湯島神社の聖と俗


 湯島天神の2月は受験祈願と梅まつりが重なってまあその忙しいこと。片方では、受験祈願と合格お礼の絵馬で鈴なりであり、他方では、変わったベリーダンスや中国の雑技のパフォーマンスがある。いつぞや悟ったことであるが、上野の下町にあるこの湯島天神は、学問の神様として知られる菅原道真を祀った「聖」と、それから下町風の「俗」とがほどよく入り混じった有難い社(やしろ)なのである。

    東風吹かば 思い起こせよ 梅の花
    主なしとて 春な忘れそ

                  菅原道真


 湯島神社といえば、まずこの句を思い出す。事実、 受験シーズンになると、この神社は必死になっている受験生でいっぱいになる。しかし、それだけでなく、この神社には下町の社という側面もあり、同じ2月の 梅まつりの出し物は、結構、俗っぽいのである。

 今年の湯島神社へのお正月の初詣は、天気はよかったものの、吹きすさぶ北風が冷たくて、耳が痛くなった。ちょうど北陸の方は一晩に何十センチも積もる大雪のようなので、そちらに雪を降らせてから山越えをしてきた 寒風に違いない。



 そんなことを思いながら、家からテクテクと15分ほど歩いて、湯島神社に着いた。もう1月も6日なので、神社の中は、初詣客というより、受験生でいっぱいである。「確か、うちの子たちの受験の年には、心の中でドキドキしながらここで絵馬を書いていたっけ」と思いながら見ると、もう絵馬を掛けている場所は鈴なりである。



 そちらにゆっくりと近づいてみると、いくつかの絵馬が表になっていて、願い事が読める。これを何枚か読んでいると、本当に面白いのである。いや、受験生を笑っているのでは決してない。私のような歳になると、この年頃の若い人たちの「生の作文」を目にすることは絶えてないので、そういう意味で実に勉強になったのである。

 そこで、こちらの「湯島の絵馬」をご覧いただきたい。

 とまあ、以上が必死になっている受験生の様子であるが、しかしその反面、湯島神社は上野という東京の下町の神社であり、地元住民向けに、梅まつりと名うっていろいろな出し物をやっている。カラオケ大会、地元婦人会の踊り・・・、などというのはまだ理解の及ぶ範囲内である。しかし、この「ベリー・ダンス」などというのは、もう私には想像を絶するものである。

 つい、数日前までは、受験生が鈴なりでいたその同じ境内で、またこれは、俗っぽい行事をやっているものだと思うが、そういえば、泉鏡花の婦系図・湯島の白梅での、お蔦と主税の話もあるくらいだから、まあ、ベリー・ダンスも相応なのかもと納得した次第である。いずれにせよこのあたりの融通無碍さが、この神社が14世紀以来生き残ってきた秘訣なのかもしれない。

 言葉だけではあまりピンと来ないと思うので、「2003年のベリー・ダンス」と、「2008年のベリー・ダンス」をご覧いただきたい。前者は至って普通のベリー・ダンスだった。ところが、後者はいったい全体、これは何だろう。まるで金色の鶴の舞のごとくである。これを進歩というのか、あるいはそれとも退歩というのか・・・。






(2004年1月記、2008年2月25日追記)



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徒然087.うどんのつゆ
カレー南蛮うどん。これなら、つゆ味の東西での違いは関係なくなる。



 うどんや蕎麦の「つゆ」というか、「出汁」は、関西人が東京に来て、最初にとまどうことである。私は、小さい頃は神戸で育ったので、舌は関西風となっている。上京してびっくりしたことは、蕎麦やうどんを食べられないことだった。「つゆ」がしょっぱくてかなわない。だいたい、その色からして真っ黒で、これに舌が触れるとピリピリする。いかにも醤油の使いすぎである。

 それに対して関西の方は、讃岐うどんに代表されるように、色はぜんぜん黒くなくて、いわゆるきつね色であるし、だいたい「つゆ」に味がするのである。讃岐うどんは、それだけでなく、麺にシコシコと腰があっておいしい。だから、私は東京でも、できるだけ讃岐うどんのお店を探して通っていた。幸い、最近では讃岐うどんがブームで、東京のあちこちにお店がある。しかもトッピングと称して一緒にさまざまなおかずを注文できるので、バリエーションを楽しめるようになった。文京区の自宅の近くにも、脱サラの人が開いた讃岐うどんの店ができて、小さいにもかかわらず、いつもお客が列をなして押し寄せている。

 まあ、結構なことであるが、これを食べるたびに、私の頭の中にわき上がってくる疑問がある。それは、関西風は濃口、関東風は薄口というこの「つゆ」の地理的境界は、果たしてどこかということである。そんな馬鹿なことをと思われるかもしれないが、私は結構、真剣なのである。というのは、かつてNHKの番組を見ていたら、この話題をやっていて、それは東海道線の各駅に降りてみて、その駅前のうどん屋に入ってその「つゆ」は関西風か関東風かという検証をしていた。そうしたところ、愛知県の蒲郡駅前のうどん屋に入ったら、何と、「つゆ」を関西風にするか、それとも関東風にするかと選択できた。だから、ここが東西「つゆ」文化の境界だと結論していた。そこで、私は一度、東海道線の蒲郡駅を訪ねて、これを確認したいと思っている。

 最近、試しにウィキペディアで検索してみたところ、この話題があった。それによると、「『つゆ』の関東風と関西風との境界線は、はっきりしていない。人により様々な判断があり、一概ではない。三重県の布引山地説、滋賀県の米原説、滋賀県・岐阜県境の関ヶ原説、電力周波数の境界と同じ富士川説、大井の渡しによって分断されていた大井川説、さらに西側の豊川説、岐阜県内、木曽郡など、諸説紛々である。これに東海地域を中間とせず、東海風、もしくは名古屋風と別個にすべきとの説もある」とか、「関ヶ原より東京側の名古屋、岐阜、大垣の各駅付近以東では関東風の濃口、関ヶ原を越えた米原より大阪側は薄口を使用していると考えられ・・」などとしている。

 ははぁ、そうか、東西の間に、名古屋が挟まっているから、事はそう単純ではないわけだ。実は私は名古屋人でもあるのだが、名古屋にいるときは、うどんの「つゆ」に、そう違和感はなかった。というのは、名古屋特有の「きしめん」の「つゆ」は、あれは関西風である。つまり、薄いのである。しかし、味噌煮込みうどんとなると、味噌のせいで当然のことながら色は黒いし、しょっぱい。やはり、東西が混ざっているのかも・・・。かんちぎぁーでゃぁ、あれせん。



夢境庵の蕎麦。関東風の代表で、しょっぱくて、しょっぱくて




(2008年2月19日記)




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ひな人形とキラキラネーム



 浅草橋にある「吉徳」は、店の縁起によれば、正徳元年(1711年)創業の江戸で最も長い歴史を誇る人形の老舗ということである。確かに、人形なら何でも目をぱっちりと大きくすればよいとする近時の流行とは一線を画し、目は細めながら優しい日本人形の伝統的お顔を受け継いでいる。

 我が家も娘を授かり、そういえば、銀座のデパートにお雛様を買いに行ったものである。あちこち引っ越しをしそうなので、お内裏様とお雛様、それに三人官女たちすべてがガラス・ケースに収まっているものを買った。どんなものだったか、それをどう取り扱ったかについては、もう娘本人は、とっくの昔に忘却の彼方となっていることであろう。しかし、親としては未だにその日のことを、まざまざと覚えているものである。

 そのお雛様のケースを大切に家へ持ち帰って、備え付けのオルゴールをひねり、「お内裏様とお雛様〜〜ふたり並んですまし顔〜〜お嫁にいらした姉さまに〜〜よく似た〜〜」などと、歌ったものである。娘はそれをキョトーンとした顔で聞いていたが、思えばそこで気がつくべきだった。というのは、この子は、お人形なるものに一切、興味がなかったからである。子供の頃、人形遊びをしている姿を見た記憶がない。普通の夢見る乙女とは違ってリアリストであり、もっぱら生きている人間や動物に関心があったようで、今はその興味を生かして外科医なぞをやっている。

 ところで、人形の吉徳に話を戻すと、ここでは顧客のエピソードを掲載した『絆』という小冊子を発行しているようで、2007年度の第8号を見てみて、驚いたことがある。そこに出てきたご家族の中のひな祭りの主人公である娘さんたちのお名前である。まあ、次の一覧を見ていただきたい。

 杏奈  (あんな)
 愛呂葉 (あろは)
 果音  (かのん)
 香帆  (か ほ)
 想   (こころ)
 咲彩  (さあや)
 咲樂  (さくら)
 葉月  (はずき)
 暖菜  (はるな)
 陽麻里 (ひまり)
 苺香  (まいか)
 正佑子 (まゆこ)
 未夢  (み ゆ)
 美由  (みゆう)
 珠優奈 (みゆな)
 萌衣  (め い)
 悠沙  (ゆうさ)
 綸華  (りか)
 莉々夏 (りりか)
 莉理子 (りりこ)
 凛   (り ん) 


 これが、次世代の女の子の名前である。読めるだろうか。私が自信を持って読めるのは、杏奈 (あんな)、葉月 (はずき)、 (りん)の3つくらいである。あとは、まるで想像すらつかない。

 愛呂葉(あろは) は、ハワイのアローハからとったのであろうか。果音(かのん)というのは、音楽のカノンのことか。苺香(まいか)って、あのいちご(苺)の、おいしそうな香りのことか。(こころ)などというのは、まるで想像の範囲外である。

 その他、いろいろと検索してみると、一二三 (わるつ)、七音 (どれみ)、雪月花 (せしる)などという名前もあるようだ。私の小さい頃には、「湯桶読み」などといって、同じ単語を構成する漢字の読みが「音」又は「訓」で統一されていない例を挙げよという問題があったくらいであるが、これらの最近の名前は、そんなレベルをはるかに飛び越えている。

 あと20年も経てば、いったいここは日本かということになりかねない。今から、心の準備をしておかなければいけないようだ。





(2008年2月18日記)



【後日談】 光宙と夜露死苦

 上の記事からわずか1年と少しの歳月しか経っていないというのに、日本経済新聞2009年5月16日付けの記事をみると、ライターの福光 恵さんという方が、「近頃の子供たちに多いという名前『イラネーム』というものがあり、親が名付けに凝りすぎて、ちょっとやそっとじゃ読めない名前が増えている」といって、こんな例を挙げていた。

  宇宙    (ナサ)
  天使    (ミカエル)
  光宙    (ピカチュウ)
  綺麗麗   (キララ)
  夜露死苦 (ヨロシク)

 このほか、ネットで調べると、こんな例もあった。
        (ライト)
  悠久    (ユルク)

 こういう名前を付けられた子供が、子供の時代はよいとして、やがて成人し、大人として(たぶん)立派な仕事をし、そしてお爺さんとなる過程で、たとえば「ピカチュウ」さん! 「ヨロシク」さん! などと呼ばれると想像しただけで・・・、ああっ! もう日本もおしまいだという気がするのは、私だけではないと思うが、いかがであろうか。

 もっとも、1993年から翌年にかけて、東京都昭島市の夫婦が自分の長男に「悪魔」という名前をつけようとして市役所に不受理処分にされ、結局のところ名未定の出生届として取り扱われた。そこで、親の命名権を争って訴訟が提起されたが、結局それが取り下げられて「亜駆」と命名され、一件落着したという事件があった。それに比べれば、光宙だの夜露死苦だのという名前はまだマシということもいえそうである。

 しかし、子供の命名という行為は、単に親の趣味の問題というにとどまらず、その子の一生の問題が懸っているということを忘れてはいけない。たとえばこの「亜駆」くんの両親は、その後に離婚し、父親は覚せい剤で逮捕され実刑判決を受けて収監されたたことから、かわいそうに「亜駆」くんは、幼稚園の頃から児童養護施設に預けられたということである。つまりは、子供の名前だけでなく養育すらにも責任が持てないような、まあ、その程度の親だったのだろう。




(2009年5月16日記)




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徒然086.あと10年もすれば

(第1話) 毎朝、頼みもしないのに東京新聞がポストに入っている。拡販というものらしいが、全く売れていないようだ。我が家は、仕事の都合と従来からの惰性で日本経済新聞にしているが、見ればわかりそうなものなのに、それでも構わずに入れてある。東京新聞というのは名古屋の中日新聞がルーツということだが、東京地区の新聞界全体では、産経新聞と毎日新聞、それにこの東京新聞が購読が伸びないで苦しいようだ。インターネットと携帯の普及と進歩のせいで、若者は新聞を読まなくなり、あと10年もすれば、特徴のない新聞は大幅に淘汰されるに違いない。
 
(第2話) パキスタンのトライバル・エリアは、アフガンとの国境地帯にあり、中央政府も手が出せない自治地帯であるそうで、そこに数多くのアルカイダ要員が潜伏しているといわれる。その北ワジリスタン地区で、1月下旬、アルカイダのアブライス・リビ最高幹部が、米軍のミサイル攻撃によって死亡した。話によると、この攻撃は、ミサイル搭載の無人偵察機(プレデターかもしれないが、おそらく、グローバルホーク)によるもので、その発端が現代戦争そのものだなぁと驚いた。それは何だったかといえば、地上にいるアルカイダのひとりが衛星携帯電話を使った瞬間、上空を飛行中のグローバルホークから、その地点を向けてミサイルが発射されたらしいのである。

 そういえば、数年前に、米軍がオサマ・ビン・ラディン容疑者を取り逃がしたという事件が話題となった。それは、同じような無人偵察機が飛行中に、訓練キャンプにいるビン・ラディンを見つけたのであるが、そのときは無人偵察機は偵察専門でミサイルなど攻撃兵器は搭載していなかったために、写真を撮っただけに終わったという出来事である。それが、わずか数年の間に、上空からの攻撃能力を備えてしまったというわけだ。誤差が数センチといわれる軍事用GPSの進歩、無人偵察機などの軍事用ロボット技術の発展、エシュロンのような通信傍受の発達などがその背景にあるが、こちらも、あと10年もすれば、戦場にいるのはロボットばかりということになっているかもしれない。

(第3話) 地球温暖化の流れが止まらない。これだけたくさんの自動車が走り回り、高層ビルが建ち、飛行機が世界を飛び交い、発電所や工場をどんどん動かしていると、二酸化炭素が増えるわけである。それに、中国やインドやロシアなどの新興国が加われば、何をかいわんや・・・。しかし、人は危機が目の前に来ないと、それがどういうことを意味するのかなかなかわからないものである。だから、たとえば極地の氷が目に見えて融けるとか、海水の水面が上昇するとか、あるいは地球の平均気温が顕著に上昇するとかの変化がないと、各国が連携してアクションを起こすことはむずかしいものと思われる。

 北極海の氷の面が年々縮小してきているし、南極も同様である。海の氷が解けても海水の量が大きくなるわけではないが、温度上昇で地球の海水の体積が膨張することが問題である。南太平洋の島国のツバルでは、過去12年間で水面が10センチも上昇してきており、すでに国土の一部は水没し始めている。日本でも、愛媛の蜜柑農家によると、蜜柑の生育にちょうど良い平均気温は16度なのに、最近ではそれが17度になってきて、木に成る蜜柑が小ぶりになって売り物にならなくなったという。そういうことで、日本でもあと10年もすれば、農作物の適地が北上するだろうし、海面が上昇し始め、東京でも海抜ゼロメートルの台東区、墨田区、江東区などでは何らかの影響が見え始めるだろう。ニューオリンズを襲ったハリケーンのカトリーナのような悲劇が起こらないことを祈りたい。

(結び) 最後に、あと10年もすれば、私も仕事を一切やめて、悠々自適、毎日が日曜日となるであろう。実は、それが言いたかったのである。家内と一緒に、片手にカメラを持って、英語の通じる国を旅行して回ろう。




【後日談】


 この計画通り、私はほぼ11年後の2019年9月に、無事に退職した。そしてその直後にカメラを抱えてペルーのマチュピチュ遺跡に出掛けた。その翌年2月には台湾のランタン祭りを見に行って、さあこの年はエジプト、バルト三国、中欧などに旅するつもりでいたところに、パンデミックの新型コロナウイルス禍が降りかかり、約1年半以上も海外旅行ができなくなってしまった。世の中、ままならないものだ。人生に陥穽あり。心せよ。




(2008年2月17日記、2021年7月27日追記)




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中国正月 〜 恭喜發財


(参考)中国正月のお年玉「利是」袋に書いてある言葉

恭喜發財」= 今年も繁盛しますように = あけまして、おめでとう。
年年有餘」= 毎年余りが出る = 財力を蓄える = 豊かに暮らせますように。




 1月末から2月にかけて、中国では中西部や南部を中心に100年ぶりといわれる大雪に見舞われた。しかも、折悪しく2月7日から旧暦の中国正月(春節)が始まるので、そのために帰省しようとしている出稼ぎの民工さんの数は、3000万人を超えるという。ところが、この世紀の大雪で鉄道や長距離バスはいずれも動かなくなってしまい、その再開を待つ人々が、駅やバスターミナルに押し寄せている。テレビのニュースを見ると、いるは、いるは、何十万人ではないかと思われるほどの、ものすごい数の人々が映し出されている。しかもその人たちは、いずれも大きな荷物を抱えて、気温が零下となる中で徹夜で三日三晩も立ちつくしている。その結果、1万人を超える人たちが具合が悪くなっただけでなく、駅前広場で女性が群衆に圧迫されて死亡したり、橋の上から列車に飛び乗ろうとした男性が、電線で感電死したりするという痛ましい事故も起きたらしい。

 これだけでも大混乱の元なのに、中国政府首脳が現場に行って「鉄道の再開に努めているので、しばらくご辛抱を」と言ったのだが、何しろ相手が気まぐれな天候なので、軍隊を何十万人を動員しても、3日経っても再開できない。そこで上海市などは逆に「今年の春節の帰省は、あきらめてください」と呼びかけたりして、ますます混乱に拍車がかかった。6日には鉄道が動き始めたのだが、その日の切符を持っている人が乗っていったので、その前の日付の切符を持っていた人たちが騒ぎ出した。その一方、豪雪に遭った地帯では、1週間にわたって停電している地域もあって、数百万人が電力や水道の供給が途絶えたままの生活を強いられている。米や中国料理に欠かせない豚肉、野菜などの生活必需品の値段が、倍以上になっているという。その他もろもろの影響を受けた人の数は、計1億人とか・・・。いやまあ、ものすごいことになっているようだ。

 いやいや、これは大変なだなぁ・・・などと思っていたところ、はるか昔の出来事を思い出した。いまから45年前の昭和38年の日本である。そのころ、私は小学生で、北陸の町に住んでいた。その冬、後世に三八(サンパチ)豪雪といわれる大雪が襲ったのである。その朝、私はたまたま早起きして、玄関を出て新聞を取りに行こうとした。すると、玄関のガラス戸が、まるで夜明け前のように暗いのである。何か変だなぁと思いつつ、その引き戸を開けようとしたものの、なかなか開かない。全身に力を込めて、両手でエイっとばかりに引くと、開いた。そしてびっくりした。目の前が一面の雪だったからである。

 これは一体どうしたことかと、あわてて二階に駆け上がったのだが、そこで見たことに再び驚いた。その二階の高さを、通行人が行き交っていたからである。前日の昼間の積雪が1メートルくらいであったが、それが一晩でいきなり2メートル数十センチになった。その結果、道路の高さが二階になってしまったというわけである。ウチはたまたま二階家だったから良かったものの、もしこれが平屋建ての家だったら、玄関いっぱいに積み上がっている雪を掻きだして、階段でも作らないと外に出られなかっただろう。

 当然、学校も休みとなったし、私はまだ子供だったから、普段より2メートルも嵩上げされた道がうれしくて、あちこち歩き回ったものである。そうして、遊び回って疲れて帰ってくると、母は食べ物を心配していた。ただ、北陸はお米は十分にあったし、白菜を漬け物にする習慣があったようで、私たちは何とか過ごすことができた。ところが、日に日に物資が欠乏していく様子がよくわかるものがあった。それは新聞の紙面で、大雪のその当日から時間が経つにつれて、加速度的にページ数が減っていったのである。最初は20ページくらいだった紙面が、翌日には10ページとなり、4ページ、1ページとなり、ついには4分の1の紙面になった。こうなると、「これが新聞?」という感じである。まあ、新聞社の努力は買いたい。

 その紙面が4分の1になった頃、私はその日のお昼に、いつもの通り市内を見て回った。そうすると、草色の服を着た大勢の人たちが、鉄道の線路に積もった雪を、スコップで懸命に掻きだしている。自衛隊の人たちであった。子供心に、「ああ、有り難いな。」と思ったものである。これが原体験で、私は爾来、自衛隊のファンである。その後、安保反対運動の余韻が残って自衛隊なるものの存在が否定されんばかりの主張が堂々と展開されたときも、ああいう国の組織は絶対に必要だと思って、その騒ぎに巻き込まれそうになる同級生を尻目に、割と冷静に見ていることが出来たものである。

 再び中国の話に戻るが、2月6日から天候がようやく回復して、無事に旧正月(春節)を迎えることができたようである。よかった、よかった。なぜこの時期に、皆、故郷に戻り始めるのかというと、一族が集まって、再会と団結を確認するのだという。なるほど、結構なことである。日本は、もう、とうの昔にそのような良き風習はなくなってしまった。戦前の「家」制度に対する反省から、戦後は「個」の尊重となり、それが行き過ぎて一族郎党はもちろんのこと、家族ですらバラバラとなって、都会では孤独な老人の「孤死」が相次ぐという現象が見受けられるようになった。今更、昔に戻ることは出来ないのだから、せいぜい、親子兄弟との普段の連絡を良くしておくことだろう。

 ところで、先日、中国人の友達が訪ねてきて、面白い話をしていった。お年玉のことである。かつて、私が「日本の家庭のお年玉は、どうかしていて、甥や姪に、少なくとも1万円、場合によっては3万円もあげるんだよ。」というと、目を丸くしていたが、その話の続きである。その人が言うには、「そのときはびっくりした。自分たちは、日本円でいうと、せいぜい100円か200円程度のものしか包まないからね。ところが最近は、上海では日本のようになってきたんですよ。帰省して親類の子たちに配ると、1カ月分の給料をも上回るようになってしまって、若手のサラリーマンの中には帰省を取りやめる人も出てきたんだと。」・・・なるほど、経済発展の光と影(?)のひとつである。

 話によると、その春節のお年玉は、色とりどりの小さな封筒に包むのが習慣となっているらしい。私も記念に何枚かもらったが(もちろん、中身はからっぽ)、いずれも、なかなか綺麗なものである。こんなのに包んでお年玉を貰った子供は、たとえ中身が薄くても、きっとうれしいだろうなぁと思う。






(2008年2月12日記)




カテゴリ:エッセイ | 21:44 | - | - | - |
世界らん展 2008 写真

世界らん展 2008 スライドショー



デンドロビューム


 世界らん展 2008 の写真を品種別に整理をし、スライドショーとして10枚ごとに自動的に切り替わるようにしたが、さらに見やすく、しかも一覧性があるようにしようと、これらをまとめてHTMLのフレーム形式に入れて作ってみた。ただし、将来パソコン画面がもっと大容量になる日(いつのことか・・・)に備えて、1024 x 768という大画面の写真にしたので、ブロードバンドの接続でなければ、スライドショーがスムーズに動かないと思うので、ご了解いただきたい。

 内容は次の通りで、冒頭でご案内したディスプレイという寄せ植えの総合部門に加えて、らんの代表的な5品種を取り上げた。ただし、これらのほか、デンドロビュームその他の品種もいくつかあったのだが、素人の悲しさで、特にデンドロビュームとシンビジュームとの区別がなかなかはっきりしない。そういうわけで、心のこりながら品種がわからずに割愛した写真もある。もっとも、これはデンドロビュームに違いないという花の写真を、この記事の最初と最後に飾っておきたい。


カトレア

パフィオぺディラム

ファレノプシス

リカステ

シンビジューム





 これらのランをこうして、しげしげと眺めていくと、いやまあ、何というか、いろいろな雑念が浮かんでは消える。たとえば、カトレアには、ひらひらとしたレースを体一杯にまとった昔の貴婦人のような趣があり、華麗、豪華、きらびやか、派手と評することができる。これに対して、リカステは、質素な中にもキラリと光る美しさがあり、清楚、質実、おしとやか、雛にも希な美人といったところか。

 シンビジュームは、これらの中間で、花が咲きほこる直前の丸まっているときにはリカステ的な質素さが目に付くのだが、いったん花が満開となると、カトレアほどではないにしても、誠ににぎやかなものとなる。ちなみにこの花は、団体でいるからこそ、その存在感を主張できるランだと思うが、それに似たところがあるのが、ファレノプシスつまり胡蝶蘭の仲間である。扇のような五枚の花弁がかわいらしく、それがいくつも連なって並ぶと壮観である。以前、私のオフィスにこの花を贈ってきてくれた人がいたが、花のひとつひとつは清楚なのに、窓際に飾ると集団では花の雰囲気がまるで変わったように、豪華絢爛とはかくあるやと思うほどになってしまうのが不思議である。日本人好みのランといえる。

 それに対して、何ともいいようのないのが、パフィオぺディラムである。語源は女神のスリッパということだが、そういえば、そのように感じる。ただし、スリッパのように見える手前の突き出た部分は、別に食虫用の道具ではないようで、単なる花弁にすぎないらしいが、それにしても、これは何だろうというのが普通の人が抱く感想ではないだろうか。しかも、これらをスライド・ショーで見ていくと、最初は花だが、次第にひょっとこ面のように感じ、そして鞍馬山の天狗の面となり、最後は田舎のおじさんの顔になってしまうというのも、摩訶不思議である。ランの栽培を始めた人が、最初はカトレアから手をつけて、何年いや何十年経って最後に行き着くのはこのパフィオぺディラムだという話には、なるほどと肯けるところがある。そんな怪しい魅力を秘めたランなのである。


デンドロビューム





(2008年2月10日記)



カテゴリ:写 真 集 | 23:33 | - | - | - |
徒然085.確定申告の季節

 2月初めは、確定申告の季節である。源泉徴収票とか病院の領収書やら出版社からの通知などの束をまず整理し、電卓片手で慣れない計算をしていくと、「あれっ、合わない。なぜだろう。」などと独り言が出てしまう。それを耳ざとく聞きつけた家内が、「あら、また今年も、不得意科目やってるのねぇ。」と冷やかしてくる。それを尻目に「難しいことは得意だけど、こんな簡単な計算の繰り返しは不得意なんだ。」などとわけのわからないことを言いつつ、なおムキになって、計算間違いを見つけようと電卓を叩き続ける。ところが、医療費の領収書と交通費の長い計算をまさに終えようというときに限って、ただでさえ小さい電卓のボタンを二つ同時に押してしまい、最初からやり直しという羽目に陥る。

 職業を選ぶときに、公認会計士にならなくてよかった。あの人たちは、これを一生やっているのかと思うと、計算音痴の私としては、寒けがするほどである。もっとも、彼らも私たち法律屋を眺めて、あんな法律やら判例やらを一生眺めて暮らすなんて、ご免被るなどと言っているかもしれないから、まあこれは、お互い様ということかもしれない。・・・おっと、余計なことを考えるとまた間違えるぞ・・・そんな調子で、まず医療費を延々と計算していって、やっと10万円を超えた。裾切りというか、足切りが10万円なので、その超えた分だけが控除の対象となる。そんなつまらない額のために長いあいだ計算していたかと思うと、文字通りの時間の無駄であった。

 数年前までは、こうしてやっとこさ計算した後、税務署がつくった手引きと首っ引きで申告書に数字を入れて税額を計算していた。ところが、この段階に至っても、制度は変わるし、説明書の説明を読まなければいけないし、税額一覧表の脚注を見逃しそうになるしで、これも結構やっかいなことである。あるとき、やたら税金が多いなと思ったら、源泉徴収の額が間違っていたことに気付いたし、その他この申告書の中でも結構、計算間違いや思い違いをしそうなことがよくあった。ところが、パソコンで国税庁のホームページにアクセスして、それを通じて作成するようになってからは、そういうつまらない計算ミスや勘違いのようなことはなくなったから、これは便利になった。計算の数値をポンポーンと放り込み、あとは申告書を印刷するだけでよい。IT革命のメリットを感じている。

 さて、今年もそうやって印刷した申告書を去年のものと比較してみると、あれあれっ、追加で納めなければならない税金が、目算よりも12万円ほど多いではないか。・・・これは何かなぁ、まさか計算ミスか・・・、わかった。定率減税がなくなってしまったからである。そういえば、定率減税の廃止は去年から言われていたが、それを2年間かけて行ったというわけか。しかし、制度の周知がされていた去年ならともかく、今年の場合はそんな政府広報はなかったなぁ・・・、こっそり取られたという気がする人が多いのではなかろうか。

 ところで、昨年あたりから、申告書の提出だけでは済まなくなった。予定納税とかいう制度の対象にされてしまったし、加えて財産と債務の明細書の作成をしなければならなくなったからである。前者の予定納税とは、いわば税金の先取りである。7月とか11月という中途半端な時期の忘れた頃に、預金口座からドーンとまとめて引き落とされるので、これは迷惑な制度である。

 しかし、これに輪を掛けて迷惑なのは、財産と債務の明細書である。要するに、自分の持っている財産とローンの一覧表を出せというわけだ。これだけ個人情報保護が叫ばれている今日、ちょっと、行きすぎではないかとも思うのであるが、試しに六法を繰ってみると、確かに所得税法に書いてある義務だった。本人の資産状況の申告というだけでなく、相続でも起こったときのために、税務署が資産を把握するための手段ではないかと思うのだが、そうだとすれば、縁起でもない書類である。

 その記入例を見ると、財産として、土地建物を書く必要があるのは、わかる。株式や現金や預貯金も、当然である。ところが、書画骨董などとなると、一体これはなんだという気がする。どうやらこの書類は、本来は何億円もの資産を持っている人を対象にしているようである。私の場合は全くの場違いではないかと思いつつ、・・・試しに計算してみて・・・うーむ、やはりその通りだった。

 自宅の価格が課税標準額であることと、未だに、たぁーんと残っている住宅ローンのせいとはいえ、計算上は堂々のマイナスなのであった。嗚呼、恥ずかしい限り。心は悠々にしても、その実、やはり貧しかったか・・・。子供たちも無事に仕上がったわけだから、これから、気を取り直して、人並みに稼がなければいけない。ホントは、これが一番の苦手なのだが・・・。




【後日談】

 こうして計算した翌日、現在の財産と債務の総計がマイナスになるというこの計算結果は、いったい何だと、家内と話し合った。人生の総決算としては、あまりにも寂しい結果である。

 まず、未計上財産としては、退職金がある。これは未だ現実化された財産とはなっていない。次に、相続財産があると思うが、これも私の財産の計算外であり、事実、まったく当てにもしていないので、これまで両親の面倒をよくみてくれた妹たちに全て譲りたい。

 とすると、これまで稼いだお金を何に使ってきたかであるが、まずは数千万円を使った自宅の購入で、これはいわずもがなのことである。そして・・・家内ともども、あっと思い当たったのは、2人の子供の教育費である。私立学校やら下宿費用やら、大学院やら留学とやらで、ざっと計算しただけでも自宅の購入と同じくらいのお金を使った。まあ、それが成功して、医者と弁護士になってくれたから、それなりに有効に使われたのではないかと思っている。

 教育費を投資にたとえるのはどうかと思うが、教育というのも、まったく先の見えない投資である。いやいや、それどころかリターンを期待してはいけない投資である。私立の中高一貫校に行かせたときは、それでどうなるという見通しもなく、少しでも良い教育を受けさせたいという一心であった。大学院に進んだり留学に行ったときも、自分達の生活費よりもまず子供たちへの仕送りが優先という生活だった。この段階になると、とれるかどうかもわからない資格の取得のために、必要とあれば、いかに家計が苦しくとも、何でもさせたというわけである。なるほど、子供たちも頑張ったが、ああいう努力を家内ともども続けたからこそ、今日があるのではないかと思う。ということは、私たちにとって、子供たちこそが、その最大の財産ということかもしれない。


(2008年2月7日記、同8日追記)
カテゴリ:徒然の記 | 00:13 | - | - | - |
馴染みの店が閉店


 自宅近くに、手頃なイタリアン・レストランがあり、私は家内ともども、よく通っている。ここの本店は赤坂にあって、イタリア料理の草分けとして知られる有名店である。しかし、こちらは住宅街に作られた支店ということもあって、店長、サービス係の女性、それにシェフだけの、小ぢんまりとしたお店にすぎない。店内は、ごらんのとおり、アット・ホームな雰囲気であり、私たちはとても気に入っている。しゃれた味とサービスのわりには値段もお手頃なものだから、私は学生とのコンパもここを貸し切って行った。そうしたところ、そういうことに目ざとい学生たちからも、安いし、おいしいと喜ばれた。

 ところが、このたび、本店の拡張に伴って、店長とシェフが呼び戻されることとなり、近く閉店の運びとなったという。残念至極である。以下は、その話を聞いたとき、お互い残念だとエールを送った後の、私と店長との会話である。



「へぇ、本店はそんなに大きくなったの?」と私が聞くと、うちの息子と同年代の若い店長さんは、

「私もまだ見ていないのですが、話によると、大きいだけでなくて、どこもかしこも、真っ赤らしいですね。」

「ははぁ、それは行ってみなければね。ところで、前はあのお店は地下にあったけれど、今度も同じなの?」

「いやいや、2階なんですよ。」

「ほほぉ、ところで、いま本店として営業しているあのビルは、いったいどうするの?」

「ああ、あれですね。あれは、建物を取り壊して更地にして、公園にするそうです。」

「それじゃぁ、あの辺は、すっきりしてよくなるねぇ。」

「そう思います。」

「ではまあ、この店は無くなっても、赤坂の本店に行けば、またお会いできるというわけですね。」

「そうなんです。また、よろしくお願いします。」

「いやいや、こちらこそ。」

・・・・という会話を交わした次第である。店長さんとシェフのお兄さん、どうか新天地でも、元気でおいしい料理を提供していただきたい。




(2008年2月6日記)



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花火チョコレート
オリオール・バラゲは、この2階。右手の階段を上がったところ。


  白金台に、「花火」と称するチョコレートがあると、家内が聞いてきた。それは試しに買って来なければと、2人で出かけたというわけである。せっかくの土曜日なので、まず南北線の白金高輪駅で降り、やや歩いてシェラトン都ホテルのロビーラウンジ 「バンブー」で食事をした。その名のとおり、店内のあちらこちらに竹が飾られている。私はカニのクリームコロッケを注文したところ、例のとおりあまり特徴のない、いわゆるホテル味だが、まあまあ、おいしかった。ここは、正面ロビーの先にある日本庭園を望みながら、ゆったりと食べることができる。専門のレストランではないので、せかされることもなく、のんびりとできるのが良いところである。

 ホテルを出て、白金台の方に向い、地下鉄の駅の近くのブティックの2階に、そのチョコを売っている「Oriol Balaguer」(オリオール・バラゲ)を見つけた。2階に上がっていくと、その小さな売り場があり、商品が並んでいた。ちょうどバレンタインの季節なので、女の子が群がっているかと思いきや、3〜4人の男の子が狭い店の中をうろうろするばかり。

 その中で、目指す商品を見つけた。「花火をひとつください」というと、回りのお客が何だろうとこちらを向く。通と思われたのかもしれないが、いやいや、違うんだけれどね・・・。どうやらその商品は、「Mascleta」(マスクレーター:スペイン語で「花火」)というらしい。4個入りで1470円というその箱を包んでもらって、店を出た。箱をひっくり返して裏の表示を読んだところ、マドリッドからの輸入品らしい。

 家に帰りついて、家内と2人でその箱を開け、チョコレートの粒を食べてみた。私は一個全部、家内は半分を口に入れた。そうすると、最初は何ともなかったが、すぐに、プチプチプチッと、妙な音がし始めたと思うと、それが頭がい骨全体に響き、「あれあれ、あれっ」と思う間に、それらがシュワーッとまるで泡のごとく、一斉に消えてしまった。別に不快な感じは全くしないが、摩訶不思議というところである。いったい、何を使っているのだろう。発砲ワインか強いシャンパンでも使って、その炭酸の泡を閉じ込めているのかもしれない。

 これは面白い、バレンタインの贈り物にちょうど良いと思う。「でもこれ、小さい頃に食べたポンポン菓子に似ているなぁ」とつぶやいたら、家内に「それは若い人の前で言わないでくださいよ。」と言われてしまった。まあ、何にせよ、人にお勧めできるお菓子である。悠々ミシュランお菓子編で、「☆☆」を差し上げたい。


オリオール・バラゲのマスクレーター


オリオール・バラゲ
港区白金台4丁目9−18
03−3449−9509



(2008年2月3日記)








【後日談】

 私のオフィスには、新しいもの好きで、しかも経験豊富なOLさんがいる。普段は楚々としているのに、休日になればバイクを乗り回すし、東京ミッドタウンなどの新しいビルが出来れば直ちに見に行くし、外国系の店が日本上陸したと聞けば、いの一番に行ってみるしで、それはもう好奇心の固まりのような女性である。世間でいう、「お局様」というタイプは違ってオフィスの中のことには頓着せず、目が外に向かって開かれている。

 その、いわば「スーパーレディ」に、「オリオール・バラゲって、知ってるかい?」と聞いた。すると、目を輝かせて「あっあのー、スペインのチョコで、わさびとか何とか入っているあれでしょ、三越なんかで売っていますよね。」と答えたので、びっくりした。この子、流行には敏感ということは知っていたが、私よりはるかに先を行っていた。




(2008年2月6日記)




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国立新美術館


 国立新美術館に行ってきた。千代田線乃木坂駅に直結していて、我が家からは非常に便利である。故黒川紀章のデザインなので、ガラスとパイプを使った現代的で無機質な建築だが、素材はうまく組み合わされていて、流れるようなフォルムが心地よい。これはすごいと思って入っていった。

 この美術館はコンセプトとして、「コレクションを持たず、国内最大級の展示スペースを生かした多彩な展覧会の開催、美術に関する情報や資料の収集・公開・提供、教育普及など、アートセンターとしての役割を果たす、新しいタイプの美術館です。」などといっているが、館内はただっ広く、人はたくさんいるものの、何か空虚な感じがする。それもそのはずで、蔵置する美術品がないのだから、仕方がない。

 併せて「内外から人やモノ、情報が集まる国際都市、東京に立地する美術館として、『美術』を介して人々がさまざまな価値観に触れる機会を提供し、相互理解と共生の視点に立った新しい文化の創造に寄与します。」というから、東京ビックサイトや幕張のコンベンションセンターと大差ないのかもしれない。よほど立派なキュレーターでもいないと、やっていけないものと思われる。

 そして、三階のレストラン、ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ は、「1965年以来、三ツ星を維持し続ける『レストラン ボキューズ』。ポール・ボキューズ氏の伝統のブラッスリーの味を受け継いだ、正統なフランス料理をお手ごろな価格でお楽しみいただけます。ボキューズ氏のブラッスリーとしては、初の海外進出となります。」などというものだから、楽しみにして、入ってみた。



 ところが、お昼すぎに入ったものだから、窓際では、太陽が眼に入ってまぶしい。ちょっと我慢しなければならない。そのうち、柱の影になるから一息つけるのだが、しばらく経つと再び同じことが起きる。満席だったし、席と席との間が狭すぎるので、移動することもままならずに、閉口した。日焼けしたい人には、お勧めである。店側にクレームをつけると、カーテンを取り付けるべく美術館の許可を求めているが、それがなかなか出ないという。そうか、そうか。建物のデザイン優先かそれともお役所仕事のせいである。

肝心のお料理の味はというと、予想通り、こってりとしたフランス料理である。とりわけ、生ハム入りのサラダは、ハムそのものがチィッシュペーパーのごとく薄かったことを除けば、野菜が新鮮だったし、秋らしくナッツが入っていて、なかなかよかった。ただ、メインは、正直いってこれが三つ星???という感じで、別にどうというものではない。ギャルソンのサービスも、はっきりいって悪い。まあ話の種として、一回行ってみて、それでもう十分であろう。悠々ミシュランの評価は、自信を持って、「☆がひとつもなし」としたい。






(2008年2月2日記)




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