつて喧伝されていた2010年に3000人程度という目標のたった3分の2だったからである。

 その背景としては、法科大学院が乱立して質の低下が顕著になってきたことに加え、法曹人口の拡大で特に地方の弁護士会を中心として過当競争を懸念する声に押されて日弁連の会長が拡大抑制派の宇都宮健児氏になったことも、何らかの影響を及ぼしたのではないかと思わないでもない。

 この夏のNHKのテレビ番組で、日比谷公園で寂しくおにぎりを食べる30歳の弁護士が登場し、「このようにせっかく弁護士になっても、とても食べていくどころではない」などという調子でナレーションが流されていた。その番組に出演した宇都宮会長は、「イソ弁」、「ノキ弁」、「タク弁」どころか、携帯電話一本のみが頼りの「ケータイ弁」も出てきているし、さらには事務所に属して先輩の仕事も見習うことも出来ずに即時開業せざるを得ない「ソク弁」まで登場していると語っていた。

 そのような厳しい情勢の下ではあるが、法科大学院卒の学生さんとしては、まずは目の前の試験という関門を突破することが第一の課題である。そういう意味で、私が教えた皆さんの首尾が気になるところであるが、幸いにして今年は、かなりの数の学生さんたちから合格を知らせる喜びのメールをいただいた。あの人なら、間違いなく合格するだろうという学生さんはすべて受かっていたのは、我ながら人を見る目があると自信になった。それに、こういっては何だが、あんな答案で大丈夫かなと思っていた人たちの中でも、ひとりだけだが受かっていた。あれから相当頑張ったのだろうと思う。よくやったと誉めて差し上げたい。この人からの合格メールが一番うれしかった。何しろ合格率が25.4%となってしまってからの合格だから、価値がある。

 それにしても、いただいたメールの内容には、ご本人の合格時の気分の高揚があるとはいえ、有り難いやら何やらで、こちらが気恥かしくなるようなものがある。たとえば、「先生には『法的文章とは何か』という基礎のところから丁寧に教えていただきました。試験本番でも教えていただいた点に留意しながら答案を作成したところ、結果を出すことができました。今の私の書く法的文章の核は、先生の授業において身についたものです。本当にありがとうございます。」などといわれると、穴があったら入りたくなる。

 それでまあ、このメールに対しては、私も比較的、押さえ気味ながら、こういう返事を書いたというわけである。

「 本当におめでとうございます。長い間、よく頑張って最高の成果を上げられましたね。心からお祝いを申し上げます。私の授業が、少しでもお役に立ったということでしたら、誠にうれしく思います。あなたの年のクラスで同学年の方としては、ほかにAさん、Bさん、Cさんとおられたのですが、あなたからのこのメールは、最初にいただいた朗報です。よかったですね。

 実は、昨日の午後4時頃に、法務省の前を通り過ぎたのですが、大勢の人だかりがしていました。インターネットでも掲示されるとはいえ、こうやって合格者名簿を現に見て、実際に自分の名前を確かめるというのは、やはり喜びも倍加することでしょう。しかしその反面、帰る途中の人の多くは、携帯を手にして『ああ、オレ。落ちちゃったよ』と言っているのを耳にして、資格試験の残酷さのようなものを垣間見た気がします。まあ、これが人生というものです。

 これからのあなたの前途には、洋々たるものがあると思います。しかしそのためには、一夜あけてさっそく今日から、所属する弁護士事務所を確定しなければなりませんので、そちらの方も、怠りなく、やっていかれては、いかがでしょうか。また、大学院の祝賀会などで、お会いしたいものですね。それでは、これからのご活躍を心からお祈りして、私からのお祝いの言とさせていただきます。」

 そうかと思うと、2年前に卒業して、今年が2回目の挑戦だった人もいる。私が大学院で教鞭をとる日の通学経路で、ときどき一緒になっていた人である。ともかく真面目で、何に対してもひたむきに取り組むというお人柄である。こういう人が弁護士になったら、依頼者からも信頼されるだろうなぁと思っていた。それ以来、かねてから、ときどきメールのやりとりをしていて、私はいつも「彼、どうしているかなぁ」と気に掛けていたのであるが、今年の合格発表の日から数日遅れで、次のようなメールが届いた。

「 突然のご連絡で失礼いたします。法科大学院においてご指導いただきました○○です。在学中は、懇切丁寧なご指導を賜り、また、学業を離れた相談にも応じて下さり、本当にありがとうございました。実は、昨年に続き本年5月に司法試験を受験したのですが、力不足ゆえ不合格となりました。先生に親身にご指導していただいたにもかかわらず、よいご報告をできず本当に申し訳ありません。

 幸いなことに来年度に改めて受験できることとなりましたので、本年度の結果を反省し、なぜ失敗したのかをよく考えて、これを踏まえた受験準備を行いたいと考えております。今後ともご指導ご鞭撻下さいますよう宜しくお願い申し上げます。」


 私も、思わず胸が詰まって、こんなメールを送った。

「 それは誠に残念なことでした。発表の当日、たまたま法務省前を通りかかり、発表を待っているたくさんの学生さんたちの列を見て、そういえば、あなたもこの中におられるかもしれない、うまくいけばよいがと念じていました。まあ、合格率が25%ということも、かなり影響したのではないかと思います。これに負けず、是非とも来年また頑張って受験されて、実力のほどを示していただきたいと考えております。

 長丁場ですが、健康に留意されて、これからのご健闘とご発展を切にお祈りいたします。」

 そうすると、すぐにこのような返信のメールをいただいた。

「大変お忙しいなか、ご返信をいただき恐縮いたしております。先生のご期待にお応えできるよう、また、教えていただいたことを無駄にすることのないよう一日、一日の学習に真剣に取り組んでいこうと思います。  今後ともご指導下さいますよう宜しくお願い申し上げます。」

 このように、たいへん真面目な方なのだ。こういう方に来年こそ、是非とも合格してもらいたものである。






(備 考) 合格者名簿は、また今年も地方誌の西日本新聞に掲載されていた。

 なお、法科大学院の制度と経緯について知りたい方は、こちらを参照されたい。



(2010年9月15日記)


カテゴリ:徒然の記 | 11:25 | - | - | - |
猛暑でエアコンとHDDがダウン

暑い夏の日差し。日比谷公園にて


 9月になったというのに、日中は摂氏35度を超える暑い日々が続く。気象庁の発表によると、この8月は例年より2.25度も高く、1898年に観測を始めて以来、最高の気温だったそうだ。道理で、最低気温が25度を上回る熱帯夜がこれで連日 50日も続いている。だから、日本列島のあちらこちらで異変が生じている。そういう異変は、まずは最も弱いところに現れる。とりわけお年寄りは、概して体温の調節機能が弱くなってきているから、誠に厳しい日々が続いている。例えば、クーラーがない家に住んでいるお年寄りの中には、引き続く熱帯夜に耐えられず、中には、熱中症で亡くなる方も珍しくなくなっているほどである。

 我が家も、二台のエアコンを昼夜ノンストップで動かして、やっと何とか過ごしているという有り様である。しかし、ああ何ということか・・・その頼りのエアコンが、一昨日あたりから、カタカタという異音を立て始めたのには参った。普段の年ならどうということはないが、さすがに今年の場合は、エアコンの不調は命にかかわる問題だといっても、大袈裟ではない。このエアコン、据え付けてからもう14年になるから、そろそろ限界かもしれない。もう代えどきだと思って、家内とともに有楽町のビックカメラに行った。そして山のようにあるエアコンのモデルを前にして、あれにしようか、いやこれも良さそうだなどと、ひとしきり迷った末に、結局、三菱電機のエアコン、霧ヶ峰を注文して帰ってきた。これは、ウチの娘が生まれた年に買った昔のエアコンと同じシリーズ名だから、さしずめ、その三代目の子孫ということかもしれない。なにかしら縁があるということだろう。

 やれやれ、物入りなことだと言いつつ、家に帰って来て、家内と居間でひとしきり、今度買ったエアコンの話をしていた。自動お掃除機能というのは、ズボラな我が家にはピッタリだ。あの、人がいる場所を探して、そこをスポット的に冷やすなんて、すごいわね、という調子である。そのとき、暑くなったので居間のエアコンを付けた。すると、これまであれだけガタガタという嫌な音を立てていた居間のエアコンが、我々の話に聞き耳を立てて反省したのかと思うほど、静かに動き始めたのには参った。

 実は、このエアコンが騒音を立てていたとき、もうひとつ、頭の痛い問題が生じていた。それは、私が自宅で愛用しているパソコンのハードディスク(HDD)もまた、カラカラという、妙な音を立て始めたのである。これは、ハードディスクがクラッシュする不吉な前兆ではないかと思えたのである。実は、満更、思い当ることがないでもなくて、数日前の休みの日に、しばらくやってなかったデフラグを試みた。それが、この暑い気候の中にもかかわらず、連続で20時間余りに及んでしまったのである。原因は、330GBもの写真とビデオでいっぱいのパソコン本体のDディレクトリに加えて、たまたま外付けになっていた500GBの大容量ハードディスクまでデフラグをしてしまったからだと思う。そのデフラグを始めたときに、外付けになっていたことに気付かなかったものである。

 それくらいのことで、いちいちダウンするのかと言いたいところだが、どうもそれ以来、パソコンを開いてしばらくすると、「ウィーン」といったかと思うと、カタカタカタッという騒音が始まる。とりわけ、いくつかソフトを立ち上げているようなときには、そこでフリーズしてしまうこともあるのだから、尋常ではない。つくづく考えてみると、今年の正月休みにこのパソコンのハードディスクを大容量の500GBに換装したせいかもしれないとも思えるが、それにしては、今日まで何の問題もなく動いて来てくれているから、そうではないと思いたい。

 ところで、たまたま運の良いことに、ちょうど先週、外付けハードディスクに、CディレクトリとDディレクトリのバックアップを取ったばかりである。だから、ハードディスクのクラッシュは、恐れるに足らずなのである。しかし、まさかこれほど早くハードディスク全部がクラッシュの危機に瀕するとは思わなかったから、イメージによるバックアップは、Cディレクトリだけしか取っていない。このままだと、新品ハードディスクを買って来て、まずCディレクトリを復元し、それから、ソフトを使ってパーティションを分けてDディレクトリを作るほかない。しかし、そのパーティションを分けるソフトなるものは使ったことがないから、一抹の不安がある。だから、この案は、いざというときのために取っておいて、まずは今のハードディスクが動いている間に、可能ならばCディレクトリ及びCディレクトリ、そのほか管理用らしき二つばかりの小さなディレクトリについて、まとめてバックアップを作ってしまうことは出来ないかと考えた。

 そこで、エアコンの冷気が直後当るようにしてパソコンを開き、祈るような気持ちでスイッチを入れた。立ち上げるソフトの数がまだ少ないせいか、幸い異音は聞こえない。よし、今のうちだと思い、開いてしまっている余計なソフトは全て閉じて、イメージによるバックアップ・ソフト、Acronis True Image LEというものを立ち上げた。これは、このバッファローのハードディスクを買ったときに、おまけに付いていたソフトである。それが動いたのを確認して、この際Dディレクトリをバックアップするときの負荷を減らすために、写真のフォルダを消去した。これは、330GBもの大きな容量を占めているし、既にバックアップ済みだからだ。その上で、Acronis True Image LEを動かしたのである。全てのバックアップには、6時間余りかかったが、ともかく必要なバックアップ・イメージは出来た。

 次に、ハードディスクの新品が必要となる。今年の始めに一度ハードディスクを取り換えているから、それから8ヶ月が経過しているので、もしかすると、さらに大容量のハードディスクが手に入るかもしれない。また秋葉原のヨドバシカメラに行き、店員さんに聞いてみた。すると、ノート内蔵用で1TBつまり、テラバイト級のハードディスクがあるらしい。これは、凄いことだ。いささか心が動くが、少し厚みがある筺体のようなので、パソコンによっては内蔵が出来ないなどの問題が生ずるらしい。それは困るので、安全サイドをとって、買わないことにした。それ以外のハードディスクだと640GBのものがあるが、残念ながら、今は欠品とのこと。早く手に入れたいものだから、結局、現在のものと同じ500GBのハードディスクにした。

ハードディスクの付属バックアップ・ソフト一覧


 家に持ち帰り、前回と同じく、まずフォーマット、つまり初期化をした。これには、また6時間もかかった。以前の経験があるので、初期化の仕方は熟知している。それ以外は特にこれという問題もなく、初期化そのものは、スムーズに終わった。そして、いよいよイメージの復元という段階になるが、その段階でのAcronis True Image LEは、まだ使ったことがないから、これ以降は、私にとって未知の世界となる。ワクワクするが、これこそ、パソコンの醍醐味といえよう。さて、まずはパソコン内蔵の壊れかけたハードディスクを、フォーマット済みの新品に取り替える。このとき、透明な絶縁シートを間違いなく取り付けなければならない。四隅のビスをしっかりと締め、そのカバーをパソコンに取り付けて簡単に終わった。そして、あらかじめ作っておいたCDをトレイに入れた。

バックアップ・ソフト、Acronis True Image LEの画面


 すると、昔のようにいちいちブートセクターの設定をしなくても、自動的にCDから立ち上ってくれた。最近のパソコンは、こういう点は、誠に便利である。それで、Acronis True Image LEの画面が現われる。「復元」をクリックして、次に、Acronis True Image LEの「セーフ版」か「完全版」かの選択で、よくわからないが、完全版だと時間がかかりそうなので、セーフ版を選ぶ。復元元のファイルが入っているディレクトリ名とそのファイル名を入力し、復元先のディレクトリを指定した。そしてディスク1を選択。最後に、「別のパーティションを作成するか」と、「ベリファイするか」と続けて聞かれたが、余計なことをすると時間がかかるだけなので、それぞれ、「しない」、「スキップ」を選んだ。すると、復元が開始されたのである。

 CDトレイがカタカタと動いて、バックアップのときに見慣れた青い画面が現れ、復元が始まった。金曜日の午後9時頃のことである。最初、残り時間が6時間と出た。何だ、バックアップと同じ時間がかかるのか、長いなぁと思う。ところが、時間が経ち、パソコンに目をやるたびにその残り時間が延びていくではないか。その結果ついに、寝る前には1日になっていた。一体どうなっているのだろう。スクリーンセイバーも働かないから、このままだと、液晶画面が焼き付きかねないので、せめて画面の輝度を落とそうとキーボードを操作してから、寝ることにした。

 翌土曜日の朝になった。起きて真っ先にパソコンの様子を見に行った。画面は上下二段に分かれていて、上の段には現在の処理状況が、下の段には全体の処理状況が、それぞれ緑の線で示される。ところが、なんと、139GBあるCディレクトリの復元が、まだ終わっていなかった。遅々として進まないとは、まさにこのことである。結局、それが終わったのが、その日の昼過ぎとなった。それで次に、Dディレクトリの復元処理に移ったのであるが、こちらの方は、339GBもある。でも、実際のデータ量はCディレクトリの半分くらいだから、時間も半分程度だろうとタカをくくっていた。ところが、処理済みの緑の棒が、なかなか伸びない。こわれてしまったのかと思っていたところ、やっと緑の棒が一本、点灯した。ははあ、動いているではないか・・・。これは、長期戦になると覚悟した。それで、パソコンが熱をもって動かなくなるのを防ぐために、パソコンの筺体の下の両脇に、厚手の本を置いて、底面の熱を逃がすような工夫をし、かつ、エアコンの冷気がパソコンの送風口に直接当たるようにした。

 そして、しまいまで復元処理が終わるのを待ったのである。途中、何度も進行状況を確かめた挙句に、遂に終わったのは、月曜日の午前7時を回っていた。つまり、延々60時間余りもかかってしまったというわけである。我ながら、良く辛抱強く待ったものだと、呆れるばかりである。それで、復元終了の表示を確認したところで、いったんパソコンの電源を落とした。それから10分後、これまた祈るような気持ちでパソコンのスイッチを入れたところ、セーフ・モードの画面となった。それから再起動を選択したところ、通常起動に移り、その結果、出た、出た、いつもの壁紙が出て、画面の解説が現われた。そのほか、何か異常はないか確認したところ。特段の支障は見当たらない。成功したようである。良かったと、ほっとしたものである。しかしながら、このハードディスク引越し方法、よほどの忍耐力がないと採用し難いのではないだろうか。復元は出来るには出来たが、あまりにも常識外れの時間がかかった。別に良い方法があるなら、私の使ったこのAcronis True Image LEというソフトは、あまりお勧めすべきではないというのが、今回の私の結論である。



(2010年9月7日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:29 | - | - | - |
富士総合火力演習

富士総合火力演習の開始



 夏休みの最後の日曜日である8月28日に、富士山の麓で、陸上自衛隊による「富士総合火力演習」が行われた。昭和36年から始まり、毎年行われている実弾演習である。たまたま今年、行く機会に恵まれたので、御殿場からほど近い駐車場まで車で行って、そこから畑岡演習場までバスに乗せていただいた。基地の中を通って約15分程度の距離を走ると、そこはもう観覧者用スタンドとなっていた。真夏の暑い日差し中、3万人近い満員の観客で満たされたスタンドや見物席は、熱気に溢れていた。陸上自衛隊の最新装備を使った実弾演習を間近に見ることが出来るというわけで、なかなかの人気であるという。

富士総合火力演習の準備完了の報告を受ける北沢俊美防衛大臣


 演習に参加する主な隊は、(1) 富士教導団(本部付隊、普通科教導連隊、特科教導隊、戦車教導隊、偵察教導隊、教育支援施設隊)、(2) 高射教導隊、(3) 教育支援飛行隊、(4) 各方面隊隷下部隊、(5) 中央即応集団隷下部隊、(6)航空自衛隊ということで、もちろんこの富士演習場に駐留する部隊が主力らしい。参加人員は、約2,400名、戦車・装甲車約80両、各種火砲約80門、航空機約30機、その他車両約600両とされている。

富士総合火力演習の舞台。背景は、富士山


富士総合火力演習の偵察警戒車


 演習内容は、二つに分かれていて、前半午前10時10分からの1時間は、203ミリ自走りゅう弾砲(この富士演習場から弾を打つと、熱海まで届くそうな)、装甲戦闘車、戦闘ヘリコプター、90式戦車、空挺団の降下である。午前11時25分から35分の後半は、対戦車ヘリ、戦闘ヘリなどのヘリボン行動、偵察行動、すべての装備による第一線部隊の攻撃で終わる。こう書いていると、私も装備に詳しいと思われるかもしれないが、実はその現場で配られたパンフレットを参考に記録しているだけで、日本の自衛隊の装備については、あまり知らない。むしろ、ディスカバリー・チャンネルの番組を通じて、アメリカ軍の戦車、装甲車、ヘリコプター、無人飛行機、イージス艦、航空母艦、潜水艦などの知識なら少しは持っている程度である。

富士総合火力演習の新型戦車


富士総合火力演習の戦闘ヘリAH−64Dアパッチ


 その乏しい知識でいくと、戦闘ヘリAH-64Dというのは、要するにアメリカ軍のアパッチ・ヘリコプターらしいし、UH-60JAは、ソマリアで有名になった例のブラックホークに相当するようだ。戦車も、74式というのは、砲塔が丸いので、限りなく先の大戦当時のものに近い。これでは容易に対戦車ミサイルの餌食になりそうだ。90式というのも、外見からするとあまり変わらない。ところが、新式という戦車は、アメリカ軍のエイブラムズ戦車と似ていて、速度が早そうな上に、背が低いし、装甲が直線的だなどという感想を持つ程度である。戦車も盾と矛のようなもので、装甲板がとても硬くなって容易に砲弾が貫けなくなると、当たったら何千度という熱を出して中の乗員を熱で倒す砲弾が発明された。そうしたら、今度は戦車の側がそれを避けようとしてなるべく車高を低くし、かつ装甲板を斜めにしているから、たとえ弾が当たっても上方へ跳ねあげやすくしているタイプのものが発明されたとか聞いたことがある。

富士総合火力演習の戦車の砲撃


 戦車の戦法は、要するに集団で一斉に射撃をして、さっとその場を離れてまた打つという動作、つまりヒット・エンド・ラン戦法で、その都度、陣地変換を続けていくというものらしい。弾を発射した場所にとどまってぼやぼやしていると、相手から反撃されるというわけだ。まるで、ワンパクを相手にした鬼ごっこのようなものだと納得。それにしても、戦車の一斉射撃というのは、もの凄い迫力で、砲塔から火を噴いたと思った瞬間、スズーンという大音響が耳と体を襲ってくる。これだけ、ミサイルが発達した世の中だから、戦車というものはまるで時代遅れそのものだと思っていたが、都市の中の戦闘などを考えると、確かに必要だと思う。しかしそれも、さきほど述べたようなヒット・エンド・ランのような戦い方をしないと、簡単に歩兵携行の対戦車ミサイルの餌食となってしまうだろう。新型戦車というのは、当然そういう場面も想定して造られているのだろうとは思うが、どうも確かめる術はない。

富士総合火力演習の空挺団降下


 そんなことを考えながら、演習の行方を見ていると、空から空挺団が降りてきた。風のない日だったので、空から一直線・・・といっても、左右にゆらゆらと揺れながら、螺旋形を描くように団員の皆さんが下降しつつある。パラシュートは昔のように丸い菊の花のようなものを思い描いてはいけない。そうではなくて、今は横長の蒲鉾形で、要はパラグライダーのような形である。この方が、方向性が良いのだろうか? 全員無事に、地上の目標に降り立ち、パラシュートを急いで畳んで退場していった。それで、前段の演習は終了した。

富士総合火力演習のヘリコプターによるヘリボン行動


富士総合火力演習のヘリコプターによるヘリボン行動


 演習の後段は、いきなりヘリコプターによるヘリボン行動から始まった。観測ヘリコプターOH-1というものが飛んできたと思うと、UH-1という多用途ヘリコプターが飛んできて、偵察用オートバイを何台か降ろし、それらがエンジンをかけて次々に走り出すという場面になった。ところがどういうわけか、最後に降りた隊員のオートバイのエンジンがかからず、あわててオートバイを押しながら退場していったので、皆「あー、あーっ」と悲鳴のような溜息のようなものをついて同情していた。さあ展開しようとする段階だったし、次にもう別のヘリコプターが近付いていたので、いかにも間が悪かった。

富士総合火力演習のヘリコプターCH−47Jチヌーク


 その次に来たローターが前後にあるヘリコプターCH-47Jチヌークは、隊員を5人ほど降ろした。それらが展開して活動した後、またヘリコプターに集まってきた。ヘリコプターからは、一本のロープが降ろされただけである。どうするのだろうと見ていると、その一本のロープに5人の隊員が群がったかと思うと、何とまあ、その全員を一気に釣り上げた。そして、そのまま100メートル以上の高度を保って飛び去って行ったのである。これは、かなりの技ではないかと思う。

富士総合火力演習で描かれた弾の富士山


 技といえば、火力や弾の性能が大きく異なる状態で、それらが同時に弾着するような調整をして発射するというのは、素人が考えただけでもかなり高度な技であるが、演習中に、それをいとも簡単にやっていたのには、感銘を受けた、何でも、100分の1秒の単位で揃わなければ出来ないそうだ。この技を使ったのかどうかはよくわからないが、途中で、富士山の形に弾が爆発するように調整して打っていた場面があった。あわてて写真を撮ったのだけれど、肝心の光った場面は映っておらず、その直後の煙だけしか撮れなかったのは、いささか残念だった。このカメラの性能上、1秒間に3コマしか撮れないから、まあこれが限界だろう。

富士総合火力演習の地雷原処理


 最後に思うのだが、こうした装備を実際に使うことがないように祈るばかりである。しかし、最新装備を備えておかないと、これまた万が一の場面で取り返しのつかないことになりかねない。近隣国の軍事技術と装備が質と量ともに日進月歩の状態にある中で、それには伍していかなければならないと考えている。




 

(2010年8月31日記)


カテゴリ:エッセイ | 20:04 | - | - | - |
| 1/1PAGES |