徒然123.防災か、杞憂か
「地下鉄等の浸水シミュレーションについて」より


 春秋戦国時代の人、列御寇の著書に「列子」八巻というものがある。その中の「天瑞」の巻にある話として、杞の国のある人が、いつか天が崩れ落ちてくるのではないかと心配して、食事も満足に出来ず、夜も眠れずにいたという寓話がある。これをもって、あり得ないことについて、取り越し苦労をしたり、無用の心配をしたりすることを「杞憂」又は「杞人の憂」というようになったという。

 そういう意味では、この世の中は、あらゆる杞憂に満ち満ちている。たとえば、関東大震災が近いのではとか、東京を対象とするテロがまたあるのではないかとか、パンデミックな猛威をふるう鳥インフルエンザの発生が間近に迫っているのにワクチンの供給や治療体制がなっとらんとか・・・その他、いろいろである。いずれも、杞憂といえばそうなのだが、それでも、「天が崩れ落ちてくる」ようなことはあと少なくとも50億年はない(※)というが、そんな文字通り本物の杞憂よりは、こういう災害は案外身近に迫っていて、いつかは間違いなく起こるはずである。

 そういう、いつかは必ず起こりそうな災害として、終戦直後の狩野川台風のような大雨被害が起こった場合には東京都内の荒川の堤防が決壊し、地下鉄97駅が水没するという衝撃的な内容のシミュレーションが公表された。これは、1月23日に中央防災会議で検討されたものである。すなわち、同会議の「大規模水害対策に関する専門調査会」においては、大雨によって東京都内で荒川の堤防が決壊した場合について、地下鉄の浸水被害想定をとりまとめた。それによると、高さ1メートルの止水板を地下鉄の入り口に設置したり、一部に防水ゲートを設けたりするという現在の止水対策だけでは、17路線97駅(延長約147キロ)がほぼ水没する可能性があり、しかも、決壊後わずか数時間余りで都心の大手町駅などの駅に水が流れ込む場合もあることが判明した。つまり、地下鉄はトンネルで迷路のようにつながっているので、そのトンネルを通じて、水があっという間に都心部まで入り込むというのである。

 想定の対象は東京メトロ8路線(副都心線を除く。)、都営地下鉄4路線、JR京葉線、京成押上線など計22路線137駅で、延長約215キロである。200年に1回の頻度で発生する恐れがある大雨(流域の平均雨量が3日間で約550ミリ)を想定した。この前提で東京都北区の堤防が決壊した場合、現在の止水対策(大部分の駅では出入り口に高さ1メートルの止水板を設置するのみ。防水扉、防水ゲートがある駅やトンネルは一部にとどまる。)では決壊後12時間で東京や大手町など66駅、15時間で銀座や霞ケ関など89駅が浸水すると判明した。3日後になると被害はさらに拡大して、17路線97駅、延長約147キロが浸水し、うち17路線81駅、延長約121キロは完全に水没し、残りの16駅もほぼ水没する。復旧には、少なくとも三ヵ月はかかるという。

 ハリケーン・カトリーナによる高潮災害、ミャンマーを昨年襲ったサイクロンをはじめとして、近年、世界的に大規模水害が多発している。我が国でも、豪雨の発生頻度が近年増加傾向にあるというから、なかなか恐ろしい話である。

 それにつけても、こういう話を聞くと、私の世代の人間は、名古屋を襲った伊勢湾台風のことをついつい思い浮かべる。昭和34年9月26日、伊勢湾台風は、名古屋市南部を水浸しにし、5,098人の死者行方不明者を生んだ。あの平成7年の阪神淡路大震災の被害者数ですら6,432人であるから、これは台風としてはとんでもない甚大な被害をもたらしたものといえる。しかし、名古屋どころか、東京のような千数百万人も住んでいる地域が大規模な水害に見舞われたりしたら、その比ではあるまいと考える。

 現に冒頭の図をみると、決壊個所がある北区は無論のこと、足立区、荒川区、台東区、墨田区、江東区は、水深が2〜5メートル水没するところがほとんどである。しかもここは、人家まばらな平原などではなくて、世界でも有数の人口密集地である。この線まで水没するとなれば、一軒家の場合には、平屋建てはもちろんのこと、水流の勢いによっては三階建てでも危ないと思われる。住民は、警報を聞いた瞬間、4階建て以上のコンクリートの建物に避難する必要がある。

「地下鉄等の浸水シミュレーションについて」22頁より


 いや、それどころか、商業の中心地たる銀座のある中央区も、この図だと1〜2メートルの水没に見舞われ、日本のビジネスの中枢が集中している大手町、丸の内、日比谷、有楽町、虎ノ門なども、1メートルないし50センチも水没だ・・・それを時間軸に沿ってシミュレーションしたのが、上の図である。千年に一度の大洪水が起こる。午前0時に荒川土手が決壊する。そうすると、千代田線では午前4時11分に、水が町屋駅の地上から地下鉄トンネル内へと侵入する。5時26分・西日暮里→8時43分・千駄木→8時49分・根津→9時25分・湯島→9時52分・新お茶の水→10時39分・大手町、ここで東西線からも水が侵入する。両線を繋ぐあの連絡通路は完全に水没するだろう→10時38分・二重橋→11時16分・日比谷→12時37分・霞が関→13時45分・国会議事堂前→14時09分・赤坂、という順に水につかっていく計算になる。

 水の高さが最大5メートルまでになるということであれば、トンネル内はもちろん、駅の設備も何もかも、完全に水没するだろう。これは、大変なことだ。地上にいるのならともかく、地下にいるときに、水が一気に流れ込んで来ると、逃げようがない。以上は地下鉄のトンネル内についての話だが、東京駅や銀座の地下には、大きな地下街があるので、たまたまここにいる人は、気を付ける必要がある。

 ちなみに、小心者の私としては、自分の家はどうなのだろうかと気になって、冒頭の地図を拡大して見てみた。文京区で千代田線の沿線にあるが、この地図を見る限りでは、白い地域となっているので、荒川を溢れ出た水の魔の手からは何とか逃れられそうだ。しかし、私の地域に集中的に雨が降れば、それだけで水がつくおそれもあるし、水没した地下鉄の駅から、水がごぼごぼと湧いてくるかもしれない。杞憂であればよいが、防災の意識だけは、そうそう簡単に、水に流して忘れ去るというわけには、いかないようだ。




(2009年1月29日記)





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植物工場


 昨日、新聞に載っていた「植物工場」なるものを見るため、お昼休みに霞が関の経済産業省旧館に行ってきた。ロビーの一角に、小さな温室のようなものが置かれており、確かにこれがそうらしい。どんどん入って行って近づくと、その中には二つの棚があり、上の棚には自然光近い色の照明が点き、下の棚には赤色光の照明が点いていて、植えられている植物としては、上が苺、下がレタスのようである。この温室の棚の手前には液晶画面があって、それがしょっちゅう切り替わり、照明の状態やら養液の量やらの画面が入れ替わり立ち替わり目まぐるしく現れては消えている。ははぁ、これだな・・・。説明があって、こんなことが書かれている。

植物工場とは、施設内で、植物の生育に必要な環境を、LED照明や空調、養液供給等により人工的に制御し、季節を問わず連続的に生産できるシステムです。以下のような魅力があります。
  1年中安定的に生産できます。
  工業団地・商店街の空き店舗等農地以外でも設置できます。
  多段化で土地を効率的に利用できます。
  自動化や多毛作で高い生産性を実現します。
  形や大きさ、品質が揃うので、加工が容易です。
  栄養素の含有量を高めることが可能です。
  無農薬で安全・安心。無洗浄で食べられます。

 ただし、普及に向けた課題もあり、今後の取組が必要です。
  コストダウン(施設整備、エネルギー)
  栽培技術の確立(先進地域オランダの半分以下に留まる生産性の向上)と人材育成
  専用品種の開発や対象作物の拡大       」

 そして、「経済産業省は、消費者、事業者、自治体関係者等の「植物工場」の普及・広報の一環として、本年1月22日(木)より、経済産業省庁舎別館ロビーに「植物工場」のモデル施設を設置しています。この「植物工場」を当省において広くご紹介する機会を通じて、最先端技術による農業生産へのご理解を深めて頂ければ幸いです。」とのこと。なるほどねぇ・・・。



 この温室を眺めれば眺めるほど、何か不思議な気になってくる。だって、あんなドギツイ赤い色の照明で、あれほどおいしそうなレタスが出来るものなのか・・・とか、学生時代に習った植物発芽の三要素つまり水と酸素と温度があり、芽が出た後は光と水と適度な養分があれば、植物ってこんなに育つものなのか・・・とか、外部の環境に曝されないから確かにこれだと、「無農薬で安全・安心。無洗浄で食べられ」るというのは、ホントなんだとか・・・、思いは尽きない。そのうち、考えがまとまらなくて、ひょっとして、近未来の宇宙船の中を覗いたら、こんなクラクラと立ち眩みがするような気分になるものなのだろうか・・・という気になってくる。

 しかし、その下に書いてあったものを読んで、たちまち現実に引き戻された。それには、こうあったのである。

経済産業省に設置される植物工場

  諸元:横3.6m×奥行き3.6m×高さ3m
  設備投資費用:600万円
  運営コスト(水道光熱費):10万円/月
  (水道光熱の利用量に応じ変動します。)
  栽培作物
   イチゴ:蛍光灯で栽培。
    1年あたり100パックの生産量。苗から出荷まで4ヶ月
   レタス:LEDで栽培。
    1ヶ月あたり40株の生産量。年間8毛作
   」

 これを5年で償却、金利はゼロと仮定しよう。そうすると、1年当りの減価償却費120万円、これに1年間の水道光熱費120万円を足し合わせると、合計240万円の支出となる。もちろん人件費は省いてある。これに対して、苺の生産が1年あたり100パックの生産量というわけであるから、この工場ではレタスをやめてすべて苺を栽培すると年間200パックが出来るので、1パックの値段は、なんと12,000円となる。1パックに苺が20個入っているとして、苺1個の値段は、600円! ああ、これじゃあ・・・としか言いようがない。せめて、その10分の1くらいにならないものか。これでは、将来、有人火星探査船を送る場合などに宇宙船内で使うしか、まともな使い道が思いつかないではないか。それとも、この地球の地上において、経済性の範囲内に収まるように、こういうシステムの使い道を探るとすれば、これからかなりの工夫が必要であろう。たとえば、こんな案があり得る。

 もう20年近く前のことになるが、東南アジアで、「もやし」工場を作ろうとしていた企業家がいた。もやしというのは、タイ産の雑豆を発芽させて作るようだ。発芽だけだから、育てるための光や養分はいらない。だから、プラントの入口に雑豆をドドッと流し込み、そのあとは、自動的に動くコンベアか何かの仕掛けの上で豆が発芽し、何週間か何ヶ月かは知らないが、一定期間が経ったらそのプラントの出口から、もやしが入った製品の袋がポトンと出てくるという仕組みである。これは、うまいことを考えたものだと感心したことがある。その後どうなったかは聞いていないが、東南アジアの特に中華料理店では、もやしを大量に使うので、需要先は多い。もともと熱帯地域なので気温は1年中を通じてほとんど一定である。したがって、たぶんうまくいっているものと思う。これは、「育てるための光や養分はいらない」というところがミソである。こういう種類の植物を選ぶなら、ランニング・コストが安くなる。

 あるいは、苺やレタスなどの安い野菜や果物を扱うのではなくて、熱帯性のフルーツマンゴ、メロン、マンゴスティン、ジャックフルーツなど、もっと高く売れそうな果物に的をしぼるのも、一案である。もっとも、果物では1年に何毛作もできないかもしれないが、品種改良やら人工的な季節調整で、何とかならないものか。

 蘭の栽培のような趣味的な分野から入るのも良いかもしれない。愛好家の世界は、奥が深く、かつ熱狂的なので、コンパクトな設備で環境を完全に調整してくれて、手間暇を大いに省いてくれるとなると、これはうれしい知らせである。たとえば、蘭の中には、平地で大人しく咲くというものばかりではない。2005年の世界らん展では、デンドロビューム カスバートソニー "ゴールド マウンテン"という蘭が大賞を獲得したが、聞くとこれは、ニューギニアかどこかの霧の多い高地でしか咲かない花なので、栽培するときには冷蔵庫に入れたりして、たいそう苦労したそうな。まあ、これは極端な例だけれども、こんな風に、自宅に置けるようなコンパクトな設備で栽培環境を自由自在に変えられるものならば、飛びつくマニアは大勢いると思う。

 とろこで、この種のものは、単に水や養分のような機械的システム管理がうまく行ったとしても、相手は生きている植物であるから、育種その他の農業技術の知識と工夫が伴わないと、なかなかうまくいかないのではないかと思う。単品生産で、東京の近郊に大工場を建て、大規模なレタス栽培に乗り出したりたとしても、病害虫やウィルスに一斉に侵されたりすれば、それこそ一巻の終わりである。少し大袈裟かもしれないが、アイルランドでは、19世紀半ばに主食のジャガイモが胴枯れ病によって壊滅的打撃を受け、チフスの流行もあって人口の4分の1の200万人が死ぬか海外移住したという事件を思い起こさせる。いかに病害虫フリーのシステムといっても、ウィルスの侵入を確実に防ぐことは困難である。現在の農業も、病害虫や災害に対応して、強い品種の育種と改良を積み重ねてきたわけであるから、このシステムにも、そういった技術と努力の蓄積が必要であろう。




(2009年1月28日記)



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徒然122.ウォーリー

 今月の初め、つまりお正月のうちに、日比谷のスカラ座で、映画「ウォーリー(Wall・E)」を見てきた。確か、昨年秋の封切り時(2008.12.5)には、大々的な宣伝をやっていたものだが、もうその頃には、映画館の650席のうち、わずか50席くらいしか埋まっていなくて、それは寂しいものだった。しかし、その分、真ん中の席でゆったりと・・・といいたいところであるが、親子連れがポリポリとポップコーンかじり、ズズーッとすするコーラの音などに囲まれながらの鑑賞となった。

 もう映画館での上映は終わっているので、あらすじをしゃべっても許されると思うが、ディズニーの映画だけあって、まあ単純至極なストーリーである。ゴミに囲まれて生存できなくなった地球から、人類が宇宙へと飛び出して、はや700年の歳月が流れた。その間、地球の生命は、ゴキブリの類は別としてすべて死に絶え、動くものといえば、ゴミ処理ロボットのウォーリーだけとなった。太陽電池をエネルギー源としており、双眼鏡のような二つの眼(ただし、左右は独立している)、錆びてぼろぼろの四角い箱の体、両足の代わりに三角形のキャタピラを左右につけて、結構速く移動することができる。

 ウォーリーは、缶やら屑などのゴミをその体に取り入れ、それを箱型に圧縮してから積み上げるという作業をしている。それを倦むことなく、来る日も来る日も、ひたすら繰り返している。しかし、ただの機械的なロボットというよりは、今では感傷や感動、憧れや恋愛といった感情が芽生えるようになった。たとえば、その生活しているボロ家には、記念の品や珍しい物を保存しているが、なかでもお気に入りは、人間の男女を描いたビデオである。そこで二人の男女が手をつなぐシーンでは、思わず自分の両手をつないだりして、それはそれは、機械というよりは誠に人間らしくなったロボットなのである。

 そんな変哲のない一日を繰り返していたある日、突然、空から宇宙船が下りてきた。驚いてウォーリーが見ていると、なにやら白く光り輝く物体を降ろして再び飛び去っていった。その物体は、美しいロボットで、空を自由自在に飛び回り、青いセンサーで何かを探している。ウォーリーは思わず近づこうとしたが、そのロボットは、物音を聞いただけで強力な光線を発射して、ウォーリーの隠れているゴミの山を一瞬で破壊するほど、パワーがあった。しかし、やがてウォーリーは、そのロボットに近づくチャンスを得た。そして、名前を聞くと「イーブ」と名乗る。

 700年も待ってようやく仲間、それもとびきり美しいイブを得たウォーリーは、天にも昇る心地となった。そして、イブを自分のボロ家に招く。ひとしきり、大事なお宝のビデオなどを見せた後、つい最近集めた、小さな植物をイブの前に差し出した。そうしたところ、イブに大きな変化が生じた。青い目を丸くしただけでなく、それを体の中にしまい込み、お腹に植物のマークを光らせたまま、硬直してしまったのである。

 ウォーリーは、訳がわからず大混乱となり、あらゆる手を尽くして、イブを覚醒させようとする。しかし、どうにも出来ないでいるうちに、再び轟音とともに空から宇宙船が下りてきて、硬直しているイブを回収してしまう。ウォーリーは、イブをとられまいとして、必死に宇宙船にしがみついた。すると、そのまま宇宙へと連れて行かれてしまった。星雲や銀河の横を抜けてひたすら飛んでいき、やがて宇宙船の母船に到着したのである。

 その宇宙船内に運び込まれたイブを追って侵入する形となったウォーリーは、びっくりした。この宇宙船には、700年前に地球を去った人類の子孫が大勢、乗っていたからである。ところが、すべてがロボットで動かされているこの宇宙船内の様子が、どこかおかしい。船内の人類は、移動するにも乗り物、何か食べるのもロボットからもらう。まるで赤ん坊のようなごとくで、体つきも丸々と太って、幼児を大きくしたようである。その極めつけは船長で、操舵輪のようなロボットのいいなりとなっているし、船内に飾られている歴代船長の顔写真を見れば、年代を経るごとに明らかに船長としての資質が劣化してきている。現在の船長は、起きるのも、顔を洗うのも、何から何まで、ロボット任せで、要は操舵輪型ロボットが、事実上の船長になってしまっている。船長がそんな体たらくであるから、もちろん一般の乗客もまた、すべてロボット任せの体質と体型になっていて、自分の目で見て判断するどころか、体を動かすこと自体も、ロボットなしではおぼつかない有り様である。

 そうした中で、地球を探索したイブが「植物」を見つけたという報告が上がってきて、船長はびっくりした。というのは、地球に植物が再び生えるようになった時に、この宇宙船は再び地球に戻ることになるという言い伝えがあったからである。どうしようかとあわてているうちに、マニュアルなるものが見つかった。それを開くと、植物が地球に見つかれば、そのときこそが地球に戻る時だといい、それにはマニュアルどおりにすればよくて、簡単だというのである。

 それで、イブを調べてみるが、植物は見つからず、センサーの間違いとなった。ところがそれは、ロボットの陰謀で、実はその植物は、宇宙船を地球に帰らせないようにするために、操舵輪ロボットたちが隠してしまったからである。そういう事情を、イブを探しに来たウォーリーが見つけて、妨害するロボット軍団から逃れつつ、植物をイブや仲間となったロボットたちとともに、船長の元へと届ける。船長は、正気を取り戻して操舵輪型ロボットたちの反乱を押さえつけた。そして、めでたく宇宙船の針路を地球にとり、地球に到着して、乗客たちに植物を見せ、さあこれから地球での生活を始めるぞ、というところで、話は終わっている。

 以上のあらすじを聞くと、はあ、そんなものかと思われるだろうが、その通りで、とりたてて面白い話とか手の込んだ話は、これ以上は見当たらない。ただ、強いていえば、ロボットのウォーリーが、これはまるっきり人間そのものではないかと思うほどに、人間臭く描かれているという点である。たとえば、双眼鏡のような形をした二つの眼を寄せたり、ばらばらに動かしたりして、困った表情、イブを思う表情を醸し出している。あるいは恋人たちが手を握り合っているシーンを見て、ハサミのような両手を合わせる様子などは、ちょっとした役者さんでもなかなか出来ないのではないかと思うほどに、人間的である。こういう点は、いささかマニアック的ではあるが、それにしても監督さんやアニメを担当したピクサーは、よく頑張ったとほめてあげたい。本当に好きでなければ、できない仕事である。しかし、そちらに力を入れすぎたせいか、宇宙船に乗っている船長やら乗客やらの人間たちが、あまりに定型的・ロボット的で、要は無個性に描かれているのは、それがシナリオの狙いとはいえ、もう少し、何とかならないものかと思った次第である。この映画、あまり客の入りがよくなかったそうであるが、さもありなん、というところである。

 それなら、なぜそんなつまらない映画に行ったのかというと、実はオフィスで入場券を買ってしまったからで、別にこれという動機があったわけではない。ただ、ひとつだけ共感したことがある。私のように、還暦近く(最近ではこれを、「アラカン」というらしい。もちろん、嵐勘十郎のことではない)になると、昔のように昼休みにオフィス近くを歩けばしょっちゅう友人知人に会うということが、絶えてなくなった。それどころか、最近は、知人友人には、先輩や同輩はもちろん後輩ですらも、めったに出くわさない。皆、偉くなってオフィス・カーで移動しているという境遇の人ばかりではないらしい。第二の人生で、あちらこちらに散らばったからであろう。

 なんだこれは、まるでウォーリーと同じではないかと思う、今日この頃である。確かに、誰もいなくなった後、せっせ、せっせとばかりに、いろんな法律のガラクタを体に貯め込んで、それを四角くして吐き出し、それらしく見せているといえば、いえなくもないか・・・。それに、歳をとるごとに、路傍の花が美しくみえてくる。ますます、ウィーりーと似てきているようで、空恐ろしい気がしないでもない。ま、これが人生というものかもしれない。その点、この映画は人の本質を突いている感がする。

 ただし、確実なのは、このまま700年経っても、イブは現れないということである。その代りといえば失礼かもしれないが、約半世紀も経った年代物の元イブが、いま隣にいる。




(2009年1月27日記)






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葉牡丹と蝋梅
葉牡丹


 いまは、冬の真っ最中だから、町を歩いていても、色彩に乏しい。その中で、わずかに花でも見つけると、誠に心温まる感じがする。たとえば、葉牡丹である。英語で、「ornamental cabbage」というように、周縁部の緑色に縁どられているところを見れば、まさにキャベツそのものである。しかし、中心部には、白、クリーム色、紫、赤などに色づいた葉が密集して同心円状に集まり、なかなか美しいものである。耐寒性に優れているらしくて、冬の公園やら庭園やら道端に置かれていると、それだけで心が和む。

蝋梅(ロウバイ)


 ところで、この季節に見られる「蝋梅(ロウバイ)」も、なかなか貴重な花である。黄色くて可憐、それでいて、とても良い香りを放つ。17世紀頃に中国から渡来したロウバイ科ロウバイ属の落葉低木という。その名ある「梅」の仲間ではないらしい。ともかく、香りが良いので、寒い中、それがとても印象的な花である。

 以上の二つの写真は、実は先週に行った上野東照宮の冬ぼたん展のときのものであるが、次にお示しするこの写真の花は、いったい何か、すぐおわかりであろうか。よく見ると、アロエの厚ぼったい葉の間に咲いているではないか。近所でこれを見たとき、アロエと一緒に見慣れないサボテンでも植えているのではないかと思ったほどだが、さにあらず。やはり、これはアロエそのものからにょっきりと出ていた。つまり、アロエの花というわけだ。アロエは本来はアフリカ大陸南部が原産地であるから、気温の高い所を好む植物であるが、キダチアロエという種類は、暖地では戸外でも育って、冬に赤橙色の花をつけるという。テレビで八丈島にアロエの花の群落を見たが、これをたくさん見たかったら、八丈島に行けばよろしいようだ。


アロエの花





(2009年1月25日記)



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宇宙に終わりはあるか
Eagle Nebula, M 16, NGC 6611, Messier 16

 家内が、東京大学の弥生講堂で「宇宙に終わりはあるか」という演題の講演が行われることを教えてくれた。インターネットで申し込んだところ、首尾よく受け付けていただいた。そこで、きょう土曜日に聞きに行ってきたというわけである。演者は、数物連携宇宙研究機構の村山 斉機構長(44)だった。

 「宇宙は暗黒物質、暗黒エネルギーといった未知のもので支配されていることが、最近分かってきました。私たちの身の回りのものが出来ている原子は宇宙の5%にもなりません。まるでスターウォーズに出て来るような宇宙の暗黒面の正体は、実は宇宙がどうやって始まったのか、宇宙の運命は何か、といった人類が何千年もの間考え続けてきた疑問に関わっているのです。暗黒エネルギーの正体によっては、宇宙に終わりがあるかもしれません。今回は、最新の科学の力でこうした人類の疑問に応えていく取り組みについてお話しします」というわけである。

 この村山機構長さん、なかなかの話し上手で、難しい話の一方で、お子様の写真や、テレビドラマの理論物理学者の役者のセリフを借りて軽快に話を進めていくので、とても聞きやすかった。聴衆の数は300人、老若男女いろいろである。

WMAP衛星による宇宙背景放射のゆらぎの測定


 2003年のWMAP衛星(ウィルキンソン・マイクロ波非等方性探査衛星)による宇宙背景放射のゆらぎの測定などで、どうやら、この宇宙には「暗黒物質」(Cold Dark Matter)があり、しかもその質量は半端なものではないことがわかった。我々が普通に目にする原子や中性子はもちろん、目に見えないニュートリノなどを合わせても、宇宙の組成のわずか4%程度にすぎない。それに対して暗黒物質は、この銀河系のみならず宇宙全体に満ち満ちていて、精密な天体観測の結果、宇宙の組成の23%を占めていることがわかったのである。この暗黒物質は、宇宙がまだ誕生して1兆分の1秒というごくごく若いときに創られた素粒子だと考えられるようになった。

 そこで、これを検出しようと、旧神岡鉱山の地下に新しい実験装置をつくり、銀河の中の暗黒物質を直接捕らえようとしていたり、また、今年始まる欧州の世界最大の粒子加速器LHCを使った実験によって、暗黒エネルギーを実験室で創り出そうとしている。しかし、何しろ相手が目に見えない上、めったに既知の粒子と相互作用をしないために、たとえば神岡鉱山の地下の実験では、年に2〜3回しかないというそのチャンスを気長に待たなければならないという悠長な話である。

Sombrero Galaxy, M 104, NGC 4594, IRAS 12373-1121


 他方、また宇宙の組成の話に戻るが、暗黒物質が23%、普通に目にする原子や中性子等が4%というのであれば、それではその残り73%は何かというと、それが「暗黒エネルギー」(Dark Energy)であるという。ヨーロッパの天文台が30年間にわたる約1万もの銀河の分布と動きを測定した結果、その存在が明らかとなった。これも、暗黒物質と同様に、光も放射線をも放出・反射しないために、現在の技術では捕らえることはできない。暗黒エネルギーは、銀河間に作用して重力(万有引力)に逆らうかのように振る舞い(万有斥力)、理論上、宇宙を収縮にではなく膨張に導く力である。つまり、宇宙の膨張を減速させる引力の影響を弱める働きをする。これまで長い間、宇宙の膨張速度は銀河間に働く引力によって減速すると考えられていたが、暗黒エネルギーの存在はそれとは正反対の結論を導くことになるので、科学者は驚いたというわけである。

 つまり、宇宙の主役は、我々が普段、目にするような星々や銀河や星雲などではなくて、実は暗黒物質と暗黒エネルギーだったのである。このうち、特に暗黒エネルギーは、我々の宇宙の行く末に大いに関係するものである。というのは、宇宙の膨張に伴って暗黒物質の方は薄まっていくが、暗黒エネルギーの方は変わらずに働き続けると見込まれるからである。このまま暗黒エネルギーが我々の宇宙に作用を及ぼし続けるとすれば、やがてこの宇宙に存在する星、銀河などがバラバラになる。それどころか、物質とそれを作っている原子、素粒子もバラバラとなり、結局のところ、何も残らない荒涼たる暗黒の世界が広がるというのである。もちろんそれは、100億年とか、それ以上の歳月が経過したときのことである。これをビッグ・リップ(Big Rip)というらしい。

 これまで、宇宙空間の曲率がプラス、つまり遠い将来の宇宙は、ビックバンの逆コースをたどって収縮し続け、最終的にはつぶれてしまうという考え方をビック・クランチ(Big Crunch)といっていたが、こちらの場合はたぶん何もかも燃え尽きてしまうのであろう。でも、生きとし生けるものはもちろんのこと、物質すべてがなくなるという点では、結論としてビッグ・リップと同じようなものだ。ははぁ、我々の世界は、結局は、原子や素粒子に至るまで、跡形もなくバラバラに引き裂かれるというわけか、意外と寂しい終わり方をするものである。

 ところで、村山機構長が、講演の最後のあたりで、私の関心事である超ひも理論にも触れていた。それによると、数物連携宇宙研究機構にいるアメリカ人の若い女性研究者が、こんな説を提唱しているらしい。すなわち、そのうち宇宙には「泡」のようなものが出来てきて、その中には暗黒エネルギーは存在しない。そうして、そういう「泡」構造がやがて優勢となって、やがては宇宙は泡だらけとなり、暗黒エネルギーは働かなくなるというのである。面白い説だが、シャボン玉のようにうたかたの泡と消えそうな気もする。

 そこで私は、講演後のQ&Aの機会に、村山機構長にこんなことをお聞きした。「ひも理論で泡の話をされましたが、暗黒エネルギーというのは、ひも理論がその前提とする別次元の空間から漏れてくる重力として理解するのが本筋ではないですか?」これに対して村山さんは、「この我々の世界からいったん別次元へと漏れた重力が、またエネルギーとして返ってきて我々の世界に影響を及ぼすと考える研究がされているのですが、いろいろと説明のつかない不都合があるようです」との答えであった。いや、別に返ってこなくとも、別次元の空間そのものの重力が暗黒エネルギーとなっているのではないかと単純に聞いたつもりなのだが、どうも伝わらなかったようだ。それとも、ご専門が違うのかもしれない。

 ただ、当日、配られた数物連携宇宙研究機構作成の資料を見ると、「ひも理論で、ブラックホールの熱の正体と6次元の幾何学が結び付けられたように、物理学が新しい数学の発展を促し、それはまた宇宙の謎を説明する新しい物理法則の発見につながります」とあり、また「原子を構成する素粒子であるクォークやレプトンは、『ひも』のような形をしていると考えられます。しかも、極微の世界は、私たちが住む3次元空間よりもっと高い次元の複雑な構造をしていると考えられています」とあるから、超ひも理論も、それなりに数物連携宇宙研究機構の研究対象となっていて、たとえば、専任研究員として、スザンネ・レッフェアトさんという方がおられるようだ。今後のご活躍を期待したい。

一般講演会「宇宙に終わりはあるか」 〜 宇宙はどのように進化するのか。カギをにぎる暗黒物質と暗黒エネルギー 〜 東京大学 本郷キャンパス 弥生講堂にて


(参 考) 万有斥力と万有引力

 宇宙全体に万有斥力が働いて膨張速度が加速しているとすれば、たとえば太陽と地球、あるいは極端にいえば、家の中の私と家内の距離も拡大していると考えるべきか。その答えはノーだという。なぜかというと、万有引力は物体間の距離の二乗に反比例して弱くなっていく(F=G*Mm/r2)ので、距離が短いときは万有引力の方が効いてくる。しかし、距離が離れれば離れるほど、今度は万有斥力の方が優勢になって銀河群がお互いにどんどんと離れていくからである。

 それではその境界はどこかといえば、およそ2000万光年の距離で、それより近ければ万有引力が優勢、それを超すと万有斥力が優勢だという(東京大学・佐藤勝彦教授)。我々の銀河の直径は10万光年、我々の銀河のお隣とアンドメダ銀河は230万年光年で、その直径は20万光年である。したがって、この範囲内ならば、万有引力が優勢に働く世界ということになる。しかし、我々の銀河とアンドロメダ銀河は、2000個あまりの銀河から成る巨大な「乙女座超銀河団」の端にあり、超銀河団の直径は2億光年なので、もはやこのスケールになると、万有斥力が優勢の世界になる。そして、万有斥力が徐々にその効果を強めていき、やがては超銀河団全体、最終的には宇宙のすべてが引き裂かれ、ちりぢり、バラバラになるというわけである。



(2009年1月24日記)


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徒然121.執行猶予付き死刑判決

 改革開放によって市場経済の渦の中に突然に放り込まれた感のある中国では、拝金儲け主義が横行して、近代的商道徳など最初から持ち合わせてないのではないかと思う事件が頻発している。その中でも極めつけだったのが、メラミン汚染の粉ミルク事件である。牛乳中のたんぱく質が十分にあるように偽装するため、ミルクに有害物質メラミンを混入させた。それを使って粉ミルクなどを製造し、中国全土に販売したというものである。これを大手粉ミルク・メーカーがすべて行ったために被害は甚大なものとなった。一説によれば中国で乳幼児29万人余りが腎臓結石を患うなどの健康被害を受け、そのうち11人が亡くなったという。昭和28年に日本で起こった森永砒素ミルク中毒事件を彷彿させるこの中国の事件では、関係したミルク・メーカー22社の計60人ほどが逮捕されている。中国の食の安全に対する懸念を、世界に強く印象付けた事件となった。

 このたび、その一連の事件のうちで最初の判決が言い渡された。読売新聞と新華社によれば、河北省石家荘市中級人民法院(地裁に相当)は、1月22日、メラミン入り原料の粉を製造・販売し、公共安全危害罪などに問われた業者2人に死刑、1人に執行猶予付きの死刑判決を言い渡した。また、事件の発端となった粉ミルクを製造し、劣悪品生産・販売罪に問われた同市のメーカー「三鹿集団」の田文華被告(66)を無期懲役とし、法人としての同社に罰金約4900万元(約6億4000万円)の支払いを命じた。三鹿集団は、メラミン混入を知っていながら、粉ミルクの生産・販売を停止せずに放置して、被害を拡大させたという。

 正義の鉄鎚が下されたというわけであるが、不思議に思ったのは、「執行猶予付きの死刑判決」というものである。日本の刑法では、次のようになっていて、もちろん、死刑については執行猶予制度はない。だから日本の法曹関係者の感覚では、「2年間の執行猶予期間が過ぎたら、刑務所に入らなくてすみ、無罪放免なのかな? それはいかにも変だな?」ということになる。

   日本国刑法

 (執行猶予)
第二十五条
 次に掲げる者が三年以下の懲役若しくは禁錮又は
 五十万円以下の罰金の言渡しを受けたときは、情状により、
 裁判が確定した日から一年以上五年以下の期間、その執行を
 猶予することができる。
 一 前に禁錮以上の刑に処せられたことがない者
 二 前に禁錮以上の刑に処せられたことがあっても、その執
  行を終わった日又はその執行の免除を得た日から五年以内
  に禁錮以上の刑に処せられたことがない者
 前に禁錮以上の刑に処せられたことがあってもその執行を
 猶予された者が一年以下の懲役又は禁錮の言渡しを受け、情
 状に特に酌量すべきものがあるときも、前項と同様とする。
 ただし、次条第一項の規定により保護観察に付せられ、その
 期間内に更に罪を犯した者については、この限りでない。


 そんなことは、あるはずがないだろうと思って、中国の刑法を調べてみたら、関係する条文が見つかった。第48条以下に、次のように規定されている(多少、私が意訳している)。要するに、死刑を直ちに執行するまでもないと判断される場合には、当該死刑判決と同時に2年間の執行の猶予を宣告することができ、その期間中に故意による犯罪を犯さなければ、終身刑に減刑されるというのである。それどころか、「顕著な功績があるとき」には、死刑が15年以上20年以下の懲役に減刑されるとする。

   中華人民共和国刑法

(死刑判決)
第48条
 死刑は、極めて重大な犯罪を犯した者に対してのみ
 適用される。刑罰としての死刑を直ちに執行するまでもない
 と判断される場合には、当該死刑判決と同時に2年間の執行
 の猶予を宣告することができる。全ての死刑判決は、最高人
 民法廷について定める法令に基づく場合を除き、最高人民法
 廷に提出され、その認証と確認を受けなければならない。執
 行の猶予が宣告された死刑判決は、より上位の人民法廷にお
 ける決定又は確認を受けなければならない。

(未成年者等の特例)
第49条
 死刑判決は、犯罪を犯した時に18歳以下の者及び
 裁判の時に妊娠中である女性については、適用しない。

(執行猶予期間終了後の減刑等)
第50条
 死刑判決を受けた者が、その執行を猶予された期間
 中に、故意による犯罪を犯さなかった場合、その者に対する
 死刑の刑罰は、2年間の執行の猶予の期間が満了した日に、
 終身刑に減刑されるものとする。この場合において、当該死
 刑判決を受けた者に顕著な功績があるときは、その者に対す
 る死刑の刑罰は、2年間の執行の猶予の期間が満了した日に、
 15年以上20年以下の懲役に減刑されるものとする。
 死刑判決を受けた者が、故意による犯罪を犯した場合には、
 最高人民法廷の認証又は確認の後、死刑が執行されるものと
 する。

(執行猶予期間等の計算)
第51条
 死刑の執行の猶予の期間は、当該犯罪についての最
 終判決が確定した日から起算するものとする。
 死刑判決から減刑された懲役の期間については、死刑猶予
 期間終了日から起算するものとする。


 これは、どういう趣旨の規定かということも、合わせて調べてみた。すると、中華人民共和国成立直後、未だ国共内戦が終息していないという不安定な国内政治の中で、死刑判決が数多く出たが、その多くは政治犯であり、転向や更生が見込まれるこれらの者について直ちに処刑するのは忍びないということで、現在の執行猶予付き死刑制度が生まれたというのである。現在では、重大犯罪や反革命行為を犯した囚人に対して、死刑という脅しの下での再教育や労働改造を行うものであるとされる。

 たとえば、毛沢東の死後、四人組のひとりとして権勢をふるった江青女史には、この執行猶予付き死刑判決が下された。また最近では、汚職の罪に問われた高級幹部についても、しばしば執行猶予付き死刑判決が下されることがある。ちなみに、執行猶予付きの死刑判決を受ける者の数は、一昨年、死刑判決を受ける者の数を上回ったようである。なお、執行猶予付きの死刑判決を受けた者の8〜9割は、最終的に無期懲役に減刑されているとのこと。また、中華人民共和国刑法第50条にある「当該死刑判決を受けた者に顕著な功績があるとき」とはどういう場合かというと、一例をあげれば、捜査に積極的に協力してそれなりの功績があったという場合らしい。




(2009年1月23日記)




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徒然120.オバマ大統領就任演説
オバマ氏公式ホームページより

 2009年1月20日、首都ワシントンにて、第44代のアメリカ大統領となるバラク・フセイン・オバマ大統領の就任演説が行われた。凍てつく寒さの中、200万人もの人々が参集して、この演説に聞き入った。建国以来、43人目にして、初のアフリカ系大統領であり、アメリカ国民のほぼ80%が支持しているという。確かに、そのさわやかな印象、力強い演説と国民へのメッセージ、既存のワシントン在住の政治家と違って、何かをやってくれるのではないかという期待感に包まれている。

 折しも、この演説にもいうように、「アメリカはいま、(イラクとアフガニスタンで)戦争状態にあり、(リーマン・ブラザーズ等の金融機関破たん、GM等のビッグ・スリーの破産の危機などで)経済はたいそう弱体化している。それは一面では一握りの人々の貪欲さと無責任によるものである。その結果、(人々は住宅ローンを返せなくなって)家は失われ、仕事はなくなり、企業はシャッターを下ろし、医療費は高騰しすぎ、学校も、多くの失敗を犯した・・・」という八方ふさがりの状態にある。

 そこで、颯爽と登場したのが、オバマ大統領というわけである。そこで、この演説は述べる。

今日から始めて、我々はゆっくり立ち上がらなければならない。埃を払って、もう一度アメリカを作り直す仕事を始めるのである。至るところになすべき仕事がある。経済の状況は大胆かつ迅速な行動を必要としている。そして我々は行動する。新しい仕事を創出するだけでなく、新しい成長の礎を築くために。
 我々は、道路と橋梁を、電子のネットワークやデジタル回線を構築し、商業を振興し、団結を新たにする。
 我々は、科学をその正しい方向へと復権し、医療技術を向上し医療コストを削減するために技術の粋を集める。
 我々は、車や工場を動かすために、太陽や風や土壌を利用する。
 そして、我々は新しい時代の要求に応じたものに、学校や大学を変えていく。
 我々はこの全てを行うし、我々にはこの全てが可能なのだ。
」というわけである。

 私も、こうなればどんなにか良いだろうと思うのである。ところが、はてさて、若干47歳の若さでシカゴからポッと出てきてちょっと演説をして回ったぐらいで、あれやこれやとアメリカ社会に宿痾のようにはびこるこれらの頑固な症状に対する効果的な処方箋など、そんな簡単に書けるわけがないではないかと思うのであるが、どうであろうか。ワシントンで手ぐすねひいて待ち構える政治家、業界団体、ロビイスト、労組は、とても手ごわい。素朴な理想主義だけで対抗するには、自ずと限界がある。サブプライム問題で全滅してしまったアメリカの金融界と製造業の復興、浪費ともいえるクレジット消費漬けの国民性の矯正なども、またしかりである。

 この演説で取り上げた項目のうち、景気対策として、なにがしかの予算をつぎ込んで公共事業を行ったり、低所得者向けに支出をしたりすることは、しょせん国家のお金の配分の問題であるから、簡単であろうし、ある程度の効果は上がると思う。

 しかし、たとえばアメリカの医療改革ひとつをとっても、既得権益を徹底的に突き崩さなければ出来ない問題である。医療費や薬剤費に上限のキャップを設ければ、医者や製薬会社が猛反発する。この点、日本の医師会などの比ではない。それにたとえば学校だって、生徒の身体をちょっと検査しただけで、ナイフやら銃らが続々と出てくる、生徒が騒いで授業などまったく成り立たないなどという公立校の荒れようが、これまたそう簡単に収まるとも思えない。加えて、アメリカ社会の激しい貧富の差というものは、はっきりいえば、もう絶望的なくらいである。誰が手を付けても、この状況を変えられるとも思えない。

 だからこそ、オバマ大統領は「Yes, We can!」「Change!」と言ったといわれそうであるが、本気でそう思っている人は、よほど楽天的な部類に入るのではないか。いずれにせよ、現在のところは、貧困層、黒人層、ヒスパニックなどは、オバマ大統領に心情的な連帯感を強く持っているようであるから、大衆の間でそういう気持ちがまだ存在するうちは、それでよかろう。しかし、場合によっては、結局のところ何一つ変わらなかった・・・イラクからは撤退するかもしれないが、これを唯一の例外として・・・ということが次第に明らかになるにつれ、オバマ大統領に対する強い期待が、一転して強い失望に変わる日も近いのではないかと思うのである。

 かつて、同じ民主党のカーター大統領は、ジョージア州のピーナッツ畑の真ん中から、ワシントンにポッと出てきた政治家であった。理想に燃えていたのはよかったが、何分にも実力が伴わなかった。在任中、在イランのアメリカ大使館員が、イラン政府の組織である革命防衛隊によって人質にされてしまうという、とんでもない事件が起こる。カーター民主党政権は、それについてなすすべもなく、大統領が一目をはばからずに泣いていたというシーンを覚えている。これはひどかった。こんなことになりはしないかという予感がしないでもない。

 ただひとつ、これは面白いというか、私が興味をそそられるのは、選挙戦を通じてオバマ大統領がネットを上手に使ってきたところである。たとえば、選挙資金の小口献金を呼び掛けて大きな額を集め、対抗馬のヒラリー候補やマケイン候補をはるかに上回った。また、選挙運動へのボランティア参加者をネットで募って、どこそこへ行ってどういう活動をしてほしいかを具体的にメールで指示したり、個人宅で集会を開いて草の根の意見をネットで集約したりしていたそうである。これを組織的かつ大規模に行ったようだが、考えてみれば、これは直接民主制への第一歩である。これを各政策や議案ごとに行えば、限りなく直接民主制に近づく。こういう草の根パワーを結集することができれば、ワシントンに巣食う既存政治のスタイルを変革できるかもしれない。まあ、そういうわけで、基本的にはクールな目で見つつも、あるいはひょっとして・・・という淡い期待を込めつつ、これからのアメリカの政治を見ていくこととしよう。




(2009年1月22日記)









President Barack Obama's inauguration speech
                               January 20, 2009,

My fellow citizens,
I stand here today humbled by the task before us, grateful for the trust you have bestowed, mindful of the sacrifices borne by our ancestors. I thank President Bush for his service to our nation, as well as the generosity and cooperation he has shown throughout this transition.
Forty-four Americans have now taken the presidential oath. The words have been spoken during rising tides of prosperity and the still waters of peace. Yet, every so often the oath is taken amidst gathering clouds and raging storms.
At these moments, America has carried on not simply because of the skill or vision of those in high office, but because we the people have remained faithful to the ideals of our forebears, and true to our founding documents. So it has been. So it must be with this generation of Americans.
That we are in the midst of crisis is now well understood. Our nation is at war, against a far-reaching network of violence and hatred. Our economy is badly weakened, a consequence of greed and irresponsibility on the part of some, but also our collective failure to make hard choices and prepare the nation for a new age.
Homes have been lost; jobs shed; businesses shuttered. Our health care is too costly; our schools fail too many; and each day brings further evidence that the ways we use energy strengthen our adversaries and threaten our planet.
These are the indicators of crisis, subject to data and statistics. Less measurable but no less profound is a sapping of confidence across our land - a nagging fear that America's decline is inevitable, and that the next generation must lower its sights.
Today I say to you that the challenges we face are real. They are serious and they are many. They will not be met easily or in a short span of time. But know this, America - they will be met.
On this day, we gather because we have chosen hope over fear, unity of purpose over conflict and discord.
On this day, we come to proclaim an end to the petty grievances and false promises, the recriminations and worn out dogmas, that for far too long have strangled our politics.
We remain a young nation, but in the words of scripture, the time has come to set aside childish things. The time has come to reaffirm our enduring spirit; to choose our better history; to carry forward that precious gift, that noble idea, passed on from generation to generation: the God-given promise that all are equal, all are free and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.
In reaffirming the greatness of our nation, we understand that greatness is never a given. It must be earned. Our journey has never been one of shortcuts or settling for less.
It has not been the path for the faint-hearted - for those who prefer leisure over work, or seek only the pleasures of riches and fame. Rather, it has been the risk-takers, the doers, the makers of things - some celebrated but more often men and women obscure in their labour, who have carried us up the long, rugged path towards prosperity and freedom.
For us, they packed up their few worldly possessions and travelled across oceans in search of a new life.
For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and ploughed the hard earth.
For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn.
Time and again these men and women struggled and sacrificed and worked till their hands were raw so that we might live a better life. They saw America as bigger than the sum of our individual ambitions; greater than all the differences of birth or wealth or faction.
This is the journey we continue today. We remain the most prosperous, powerful nation on Earth. Our workers are no less productive than when this crisis began. Our minds are no less inventive, our goods and services no less needed than they were last week or last month or last year.
Our capacity remains undiminished. But our time of standing pat, of protecting narrow interests and putting off unpleasant decisions - that time has surely passed. Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.
For everywhere we look, there is work to be done. The state of the economy calls for action, bold and swift, and we will act - not only to create new jobs, but to lay a new foundation for growth.
We will build the roads and bridges, the electric grids and digital lines that feed our commerce and bind us together. We will restore science to its rightful place, and wield technology's wonders to raise health care's quality and lower its cost. We will harness the sun and the winds and the soil to fuel our cars and run our factories. And we will transform our schools and colleges and universities to meet the demands of a new age. All this we can do. And all this we will do.
Now, there are some who question the scale of our ambitions - who suggest that our system cannot tolerate too many big plans. Their memories are short. For they have forgotten what this country has already done; what free men and women can achieve when imagination is joined to common purpose, and necessity to courage.
What the cynics fail to understand is that the ground has shifted beneath them - that the stale political arguments that have consumed us for so long no longer apply. The question we ask today is not whether our government is too big or too small, but whether it works - whether it helps families find jobs at a decent wage, care they can afford, a retirement that is dignified.
Where the answer is yes, we intend to move forward. Where the answer is no, programs will end. And those of us who manage the public's dollars will be held to account - to spend wisely, reform bad habits, and do our business in the light of day - because only then can we restore the vital trust between a people and their government.
Nor is the question before us whether the market is a force for good or ill. Its power to generate wealth and expand freedom is unmatched, but this crisis has reminded us that without a watchful eye, the market can spin out of control - and that a nation cannot prosper long when it favours only the prosperous.
The success of our economy has always depended not just on the size of our gross domestic product, but on the reach of our prosperity; on our ability to extend opportunity to every willing heart - not out of charity, but because it is the surest route to our common good.
As for our common defence, we reject as false the choice between our safety and our ideals. Our founding fathers, faced with perils we can scarcely imagine, drafted a charter to assure the rule of law and the rights of man, a charter expanded by the blood of generations.
Those ideals still light the world, and we will not give them up for expedience's sake. And so to all other peoples and governments who are watching today, from the grandest capitals to the small village where my father was born: know that America is a friend of each nation and every man, woman, and child who seeks a future of peace and dignity, and that we are ready to lead once more.
Recall that earlier generations faced down fascism and communism not just with missiles and tanks, but with sturdy alliances and enduring convictions. They understood that our power alone cannot protect us, nor does it entitle us to do as we please.
Instead, they knew that our power grows through its prudent use; our security emanates from the justness of our cause, the force of our example, the tempering qualities of humility and restraint.
We are the keepers of this legacy. Guided by these principles once more, we can meet those new threats that demand even greater effort - even greater cooperation and understanding between nations. We will begin to responsibly leave Iraq to its people, and forge a hard-earned peace in Afghanistan .
With old friends and former foes, we will work tirelessly to lessen the nuclear threat, and roll back the spectre of a warming planet. We will not apologize for our way of life, nor will we waver in its defence, and for those who seek to advance their aims by inducing terror and slaughtering innocents, we say to you now that our spirit is stronger and cannot be broken; you cannot outlast us, and we will defeat you.
For we know that our patchwork heritage is a strength, not a weakness. We are a nation of Christians and Muslims, Jews and Hindus - and non-believers. We are shaped by every language and culture, drawn from every end of this Earth; and because we have tasted the bitter swill of civil war and segregation, and emerged from that dark chapter stronger and more united, we cannot help but believe that the old hatreds shall someday pass; that the lines of tribe shall soon dissolve; that as the world grows smaller, our common humanity shall reveal itself; and that America must play its role in ushering in a new era of peace.
To the Muslim world, we seek a new way forward, based on mutual interest and mutual respect. To those leaders around the globe who seek to sow conflict, or blame their society's ills on the West - know that your people will judge you on what you can build, not what you destroy. To those who cling to power through corruption and deceit and the silencing of dissent, know that you are on the wrong side of history; but that we will extend a hand if you are willing to unclench your fist.
To the people of poor nations, we pledge to work alongside you to make your farms flourish and let clean waters flow; to nourish starved bodies and feed hungry minds. And to those nations like ours that enjoy relative plenty, we say we can no longer afford indifference to suffering outside our borders; nor can we consume the world's resources without regard to effect. For the world has changed, and we must change with it.
As we consider the road that unfolds before us, we remember with humble gratitude those brave Americans who, at this very hour, patrol far-off deserts and distant mountains. They have something to tell us today, just as the fallen heroes who lie in Arlington whisper through the ages.
We honour them not only because they are guardians of our liberty, but because they embody the spirit of service; a willingness to find meaning in something greater than themselves. And yet, at this moment - a moment that will define a generation - it is precisely this spirit that must inhabit us all.
For as much as government can do and must do, it is ultimately the faith and determination of the American people upon which this nation relies. It is the kindness to take in a stranger when the levees break, the selflessness of workers who would rather cut their hours than see a friend lose their job which sees us through our darkest hours. It is the firefighter's courage to storm a stairway filled with smoke, but also a parent's willingness to nurture a child, that finally decides our fate.
Our challenges may be new. The instruments with which we meet them may be new. But those values upon which our success depends - hard work and honesty, courage and fair play, tolerance and curiosity, loyalty and patriotism - these things are old. These things are true. They have been the quiet force of progress throughout our history.
What is demanded then is a return to these truths. What is required of us now is a new era of responsibility - a recognition, on the part of every American, that we have duties to ourselves, our nation, and the world, duties that we do not grudgingly accept but rather seize gladly, firm in the knowledge that there is nothing so satisfying to the spirit, so defining of our character, than giving our all to a difficult task.
This is the price and the promise of citizenship.
This is the source of our confidence - the knowledge that God calls on us to shape an uncertain destiny.
This is the meaning of our liberty and our creed - why men and women and children of every race and every faith can join in celebration across this magnificent mall, and why a man whose father less than sixty years ago might not have been served at a local restaurant can now stand before you to take a most sacred oath.
So let us mark this day with remembrance, of who we are and how far we have travelled. In the year of America's birth, in the coldest of months, a small band of patriots huddled by dying campfires on the shores of an icy river. The capital was abandoned. The enemy was advancing.
The snow was stained with blood. At a moment when the outcome of our revolution was most in doubt, the father of our nation ordered these words be read to the people: "Let it be told to the future world ... that in the depth of winter, when nothing but hope and virtue could survive...that the city and the country, alarmed at one common danger, came forth to meet (it)."
America, in the face of our common dangers, in this winter of our hardship, let us remember these timeless words. With hope and virtue, let us brave once more the icy currents, and endure what storms may come.
Let it be said by our children's children that when we were tested we refused to let this journey end, that we did not turn back nor did we falter; and with eyes fixed on the horizon and God's grace upon us, we carried forth that great gift of freedom and delivered it safely to future generations.
Thank you, God bless you and God Bless the United States of America.




(参 考) 仏教徒は、視野にないのか?

 粗を探すようだが、この演説でどうにも理解できないのは「We are a nation of Christians and Muslims, Jews and Hindus - and non-believers. 」というくだりである。アメリカ国民として、キリスト教徒やイスラム教徒のほか、ユダヤ教徒(まあ、これはわかる)、どういうわけかヒンズー教徒、それに無神論者までいるという。しかし、アメリカには、日系や中国系もいてそれなりに人口も多いはずなのに、そうした仏教徒がまったく無視されている。この点、オバマさんのスピーチ・ライターには世界三大宗教は何かという知識がないからか、それとも、仏教徒はおとなしくて目立たないのでどうでも良いと思われているからか、よくわからないが、いささか気になるところである。






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ぜんざい発祥の地
Little Garden 季節や行事のイラスト市場さん作


 私は、「あんこ」の類に目がない。この点は家内と同じ趣味といってよく、夫婦円満に役立っている。たとえば、自宅の近くには買い物客が列をなす著名な鯛焼き屋さんがあるが、その店の前を二人で通りかかると、何も言わなくとも以心伝心、気がつくと二人でその列に加わっている。また、上野方面へフラフラと向うと、いつの間にか甘いもの処「みはし」に向かって歩いていて、これまた気がつくと二人で店内に座ってメニューを見ている。そうでないときは、上野御徒町の「うさぎ屋」のドラやきを買って帰る。

 あるいは、同じ区内に娘夫婦が住んでいるが、そちらに立ち寄るついでに、その近くの「文祥堂」で列を作って大福を買ったりする。また、最近、見つけたのだが、二人でよく行く「巴屋(ともえや)」という蕎麦屋で、「蕎麦がきぜんざい」なるメニューを見つけた。先月、年末の宴会のやり過ぎのために二日酔い気味のときに、巴屋に行ってもあまり食欲がわかない。しかし、朝食抜きだったので、何か食べる必要がある。そういうときに、このメニューを思い出して、「蕎麦がきぜんざい、二人前!」と頼んでみた。蕎麦屋のおばさんは、目を白黒していたが、「一杯のどんぶりに入れてくれれば、結構です」というと、そのまま調理場に伝えてくれたようで、しばらくして蕎麦がき入りのぜんざいのどんぶりが出てきた。それを見たところ、どういうわけか食欲がわいてきて、一気にペロリと平らげることができた。それで、二日酔いがすっかり治ったような気がしたのである。

 なんで、こうなっちゃったのだろうかと、つくづく考えてみると、これはひょっとして、私の祖母が作ってくれた「おはぎ」が原点なのかもしれないと思い当たった。私が小さいころには、日本全体が貧しかったから、たいしたお菓子はなかった。そういう時代、田舎からよく祖母が出てきて、我が家にひと月ほど滞在するのが年中行事のようになっていた。そのときに、必ず作ってくれたのが、田舎風おはぎ。中にお餅が入り、それを粒あんで包んだ大きなおはぎである。今時、そんなに大きなおはぎを売っているのは見たことがないが、子ども心に、こんな美味しいものはないと、たくさんごちそうになったものである。

 小学校の高学年のときには、私の家は福井市三ノ丸町といって、お城のお濠の近くにあった。周りには家が立て込んでいたのだけれど、どういうわけか一軒だけ、小さな工場があって、菓子パンを作っていた。それが小倉あんぱんで、しかも私の好きな粒入りときている。工場直販だから安くしてくれていて、たった5円だった。グリコのキャラメルよりも安いので、私はよく買いに行ったものである。私の体が大きくなったのは、このせいかもしれないと、今でも思っている。

 中学生のころから名古屋に住むようになったが、名古屋には、「小倉サンド」というものがあって、喫茶店の定番メニューとなっている。普通のサンドウィッチに、小倉のあんこを挟んだシンプルなものだけれども、これが、祖母手製のおはぎの次に私の好物となって、すきっ腹を抱えた中高校の往き帰り、よく食べたものである。ところが上京してから、東京の喫茶店で小倉サンドを探したものだが、そんなもの、どこにもない。「これこれ、こういうものだけれども・・・」と説明しても、「ええっ、食パンにあんこを挟むの? あぁ、気持ち悪い!」といった反応が返ってくるだけ・・・。ははぁ、あれは名古屋だけの地域限定メニューなんだと思い知る。

 それから、結婚して子供が出来てからは、甘いものといえば、ケーキとなった。その頃は杉並区に住んでいたので、仕事の往き帰りには新宿を通る。そのころに、小田急の地下に「タカノ」というケーキ屋があって、そこで苺のショート、モンブラン、シュークリームなどを買い込んで、せっせとウチに持ち帰った。甘さを控え目にしていて、なかなか良い材料を使っている。子供たちの背が高くなって、そこそこの頭と体格になったというのも、このケーキがある程度、寄与しているのではないかと思っている。

 子供が小さい頃に一時、東南アジアで生活したことがある。甘いものはもちろんあるが、とてつもなく甘い。本当に甘すぎるのである。どうやら、遠来の客には、とんでもなく甘いものを出すのが礼儀であると思い込んでいる風があって、我々日本人の味覚の常識を超えている。その中にあって、あるとき「キミサワ」という日系のスーパーが開店した。そこに行ってみると、なんとまあ、小倉あんぱんが売られている。それも、純日本風のもので、現場で焼き上げてくれる。これには一家そろって感激して、よく買いに行ったものである。

 また、東南アジアには、どこにでも中華料理店がある。肉料理や魚料理、豆腐料理や鍋料理をたらふく食べ終わった後、デザート・メニューを持ってくる。もう、これ以上食べられるないと思っても、ふとメニューを見ただけで、あれあれ、不思議なことに、なぜか食べたくなってくる。あたかも、デザート用に胃の一部が、そのスペースをちょっと開けてくれたかのごとくである。それで、何をよく頼んだかというと、マンゴー・プリン海ガメの甲羅のゼリーなんていうのもあったが、私は、スゥート・ビーン・スープ(英文では、Red Bean Soup)・・・何のことはない、中華風おしるこである。あまり甘くはなくて、ちょっとザラザラした舌ざわりだけれども、まあまあ、日本のぜんざいの代替品になり得る。しばし、懐かしい日本を思い出すことができる幸せなひと時となった。

 きょうは、いったい何を言いたいのかと言われそうだが、いよいよこれから本日の話題である。先日、出雲に行ったとき、不思議なぜんざいのおみやげを見つけた。その袋には、こう書いてあったのである。

出雲ぜんざい〜古式伝承〜神在餅
 ぜんざいは出雲国神事の折りに振る舞われた「神在(じんざい)餅」に起因しています。

ぜんざい発祥の地
 出雲地方では、古来旧暦の十月に全国の神々が集まり、「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行われています。その神事で振る舞われたのが「神在(じんざい)餅」です。その「じんざい」が出雲弁で訛って「ずんざい」さらには「ぜんざい」となって京都に伝わったと言われています。出雲が「ぜんざい」発祥の地であるということは、江戸初期の文献「祇園物語」や「梅村載筆」、幕府の大学頭であった林羅山筆の「雲陽誌」にも記されています。

日本ぜんざい学会
 日本ぜんざい学会は、「ぜんざい」発祥の地は出雲にあるという史実に基づき、その真実をさらに探求するとともに、世界に誇れる和の食文化「ぜんざい」の歴史と味覚を世界に情報発信し、あわせて「神話の舞台・出雲」の魅力を広く伝えることを目的に活動を行う団体です。


出雲ぜんざいと袋


 面白いので、そのレトルト・パックを買って帰ってきたが、それにつけても思い出すのが、大学時代の同級生である。初めて話したときに、この人は東北出身なのだろうかと思うほど、完璧なズーズー弁を話していた。ところが、出雲出身なんだという。そこで、ああ、これは松本清張の名作「砂の器」の世界なんだと思い出した。現にそれを耳にして、びっくりするやら感激するやら・・・。大学って、本当に面白い世界だなぁと思った記憶がある。ちなみに、この友達は、大学を卒業するまでついに、そのズーズー弁を直すことはなかった。それでどうなったかというと、彼は結局、裁判官になった。そして、ときどき法律雑誌に投稿するようになったので、「ああ、彼か、活躍しているなぁ、よかった」と思ったものである。そして、ある法律問題で、彼と20年ぶりに顔を合わせることになった。「いやぁ、久しぶり」と、お互い、肩をたたき合ったのだが、そしてすぐ、気がついた。彼の出雲弁は跡形もなくすっかり消えて、完璧な標準語に変わっていたからである。懐かしさが、ちょっぴり、消えてしまったのは残念である。

 それはともかく、ぜんざいの語源の話に戻るが、「じんざい」→「ずぇーんざい(出雲弁)」→「ぜんざい」→京都で定着というのが、日本ぜんざい学会の主張のようである。これに対して、「ぜんざい」の語源は仏教用語の「善哉」(よきかな)にあるという説もあるという。ウィキペディアによると、「一休宗純が最初に食べたとされ、あまりの美味しさに『善哉』と叫んだとする説。『善哉』とは仏が弟子を褒める時に使う言葉である。」 なるほど、こちらも、なかなかよく出来た話である。どちらかに軍配を上げるには、証拠が不足しているが、「善哉」説は、いささか出来すぎの感がある。そこで、江戸初期の文献に載っているらしいし、その裁判官の友達にも免じて、私は、出雲発祥説を信じることとしたい。これから、ぜんざいを眼にしたら、「おおっ、出雲!」と思って、美味しくいただくことにしよう。




【後日談】 酬恩庵一休寺の善哉の日

 先日、1月25日だったと思うが、テレビのニュースで、京田辺市に「酬恩庵一休寺」という寺があり、「一休善哉の日」を年中行事として行っているという報道があった。

 「平成17年より1月最終日曜日を『一休善哉の日』として、その一年間の各人毎の誓いの言葉を奉納してもらいます。その一年の自分自身の目標を新たにし、一年間その言葉を持って、生きていく力づけにしようとするものです。そしてその後、一椀の善哉がふるまわれます。ひとりひとりの誓った善き行いの実現を後押しします。

 一休禅師は1月1日生まれ、大徳寺の住職からお餅の入った小豆汁をごちそうになり「善哉此汁(よきかなこのしる)」とおっしゃったことから善哉となったと言われています。

 一休善哉の日は、ひとりひとりのこころに存在するエネルギーにわずかながらも灯りをともし、21世紀の世界を地球の片隅からより善き世の中に方向づけられればと始めることになりました。」


 ははあ、なるほど、なるほど、出雲に負けず劣らず、こちらの方もなかなか由緒正しそうである。何よりも、ありがたーい気がしてくる。はてさて、困ったものだ。これではまるで、出雲の神々と一休さんとの神学論争ではないか・・・。根拠なしに、いずれかに軍配を上げるということもできないし・・・。

 一休さんは、1394年に生れ、室町時代に生きて1481年に亡くなった僧侶で、1467年には応仁の乱があったという激動の時代である。この一休和尚、既成の観念や権威を振りかざすものが何よりも嫌いで、反骨精神に富んだ、なかなか面白い人だったようだ。たとえば、一休寺のホームページには、こんなエピソードが載っている。

 「小僧時代を過ごしたお寺の和尚が自分だけ鯉汁を食べ、一休さんたち小僧には、味噌汁しかやらなかった。そこで一休さんは池から大きな鯉をとらえ、料理しようとした。すると和尚は『これこれ!殺生はしてはならぬ!』ととがめた。すると一休さんは『毎日精進料理ばかりでは、お経にも力が入りません。この鯉にはちゃんと引導を渡しますので、大丈夫でございます。』と言った。一休さんの生意気な言葉に『引導の渡し方など知っておるのか』と和尚が問うと、一休さんはこう言った。『汝、元来生木の如し、水中にある時はよく捕うること難し、それよりは愚僧の腹に入って糞となれ、喝! 』」

 その他、「『はし』をわたらず『はし』をわたる」や「毒を食べ、死んでおわびを」という、小さい頃に読んだり聞いたりしたトンチ話が掲載されている。確かに、今でも、こういう反骨の塊でありながら、妙に知恵が回るから、他人に憎まれないようなタイプの人を見かけることがある。

 再び、ぜんざいの話に戻るが、どちらが本家かといわれても、いやはや、困ったものだ。強いていえば、一休さんが生きたのは「室町時代」であるが、出雲地方では「古来旧暦の十月」に全国の神々が集まり、神在餅がふるまわれる神在祭なる神事が執り行われたというのであるから、それは室町時代よりはるかに前ではないかと推論するのが適切だろう。そうやって、出雲から京都にもたらされたぜんざいを、大徳寺の住職が一休さんにふるまったところ、そのうまさに感激した一休さんが、「善哉此汁」と言った。その仏教用語の使い方のうまさに感心した大徳寺の住職が、この話を広めた・・・というのが真相ではないかと思うが、いかがであろうか。それなりに両者の顔が立つように思える。

 いずれにせよ、そのうち機会があればこちらのお寺にもお邪魔して、ぜんざいを味わってから、応援する方を決めることにしよう。もちろん私としては、味の良い方を押すに決まっている。




(2009年1月20日記、2月3日追記)



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冬ぼたん展
冬ぼたん


 毎年この季節になると、近くの上野東照宮で、冬ぼたん(寒牡丹)の展示会が開かれている。数百本の白、紅、淡紅、紫などという美しい色をした花が、雪除けのワラの囲いの中で大切に展示されている。このほか、4月下旬がら5月上旬にかけても、今度は三千本近い牡丹が展示される春祭りというものがある。そちらの方が華やかではあるが、雪や雲などモノトーンの色が支配する冬に咲く寒牡丹の方が、むしろ見ごたえがあると思う。

 もとより牡丹という花は、花びらが幾重にも重なり、さあこれでもか、これでもか、とばかりに誇示しているような花である。古来「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのが美人の姿といわれているが、なるほどと納得する。今でこそ、洋ランバラ、ベゴニア、それに色とりどりの熱帯花のようなものが入ってきているが、そういう華々しいお花がなかった江戸時代には、牡丹というのは、さぞかし美しいものに見えたに違いない。

 しかし、残念なことに、この寒い季節に屋外に牡丹を展示することには、いかに雪除けのワラの囲いがあるとはいっても、やはり相当に無理があるようだ。現にこの日の牡丹の中で、花びらが無傷のものは、おそらく半分以下だろう。中には痛々しいまでに傷ついていて、どうするのだろうと思っていたら、売店のおばさんは、松江市の大根島に戻すのだという。

 ええっ?ダイコンジマ?それは何だろうと思っていたら、家内が「ああ、この間、松江に行って出雲大社にお参りしたときに、移動の途中に大根島牡丹園というのがあったわ。気がつかなかったの? 時間がないので通りすぎちゃったからねぇ」という。聞くと、島根県の中海に浮かぶ島で、出雲風土記に既に「たこ島」として書かれていたとのこと。その名前が、なまりになまって、とうとう「ダイコンジマ」となったそうな・・・。嘘のような、本当の話である。そして、江戸時代より高麗人蔘と牡丹の栽培で有名になったらしい。

 道理でねぇ、上野東照宮で育てているはずもないか。それにしても、谷中や上野や湯島あたりの花まつりというのは、こういう形式が多い。浅草寺のほおずき市入谷の朝顔市白山神社のあじさい祭り湯島天神の菊祭りなど、いずれも他の地で育てていた鉢植えを持ってきて、見せたり売ったりしているにすぎない。ただ、根津神社のつつじ祭りだけは、参道脇の斜面を利用しているために、庭師を使って一生懸命、自前で整備している。

上野東照宮の五重塔


 ちなみに、この上野東照宮には、家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られている。参道には、五十基の大きな銅燈籠が並んでいて、なかなか壮観である。ただ、妙なのは、上野東照宮の五重塔が上野動物園敷地内にあることで、現在の東照宮の境内からは、近寄ることができないのは、不思議である。戊辰戦争などの歴史的な事件が関係しているのだろうか。

冬ぼたん


水仙も、咲いていた


【後日談】

 その後、2018年に、私は松江への旅の途中で、大根島に立ち寄り、美しい牡丹の花々を堪能することができた。

大根島の由志園




(2009年1月17日記)
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徒然119.家電製品の寿命

 いまのマンションに移って、はや12年もの年月が経ってしまった。そこでというか、やはりというか、家中の家電製品が、経年劣化で次々にダウンするようになった。わずか2ヵ月前の昨年10月に、テレビが壊れてしまってから、年末には電気冷蔵庫がおかしくなった。漏れ出てくる音がビーン、グァーンなどと、大きくなったなぁと思った数日後、急に止まってしまった。いったん電源を切って1時間後に入れ直したところ、再び動き出したものの、何か元気がなく、嫌々で無理無理に動いているようだ。あぁ、これはもう寿命だと思った瞬間、敵もそれを悟ったらしくて、これでご奉公はおしまいっとばかりに、ヒュルルッと音をたててからパタッと完全に動きが止まってしまった。こういうのを以心伝心……とはいわないか……ともあれ、いずれにせよ、ご臨終の時を迎えたようだ。長い間、家族4人がお世話になりました。本当にありがとう。

 ああまた壊れちゃったと思いつつ、仕方がないので、まずはネットの「価格ドット・コム」で電気冷蔵庫を探そうとした。その前に、自宅の台所の冷蔵庫スペースのサイズを測る。やっぱり、小さいなぁ。これをマンション・サイズというそうだ。台所の左奥に置くので、扉は、右手に蝶つがいがあるものでなければいけない。しかし、もう家内と2人暮らしだし、スーパーも歩いて2〜3分の近くなので、そんなに大きな容量のものは必要がない。ええ……、それでネットではと……、売れ筋などというのがあるけれど、ウィスキーの製氷器など、我が家には不要な機能が満載で、どれもピンと来ない。価格はというと……、あれあれ、いずれも昨年秋から2〜3割近くもダウンしている。アメリカ発の金融危機の影響らしい。14万円だったものが、8万5000円というのは、40%もの値下がりで、これが一番すごい。でも、現物を見に行かないとよくわからないし、それに冷蔵庫の場合は古いものの廃棄処分が必要だから、玄関先に新品を届けてもらうだけでは何ともならない。そういうわけで、これはどうだろうというものをいくつか目星をつけてから、家内と有楽町のビックカメラに行くことにした。

 売り場に着いてみたところ、気のせいか、あまりお客がいない。これも、リーマン・ショックのせいなのだろうなぁと思いつつ、冷蔵庫の売り場に行った。すると、目の前にあったのが、ネットで目星をつけていた東芝の冷蔵庫である。サイズをチェックすると、我が家にぴったりである。扉を開くと、売り文句のとおり確かに外形の割には容量が大きい。例の製氷器もあるが、使わなければその部分だけ停止できるらしい。まさに、省エネだ。家内も、これでよいという。ただ、お値段がネットよりも数千円高くなって、ほぼ10万円近いが、これくらいは、我慢の範囲とばかりに、その場で決めてしまった。

 そういうわけで、新年は、新しい冷蔵庫で過ごすようになった。ああ、これでひと安心と思っていたら、また家内の天の声。「あなた、炬燵が点かないわよっ!」 おお、今度は電気炬燵の中央のヒーターがイカレタらしい。リモコンを押しても引いてもダメ。ソケットを入れ直しても、うんともすんともいわない。実はこの中央のヒーターは、元のヒーターが10数年前にいったん壊れた後、その後釜として、この部分だけを入れ替えたものである。それがまた、壊れてしまったというわけだ。「我が家って、ホントに物持ちが良いなぁ。もうこの炬燵、20数年も使っている」などとというつまらぬ感想が一瞬、頭の中をよぎる。次の瞬間、「ああまた有楽町のビックカメラに行かなきゃならないのか」と思って暗澹たる思いでいたところ、再び家内の声。「そういえば、このヒーターの箱が、収納スペースの上の方にあったわよ」 ええっ、それなら、話は早い。それを探しに行くと、すぐに見つかった。三洋電機製のものだ。

 その型番をグーグルに打ち込んだところ、楽天に出品しているイーなんとかという会社が、それを売り出していた。しかも、8000円という安値である。全く同じものを、こんなに長く製造しているメーカーも偉いが、そんなマイナーなものをネット市場に出品してくれている会社もこれまた、偉いと思った。いやいや、これがネットの世界の便利なところかもしれない。そこで早速、クレジット・カード払いでこれを購入した。3日後に届いたものを炬燵に付けてみたところ、何の問題もなくそのまま使えたという次第である。これは、楽勝の部類に入るだろう。

 というわけで、経年劣化で次々に問題が起きつつある我が家の家電製品であるが、ネットのおかげて、なんとか対処できている。それにしても、次に壊れそうなのは何かと周囲を見渡せば……電気洗濯機、ガス給湯設備という大物が、まだ残っている。それがいささか不気味ではあるが、今年も、ネット大明神の助けを借りつつ、無事に過ごしたいものだ。おっと、家電製品の心配をする前に、家内や自分の健康にも注意しなければ。



(2009年1月14日記)



【後日談】結局、それからすぐに電気洗濯機が壊れ、3年後にガス給湯設備も壊れて、それぞれ30万円と24万円の物入りだった。電気洗濯機は高いなと思ったけれど、それだけの価値はあった。とりわけ乾燥機の性能が素晴らしくて、洗濯物を外に干す必要がなくなったからである。




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