佐原 〜 伊能忠敬の町
伊能忠敬翁


詳しい写真は、こちら。


 家内と、まだ見たことがない佐原の町に行ってみた。伊能忠敬翁の出身の町として有名だが、関東近辺では、西の川越とともに、小江戸と並び称される。地理は、坂東太郎といわれる利根川の沿岸にあり、千葉県の北端に位置する。この近辺の物資の集積地として古くから栄え、水運業だけでなく、酒や醤油の醸造元が数多くあったという。町を二分するように小野川が流れ、その両脇に古くからの商家が立ち並んでいる。川岸には柳の並木が植えられ、その有様は、瀬戸内海の倉敷の旧市内を彷彿とさせる。



 その小野川を舟で遊覧させてくれるようになっていて、伊能忠敬翁の屋敷跡から出発し、川を少し遡ってJRの線路付近まで行き、引き返してくる。きょうは土曜日なので、町内の有志が、佐原祭の太鼓と囃しの音を聞かせてくれる船が仕立てられた。両岸には、その賑やかな祭囃子に観光客が聞き惚れて、私たちもそのひとりとして欄干に肘を乗せてうっとりしていた。

 7月の夏祭りと10月の秋祭りには、それは見事な山車がたくさん出るようで、その山車を格納してある水郷佐原山車会館に行ってみた。ここには三つの山車が展示してあるだけだが、それでも、高さ6メートルの山車を間近に見ると、誰もが異口同音に「わあ、大きい!」と口に出す。ヤマトタケル尊などは、我々も江戸祭で見慣れているが、ここには縄で作られた大鯉があって、実際の祭りでは、縄製のタカとともに、あまり例を見ない山車となっている。特にこちらの大鯉は、ビデオによると、祭りの間には、口をパクパクさせているようで、それが何ともチャーミングに見える。今度、秋祭りを見に来よう。

手前には縄製の大鯉


 さて、伊能忠敬翁の話に戻るが、翁は1745年に生まれ、1818年に73歳で没した江戸時代末期の人で、酒や醤油の醸造それに貸金業を営む伊能家に婿養子に入ったあと、50歳ころまでは商人として活躍し、財産を築いた。そののち、家督を長男に譲って江戸に出て、江戸幕府の天文方だった高橋至時に師事し、測量と天文観測などを修めた。ちなみに高橋至時は、忠敬の19歳も年下であったという。寛政12年(1800年)、56歳の時に、思わぬチャンスが訪れる。幕府に地図を作ると申し出て、子午線の長さを測量しようと計画した。忠敬は、私財をも投げ打ち、この第1次測量を遂行した。それが非常に精緻なものだったために、次第に幕府も力を入れるようになり、最終的には、大日本沿海輿地全図を作成した。これは、今から見ても相当な精度であり、明治期になって現代的な地図が作られるまで、近代日本を代表する地図となった。しかし、その本当の評価を受けるのは、忠敬の死後40年を経過したのちのことである。

 伊能忠敬翁の足跡を地図上でたどってみると、北は北海道から南は九州まで、実に4万キロという地球一周に相当する距離を、テクテクと自分の足でよく歩いたものだと感心するばかりである。20歳台やら30歳台ならばともかく、これを56歳から始めたというのは、どれほど大変なことか・・・、しかも、単に歩くだけでなく、歩数を数え、測量をし、それを細かい字で記録しながらのことであるから、いやはや、偉業というべきか、艱難辛苦の果てというか、これを評する言葉もない。比叡山廷暦寺の千日行すら、この偉業の前には、色褪せてみえる。単に、脱帽して最敬礼するのみである。


伊能忠敬の伝記は、こちらに詳しい。





(2008年9月27日記)





カテゴリ:写 真 集 | 00:08 | - | - | - |
新司法試験合格者の話

 今年、新司法試験に合格した皆さんから、話を聞く機会があった。皆さんが一様に指摘していたのは、「法科大学院に在籍していても、『書く』機会が非常に少ないので、もっと増やしてほしい」ということである。『書く』とは、もちろん答案のことで、期末試験程度しか機会がないという。考えてみれば全くその通りである。司法試験という関門は択一と論文のふたつの試験から成るが、択一は答が比較的はっきりしているから自分で勉強できるけれども、論文は内容をわかっている専門家に見てもらわないと、自分が書いたものが果たしてそれでよいのか、あるいは間違っているのか、よくわからないはずである。

 法科大学院の授業は、もちろん在来の法学部の教員が主体であることから、基本的には昔ながらの一方通行の講義が中心となるし、学生さんもそれに慣れっこである。アメリカのロースクールでは、ソクラテス・メソッドがよく見受けられることから、日本でもなるべくこうした手法を取り入れるように言われているので、これを上手にやれる先生はよいが、全員が全員とも、そうではない。まあそれでも、今やかなり普及しているといえる。かつて学生さんに聞くと、これは実際の試験でも非常に役立ったと語っていたが、最近ではそれは既に織り込み済みで、学生さんたちの関心は、新たに『書く』練習へと移ってきたようだ。

 しかし、何十人もの受講者がいるような授業をいくつも持っていると、試験以外に、いや試験ですら、学生の書いたものをいちいち見てコメントすることは、大変な労力を要する。こんなことをしていては、研究に差し支えるし、ほかに仕事もあるということで、御免こうむるという先生が多い。これも確かにそのとおりで、学生の要望は応じられないということになる。

  ところで、私は未だもって「在来の司法試験の受験勉強と、法科大学院での授業とは違うのだ」という主張というか、今や金科玉条のようになっている考え方について、その意味するところがよくわからないのである。しかし、たぶん、こういうことを言っているのではないかと思う。それは、在来の旧司法試験は、予備校でのワンパターンの論理と論証を記憶したところを書くだけの試験にとどまっていたが、法科大学院の授業と新司法試験は、もっと多様な観点から幅広く課題の解決に役立つ能力をもった法曹を育てるのだというものである。・・・しからば、予備校でのワンパターンの論理と論証は、新司法試験には役立たないはずだと思うのだが、新司法試験とて、日数が限られた中での試験なのだから、そのうち予備校の受験指導技術が追い付いて、元の黙阿弥になってしまうのではないかと危惧するところである。まあ、それは余談だが・・・

 いずれにせよ問題は、上記の金科玉条の考え方が効き過ぎていて、学生の書いたものを批評することすら差し控えるような雰囲気が、なきにしもあらずという点である。しかし、もともと法科大学院は専門職を育てるところなのだから、ちゃんとした法的文章が書けなければ、たとえ司法試験が受かっても、何の役にも立たない法曹を生み出すことになりかねない。

 したがって、私の授業では、(まだ文句をいわれたことはないが)誰が何と言おうと・・・それに、標榜する科目の性質もあって・・・、毎回、A4で2枚程度の分量で法律の論文を書く課題を出してきた。その意味では、『書く』を先取りしてきたことになる。というのは、口でへらへら言うことは、誰でもできることなのだけれど、いざそれをペーパーに書くとなると、内容がわかっていないと、なかなか書けないからである。実務には『書く』ことが一番なのである。そうすると、ホントにいろいろなことを経験した。中にはインターネット上の論文の丸写しというものもあったし、箇条書きの社内の企画書風のものもあった。あるいは、14ページ書くのに丸3日かかったという大論文もあった。このうち、他人の論文の丸写しなどは論外だが、時間がかかっても自分で書いたものには、それなりの思考が込められている。授業ではそれを、法的発想のレベルに引き上げ、それから論理構成を作り、最後に論証というのは、こういう風に書くと説明をした。

 そうすると、14回の授業が終わる頃には、かなりの学生が、まあまあのレベルに達してきた(と思っていた)。期末試験では、学生さんたちがどういう答案を書いてくるのか待ち構えた。試験直後、模範解答案と採点基準とをネットに掲載した。いざ答案が手元に来て、それを採点していくと、その評価は、受験者数の10%のA+と、30%のがまあまあの水準で、合わせて全体の4割だった。少ないかもしれないが、元々は未修者であるし、最初の時点と比較すれば、はるかに良くなったというのが実感である。ちなみに、今年の司法試験の合格率は33%だから、そんなものかもしれない。

 私の試験を受けた人のすべてにコメントを書いて差し上げたのだが、以上の人は良いとして、困ったのが、の人である。このうち、の人は、書き方はそれほど悪くないのだけれども、論証の進め方が間違っていたり、あらぬ方に飛んでいたり、少しも説得的でなかったり、大事な論点が抜けていたりする。だから、そういう点をいちいち挙げ、指摘して差し上げた。これを直すのはそう簡単ではないが、よく専門書を読み込めば、直せないわけでもない。

 それは良いとして、の人の書いたものは、単なる感想文のレベルにとどまっていたり、または知識や論理が出鱈目だったりするから、これを実務や試験に受かるレベルに持っていくのは、はっきり言ってラクダを針の穴に通すようなものだ・・・。それでも、コメントには、専門書をもう一度、最初からよく読み返しなさいよと書いて差し上げたものの、勉強態度そのものから変えないと、なんともならないのではないかと思う。

 それとも、そもそも向き・不向きの問題かもしれない。どういうことかというと、法律の勉強には、人の思考を鋳型にはめるような嫌味なところがあるから、たぶん、そんなことはご免こうむって、自由人でいたいというタイプなのだろう。こういう方は、この分野には向いていないということで、さっさと進路を別方面に転換した方が本人のためだと考える。もっとも、今の法科大学院は早めに引導を渡すようなシステムにはなっていないし、今の日本で仮にこれをやったりすると、本人が受けるショックをどう緩和するかという問題はさておき、学園をゆるがす大問題になるかもしれない。これというのも、平均の合格率が33%(2008年)という数字がもたらす冷徹な現実のひとつであろう。

 そのほか、新司法試験合格者がしていた話として、「隠れ未修者」というものがある。これは、実は法学部出身で法律の勉強をしていたのだけれども、いざ法科大学院に入学する段になってどうも自信がないので、未修者となることを選択した人たちのことを指すらしい。しかし、それも良し悪しで、1年生のときは学部時代の蓄積があるから純粋な未修者よりは知識があるので、さほど勉強しなくとも授業に付いていける。ところが、そういう調子でのんべんだらりと勉強をする「怠け癖」がついてしまうと、2年・3年となって授業内容が次第に難しくなると、たちまち落伍してしまうことになるという。なるほど、そういうことがあるだろうなと思う。

 また、「未修外し」というのがあると聞いて、そんなことが現にあるのかと驚いた。純粋な未修者には、周囲がわざと、勉強をさせないように持って行っているというのである。具体的には、あまりに素人っぽい質問には、わかっていてもわざと答えない。授業で、次回はこういう課題について書いて来るようにと先生から説明があったのに、その日たまたま休んだ数人の学生のうち、どういうわけかそういう人だけには連絡が行ってなかったとか、まあそういう話である。確かに同じ試験を受けるというのはライバル関係に立つわけではあるが、こういう話が本当だとすると、まことに寒々しい話ではないか。これというのも、単に最近の学生の心の貧しさのせいだけでなく、合格率が33%という低さのせいでもあると思うが、いかがであろうか。これが、当初のもくろみ通り、合格率7〜8割であれば、もっと豊かな学生生活が送れるはずである。もっともその場合は、そもそも法科大学院への入学段階で、同じことが起こるのかもしれない。




(2008年9月26日記)



カテゴリ:エッセイ | 19:28 | - | - | - |
丸の内カウパレード
丸の内カウパレードの牛


 私がよく散歩する東京・丸の内地区のあちこちに、カラフルな牛たちが出現している。これは、そもそもスイスが発祥の地であるが、今や世界的なパブリックアートイベントとなったもので、その名も「カウパレード」というらしい。9月はじめから1月半の期間限定で行われているとのこと。確か2年前と5年前にも同じイベントがあって、そのときは、いったい誰が何のためにと驚いたが、もう3回目になると、「またか、UFOみたいに人騒がせな」と思ってしまうから、慣れというのは恐ろしい。

 それにしても、この牛さんたち、なかなかの出来である。背中に宇宙を背負っているものがあるし、ポップな女性の上体がそのまま牛の背中にすっぽりとはまっているものもある。私はまだ見つけられないが、一体だけ、牛が仰向けになって皿回しをやっているオブジェもあるらしい。そうそう、月光仮面を模した牛もあった。その名も「そんなはずではなかった。月光カウ面」。これなど、作者の年齢がわかるというものだ。もう還暦を過ぎているはずである。古いなぁ。もう、まったく・・・何でもありなのだから・・・。

丸の内カウパレードの牛


 このイベント終了時には、展示したこれら73体の牛を、チャリティー・オークションで販売して社会貢献事業団体に寄付をするというから、これまた、お騒がせのような、世の中の役に立っているような、いないような。こんなものを、誰か買う人、いるのだろうか・・・。まあ、とくとご覧あれ。

全体の写真は、こちら


月光カウ面は、こちら


これは、カウパレードとは関係ないが、普段から気に入っている像。丸の内通り沿いにある。





(2008年9月19日記)




カテゴリ:写 真 集 | 22:43 | - | - | - |
第3回新司法試験の合格発表
元祝田橋庁舎跡地で行われた第3回新司法試験の結果発表


 平成20年9月11日、第3回の新司法試験の結果が発表された。私が教えた皆さんも、今回受験したので、その結果が気になっていた。発表の場所は、私のオフィスからほど近いところにある。ただ、発表の当日は受験者ご本人たちがそれを見たいだろうから、行くのは遠慮することとして、その翌日お昼に立ち寄ってみた。

 それは、法務省ビルの隣にある元祝田橋庁舎があったところである。前回と同じところだ。しかし、もはや庁舎は取り壊されていて、その空き地に塀だけが残っている。その塀には、ついこの前まで、「裁判員 参上!」という看板が掲げられていて、当時の法務大臣からまるで暴走族の用語だと批判を受けた曰く付きのところだ。そんなところに、ポツンと、法務省掲示板があって、その中に細かい字で合格者の名前と受験番号が書いてある紙が貼られているだけである。何とまあ、そっけないことか。新司法試験を受験した皆さんはそれぞれ、何しろベンツを一台買えるぐらいの授業料やら生活費を費やしたわけだから、せめてそれに報いてあげる意味でも、もう少しマシなところで発表してあげればよいのにと思ったくらいである。

 その掲示板を見ようとしたが、何しろ字が細かいし、他にそれを見ようとしている人も数人いる。そこで、その場はあきらめて、だれか合格者名簿をネットに載せないかと思いつつそのまま帰った。家でグーグル検索をすると、案の定、合格者名簿が載っているではないか。それをゆっくりと見ようとしていたところに、合格した教え子のおひとりから、お礼のメールが入った。その人は、私の授業では最初の回の課題をやっていただいた方で、その人の文章を見ただけで、「ああ、この人は、もう完成している」と思ったことを覚えている。法律の分野で生きるにはまず法的発想力が大事で、加えてそれを論証して他人を説得する文章力がないと、実務もできないし、もちろんその前に試験にも受からない。その点、この方は、その両方を備えていることが見てとれたので、あとは実例をたくさんこなして、経験を積んでいけば、どんどん伸びるタイプだと思ったことを覚えている。現に、こうして最短で合格されたので、私も、心からおめでとうと申し上げた次第である。

 そのほか、私が検索した限りでは、今回受験した7名の方のうち、5名が合格していた。同姓同名ということも、なきにしもあらずだが、このまま正しければ、教え子の合格率は既修と未修を合わせて71%だから、全体の合格率が33%の中でまずまずというところである。ただし、名前のなかったAくんとBさん、残念だろうなぁ、落ち込まなければよいのにと、心配になる。特にこのうちのおひとりは、学友と夜間に勉強会を開くなど、学習意欲があって、とても積極的だった。ところが、期末試験では、文章としては法律の論文調になっていて大変に結構だったのだが、残念なことに、答える方向を最初から間違えていたのである。ご本人も、試験の点数が低くて疑問に思われたらしくて、採点結果の説明を求めて来られた。そこで、その点をコメントするついでに、最初の論理構成をもっと慎重にしてはどうかとアドバイスした記憶がある。やはり、そういう弱点が出てしまったのかと思う。反対に、うれしい誤算だったのはCくんである。この方は、いかにもエンジニア出身の文章を書くので、失礼ながら少し危ないかもしれないと思っていたが、・・・受験地が東京ではないので、同姓同名ではないかといささか気にはなるが、それはともかく・・・ちゃんと同じ名前が載っていたので、とてもうれしかった。人間、やってみるものである。

 さて、それでは、第3回となる今年の全体の結果を見てみよう。合格者の数は、2065人と、昨年の1851人と大差なく、事前に予定されていた2100〜2500人というレベルには届かなかった。受験者数は6241人で、前年の4607人から更に1634人も増え、その結果、合格率は33%と、前年の40.2%を大きく下回った。これは、今回の受験者が卒業した法科大学院の数が74校と、前年の65校から大幅に増えたこと、そして前年までに合格できなかった受験者が引き続き受験したことによるものである。昨年、私は今年の合格率は26%〜31%ではないかと見込んだが、それよりは合格率が良かった。これは、必ずしも喜ばしいことではない。というのは、昨年と同様に5年間で3回しか受験できないという新司法試験の受験回数制限のため、特に未修者の人たちが受験を見送ったからではないかと思われる。現に、出願者と受験者の差が1601人にもなっているのには、びっくりした。

 これを大学別に見ると、トップの5校の合格者と合格率は、次のようになっている。上位三校の合格率がほぼ同じであるのは、面白い。早稲田の合格率が低いが、これは例のとおり、入試制度の関係で既修者の数が非常に少ないからである。それにしても、京都大学の合格率の低さは、いささか意外である。

 東京大学  合格者200人 合格率55%
 中央大学  合格者196人 合格率56%
 慶應大学  合格者165人 合格率57%
 早稲田大学 合格者130人 合格率38%
 京都大学  合格者100人 合格率41%
____________________________________________
  平 均          合格率33%

 それでは、既修者と未修者別にこれらの大学の合格率を比較すると、次のようになる。東京大学、慶應大学及び早稲田大学の三校の既修者と未修者の健闘が光る。なかでも東京大学と慶應大学の未修者の合格率がそれぞれ39%、37%というのは、特筆すべきものと思う。( )内は、合格率。

 東京大学  既修者155人(62%)、未修者 45人(39%)
 中央大学  既修者179人(65%)、未修者 17人(22%)
 慶應大学  既修者135人(64%)、未修者 30人(37%)
 早稲田大学 既修者 20人(77%)、未修者110人(34%)
 京都大学  既修者 84人(48%)、未修者 16人(22%)
_____________________________________________
  平 均  既修者 合格率 44%、 未修者 合格率 22%


 法科大学院別に順位と合格率を付した結果は、別の表を見ていただきたいが、これを眺めると、合格率が10%を切るような法科大学院は10校もあり、うち3校は合計で59人もの卒業生を受験させながら合格者がゼロとなったことがわかる。こういう法科大学院は、いったい何なんだろうと思う。こうした法科大学院での3年間は、高い学費を払わせながら、その学生に単に一時の夢を見させるだけではなかったかという気がしてしまう。罪作りなものである。かくなるうえは、法科大学院の再編は、もう避けられないと思うが、いかがであろうか。




(2008年9月18日記)






  第3回新司法試験の最終結果

 最終合格者数:2065人

 【発 表 日】 平成20年9月11日発表
 【出願者数】 7842人(前年は、5401人)
 【受験者数】 6241人(前年は、4607人)
 【短答合格】 4654人(前年は、3479人)
 【合 格 率】 33%  (前年は、40%)


 【総合得点】
  最高点:1407.84点、最低点:564.40点、平均点:930.64点
  (前年はそれぞれ、1398.83点、586.32点、941.69点)
 【合格者内訳】
  最高年齢:59歳、最低年齢:24歳、平均年齢:28.98歳
  (前年はそれぞれ、56歳、24歳、29.20歳)
  男性:1501人(72.69%)、女性564人(27.31%)
  (前年はそれぞれ、1334人(72.07%)、女性517人(27.93%)
  受験回数1回目:1312人、2回目:633人、3回目:120人
  (前年はそれぞれ、748人、247人、14人)

 【既修未修】
  既修者法学部   1182人
  既修者非法学部   149人
  未修者法学部    436人
  未修者非法学部   298人



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徒然103.高校の同級生の消息

 たまたま、高校時代の同級生はどうしているかなと思って、自分の出身高校のサイトを開いてみた。数年前から、私の期のページができている。それに入っていくと、次回の同窓会の出席予定者のリストや何やらが載っていて、その中に「不明者リスト」というものがあった。それを見ると、1クラスで10名前後が連絡先不明となっている。その中に、A君の名前があった。

 A君は、短髪の細面で、色白のハンサムな好男子だった。物静かで合唱やら音楽が好きで、クラスの皆の前に出て、タクトを振って指揮する姿がすばらしくて、女生徒の憧れの君だったのである。そして、高校卒業後は私と同じ大学に進み、私は法学部、彼は文学部と、学部は違ったものの、時折キャンパスで会えば話をしたりする仲だった。しかし、大学の卒業時に私は東京で実務に就き、彼は郷里に帰ったとの噂を聞いたものの、それきりとなってしまっていた。

 そういうわけだから、A君がとても懐かしく、大学卒業後30数年の年月が経っているが、どうしているかなと折にふれて気にはなっていた。連絡先不明者リストにA君の名前を見つけたとき、そういう思いがふっと脳裏をかすめ、次の瞬間「そうだ、グーグルで調べてみよう」と思った。そこで早速、彼のフルネームを打ち込んでみたところ、何とまあ、彼らしき人の顔写真が、その履歴とともに、検索結果のトップ出てきたのである。

 それは、郷里近くの市の合唱団の指揮者の紹介である。それによると、「学生時代から本格的に合唱をはじめ、P合唱団などに所属。現在はK合唱団技術委員長。県立高校の教師を32年間つとめ、社会科を教える傍ら、合唱部、吹奏楽部、オーケストラ部などを指導・指揮し、自身もピアノとチェロを弾くなど、音楽的経験も知識も豊富です。語学にも強く、話せるのは、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、スペイン語、イタリア語など。他には、囲碁、夏の山歩きなどの趣味を持ち、岐阜県内の高台に音楽堂を所有。昨年、定年を前にフリーとなられたのを機に、市民合唱団の指導者としてお迎えしました。長年教鞭をとっておられただけあって教え上手で、またクリスチャンであることで、今練習中の『メサイア』では、いろいろと内容を深く説明して下さいます。」

 ところが、彼の写真には、正直いって、びっくりした。髪の毛が、その何というか、カールして、もしゃもしゃで、あまつさえ、それが両肩方面に伸びていることから、ベートーベンの髪型そっくりである。確かに、これはいかにも芸術系の人のスタイルである。学生時代はこんなむさ苦しい(失礼!)ような印象ではなかったなぁ・・・。それでも、肉付きの良いお顔を拝見し、どこか昔の面影はないかと探したら、あった、あった。アルカイック風の、その物静かな笑い顔が、昔を偲ばせるではないか。やはり、これは私の探しているA君だった。

 そのほか他のホームページを探すと、岐阜県内にあるという彼の音楽堂に招かれたという人のブログがあった。それによると、A君とその奥さまとともに、弦楽四重奏を楽しんだという。これに対するA君ご本人のコメントは「自分で言うのも変だけど、楽器はいっぱいあるし、空気はきれいだし、いいところですよ」とのこと・・・さもありなん。その合奏のときの写真も掲載されているので、A君の奥さまのお顔もわかってしまった。

 それどころか、最近彼はイタリア留学までして、それを自費出版した書物にまとめたらしい。曰く「五十代後半にさしかかっても、いまだに書生っぽさが抜けない私。思い切って仕事をリタイアし、第二の人生の出発の記念にやったことが、イタリアへの語学留学だった。」とのこと。おお、すごい。よくこんなことをする元気があるものだ。

 それにしても、英独仏露西伊語ができる! 合唱・吹奏・オケを指揮する! ピアノ・チェロが弾ける! 囲碁・夏の山歩きをする! 音楽専門の別荘を持っている! 本当か、これは・・・。もちろん私は、下手な英語を除いて、どれひとつとして、できないし、やらないし、持ってもいない! 何とまあ、私とは対照的な人生であることか・・・。

 A君、元気で本当によかった。また、好きなことを生涯することができて、誠に結構なことである。私も、まるでA君と再会したような爽快な気分である。けっこう、けっこう、もうひとつ結構・・・ただ最後に、インターネットで、こんなことまでわかってしまって、これで良いのだろうかということが、大いに気になったのである。




(2008年9月16日記)






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カテゴリ:徒然の記 | 23:54 | - | - | - |
広島・島根・山口・福岡の旅(写 真)

 9月の初めに、家内と2人でツアーに参加した。

 呉では大和ミュージアムに行って戦艦大和の模型を見て、広島では改めて平和の尊さを感じ、宮島では厳島神社の夜の大鳥居クルーズに参加し、世界文化遺産・石見銀山では暑い中を歩き、秋吉台では秋吉洞にもぐり、萩では雁島別荘に泊まって萩城下の武家地区を見学し、下関の春帆楼でふぐをいただき、最後に門司レトロ地区を散歩したときの写真である。

 ああ、疲れたが、良い記念となった。・・・。 (写真索引)



戦艦大和ミュージアムの写真は、こちら   広島平和記念資料館の写真は、こちら



宮島の厳島神社参拝の写真は、こちら   石見銀山と昔の町並みの写真は、こちら



秋吉台と秋芳洞に入るの写真は、こちら   雁島別荘に滞在するの写真は、こちら



萩の武家屋敷を散歩の写真は、こちら   下関と門司レトロ地区の写真は、こちら





(2008年9月15日記)





    
カテゴリ:写 真 集 | 21:40 | - | - | - |
広島と平和
広島の原爆ドーム


広島平和記念資料館の写真は、こちら


 ツアーの最初の日、呉で大和ミュージアムを見学した後、バスで広島に向かった。市内に着き、元安川の橋を渡る前後に、原爆ドームを見た。ああ、これだった・・・。40年前と少しも変わらない姿だ。既に世界文化遺産の登録されているそうだ。そして、広島平和記念資料館で降りて、まず入口で平和の鐘を見たあと、広島への最初の原爆投下の日と最後の核実験の日から、それぞれ何日が経っているかを数えている平和監視時計を見る。これで、最後の核実験の日から、わずか2年なのかと知る。北朝鮮かパキスタンなのだろうか。

 広島平和記念資料館に入る。かつて私は、高校の修学旅行でここに来ていて、原爆による熱光線で焼き付いた人影の石や、折り鶴を作りはじめた佐々木禎子(さだこ) さんの話を知って、たいへん衝撃を受けたことがある。今回もやはり、同じ展示があって、そのときに受けた悄然とした思いが心に蘇った次第である。

 近年、その青春を太平洋戦争期に過ごした年代の方が次第にお年を召されてきた。かつて、こういう人たちにかかると、軍事的なるものには、何でもすべて徹底的に反対ということだった。国を運営する上では、これはこれで少し困ったものである。しかし最近のように、戦争を経験していない世代が増えてきて、国論の中心を担うようになってくると、風は全くの逆向きに吹いてくるようになった。つまり、政界のみならず言論界でも、軍事面で「勇ましい意見」が強まるようになってきたと思う。

 私などは、戦後生まれの世代に属しているが、それでも小さいながら、空襲で廃墟となった大都市の姿をまだ覚えているし、戦争未亡人だった貧しい家庭も知っている。繁華街に行けば、白衣を着た本物の傷痍軍人さんたちをよく見かけたものである(先般、おばあちゃんの原宿、つまり巣鴨の商店街で、このスタイルをした傷痍軍人もどきの物乞いの人がいて、心底びっくりした)。それにこの、広島長崎の原爆の話も学校で繰り返し教わり、「原爆を許すまじ」の歌も、小中学校で歌わされた記憶がある。そういうわけだから、最近のそういう「勇ましい意見」の人たちは、その結果どうなるのか、本当にわかっているのかと思ったりする。

 もっとも、外交や軍事は、国と国とのやりとりなので、いろいろな手練手管をすべて繰り出すには、多少は勇ましくても、それは許容される範囲であろう。しかし、その先まで深く考えないままに、単に勇ましいだけなのではないかと、一抹の疑念がある。それでは済まないのではないかと思う。ただし、現に、どうにも困った隣人がいたりすると、きれい事ばかり言っておれないのも事実である。苦しくともそれを力に頼らないで、外交で解決するというのが理想であるし、それが戦後日本の目指してきたところではないだろうか。そうこう考えているうち、私自身も、そのうちリタイヤの時期を迎えそうだが、国を運営する上での最重要課題として、次世代の人々には、よくよく心に留めておいてほしいものである。 

平和公園内にある原爆慰霊碑


 資料館を出て、平和公園内にある原爆慰霊碑に歩いて行った。ここには、被爆者の過去帳を納めてあり、古代の埴輪の馬の鞍をモデルにしている。ほんの数日前、アメリカのペロシ下院議長(民主党・女性)がやって来られて、ユリなどの花束を捧げてくれたようで、それが残っていた。お参りをしてふと左の方を見ると、青空にへんぽんとはためく美しい日章旗が、目にとまった。空の青さと日章旗の白と赤の色が、どことなく空虚になっていた私の心に沁みた。
 
平和公園内で、青空にへんぽんとはためく日章旗。美しい。


 帰りのバスで、ガイドさんが偶然にも、「原爆を許すまじ」を歌ってくれた。今ではこの歌は、公式の場ではあまり歌われなくなって、専ら3代目の歌が有名らしいが、私たちの世代には、この歌の方がなじみ深いし、世代を超えて語り継いでいってもらいたいものである。




 「原爆を許すまじ」(浅田石二作詞・木下航二作曲)

  ふるさとの街やかれ
  身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度(みたび)許すまじ原爆を
  われらの街(まち)に





(2008年9月14日記)



カテゴリ:エッセイ | 20:40 | - | - | - |
萩の雁島別荘
雁島別荘の応接室


雁島別荘に滞在するの写真は、こちら


 旅行の2日目の晩、萩で泊まったところは、雁島別荘(がんじまべっそう)といって、どうやら萩焼きの窯元のようなところが経営しているようである。一言で感想をいうと、たいへん良かった。窓を開ければ松本川と、その川岸に係留している漁船群やカモメが見える。ベランダや風呂からそれを眺めると、心からのんびりした気分になる。


雁島別荘のさざえの刺身


 ここは本来は料亭で、4年前に20室の客室棟を建設したという。われわれの泊まった部屋はもちろんその中にあるが、そこから本来の料亭部分に行ってみると、内部はアール・デコ調で、なかなかシックな味わいがある。いつも流れているバック・ミュージックを聴きながら、ソファーに座って新聞を読むと、なるほど、これは別荘そのものだという感じがするのである。


雁島別荘のお風呂



 それに、本来は料亭だっただけに、食事がとてもおいしかったことを一言、申し添えておきたい。今度、萩に行ったときは、同じ経営の北門屋敷というところがあるので、ここに長逗留してみたいと思っている。




(2008年9月13日記)



カテゴリ:エッセイ | 20:25 | - | - | - |
下関と門司
春帆楼の入口の額とテーブル


下関と門司レトロ地区の写真は、こちら


 これでも、下関に行ったのかと言われそうだが、昼食を春帆楼で食べ、その隣の赤間神宮に参って、あわただしく門司へと向かったから、まあ行ったうちに入るのではないかと思っている。春帆楼は、いわずと知れた日清戦争の講話条約交渉が行われた地であり、我が国のフグ料理免許第1号の料亭でもある。それに、春帆楼のマッチ箱には、昭和33年と38年に、天皇皇后両陛下がおいでになったとある。

 行ってみると、建物が結構な坂の上にあるだけでなく、その坂の両脇には駐めてある車がたくさんあって、何か落ち着かないところである。店からは関門海峡が展望できるはずのところ、なんとまあ、正面に変な安っぽいビルができていて、景観が台無しになっている。そのビルの両脇に目をやると、行き交う船がやっとこさ見えるという情けない有り様である。

 これでは、ダメだ。しかも、出てきた料理には、確かにフグ刺しがあったものの、少しも、うまくない。団体扱いだったせいかもしれないし、おいしいものは、東京に集まっているのかもしれない。それとも、夜の最低25,000円以上という料理のためにとっているのかも。まあともかく、行ってがっかり、見てがっかり、食べてまたがっかりというところである。

 老舗ということで、何もしないまま胡座をかいていると、そのうちどんどん周囲が変わっていって、いつの間にか最後尾に位置するようになる。そして、伝統というむなしい誇りだけが残るということになりかねない。景観を損ねる向かいの変なビルを建てた人も人だが、そういうことをあらかじめ予想して、事前に手を打てなかったのかと思う。これなどは、今となっては直ちに解決することはできないだろうが、その代わり現在すぐにできることは、たとえば建物の周囲に駐車させないとか、いくらでもあると思う。特に料理は、経営者が自ら食べてみれば、どんな味なのか少しはわかるはずである。いささか、残念である。

 その建物の隣には、日清講和記念館という黄色の建物があって、その中に、実際に条約交渉で使われたテーブルと椅子がそのままの形で置いてある。これは、一見の価値があると思う。


日清講和記念館の中に展示してある条約交渉で使われたテーブルと椅子


 その春帆楼の隣が、赤間神宮である。そのホームページには、とても難解にその由来が書かれてあるが、要は、約800年前の壇ノ浦の合戦で平家一門と共に入水された安徳天皇(当時8歳)を弔うために建てられたもので、御影堂を称されていた。明治維新以降、社号を赤間宮、そして赤間神宮と改められた。ガイドさんによれば、入水するとき、安徳天皇からどこに行くのかと聞かれた平二位の尼前が「今ぞしる みもすそ川のおんながれ 波の下にも 都ありとは」と詠んだことにちなみ、水中の都、つまり竜宮城のような形の門(水天門)にしたという。壇ノ浦とはどこかと思えば、この目の前の海峡だという。そうか、こんなところだったのかと初めて知った。それにまた、赤間神宮の境内には平家一門を祀る塚もあるし、「耳なし芳一」の物語の舞台であることでも有名である。実際に、耳なし芳一を祀る祠も、その平家の塚の脇にある。

赤間神宮の竜宮城のような形の水天門


 さて、そこから中国自動車道路の関門橋を渡って、対岸の門司に向かった。すぐに門司港に着き、レトロ地区を散歩してくださいとのこと。何だそれはと思ったが、行ってみてわかった。あちこちを、昭和初期のような雰囲気で統一している。たとえば、門司駅は、木製で、待合室やら食堂まで、昔の雰囲気なのである。だいたい、横方向に書かれた「待合室」という文字が、左からではなく、右から書かれている。じーっと眺めていると、私のような年代の人間には、懐かしく思えてくるから、不思議である。

レトロ調の門司駅。


門司駅の出発ホーム。気のせいか右手前の駅員さんも、レトロ調


 海岸地区をぶらぶらと歩くと、門司駅のみならず、旧門司税関、旧三井倶楽部も、これはなかなかのレトロ調である。これは面白いと思い、もっと見たくなって、家内と近くの展望台に登った。こちらは、黒川紀章のデザインの30階を超えるマンションだが、その最上階をレトロ展望室として開放している。この展望室からは、今通ってきたばかりの関門橋、関門海峡を行き交う船、門司レトロ地区、対岸の下関の春帆楼と赤間神宮などが一望できた。そして、視野の一番の端には、剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎が対戦した巌流島<があったので、こんなところだったのかと、これまた驚いた次第である。慶長17年(1612年)4月13日のことで、当時の名称は舟島。現在は下関市に属しているという。

レトロ展望室から見た関門橋


レトロ展望室から見下ろした門司港。左正面奥が、巌流島


 さて、そこからバスで福岡空港に向かい、2泊3日の全日程を終了した。午後7時30分発の飛行機で、東京の自宅に帰り着いたのは、午後11時を回っていた。たいそう疲れたが、面白いことも多く、家内ともども大いに満足できる旅をした。




(2008年9月12日記)



カテゴリ:エッセイ | 22:04 | - | - | - |
萩市内
萩城下の武家地区にある円政寺。「高杉晋作・伊藤博文両公幼年勉学の地」とある。


萩の武家屋敷を散歩の写真は、こちら


 萩といえば、長州藩があったところである。この地で、明治維新の英雄たちが生まれて育った。毛利家の居城である萩城は、残念なことに明治の初期に取り壊されて今はもうなくなってしまったが、その跡地は城下町のはずれの指月山の麓にある。指月「山」といっても、わずかに標高143メートル、おわんを伏せたような美しい形をしている。本来は半島のようになっていたようであるが、その首に当たるところにお掘のようなものが作られていて、町域とは切り離されている。こうして出島のようになったその指月山一帯にほど近い城下町地域に、武家の居住区がある。萩城に近いところほど家老などの高位の家来の屋敷があり、外れになって商家に近くなるほど、身分の低い家来の家がある。その当たりには、高杉晋作生誕地、木戸考允旧宅、田中義一誕生地などがあるし、その地にあるの冒頭の写真の円政寺には、「高杉晋作・伊藤博文両公幼年勉学の地」とある。また、毛利家の藩医であった青木周弼の養子である明治の外交官、青木周蔵の家も、そのすぐ近くにあった。


毛利家の藩医であった青木周弼、その養子である明治の外交官、青木周蔵の家の近くの武家屋敷の塀と小道。


 この地区は、全体的に、旧武家地区の雰囲気そのままで、あちこち歩き回ると、そういう明治維新やその後に活躍した勤王の志士や明治の元勲たちの旧居や生誕地が思いがけず眼前に現れてきて、歴史好きには実に楽しいところである。また、藩内経済を一手に握っていた菊屋の宏大な住宅も入って見ることができる。今回は行けなかったが、吉田松陰の記念館もあるようだし、木々の間に車窓からちょっと見えただけだが、郊外に韮山にあるのと同じような反射炉もあった。これはすごい歴史が息づいていると、ひとりで感激に浸っていたら、萩博物館というところでバスを下ろされた。

 萩博物館に入ってみたところ、奇兵隊を作った高杉晋作のコーナーが特に面白かった。長州征伐のときに農民町民も含む奇兵隊を組織して見事に勝利を収めたり、英仏米欄などとの馬関戦争のときには講話使節となって植民地化を防いだり八面六臂の活躍をした人である、幕末の最重要人物である。結核にかかって、残念ながら29歳の若さで亡くなるわけであるが、その妻の肉声の録音が残っている。解説によると、7年間の結婚生活で、一緒にいたのはわずか2年間ほどで、年に1〜2回しか家にいなかった年もあったという。そして妻は語る。「東行(晋作のこと)との間には、東一が生まれましたが、ほんのわずかの期間しかいなかったので、何も思い出すことはございません」・・・そうなんだろうなぁ。今でいえば、家庭をとるか仕事をとるかといわれて、仕事を目茶苦茶にとったからこそ、あんな大それた業績を上げられたということかもしれない。やはり、二者択一となってしまったようだ。


高杉晋作と時世の句。


 博物館に入る前、木戸考允旧宅という家に入ってみた。ここでいただいたパンフレットに、木戸考允(桂小五郎)の年譜があった。それによると次のようなものであるが、木戸考允は、京都を中心に活躍して国事に奔走した。とりわけ薩長同盟で維新の実現に力を尽くし、維新後は明治政府において、五箇条のご誓文、版籍奉還、廃藩置県という実績を残した。西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑といわれた。6尺つまり180センチ近い大男で、写真をみると、現代に見かけてもおかしくないようなモダンで聡明な顔をしている。また、その横は京都の芸妓上がりの幾松夫人で、新撰組が跋扈する京都で、幾多の危難から桂小五郎を身を挺して守ったことで名高い。鹿鳴館の華だった。こちらも、非常に近代的な顔をしていると思った次第である。


木戸考允と幾松夫人。



1833年  1歳 6月26日、藩医の和田昌景の子として出生
1840年  8歳 桂家の養子となり、家督を継ぐ。
1849年 17歳 吉田松陰に師事
1852年 20歳 江戸の斉藤弥九郎道場に入門し翌年塾頭になる。
1853年 22歳 江川太郎左衛門に洋式兵術を学ぶ。
1855年 23歳 造船術と蘭学を学ぶ。
1859年 27歳 江戸藩邸の有備館用掛に任ぜられる。
1862年 30歳 奉勅攘夷の藩論に転換
1863年 31歳 京都神戸で勝海舟に出会う。
1864年 32歳 京都留守居役。池田屋事件を免れるが禁門の変に敗北
1865年 33歳 下関で坂本龍馬と出会う。
1866年 34歳 薩長同盟
1867年 35歳 薩長が出兵を盟約
1868年 36歳 明治維新。太政官の徴士、総裁局顧問・外国事務掛
1871年 39歳 参議。全権副使として渡米し、2年後帰朝。
1874年 42歳 文部卿を兼任するが、辞職して帰郷。
1877年 45歳 京都で死去。5月26日没


 こんな調子で、維新の志士をそれぞれひとりずつ、調べていきたいところであるが、残念ながら今回は、あまり時間がなかった。ところで、この萩には、幕末そのままの武家屋敷の町並みが、なぜこれほど残っているのだろうかと不思議に思っていた。ガイドさんによると、それは、明治維新のときに、この萩にいては不便だということで、幕府の許可を受けて毛利家の居城を山口に移したからだという。そのときに、武家の大半が山口に転居してしまったために、ここが昔のまま残されたのだという。発展から取り残された形だが、それが今となっては、幸運だったのかもしれない。

 また、武家屋敷の庭のあちこちに、どういうわけか夏みかんの木が生えていて、実が成っている。これについてガイドさんは、維新の後、武家が窮乏していたことから、明治9年に小幡高政によって夏ミカンの木の苗が1万本も配られて、家計の足しにするよう工夫がされたとのこと。高値で取引されたことから、昭和40年代半ば頃まで萩の経済を支え、一方で萩の景観も形作ってきたとされる。ちなみにこの人は、第百十国立銀行の創立に加わって2代目頭取となっている。明治39年に享年90歳で没したという。




(2008年9月11日記)




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