「青 春」の詩
「青 春 (1)」ウルマン




「青 春 (2)」ウルマン






           青 春
                  サミュエル・ウルマン
                    (1849〜1924年)

 青春とは、
 人生の特定の時期ではなく、心の有り様をいう。
 薔薇色の頬、赤い唇、柔軟な手足でもなく、
 強い意思、豊かな想像力、溢れる情熱をいう。
 つまり、人生という豊かな泉の新鮮さなのである。

 青春とは、臆病さをはねのける勇気や、安易に
 流れやすい気持ちを克服する冒険心を意味する。
 その心は、時に20歳の男の子より60歳の人にある。
 人は、単に歳を重ねるだけで老いるものではない。
 人は、理想を失ってはじめて、老いるものである。
 歳が経つと皮膚に皺が寄るが、情熱がなくなると心は萎む。
 苦痛や恐怖や失望に合うと気力は萎え、精神も塵芥に帰す。

 60歳であろうが16歳であろうが、およそ、人の胸には、
 驚きに魅せられる心、無垢の子供のような未知への探求心、
 そして人生に対する興味と喜びの心がある。
 あなたと私の心の真ん中には、いわば無線の発信局がある。
 人や神から、美、希望、喜び、勇気、そして力についての
 メッセージを受けている限り、あなたは若いのである。

 あなたの心の感受性がなくなってしまい、その精神が
 皮肉という雪、悲観主義という氷に覆われてしまえば、
 たとえ年齢が20歳であろうと、老け込んでしまう。
 しかし、あなたが心の感受性を高く保ち、楽天主義の
 波をとらえている限り、たとえ年齢が80歳になっても、
 若いままで人生を終えることができるという希望がある。


               (悠々人生亭主人 訳)






 サミュエル・ウルマン(1849年〜1924年)による「青春」という詩を聞いたことがある人は、多いだろう。しかも、われわれより1世代も2世代前の経済人の方々がこの詩を座右の銘にしている。世上で流布している訳は、現代語訳としてはいささか古いと思われるので、私が改めて訳してみたのが、冒頭のものである。

 確かにこの詩は、「歳をとっても、新鮮な気持ち、美や希望に対する心の感受性、それに楽観主義でいる人は、いつまでも心が若い」という主張なので、私も含めて、中高年を元気付ける内容である。それにしても、これほど経済界の中に広まっているというのには、何か経緯があるに違いないと思っていた。

 そこで、インターネットを調べてみたところ、やはり同じことを思った人がおられたようで、岩手大学工学部の宮本裕教授のホームページには、概略、次のようなことが記されていた。

 ・ ウルマンは、両親とともに1851年に米国に移住した
  ユダヤ系ドイツ人である。バーミンガムで成功した実業家
  であり、引退してから詩を書き始めた。

 ・ 「青春」はウルマンが80歳の誕生祝いを記念して自費
  出版した詩集の中に掲載された詩のひとつである。

 ・ リーダーズダイジェスト1945年12月号がこの詩を
  載せた。

 ・ ダグラスマッカーサー元帥がそれを執務室に掲げていた。

 ・ それを知った岡田義夫(日本フェルト工業統制組合専務
  理事)が訳して、オフィスに貼っておいた。

 ・ それを見た森平三郎・元旧制桐生高等工業学校教授が感
  動し、地元新聞に随筆を書いたり、教え子に紹介した。

 ・ 教え子の中に松尾稀勝・元ソニー電子株式会社社長や
  木本陽三・元サンヨー電器販売株式会社社長がおられて、
  社内、友人、知人、取引先に配布をした。


 ということで、その後、電力業界の松永安左エ門氏、松下電器の松下幸之助氏、ソニーの盛田昭夫氏、東洋紡の宇野収氏などが好んで引用して伝道師役を果たしたらしい。

 以上のような顛末らしいが、これらの名前を見て、「ああ古いなぁ」と思う向きもあるかもしれない。しかしそれはそれとして、この詩の持つ価値は、認められてしかるべきであろう。この詩には、確かに心に響くものがあるからである。




(2005年8月17日記)





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ティオマン島の思い出

 私が熱帯の海中に魅せられたのは、南太平洋に浮かぶ、ティオマン島という南国の島でのことである。シンガポールなどからセスナ機が出ており、簡単に行ける。ここは、映画「南太平洋」のロケが行われたところとして有名であり、まさにあの映画出てきた小さな滝もまだ残っている。

ティオマン島


 島の周囲は、もちろん珊瑚礁に覆われていて、ここから漁船で沖合に出ると、さらに小さな小島が点在している。漁船を一日借り上げ、家族でそのひとつに上がった。砂浜は、真っ白な砂で覆われ、その奥には椰子の木が何本も生えている。その椰子の木の陰に寝ころんで、どこまでも青い空を眺め、それが飽きるとシュノーケルを付けて海中に潜る。すると、そこはまさにこの写真のような色とりどりの珊瑚と、熱帯魚が泳ぎ回る世界である。ゆったりとした波に身を任せ、ぷかぷかと海に浮かび、いつまでも水中を眺めていたいと思ったほどである。

 水中から顔を上げ、太陽の光をまぶしく感じながら、ふと家族は大丈夫かなと思って周りを見た。すると、家内はといえば、体にぴったりとした水着を着て、入道雲がもくもくと上がっている青い空を背景に、海中からすっくと立っている。「おお、まるで資生堂のポスターだ」と、褒め言葉とも何ともならない感想が浮かんだ。息子と娘は、頭に黄色いシュノーケルを付けているものの、海に潜るというよりは、ビニール袋で小魚を捕まえようとして、大騒ぎである。何万匹もの大群で泳いでいるので、簡単に捕まえられそうだが、その大群中に手を伸ばしても、するりと逃げてしまう。

 お昼時になり、漁師が釣ってくれた鰹を、椰子の木の落ち葉の焚き火であぶって食べた。その、おいしいこと、美味しいこと。一生の記念に残る南国の休日であった。




(2005年8月6日記)




(注) 上の写真は、観賞魚フェアのものである。
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神宮花火大会
神宮花火大会



 8月1日は神宮の花火大会であった。私が入っている神宮テニスクラブからは、これがよく見えるので、いつもその日はプレーは午後5時半でおしまいになり、コートサイドは家族連れのメンバーで一杯になる。ドドーンと、体の中でも胸と腹に響く衝撃で始まる。丸い伝統的な花火、箒のような花火、スターマイン風の色とりどりの連発花火など、いろいろ楽しんだ。

 近くに同じようなデジカメを持った人がいて、一生懸命にシャッターを押していた。私も負けじと(こんなところで頑張っても仕方がないが)、愛用のデジカメのシャッターを切った。しかし、あれほど頑張ったのに、比較的まともだったのは、この一枚きりである。花火を撮るのは、一眼レフでないと、やはり無理か。

 花火を撮るタイミングは、実に難しい。早すぎると、まだ点火もしていないし、遅すぎたら、もう火は消えかけている。やっと花火の最盛期に撮れたと思っても、あたり一面、光で真っ白ということもたびたび。花火が一番のクライマックスを迎えたその直後くらいが、理想時なのかもしれない。




(2005年8月4日記)



                       
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日本の果物

 おいしそうなマスク・メロンが生っていた。場所は近所の農場といいたいところだが、私の家のほど近い東京は神田の神保町本屋街にある花屋さんの店先である。私は、実際にメロンが生っているところを見るのは初めてなので感動し、しばし余韻にひたった。



 そういえば、バブルの頃に静岡県磐田市に招かれて講演をしたことがある。そのときの帰り際、桐の箱に入ったお土産をいただいた。家に帰って開けてみると、芳香を放ちながら白い紙に包まれたマスク・メロンが出てきた。磐田市は、その有名な産地だったらしい。ご親切にも、食べごろまであと何日というカウント・ダウン付きだったように記憶している。その当時、このような進物用のマスク・メロンは、1万円とか3万円とか、とてつもない値段が付いていた。それを食べてみて、どうだったかというと、もちろんこってりと甘くておいしかったのは間違いないが、別にそれ以上、たとえば天国のような味がしたわけでもなく、要するにメロンはメロンである。

 日本の農業の方向を見ていると、ともかく手をかけ、見た目がよく甘くておいしいものを作り、そして高く売ろうとしている。特に、果物や野菜は、ほとんどと言ってよいほど、こういう路線である。しかし、外国にしばらく住んで、これは明らかに誤っていると思った。まず、外国の農産物の値段は、日本のそれのおそらく10分の1程度ではないだろうか。その代わり、見た目はあまり良くないし、味も決して甘くはない。しかし、それでいいのである。スイカなど、日本のはとっても甘いが一個2500円はする。しかし東南アジアではそんなに甘くはないが、一個20円もしない。だから、食べようと思えばいつでも毎日好きなだけ食べられる。そもそも安くて豊富な食料は、庶民の大きな味方なのである。ところが日本では、確かに工業製品は世界で最も安いけれども、農業産品は、単に果物や野菜にとどまらず、牛肉や米も含めて世界一高いのである。自由化して世界的競争を生き抜いた産業界は成功したが、保護一辺倒で競争のなかった農業界は、自己変革に失敗したことの証左ではないだろうか。

 それに、外国の農産物の方が、もっと人間的であると思う。野菜ではあるが外国で食べたトマトは、私が小さい頃に経験した青臭い味そのものであった。聞いた話だが、日本のトマトの品種のひとつに、桃太郎というのがある。これは、見た目も堂々と大きくて、しかもつやつやと美しい。それに、収穫してから一週間は持つというのである。これは流通させるうえで非常に大事な要素で、普通のトマトが2〜3日しかもたないのに比べれば、この一週間というのは、いかに意味があるかがわかるであろう。ところが世の中は、そううまい話ばかりではない。トマトが含む各種の栄養素を比較すると、この桃太郎というのは、在来品種のわずか3分の1程度だというのである。換言すると、桃太郎は、栄養を犠牲にして、見た目と流通に都合のいいように改良されてしまった品種だというのである。

 この話が本当だとすると、日本で収穫されている果物や野菜のうち、いつの間にか営業上の理由で変えられてしまったこの手の品種は、それこそヤマほどあるのではないか。私の小さい頃と比較すると、たとえば、あの酸っぱい夏みかんが、すっかり市場から消えてしまった。葡萄も、例の巨峰とかいう、砂糖の塊りのような品種が、幅を利かせている。いや、最近は、もっと糖分の高い品種らしい。こんなものを食べ続けると、かえって健康に悪いのではないかという気がする。

 もっとも、われわれ消費者の嗜好にも、相応の問題があるのかもしれない。ひん曲がったキュウリやトマトより、すっきりとした姿形でつやつやとしたものを選ぶ傾向にある。こういう小さな選択行動が積もり積もって、生産者にそういうものばかり作らせるという結果になっている。それにつけても、外国人が来日して驚くのは、リンゴである。バブルの頃、やってきた外国人が「日本のリンゴは、一個一個白いクッションに包まれていて、ひとつ800円、場合によっては1000円もする」といって、私は来る人ごとに何回も同じような話を聞かされたものである。そうだろうなと思う。何しろあちらでは、1000円も出せば、100個以上も買えるから・・・。その代わり、変なリンゴも混じっているので、ひとつひとつチェックしながら買わなければいけないけれど・・・。

 時代の要請に応じて、減農薬の有機栽培品を作るというのも大事なことである。しかしその前に、この手の「見た目や甘さを異常に気にする品種改良」や「凝りに凝った果物」を作って付加価値を追求するという手法は、やめてもらいたいと思うのだが、どうであろうか。そして私たち消費者に、こういう「質より量で安く勝負」というジャンルの実用本位で売られるような果物を供給してくれないかと期待している。衣料品の安売りで急成長したユニクロが、2年ほど前に野菜の販売に参入するというニュースを聞いて、やっとそういう時代になったかと思った。しかし、それは早合点だったようで、実は高額の有機野菜を販売する計画だったらしく、やはり1年半ほどして立ちゆかなくなり、店じまいをしたようだ。

 この世界でも、革新的企業が出てこないかと思うのだが、保護色の強い農産品という分野が分野なだけに、はてさて、どうなのだろうか。それとも、東京や大阪のような大都市以外の地方では、そういう実用的な農産品が主体に売られているのだろうか。一度、誰かに教えを請いたいと思っている。




(2005年8月3日記)



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外科医の技法

 娘が形成外科の医者をしているので、家の中に医学専門書がころがっている。暇なときに、それを手にして読んで・・・というか、写真や図表を眺めていると、実に面白い。何というべきか、手術や治療の技術が、とても傑作なのである。つまり、よくこんなことを考えついたものだとびっくりしたり、あるいは、何とまあこんな(敢えていえば、馬鹿な)ことを思いついたものだと、感心するやらあきれるやら・・・。しかし、こういう世界でも、思いつきや工夫が大事だということが、よくわかる。

 たとえば、乳ガンで、片方の乳房を切り取られたご婦人がいるとする。そのままでは、体のバランスが悪くなるし、まだお若いと、もちろん見た目も気になる。そこで、乳房を再建するという手術が行われる。こういう場合、アメリカの美容外科では、シリコンを入れて綺麗におっぱいを作るというのが普通らしいが、娘の病院では、自分の体の組織を使って再建するという。

 そこで、こうした手術の技法に関する医学書の出番となるのだが、ではどうするのかということになる。私などは、自分の体のどこか目立たないところから、お肉を持ってきて、それを胸にポンと縫い合わせるなどと簡単に考える。しかし、それは浅はかな素人考えらしい。そんなことをしても、その動かした組織が定着しないという。だいたい、少なくとも血管がちゃんと繋がっていないと、組織というものは生きられないというのである。

 「ほっほう、それは困ったものだ、ではどうするの」と聞くと、

 「発想は簡単よ、ちゃんと繋がっている血管ごと脂肪組織を持ってきて、それをその場所にあてがえばいいのよ」とくる。

 「でもねぇ、肝心の胸は、そもそも乳房が取られて、男の胸みたいにあばら骨がむき出しなんだろう? まさか、残っている方を二つに割れないし。」というと、

 「だから、その人の体のどこから持ってくるかで、これまでいろいろな医者が苦労してきたところなのよ。その結果、今では、二つの場所のどちらから持ってくるということになっているの。」と、のたまう。

 「へえ、つまり、血管ごと脂肪を持ってこられて、しかも胸の近くか・・・、とすると、余分な脂肪のあるお腹かなぁ?」

 「当たり! それと、胸のすぐ後ろの背中にある肩胛骨の下の付近ね。」

 「それは、ひょっとすると、裏返すのかね。」

 「裏返すというより、正確に言うと向きを変えるということでしょうね。」

 「ははぁ、そちらの方は、思いつかなかったけれど、そのお腹から脂肪組織を持ってくるというのは、ついでにお腹の余分な脂肪も取れるから、一石二鳥というわけだ。」

 「そうね、しかし帝王切開などをした人には、できない方法なので、その場合は背中からということになります。」

 誠に面白いものである。そもそも、そういうことを思いついて、しかもそれを実際にやってみて、それがこういう医学書に載っているということ自体が、愉快である。

 それからまた、その医学書中に、まるで頭がおてもやんのようになっている男の人の写真を見つけた。つまり、ミッキーマウスの耳のようなものが三つあって、それらが頭の外へ向けて丸く大きく突き出しているのである。しばし考えたが、こういう病気は、聞いたことがない。そこで、娘に聞くと、「それは、頭頂禿げの治療よ」とのこと。あまりの答えに、要領を得ないでいると、つまりはこういうことらしい。

 頭頂禿げ、つまり頭の上のところだけが禿げていて、頭の周囲にはまだ髪の毛がふさふさとあるというタイプの禿げの人がいるとする。ちょうど、時代劇の月代のように禿げてしまったケースである。こういう人が、何とか頭頂にも毛を生やしたいと希望したとする。その場合、周りの髪の毛があるところから毛を取り出し、それを一本一本取り分けて、頭頂に植え付けるというやり方がある。この場合は、毛を個々に取り分けるところに技術を要するという。

 そこで、別のやり方として、このミッキーマウス方式があるというのである。簡単に言うと、要するに禿げている頭頂部を縫い合わせるのである。そうすると、髪の毛のある部分だけになる。このようにすれば、普通の人のように、頭が一面、髪の毛、しかも自分の毛で覆われるという状態となる。こう言えばたやすいようだが、実は大きな問題がある。禿げている頭頂部を縫い合わせようとしても、そうは問屋が卸さない。なぜなら、皮膚がなかなか伸びてくれないのである。

 考えてみれば当然のことで、そんなに簡単に皮膚が伸びるのでは、われわれの体はタコの表面のように自由自在になってしまう。そこで、ミッキーマウス方式の登場となる。これは、その髪の毛がふさふさと生えている部分の皮膚に生理食塩水を注射して、その部分の皮膚を風船のように膨らませるのだという。その風船を頭の周囲に三ヶ所作って、十分に膨らんだところで、頭頂部の禿げている部分の皮膚を削除し、髪の毛のある部分だけをひっぱって縫い合わせるわけである。

 このように聞けば、いとも簡単のようであるが、ひとつ大きな問題がある。それは、皮膚が十分に膨らむまでに、結構な時間がかかることである。少なくとも数ヶ月の間は、このミッキーマウス状態でいなければならないという。娘に、「それでは、男がその間、妙な恰好でいなければいけないけれど、そのような人、実際にいるのかね」と聞いた。すると、前の病院で、そのような治療を受けている人が現実にいて、初めて見たときは、その人には申し訳ないが、びっくりしたとのこと。しかも、更に驚いたことに、その生理食塩水を抜いて実際に縫い合わせる段になって、手早くやらないと、皮膚がすぐに縮んでしまいそうだったという。やはりねぇ、縫い合わせたあと、額などが突っ張らないのだろうか。

 というわけで、世の中には、全くもって想像もできない、妙な世界があるものである。




(2005年8月1日記)



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