鉄道博物館
鉄道博物館 1階のヒストリーゾーン


 さいたま市大宮区の鉄道博物館に行ってきた。大宮駅からライトレールの埼玉新都市鉄道ニューシャトルで次の駅が、鉄道博物館駅である。とても行きやすい。しかも、入館も館内での買い物もSuicaでよいから、さすが鉄道ファンゆかりの地というわけである。

 1階のヒストリーゾーンでは、明治の創業期の1号機関車と弁慶号に始まって、大きな敷地の真中には蒸気機関車C57がある。これが置いてある場所が転轍台となっていて、これを中心として放射状に、年代別の機関車、列車、電車が置かれている。それをひとつひとつ見て回ると、実に懐かしい列車が並んでいて、遠い昔にタイムスリップした気分になる。それを見透かしたかのように、転轍台を回転させると同時に、蒸気機関車C57の汽笛の音を聞かせてくれるという、心憎いサービスまである。ボッ・ボーーッというその大きな音を聞いていると、私の心は、かつて少年だった頃の日々に戻っていく。

 もう半世紀も前のことになるが、私が小学生の頃に、一家そろって神戸から北陸に引っ越したことがある。その時に乗った北陸本線の汽車は、蒸気機関車だった。とても大きく感じたので、D51つまりデゴイチだったかもしれない。客車の中は板張りで、シートは緑色であった。長く座っていると、お尻が痛くなるシロモノである。列車はシュッシュッポッポと順調に走り、米原駅を過ぎて福井県に入った。

 ほどなくして、誰かが「トンネルに入るぞーっ」と叫んだ。それを合図に周りの人たちは、バタバタと音を立てて窓を閉め始めた。しかし、我々一家は、何のことやらわからずに、ぼんやりしていた。そうこうするうちに、列車はトンネルに入ってしまった。そのとたん、開け放っていた我々の座席の窓から、蒸気機関車のモクモクとした黒い煙がどんどん入ってきた。ああ、これは大変だとおろおろしていると、周囲の人から「何してるー!」と怒られた。父が慌てて窓を閉めたのだが、閉め終わってホッとしてお互いの顔を見合わせると、煙の煤で黒くなっていたので、大笑いをしたことを覚えている。

 私が中学生の頃に、これまた一家を挙げて名古屋に引っ越しをしたが、今となっては、蒸気機関車で行ったのか、それともディーゼル機関車あるいは電気機関車だったのかは、定かには覚えていない。でも、その頃から、鉄道の電化が進んでいたし、完成したばかりの北陸トンネルを通って、いやこれは長いトンネルだなぁと感心した記憶がある。その割には、煙で臭い思いをした覚えはないので、おそらく既に電気機関車だったのではないかと思う。

団子っ鼻の初代の新幹線車両


 東海道新幹線が開業したのは、私が中学3年生のときであるから、高校時代には、これに乗って大学入試を受けに行った。私は学生だったから、気楽な学生服姿だったが、その当時は、今日の人がよく着ているような、それこそよれよれの普段着とは違って、人々は一張羅の「ハレ」の衣装を身につけて乗っていたものである。新幹線が走り出すと、景色がビュンビュンと音を立てるがごとく、次から次へと後方へ飛んでいく。時あたかも日本は高度経済成長の真っただ中である。そういう時代の高揚感も手伝ってか、「ああ、僕は時代の最先端にいるんだ。よし、やるぞ!」という気がしたものである。あるいはカラ元気だったかもしれないが、そんな風に私を妙に元気付けてくれた団子っ鼻の初代の新幹線車両は、つい最近まで山陽新幹線を走っていたようだ。しかし先日、とうとうリタイアしたそうである。心から御苦労さまと申し上げたい。

 当時はやったクイズで、「あの団子っ鼻の丸いドームの中には、何か入っていますか? (1)非常用ライト、(2)衝突防止のレーダー、(3)列車連結器、(4)通信機器、の四つのうち、さてどれでしょう」というものがあった。私も含めて、皆、間違ったものである。(答えは、このエッセイの最後に)

 大学時代には、寝台特急「日本海」で、京都から日本海沿岸を通り、青森を経て、北海道の旭川まで大旅行をしたのが、良い思い出である。この寝台特急「日本海」には、上中下三段のベッドがあったが、学生だった私は、もちろん一番安い最上段で旅行した。日中は最下段のシートを普通の座席として3人で使い、夕闇に包まれてからさあ寝ようというときに、上二つの折りたたまれたベッドを前方に倒して設え、金属の梯子で登っていくというものである。ところが、最上段のベッドが一番狭い。幅が40センチそこそこだったのではないだろうか。私は背が高いし、体が大きいので、それにもぐり込むのに、ひと苦労だった。縦に2本のヒモがあるので、乗客が落ちないようにはなっているが、それでも気になる。だから安いのかと、納得したものである。そういうわけで、ようやく身を横たえてから、青い色のカーテンを閉めて、寝付くというわけである。

寝台特急「日本海」の寝台


 ところが、夜中にキヤーッという女の悲鳴があがった。何事かとカーテンの隙間から覗いたところ、どうやら自分のベッドで酒を飲んだ酔っ払いが、カーテンに隙間から手を入れて、お嬢さんが寝ている向いのベッドにちょっかいを出したらしい。車掌さんが駆けつけて、女の人の話を聞き、「それでは、こちらへどうぞ」と言って、別のベッドに誘導していった。誠に手慣れたものである。きょうび、こんなことをすると、素面だろうが酔漢だろうが、強制わいせつ罪で捕まってしまうところである。昔は、おおらかというか、いい加減というか、のんびりした時代だったものだ。その寝台特急「日本海」の車両が、鉄道博物館に並んでいた。おお懐かしい、あの濃いブルーの車体と上中下三段のベッドが眼前にあるではないか・・・。

「おぎのや」の「峠の釜めし」。おぎのやHPより


 東京で仕事についてからも、北陸地方の親類を訪ねるために、私はときおり、特急白山号に乗って、信越本線を経由して北陸まで行ったものである。6時間半の長旅である。途中、碓氷峠を越えるために横川駅に停まって機関車を増結するのだが、そこの名物である「おぎのや」の「峠の釜めし」を買うのを楽しみにしていた。あるとき、私の家内となる人に、この釜飯をお土産に差し上げたら、なんとまあ、その容器(益子焼)を、ついこの間まで料理の廃油を入れるために使っていた! 旦那も含めて何でも大事にして、その扱いの良いこと、この上ない・・・。この点だけは、私の眼力に狂いがなかったと、ひそかに自慢できるところである。

 それやこれやで、私のような年配の者には懐かしい限りの車両などに対面するところであるが、全国の鉄ちゃん、鉄子さんには、むしろレア・グッズの鉄道部品を見たり、シミュレーションや模型ではあるが運転するのを楽しむところらしい。特に、SLつまり蒸気機関車の運転は、なかなか臨場感があって傍で見ていても楽しい。シミュレーションの画面を見物していると、ド田舎を思わせる緑豊かな路線を走っていて本物そっくりである。しかし、それもつかの間で、そもそもSLの力は坂道では強くないし、線路が山中の狭いところを通るから、運転は苦労の連続のようである。そこを、プォーッ、プォーッと汽笛の音を鳴らしながら、ガタンゴトンと走っていく。ときどき運転席がガタガタと大きく揺れて、それがいかにも本物らしい。しばらく、見とれてしまった。

八戸の「いいとこどり」弁当


 お昼を過ぎたので、どこかで食事をしようと思ったら、例の日本食堂があって、かつて出していた懐かしいメニューを用意しているという。しかし、たいそう混んでいたので、そちらに並ぶのをやめて、ふと見かけた駅弁屋にした。私は、八戸の「いいとこどり」弁当、家内は「おぎのや」のものではなかったものの、釜めしを選んだ。それで、食べるところといえば、さすがに鉄道ファンが集うところだけあって、その近くに横付けされた本物の特急列車の中なのである。4人掛けの座席に向かい合って座り、お弁当を開け、しゃべっていたら、あっという間に時間がすぎた。「こんなことなら、どこかへ本当に旅行に行けばよかったね。高崎とか、熱海とかに鈍行で行って、車中で駅弁を食べているのと、何が違うんだろう・・・?」といいながら・・・。

 そのほか、ジオラマの中で模型電車を動かすコーナーもあって、たいへんな人だかりがしていたし、実際にミニシャトル電車を運転させるところすらあった。屋上に出てみると、左手に上越新幹線とライトレール電車が走り、右手は在来線の湘南新宿ライナーやら京浜東北線の路線である。もちろん、こちらには本物の電車がガタンゴトンと音を立てながら次々に通り過ぎていく。屋上に置かれた表示には、ちゃんとその通り過ぎる各電車の色や形や名前が、図鑑のように親切に書かれている。いやいや、これは鉄道マニアには、たまらない場所なのだろうなと思った次第である。

 帰り際に、ミュージアム・ショップに立ち寄ったが、これがまた妙なマニア向けの品物ばかりだった。たとえば、東京の山手線の電車の発車を知らせる8種類の音が入っている目覚まし時計とか、各駅の名前が入ったSuica入れとか、ブルートレイン北斗星のロゴの入ったキーホルダーとか、電車の形をしている貯金箱でお金を入れるとチャリーンという音の代わりに電車の発車音がするものとか、それこそいろいろだ・・・。きょうは本当に妙な一日であった。








【新幹線の団子っ鼻の正解】 (3)列車連結器





(2009年2月28日記)




カテゴリ:エッセイ | 23:17 | - | - | - |
伊豆下田と河津桜
河津桜に集まるメジロ


 2月21日の土曜日となった。かねて予約しておいた伊豆旅行の日である。季節がら寒いのは寒いが、幸い、天気はとても良い。朝も早くから家内とともに、東京駅発の踊り子号に乗った。古臭い車両で、「あれあれ、こんなに古かったっけ・・・もっと近代的な車両だったはずなのに・・・」と驚くほどである。「これじゃ、われわれが乗った半世紀近く前の修学旅行の列車そのものだね」と言いつつ、指定された席に行く。後から調べてみると、この日の臨時増発電車だったらしい。

 その古臭い踊り子号の電車は、大船、熱海、伊東と順調に進んで行って、伊豆急の線路の狭い区間に入った。いつもながら、「こんな狭いトンネルだと、そのうち電車が接触するのではないか」と心配するほどだ。もっとも、そんなことを思って早や40年ほど経つが、幸いそのような事故は発生していないようだ。しかし、人間の直観というものは、あまり馬鹿にしてはいけない。

 私は、18歳の頃に上京し、日比谷線の中目黒駅から都心方面に向けて、地下鉄に乗ったことがある。そのとき、地上2階の高さにある中目黒駅を出た直後、トンネルに入る直前に、急に曲がる区間があった。乗っていると座席から外に向かって放り出される感覚があった。その帰りも同じように揺れたので、これは危ないと直感したことがある。それから33年後の2000年、案の定というか、やはりというか、まさにその場所で脱線事故があった。5名の方が亡くなられ、64名の方が重軽傷を負ったそうである。

 しかし、幸いこの伊豆急では、未だトンネルにぶつかったという話は聞かない。それどころか、下田に行く途中では、黒船列車なるものとすれ違い、まあその、なんというか、リゾート風の車体の造りに感心した。単に黒い塗装をしている展望車というだけでなく、ベンチ式の座席が、すべて海側に向けて設えてある。車両下に赤いラインがあるが、これは、確か本物の黒船もそういう赤い線が舷側に描かれていたようなので、そこから来ているらしい。この黒船号はなかなかの人気らしくて、オンラインのジグソーパズルまである。ただし、やってみると、頭が痛くなった。どうも私は、向かないようである。



寝姿山頂からの眺め




 また伊豆急での旅の話に戻るが、当初は、河津桜を見に行くつもりで河津駅まで切符を買っていたのだが、乗っている途中のアナウンスで、そこから下田までわずか10分ということを知った。そこで急遽、目的地を変更して・・・こういうところが、お仕着せの旅でないところの良いところ・・・下田で降りることにした。ほどなく伊豆急下田駅に到着した。そこで船に乗ろうか、ロープウェイにするかと迷った末、風が強そうなので、船で酔ったら困ると思い、寝姿山のロープウェイを選んた。出発点は駅のすぐ前で、わずか数分で山頂に到着。眼前にはすばらしい眺めが広がる。大きく切り込んできている下田湾が一望の下にある。往時、ペリー提督率いる黒船艦隊は、この湾を一杯にしたらしい。この寝姿山に幕府の黒船見張所が置かれたのは、さもありなんという気がするが、それにしても当時の幕府の官吏は、この近代的な海軍力の前に、さぞかし無力感に襲われたのだろうと思う。



下田湾に集結したペリー艦隊




 ひとしきり下田港と、その向こうにある大島、利島、式根島などを眺めてから、寝姿山頂上に向かう。途中の遊歩道には、美しい色々な花が植えてあり、よく手入れがされていた。頂上には「縁結び」の 愛染堂というお堂があって、御本尊の愛染明王はもともと鎌倉八幡宮境内にあったらしいのであるが、数奇な運命を経てここに収まったという。今や愛敬開運の神様として現代版になっていて、その絵馬は在来型だけでなくハート型のものまである。



下田『雑忠』の「なまこ壁」




 その寝姿山のロープウェイを降りて、有名な「なまこ壁」の家々に向かった。須崎町をちょっと回っただけだが、石原家や、鈴木家雑忠(さいちゅう)を見た。観光協会のマップによると、「なまこ壁が使われたのは江戸時代のことで、度重なる大火の延焼防止策として旗本屋敷の外側に使ったのが始まりで、参勤交代によって全国に広まった、ここ下田では、安政の大津波(1854年)で壊滅的な打撃を受けた後、下田復興に当たり外国に対して恥ずかしくない美観と防火のためにと、幕府が奨励した結果、多くの建物になまこ壁が使われた。鈴木家雑忠(さいちゅう)は、もともとは和歌山から移住した雑賀衆(さいがしゅう)が先祖で、鈴木家は代々『忠吉』名を世襲したので、屋号が『雑忠』といわれる。江戸時代から廻船問屋として栄え、下田奉行所の取次をする船改めの世話役だった。」とのこと。その他、下田には下田条約締結の地である了仙寺、初代アメリカ領事館が置かれた玉泉寺などがある。そんなところにも、いろいろと行ってみたかったが、何しろ電車の時間が迫っていたので、そのまま足早に下田駅に向かった。



今井東急リゾートの極楽鳥




 下田駅から、来た道を普通電車でまたもどり、河津を通り越して今井浜に向かう。ここは、夏は海水浴場で有名だが、この季節は海岸以外は何もない。駅近くの東急リゾート・ホテルに着いた。客室はベランダが外へ丸く張り出して、ペナンで泊まったホテルを思い出させるような、典型的リゾート型である。もっとも、ここは日本だから、スイミング・プールはあるが、もちろん今は使えない。でも、庭に熱帯の極楽鳥花(ストレリチア・レギーネ)がそのまま植えてあり、しかも大きく咲いていたのには、びっくりした。浜辺は美しかったが、この時期であるから、夏の賑わいの片鱗もなくて閑散としていた。この下田東急リゾートの昼食は、バイキングで、これがまた結構おいしい。洋食を選んだが、まあ色々と食べてしまってお腹がいっぱいになった。しかも最後のデザートの中には、ケーキにまじって桜餅があり、季節柄なかなか気が利いていた。



河津桜と菜の花




 そのあと、隣の駅の河津に向かった。いうまでもなく、河津桜を見に行くためである。駅に着くと、満員電車を思わせるような混雑である。その人並みを縫うようにして河津駅から5分ほど歩くと川があり、この川岸に桜が数百本も咲いている。それだけでなく、川の土手の斜面に菜の花が一面真っ盛りである。だから、晴れていたので空が真っ青、目の前にはピンクの桜、その下には黄色の菜の花という組み合わせで、それ自体はとても美しい。しかし、上野公園の花見を思わせるような大変な人出である。加えて道端には焼き栗やら、海産物やら、はたまた串団子などを売る店がずらりとあり、まるで神社の縁日といった風景である。少し歩くと、人並みに揉まれ揉まれて、家内ともども疲れて果ててしまった。



河津桜に集まるメジロ




 そうこうしているうちに、人並みが比較的少ない海岸の方に向かっている途中、人々が上を向いてカメラを構えている。興味しんしんで近づくと、上からチッチッという鳥の声がした。その方を向くと、薄緑色の小さな鳥がいる。目の周りが白いので、メジロのようだ。私もデジカメを構えてシャッターチャンスを狙う。7倍の望遠で眺めると、画面に収まってちょうどよい。しかし、鳥の動きが激しくて、小さなデジカメでは、その動きをなかなか捉えることができない。メジロは、いきなり飛んできてチョンと枝に留まり、上下左右に首を伸ばして桜の花の蜜を吸ったあと、すぐにパッと飛び出していく。まさに瞬間の勝負であるが、何とか数枚は、絵になる写真を撮ることができた。そして、たまたま飛び立ったメジロを見送ったあと、ちょうど同じ枝に別のメジロが留まったので、そのビデオを撮ることにも成功した。このビデオも、よく映っている。短いものだが、帰りの車中でも、それを繰り返すように見て、大いに満足した。今日という日は、とても良い日だった。









 河津桜とメジロ (ビデオ)は、こちらから。 

 伊豆下田と河津桜(写 真)は、こちらから。









【河津桜の由来】

 緋寒桜と早咲きの大島桜の自然交配種で、その特徴は、開花期が早く、花も大きく良く開き、1月下旬からつぼみがほころびはじめ、3月上旬まで淡いピンクの花を咲かせる。その原木は町内田中の民家の庭先にあり、町名にちなんで河津桜と名付けられた。(川端の掲示板より)




(2009年2月21日記)


カテゴリ:写 真 集 | 22:23 | - | - | - |
徒然129.自衛隊用語辞典

平成24年 観艦式にて



 防衛省の元広報誌で、今は民間の会社が発行している「マモル」という雑誌がある。確か、以前はセキュリタリアンと言っていたと記憶しているが、昨今の行政改革で広報誌全廃のあおりを受けたものとみえる。

 それはともかく、その雑誌が、普通のお堅い法律雑誌に交じって、どういうわけか、私の下にも届けられてきている。判例批評を読むのに飽きたようなときに、ちょっと目にすると、ときどき面白い記事が載っている。今回の白眉は、「自衛隊用語辞典」なるものである。

 残念ながら今のところ自衛官の友人はいないが、将来、知り合いになる機会があるかもしれないので、そういう場合に備えて覚えておくと便利だと思って、ここに記録しておきたい。自衛隊用語をまず書き、その下に意味を掲げておく。はてさて、このうち何割わかるだろうか? そういう私の正答率は、(4)と(9)と(10)それに(11)で、わずか3割少しだった・・・。


【自衛隊用語】

(1) 「今日の昼休み、F作業をしようぜ」
(2) 「今の安月給では、マイホームを買うというO/Cはありえない。」
(3) 「週末は、家で甲板掃除をしていました。」
(4) 「中村2士は、熱発就寝(ねっぱつしゅうしん)で、点呼に出られません。」
(5) 「今日の会議は、その前に一つ用件を終えてから追及します。」
(6) 「駐車も出船(でふね)の精神で!」
(7) 「早足! 進めぇーっ!」
(8) 「ちょっと、早飯してくる。」
(9) 「このたびは、ご結婚ありが・・元へ、おめでとうございます。」
(10) 「面舵(進行方向右)いっぱいーっ・・・宣候(ようそろーっ)!」
(11) 「田中さんは、旭川で奥さんを現地調達したらしい。」


【用語の意義】

(1) Fとは、Fishingの意で、何事も作業といってしまう自衛官の真面目さから来ているらしい。
(2) O/Cとは、our course of actionの意で、わが行動方針をいう。米軍用語から来ているとのこと。
(3) 海自では、どこを掃除するにも、甲板掃除といい、陸自と空自では、これを環境整備という。
(4) 熱を出して、寝ていることをいう。
(5) 後から遅れて行くことをいうらしい。
(6) 何で駐車と船とが関係あるのかという気がするが、これはもともと旧海軍で、港に帰ってきた船を再び出航しやすいように反転させて泊めることをいう。転じて、臨機出動の実務家精神のことをいう由。
(7) 今から走り出すのではなく、なんと駆け足をしている部隊に対して歩くことを命ずる場合にこういうらしい。
(8) 高校などでよくやった早飯ではなく、当直勤務者などが許可を得て喫食時間前に食事をとること。
(9) 言い間違ったようなときに、それを訂正する掛声。自衛官出身とわかる。
(10) 面舵をとったあと、「宣候」は指示された方向へそのまま進めの意で、「よろしくそうろう」が縮まったもの。
(11) 出身地から遠く離れた赴任地で、奥さんや旦那さんを見つけることをいう。まあ、これはわかりやすい。



(2009年2月19日記)


カテゴリ:徒然の記 | 19:25 | - | - | - |
星雲NGC2818


 最近、この写真を私のパソコンの壁紙に設定して、毎日飽きずに眺めている。これは、昨年11月に、NASAのハッブル宇宙望遠鏡がとらえた散開星団内にある惑星状星雲NGC2818の姿である。羅針盤座(constellation of Pyxis)の方向、約11万光年の距離にある。

 ところで、これは何の写真かというと、太陽程度の恒星がその核融合の燃料を使い果たして爆発を起こし、そのときに広がったガスなのである。周囲の赤は窒素、良く目立つ青は水素、中心部にわずかに見える緑は酸素であるという。その中心には、爆発した恒星の残骸があるらしい。

 宇宙空間のガスが重力で凝縮した原始星は、徐々に収縮して中心の温度が上昇していく。その温度が1000万Kを超えた頃、水素原子がヘリウム原子へと変換される核融合反応が始まる。これで大きなエネルギーが発生するので、星の収縮は止まり、いわゆる主系列星となる。主系列星では、核融合反応によって生じる外へのエネルギーと、重力による内への収縮の力が釣り合って、星としての構造を長期間にわたって維持している。この状態は、星の中心にある水素が枯渇して、ヘリウムの核ができるまで継続する。このヘリウムの核は核融合反応が進行するにつれて大きくなっていき、それに連れて温度が上がる。そうなると、星の外層にある水素が膨張し、それに伴って星の表面温度は逆に低下していって赤色巨星となる。これは、外層が膨張した巨大な赤い恒星である。

 われわれの太陽は、約50億年後にこのような状態となり、太陽の外縁は今の金星の軌道程度にまで拡大する。そして外層がさらに膨張して温度が下がるが、その一方で中心核はどんどん核融合が進み、窒素や酸素などの重い元素が形成される。そうなると、太陽は外層のガスを一挙に放出して、この写真のような惑星状星雲を形成する。そのとき、中心核は、小さく収縮して高密度になり、もはや核融合を起こすことができなくなって、いわゆる縮退物質が残る。これは、白色矮星と呼ばれる。この白色矮星は、徐々に熱を放出していって、極めて長い時間をかけて、黒色矮星になっていくという。

 ちなみに、質量が太陽の8倍以上の恒星は、中心に鉄が生成し重力崩壊を起こして超新星爆発を引き起こす。これが、下の写真にあるケプラー超新星の残骸である。これは、凄まじいばかりに、ちりぢりばらばらになっていることがよく見てとれる。しかし、それほどの質量がないわれわれの太陽は、これほどひどい爆発には至らないが、それでも遠い将来には、これに近いお姿になるらしい。

ケプラー超新星の残骸


 ははぁ、冒頭の写真は、われわれの太陽の50億年後の姿というわけか・・・。イギリス映画のドクター・フーのように、タイムマシンで50億年後の未来に一挙に飛ぶと、このような風景が眼前に広がるらしい。地球はというと、すでにその前に、赤色巨星となった太陽に呑み込まれてしまっていて、この青や赤のガスのごく一部となっているはずだ。

 ひょっとして、この惑星状星雲NGC2818の元となった恒星にも岩石でてきた惑星があり、しかもそれが生物の生存に適した距離を公転していて、水と酸素が豊富で、たくさんの種の生物が育まれていたとしたら、どうなっていただろうか・・・。巨大な星となったその恒星にすべて呑み込まれて炎上し、散り散りばらばらとなってガスとなり、それがこうして赤や青に輝いてわれわれに届いているのかもしれない。もし知的生命体がいたとしたら、どうなったのであろうか。気になるところである。

 これから50億年後(※)まで、人類が生存していたら、その爆発炎上の前に、他の星系へ大脱出しようと試みる違いない。いや、未来の人類は絶対に脱出を敢行して、無事に他の星に到着するものと信じたい。それにしてもこの写真、特に青色が美しいなあ。これは水素だし、もっと中心に近いところには緑だから酸素がある。あっ・・・もしかすると、これが地球型惑星の残骸だったりして・・・。 




(2009年2月17日記)







(※) 50億年後の太陽と地球

 なぜ50億年後かというと、本文で述べたようにその頃には恒星としての太陽は、核融合の燃料である水素やヘリウムを使い果たして赤色巨星になるといわれている。そして終いにはその体積が急膨張して、地球の軌道にまで達するという。そうなると地球は、当然のことながら燃える太陽に飲み込まれる。つまり、「天が崩れ落ちてくる」のではなく「天が火を吹いて全部燃え尽きる」というのが、現在の天文学の知見である。

 NGC 2818の姿は、その50億年後の太陽の姿である。太陽と同じくらいの質量を持つ恒星が、水素やヘリウムを燃やす核融合を終え、その終わりにガスを爆発的に放出する。このガスは、数万年かかって徐々に薄れていき、中心に残る恒星の残骸は、数十億年の間には冷えて白色矮星となるという。




(出 典)アストロアーツ・Hubbleより
カテゴリ:表紙の写真 | 21:14 | - | - | - |
徒然128.ヘイ・フィーバー

 2月も半ばとなったが、道行く人の中には、鼻と口をすっぽりと覆う大きなマスクをしている人がやけに目立つ。「あれあれ、おかしいなぁ。去年の12月は、インフルエンザが流行ったので、それ用のマスクをしている人が多かった。でも、今年に入ってその数はかなり減ったはずなのに、また増えてきた。これは一体どうしたことだ?」と思っていたら、私のテニス仲間の友人が、顔をくしゃくしゃにしながら、「また花粉の季節が来ちゃったよ」という。見ると、充血した目からは涙、鼻からは鼻水、それらを拭う間には、大きなくしゃみを2〜3発と、みるからに気の毒である。人によって、2ヵ月間ほどで治るというケースもあれば、自分は夏までこんな調子だという人もいるから、不思議である。影響を受ける花粉の種類が違うのかもしれない。

 そういえばこの頃、外を歩くと、どういうわけか、顔の表面がねっとりとした感じになり、それが何かはわからなかったが、頬に何物かが軽く当たる気がしてむずむずする感覚がしていた。私は、外を歩いた後で家に帰ったりオフィスに戻ったりすると、必ず真水で顔を洗うのを習慣にしているが、とりわけ近頃では、そうして顔を洗った後は、幾らかすっきりした気分になる。ああ、これが花粉かと気がついた。

 実は、私は花粉症ではないが、家内や息子が花粉症で、いつもこの季節には、見ていて可哀そうになる。それでも最近は、良い薬と治療法が開発されたようで、以前に比べれば、症状がとても軽くなった。もちろん、完璧とはいえないまでも、ほとんど日常生活に支障がないまでになったようで、たいへん良かったと思う。

 花粉症は、イギリスのヘイ・フィーバーHayfever)と同じで、植物の花粉が一斉かつ大量に飛んで空中に漂い、それを人間の免疫機構が異物と判断して、これと闘う免疫物質を出すから生じるという。ヘイ・フィーバーの場合は、Hayつまり牧場の干し草となる芝草から同様に出る花粉などが引き起こすものであり、自然の草地を一斉に人工的に芝草へと替えてしまったからである。

 日本の場合は、戦後に人工的に植林した杉の木から出る花粉が主因である。もちろん、そのほかにブタクサなど他の植物の花粉が原因となる場合もあるようだ。今年は去年の夏の気温が高かったせいもあって、飛ぶ花粉の量は去年の倍以上とのこと。人間の力で自然をいじったりするから、こんなことになるのだという自然からの警鐘かもしれない。

 花粉症は、結局はアレルギー反応なので、長い間アレルゲンに曝されると、それに対する抗体が体の中で徐々に蓄積されていき、それが一定の閾値(いきち)を超えると、発症することがわかっている。だから私の場合、なにしろアラカンの歳だから、もうすでに相当、抗体が出来ているはずなので、この時期は、なるべくその数を増さないように注意している。たとえば、外に出るときは可能な限り車や電車を使い、道を歩くときはできるだけ地下鉄や建物のトンネルを利用し、ゴルフをやめてテニス、それも室内でプレーするなど、外で吹く自然の風に長く曝されないようにと気を付けている。また今年もそうしなければ・・・、いやいや、面倒なことだ。

 私の友達の中には、三度の飯よりゴルフが好きという手合いが多くて、季節を問わず土日は必ずゴルフ・コースを歩くという人もいる。しかし、こういう人は、この季節にそんなことをするなんて、まるで花粉症にかかったり悪化させたりしに行くようなものだと思うが、好きなゴルフの方が勝るというわけか・・・。はてさて、まったくもって、御苦労さまというほかない。




(2009年2月16日記)



カテゴリ:徒然の記 | 19:10 | - | - | - |
鎌倉大仏と長谷寺
国宝銅作阿弥陀如来坐像、通称鎌倉大仏


 東大大学院での私の教え子のひとりが、鎌倉で結婚式を挙げるというので、その宴に出席した。午後4時からということだったから、その前に、鎌倉大仏と長谷寺を見に行こうとして、早めに出かけたのである。私は鎌倉へ観光に出かけるときは、いつも北鎌倉で電車を降りて、円覚寺、東福寺(それに先日は長寿禅寺)、建長寺を回り、そして鶴岡八幡宮に至るというルートが多い。だから、更に進んで鎌倉大仏まで足をのばそうとすると、日も暮れかかかってきて誠に慌ただしいということが多い。ところが今回は、最初から長谷の近くに行くので、ゆっくり見られるというわけだ。


国宝銅作阿弥陀如来坐像、通称鎌倉大仏


 江ノ電に乗って、のんびり行くというのも面倒なので、鎌倉駅からさっさとタクシーで目的のホテルに乗りつけて式服一式を預け、その同じタクシーで来た道を引き返して大仏に着いた。2月の半ばだというのに、とても温かい日で、気温は24度という小春どころか初夏の陽気である。その中で、青く澄んだ空の下に、鎌倉大仏が鎮座ましましていた。真横一線に並んだすずやかな目、アルカイック・スマイル風にほほ笑む唇、そして豊かな頬・・・どの方向から見ても、美しい。なるほど、与謝野晶子が、「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は、美男におわす夏木立かな」と詠んだのは、むべなるかなと納得した。


国宝銅作阿弥陀如来坐像、通称鎌倉大仏


 ところで、こちら高徳院の参拝券によれば、この国宝銅作阿弥陀如来坐像、通称鎌倉大仏は、1252年(建長4年)から10年前後かけて造立されたそうである。この坐像全体を覆うものとして、奈良の大仏のような大仏殿が元々あったようであるが、1334年と1369年に大風で損壊した。それ以来、仏殿は再建されずに、今に至っているらしい。つまりは、野ざらしのまま、640年も経っているようだ。その間、台風だけでなく、大地震あり、津波あり、そして大小の戦火ありと、幾多の天変地変や人災を乗り越えて来たが、ひたすらこのほのかな笑顔でたたずんでいたということになる。

 鎌倉大仏の裏に回ると、胎内に入れてもらえる。やっとすれ違えるほどの狭い暗い階段を少し登れば、そこはもう空洞となっている大仏の御体の中で、頼朝の守り仏や祐天上人像が見られる。目が慣れるまでしばらく見渡していたが、その銅の体の裏に当たるところを掌でちょっと触ってみた。すると、けっこう熱かったのには驚いた。外から燦々と照りつけてくる日光のせいであろう。大仏の歴史ばかりが我々の脳裏に浮かぶが、それだけでなく、創建以来640年間もこんな天候の変化をその身にまともに受け続けてきていたとは、大変な人生・・・いや仏像の一生である。


海光山慈照院長谷寺



 次いで、雑踏中の人の流れをかき分けるようにして、長谷寺に向かった。こちらは、正式には海光山慈照院長谷寺といい、その開創は聖武天皇の時代の天平8年(736年)というから、そんなに古いとは思わなかった。本堂には、長谷観音が鎮座していて、高さ9.18mの木造という。まだ早春なので、境内には梅が咲き始めたところだが、ここから見下ろす由比ヶ浜の海岸と鎌倉市内の景色は、実に雄大で、気持ちのよいものだった。


海光山慈照院長谷寺


 というわけで、長谷地区を見物して良い気持ちになった後に、結婚式場に向かったのである。新郎は警察官で、最初は紋付き袴姿だったが、文金高島田姿の花嫁さん・・・これがまた、美しい人だった・・・のお色直しに合わせて席を外した。そして、次に花嫁さんのイブニング・ドレスと一緒に現れた姿を見て、出席者一同、口を開けてあんぐり・・・。第一種礼装とか何とかいうのではないかと思うが、制帽に金のモールを付けた、お巡りさんのあの正式な礼装姿だったからである。落語ではないが、これが文字通り、本日の「落ち」となった。


(参 考) 国宝銅作阿弥陀如来坐像の台座を含む総高13.5m、仏身高11.3m、重量121t。





(2009年2月14日記)



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徒然127.バレンタインの日
季節や素材のイラスト市場さん作


 2月14日はバレンタインの日である。アメリカでもヨーロッパでも、それに東南アジアの英語圏の国でも、諸外国ではどこでも、男性が意中の女性に対してお花を送り、夕食にお誘いするというのが定番である。ところが、どういうわけか日本ではその逆で、女性から男性へ、それも花ではなくてチョコレートを贈ることになっている。しかも相手といっても、本命のほか、無理して上司などにも送る義理チョコなるものすらあったりする。いったい、何なんだこれは! この妙な習慣には、正直いって、まだ違和感が残っていてなかなか慣れない。

 これに比べれば、節分の恵方巻きの方は、他人を巻き込まないという意味では、まだ罪が軽い。まあしかし、結局はその本質というものは、節分の恵方巻きもバレンタインの日と同じようなものである。恵方巻きの方は、太巻きにかぶりつくような、あんな行儀の悪い行事はしなければよいのにと思うが、関西から始まっていつの間にやら関東まで席捲されてしまっている。

 話は戻るが、今年のバレンタインの日は土曜日なので、その前日の金曜日、そろそろ来るなと思っていたら、私のオフィスの女性陣が4人ほど揃ってやってきた。そして、かわいいピンクの箱に入ったチョコレートを恭しく差し出してくれた。それをお礼を言って、有難くいただいたというわけである。例年は、翌月になってからその全員を食事に誘っていたものだが、今年の私は現在ダイエット中で、豪華なものを食べる気が全く失せている。そこで、どうせなら、それに代わるおいしいものをということで、堂島ロールを食べてもらおうと思い、三越に出かけた。

堂島ロール


 銀座三越の地下に着いて、案内嬢に聞くと、「中央のエレベーターの裏手にありますが、ただいま、長い列が出来ておりまして、お並びいただくことになると思います」とのこと。「本当かなぁ、あんなケーキごとくで・・・」と思いつつ、現場に行ってみると、ああー、これはとびっくり仰天した。売っているお店自体は小さな小さなものなのだが、そこに並んでいる人の列の長さといったら・・・ずーっと続いていって、何とまあ、エレベーターを一周しているではないか! たぶん、100人ではきかないだろう。ああ、驚いたの何のって・・・。同じことを考えている人が、結構いたということか・・・。

 それで、どうしたかというと、その近くの売り場で、そんじょそこらでは売っていないような、とても豪華な感じのフルーツ・ケーキのロール巻きを見つけた。それを2本、買って帰ったのである。女性陣は、「わぁーっ、かわいい」と言ってくれた。心から、そう言っていただいたものと信じて、今年のバレンタインの日は、無事にやり過ごすことができたのである。




【後日談】 ブランデー入りのチョコ

 以上のような次第で、職場の女性陣からチョコレートの入ったかわいい箱をいただいた。それを家に持ち帰り、テーブルの上で、包装を解いていたときのことである。まず、リボンを外し、立方形のピンクの箱をとると、そこには、4個のチョコレートが上下2段に分かれて入っていた。ハート型のもの、ピーナッツのカケラや赤白黄色の丸いビーズみたいなものがまぶされているものやら、何の変哲もない四角いものやら、いろいろである。いずれも小さくて、一口サイズどころか、三分の一サイズぐらいの代物で、一度に三つくらい、口に入れてもいいくらいである。

 さあ、どれにしようかな・・・と迷った挙句に、ちょっと太めのおいしそうなチョコレートが目にとまった。まさにそれをつまみ上げようとしていたところに、家内が通りかかった。「あら、バレンタインの義理チョコ?」・・・(いうまでもない! 義理チョコ以外にくれる人なんていない!)「そ、そうだよ」・・・「おいしそうね。ひとつちょうだい。」・・・「どうぞ、どうぞ」

 家内は、こともあろうに私が目につけたチョコをあっと言う間に取り上げて、その口に運んだ。目を細めて、おいしそうに食べる。私は内心、「ああー、やられちゃった」と思いつつ、仕方がないので別のチョコをつまんで、自分の口に放り込んだ。ちょっとホロ苦く、まったりした甘さが残った。何の変哲もない味だ。

 それで、家内はこう言ったのである。「あら、これはブランデーが入っていて、おいしいわねぇ」・・・「そ、そう。よかったね」・・・ブランデー入りのチョコなんて、私の小さい頃は、大変なごちそうだった。そういえば、ここしばらく何年も、食べる機会がなかったなぁ・・・。自分で買いにいくなら、まっさきに買おうとするアイテムである。もっとも、和菓子や洋菓子ならともかく、自分でチョコレートを買いに行くのは、ちょっとみっともない気がする。

 しかし、もう一秒早かったら、ブランデーくんは、家内の口にではなく、私の口に入っていたところである。絶好の機会を逃した気分だ。まことに惜しかった。まあ、家内が喜んだからいいか・・・。また、来年のバレンタインの日を期待しよう。



(2009年2月13日記、14日追記)
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徒然126.孫を抱っこする


 昨日の午後、文京シビックセンターのレストランで家内としばし雑談の時をすごした。話題の中心は、いうまでもなく初孫くんのことばかり。ここまで来たら、是非とも顔を見に行かなければということになり(実は、この方面に来たのは最初からそのつもりだったという話もあるが・・・)、近くの娘の家に立ち寄って、孫を1週間ぶりに抱かせてもらった。腕にずしりとくる重さになり、その体のまあ熱いこと、熱いこと、まるで湯たんぽのごとくである。また大きくなったみたいだ。首もしっかりとして来つつある。

 お乳を飲んで、うつらうつらとしている時に抱かせてもらったので、私の腕の中でもしばらく静かに寝ていた。ところが20分ほど経って、ふと目を開けた。じっと私の顔を眺める。まず不審な顔をし、それから「これは、お母ちゃんと違う人だ!」とばかりに、片手を突き出して嫌がり、ウェーンと泣き出した。そこで、やむなくギブアップ。生まれてわずか数週間なのに、もう顔の区別ができるのだろうか。それとも、私の抱き方があまりに下手だったのか。

 最近は、泣き顔ひとつにも、いろいろと表情が出てきたようだ。ミルクを飲みたいとき、着過ぎて暑いとき、逆に寒いとき、おしめが濡れたとき、抱いてもらって甘えたいとき・・・。それぞれに違っているという。それについ先週までは、両手両足を意味なく動かしていたが、この日は、両手のポジションが万歳をするような形に揃ってきている。娘によれば、胸を合わせるようにして抱いてやると、安心するらしい。それに、頭の髪の毛が幾分か濃くなってきた。こちらは、薄くなってきているというのに・・・、大変な違いである。

 ともあれ、初孫くんは、なかなか順調に発育している。この調子で健やかに育っていってもらいたいものだ。

 誕生直後の様子は、こちらから。





(2009年2月8日記)




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文京シビックセンター
文京シビックセンターからの眺め。正面の緑の地区は、上野の森

文京シビックセンターからの眺め。正面の緑は上野の森


 土曜日となった。冬の最中で、運動不足もはなはだしい。明日の午後は定例のテニスなので、少し体を動かしておく必要がある。そこで久しぶりに、文京区役所のある文京シビックセンターに歩いて行くことにした。その途中、本郷赤門前でインド料理店を見かけたから、お昼を食べに立ち寄ってみた。東京大学に通っていた息子が「結構おいしい」といっていたので、そのうち入ってみようと気にとめていたお店である。席について、さて注文しようとしたが、何しろ初めてだから、どの料理を選んでよいのかわからない。こういうときは、とりあえず日替わりランチを注文するに限る。その日は、野菜カレーか、チキンカレーかの選択だったので、私は野菜、家内はカレーをオーダーした。同時に選ばなければならない選択肢のうちでは、ライスよりはナンつまりインド風パンと、たくさんある飲み物の中でラッシーすなわちインド風ヨーグルトを選んだ。

 しばし経ってから、持ってきてくれたナンを見て、家内が思わず「わあーっ」と声を上げたほど。大きい、大きい。これがまた、豪快なほど大きい。その形は、アメーバー風に三方に広がっていて、長い方は横長の金属プレートからはみ出すほどだから、ざっと見て横30センチ、縦15センチはあろうかという代物。それに、金属製の丸いお椀にちょっとだけカレーが入っているという構図で、まるでナンが主役である。加えて、グラスに入った白いラッシーがあるだけ。

 さっそく、ナンを手でちぎろうとするが、熱っつっつ・・・やけどしそうなくらいである。しかし、熱いうちでないと、おいしくないのがナンの宿命であるから、ともかくちぎって、それをカレーにひたして食べるということを繰り返す。最初は熱いだけだけれど、そのうちカレーの辛さが勝ってきて、口の中に何ともいえない豊潤なものが広がる感覚になる。英語で思わず、「spicy but hot!」と言いたくなる。ああ、インドで最初に泊まったホテルで朝食を口にしたときに、ちょうどこんな口当たりと鼻への抜け具合だった。様々なカレーのスパイスが、たぶん何十種類も混ぜ合わさって、口の奥と鼻腔に押し寄せてきているみたいだ。そのうち、これが心地よくなってくるのが、どうにも不思議でたまらないところである。

 私が頼んだのは野菜カレーなので、ニンジン、ブロッコリー、じゃがいも、豆などの野菜しか入っていない。それを見て、家内が鶏肉を少し恵んでくれた。こんなに栄養をつけて良いのだろうかという気が一瞬するものの、食べるのに忙しいから、すぐに忘れてしまう。カレーの香りと辛さで鼻や口の中がカーッと熱くなってくるが、そこはよくしたもので、白いヨーグルトのラッシーがそれらを冷ましてくれるという仕掛けである。その組み合わせが何とも心地よい。それやこれやで、家内と話しているうちに、あんなにあったナンもカレーも、たちまち平らげてしまった。これでは、運動不足だけでなく、栄養過多になりかねない。

 いっぱいになったお腹をかかえて、そこから再び歩き出す。途中、菊坂で創業350年の「金魚坂」に立ち寄った。ここは、かつては本当の金魚屋だったのであるが、世代が代わった今では、レストランに変わっている。それでも、祖業を忘れまいとするように、店の一角には未だ金魚槽が置かれている。その中には、流金、丹頂などのほか、ピンポン玉のようなパールという中国原産の金魚が入っていた。そのうちのパールは、ビー玉のように小さい当歳魚のようなのに、(私の勘違いでなければ)1匹980円という一人(匹)前の値がついていた。



 それから菊坂をどんどん下っていき、白山通りに至った。春日駅のある交差点の向こうが、目標の文京シビックセンターである。26階建ての25階が展望ラウンジで、そこへ行き付くと、周囲が一望できる。そこから歩いてきた道すじを見下ろせば、東大の緑や上野の森が見えた。その階には、椿山荘がやっているレストランがあって、外を眺めると、真下が東京ドームシティである。

 その遊園地では、ちょうどジェットコースターが、カタカタカタッと音を立てて上昇し、これからまさに下へ降りていこうとしているところだった。これぞ、天国から地獄というところか・・・。先頃のテレビのディスカバリー・チャンネルでは、最新のジェットコースターでは4Gの加速がかかるようだ。空母から離陸する戦闘機のパイロットにかかるのは5〜6Gと記憶しているから、これは相当なものである。パイロットは下肢を圧迫する飛行服を着ているが、それでも発艦直後のパイロットの中には、ごく一瞬ではあるものの、脳が虚血状態となって失神する者もいるらしい。

 この後楽園でも、ジェットコースターの進路を目で追っていくと、大観覧車と直角に交差するあたりで宙返り状態になる区間もあり、そこではかなりのGがかかりそうだ。かつては我々も、富士の裾野やロサンゼルスで、大自然の中を景色を見ながら悠々とジェットコースターに乗ったこともあるが、どうやらそんな牧歌的な時代はとうの昔に終わりを告げたようだ。ますます早く、もっと刺激的にでスリルあふれるものになり、昔とは大違いである。私たちは、やはりこれには近づかない方がよさそうだと思った。


東京ドームシティのジェットコースターと観覧車





(2009年2月7日記)



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徒然125.今時の子育てとケア事情
ウチの孫も、こんな感じで四六時中、寝てばかり。寝る子は育つというが・・・。イラスト:「さくらぽっぷ」さん作


 初孫が生まれたおかげで、これまであまりお付き合いのなかった人たちの話を耳にする機会ができた。たとえば、ベビー・シッターさんである。いま、娘が赤ちゃんの世話をお願いしている方は、50歳そこそこで、いかにも人柄が良くて、人格の練れた感じの人である。色々なご家庭に伺ってこの仕事をしているという。その方のお話を聞くと、驚くやら、呆れるやらで、いやまあ、最近の世相を垣間見るようである。

 たとえば、ある家庭では、赤ちゃんへのミルクを、「定時に」あげることが厳命されたという。起きているうちはもちろんのこと、たとえ寝ていても、それを「起こして、必ずミルクをあげるように」というのである。当然のことながらその赤ちゃんは、もうかわいそうなくらいに丸々と太ってしまっていて、生後わずか6ヵ月だというのに、体重が8キログラムもある。寝返りをうち始める頃なのだが、もうまるで、トドがゴロンと転がっているがごとくらしい。だから、ベビー・シッターさんがミルクをあげるためにだっこすると、すぐに手が痺れてしまうので非常に困ったとのこと。

 ははぁ、その赤ちゃんは、既に生後わずか半年で、メタボリック症候群に陥っているのではないか。「それで、何かアドバイスは差し上げたのですか?」と聞くと、「いやいや、あれほど確信的に言われると、なかなかそうもいかなくて・・・」とのこと。家に帰ってから、痛む腕と手首にサロンパスを貼っているだけらしい。そうだろうなぁ、已むを得まいが、かわいそうなのは、その赤ちゃんである。とんでもない親を持ったものだ。それにしても、定期健診で、何か言われないのだろうか。ひょっとして、この赤ちゃんを診た医者も、「おお、よく太った赤ちゃんで、順調にお育ちですね」などと言っているとすれば、何をかいわんやである。

 そのベビー・シッターさんは「赤ちゃんは、できれば母乳で育てること。それに母乳やミルクをほしがって多少泣いても、しばらく泣かせておくことです。すぐにはあげないくらいでいいんですよ。その方が運動になるから」という。なるほど、赤ちゃんが泣くのも運動なんだ・・・。ちなみに、母乳のカロリーに比べてミルクのカロリーの方が高いという。そのうえ、母乳をおっぱいから吸うのにはかなりの吸引力が必要であるが、ミルクの場合には簡単にすぐに飲める。だから、栄養の面でも運動という意味でも、母乳育ちの方があまり太らないのだという。それに大事なことは、栄養素はもちろん、母乳を通じてお母さんの免疫などの成分がもらえるから、母乳ほど完璧な赤ちゃんの糧はないのだとのこと。

 私が物心ついたときには、母乳よりミルクによる哺乳が確かその時代のはやりだったと記憶しているが、価値観が全く変わってしまっている。家内に聞くと、「それは、私たちの子供を育てたときからの常識ですよ。もう・・・、私はひとりでてんてこ舞いをしていたんだから」とのこと。そういえば、その時代は、私は仕事が忙しくて、家に帰るのはいつも午前様だったから、申し訳ないことをした。でも、父親がいなくて、良く育ってくれたものだ・・・。子供本人はともかく、家内に改めて感謝しなければならない。

 別の家庭の話になるが、前年の9月に生れて、まだ3ヵ月目のその年の12月に、その奥さんから「赤ちゃんを連れて、クリスマス・イブに、ディズニー・ランドに行っていいですか?」と聞かれたらしい。こんな寒い時期に凍えるような湾岸のあんな寒空の下に、まだ首を据わっていない赤ちゃんを連れていくなど、自分の娘だったら何を考えているのかと、頭ごなしに叱るところだったという。「で、どうしたんですか」と聞くと「いやいや、絶対にダメというわけではないのですがね・・・」と言葉を濁して曖昧に答えたらしい。何でも、その夫婦の結婚式の記念の時期と場所が、ちょうど1年前のディズニー・ランドだったからということらしいが、それにしても赤ちゃんの健康を考えれば、あまりにも馬鹿で非常識な話である。

 このベビー・シッターさんは、保育の資格をお持ちであるが、赤ちゃんばかりやっているのでは必ずしもなくて、同時に高齢者関係の仕事のヘルパーさんもやっているらしい。たとえば、お爺さん・お婆さんの話し相手である。「へえぇっ、そんな仕事があるのですか」と聞くと、「最近は、それが結構ありまして」という。「そんなのは、大して疲れないから、楽な仕事でしょう?」というと、「とんでもない。こんな疲れる仕事はないんです」と、ムキになる。聞けば、お婆さんの話し相手になったりすると、一方的に何時間でもしゃべりまくられるし、それがまた、壊れたテープ・レコーダーのように同じ話の繰り返しなんだそうだ。加えて、つまらない愚痴を垂れ流す話ばかりときている。それに対して、最初は仕事だと心得て、一々ごもっともとばかりに頷いていたのだが、そのうちだんだんと面倒になり、無口になり、終いには呆れ果て、終わったときにはドッと疲れるという。

 なるほど、そうか。さもありなん。それでは、お爺さんの場合はどうかといえば、これも逆の意味で困るらしい。というのは、お爺さんの場合は、自分からは何にもしゃべってくれない。たまにポツポツと話をし始めても、戦争に行っていかに苦労したかという話ばかりで、戦後生まれのヘルパーさんには、何のことやらチンプンカンプンで、相槌の打ちようがないという。そんなわけで、この方はほんの数回通っただけで、この種の仕事をやめてしまったそうな。ちなみに、この話し相手になってほしいという依頼は、こうしたお爺さん・お婆さんの身内から来たもののようだ。つまり、身内ですらほとほと困った挙句に、仕方なく他人に依頼したというのが真相のようである。

 また、高齢者関係といえば、こんな洒落た仕事もあるという。90歳も半ばのお婆さんが、ロンドンに住んでいる孫に贈り物をするので、デパートでの買い物に付き合ってほしいというのである。その方のお嬢さんもいらっしゃるのであるが、齢70を超えていて、とても付き合うどころではない。そんなことで、デパートまで一緒に行って贈り物を買い、それを自宅に持って帰って梱包し、イギリスに送付するまでを手伝ったとのこと。ちなみに、そのお婆さんは、頭も体も矍鑠としているので、これは楽な仕事だったという。

 若い人、年を取った人、それぞれに色々な家庭や人生があるものだ。だけど、若い人は、ますます常識をなくしていき、年をとった人は、ますます妙に元気になっていくという不思議なアンバランスを含むこの危うさ加減・・・これこそ21世紀になった日本の大きな問題なのかもしれない。




(2009年2月5日記)




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