皇居北の丸公園の桜

北の丸公園の桜


 きょうは天気がよいし、黄砂も飛んで来ないようなので、ここしばらく見たこともないほどの青空となった。残念ながら染井吉野はまだ四分咲き程度で満開とはいかないが、その他の山桜や枝垂れ桜などの早咲きの桜はもう盛りを過ぎる頃である。青空を背景に写真を撮ると、桜の白さやピンク色がとても引き立つ絶好の写真日和である。皇居の北東側の竹橋から内側に入って、北の丸公園を南から北へ歩くことにした。これは、山桜系だろうか、今が満開となって、溢れんばかりに花が四方八方に付いている。また、ピンク色系もあって、中心部は赤い。その名を知りたいが、残念ながら、手掛かりはない。

北の丸公園のピンク色の桜


北の丸公園の真っ白の桜



 さらに行くと、辛夷(こぶし)が咲いていた。演歌の北国の春で一躍有名になった花である。一見すると白木蓮そっくりであるが、あちらは花びらが十分開かずに落ちるようであるが、こちは五弁の花びらがしっかりと開いて咲く。青空を背景に、真っ白な辛夷の花びらがたくさん咲いている様子は、人の心を打つようである。なるほど・・・それで、これが咲いていた故里を思い出す歌というわけか・・・わかるような気がする。

北の丸公園の辛夷



 あれあれ、この黄色い花は、あまり見たことがない。葉は桜そっくりだが、花の形は明らかに違う。先週、二宮の吾妻山公園で見た連翹(れんぎょう)とはまた違う花だ・・・ということで調べてみたところ、これは土佐水木(とさみずき)という満作(まんさく)科の花であることを確認した。ネットでは、花言葉は「清楚」「にぎわい」とされている。良く茂るので、垣根の木に適当だという。

土佐水木(とさみずき)



 おやまた、これは絢爛豪華な枝垂れ桜である。ちょうど、インターの入口前という気の毒な位置にあるが、その大きさといい、枝ぶりといい、個々の桜の見事さといい、私が絶賛した六義園の枝垂れ桜に勝るとも劣らない。とりわけ、青い空と桜のピンク色を対比すると、まるで一幅の絵画を見ているようである。惜しまれることはただひとつ、生えている場所が悪いことのみで、この桜のせいではない。後からこんなところに首都高の入口を作ったのが悪いのである。もしこの枝垂れ桜が北の丸公園の中心部にあったとしたら、絶大な人気を誇る桜となっいたことだろう。

枝垂れ桜



 大きな武道館を通り過ぎて、田安門でお濠に架かっている橋・・・というか土手に咲く桜を撮ったもので、両側から橋の上に覆いかぶさってきていて、これぞまさしく桜のトンネルというに相応しい。その中を腕を互いの背に回して歩くカップル、そんな時代をはるかに超越している中高年の二人連れなど、色々な年代の人たちがたくさんブラブラと散歩している。そのような人々に混じって私のように、短いお昼の時間を有効に使おうと、バシャバシャとシャッターを切って歩いて駆け抜けるなどという人種は、あまりいなかったので肩身が狭い思いをした。

田安門の土手(橋)に咲く桜



 さて、田安門の土手を渡って対岸に着き、振り返って田安門の櫓を眺める。右下にあるのは、また明日にでも撮りに来ようと思っている千鳥ヶ淵濠の端の部分である。桜が満開を少し過ぎた頃に、この千鳥ヶ淵濠でボートを漕ぎ、風が吹いて来て散り始めるときの桜の花びらをボート上から見上げるというのが、最高の花見だと思う。しかし、残念ながらまだ私は現役で仕事中なので、それはリタイアした後の楽しみにとっておきたい。

田安門の櫓と桜と千鳥ヶ淵濠


 ちなみに、この機会に桜の種類を勉強しようとして、ネット上を色々と調べたところ、ネットに掲載されたものとしては、公益財団法人「日本花の会」による桜380品種についての「桜図鑑」というものが、参考になった。しかし、桜の現物を東京で見たければ、高尾に独立行政法人森林総合研究所「多摩森林科学園」という公的な機関があって、約250種類、約2000本の桜が保存目的で植栽されているので、こちらに行くとよい。かなり以前のことになるが、実は私も現地を案内していただいたことがあり、桜の種類の多さと美しさに感嘆したことがある。どなたでも入れて、しかも高尾駅北口から徒歩でわずか10分程度という便利なところにあるので、ご関心がある方には、是非お勧めしたい。





【追 加】皇居大手門の枝垂れ桜

皇居大手門に咲く枝垂れ桜


 さてこれは、皇居大手門に咲く枝垂れ桜である。この写真は、4月9日に撮ったもので、いつも染井吉野より10日から2週間ほど遅れて満開となる。小ぶりな枝垂れ桜であるが、年々、姿形が成熟してきて、あと10年もすればこの辺りの柳の木を押しのけて、大手門の名物になること請け合いの桜である。また、最近は、この大手濠でも白鳥を飼っていて、雛が生まれることもあり、それがまた可愛い。

皇居大手門に咲く桜と、泳ぐ白鳥


 ということで、ここはお勧めの桜の見物ポイントなのであるが、残念ながらこの2年ほどは、この枝垂れ桜が並ぶ外堀通りで、ちょうどその桜の木を覆いかぶさるようにして、何かの工事中のである。だから、せっかくの皇居お濠とその水面に映えるピンクの枝垂れ桜という素晴らしい景色が、工事用の柵や機械に邪魔をされて、十分に堪能できないことが残念なところである。

皇居大手門に咲く枝垂れ桜の花







 皇居北の丸公園の桜( 写 真 )は、こちらから。

 大手門枝垂れ桜と白鳥( 写 真 )は、こちらから。



 桜の季節2010年(エッセイ)は、こちらから。




(2010年3月31日記、4月15日追記)


カテゴリ:エッセイ | 23:42 | - | - | - |
LHCが陽子の衝突実験に成功
 大型ハドロン衝突型加速器(LHC)は、1年半前にいったんは完成したもののすぐに故障し、2009年11月に再開にこぎつけたばかりであったが、ここに来てようやくその成果を出しつつあるようだ。欧州合同原子核研究所(CERN)の発表を報じた2010年3月31日の新聞各紙によると、陽子どうしを衝突させて7兆電子ボルトのエネルギーを発生させる実験に成功したらしい。それも、最初の2回の実験が失敗に終わった後、3度目に3.5兆電子ボルトのエネルギーで周回する陽子ビームどうしが正面衝突したことを確認したそうだ。面白いことにこうした科学の世界でも、「三度目の正直」という諺が当てはまるようである。

 ちなみに今回の成果は、宇宙誕生の瞬間(ビックバン)から1兆分の1秒後の数百兆度の状態を再現したことになるという。今後、2013年には、このエネルギーを装置上限の14兆電子ボルトに上げる計画であるとのこと。これからは、その世界最大級の能力を生かして、素粒子の質量の根元をなす「ヒッグス粒子」の発見、あるいは宇宙空間の質量の約4分の3を占める未知の暗黒物質(ダーク・マター)の有力な候補といわれる「ニュートラリーノ」などの「超対称性粒子」の発見などの成果が得られるものと期待されている。





 LHCの意義については、こちらから。






【後日談】 ヒッグス粒子を発見

 2012年7月4日、欧州合同原子核研究所(CERN)内の2つの実験グループが、「ヒッグス粒子とみられる粒子を発見した」と発表した。これで、素粒子物理学の標準理論の最後のピースが埋まった。



(2010年3月31日記、2012年7月4日追記)


カテゴリ:徒然の記 | 12:35 | - | - | - |
六義園の枝垂れ桜

六義園の枝垂れ桜


 東京で咲く桜としては、これ以上の豪華絢爛なものはないだろうと私がひそかに思うのが、六義園の枝垂れ桜である。いつも、染井吉野が咲く頃になって行ってみると、もう散り始めていてがっかりという有り様だった。そこで、今年は早めに行ったつもりだったが、それでも思ったより少し遅くて、ちょうど満開の時に当たった。まあ、結果としてよかったということである。

六義園の枝垂れ桜


 もうひとつの今年の工夫は、開園した直後に行ってできるだけ見物人のいない枝垂れ桜を撮ろうというものである。それで、どうだったのかというと、午前9時開園のところを5分過ぎに着いたのだが、もう枝垂れ桜のすぐ前には2〜3人の人がいて、しかもなかなか熱心に写真を撮っている。特に、黒っぽい服の女性は、右に傾いてクローズアップで桜の花びらを撮ったかと思うと、今度は左に傾いてまた同じように撮ったりと、その場をなかなか開けてくれない。カメラを持って遠巻きに並んでいるカメラマン・ウーマンは、皆イライラしているのがわかる。しかし、その願いもむなしく、それからしばらくして、どっと見物人が入って来てしまった・・・万事休すである。まあそれでも、何とか数枚は、枝垂れ桜だけの写真を撮ることが出来た。欲を言えば、空が青空だったら、桜のピンクと映えて美しかったはずなのだが、それだけが心残りというものである。また来年の楽しみとしておこう。

木五倍子(きぶし)


 さて、それから園内を一周してみたのだが、もう春の息吹きが感じられて嬉しくなる。苔は緑色を濃くしているし、木々には新芽が出ている。緑の葡萄のような、木五倍子(きぶし)が咲いているところがあって、その辺りだけが異次元のような、とても不思議な風景であった。池では、金黒羽白(キンクロハジロ)がたくさんいて、餌をめぐって鯉と壮絶な取り合いを演じていた。ちなみに、このカモ科の小型の鳥は、頭の後ろの毛が飛び出したようにバラついているので、別名を寝癖鳥(ねぐせどり)というのだそうだ。まったく、面白い命名をしたものだと感心する。そのほか、花海棠は、まだつぼみで、山吹は、その一部が咲き始めていた。早春の段階が終わりつつあり、いよいよ春本番が近付いている。

金黒羽白(キンクロハジロ)






 六義園の枝垂れ桜( 写 真 )は、こちらから。


 桜の季節2010年(エッセイ)は、こちらから。




(2010年3月28日記)


カテゴリ:エッセイ | 21:56 | - | - | - |
徒然178.熱気球とお大師様

舎人公園の熱気球


 都立の舎人公園で、「春の花火と千本桜まつり」が行われていると聞き、そういえば、日暮里・舎人ライナーというのが2年前に出来たのに、乗ったことがなかったと思い出した。そこで、見に行くことにした。自宅から千代田線で西日暮里へ行き、日暮里・舎人ライナーに乗り込んだ。

日暮里・舎人ライナーが荒川を越えたところ

日暮里・舎人ライナー


 ゆりかもめと同じ新交通システムで、運転手はおらず、ホームのドアと電車のドアが同時に閉まったら、ゆっくりと発車した。ゆるゆると走る。それほど揺れないし、別に騒音もない。3階くらいの高さを走るので、見晴らしはよい。もう終点にあと二つという舎人公園駅に着くまで、わずか15分という短い旅である。途中、荒川を越えるところで、線路がやや高くなっているだけで、それ以外は平坦な線路となっている。路線周囲の景観はといえば、その荒川近辺と舎人公園近くに水面や緑が見えるだけで、あとはたくさんの家やマンションばかりであるから、特にこれといったランドマークになるようなものはない。むしろ、かなり人口稠密な地であったのには驚いた。まあ、かつては田畑、そのもっと昔は荒れ川の湿地帯だったところに、急速な都市化の波がやってきて、こんな姿になったのだろう。

舎人公園の熱気球

舎人公園の熱気球


 「舎人公園駅」に着き、そこで下車したところ、公園の中で、熱気球を上げているところである。しかし、どうも風が強かったらしくて、お客を降ろして撤収しているようだ。たくさんの係員が籠に乗ったり、それを押さえたりして、一生懸命に気球を横倒しにしようとしている。あれあれ、風に引きずられて危ない・・・と思ったら、気球がようやくしぼんで、横倒しになった。ともあれ、よかった。

舎人公園駅


 舎人公園の中は、日暮里・舎人ライナーが南北の縦に貫いていて、その西のところで熱気球のイベントがあった。いろいろな模擬店が出ている。そこをひとわたり見て、日暮里・舎人ライナーの東に向かう。こちらは、公園のメインの部分で、広大な敷地になっている。ウィキペディアでこの公園の歴史をひも解けば、舎人公園は昭和15年に防空緑地として計画決定された。これは当時の東京の爆発的な人口増加に比べて社会資本の整備が遅れ、住民の健康的な生活や防災に重大な影響を与えるおそれがあったためであるということらしい。

舎人公園東側


 さて、その公園の東部分であるが、噴水広場から大池の方にかけて、本日はいろいろな売店が出ていて、まるで神社の縁日のような雰囲気である。そこを通って、大池にたどりつくと、何人かが釣りをしている。釣りが許されているかどうかは知らないが、中にはマナーが悪い釣り人がいる。というのは、大池の岸のほとりで、バードウォッチングをするテントがあって、その前には数本の望遠鏡が並べられていて、それを道行く人たちに見せているグループがいた。ところが、釣り人のひとりがそのグループの人たちに対して、「うるさいぞー」と叫んでいたからである。こういう場合は、バードウォッチングの方が、当然に優先すると思うのだが、どうだろうか。

舎人公園の椿


 そんなことがあって、どことなく嫌気がさして、再び日暮里・舎人ライナーの駅に戻り、また乗ろうとして路線図を見たところ、「にしあらいだいしにし」という、不思議な名前の駅がある・・・というのは冗談で、漢字で書くと、西新井大師西駅である。西新井大師といえば、信心深いとはとてもいえない私どもでも、聞いたことがある。家内も行ってみたいというので、途中下車することにした。

西新井大師に行く道すがらの花


 西新井大師西駅に着いたので電車を降りた。案内板によると、お大師様は、そこから1250メートルのところだそうだ。住宅街を家内とともに、ぽこぽこと歩く。幸い、寒くはないが、吹きつける風はまだ冷たい。しかしそれでも、春に入ったようで、住宅街の庭々に植えられている木々には、木瓜(ぼけ)などの春の花が真っ盛りを迎えている。この写真の木には、同じ枝から赤と白とピンクという三色の花が咲いているので、びっくりして、しばし見とれてしまった。

西新井大師に行く道すがらの木瓜の花


 お寺のHPによると、要するに、西新井大師は真言宗豊山派の寺院であり、天長年間、弘法大師が関東に来られた時に当所に立ち寄った。ちょうど村人達が悪疫の流行に悩んでおり、それを救おうと自ら十一面観音を造って祈祷をした。すると枯れ井戸から清らかな水が涌き出てきて、病は平癒したという。その井戸がお堂の西にあったことから『西新井』の地名ができたということだそうだ。

西新井大師の参道の入り口

西新井大師の参道の脇の由緒ありそうな店


 参道の入り口は、比較的狭いものだが、そこを入って行くと、両側には古くからあるような店舗が並ぶ。山門をくぐると、右手には「塩地蔵」なるものがあり、江戸時代からあって、いぼ取りに効能があるそうな。その頃は、お堂から塩をいただいて功徳があるときは倍にして返すということで、このようなお姿になったようである。

西新井大師の塩地蔵


 面白いのは手洗い場で、お堂の形式や水鉢は普通のものであるが、それを支える四人の像がとても人間的なのである。まあ、ともあれ写真を見ていただくと、実にうれしそうに水鉢を支えていてくれるので、こちらも楽しくなる。お寺は、こうでなくてはいけない。

 

手洗い場の入り口

手洗い場を支える二人の像のひとり


 最後に、大きな大本堂にたどりつくと、どういうわけか、その前に車がたくさん停まっている。どうしてこうなっているのか、まさか駐車場で収益を上げているのではあるまいにと思いつつ、本堂の階段を上っていくと、ちょうど祈りの声が朗々と聞こえてきた。お護摩を焚いて、何かをお祈りしているようだ。

西新井大師の本堂


 お賽銭を入れて参拝した後、横に回ってお堂の中をみた。すると、段の上には黄色の袈裟のお坊さんのほか、8人ばかりの緑色の袈裟のお坊さんとが、お経らしきものを何やら一心に唱えておられる。その前には、たくさんの人々が座って、それを聞いている。護摩の何かの行事であろう。そこで気がついたのだが、境内にたくさんの車があったことを考え合わせると、どうやら「」だけでなく、「」に対しても、交通安全の護摩のお祈りをされていたようだ。

西新井大師の境内


 ちなみに、「お護摩の火によって、我々の煩悩(悪い心)を燃やし尽くし、それによって清らかな心となって、色々な願い事をするのだ」という。珍しいものを見させていただいた。それにしても今日は、熱気球から始まって、お大師様の護摩で終わるという、不思議な日であった。

西新井大師近くの花



(2010年3月27日記)


  
カテゴリ:徒然の記 | 20:46 | - | - | - |
三宅坂の神代曙桜

三宅坂の国立劇場前の庭の「神代曙」


 さあ、寒くて長かった冬がようやく抜けて、やっと春が来たことを日に日実感するようになった。というのは、梅に続いて、桜の季節となったからである。東京の桜といえば、イの一番にお勧めしたい場所は、千鳥ヶ淵などの皇居の周りのお濠沿いである。今週月曜日には、染井吉野が開花したと報じられたが、それから比較的寒い日々が続いたので、金曜日の今日のところはまだ二分咲き程度である。

 そこで、本日のお昼にはまず、半蔵門近くの三宅坂にある国立劇場辺りから散歩することにした。すると、国立劇場前の庭に、ピンク色がとても美しい早咲きの桜が天にも届けとばかり空一杯に満開となって桜が咲いているではないか。これは素晴らしいと思って、近づいていった。道行く人たちもこの見事な桜の木に集まって、携帯カメラで写真を撮るのに余念がない。思わず私もその内のひとりに仲間入りして、気がついたら自分も写真を撮っていた。

三宅坂の国立劇場前の庭の「神代曙」と蜂


 この桜は、江戸彼岸(エドヒガン)の雑種で、元々は神代植物園にあったものだそうだ。掲示板によれば、その名も「神代曙」という。それにしてもこの桜は、染井吉野(ソメイヨシノ)よりもピンク色が強く、それが空の青い色とちょうど対比色になって実に美しい。可憐、美形、ほのか、夢幻・・・・そんな言葉が浮かんでくる。もう八分咲きくらいで、あと数日もすれば真っ盛りとなるだろう。開ききった桜の花もよいが、まだ枝にはたくさんある蕾の桜も、ますますピンク色が濃くて、これまた素晴らしい。おっと、何かが目の前を横切ったかと思ったら、蜂が桜の花に飛んできて、取り付いている。こちらも、御馳走を前にして、大忙しのようだ。

甘味処の「おはぎと、おでん」


 さて、その神代曙のところでしばらく過ごした後、半蔵門に向かって内堀通りを皇居に沿って歩いていくと、左手に甘味処がある。ちょうどお昼というのに、あまり人がいない。店先のメニューを見たところ、おはぎがあるではないか・・・それも、最近流行りのちょこちょこっとした小さなおはぎではなくて・・・昔懐かしい大型のおはぎである。私が小さい頃、やってきてくれた祖母がよく作ってくれたものと、そっくりではないか。それも、あずき、きなこ・・・などとある。これは注文しなくてはと思ったが、これでは昼食にならない。それではと・・・併せておでんも注文した。おはぎと、おでんという、妙な取り合わせだけれど、この店ではありきたりの注文らしくて、二つ一緒に持ってきてくれた。どちらも、おいしかったのは、いうまでもない。

桜田門方向を桜田濠越しに望む


 甘味処を出て、内堀通りの信号を渡って皇居側に行き、そこで桜田門方向を見て写真を撮った。手前には、菜の花、正面には桜田濠の水面があり、その先には警視庁や国土交通省の建物とアンテナが林立していて、左右には、皇居の城郭の斜面の緑がある。なかなか、美しい風景であるが、あと数日もすれば、左手前には桜が満開となる。そうすれば、もっと幻想的な景色となるだろう。機会があれば、また来てみよう。

蔓日日草(つるにちにちそう)


 イギリス大使館前まで歩いて行ったが、途中に見かける皇居の桜は、まだ早い。そこで、信号を渡って帰ろうとしたが、そのとき、公園に少し花が植えられていることに気がついた。この青い五弁の花は、ビンカ、和名を蔓日日草(つるにちにちそう)というらしくて、地中海原産なのだそうだ。

鈴蘭水仙(すずらんずいせん)

早咲きの桜


 それから、スズランのようなスイセンのような、白くて下を向いている可憐な花があった。これは、その名も鈴蘭水仙(すずらんずいせん)といい、花言葉は「皆をひきつける魅力」とのこと。確かに、そういう気がする。同じ公園には、もう真っ盛りの桜があり、葉が出始めている。もちろん、染井吉野ではないが、早咲きの山桜なのだろう。

木蓮(モクレン)


 その公園の一角に、遠めでは、ピンクの桜のような木が咲いていた。近づいてみると、木蓮(モクレン)ではないか。美しい紫がかった色をしている。これは、これは・・・見事というほかない。しかも、風が吹いてくると、あの大きな花弁が、ぱらぱらと落ちてくる。地面は、紫のような、ピンクのような、そして花弁を裏返した白い色で埋め尽くされている。その下で、お弁当を広げている女性がいたが、あれだけの花弁の雨の中で、よく食べられたものだと思う。しかし、めったにない経験を楽しんでいるのかもしれない。

木蓮(モクレン)


 最後に、赤い立派な花を付ける石楠花(しゃくなげ)を見た。たぶん同じ株ではないかと思うが、一ヶ所に、蕾から、開きかけ、そして満開の花が咲いていた。つまりは、咲く過程を一度に観察したようなものである。こういうのは、あまり見たことがない。ちなみに、石楠花の花言葉は「威厳、荘厳」という。





 三宅坂の神代曙桜( 写 真 )は、こちらから。


 桜の季節2010年(エッセイ)は、こちらから。





(2010年3月27日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:39 | - | - | - |
吉野梅郷と青梅

吉野梅郷


 なだらかな山肌の谷間の一面が、白やピンク色に染まり、遠目には雲がたなびいているように見える。その中に入って行くと、心地よい梅の香りがして、幸せな夢の中に誘われているような気持ちになる。これが、吉野梅郷の中の、梅の公園の風景である。吉野の郷といっても、場所は東京の奥地で、青梅駅近くの日向和田駅にある。東京に長く住んでいるけれど、このような梅の郷があるとは、ついぞ知らなかった。

多摩川に架かる神代橋の上から

吉野梅郷に行く途中の民家の梅


 立川から半時間ほどJR青梅線に乗り、青梅駅から二つ目の日向和田駅に降りる。そこから歩き出して、多摩川に架かる神代橋を渡り、さらに10分くらい歩くと、青梅市梅の公園に着いた。もう入口の近くから梅の花が放つ芳香が辺り一面にただよっている。敷地内に入ると、起伏に富んだ地形を生かして、たくさんの梅の木が植えられている。この公園を中心に、周辺の地元農家の梅園やお寺に約25,000本もの梅の木が植えられていて、これらを総称して吉野梅郷というらしい。こうして見られる数多くの、また数々の種類の梅の木のほか、梅郷内には吉川英治記念館、青梅きもの博物館などという観光スポットもあるらしい。しかし、残念ながらこの日は、そういうものまであるとは知らなかったことから、朝は自宅を遅い時間に出たので、そこまで足を延ばす余裕がなく、もっぱら梅の公園を散歩するにとどまった。しかしそれでも、早春の梅を久々に心行くまで堪能することが出来た。

吉野梅郷の梅

吉野梅郷の梅

吉野梅郷の梅


 さすがに梅の里だけあって、そこにたどり着くまでの道々の民家の庭先にも、様々な梅の木が植えられていた。私は、これほど多くの梅の種類を見たのは、初めてである。梅の公園に入ったところ、一口に白梅や紅梅というが、それどころではなくて、まず色からすると、白梅や紅梅のほか、赤梅といいたいほど真っ赤な種類がある。梅の花弁についても、標準的な5枚にとどまる花びらの木はここではむしろ珍しいくらいで、5枚であっても重なっていないすっきりとした印象のもの、花びらが波打っているもの、あるいはその逆に八重桜のように花びらが何枚もあるものまである。また、木の立ち姿についても、枝が捻じれて付いている普通の梅の木もあるし、しだれ梅の木もある。

吉野梅郷


 それらに近づいて写真を撮り、また周囲の景色と合わせて遠目で眺めながら、その梅の谷間を登っていく。すると、谷合いから数多くの民家とその背景となっている山脈を眺める場所に着いた。手前の梅の木々とよく調和して、誠に美しい風景である。とりわけ、東屋のある位置は、非常によく考えられていて、そこに坐って見渡すと、いずれも景色が素晴らしい。それに、写真からはわからないが、あたりにただようほのかな梅の香りが天然のアロマ成分となって、我々の鼻をくすぐるのは気持ちよい。あたりで、親子連れが並んで写真を撮っている微笑ましい場面もある。

吉野梅郷

吉野梅郷

吉野梅郷


 それから山を下りてきて、梅の花をじっくり見ることにした。どれがどの梅であるかは必ずしも自信をもっていえるほど知識はないが、木に札が下がっていたから確かに見た、あるいは写真からしてどうも見たように思える梅の名前を挙げると、次のとおりである。・・・それにしても、派手な名前を付けるものだ・・・。

白一重 → 梅郷(バイゴウ)、持田白(モチダシロ)、玉英(ギョクエイ)
白八重 → 大輪緑萼(タイリンリョクガク)、緑萼枝垂(リョクガクシダレ)
淡紅一重→ 鶯宿梅(オウシュクバイ)、小輪鈴鹿の関(ショウリンスズカノセキ)
淡紅八重→ 鴛鴦(エンオウ)、新平家(シンヘイケ)、朱鷺の舞(トキノマイ)
紅一重 → 大盃(オオサカズキ)、関守(セキモリ)
紅八重 → 幾夜寝覚(イクヨネザメ)、紅枝垂(ベニシダレ)
濃紅一重→ 大輪緋梅(タイリンヒバイ)
濃紅八重→ 鹿児島紅(カゴシマベニ)

吉野梅郷


 いずれにせよ、これほど多くの種類の梅があったのかということに、まずは驚くところである。これらの中には、吉野梅郷原産の梅もあれば、大分豊後産、鹿児島産の梅もあるし、あるいは野梅系のものもある。長い間、梅に愛情を持つ育種者が、大切に育て上げ、品種改良に努めて来られた成果であろう。

吉野梅郷の山茱萸(さんしゅゆ)


 さて、出口の近くに、黄色い粒々の花がたくさん咲いている木があった。これは珍しいと思ったのでその説明の札を見たところ、山茱萸(さんしゅゆ)という木の花である。「季節の花300」さんによると、中国と朝鮮半島が原産地で、日本に渡来したのは江戸中期とのこと。なんでも「木全体が早春の光を浴びて黄金色に輝く」ことから、別名を「春黄金花(はるこがねばな)」というらしい。ううーむ、確かにそういう雰囲気がなくもない。また、その近くには、ラッパ水仙とでもいうのだろうか、元気のよい西洋水仙が植えられていた。

吉野梅郷の西洋水仙


 その梅の公園から、バスで青梅駅に出た。駅の中に漫画の天才バカボンが逆立ちしている人形があり、その横には、青梅について、次のような解説が書かれていた。
 「江戸の頃には青梅縞(おうめじま)の市場集落『青梅宿』、終戦後は空前の織物景気で西多摩随一の繁華街、物が集まり、人が集まり、活気にあふれた青梅。 古い街並、商家、路地、街灯、映画看板、漫画館・・・。ここ青梅には、まるでスクリーンから抜け出したような懐かしい昭和が生き続けています。あなたに元気を与えてくれる昭和、瞼のスケッチした昭和がここにあります。 ようこそ、昭和の街、青梅へ。」

古い映画の看板


  ははあ、それでは、ちょっと街中でも覗いて来るかと思い、駅前からブラブラと歩きだした。まっすぐ行って右に曲がると、左右に古い映画の看板のようなものがある。「二十四の瞳」、「俺たちに明日はない」、チャプリンの「街の灯」など、たくさん目に付く。古い商店街と、よく似合っている。後ほどいただいたパンフレットを見ると、これらの看板は、久保板観氏と明星大学造形芸術学部学生有志の作とのこと。なかなか、面白いことをするものである職業柄、映画の著作権との関係はどう処理しているのだろうかと気になるところであるが、まあ、それはともかく・・・今日は休日だ。

昭和レトロ商品博物館


 ちなみに、その先に昭和レトロ商品博物館というものがあって、そこの喫茶店で一休みをしてきた。きょうは、梅を見て、その帰りには昭和のレトロな世界に触れるという、不思議な組み合わせの一日であった。




 吉野梅郷と青梅( 写 真 )は、こちらから。


(2010年3月22日記)




【後日談1】吉野梅郷の全滅から復活して3年


 私たちが吉野梅郷を訪れたのは、2010年のことである。今から思うと、それは梅郷の最盛期だった。それからほどなくして、全国的に猛威をふるった「プラムポックス・ウイルス」が吉野梅郷を襲った。わずか4年後の2014年、 青梅市梅の公園を中心に25,000本もの梅があった吉野梅郷は、泣く泣く全ての梅という梅の木を伐採せざるを得なかった。残念なことに、ここに吉野梅郷は、文字通り全滅してしまったのである。

 その後、梅郷の再生に向けて新たに梅を植樹し始めて、2017年にようやく復活した。梅の公園内には、現在1,200本の梅が植えられている。ところが、2020年になって今度は人間界において「新型コロナウイルス感染症」が全世界的に流行し、既に2年近くも経つというのに、感染が一向に収まらない。皮肉なものである。





【後日談2】青梅から映画看板がなくなる?


 久保板観さんは、1941年に地元の青梅に生まれ、中学卒業後に映画館「青梅大映」で映画看板作成の仕事に就き、それから1973年の映画館の廃業まで4,000枚もの看板を描いたという。1994年から地元の商店街から頼まれて再び映画看板を描き始めてその作品が青梅市内のあちこちを飾るようになった。我々が見たのは、そういう映画看板だった。

 ところが、久保板観さんは、2018年2月4日、帰らぬ人となった。享年77歳だった。それから8ヶ月後、青梅駅前商店街の映画看板が撤去されることとなった。理由は、先日の台風24号で一部の看板が落下したためだというが、久保さんの後継者がいなかったということもあったのだろう。残念なことに、昭和の雰囲気を残した街が、また一つ消えていく。昭和は、遠くなりにけり。



(2021年9月4日記)





(2021年9月4日記)


カテゴリ:エッセイ | 19:00 | - | - | - |
吾妻山と小田原

吾妻山公園展望台からの眺め


 少し気候が良くなってきたし、そろそろ足ならしにハイキング気分を味わいたくなった。そこで、まだ菜の花が咲いているから、それを前景に雪を被った富士山を撮ってみたくなり、神奈川県二宮町の吾妻山に向かうことにした。標高わずか136メートルというから、山ならぬ丘登りをすることになる。光の当たる加減からして、写真を撮るなら午前中に到着するのが望ましい。東京駅から東海道線で熱海行きに飛び乗った。ところが、朝早くのときは晴れていた天候が、二宮に近づくにつれて、晴れてはいるものの、薄い雲がかかったようになり、風も強くなってきた。あまりに南からの風が強いので、国府津駅の辺りで徐行運転をしているから、全般的にダイヤが乱れているという有り様である。

吾妻山公園の連翹(れんぎょう)の花


 大船に差し掛かった辺りで家内と相談し、鎌倉見物に切り替えようかとも思ったが、結局、最近は運動不足気味だからという理由で当初の案通りに行くことにした。二宮駅に降り立ち、とぼとぼと歩き出して、町役場前の坂を上がっていった。吾妻山公園入り口という看板の下をくぐって、急な階段を一気に登っていく。途中、疲れた頃に、うまい具合に木の切り株が二つほど置いてある。まるで、「さあ、ここで休んでください」と言われているようなものである。それを2人で適宜利用させていただいて、ぼつぼつと登って行った。上の写真は、その途中にあった花で、「季節の花300」さんによれば、これは、連翹(れんぎょう)、古名は「鼬草」(いたちぐさ)という。中国が原産地で、花言葉は「集中力」とのこと。登っていく道の左右に咲いていて、葉など何にもない裸の枝から、ニョキニョキと生えていた。まっ黄色が魅力的であるが、花は下を向いているので、写真は撮りにくかった。

吾妻山公園の著莪(しゃが)の花


 そうこうしているうちに、やっと管理棟なるところに行きついた。建物の近くには、著莪(しゃが)の花が植えられている。「季節の花300」さんによると、花言葉は「友人が多い」、あやめ科とのこと。おもしろいのは学名で、Iris japonicaといって、特に「ジャポニカ」という名が付けられている。トキのニポニア・ニポンと同じで、これは覚えやすい。

吾妻山公園の花大根(はなだいこん)の花


 管理棟でまたひと休み。管理棟前の空き地には、手前に紫の花の群落、その奥には黄色い菜の花の群落が作られている。この紫の花には花大根(はなだいこん)という、誠に面白くも何ともない名前が付けられているが、別名の「諸葛菜」(しょかっさい)の方が、歴史好きにはピンとくる。「季節の花300」さんによれば、三国志時代の諸葛孔明が、行く先々にこの種子を持って行って、食糧にすべく栽培したからそう名付けられたという。皇居の千鳥ヶ淵などで群生しているというが、知らなかった。もうすぐ咲く桜の季節に行くときには、探してみよう。

吾妻山公園の花大根と菜の群落


 さてそれで、また黙々と登り、やっと展望台に到着した。道を知らなかったから、ここに至るまで、とてつもなく長く感じたけれど、これなら、一気に登っていくと20分以内で着くのではないかと思う。そういうわけで、たいして汗もかかなかった。ところで、展望台のある広々とした丘の頂上からは、左手に相模湾の海が、右手に富士山が見えるはずだったが、残念なことに富士の方向は、山裾すら見えなかった。しかし、菜の花畑は期待通り眼下に広がっていたし、ちょっとした運動にもなったので、まあいいかという感じである。今度来るときは、ウェブのライブカメラで確認してから、来ることにしよう。

吾妻山公園の展望台からの眺め


吾妻山公園の展望台からの眺め


 丘の頂上で散歩した後、さあ帰ろうかという段になって、家内が「ローラー滑り台」に乗ってみたいという。確かにそれを使うと管理棟のあるところまで一気に下って行けるけれど、だいたい大人が乗れるものかと思って乗り場まで行ってみたら、ひとり100円だと書かれている・・・大人でもいいのか・・・お尻が痛いのではと思ったら・・・小さな敷物があるらしい。では仕方がないと思って乗ったのだが、まあ、そろばんに乗ってその玉を使って移動しているような感じである。案外、速度がついてしまうので、両足の靴を側面に接触させてブレーキにしないと、飛び出しそうである。それやこれやでバタバタしているうちに、着いてしまった。乗った後で反省しても仕方がないが、そもそも体の重たい私などは乗るべきではなくて、これは、そもそも体重の軽い女性や子供向きの乗り物である。

吾妻山公園の展望台から管理棟までのローラー滑り台


 二宮駅に戻り、そこからわずか10分程度のところにある小田原駅に向かった。我々は、小田原はよく通過するのだけれど、未だに降り立ってじっくりとお城を見物したことがない。そこで今日は、よい機会だと思って、小田原城の正門に向かった。途中の商店街で、ういろうの駅前店を見て、ああ、まだ薬局をやっている・・・でも、併設の形で喫茶もやっているのはさすがだ・・・と思いつつ、その前を過ぎて、お城の堀に架かっている橋を渡った。

常盤木門


 小田原城本丸の正門に当たる常盤木門をくぐる。そこで、親子連れが記念写真を撮っていたが、撮られる方の子供たちは直立不動の姿勢で、撮るお母さんは、しゃがみ込んでカメラを構えて奮闘しているという、微笑ましい風景だった。お城の中には、たくさんのソメシヨシノの木があって、桜のつぼみを付けている。しかし、まだ咲いてはいない。来週末には満開ではないだろうか。

 小田原城歴史見聞館というところに入り、お城と北条家5代の歴史を学ぶ。戦国大名としての北条早雲の成立、三大奇襲戦のひとつとされる北条氏康の河越野戦(いまの川越の地で、上杉氏などの10倍の敵を野襲で打ち破った)、豊臣秀吉による小田原攻めなどである。面白かったことを二つだけ述べると、もともと開祖の早雲の姓は、「伊勢」であったが、関東にまで勢力圏を広げる際には、関東武士の間になじみのある姓がよいとのことで、息子の氏綱の時に、鎌倉の執権で最も著名な「北条」姓を名乗ったそうだ。それから、江戸時代の末期に、小田原の宿場の様子などを撮った写真があり、それをめくるとその下に現在のその場所の写真があって、それらを照らし合わせることが出来るようになっていて、なかなか興味深かった。

小田原城


 さて、小田原城に入ったのだが、残念なことに、これは戦後になって復元された鉄筋コンクリート製のイミテーションである。本物は、明治維新の際のどさくさで、明治3年に天守などが売却のうえ破却され、明治5年には銅門(あかがねもん)が同じ運命をたどった。挙句の果てに大正12年の関東大震災には、石垣まで崩れてしまったという散々な歴史であることを知った。昭和35年に復興された現在のお城は、3重4層の本瓦葺きで、総工費8000万円かかったという。ちなみに、この8000万円というお金・・・平成の現代では億ションのひと部屋すら買えない金額である・・・この間の物価の上昇がわかるというものである。

駅構内に吊り下げられている小田原ちょうちん


 小田原城内の展示で、またまた面白かったことがある。それは、小田原ちょうちんのことである。小田原駅構内にも、寸胴の形をした大きなものが吊り下げられている。それが、なぜ江戸時代に名産になったかというと、コンパクトに折りたためるので、持ち運びに便利であっただけでなく、紙の貼り方に工夫があって、多少の雨風に当たっても紙が剥がれない頑丈さにあったというのである。確かに、展示されていた現物は、現在のお菓子の平べったい丸い缶のようなものだが、それを上下に伸ばすと、結構な長さのちょうちんになり、それを懐中に入れるための巾着袋とセットになっている。手先が器用でコンパクトなものを作り出すことが出来る日本人の特質は、江戸時代からあったのかと、改めて感心したところである。

小田原城天守閣からの眺め



 それはともかく、天守閣の周囲を外の光を浴びて一周できるようになっている。そこを歩くと、相模湾の海やら市街地や山並みが見えて気持ちが良いことこの上ない。これが、一国を領する気分というものかと、少しわかった気がする。秀吉の一夜城の方向が示してあって、ああ、あそこがその舞台かと納得する。それまで、北条氏は、上杉と武田の二回にわたってこの地を攻められたが、いずれも籠城戦法で撃退できた。その成功体験があったものだから、秀吉の小田原攻めに対しても籠城で戦おうとしたのだが、何しろ秀吉は21万人も動員したことから、まったく目算が狂ったということらしい。

北条早雲の像


 小田原駅から東京に帰ろうとして、来たときと同じようにまたJRに乗って東京駅で降りて二重橋駅から千代田線に乗るか、それとも小田急線で新宿駅に行ってそれから帰るかと迷っていたら、少し待てば小田急のメトロ・ロマンスカーがあることに気が付いた。これは、千代田線直通だから、我が家までそのまま帰ることができる特急である。その青い美しい車両に乗り、帰途に着いたというわけである。ちなみに、小田原城の中も、階段を延々と登る必要があった。吾妻山と合わせて、一日に二回も山登りをした気分である。そういう意味では、疲れる休日であった。しかし、三連休の初日であるから、また大丈夫だろう。明日はテニスだから今晩は早く寝ることにしよう。それから、言い忘れたが、小田原の駅ビルで、箱根の富士屋ホテルがやっているレストランがあった。ウェイトレスやウェイターの皆さんは、よく訓練がされているようで、非常に礼儀正しかったし、また食事もホテルのレベルで、非常に満足したことを付け加えておきたい。

小田急のメトロ・ロマンスカー






【参 考】 吾妻山公園についてのHP

 吾妻山公園は360度の大パノラマ。箱根、丹沢、富士山が手に取るような近さに感じられます。南に広がる相模湾は、晴れた日には大島や初島も見ることができます。一面芝生のさわやかな園内は、休日になると家族連れや若者たちでにぎわっています。






翌2011年1月、富士山撮りに再度挑戦したときの記録





(2010年3月21日記)


カテゴリ:エッセイ | 00:24 | - | - | - |
徒然177.愛子様の問題に思う

丸ノ内のチューリップ祭り


 3月5日に、宮内庁の野村一成東宮大夫(69)が定例の記者会見で、皇太子ご一家の一粒種の愛子内親王(学習院初等科2年)が不登校に陥っていることを発表した。あまりにも唐突なことであったし、その直後に学習院側が行った記者会見の内容と必ずしも平仄が合っているわけでもなかったことから、いったいどうしたことかと世間の耳目を引くことになった。

 もとより皇室の、しかも皇族の私生活にかかわる微妙な問題であることから、普通なら外部からはなかなか窺い知れない事柄である。ところが今回の事件は、皇室の竹のカーテンの外にある学習院を舞台にしているので、次から次へと関係者の発言が報道されるに至り、外部の者でも全体像が次第に明らかになってきた。なかでも、3月中旬に週刊朝日(2010年03月19日号)に掲載された波多野敬雄学習院院長(78)の話は、もしこれが正確であるのなら、問題の本質が何だったのかがわかるというものである。それによると、

 「愛子様は、2月の最後の週は微熱が続き、お休みされており、翌週も3月2日の火曜日以外の4日間はやはりお休みとなった。その火曜日は、4時限目の国語のみ授業を受け、給食の前に下校したのだが、愛子様が学校から戻ってきて、やはり『怖い』と口にし、その次の日から行かなくなった。野村東宮大夫や学習院側の説明によると、愛子様が昇降口の靴箱に差し掛かった際に、隣の組の男子生徒が教室から飛び出してきてすれ違い、以前の『暴力行為』を思い出したので、学校に行けない状態である」という。その、以前の『暴力行為』とは、首を絞められたとか、足で蹴られて引き倒されたとか、いろいろな説があって特定できないが、いずれにせよ愛子内親王にはかなりのトラウマとなっている事件だったようだ。

 ご本人は、「学校に乱暴な子がいて、怖いからいやだ」とおっしゃるのである。 そういえば、昨年6月に学習院初等科で、隣の組で男の子が女の子の顔を鉛筆で突いて、その芯が女の子の顔に入ってしまったという暴力事件が起こったことが週刊誌に報じられていた。ところが、今回の不登校は、この件とは関係がないとされている。こうした引き続く事件の発生を前にして、学習院としても対策を講じたというが、それが報じられている通りだとすると、これが誠に生ぬるいというか、見方によっては無責任ではないかとも感じられる対応なのである。


丸ノ内のチューリップ祭り


 週刊朝日の学習院院長の話に戻ると、「騒ぐ児童がいるというので昨年、学習院常務理事の東園基政が初等科を見に行きました。東園から受けた報告によれば、確かに暴れん坊が2、3人おり、それに追従して騒ぐ子どもが数人います。しかし、その男の子らが愛子様や他の子どもをターゲットにしていないことは確認済みです」という。そして院長は、「わんぱく坊主を見て怖がっちゃうような環境で育てられているわけですから、それは学校が直すというよりも、ご家庭で直していただかないといけない。それに合わせて、愛子さまが登校できるようにこちらも協力していきます」と締めくくっている。

 要するに、それくらいのことで怖がるな、わんぱく坊主ならどこにでもいるというのである。しかし、その辺の公立小学校の校長が同じことを言うのならわかるけれども、私などは、あの学習院の責任者がそんなことを言うのかと、二つの意味で驚いてしまった。そのひとつは、学習院の初中等科といえば、成績の優劣はともかくとして、おおむね性格的におっとりとして優雅な振る舞いをする子供ばかりを集めていると思っていたのだが、本当のところは違っていて、中には相当乱暴な子がいないわけではない・・・現に、初等科では同じ学年で少なくとも二名いた・・・という事実である。ふたつには、もともと学習院は、皇族の教育のために設けられた学校だったはずなのに、肝心の皇統直系のお子様が通えなくなるほどの困った状態に陥っているにもかかわらず、すべて本人が悪いと聞こえるような言い方をして、学校自らがその存在意義をまったく理解していないのではないかと思われる節があることである。

 最近、学級崩壊といって、子供が授業中であることや先生のことをはなから無視をして、勝手に歩きまわったり友達どうしでおしゃべりしたりするということが日常茶飯事となっていると聞く。だから、東京在住の親の中には、そういう事態になっている小学校へ自分の子供を通わす羽目になることを避けるため、慶応、青山、学習院のご三家といわれる私立小学校に入学することを目指して「お受験」に励んでいる者も数多くいるのである。なぜなら、公立と違って、私立の場合は学校側がしっかり監督をしてくれていて、子供がそういうことにならないようによく面倒を見てくれるし、万が一の場合は親を呼んで指導もするし、いよいよとなれば問題児を退学させるという最終手段もとり得ないこともないと信じているからである。ところが今回の事件で、少なくとも学習院については、そんな親の期待はとんでもない幻想であることが分かってしまった。

 話によると、去年だったか、隣のクラスが暴力的になってきて担任の先生が抑えきれないというので、特別にもうひとりの先生を配置したところ、それが納まってきたから、普通の体制に戻したというのである。しかし、今回の事件では事件化した後に初めて、おっとり刀で常務理事を初等科へ見に行かせたと言っていることからすると、学校の上層部はそもそも宮様のクラスの状況やその日常のご様子を何も把握していなかったのではないかと思わざるを得ない。最も大事な宮様を預かっているというのに、学校側がその日頃のご様子や周辺の状況を知らないとは、そんなことで済まされるのだろうか。

 その後8日になって、愛子様は母親の皇太子妃の付添いで、4時限目の国語の授業だけに出席されたそうである。本件は、天皇、皇后両陛下のご宸襟をも悩ましているようで、両陛下は学校や他の児童への影響をも懸念されて「いずれかが犠牲になる形で解決がはかられることのないように」とのご意向を示されているそうである。まあ、その「乱暴な」とされた子についても穏便にというご配慮であるが、どのような方法をとるにせよ、学校の問題を解決するのは学校にしかできない事柄なのであるから、学習院としては、今回のことをすべて愛子様のせいにしてしまうような責任逃れはせず、その設立の趣旨に沿って、毅然たる態度で全力を挙げて早期に解決すべきであろう。

 なお、秋篠宮家の悠仁親王は、幼稚園入園のご年齢になったが、学習院幼稚園にはご入学されず、お茶の水女子大学附属幼稚園にご入学されると報じられた。昨年12月3日のことである。その際、学習院幼稚園には3年保育がないからという理由がわざわざ発表された。ところがこの点につき、学習院を選ばなかったのはなぜなのか、上記のこととも考えあわせて、いろいろな揣摩臆測を呼んでいるようである。

丸ノ内のチューリップ祭り




【チューリップの写真】

 『 Tokyo Marunouchi Tulip Fair 2010 』として、丸の内の丸ビルや新丸ビルの前に置かれた約8万本のチューリップの写真である。





(2010年3月20日記)


カテゴリ:徒然の記 | 23:54 | - | - | - |
浜離宮の菜の花

浜離宮一面に菜の花で真っ黄色の風景


 浜離宮菜の花が真っ盛りだと聞いて、お昼の時間に行ってみた。確か5年前の同じ頃だったと記憶しているが、辺り一面に菜の花で真っ黄色の風景は、何回見ても感動せずにはいられない。小さなお子さん連れのお母さんも何組かいらしたが、興奮して菜の花の廻りを走り回る子供を押さえるのに忙しい。子供心にも、これは凄いとでも思っているのだろう。

浜離宮の菜の花


汐留の高層ビル群をバックに浜離宮の菜の花


 菜の花に近づくと、ほのかに甘い香りが鼻にまとわりついて、まるで何かに取り込まれるような気持ちになる。しかし、もう花の盛りは過ぎたらしくて、以前のように花の近くを蜂が忙しく飛び回る時期は終わり、余香を楽しむ時期となったようである。また今年も、そういうお花畑一面の菜の花とともに、そのバックに聳える汐留の高層ビル群を眺める写真を撮った。

白梅と紅梅とが同時に咲く木


 これは、木瓜(ぼけ)の花である。心なしか、頼りない紅白色であるが、真っ赤な色の木瓜もあって、そちらの方ならかなりのインパクトがある。ウィキペディアによると、花言葉は「先駆者」「指導者」「妖精の輝き」「平凡」であるというが、それぞれ相互に矛盾するようで、かなり当たっていると思う。

雪柳(ユキヤナギ)


 これは、雪柳(ユキヤナギ)で、バラ科だという。別名を小米花(こごめばな)というらしいが、その名のとおり、五つの花びらを付けた端正で小さな花が目いっぱいついて、しかも柳の木のように風に吹かれて右や左へと揺れている。遠目では、まるで噴水が広がっているように見えるのが面白い。

馬酔木(アセビ)


 これは、馬酔木(アセビ)である。中学の時に万葉集が好きな国語の先生がいて、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといふなく」という歌[大来皇女、巻2-166]を習ったことがある。刑死した弟の大津皇子を偲んだ歌だと覚えているが、その時、この花には毒があって、馬が食べると酔ったような状態になるから、そう名付けられた、それは亡き弟を偲ぶ時の皇女のほろ苦い気持ちと通ずるものがあると教えられた。鈴のような可憐な美しい形をしているだけに、その比喩は鮮烈な印象として残ったものである。

お伝い橋の方から中島の御茶屋を見る


 お伝い橋の方から中島の御茶屋を見たもので、バックの高層ビル群とは不思議と調和している。江戸時代には、想像もできなかった風景である。中島の御茶屋は、将軍がお客を接待するために作られた施設で、先の戦災で焼失したが、その後再建されたものとのこと。なお、お伝い橋を抜けたところには、富士見山という小高い丘が設けられているが、その名のとおり富士山を観望するための丘であるが、江戸末期には、ここに大砲が据え付けられて、浜離宮全体が庭園から軍事施設化されたという。

潮留の高層ビル群を見る


 ちなみに、以上の説明のかなりの部分は、入口で貸してもらった「浜離宮ユビキタス」という情報端末によるものである。なかなか便利なもので、各説明地点に来ると、その画像とともに、説明のアナウンスが流れるという仕組みになっている。ただ、あまりこんなものに頼り切ると、自分で調べなくなって、かえって物事がわからなくなるのではないかと思ったりする。情報化時代のパラドックスのようなものだ。

乙女椿


 最後に、乙女椿がとても美しかった。きれいなピンク色で、しかも八重咲きどころかダリアの花のように何重咲きにもなっていて、それでいて清楚な感じがする。街路樹としてよく見かけるが、いささかもったいないと思う。



(2010年3月20日記)


カテゴリ:写 真 集 | 00:01 | - | - | - |
高岡・山町筋のひなまつり

高岡・山町筋のひなまつり


 一昨年、山形に行った時、観光案内で「酒田雛街道」といわれる雛祭りがあることを知った。これは、江戸時代に山形は紅花(ベニバナ)の産地として栄え、最上川の舟運を通じて京都・大阪と北前船で結びつき、紅花商人たちが活躍したことによるものという。我々がいまでも親しんでいる舞妓さんの、あの真っ赤なおちょぼ口の紅は、紅花から抽出した染料でできている由。ともあれ、江戸期には質・量とも山形が日本一の紅花産地となり、その最盛期には全国の紅花市場の半分以上を占めたというから、一大産業だったことがわかる。そのおかげで、紅花の公益で巨万の富を築いた豪商も数多く現れたという。

 さて、ここからが今日の本題であるが、最上川流域の町々には、そうした紅花商人たちによって京都から持ち帰って来られた江戸時代の享保雛、有職雛、古今雛などの古い雛人形が、今でもたくさん残っている。3月から4月にかけて、そうした歴史のある雛人形の展示が盛んに行われているという。なるほど、そういう歴史のあるお雛様なら、機会を見つけて一度は見物してみたいものだと思っていた。ところが、山形ではないが、たまたま所用で出かけた富山県高岡市で、同じような雛まつりを見る機会があったので、うれしくなったというわけである。

 先日、越後湯沢まで上越新幹線で行って、そこから「ほくほく線」特急はくたかに乗り、高岡市に到着した。そこで「山町筋のひなまつり」を見物してきたところである。そもそも、高岡について、あまりその歴史は知られていないと思うので、高岡市のHPからその歴史の解説を引用しておきたい。

■開町時の町

 加賀藩2代藩主前田利長公が、「関野」と呼ばれていた荒地に築かれた高岡城に入城したのは、慶長14年(1609)9月13日のことです。公の入城に随従した家臣は430名余り。町民は、富山・守山・木舟の旧城下や美濃・近江・越前等前田氏縁の地より集まった630戸、武士・町民併せても5000人に満たない人々で、高岡町が開かれました。城の周囲や南側に連なる台地上には武家屋敷を配置し、町屋は鴨島町〜京町(旧油町)、片原町〜風呂屋町の一円を約75m(京間40間)四方の碁盤目状に割りふられました。町人は、間口1.5間・奥行17間程の敷地を、藩より無租地として分け与えられました。このような町は「本町」と呼ばれ、旧武家屋敷を借りて町立された「地子町」や、町の周辺部の「散町」とは区分されました。御車山を所有する「山町」10ヵ町は、本町35ヵ町の中心に位置しています。

■城下町から商工業都市への転換

 高岡城は、元和の一国一城令により破却されました。城を失った城下町は、衰退への道をたどるのが常でした。3代藩主利常は、元和6年(1620)に高岡町民の転出を規制し、商業都市への転換を図りました。古城内には、藩米蔵が置かれ、蔵宿や批屋(へぎや)等の多くの商人により米相場が形成されるようになりました。加越能三国では最大の生産量を誇り、江戸大阪まで流通した越中米流通の中心地として、高岡は繁栄しました。また、専売品であった塩や鳥魚類は高岡に集められ、藩内各地へ供給されました。綿・布・鋳物等の生産、流通も町経済の発展にとって忘れることの出来ないものです。

■明治期の高岡

 明治に入ると、高岡町の行政機構はめまぐるしく変遷し、明治16年に富山県の所属となりました。そして、明治22年4月1日には、全国で初めて市制が施行された31都市の一つとして「高岡市」が誕生したのです。明治初期の高岡は人口2万人を越え、商工業都市としてますます発展をとげることになります。明治17年に設立された「高岡米穀取引所」は、名古屋や金沢の米取引にも匹敵する、全国7位の取引高を誇ったこともありました。。銅器産業も、幕藩体制の崩壊により職を失った加賀象嵌師(ぞうがんし)を招いて高級化指向を目指す等、新たな隆盛期を迎えています。明治20〜30年代にかけては、「高岡紡績」や電灯会社の設立や鉄道の開設と続き、日本海有数の商工業都市としての、高岡の位置はますますゆるぎないものとなっていきました。


 ということで、現在は富山県第二の都市となっていて、人口は176,186人、産業はアルミサッシの生産額が日本一、伝統工芸の高岡銅器や高岡漆器などが全国的に知られる。特に江戸から明治にかけて商業が繁栄し、かつては「北陸の商都」となっていた。しかし最近では、モータリゼーションの進展や道路の整備などに伴って商圏の重心が郊外や金沢へと移り、残念なことに市街地には往時のような輝きは見られない。

商業が繁栄した時代の土蔵造りの商家の大店


 かつて商業が繁栄した時代の北陸道沿いには、商家の大店が立ち並んだ。その代表的な通りが山町(やまちょう)筋一帯で、この辺りには明治33年(1900)の大火を契機に建てられた土蔵造りの家が立ち並んでいて、独特な景観を引き出している。関東でいえば、川越のような雰囲気である。>

先祖から長年伝えられてきた豪華な雛人形


 今回の雛まつりは、そうした旧家の家々が、それぞれ先祖から長年伝えられてきた豪華な雛人形を店先に並べて、見物させるという趣向である。古いものでは、享保年間の享保雛から始まって、明治、大正、昭和にかけてのものから、最近のお雛様まで飾られている。雛人形の見物とともに、各土蔵造りの家の店先から、時にはその中まで見学させていただいたが、中は天井が高く、中庭まであって、往時の繁栄振りが偲ばれた。ただ、そういうわけで、各個人の家が手持ちのお雛様を一般に公開するという催しのため、いつ頃の作か、どこの産か、どういう云われかなどということが、ほとんど考証されていないので、学問的な興味に結び付くものではない。

 まあしかし、素人目には、これだけのお雛様のセットを百数十年前に、よく揃えられたものだとか、お雛様の様式の変遷を目の当たりにしていかに今日のお雛様になったのかとか、いたく感ずるところがあった。また、世代によっては大きなセットを買う余裕がない中、それでも小さいながら娘に揃えてやったのだろうと推測できるものが何代にもわたって数多くあったりして、商家の栄枯盛衰の姿が偲ばれるなど、なかなか面白い催しであった。

古くから伝わっている古代雛







 高岡・山町筋のひなまつり( 写 真 )は、こちらから。






【参 考】 山町筋のひなまつり (高岡観光協会HPより)

 3月13日(土)〜14日(日) 山町筋一帯 土蔵造りのある山町筋の家々が、お雛様の町並みギャラリーに変身する。贅を尽くした、長年伝えられてきた豪華な雛人形が店先を彩る。

 土蔵造りの町並み〈重要伝統的建造物群保存地区〉御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町と続くかつての北陸道に残る土蔵造りの家は、明治33年(1900)の大火後の明治から昭和初期にかけ建造された優れた防火建築です。この4町を含め、利長公より御車山を拝領した10町を山町といいますが、毎年5月1日の高岡御車山祭では、これらの町並みを背景に、山車が練り歩きます。

 (交) JR高岡駅から徒歩10分
 (車) 能越自動車道高岡ICから10分




(2010年3月16日記)


カテゴリ:写 真 集 | 00:48 | - | - | - |
| 1/2PAGES | >>