新宿御苑の八重桜

新宿御苑の新宿門から入り、新宿方面を振り返る


 一週間前の桜を見る会のときは、とても寒くて都内で摂氏8度の気温、早朝には雪が降るという、4月中旬としては季節外れの天候であった。ところがその次の週の日曜日には、一転して気温が20度近くに上がり、誠に春らしい良い天気となった。そこで、午前中に家内と新宿御苑に行ってみたのである。

普賢象(ふげんぞう)


 新宿門から御苑内に入ってみると、気のせいか、あちらこちらが華やいでいる。それもそのはずで、ありとあらゆる種類の八重桜が、まさに満開の時を迎えていたのである。とりわけ日本庭園の近くには、多種多様な八重桜が植えられているが、それらが一斉に桜の花を付けているのだ。桜の色のピンクが濃い「関山(かんざん)」、それよりもピンク色がやや薄い「普賢象(ふげんぞう)」、真っ白に近い「一葉(イチヨウ)」、桜なのに緑色で、真ん中が少しだけ赤い「御衣黄(ぎょいこう)」、うっすらピンクで、それが真っ青な空の下で美しい「松月(しょうげつ)」、その名前から、一度じっくりと見てみたかった「鬱金(うこん)」などという木々である。それらが今まさに、さあ見てくれとばかりに重たそうな桜花を小枝いっぱいに付けて、咲き誇っているところである。

関山(かんざん)


 家内と二人で、「ああ、きれいだなあ、美しいなあ、さっと咲いて、あっという間に散ってしまう染井吉野もいいけれど、こういう八重桜の競演もいいなあ。これこそ熟年の味だ!」などと言いつつ、苑内を見て回り、最後の桜の季節をゆっくり堪能したのである。

鬱金(うこん)




(2010年4月25日記)


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巴屋と不忍池

不忍池で満開の八重桜


 私の自宅近くに、池之端・巴屋(いけのはた・ともえや)という、小ぢんまりと家族でやっている蕎麦屋があり、休みの日には家内とよく出かける 。こちらは、蕎麦粉から引いてご主人が手打ちをしている蕎麦を出すものだから、とても美味しいと思う。私は、夏には天せいろ、冬になると鍋焼うどんを注文するというのが定番なのだけれど、たまに蕎麦がきしるこなどというものを頼んだりして、「ああ!また 太りそうだ」などといいながら食べているから、世話はない。客筋はというと、元々は周辺にたくさんあるお寺の法事に来た人たちが主なお客さんだったと思うが、そのほかのお客としては、ちょうど東大の医学部の裏手にあるものだから、東大病院の関係者も多い。

巴屋の狸と紫陽花


 ところで、この愛嬌のある狸の置物は、この巴屋のご主人ご自慢のマスコットで、店の前に置いてある。いかに大事にしているかは、いつも その顔から始まって胸やら腹やらがピカピカに拭かれていることで、よくわかる。聞くと、あまりに可愛いものだから、盗まれないようにと、毎晩、店の中に取り入れているそうだ。一昨日に行ったときには、狸の傍に、満開の紫陽花の鉢が置かれていて、これが狸の顔と、よく調和していた。

不忍池のボート


 さて、巴屋を出て、それから不忍通りを渡り、不忍池に行ってみると、ちょうど八重桜が満開となっていて、いやいや、とても素晴らしい風景である。きょうは、数日ぶりにポカポカとなった春の陽気に誘われて人出が多かった。池にはたくさんのアヒルの形をしたボートが一杯に出ていて、八重桜を湖上から観賞するという趣向である。こちらのボート池が賑わいを見せる一方で、隣の蓮池の方では、まだ蓮草は枯れたままだったが、これが6月にもなれば、池の全面が蓮の葉に覆われるというのであるから、植物の生命力はただただ凄いものだと感心する。

不忍池のボート






【後日談】 その後、巴屋は、惜しまれながら2017年12月に閉店した。店主のおじさんが高齢になって、仕事が続けられなくなったという。




(2010年4月25日記、2017年12月31日追記)


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初孫ちゃんは1歳4ヶ月

さくらぽっぷさんイラスト



 早いもので、一昨年末に生まれたウチの初孫ちゃんは、ついこの間、めでたく誕生日を迎えたかと思うと、もう1歳4ヶ月になった。できれば毎週、顔を合わせるようにしているのだけれど、私たちが旅行に行って東京にいなかったり、どちらかが鼻風邪を引いて体調がすぐれないということがあると、2〜3週間も会えないときがある。そうしてしばらくぶりに行ってみると、あれあれ、こんなことが出来るようになっているなどと、毎回、新鮮な驚きをもたらしてくれる。

 たとえば、確か3週間前の前回は、テーブルにそのお腹を付けてつかまり立ちをしながら両手を使って遊ぶというような段階で、まだ自分の意思で歩く動作は出来ていなかった。もっとも、手を支えてやれば、一応、歩くような仕草はするが、それも2〜3歩のことですぐに倒れ込む。それくらいのことであった。ところが最近では、まだまだぎこちないフォームではあるが、手で支えてあげなくとも、よちよちと10歩程度は歩けるようになった。やっと、二足歩行の段階に移行したのである。

 加えて、いろいろな言葉をしゃべることが出来るようになった。皆がびっくりしたのが、「バチュ」である。家から下の道路を通る車が見えるので、そのうち大きな車を指して、「バス」と言っているのである。保育園で覚えてきたのだろうか・・・。家の中のことに限って、「ママとパパ」、そして食事を意味する「マンマ」、それに保育園で教えてもらった「ドージョ」くらいしか言えなかったのに、もうバスが言えるとは、さすが男の子だと、家内などはいたく感激の趣である。

 娘の話によると、最近、立て続けに上野動物園とサンシャイン水族館に連れて行ったところ、動物や魚を見て、大いに興奮していたそうな。動物園では、ライオンの檻で、目の前をライオンが雄叫びを上げながら通ったら、ずーっとそれを指差して、周囲の大人に何やら説明していたという。おかげで、周りのオバサンからは、「この子、可愛い!」となったらしい。水族館では、イワシの大群の水槽と、熱帯魚の水槽の前に釘付けになり、同じく指をさして「アアーッ、アアァーッ」と繰り返していたそうな。

 それで、それからしばらくして我々が訪問したときに、大きな絵本の中に書かれているライオンを指差して、何やら言うものだから、家内が「そうね、ライオンさんね。『ガオーッ』と叫ぶのよ」というと、初孫ちゃんは、あたかも我が意を得たりとばかりに、にっこりとしてほほ笑んだ。そこで、「この子、ライオンがわかっている!」ということになった。それに加えて、孫と気持ちが通じたことが、家内にはうれしかったようだ。最近の保育園では、大人が話しかけても、ぼーっとして何にも反応しない子が増えているというが、これは大人の方からの子供へのコミニュケーション不足と、何かを実地に体験させるという機会を設けていないせいなのかもしれないと思い至った。

 それにしても、ウチの娘ときたら、まだ1歳にもなってない子供に対してあんな大量の絵本を買い、しかもそれらをすべてを読んでやるなんて、いささかやり過ぎではないかと思っていたのだが、それからおよそ半年が経ってみると、これは娘夫婦の先見の明を認めざるを得ない。今では、読んでもらう先から、自分が気に入ったページが来るのを楽しみにして、もっと早く読んでとばかりに指をさし、そのページになるとニコニコしたり、足をバタつかせるという。

 件のライオンについても、そうやって覚えたに違いない。ただし、好きな本の種類はその日によって異なるそうだ。もっとも、あまりマニアックになり過ぎて特定の本に凝り固まったりして、先日のNHKのテレビで放映されていたようなアスペルガー症候群であっても困るので、むしろ関心の向きが日によって違うというくらいの方が、子供らしくてよいと思うのである。

 子ども用のクレヨンというのがあって、水滴を大きくしたようなというか、ホオズキのような形をしていて、子どもはそれを手に持って、尖った部分で線を描いていく。なるほど、大きな子が使う普通の棒状のクレヨンは、こういう小さな子の手のひらには余るからだろう。それで初孫ちゃんは、白くて大きな紙に、何やら線を描いている。これも保育園での訓練の賜物だろうか、紙をはみ出して描くようなことがないのは、なかなかお利口さんである。その手の形だが、つい先ごろまでは、手のひらがまるで猫の手のように丸くなっていたのに、今では、手のひらが大人のそれのように、くぼんできた。だから、何かを掴むのも楽になったようで、この子ども用クレヨンも、すっぽりとその手のひらに収まるというわけである。

 この子が通っている保育園は、生活習慣を付けさせるということで、色々なことに取り組んでくれている。たとえば、つい先日、やっと離乳食を取り始めたと思っていたのだが、そのような状況で、もう子どもの手にスプーンを持たせて、自分で食べる訓練をしているらしい。それで、家でも同じことをやってくださいといわれているのだが、何しろ夫婦とも仕事を持つ身で、土日ならともかく、平日なんて、とてもやっていられない。それも当然で、子どもの手にスプーンを持たせると、食べ物をあちこちに飛ばしてしまい、口に入る何倍もの食べ物が散らばってしまうからである。

 それで、急いでいるときなどは、スプーンを子どもの手に持たせるけれども、それはいわばお遊びで、やっぱり親が、子どもの口に食べ物をせっせと入れるということをやっていたらしい。そうしないと、一人でやらせておくと、1時間経っても終わらないが、親がやることによってそれが15分に短縮できるし、平日などは、この時間の節約が何とも貴重だというのである。ところが最近は、子ども自身に自覚が出てきて、それでは嫌だと態度で示すらしい。仕方がないので、一計を案じたのは、子ども用のスプーンと子ども用の食事を小さなプレートに用意して、子どもにはそれで食べてもらう。ところが、食べる途中で色々と遊ぶので、その合間に親がいつものように、口に入れるという作戦である。これで、いつもの時間よりは少し余計にかかるが、まあ20分以内には終わることができるという。なるほど、色々な作戦があるものである。そういう工夫でもしないと、共稼ぎで十分な子育てをするのは、なかなか無理だろうと思う。

 さて、自分で歩くようになるとそれに合わせて腕の力も強くなり、これまで新生児用にと居間の中に区切っていた「柵」を両手でつかんで、力任せにバラバラにするということも珍しくなくなってきた。したがって、この「柵」については、そろそろお役御免にして取り外す時期が来たようだ。そうすると、これからは、自由に歩けるようにもなることもあり、家の中であっても事故に巻き込まれる確率が高くなると思われるので、親としてはますます目が離せないことになった。娘夫婦はそれだけ気を遣わなくてはならないことが増えて、大変であろうと思う。まあ、それはそれとして、はてさて、来週また行くと、果たしてこの子は、どんなことが出来るようになっているのだろうか。






  関 連 記 事
 初孫ちゃんの誕生
 初孫ちゃんは1歳
 初孫ちゃんは1歳4ヶ月
 初孫ちゃんは1歳6ヶ月
 初孫ちゃんもうすぐ2歳
 初孫ちゃんは2歳2ヶ月
 初孫ちゃんは3歳4ヶ月
 初孫ちゃんは3歳6ヶ月
 幼稚園からのお便り(1)
10  初孫ちゃんもうすぐ4歳
11  幼稚園からのお便り(2)
12  初孫ちゃん育爺奮闘記
13  初孫ちゃんは4歳3ヶ月
14  初孫ちゃんは4歳6ヶ月
15  孫と暮らす日々



(2010年4月23日記)


 
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徒然179.春の園遊会

春の園遊会の会場


 4月15日の春の園遊会に参加した。お招きいただくだけでも、誠に名誉なことだと思っている。しかしそれにしても、今年の園遊会は寒かった。気温は、確か8度か9度だったと思う。その数日前までは暖かい日々が続いていて、摂氏18度だ20度だなどといっていたことからすると、三寒四温の時期とはいえ、この日は本当に異常なほど寒い日だった。

 園遊会のドレス・コードは、原則として、男性はモーニング、女性は色留袖である。もちろん、男性の普通のスーツや女性の洋装も許されるのだが、我々の世代には、こうした正式なスタイルをする人が多い。そこで、モーニングや色留で、この寒さにどう対処するかということが問題である。はやりのユニクロのヒートテックだったらどうかはともかくとして、いかに暖かい下着を身につけていても、コートがないと摂氏10度にも及ばない気温で屋外に数時間もいると、すぐに風邪を引きそうである。しかし、両陛下の前でコートというのは、どうもよろしくないと思うので、無理してモーニングのままで行くべきかと迷っていた。

 そのとき、隣の秘書部屋から助け舟があった。「ホカロンを持っていったらどうですか」・・・おやおや、あの携帯カイロねぇ・・・それは気が付かなかった。当日の朝、一階のコンビニに行ってみたところ、あるある、10個ほどあったので、そのうち5個を買い求めた。それを自分の部屋に持って帰り、やがてお昼になったので、モーニングに着替え始めた。吊りバンドなどは、日常ではほとんど使わないので、調整しなければならなかったが、いったん付けた後の着用感は良い。チョッキを着る段になって、ホカロンのことを思い出した。買ってきたものには、接着面という便利な仕組みがあって、それで衣類の内側に貼り付ければよいらしい。

 それは良いのだけれど、どこに貼り付けるべきか・・・そのとき突然思いついたのが、心臓の上である。暖かい血液が全身を巡ってくれるに違いない。うむ、これはいい考えだと思って、チョッキの左胸の内部に張った。それから、どうも私は、こういうときは下肢が寒くなることを思い出して、ズボンの内側で二つの太ももに当たるところにも貼った。残る二つは、とりあえず、両ポケットに入れておいた。寒くなったら、寒く感ずるところに当てればよいというわけである。

 さあこれでよいはずだと気が軽くなり、車に乗って赤坂御所の所定の入口へと向かった。中へと入り、車から降りた。ドアを開けて外に出ると、おお、これは寒い。その中で、ホカロンを当てたところだけは、確かに暖かい。運悪く、小雨が降り出した。用意の傘を差し、脇目も振らずに御所の真ん中に位置する庭園の会場を目指して歩いて行った。御所の庭園の中心には池があり、大まかにいえば三つの小さな池に分けられるが、両陛下はその内側の池の周りの砂利道をお通りになる。だから招待客は、その道に沿ってずらりと並び、お歩きになる両陛下ほか皇族の方々に親しく拝謁するというわけである。

 時間内ではあるが我々は比較的遅く行ったので、両陛下のお歩きになる道は、晴れ着を着た方々でもう一杯である。きょうは、1,900人が参加したと後から聞いたが、確かにそれくらいはいたと思う。仕方がないので、大回りでかなり歩いて、時計でいえば12時の位置から反時計まわりで5時の短針の位置まで行き、そこで列の中に入れてもらった。両陛下が会場にお着きになり、はるか右手の方で、ザワザワとした群衆の動きが見られる。その辺りには、カナダのオリンピックで活躍した浅田真央ちゃんなどがいたらしいが、見えるほどの距離ではとてもなかった。

 さて、それから待つことおよそ30分間、いやはや寒かった。その中で、ホカロン効果は確かにあったものの、寒さはホカロンを付けていないところから体に侵入してくる。たとえば、首筋と背中である。まさか首筋にはホカロンを貼り付けるわけにはいかないが、背中には貼ることが出来たのにと、悔むことしきりである。ところで、私の隣の男性は、普通のコートを着ているではないか。その隣の奥方は、いわゆる道行きのコートを羽織っている。両陛下があと10メートルというところにいらした時、二人ともやおらコートを脱いで、それを手提げ袋に入れた。なるほど、こういう工夫もあったのか・・・ホカロンよりマシかもしれない・・・もし次回同じようなことがあった場合に備えて、覚えておこう。

春の園遊会の会場


 さて、先導の方たちが我々の前を通過し、列を作っている人たちは、一斉に傘を下ろしてご挨拶に備える。天皇陛下が目の前をお通りになり、お言葉を発されて、こちらはただただ恐縮して頭を垂れるというわけである。続いて皇后陛下がお通りになり、私の隣の色留の女性に「どうぞ、傘をお差しになって」とやさしくお言葉を掛けられていた。この女性、感激して今晩は寝られないかもしれないと思ったほどである。次に、皇太子殿下がお通りになる。こちらは、特に話されるということはなく、ただ、にこやかなお顔でお通りになる。なるほど、これもひとつのスタイルである。ところで天皇陛下は、黒いシルクハットと手袋をお持ちだったが、皇太子殿下は、こげ茶色のシルクハットと手袋で、お二人ともその持ち方とシルクハットのシルエットがごく自然で、これも深く印象に残った。それから、秋篠宮両殿下がお通りになったが、妃殿下が私の左側にいた年配の方とお知り合いらしくて、その人が「今度、財団を作りました」と報告すると、「あら、そうですか。それで・・・」と気さくに応じられていた。それから常陸宮様をはじめとするほかの皇族方も同様に目の前を通られて、それで我々のところはおしまいとなった。

 私は、今年は還暦プラス1年となるが、この園遊会は、実に良い記念となった。皇族がお通りになった後、その通過されていた時には、まったく感じなかった寒さが急にぶり返し、体がぶるぶると震えるのがわかったので、早足でその場を離れたのである。しかし、皇族の方々は、特に両陛下や常陸宮両殿下におかれては、ご高齢にもかかわらず、このような小雨で寒空という悪天候の下で、約1時間にわたって粛々とそのお勤めを果たされていたが、これが皇室というものかと、そのお姿には、誠に頭が下がる思いがした。

 会場から退出してオフィスに戻り、それからしばらくしてから、友人とたまたま出会った。確かこの人も招待された組である。そこで私から「今日の園遊会、寒かったねぇ。君はどうしていた?」と聞いた。すると、彼はこういったものである。「いやなに、こういう日はガソリンを入れるに限ると思って、会場で日本酒を何杯かひっかけたら、むしろ暑かったよ。わははっ!」

 なるほど、昼間から会場で酒を飲むというのは、ホカロンやコート持参に続く第三の手というわけか・・・ひと昔前なら「陛下の御前で何たること・・・この不忠者!」といって成敗されそうな輩である。偉くなる人には色々なタイプがあるが、さしずめこの友人などは、つまりは「豪傑タイプ」として分類されそうである。私なぞは、理屈と技術で生きているようなところがあるから、こういうタイプには、とてもなれないと、改めて思い知った。



(2010年4月16日記)


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アークヒルズの桜

霊南坂教会の十字架の塔に桜が舞う


 港区赤坂のアークヒルズは、今年で24年目を迎える高層ビル群である。森ビルの大規模再開発事業で造られたこのオフィス棟には金融機関等の外資系企業や法律事務所など、隣のホテル棟にはANAインターコンチネンタルホテル東京、別棟でクラシック音楽専門ホールのサントリーホールなどが入居し、その裏手には高級賃貸レジデンス棟などもある。以前は、テレビ朝日もここにあった。もう建設後四半世紀に経ってしまって、世間の注目は六本木ヒルズや東京ミッドタウンなどに一旦は移ったものの、ITバブル崩壊とともにそれも薄れてしまい、今やその前の前の時代に当たるアークヒルズについて、人の口の端にのぼることは稀である。

桜のトンネルの合間に高層ビルが見える


 しかし、そんなことは、この際どうでもよいことである。その名も桜坂という、アークヒルズを取り巻く坂には、建物が出来たばかりの頃に植えられた何百本もの染井吉野の木があり、それらが順調に育ってくれて、この十数年は、お花見が楽しめるようになったからである。それも、上野公園や飛鳥山公園のような、人波でごった返すということもなく、昼休みで外資系企業のサラリーマンたちが三々五々そそぞろ歩きする中で、桜のトンネルを見上げてその美しさを愛でるというものである。また、うまい具合に途中に下の道路をまたぐ形で歩道橋が架かっていて、その上からは、桜のトンネルを上から見渡せるというポイントもある。場所柄、外資系に勤めているような外国人女性たちもここに来て、キャアキャア言いながらお互いの写真を撮ったりしつつ、桜見物をしていた。まさに、都会のオフィスならではのお花見なのである。

歩道橋から桜のトンネルを見下ろす


 その桜のトンネルの合間には、建て替えられた霊南坂教会の尖塔・・・ではなく、建て替え前の古い建物はそうだったのだが、今は何というのか・・・ともかく十字架の塔・・・が見え隠れし、もちろん周辺の高層オフィスビルが見える。これがまた、染井吉野の素朴な桜と非常に調和していて、見るたびに私が感動するような風景が現出する。

 いまも、一陣の風が吹いてきたかと思うと、ああっ・・・桜の花吹雪が尖塔をバックに舞い落ちる・・・下の道路もピンクの花びらに覆われていく・・・風が吹くたびに次々と花吹雪が空に舞い上がり、やがて風に乗ってふわりフワリと辺り一帯に落ちていく。池の水面に落ちる桜の花びらは花筏(はないかだ)、土の上なら花吹雪とは、よく言ったものである。これぞ日本の美というものか。

 とりわけ、花吹雪に包まれた霊南坂教会の尖塔は、日本の美と西洋の美とが混ざり合って東西が融合している気がする。ちなみに、この霊南坂教会では、昔はよく芸能人が結婚式を挙げたところである。それだけでなく私の親友もここで結婚式を挙げ、それに出席した私にとっても思い出深いところである。

桜を見る外国人







 アークヒルズの桜( 写 真 )は、こちらから。


 桜の季節 2010年(エッセイ)は、こちらから。




(2010年4月15日記)


 
カテゴリ:エッセイ | 20:12 | - | - | - |
愛宕神社の桜と鯉

愛宕神社の出世の石段


 東京都港区の神谷町駅近くにある愛宕神社は、私のオフィスからほど近いところにあるから、よく出かける。桜の花見といっても、他の名所と違って染井吉野しかないので単純そのものではあるのだが、そもそもここは、これほど浮世離れをした場所が東京の都心の真ん中にあるとは想像もつかないという意味で、私の好みにとっても合うところなのである。だいたい、近づくと見上げるような出世の石段がドーンと目の前にある。登るたびにこれは大変だと思いつつ一歩一歩階段を踏みしめていく。そして、よせばいいのに、真ん中辺りで、おそるおそる下を振り返る。あらら、下手をすると落ちそうだと思いつつ、振り返ったことをちょっぴり後悔し、またそのまま登り続け、てっぺんに至ってやっと、ほっとするということを、行くたびに繰り返している。

出世の石段を登り切ったところで振り返る


 実は、登るのが嫌なら向かって右手の傾斜がゆるい女坂を行けばいいし、またこれは秘密・・・ではないか・・・向かって左手のところには、高層ビルの建設で最近出来たエレベーターで上がってもよいという誠に便利なご時世なのである。しかし私は、いまだにこの出世の石段・・・寛永11年に四国丸亀藩の家臣の曲垣平九郎が馬で往復したと伝えられている目のくらむような階段・・・を登るという、サラリーマンの鏡みたいなことをしている。

愛宕神社の池


 さて、この桜の季節、標高26メートルの石段を登りきったところの右手にある池に目をやると、ああ、いたいた・・・と、自分の顔が自然にほころんでくるのがわかる。また今年も、池一面に散る桜の花びらの下でたくさんの錦鯉が群れていて、必死に餌をねだっているのである。ここには、お濠のように、鳥という手ごわい競争相手はいないから、錦鯉どうしの競争ということになるが、それでもまあ、その激しいことといったらない。まず、大きな口を開けて・・・その時に、チュボ・チュボ・チュボという音がする・・・群れて集まり、それが他の鯉を次々に乗り越えてどんどん迫ってくるほどである。それを見ていると、何だか、サラリーマンどうしの競争にも思えてきて、いささか浅ましくなるが、なるほどこれが生存競争というものかとも思う。

愛宕神社の錦鯉


 池の周囲に目をやると、石の上に生えた苔の緑が美しいし、その上に散る桜の花びらのほのかなピンク色が、よく映えている。ううーむ、これぞ私がイメージする日本の美である。こんなものを真昼間に都心のど真ん中で見られるなんて、何て運が良いのだろうと思う。そうやってひととおり池の周りを巡り、そしてお参りしようとしたが、最近はどういうわけか参拝客が一列に並ぶものだから、少しも列が進まない。お賽銭箱のはるか手前で一礼するだけで済ませ、神域の隣に行った。

愛宕神社の錦鯉


 そこは、NHKの放送会館がある広場で、その周囲の染井吉野の桜の木が満開を迎えていた。その下で、今年もサラリーマンの皆さんがビニールシートを敷き、皆で寄り添って仲良くお弁当を食べている。見るところ、同じ職場の人たちというより、同世代のグループが多いようだ。こういうところにも、時代の流れが見受けられる。

NHK放送会館がある広場の染井吉野の下でお花見


 愛宕神社については、この悠々人生でも、ブログ、ビデオ(桜と鯉)、(出世の石段祭)などでこれまで何回も取り上げてきたが、やはり今回も、単に訪れるだけでは気が済まなくて、何枚か写真を撮ってしまった。ともかく、私の好きな神社なのである。

愛宕神社の桜と愛宕ヒルズ






 愛宕神社の桜と鯉( 写 真 )は、こちらから。


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(2010年4月15日記)


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憲政記念館の桜

憲政記念館内の紅白の枝垂れ桜


 先週、永田町にある隠れた桜の名所、憲政記念館に行って来たので、その話をしておきたい。ここは、国会議事堂のまさに目の前にあり、憲政記念館と時計塔のある北庭、そして南庭がある。憲政記念館は昭和47年に開館されたもので、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立されたという。玄関には、「憲政の神様」尾崎行雄翁が、イヨッとばかりに気軽に帽子を掲げている像が置かれている。

「憲政の神様」尾崎行雄翁


 しかし、実はそれ以前よりこの場所は、とても有名なところだった。まず、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建てた。次に、彦根藩の上屋敷となった・・・そう、あの井伊直弼が居住していたところなのである。桜田門外の変は、登城のため直弼一行がこの屋敷から桜田門の方向に向かっていく途中に、水戸の浪士たちによって引き起こされたというわけである。それだけでなく、この地は、明治時代になってから参謀本部・陸軍省が置かれたところとしても知られている。

桜田門外の変はこの桜田濠に沿ったところで起こった。

八重紅大島


 ははあ、それはすごい歴史的な場所だと思うのだが、現在のこの場所は、平日にはさほど来訪者がいるとは思えない憲政記念館が置かれているだけで、その他の土地は公園風になっているものの、人影はまばらである。しかし、知る人ぞのみ知るという花の名所であり、現に春ともなれば、桜、ハナミズキ、ツツジ、アジサイの花を楽しめるようになっている。特に桜は、「うこん桜、思川、天の川、市原虎の尾、八重紅大島や普賢象・麒麟・関山・静香・福禄寿・梅護寺数珠掛桜など」があるというが、咲く時期が違うので、どれがどの桜か、私は未だもってよくわからない。ちなみに、これらの桜の木は、(財)日本さくらの会が植樹したものだという。


八重紅枝垂








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(2010年4月14日記)


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ツェッペリン型の飛行船

上野の上空を行く飛行船


 ついこの間まで、外に出ると空気が体を突き刺すような気がする、寒い寒い冬だった。それがいつの間にか過ぎて春となり、生温かい空気が体にまとわりつくような、何とも心地よい季節となった。そうした休日のある日、近くの不忍池の桜を見ようと、家内とともに、不忍通りをのんびりと歩いて行った。池の畔に着き、ふと何気なく空を見上げた。すると、青い空に白くぽっかりと、大きな飛行船が浮いているではないか・・・その胴体には、アニメーションの「コナン」という文字や絵がはっきりと見える。「あれあれ、これは珍しいね。映画の宣伝でもしているのかなぁ」と話しつつ、家に戻ってテレビを付けたところ、何とまあ、これは「日本飛行船」という会社のもので、翌日の4月11日からの東京における本格運行に備えて、今日は関係者にお披露目をするために、試験運行をしていたようなのだ。

 つい先日に見に行った、あの晴海の客船ターミナルに隣接する空き地に係留基地を確保したそうで、ここから離発着して東京と横浜で本格的なクルージング運行をするという。高度500メートルの上空から都心部を周遊するそうで、運航ルートは、「晴海 → 東京タワー → 六本木ヒルズ → 神宮外苑 → 新宿副都心 → 東京ドーム → 浅草(東京スカイツリー) → 秋葉原 → 日本橋 → 東京駅 → 銀座 → レインボーブリッジ → 晴海」といった順らしい。いいなぁ・・・これで昼間は63,000円、夜間は68,000円だそうだ・・・高いような、安いような・・・やはり高いなぁ。しかし、私の一家は好奇心旺盛という意味では人後に落ちないので、そのうち気がついたら、上京した両親とともに我々もこれに乗って下界を見下ろしているという冗談のようなことになっているかもしれないので、いやはや・・・おそろしい。

 ちなみに、この飛行船は、ツェッペリンNTといって、全長は75.1メートルで、ジャンボジェット機よりも大きく、もちろん現時点では世界最大の飛行船ということだ。昔のツェッペリン号は、水素の爆発で敢えなく空の藻屑となったが、これはそういうことのないよう、燃えないヘリウムガスを充填し、それで浮いているらしい。それはいいとして、日本は夏や秋になれば台風があるし、低気圧でも強烈な風が吹くときがある。そういう場合に、こうした硬式の飛行船をどこにどうやって係留するのか、大いに興味があるところである。

 ところで、もう一枚の写真は、この日の帰りに立ち寄って、ブルーマウンテン・コーヒーを楽しんだ喫茶店にあった陶製の人形である。リヤドロのような雰囲気の抑えた色に加えて、ファニーフェィスのとても素敵な顔をしているので、ひと目で気に入ってしまった。ここの店主が変わってからは、なかなか趣味のよいものが置かれるようになった。

リヤドロらしき陶製の人形







【後日談】 日本飛行船の破産

 この記事を書いてからまだ2ヶ月も経たないというのに、今朝の新聞には、飛行船で都心遊覧飛行を行うこの「日本飛行船」という会社が自己破産の申立てを行う準備に入ったと報じられていた。負債総額は約14億円とのこと。そもそもこの会社は、飛行船による愛知万博の宣伝広告を行う目的で設立されたという。その後、所有する世界最大級の飛行船「ツェッペリンNT号」を使って2007年から遊覧飛行に乗り出したものの、最近は資金繰りに逼迫していたそうな。

 都心の夜景を見るために、私も一度は、この飛行船を使った空の旅をしてみたかった気がするが、それにしても、あたかも飛行船のごとく、ふわふわと泡のように空に消えてしまったものだ。今時の日本には、かつてのバブル期のような熱気はとても感じられないから、もうそういう機会は、二度と巡って来ない気がするのが残念である。



(2010年4月10日記、6月 1日追記)


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奈良京都の桜の旅 〜 5.平安神宮の枝垂れ桜

平安神宮應天門


 仁和寺を退出した後、どうしようかと思っていたところ、家内が急に、平安神宮へ行ってみようと言い出した。私は、あそこは、大きな朱塗りの鳥居と本殿しかないと思っていたものだから、どうかと思ったものの、家内のいうとおり、タクシーを拾って行き先を告げた。途中、川の両脇で染井吉野が満開を迎えていた。もし、平安神宮がさほどのものではなかったら、あの辺りを散策してもいいなと思ったほどである。そうこうしているうちに、平安神宮の大鳥居の近くまで来た。

平安神宮の枝垂れ桜


 平安神宮については、恥ずかしながら私は、時代祭りを挙行するところという程度の知識しかなかった。今回、改めてそのHPを見させていただくと、ご祭神は、桓武天皇と孝明天皇ということだった。京都を都に決めた桓武天皇はともかく、幕末に強硬な攘夷論を唱えられて明治維新の確か2年前に崩御された孝明天皇もご祭神だったとは、ついぞ知らなかった。時代の節目を作られた天皇ということか・・・それにしても、それは明治天皇ではないか・・・いやいや明治天皇は京都を出ていったので、京都最後の天皇ということで、孝明天皇になったいるのかもしれない。つまり、京都が都であったときの最初と最後の天皇ということか・・・。

平安神宮の枝垂れ桜


 さて、應天門と書かれた巨大な丹色の門をくぐり、左近の桜が美しい大極殿の前を通って東西南北の四つに分かれているという神苑に入った。これは、神域を囲っている庭に当たるところである。最初は平安の苑であり、ピンクの枝垂れ桜が満開を迎えていて、実に美しい。ははぁ、平安神宮とは、こういう所だったのかと、己の不明を恥じるばかりである。着物姿で歩く観光客らしき女性もちらほらといて、桜に良く似合っている。おっと、ウチのカミさんの写真も撮らなければ・・・しかし、どんな美人でも、この桜の美しさには負けてしまうだろう。

平安神宮の和服の女性


 南神苑にある平安の苑の細い流れは、北神苑の白虎池という、やや大きな池につながっている。その辺りに垂れ下がる枝垂れ桜の枝といったら、たとえようもないくらいに美しい。この枝垂れ桜を背景として、家内と写真の撮り合いをしたのだが、これがなかなか難しい。まずは、人物を主体にするか、それとも枝垂れ桜を主体にするかが大きな分かれ道である。人を主体にするなら、顔と上半身を画面の真ん中にドーンと入れて、その背景に桜をちょっとだけ配せばよい。そうすると、写真としては収まりがよい。逆に、枝垂れ桜を主体にするなら、人物にその木の近くに立ってもらって、それで木の全体を写すとよい。よく、観光地で観光客がお互いを撮り合っているのがこの構図である。

 ところが、家内も私も、欲張りなことに、人物も枝垂れ桜もどちらも撮りたいと思って撮るものだから、人物の半身が切れてしまったり、構図の中心が定まらなかったりで、どうにも中途半端な写真となってしまった。これから、人物の写真の撮り方も、覚えなければと反省する結果となった。

平安神宮の染井吉野


 中神苑の蒼龍池にさしかかると、傾く日差しを一身に浴びている染井吉野の桜の木が素晴らしい。こちらには、池の中に飛び石のような遺構があり、臥龍橋というらしい。その丸い石材は、豊臣秀吉が三条と五条の大橋を作ったときに使われた橋脚だとされる。東神苑の栖鳳池に入った。池の向こうの建物、尚美舘(貴賓館)が池の水に写り、その姿を枝垂れ桜がいっそう引き立てている・・・綺麗だ。少し行くと、泰平閣という橋の役割をする建物が池に架けられていて、橋殿といわれるらしい。これも、実に優美な姿をした建物である。それを通って、池全体をもう一度振り返ってみると、はっと息を呑むほどの美しさである。

平安神宮尚美舘(貴賓館)


 そこで私が家内の、逆に家内が私の写真を撮ったところ、二人とも非常に満足した顔で写っていたのである。先ほど、お互いの写真を撮ろうとして四苦八苦したときとは大違いである。 そこで思いついたことは、写真というのは、テクニックというものも無論大事だけれど、その場の感動をそのまま写し撮ろうという気持ちの問題がもっと大事なことなのかもしれないということである。

平安神宮泰平閣


 というわけで、一泊二日のあわただしい奈良と京都の桜を見る旅は、終わったのである。最後は、京都駅の新幹線乗り場にある、いつもの京都名物「鰊そば」を食べたのだが、この日はとてもそれでは足りず、帰りの車中でいろいろと食べてしまった。体重計に乗るのが、少しこわい気がする。

平安神宮東神苑の栖鳳池







     奈良京都の桜の旅 〜 目次

       1.吉野山の桜と歴史

       2.中華百楽と奈良ホテル

       3.長谷寺の大観音様

       4.仁和寺の御室桜は

       5.平安神宮の枝垂れ桜






 奈良京都の桜 〜 平安神宮( 写 真 )は、こちらから。




(2010年4月4日記)


カテゴリ:エッセイ | 23:13 | - | - | - |
奈良京都の桜の旅 〜 4.仁和寺の御室桜は

仁和寺北庭の池と背景の五重塔


 午後1時過ぎには、もう京都に着いてしまった。そこで、手荷物をコインロッカーに預けようとしたが、何とまあ、どのロッカーも満杯である。探しに探して、とうとう駅ビルの端にある、手荷物一時預かり所に着いてしまった。そこに預けて、すぐにタクシーに乗り込んだ。前回、春に来たときには、醍醐寺の桜を見に行ったので、今回の行き先は御室桜(おむろざくら)が咲いていたらと思って仁和寺にした。あの、木の背たけは低いが、鈴なりに咲く桜である。

仁和寺御殿入口横の桜


 仁和寺の歴史は、そのHPによれば要するに、仁和2年(886年)に光孝天皇によっ発願されたものの志なかばにして崩御された。そこで次の宇多天皇が遺旨を継がれて造営につとめたところ2年後の仁和4年(888年)になって完成させ、「仁和」の年号をもって仁和寺(にんなじ)と呼ばれるようになったとのことだが、その宇多天皇は、退位後は出家して30余年もの間、真言密教の修行に励まれたという。それ以来、仁和寺は明治維新まで皇子皇孫が門跡になって来られたそうな。だから、建物内部が御所とそっくりなわけだ。もちろん、世界遺産に登録されている。

仁和寺二王門


 仁和寺の二王門の前に着き、その大きな門を見上げた。また京都に来たという実感がする。前回この仁和寺に来たのは1月の寒い寒い季節で、我々のほかにほとんど人はいなかったが、今回は温かい季節とあって、鈴なりの拝観者である。そういう中に混じって、宸殿の中を見学させていただいた。御殿入口横の桜が美しい。建物に入ってみると、歴史書の図で見た御所の内部とまったく同じ造りであることがわかる。もっとも、御所そのものではないから南庭に勅使を迎える門があり、そこを歴史で習った「しとみ戸」が続く長い廻廊を通っていくと、左近の桜、右近の橘がある。これも、歴史の図と同じだ・・・中の部屋は、床の間、違い棚、美しい大和絵の襖、格子天井など、金色を貴重とした誠に優雅なものである。なるほど、これが門跡寺院の風格というものか。

仁和寺北庭の池


 その南庭を通りぬけて北庭にさしかかった。手前は白砂の石庭風だが、その後ろには、細長い池があり、緑の水面が美しい。池の中央には、石の橋と小燈籠があって、見ごたえがある。ああっ、池の向こうには、五重塔が見える。青い空にすっくと立つ塔は、とても清々しい。これが借景というものか。霊明殿を通って、長い廊下をぐるぐると回って退出した。

仁和寺の桜


 外に出ると、ようやく参道の両脇に、染井吉野があることに気が付いた。そして、肝心の御室桜のところまで行ったのだが、遅咲きの桜らしくて、残念ながら、まだ蕾だった。そこで、五重塔の方に行った。すると、こちらは枝垂れ桜が満開なので、それを前景とすると、遠近感が出てなかなか味のある写真を撮ることが出来た。参道の脇に、明るい紫色の花が咲いていたので、何だろうと思ったら、家内によると「みつばつつじ」という種類だそうだ。今が満開である。丹色の鐘楼の脇を通りかかった。近くの枝垂れ桜とよく調和している。その写真も、忘れがたい1枚となった。

仁和寺みつばつつじ









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       1.吉野山の桜と歴史

       2.中華百楽と奈良ホテル

       3.長谷寺の大観音様

       4.仁和寺の御室桜は

       5.平安神宮の枝垂れ桜







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(2010年4月4日記)


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