煙出し人形




 チェコにほど近いドイツの山地エルツ地方にあるザイフェン村(Seiffen)は、煙を出す木彫りの人形で有名である。人形の胴体の上半身部分を外し、空洞になっているその中に細長い円錐形のお香を置いて火をつけ、再び上半身をかぶせる。そうすると、口からプカーリ・プカーリと優雅な煙を出すし、芳しい香りが部屋いっぱいに漂う。いずれの人形も、木目が非常に美しく、ちょっと猫背ながらいかにも田舎で素朴な表情が良い。

 この右手前のウェイトレスのお姉さんは、ミュンヘンのビヤホールで見た人とそっくりである。そばかすまで描いてあるなんて、実に芸が細かい。実際このとおりに、両手で最大12人分の重たいジョッキを運んでくるのだから、相当な力持ちのお姉さんたちである。

 少し前のこととなるが、ヒトラーが昔そこで演説をしたという有名なビヤホール(ホーフブロイハウス)でビールを飲み、ヴァイス・ブルスト(白いソーセージ)などを一人さびしくつまんでいたら、向かいの歳をとったドイツのお爺さんにからまれてしまった。その人は鳥打帽をかぶり、顔は既にビールで真っ赤である。下手な英語で

「おまえ、ヤパーナ(日本人)か!」
「はあ、そうですが、な、何か・・・。」
「この間の戦争は、お互い、負けちゃったよな。」
 【な、なんて古い話をするんだ・・・・】と不安になる私。
 【言葉がわからない振りをするか、いやいやもう遅いよな・・・】
「ヤー(いやまあ)、そうでしたね。」
「今度は、イタ公抜きでやろうな。あんな奴らと一緒に戦争したから負けたんだ。」
 【なんだ、これをいいたかったのか。】とほっとした私。

 そこで調子に乗って日本語で汽笛一声新橋を歌い、回りの拍手喝さいをもらってしまった。ひょっとして、ドイツの軍歌に似ていたのかもしれない。これこそ、旅の恥はかき捨ての類かもしれないと、あとで反省しきり。

 話が少し逸れてしまったが、これは300年の伝統がある人形とのことで、かつては鉱山で栄えた町だが(Erz=「鉱石」)、雪に閉ざされる冬に、村人がブナの樹などを材料に作り始めたのが始まりという。ミュンヘンなどではくるみ割り人形が有名であるが、この煙出し人形(smoking man)も最近とみに人気を集めている。ザイフェンには、教会を中心に150近くの木彫りの工房があり、昔ながらのマイスター制度の下で作り続けているとのこと。

 ネットで調べると、日本に「エルツおもちゃ博物館・軽井沢」というものまであった。日本って、何でも揃う本当に不思議な国である。




(2006年12月24日記)


カテゴリ:表紙の写真 | 17:10 | - | - | - |
万惣フルーツオムレツ








 のんびりとした冬の、とある土曜日のことである。家内と、神田須田町の万惣に行った。家内が「万惣のホットケーキを食べたい」と言い出したからだ。確かに以前ここに行ったのは、娘が特別の用事で来たときのことなので、もう数ヶ月も行っていない。それでは久しぶりにここで食べようということで、地下鉄で出かけた。御茶ノ水駅で降りて靖国通りを歩き、交差点角に万惣のビルが見えた。

 すたすたと階段を上がっていくと、お昼の時間を過ぎていたせいか、ウェイトレスではなくてコックさんが1人いて、接客をしている。「何人ですか」と聞かれて「2人!」と答えると、ちょうど空いていた窓際の2人席に案内された。

 メニューを見ると、家内はもうホットケーキを食べると決めていて、紅茶を合わせて頼む。私はというと、先日食べたフルーツオムレツの不思議な味がもう忘れられなくて、「またなの?」と言われるも気にせずに、アメリカン・コーヒーとともにこれを頼んだ。そこでやっと回りを見る余裕ができた。休みの日なので、カップル、若い女性どうし、母と娘という組み合わせだけでなく、夫婦と大きな娘ふたりという組み合わせもいる。しかし、夫婦で甘いものを食べにきているというのは、恥ずかしながら、われわれだけであった。

家内「小さい頃、ホットケーキはごちそうじゃなかった?」
私 「そうそう、母さんか焼いてくれたときの、あの独特の匂いを思い出すね。」

 しばらくしてまずホットケーキが来て、それからほどなくしてフルーツオムレツを持ってきた。これが誠に妙なものというか、変わった食べ物なのである。まず、バナナ、パイナップル、いちご、キウイフルーツなどの塊りが敷かれているその上に、半円形のぽってりとした黄色の玉子焼きのようなものが載っている。まあ、オムレツといえばオムレツなのであるが、中を割ってみると、とろりとしたクリーム状となっている。色はカスタードクリーム風だけれども、まるで泡のようなもの。食べると、すぐに溶けてしまう。こんなものを、どうやって作るのかという感じなのである。本当に、不思議としかいいようがない。

 この万惣、創業150年とのこと。日本橋の千疋屋のようなものである。





【後日談】


 その後、1846年(弘化3年)創業の万惣フルーツパーラーは、残念なことに、2012年3月24日に閉店してしまった。万惣フルーツパーラーのある神田本店の建物が、「東京における緊急輸送道路沿道建築物の耐震化を推進する条例」の特定緊急輸送道路に面していたため、耐震診断の結果、建替えが必要となったものの、必要な資金が工面できずにやむを得ず廃業の道を選んだと聞いている。




(2006年12月21日記)




カテゴリ:エッセイ | 23:55 | - | - | - |
徒然035.半世紀前の小学生


 いよいよ忘年会のシーズンの幕開けである。今晩は昔の仲間ふたりと語らって3人で月島のスペインクラブに行き、サングリアを痛飲し、そしてパエリアなどスペイン料理を楽しんだ。ちょうどフラメンコ・ショーがある日で、それを眺めながら喧騒の中での歓談である。

 このふたりは、30年近くの時を隔ててたまたま近くにある同じ高層ビルで仕事をするようになったこともあり、ちっとも昔と変わらず、よもやま話に時間が経つのを忘れた。当時の上司のこと、仲間のこと、仕事のこと、家族のこと、趣味のことなどを一通り話しをした後で、われわれが小さい頃の話となった。

 映画の「ALWAYS三丁目の夕日」の世界のごとくで、あそこに描かれた中で、三輪のトラック、駄菓子屋、集団就職の子、力道山が出てくるプロレス、近所に見に行った白黒テレビなど、ひとつひとつが懐かしいなぁという話となった。でも、少し物足りないのは、あの映画には当時の子供向け映画の話題がなかったことだということになり、何だっけというわけで、思いつくままに挙げていった。

 順不動だが、赤胴鈴之助、怪傑ハリマオ、月光仮面(歌の文句が「お兄さん」でなくて「おじさん」だからなぁとの揶揄が入り)、鉄人28号などというのがあって、それからゴジラにモスラなどの怪獣時代だったよねと懐かしんだ。

 「でもね、三丁目の夕日に出てくる子供の遊びはよく時代考証がされているとは思うけれど、ひとつだけ間違っているのがあるんだ。それは、ゴム動力ヒコーキのゴムの巻き方。あの映画の子たちは、ヒコーキを上からわしづかみして、羽のうしろの胴体を持ってゴムを巻き上げていた。しかし、やってみるとわかるが、それではゴムは少ししか巻けない。正解は、ヒコーキをさかさまにして、首の付け根を左手で持ちながら、右手でゴムを巻くんだよ。」と、私がいう。

 すると、もう頭のてっぺんが薄くなりつつあるAクンが、「あのヒコーキのメーカーはふたつあって、ひとつは翼の構造材のヒゴを蝋燭であぶって曲げなければいけなかったけど、もうひとつのメーカーのヒゴは、あらかじめ曲げられていたんだよね。」という。そこですかさず私が、「いやいや、あの曲げ方は、実際に図面に当ててみると、図面の角度とはぜんぜん違っているので、さらにそれを曲げる必要があったんだ。しかも、その曲げを矯正しようとしたら、今度は横から見たらヒゴがSの字状に曲がってしまって、往生したことがある。」と、合いの手を打つ。

 
 この調子で、3人とも気分は小学生時代へと完全に戻って、わいわいがやがやとやりあった。家に帰って、家内にその話をしたところ、「まあ、もう半世紀の前のことを、皆さんよく覚えていること」などと言われてしまった。




(2006年12月19日記)




カテゴリ:徒然の記 | 00:57 | - | - | - |
東京大学の秋

東京大学の秋


 11月に入り、ようやく肌寒くなってきた。銀杏も、少しは色づき始めた。しかし、なかなか本格的に黄色くならない。とうとうしびれを切らして、11月の末になって、東京大学の本郷キャンパス内での写真を撮ってきた。日頃親しんでいる散歩道でもあり、職場でも研究の場でもあるが、いざ写真を撮ろうとすると、これがなかなか難しい。特に、日光の入り方によっては、同じ建物でも全く印象が違ってきてしまう。東京大学の場合は、その建物の向きのせいか、どちらかというと、午後より午前の方が撮りやすいと思う。

 これらの写真は11月24日と、その一週間後の12月3日に分けて撮影したものであるが、たった一週間の違いは大きかった。特に東大正面から安田講堂にかけての銀杏並木が、ついこの間は緑一色だったのに、黄色へとみるみる間に色づいたのには驚いた。自然の移り変わりは、かくのごとく早い。

 そして、次に驚いたことは、三四郎池の紅葉である。池面に紅葉が映えて、ここが都心の大学の真ん中にあるとは思えない。まるで、深山幽谷の趣きがある。









(2006年11月24日記)



カテゴリ:写 真 集 | 11:15 | - | - | - |
| 1/1PAGES |