大阪京都の旅


 1月も既に下旬となり、私にとってこれから忙しくなりそうな時期となる。いざそれを前にすると、家内とどこかへ行って骨休めでもしようかなという気が起こり、ふぃっと二泊三日の予定で大阪と京都に出かけた。わずか二日前に急に決めたので、一休さんのサイトを見たり、ホテルのサイトを直接見たりして予約をとったのであるが、短時間で思い通りにとることができた。ついひと昔前はわざわざ旅行会社の支店に行ったりしたのだが、こんな便利な世の中になるとは思わなかった。インターネットのおかげである。見物に行きたいところと、交通の便利さ、いろいろな宿泊プランなどを比較して、大阪は新梅田のウェスティン大阪、京都ではこれまたウェスティン都ホテルとした。同じグループのホテルとなったのは、偶々そうなっただけであり、深い意味はない。サンプルはたった二つだが、どうもこのウェスティンのロケーションを見ると、その立地ポリシーはこうではなかろうか。つまり、本当に便利なところからちょっと離れたところに位置するものの、実際に行ってみるとそう不便でもなし将来有望な場所を選んで営業をしているようにみえる。

 大阪では、積水ハウスのやっている新梅田シティが気になっていたので、わざわざそこにあるウェスティン大阪に泊まった。大阪駅からバスに乗ると便利だが、いざ歩こうとすると、時間はそうかからないものの、とんでもない地下道を通らされる。しかし将来この貨物駅が整備されれば一流地区になる。このあたりの地理の読みがウェスティンらしいところである。ご覧のとおり、新梅田シティには地上40階がそびえ建っている。その二つの建物を跨ぐように作られている空中展望台に登ってみると、別に高所恐怖症というわけでもないのに、結構こわい。途中で透明なエスカレーターに乗らなければいけないことに加えて、てっぺんでは360度の景色を見られるが、何しろ吹きさらし状態なものだから、風は吹きまくり、肌を刺す。ただまあ、1月にしては12度という暖かい天気だったのが幸いして、しばらくすると下界を見下ろす余裕ができてきた。「おお、あれが淀川だ、阪急とJRの鉄橋がかかっている」とか、伊丹空港に降りていく飛行機を眺めたりとか、高速道路を走るバスやトラックがミニチュアのように見えたりとかで、楽しめるようになった。人間、なんでも慣れである。





 その空中展望台の見学を終えて同じ建物の地下一階に下りてくると、たちまち仙人から凡人に早変わりしたような気になる。というのは、その地下に、滝見小路と称して、昭和30年代のレトロな雰囲気の飲屋街が広がっているからである。「おやまぁ、ちょっと一杯」という雰囲気の私に、「あの赤いポストが懐かしいわぁね」と家内がいえば、ふと我に返り、「ダイハツのミゼット???うむむ、よくこんなものが残っているなぁ、それにしてもこんなに小さかったっけ」という私、「あれっ、ビクターのワンちゃんがいる」と思えば、手押しポンプの井戸があり、牛乳箱が軒先にあって……まるで、映画 ALWAYS 三丁目の夕日の世界である。




 泊まっているホテルのすぐ横に、そんな変な世界がてっぺんと地下にあるなんて、誠に不思議な気分である。ホテルの一階には、アマデウスというレストランがあり、そこで朝食をとった。周りには、われわれのような年配客のみならず、小さな子供連れの若い夫婦が結構いて、それぞれに食事を楽しんでいる。家内が、「あの小さな子たち、騒がないでちゃんと作法を守ってバイキング食事とりにいってるわ。相当慣れている感じね。若くしてこういう所を日常的に利用できる階層と、逆にその日暮らしのワーキングプアの階層とはっきり分かれてしまったのよね。サラダのドレッシングのように昔はよく混ざっていて一色だったのに、その瓶を長い間そのままで置いておいたら、いつの間にか二つか三つの層に分離してしまったようにね。」と語っていたが、まったくその通りではないだろうか。




 さて、ホテルから大阪見物に出かけようかということになった。私はもとより海や魚が好きなものだから、家内にどこへ行きたいのと聞かれて、即座に海遊館と答えた。地下鉄で簡単に到着した。着いてみると9メートルの水槽の中で悠々と泳ぐジンベイザメがいる。期待どおりである。多くの小魚を引き連れて、水槽を行ったり来たりしているその姿に釘付けとなり、しばし楽しんだ。あまりに大きいので、写真の対角線上でなければ全身は写らない。横長の大きな口だが、主食はプランクトンと小魚とのことで、体は大きい割には人畜無害なサメらしい。それを証拠に、たぶんマイワシらしい小魚を数多く引き連れて泳いでいる。「小魚たちは、大きなジンベイザメの近くにいれば、ほかの魚に食べられることもあまりないと思って集まっているのだろう。寄らば大樹の陰というわけだ。この戦略は、人生にも当てはまる。ただ、いつまでも小魚でいられるわけでもなく、そのうち体が大きくなるので、さてそれからの生存戦略がどうなるかだが………。」、そんなことを考えていると、脇に大きな水槽があり、そこに大きなマンボウが入っていた。どら焼きをやや縦長にして上下に大きなヒレを付けたこの魚、なかなかユニークである。写真を撮りたいが、入っている水槽が小さいので、焦点を合わせたと思ったらもう尻尾しか見えなくなり、とうとう、うまく撮れなかった。




 それが終わると、皇帝ペンギンの部屋に行った。誕生した赤ちゃんの子育てというのが宣伝文句なのだが、実際に覗いてみると、皆大きな鳥ばかりなので、いったいどれが赤ちゃん?という感じである。ひょっとして、あのペンギンの前にいる、親より大きい熊のぬいぐるみのようなヤツがそれなのかなと思うと、やっぱりそうだった。周りの人たちも「あんな子供なんて……」と、あきれ顔である。確かにねぇ。自分より大きなテディベアのぬいぐるみに、お母さんが背伸びしてエサを口に放り込んでいるようなものである。説明書きによれば、これは生後90日のヒナとのこと。




 少し説明を飛ばすが、翌日は大阪から京都に行った。西の京を散歩していて、これまで訪れたことのないお寺に行こうとして地図を見たところ、仁和寺があったので、そちらに出かけた。龍安寺の近くにあり、実に立派な門構えである。徒然草によると、確か、戯れに頭に鼎をかぶった坊さんが、抜けなくなって大騒ぎをしたという寺である。私の学生時代の友だちの話では、「雪降る日に行ってみたら、若い坊さんが灯篭相手にシャドゥボクシングをしていた。」というから、「おお、それはこの寺の伝統は生きているな。」と大笑いをした記憶がある。説明によると、ここは御室仁和寺の門跡寺院として格式が高かったことから、明治時代まで多くの親王が入山したという。別名を「御室御所」といい、寛永年間の皇居建て替えに伴って、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが下賜されて、境内に移築されていることから、寺内には御所の雰囲気が漂うとのこと。確かに、その通りであるが、冬はさぞかし寒かったのではないかと思う。徒然草に「住まひは夏を宗とすべし」とあるが、このくだりは、昔からどうも解せないままでいるところである。

 見学中に、団体旅行のご一行とたまたま順路が同じになり、若い坊さんの元気な説明が聞こえてくる。この団体客の中には、世慣れたおじさんがいて、若い坊さんが「ここは門跡さんしかお使いにならしまへんお部屋どっせ。」と説明すると、「すると、そのうちあんたも使うやん。」などと言って、その坊さんを赤面させたりしていたのが、おかしかった。この寺の境内は、御所の造りと同じで、庭にはちゃんと右近の橘、左近の桜がある。冬なのに橘の葉は青々としているが、やはり桜は葉が全部落ちている。その横を歩いていくと、廊下でも何でも、外気むき出しのところだから、足の裏が寒くてかなわない。この辺が冬の京都観光のつらさである。そこで、見学もそこそこにして、四条河原町の先斗町と花見小路に行った。祇園コーナーというものが設けられていて、小一時間ほどで、花道、お琴、狂言、京舞などのさわりを見せてくれるらしい。




 花見小路に先にある演舞場に、その小劇場があり、二人で入ってみた。京都伝統伎芸振興財団がやっている模様。日曜日の夜のこととて、あまりお客が入っていない。三分の一が外人というところか。茶道、琴、華道、雅楽と続いて、わかりやすかったのが狂言である。演題は棒しばり。主人が留守の間に酒を飲む太郎冠者と次郎冠者。主人が一計を案じて二人を縛って出かけた。その留守中に二人は協力して不自由な手で何とか酒を飲み、詠い踊るという筋書きである。



 最後に、二人の舞妓さんによる京舞は、実によかった。祇園に来たという感じである。数年前に、先斗町のお茶屋で同級生たちと遊んだことがあるが、それ以来のことである。二曲踊ってくれて、最後が祇園小唄である。それが終わると、これらの舞妓さんと写真を撮ってくれるサービスもあった。家内と二人で写真に収まり、幸せな気分でホテルに帰ったのである。

 翌朝、さあどこに行こうかと家内と相談し、ホテルから東西線で行ける宇治の平等院にした。大雑把にいうとここには10年おきごとに来ているので、今回は5回目ぐらいの訪問ということになる。「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」などと、この世での栄華を極めた藤原道長が亡くなった後、その子頼通が、1052年に仏寺に改めて平等院としたもの。この年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していた。その翌年の天喜元年には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落成し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって作成された阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされている。つまり、千年前に建立された建造物ということになる。




 池から正面に見える阿弥陀堂を眺め、そして堂の中に入って阿弥陀如来像を見上げ、その端正でふくよかなお顔を拝し、天井周辺の雲に乗った天人仏像群を眺めて、しばし思いにふけった。神社でざわめく人たちに囲まれてお賽銭を投げるというより、私はこのようなゆっくりとした雰囲気で文化財を眺めて黙考するという方が好みに合っている。時間が許せば、このような仏像を眺めて来た方、行く末に思いを馳せるのが趣味なのであるが、今回は寒いし案内人に急かされるしで、早々に退出した。でも、平安時代のように周囲に何もないところで、金色の阿弥陀仏と光背、天井には金色の格子と色鮮やかな天人仏像、紅殻色の柱などに囲まれて西方浄土を夢見る平安貴族の心持ちを想像することができた。ところが、今回はお堂の近くに鳳翔館というものが建っていて、建立当時のお堂の中がCGで見られるようになっていた。便利というか何というか。それに修理のためか、それとも展示のためか、お堂の中にあった天人仏像群の一部が外されて間近に置かれていて、じっくり眺めることができた。こちらも、一体一体が精巧な出来で、こんなものが千年前に作られたとは、誠に驚くほかない。楽器を持っている天人が多いが、面白かったのは中にアコーディオンのようなものを持っていた天人がいたことで、これは、その原型なのだろうか。




 平等院のあと、どこに行こうかと相談し、近くの黄檗山萬福寺にした。京阪電車ですぐのところにある。壮大な伽藍で、いやまあすごいの一言である。説明書きによれば、1654年(江戸時代)に中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や4代将軍徳川家綱の支援で1661年に開設した寺院で、日本三大禅宗(臨済宗、曹洞宗、黄檗宗)のひとつという。創建当時の姿をそのまま残しているとのこと。また面白いのは、黄檗宗では明代に制定された仏教儀式で儀式作法が行われ、たとえば毎日誦まれるお経は黄檗唐語で発音し、中国明代そのままの法式梵唄を継承しているという。面白い。文化大革命などを経てもはや中国でもこんな世界は残っていないだろうから、ここは400年前の世界がそのまま缶詰のように保存されているのだろう。

 たとえば、ここで修行する雲水は、巡照板という版木を朝四時と夜九時に朗々と唱えて起床と就寝を促すらしいが、それを「きんべ だーちょん せんす すーだ うーじゃん しんそ こーぎ しんきょ しんう ふぁんい」などとやっているらしい。無為に時を過ごすことを戒めている文句であるが、これを400年間、同じようにやってきたというのは、並大抵のことではない。ところが、その一方で在来の民間信仰にも、ちゃんと配慮してきたらしい。というのは、七福神「布袋尊」つまり「ほてい様」の金色の像も祀ってあるからである。にこやかにほほえんでお腹がでっぷりとした神様……といってもいいのだろうが……が祀ってある。今風にいえば、メタボリックなおじさんという雰囲気なのだが、何とこれが弥勒菩薩の化身とのこと……、弥勒菩薩といえば、中宮寺のやさしげな半迦思惟像を思い浮かべる身としては、それが実はメタボなおじさんだったというのは、何というか、天地がひっくり返った気がするほどの衝撃である。話は変わるが、この寺には木魚の原型となった魚板があり、時刻を報ずるものとして、いまも使われているらしい。






 半日で、11世紀の寝殿造りと17世紀の明朝期の寺院様式を一緒に見ると、いささか混乱する。本当は、時代の進展に伴って古い順から新しい順にでも見ていくことができれば理想だけれども、場所も散らばっているし、訪問することができる時期も違うので、なかなかそうはいかないところである。それにしてもねぇ、メタボなおじさんと弥勒菩薩とが一緒だったとは、団塊の世代には朗報なのかも。要するに、仏様は変幻自在。スーパーモデルにもなれば、相撲取りにもそのお姿を変えられるというわけだ……ホントかな……? ともあれ、不思議なお寺で今回の旅はしめくくり、京都駅で「おたべ」(おみやげ用)と「赤福」(車内食用)を買って、帰京の途についた。





(2007.1.25)
カテゴリ:エッセイ | 22:19 | - | - | - |
徒然038.高級老人ホーム

 我が家の近くに数年前に高級老人ホームが完成し、大々的に宣伝をした。ホテル仕様で、フロントがいて、いろいと世話を焼いてくれる。病院と提携していて常駐医師がいる等々、いいことずくめがパンフレットに書いてある。ウチのマンションからもそれに応じた人が出て、ひとり5,000万円の保証金、月々30万円近くの費用を支払って、嬉々として入居した。2年前のことである。もともとお医者さんのご夫婦で、お金に困らないどころか、冬にスキーをしたくなったらスイスに滑りにいき、ロンドンに拠点のアパートを買い、挙げ句の果てにご子息が骨董品を扱うようになったという御仁である。これをリッチな階級といわずして何というか……という感じである。

 さぞかし、ハイエンドな生活をしているかと思いきや、さにあらず。ウチのマンションが懐かしいという。曰く、一流レストランでの食事というふれこみだったが、365日同じような食事内容で飽きてきたし、毎日同じ顔ぶれで、それがまた気詰まりだとのこと。旦那さんはこれらが嫌で、今や部屋に引きこもり状態らしい。加えて部屋から長時間いなくなったり、戸締りが甘かったり、電気や水道を使わないと、感知されて警報が鳴ったりする。この間はフロントに黙って旅行に行って帰ったら、ひどく叱られた。どうにもこうにも、気詰まりでかなわない。

 へえぇー、やはりそうか。それならこのマンションは、下町の真っ只中にあって、何をするにも自由気ままの好き勝手。この雰囲気も、なかなか捨てたものではないということかと納得した。家内がいうには、我々の頃にはいろいろと経験が蓄積されて、うまくなっているでしょうとのこと。そうかもしれないが、老後の幸せといってもそれは必ずしもお金の多寡ではないということかと納得した。




(2007年1月24日記)



カテゴリ:徒然の記 | 22:25 | - | - | - |
徒然037.今時の学生気質

 いま、週に2回、東大の大学院で教えている。昨日は、今学期の最後の授業だったから、法律の応用問題を取り上げた後、時間が余ったので、少しお話をした。それは、社会に出たときに備えて、いかに他人を説得するかという経験談である。ノウハウといってもよい。せっかくの実務系大学院なので、時折こうした普通の教授にはできそうもない話をすると、学生は喜ぶ。

 要は、自分の立場をはっきりと踏まえ、相手の主張の良い点や弱い点を研究して、いかに主張をしつつ交渉を有利に導くかということである。悪くいってしまえば、それこそ手練手管のようなものと本質的な差はないかもしれない。しかし、それでも社会人として、またその前に一個の人間として、恥じないように心してかかれということを言いたかったのである。

 ふんふんと聞いている学生の中に、文学部出身の人がいて、その人が、とんでもないことを言い出したので、私は思わず耳を疑った。

学生A 「でも、ボクの友達で、交渉どころか、そんな自分と気の合わない連中と話をしたって意味がない。そんなら辞めるという人が、結構いますよ。」ときた。

   「ええっ。そんなことあるのかね。」と驚き呆れる。

学生B 「いや、文学部の人の中には、結構そういう人がいますよ。私の友達の中でも何人か。」

   「でも、そんなことではねぇ、就職するということは、周りは自分の年上ばかりだから、すべて『自分と気の合わない連中』となってしまうよ。それじゃ、就職すら儘ならないじゃないか。」

学生A 「そうなんですよね。私の先輩で、就職先が決まらなくて、50社目にやっと決まったなどという人はザラです。それも、一流出版社から始まって、どんどんレベルを落としていくんですから。」

   「天下の東大の文学部でも、そうなの? それはそういう学生の発想自体がおかしいのではないの? 生まれてこの方、水たまりでしか泳いで来なかった蛙みたいで、まったく信じがたいね。」

学生C 「そんな人、時々いますよ。実は親とか周りの人などに守られた環境があって、そういう嫌な目に遭ってこなかったということなんじゃ、ないスかねぇ。」

   「はるか昔のアフリカ大陸で、お猿さんとそう大差なかった我々の先祖がライオンのうろつくサバンナに出て行ったからこそ進化が生まれ、今の人類があるわけだ。嫌だろうが何だろうが、周りの環境とのやりとりをして初めて、生活をするということが成り立つわけだよね。社会に出るというのはそういうことなんだから、それをあらかじめ拒否して人生が組み立てられるはずがないよ。」




(2007年1月20日記)



カテゴリ:徒然の記 | 21:30 | - | - | - |
家族の絆



 年末年始の休みを利用して、東南アジアの首都やリゾートなどを旅した。東南アジアの経済を見るのに欠かせないのは、華僑の存在である。シンガポールには福建人、クアラルンプールには広東人が多いが、それ以外にも、潮州人海南人客家(Hakka)などがこの地域一帯に広く分散している。もともと、中国沿岸部の人たちであったが、人口増加や狭隘で痩せた土地柄から、海外に雄飛を試みた人たちの末裔である。18世紀以降、全部で5000万人を超える人たちが世界各地に散ったとされる。アメリカ大陸に行った人もいれば、東南アジア、とりわけ大英帝国の支配下にあったマレー半島には多くの中国人がやってきて、華僑として定着していった。シンガポールを含めたマレー半島では、華僑とその子孫の華人の数は、800万人を超え、世界最大の進出先のひとつといわれる。

 マレー半島での中国人は、商業に従事する者のほか、本来は錫鉱山やゴム園における労働者として来た者が多かったといわれている。しかし、何しろ中国数千年の血で血を争うような激しい生存競争の歴史を生き抜いてきた人たちの末裔であるから、ともかく逞しくて生活力にあふれている。東南アジアの灼熱の気候や猖獗の地をものともせず、肉体労働から商業の世界に活路を見出し、各地で経済の要となっている。

 もちろん弱肉強食の世界であるから、大金持ちもいれば、なお貧困に喘いでいる層もいる。しかし、いずれも政府など当てにせず………というか本来のよそ者として当てにできるはずもないのであるが………、人種も文化も慣習も気候も全く違う土地で外国人というハンディを負いながら、自分の才覚だけでそれなりの地位と財産を築いているのであるから、それは敬服に値することではなかろうか。

 そういう目で、やれ格差社会だ、ワーキングプアだと騒いでいる昨今の日本を見るにつけ、「何を甘えている。まず自分で能力を磨き、自ら生活の向上に努力すべきではないか。」などと、ついつい思ってしまう気にもなるのである。ところが今回、ある体験を通じて、それはあまりにも一面的すぎる考えではないかと思うに至った。結論から先に言ってしまえば、社会の安全弁や絆というものが一切合財それこそ跡形もなく消えてしまった現代の日本においては、自己責任という名の下に個人個人の努力を求めるにしても、限界があるのではないかということである。

 アメリカのようなキリスト教社会では、ホームレスのような人たちに対して、教会の炊き出しその他のチャリティー活動が活発に行われていて、これが貧富の差の激しい社会の安全弁となっている。華僑の世界では、どうやらそれに代わるものが、親戚、それに近所の親しいおじさんおばさん………これは時として親類以上に近しい存在となる………によって形成される濃密な近縁地縁集団なのである。

 こうした集団内部では、兄弟姉妹の仕事はどうか、年収はいくらぐらいか、奥さんとうまくいっているか、奥さんの親戚にはどういう人がいて、どうなっているか。甥と姪の名前、年齢、通っている学校、おおよその成績、将来の方向、時としてその友達関係まで、みんな知っている。これには驚いた。それからたとえば、甥が車を買うということを聞きつけて、親類一同がそれぞれいくばくかのお金を包み、それが集まると結構な額となるという。もちろん、その貧富に応じてであるから、貧しい者は、志程度か、もちろん出さなくてもよいし、反対に商売の羽振りがいい者は、それなりに出さないと白い目で見られることがあるらしい。このほか、貧しい親類は、親兄弟の家に居候させてもらって肩を寄せ合って生きているようだ。

 以上の家族や隣近所の「絆」のようなものが、いわば社会的な安全装置なのではなかろうか。これに比べると、現在の日本には、そういった安全装置が欠けている。キリスト教社会特有のキメ細かいチャリティー活動などは全くなく、ホームレスの救済なんぞは、市役所の仕事としか思っていない人がほとんどである。華僑の強固な家族構造といったものも、戦前にはあったかもしれないが、戦後は自己実現の名の下に進んできた「個の社会」が行き過ぎたせいか、叔父叔母甥姪どころか兄弟姉妹の間、いや親子でさえ、疎遠である。少し生活が苦しいというのであれば一緒に暮らせばよいのに、恥ずかしいのか、そういう知恵がないのか、ばらばらに住むので生活費が二重三重に必要となる。これではますます生活が苦しくなるばかりである。妙なところにルース・ベネディクトのいう恥の文化が生き残っているが、そういうものよりむしろこういう「家族の絆」のようなものが、現在の日本には決定的に欠けているのではなかろうか。

 前置きが長くなったが、今回の旅行では実におもしろい体験をした。同じホテルに泊まっていたシンガポール人夫婦(つまり、華僑)が、「今夜、ウチの母の80歳記念の大誕生パーティを催すので、来ないか。」と、さそってくれたのである。「日本でもそれは傘寿といって、たいへんめでたいことで、現に私の父の場合も一昨年親類が集ってお祝いの会を開いたが、まったく関係ない私たちのような者が出ていいんですか。」と聞くと、いとも気楽に「300席も用意しているので、2〜3人増えたって構わないよ。」という。そこで、お祝いのお金を多少包んで入り口の受付のお嬢さんに渡し、参加させてもらった。

 堂々としたホテルの大きな中華料理店の入り口にお嬢さんが3人いて、来る客に机上の赤い布に寄せ書きをしてもらっている。その横に本日の主役の80歳のお母さんが座っていて、来客ひとりひとりに祝福を受けている。品のいい紫色のチョンサム(女性の中華服)を着て、首の周りには真珠のネックレスをし、さらに「金」と書かれた金のネックレスを重ねてしている。お名前を「金玉」さんというらしい。どうも、日本語だと………ま、それはともかくご本人は80歳とはとても思えないほど、色艶も良く品のよろしい方である。

 次から次へとお客が入ってきて、それを親戚の印らしく胸に生花を付けた男女がテーブルを指し示して誘導している。全く慣れていないようで、大童であるが、ぞろぞろと入ってくる大勢のお客は慣れた様子でニコニコしながら席に着いていく。中には2〜3のインド人らしいおばさんが大きな果物籠を抱えてきて、それを受付に置いていく。しかし、それはほんの例外で、ほとんどのお客は、薄いピンク色のお祝儀を渡していくだけである。

 さて、パーティが始まると、最初にその主役の80歳のお母さんの前に大きなケーキを置き、親類一同らしい人たちがその周囲に群がって、ハッピーバースディの歌を歌いだした。それが、数十人もいるので、同じ席にいる人に、「あれはどういう人たちだと聞くと、みーんなあのお婆さんの子供とその奥さんそれに孫たちだ」という。「ええっ、あんなに」と驚くと、「そりゃそうだよ。8人兄弟だからね。」と事もなげにいう。それぞれに3人の子供がいるとして、40人もいるということになる。ちなみにこの人たちは、最前列の「主家」と書いた丸テーブルに座っていた。「皆、この辺りに住んでいるのか。」と聞くと、いやいや、シンガポール、クアラルンプールその他全国各地やオーストラリアなどに散らばっているという。そういう子供たちが家族そろってこのお婆さんのために帰ってきて、お祝いしている由。そして、あのお婆さんが付けているその名も「金」印の金のネックレスは、孫たちの有志がプレゼントしたものだそうだ。

 へーえ、という感じである。今どきの日本で、こういうことをやってくれるであろうか。同じ席に90歳のお婆さんがいた。これまた健啖家で出てくる料理をパクパク食べるのには驚いたが、そのひとに聞くと、「私のときも、やってくれたよ。先日は、近くの何とかさんも盛大に祝ったのにねぇ、その翌月に亡くなってしまったよ。」などと言っている。どうやら、しごく当たり前のようなことらしい。そこで別の人に、「失礼ながら、この家族はかなり裕福なんですか。」と尋ねたら、笑って「まあ、なんと言うか、ごく普通の家族だよ。ただ、兄弟が8人もいて、皆の仲は良いらしいね。」とのこと。これで中流の普通の家庭らしい。

 舞台では、若い賢そうな女性がスピーチをしている。「あの人は?」と聞くと、「ああ、あれはアイリーンちゃんだよ。この一家の輝ける星で、メルボルン大学の医学部に在学中さ。」とのこと。それか終わると、偉丈夫の大男が出てきて、なにやら大声で演説をしている。この人は、現地の中国人政党のお偉いさんで、来賓挨拶といったところ。しかし、ごく普段着で来ている。服装はどうなっているのかなぁと思って出席者を見渡すと、女性は要は普段着の延長のようなものだが一応はちょっとしたドレスらしきものを身に着けているものの、男性はほとんどか襟の付いたシャツで、スーツとネクタイ姿は主家の数人しかいない。日本のこの手の公式の席のように、やれ黒礼服だの黒留袖だのということは、一切ないようである。もちろん、中には現地の式服に相当するバティックを着ている男性もいたが、数はそう多くない。しかし、これでいいのではないか。そもそも日本の場合は、形式ばり過ぎている。

 さて、スピーチがひとしきり終わると、何とまあ、カラオケ大会が始まってしまった。だいたい、その政治家のおじさん自身が、スピーチの直後に突然歌いだしたのである。さてそれからが一騒動。次から次へと人が舞台に上がってきて、歌うは歌うは。こんなにカラオケが流行っているとは知らなかった。歌の中には、星影のワルツを歌ぁおぉう………、長崎は今日も雨だったぁ………ワワワワン………など聞きなれている曲かいくつもあった。これらを異国の地で聞くと、たとえ歌詞が中国語でも、まるで昭和50年代にタイムスリップしたような観がある。リズムに合わせて思わず体を動かしていたのだろう。それを世話役に目ざとく見つけられて、とんでもないことが起こった………「あなたも歌わないか」などと言われたりして………。勘弁してもらうのに、一苦労だった。いやはや。

 舞台上では次々に歌っている。それとはおかまいなしに、この「主家」の人たちは皆で兄弟ごと、孫ごとに集まって大声で「ヤーーーーームセン(乾杯)」なんてやってるし、果てはカラオケを歌っている人たちを押しのけ、舞台に孫世代一同が上がって大騒ぎをしている。男の子たちはマイクを握り、女の子たちは伴奏に合わせて両手をひらひらさせている。まるで学芸会だが、これほど芸達者だとは知らなかった。そうかと思うと、小学校低学年の三人組の女の子が出てきて、マイクを持って歌いだした。これが実に堂々としていて、誠にうまいのである。おそれいった。思わず「What wonderful singers they are!」というと、隣のおばさんが「Yeah! They need not study, anymore!」なんて言っていた。「芸があるから勉強なんかしなくていいのよ、この子たちは。」ということなのだろう。

 おやおや、主役のお婆さんを囲んで親類一同がまた集まり始めた。ひざまずき、小さなカップのお茶を奉げて、お婆さんにキスをし、お婆さんから赤い袋をいただいている。どうやら、祝意と敬意を表しているらしい。そのうしろでは、相変わらず来客が大声でカラオケに興じている。日本のようにしちめんどくさい式次第のようなものはないらしい。要するに、各自それぞれに徹底的に楽しめばよいようだ。実際的で良いではないか。

 こんな調子で4時間あまりが経ち、そろそろ皆さん飽きてきたと思う頃に、自然と主役と親類一同が出口に並んで立ち、帰っていくお客に挨拶したり、手を握ったりしている。音楽も調子のよいものとなり、あぁ、終わった終わったという感じである。見送る人も、ゾロゾロと出て行く人も、みんな、ニコニコ顔である。お互い手を握ったり、笑いあったり、いかにも楽しんだという思いが伝わってくる。

 日本人と華僑、同じような顔をしているが、文化が違うと、こうも違うものかとしみじみ思う。戦後の日本は、「家制度」という呪縛からの脱却がひとつの目標であり、それなりに成功したと考える。つまり、「家」にしばられていた「個人」を文字通り開放したのであるが、その反面、これによってなくしたものも多々あると思う。端的にいうと、それは「家族の絆」ではないだろうか。もちろん、戦前のような個人の自由を拘束する形式的な家制度というものはいただけない。しかしながら、この華僑の社会のように、形式ばらずに、自分たちのルーツとしての父母を大事にし、何かあれば自然に集まって助け合うという絆を大事にするということは、改めて学んでもよいのではなかろうか。彼らはこういう行事のことを英語で「reunion(絆)」つまり親類一同が寄り集まって親睦を深めるものといっていた。




(2007年1月18日記)






カテゴリ:エッセイ | 21:49 | - | - | - |
徒然036.ヘルシー・ランチ




 昼下がりに近くのホテルに行き、ヘルシー・ランチを注文した。ここのホテルは、ともかくよく食べる人を対象にしているのではないかと誤解するほどに、料理のボリュームが多い。しかもそのほとんどが見るからに脂っこい料理ばかりである。ところがその中にあって、このヘルシー・ランチというものだけは異彩を放っており、その名のとおりシンプルで一見ヘルシーなのである。メインは白身魚、そしてサラダに牛乳とアセロラ・ドリンク・・・もう一品あったかな・・・ともかくそんなものである。これに、パンが食べ放題ときている。このパンがおいしいので、ついつい注文しすぎて、ちっともヘルシーには収まらないのが唯一の悩みである。これで1200円というのもねぇ・・・、高いような気もしないわけではないが、オフィス街のざわざわとした雑踏を避けて、のんびり食べられるのも、ここが気に入っている点である。

 さらにもうひとつのお気に入りは、このレストランの中で、熱帯魚の水槽の横の席に座ることである。きょうもその席が空いていて、水槽の正面にどっかりと腰を下ろすことができた。この水槽には、ゆったりと泳ぐクマノミやエンゼルフィッシュなどが入っている。水槽の底には、珊瑚が置かれていて、魚たちはその間をすいすいと泳ぎ回っている。それにガラスが透き通しなので、そのガラス越しに、きびきびと動くボーイさんやウェイトレスさんが見えるのが面白い。

 それをあたかも天国から下界を見下ろすように眺めながら、ゆっくりと時間をかけてそのランチを食べた。白身魚・・・いま話題のナイルパーチだったかも・・・そして、かねて好物のパンがやはり絶品だった。食べ終わってまだ時間があるなぁと思った瞬間、そうだ、この熱帯魚を携帯の待受画面の写真にしようと思いついた。それで、携帯電話をやおら取り出して、ひらひらと泳ぐお魚にカメラを向けた瞬間、それまで優雅に泳いでいたお魚たちが、ささっとその姿を一斉に隠してしまうではないか。おやおや、警戒されたようだ。女性に対すると同様、急に接近しては、いけないらしい。

 それでこちらも、一旦は後退し、それからゆるゆると再び前進しておもむろにカメラを向けると、魚たちは再びてんでに泳ぎ始めていたが、それでもこちらを警戒して、以前のようには無邪気に泳いでくれない。仕方がないなあと思い、こちらも動かずにそのままの状態で我慢していると、しばらくしてやっといつものようにノー天気に泳ぎ回る状態に戻った。

 さてそこで、カメラのシャッターを押し始めたのであるが、ここでまた問題が発生した。いい構図だなと思ってシャッターを押すのであるが、お魚のスピードが早くて早くて、撮れた写真には、魚の尻尾しか写っていないではないか。それではもう一度と・・・、やっぱりだめだった。ああっ、また失敗かということを繰り返していたが、今度はこちらも頭を使うことにした。よくよく観察していると、撮りたい魚が珊瑚の陰から口を出した瞬間にシャッターを切ればよいということがわかった。そうやって試みたところ、やっとのことで、魚の全身が含まれる満足のいく写真が撮れた。それが、冒頭の写真というわけである。これを待受画面に設定して、おしまいとなった。

 さて、そんなことに時間と手間をかける客など珍しかったのだろう、勘定書を持って席を立とうとしたところ、やや年増のウェィトレスさんから声がかかった。

「いい写真がとれましたか?」

(おやおや、見ていたのかと思いつつ)「いやそれが、敵もさるものでね、警戒されたり、動きが早くて、ちゃんと写真をとるのが難しいんですよ。でもまあ、最後にやっと一枚だけ撮れました。ありがとう。」と言って、その場を後にしたのである。

 私の2007年は、こうして始まった。イノシシ年だからというわけではないが、今年は何か大騒動が起きそうな気がする。しかし、じっくり観察 → 軌道修正 →素早く 行動 といういつものパターンで何とか乗り切り、少なくとも結果オーライまでには持って行きたいものと考えている。



  明けまして、おめでとうございます。今年も、どうかよろしくお願い申し上げます。








(2007年1月10日記)




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