百合の花の思い出

 6月末に、近くのホテルの玄関で咲いていた、山百合(Lilium auratum)らしきユリの花である。直径は、20センチ近くもあったであろうか。あまりに見事な花だったので、パチリと撮影させてもらった。その立派な姿形だけでなく、この山百合は、あたり一面に強烈な香りをも放っていて、強烈な存在感があった。私の好きなお花のひとつである。

百合の花の思い出


 しかし、家内にいわせれば、この花を贈るのはなかなか考えもので、特に入院中のお見舞いにするのは、やめた方がよいという。確かに、この香りは、入院患者にとっては強すぎる。そういえば、私もこの季節に職場を変わったときに、大きな花束をいただいたが、その中に山百合も数本入っていた。家に持って帰ったときに、その強すぎる香りに、辟易したことがある。

 ところで、百合には、小さい頃の思い出がある。百合の球根は、立派な食料だったのである。しかも、何か調子が悪いときに、精をつけるという意味で、私の母が決まって茶碗蒸しに百合の根を入れてくれた。ほろほろとして口の中に転がり落ちていき、なかなか良い味だった。このような味は、何年たっても、そう簡単には忘れないものである。お袋さん、ありがとう。

  やれやれ、歳をとって、やっと素直に言えるようになった。




(2005年7月30日記)


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靖国神社考

 今年は、太平洋戦争終結後、60年目に当たる。一世代が30年とすれば、すでに二世代が経過したことになる。それだけの年月が経ったにもかかわらず、靖国神社を巡る論争は、依然として大きな政治問題となっている。靖国神社への小泉首相の参拝に対して、中国や韓国が大きな反発をみせ、とりわけ中国各地で暴力的な反日デモが行われたのは、つい最近のことである。

靖国神社本殿



 その過程で、靖国神社が新聞雑誌で大きく取り上げられたが、これらの一連の記事の中に、新装なった遊就館(軍事博物館)がなかなか良いというものがあった。実は私は、そもそも靖国神社には、上京した30年以上前に2〜3度行ったきりで、その後はあまりご縁がなかった。せいぜい桜の季節に、神社周辺の桜を愛でる程度である。しかし、そのような近頃の靖国論争もあり、靖国神社は現在どうなっているのだろうかと大いに気になっていたので、その遊就館を見がてら、ぶらりと出かけてみることとした。7月23日土曜日のお昼すぎのことである。

 九段下から、両側に銀杏の並木がある参道を歩いて行くと、まず正面に長州の大村益次郎のブロンズ像がある。司馬遼太郎の小説で世間に知られるようになった人だが、日本陸軍の生みの親である。その像の顔を撮ってあとから拡大してじっくり見ようと思ったものの、像の背丈があまりに高すぎた。またこの時間では、お顔を写真に撮っても逆光になるので、とりあえず、顕彰の銅板だけを撮した。そうして、ふと周りを見渡すと、白人やら中国語を喋っている観光客が何組もいて、その数は日本人の参拝客よりも多いほどであった。国際問題になって、かえって外国人観光客の関心を呼んだのかもしれない。

 さらにゆっくりと進み、大きな菊の紋章を冠した門を越えると、目の前に大幕を垂らした本殿があり、そこでまず、参拝という段になる。それから、右手の方に進むと、その遊就館があった。ガラス張りの館内には、零戦らしき機体が鎮座している。この館の目的は、一つは殉国の英霊を慰霊顕彰すること、一つは近代史の真実を明らかにすることだという。展示物は、古代、中世の天皇の下での軍事から始まり、近世の戦い、明治維新、日清・日露戦争から大東亜戦争に至るまでである。順に見ていくと、中世の新田義貞の勤皇の姿勢や、近世の本居宣長の敷島の歌、そして明治維新と続く。それから日露戦争の203高地をめぐる攻防や、とりわけ太平洋戦争のミッドウェー以降の歴史となる。しかし、この当たりになると、もう悲惨すぎて見ていられないほどである。

零式艦上戦闘機


 ただその中で、18世紀以前の欧米列強によるアジア侵略の系図についての、わかりやすい大きな表示板があったが、これなどは後世の人たちが納得できる歴史教育としては、とても理解しやすいと思う。近代日本が歩んだ歴史も、日露戦争までは欧米列強に対する対抗措置としての、防衛的なものと考えてしかるべきであろう。この成功がなかったら、日本はそれこそ植民地化の瀬戸際に直面していたかもしれない。ちょうど今年は日露戦争から、100年目であり、この戦争の持つ意味が、改めて見直されつつある。しかし、それに続く大陸進出から大東亜戦争というのは、ナチスの台頭やアメリカの強行姿勢という時代背景がいかにあったにせよ、いくら何でも身の丈知らずの無謀な戦争だったというほかないだろう。とりわけ、国際連盟を脱退した頃から、誤った方向に走り出したものと思われる。国民の側から、これを止める力がなぜ働かなかったのかと、返す返すも残念でならない。

 しかしそれは、平和主義と国民主権が浸透している現在だからこその、後講釈としていえることかもしれない。当時の日本の一般庶民は、そのような声をあげるなど思いもよらずに、国のためと純粋に信じて出征して南方や北方で戦没したり、あるいは国内で爆撃で散ったりした。いずれも本当に尊い犠牲を余儀なくされたといえる。その慰霊の象徴が、この靖国神社である。ここは、そういう当時の国策によって作られたところであることから、その人の立場によって、肉親が安らかに眠る聖なる場所という認識から、誤った戦争を象徴する場所というものまで、常に論議の的となってきた。もちろん国民の大半が前者の感情を持っていると思うが、これに、いわゆる戦犯合祀を問題にする中国や韓国からの批判が投げかけられ、以上が合わさって今に至るまで終わりなき複雑な議論が続いている。

 いずれにせよ、国の政策を誤るということは、とてつもない犠牲を国民に強いる。誠に大きな罪であるといえる。国家として二度と同じことを繰り返さないように、この悲劇を後世に伝えていく必要があると、今回また、思いを新たにした次第である。

 しかしながらその反面、戦後の日本は、軍事的なるものとなればそのすべてを本能的に忌避する傾向がありすぎて、国際政治上、無用な遅れをとるという批判もないわけではなかった。「羮に懲りて膾を吹く」というところか。しかしながら、戦後からちょうど半世紀を過ぎた頃より、徐々にその傾向も陰をひそめ、潮目が変わりつつある。そればかりか、最近では、憲法第9条の改正論議すら、政治的に堂々と論じられるようになってきた。もっとも、今後いかに憲法改正がなされようとも、不戦条約の精神などの平和主義の考えは、必ずや受け継がれるべきものと期待している。

 ところで、私は戦後の団塊の世代、つまり終戦から数年を経て生まれた戦後派の世代に属しているので、その受けた教育は、もちろん戦前のものとは一線が画されている。したがって、八紘一宇などの愛国教育はもちろん、戦死者は靖国神社に祀られるという教育などを受けているわけではない。また、私の周りを見渡しても、親類縁者に戦没者でもいるのならば、靖国神社とのご縁もあったのであろうが、そうではない。私の父は学徒出陣をさせられたが、国内にとどまっているうちに終戦となった。二人の叔父は海外へ出征したが、ひとりはビルマ戦線から、もうひとりはガダルカナルから、生存率2〜3%という中をそれぞれ生還したという強運に恵まれていた。しかも、私の一家は地方出身なので、東京にある靖国神社の雰囲気を身近にする機会には、乏しかったのである。

 というわけで、日本遺族会の皆さまには申し訳ないものの、私としてはこれまで、靖国神社という存在を実感する機会には恵まれていなかった。ところが今回、本殿を参拝し、遊就館を見学させていただいた。その中でたとえば、未婚のまま戦没し、靖国神社に祀られた息子さんのために、花嫁人形を贈った母親がおられたという展示をみて、靖国神社とはこういう存在なのかと、心に感じいった次第である。これはおろそかにしてはならないという思いを新たにするとともに、国際政治の思惑などに翻弄されるようなことなく、もっと静かに祀られるようにと願うばかりである。

 小泉首相が戦没者の慰霊のために靖国神社に参拝するという姿勢を貫いているが、中国や韓国からは、合祀されている戦犯にまでお参りするのかと批判されている。これに対して、「日本では死んだ人は、たとえそれがどんな人であれ、皆同じように扱われるべきだ」と反論するのは、おそらく親鸞上人の「悪人正機説」のような考え方なのであろう。つまり、たとえば歎異抄の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というわけである。だとすれば、これはまずもって、個人の信教の問題である。それを他国から「参拝するな」などと言われる筋合いはないということになるだろう。

 ということを考えつつ、靖国神社の境内を出て、靖国通りを新宿方向に歩いて行った。市ヶ谷近くに、アート・ギャラリーがあり、たまたま「七人衆写真展」というものを開催していたので、立ち寄ってそれを見た。花火、山岳、イタリアの湖など、それぞれテーマはいろいろであった。靖国神社の軍事博物館を見た直後であるから、まあその平和なこと、平和なこと。どの写真も、60年前には、題材として取り上げられるはずもないようなものである。

 ところで、インターネット全盛の時代の今どき、写真展を開くよりインターネット上に写真を掲示した方が、鑑賞者の数は、はるかに多いと思われる。そういう中で、こういう伝統的な写真展を敢えて行うというのは、こちらの写真家の皆さんは、よほどインターネットに縁が乏しいのかもしれない。しかし、それでもいいではないか。こうして町をぶらぶら散歩して、たまたまギャラリーを見つけて自由に見学できるというのは、いかにも人間らしくて、住みやすい良い町なのではないだろうか。

 写真展を見終わり、階段を下って建物から出ようとしてところ、足下が少し揺れた。かまわずにそのまま階段を下って行き、靖国通りに出て、都営地下鉄に乗ろうとした。そうすると、駅の構内で、人だかりがしていて、中には、座り込んでいる人も何人か見えた。聞こえてきた構内アナウンスによると、「地震が発生したので、点検のために全線が一時ストップしています。JR線も同じです」などという。「はて、そんなに揺れたかな?」と思いながら、線路を歩いて点検しているだろうから、これは時間がかかりそうだと思った。そこで、こんなところで待つより、自宅に向かって歩こうとして、神保町を通り、坂を上がってお茶の水まで行った。地下鉄千代田線の駅に立ち寄ったが、もちろんまだ30分程度しか経っていないので、全線ストップのままである。ここから、自宅まで30分程度なので、タクシーを拾えればそれでよし、拾えなければ、そのまま歩いて帰ることにした。

 歩き出したのだが、私の履いている靴は、そもそもあまり長い間、歩くようにはできていない構造のようで、時々脱げそうになるし、歩き具合の悪いこと、この上ない。しかし何とかそれをこらえつつ、テクテクと歩き続けた。神田川の橋を渡り、湯島の聖堂を抜けたあたりで信号が赤になったので、立ち止まった。すると、都合よく、目の前にタクシーが停まったのである。ちようど良い、これに乗ろうと思った瞬間、どこからともなく中年の女の人と若い二人連れが、同時にそれぞれ左右から走ってきて、乗客が降りたとたん、どちらが乗るかで奪い合いになった。全くこれだから、東京は浅ましい。謙譲の美徳というものを知らないのかと言いたくなる。まさかその浅ましき争いに私が参加して、三組で争うわけにはいかないので、様子を見ていると、先にドアを押さえた女の人がさっさと乗り込んでしまい、勝ったようだ。中年女性は、いざとなると強い。

 それが収まったと思ったら、横から中国語が聞こえてきたので、その声の方を見ると、親子連れがいた。頭頂が薄くなった男の人が、二十歳くらいの娘と手をつないでおり、その横には年配の婦人がいた。確かこの三人、お茶の水駅にいたなと思いつつ、一緒にテクテクと、湯島に向けて歩き始めた。結局、この三人とは、湯島天神近くまで、ご一緒した。それにしても、二十歳の娘と手を握り合って歩くなど、うらやましいというか、何というか。

 その湯島天神の男坂を下り、不忍池近くまで来たのだが、市ヶ谷から歩き始めて1時間近くになった。汗もびっしょりとかいているし、特に靴がネックとなって、私の足は、もうこの当たりが限界である。たまたま行きつけの蕎麦屋が近くにあるので、そこに立ち寄り、空腹を満たすことにした。涼しい店内で、ほてった体が徐々に冷えていくのは、実に心地よい。それでまた、熱い鍋焼きうどんを食べるのであるから、体もびっくりしているかもしれない。

 小一時間をその蕎麦屋で過ごし、元気を取り戻した。そしてさらに10分程度歩いて、自宅マンションにやっとたどり着いた。ああ、やっと帰れたというのが実感である。エレベーターの前に立ち、ボタンを押そうとして瞬間、「地震のため停止中」との張り紙があるではないか。がっくりして、仕方がなく階段を延々と上り、やっとのことで自宅に倒れ込んだ。本当に疲れた日であった。これというのも、30年ぶりに靖国神社にお参りするという珍しいことをしたせいかもしれない。




(2005年7月27日記)



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皇居の衛星写真と地図

 グーグルと地図のゼンリンによる合作のサイトについては、数日前に見つけてそのあまりの便利さにびっくりしたが、引き続き愛用中である。その中で、千代田区千代田、つまり皇居とその周辺の衛星写真とその地図を出してみた。


皇居の衛星写真



皇居の地図



 ご覧のとおり、衛星写真の方は、皇居の緑と周辺の濠がはっきりと写っていて、真ん中下の新宮殿と上の方の武道館の緑青色の屋根が美しい。

 この中で一番、美しいと思うところは、桜の季節の千鳥ヶ淵濠と大手壕である。観光の定番は、もちろん二重橋であるが、そのほかにも、日比谷濠や桜田濠の緑は一年中きれいである。また、北の丸公園には旧江戸城の遺構があり、ここが松の廊下つまり浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた場所という表示があるのであるが、単に草原が広がっているだけで、あまりそういう雰囲気を味わえるところではない。

 話は変わるが、戸籍は、これを自由に変えられることはご存じの通りであるけれども、この千代田区千代田を自分の戸籍としている世帯は、500世帯を超えるという。何とまあ・・。




(2005年7月30日記)



                      
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井 真成 墓誌


 昨年、日本中を賑わした中国発の記事として、唐時代の日本人留学生・井真成の墓誌が西安の郊外で発見されたというのがあった。何はさておき、まずその墓誌を読んでみよう。辞書に頼った私の勝手訳であることを、お許し願いたい。

 尚衣奉御を贈られた井公の墓誌の文

公は、姓は井、字は真成、出身国は日本といい、その才は生まれながらに秀でていた。命を受け、遠く中国に派遣され、馬を駆って訪れた。中国の儀礼と風俗を身につけ、正式な服装をして朝廷に立つと、他に並ぶものはなかった。良く勉学に励んでいたが、まだその道を究めていないうちに、こうして突然の死を迎えるとは、誰も予想もしないことであった。開元22年(734年)の正月に、官舎で亡くなった。享年36歳であった。皇帝はこれを悼み、正式にその功績を称え、詔勅を下して尚衣奉御の官職を贈り、官葬をとり行い、その年の2月4日に、万年県のさん水のほとりに葬った。礼に基づくものであった。嗚呼、哀しいかな、暁に棺を乗せた車を引き、葬儀の列には赤いのぼりを立てた。公は、遠い国にいることを嘆きつつ、夕刻に倒れ、いまは人里離れた郊外の墓の中で悲しみに包まれている。その間際の言葉によれば「死ぬることは天の定めであるが、哀しいことに、ここは故郷から遠く離れている。私の体は既に異国の土に埋められても、私の魂は故郷に帰ることを願っている」
との由。


 今から1288年前、留学先の異国である唐の時代の中国に遣唐使の一員として19歳で留学したものの、36歳にして現地で亡くなった日本人「井 真成(せい・しんせい)」の墓碑銘である。この、井 真成の生きた頃の日本史の出来事を繰ってみると、まさに激動期であり、日本という国家の基礎を作りつつあった時代であることがわかる(参考)。当時の日本はちょうど奈良時代が始まったばかりで、最新の国家運営の知識を持つ優秀な人材を必要としていた。そのためには、遣唐使の派遣は必要不可欠な国家政策となっていた。しかるに、当時の航海技術では、遣唐使はまさに命がけの旅であった。往還の途中で嵐に巻き込まれて命を落とした者も数多くいたのである。そうかと思うと、鑑真和上のように、中国から日本への渡航を何度も試みた挙句に難破し、その過程で盲目となりながら、ようやく6回目にその念願を達成して来日した中国僧もいる。

  そうした状況にあって、この留学生・井 真成は、途中に待ち受ける数々の危難をものともせずに航海に出て、運良く中国にたどりついた。そして、勉学に励み、一生懸命に中国の風俗に慣れ、礼をわきまえて、現地の人にも暖かく迎えられたようだ。当時の中国の唐は、世界で最も繁栄した国であり、世界各国から俊英逸材が集まってきたところである。そういう競争の厳しい中で、現地の人々に評価されるまでに至るのは、なかなか難しいことである。そのままで生きていたとしたら、阿倍仲麻呂のように唐の高官となったかもしれないし、日本に帰国できたとしたら、やはり活躍していたであろう人材であったことは、間違いない。そういう時代のそのような環境の下で、それほど優秀な日本の若者が、しかも1300年近く前にいたのかと、日本人のひとりとして、誠に誇らしい気がするのは、私だけではないだろう。

 ところが残念なことに、井 真成は突然の病を得たようで、二度と故国の地を踏むことなく、異国の地で寂しく亡くなったのである。今から1271年前のことになる。この時代の唐へ留学した日本人の望郷の念はひとしおだったようで、同じ留学生の阿部仲麻呂も、「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に いでし月かも」という歌を後世に残している。井 真成も、まったく同様であったようで、その間際の言葉は涙なしには読むことができない。すなわち、「死ぬることは天の定めであるが、哀しいことに、ここは故郷から遠く離れている。私の体は既に異国の土に埋められても、私の魂は故郷に帰ることを願っている」と。

 今回の墓誌の発見で、日本中が井 真成の業績とその望郷の念に包まれた哀れな最後を知ることとなった。その死から1271年もの時間を経て、井 真成の魂は、やっと故郷に帰ってきたといえるだろう。






(参 考) 井 真成の生きた頃の日本史の出来事

 604年   聖徳太子が17条の憲法を制定
 608年   第1回の遣隋使派遣
 645年   大化の改新
 663年   白村江の戦。日本・百済が唐・新羅に敗退
 672年   壬申の乱
 698年  ○井 真成が日本で生まれる
 701年   大宝律令が施行
 710年   平城京へ遷都し、奈良時代が始まる
 717年  ○井 真成が遣唐使とともに、唐へ留学 
 717年   阿部仲麻呂がやはり唐へ留学
 720年   「日本書紀」が撰上
 724年   聖武天皇が即位
 730年   薬師寺東塔、興福寺五重塔が建立
 734年  ○井 真成が長安の官舎で死去。享年36歳
 734年   興福寺阿修羅像が完成
 737年   藤原4兄弟が流行病で死去
 740年   藤原広嗣の乱
 741年   国分寺建立の詔
 745年   東大寺の日光・月光菩薩像が完成
 751年   最古の漢詩集である懐風藻が成立
 752年   東大寺の盧舎那大仏が完成
 753年   唐から鑑真和上が来日
 757年   養老律令が施行
 759年   唐招提寺金堂、講堂できる
 763年   道鏡が孝謙上皇に重用される
 770年   万葉集が成立
 770年   阿部仲麻呂が長安にて死去。享年73歳
 781年   桓武天皇が即位
 794年   平安京へ遷都


(2005年7月18日記)




【後日談】

 この記事をブログに載せておいたところ、次のようなコメントをいただいた。一市民として、心が温まる気がしたものである。関係された方々に対しては、厚くお礼を申し上げたい。こういう話が聞けるのも、インターネットならではのことである。本当によかった。


 井真成墓誌は平成17年12月2日〜11日故郷とされる藤井寺市に”里帰り”し、故郷の人々約1万人が参観しました。同じく4日卒塔婆に移された彼の魂は氏寺とされる葛井寺にて盛大な追悼法要ののち、やっと安住の地をえました。ありがとうございました。



| 井真成市民研究会 | 2006/02/12 11:57 PM |


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徒然029.タイム・トリッパー

 私のホームページ「悠々人生」には、その冒頭に据えるオープニングページとして、動くページを作っている。動かない絵や文章を置いてあるオープニングページでは、あまり人目を惹きつけないからである。画像を少しでも動かすと、そのページの魅力はいやが上にも増す。パブリック・ドメインのソフトと画像とをいかに組み合わせるかが、私の腕の見せどころである。もう37個も作ってきたが、なかなか面白くて、やめられない。先週も、これを新たに作るための素料探しでウェブ・サイトを検索していたところ、とても素晴らしいサイトを見つけた。それは、Koji Yamamoto さんの Time Tripper というサイトであるが、そのお作りになる Java Applet の完成度が非常に高いのである。作品の見た目の美しさとスムーズな動きに思わず驚いてしまう。

 たとえば、Time Tripper 中に、jhanabi10.lzh という花火の Java Applet が出てくるが、花火の色や形が美しいだけでなく、打ち上げる途中や、花火が咲いた直後の煙までもが、とてもリアルなのである。そこで早速、私のオープニングページに組み込んでみた。これを使わせていただいたものと、使わないで在来技術で作ったものとを比較すると、Time Tripper 製 Java Applet の優秀さは明らかである。(その後、残念ながらセキュリティの関係で、Java Appletそのものが使えなくなった。

Flight Simulation


 しかし、それだけではない。Time Tripper の jheri.lzh というのは、Javaで作成したアプレット版のフルポリゴンの垂直離陸方の3Dフライトシミュレータであるが、これはすごいとしか、言いようがない。三次元で、いろいろな飛行機のフライトをシミュレーションできるソフトであるが、使える飛行機や景色を自作できるうえに、ラジコン感覚でその操縦も自由自在にできる。一昔前ならば、大コンピューターを必要としたようなものなのに、そころにあるパソコンと、ほんの小さな容量のソフトで実現できてしまうなんて、考えつきもしなかった。

 この作者の技量が優れているのか、あるいはパソコンの能力やJava技術が向上したのか、おそらくはその両方のおかげであろうが、いずれにせよ技術というのは、どんどん進歩している。このソフトはもちろん、Koji Yamamoto さんという篤志家が善意で作ってくれたわけだが、この調子で技術が進歩すると、そのうち、チョイチョイと構想を伝えて「作れ」と指示をすれば、指示通りに制作してくれるソフトができるかもしれない。その時がくるまで、私は、自分で Java Applet を作るなどという大風呂敷を広げるのはよして、もっぱらこの方のような篤志家を頼ることとしよう。

 ところでこの3Dフライトシミュレータは、試してみると、なかなか難しい。エンジン回転後、大空の舞い上がったかと思うと、すぐに不安定になって急角度で墜落する。これでは、本物のラジコン操縦など、夢のまた夢かもしれないと思いつつ、しばらくやっていると、少しはマシになった。大空を鳥のように優雅に舞うとまではいかないが、お正月の奴凧のように、右へ左へと揺れつつ、何とか落ちないで、空に浮いていることができるようになった。そのコツは、要するに、あまり大胆に動かしてはいけないということ。そろーり、そろーり、やさしくね、というのが、肝要のようだ。何でも、そうなのかもしれない。




(2005年7月18日記)



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わんわんフェスティバル

 近くの東京ドームで、ワクワクわんわんフェスティバル2005というのが開かれているので、家内と一緒にちょっと行ってみた。要するに、犬の飼い主、もちろんみな素人なのだが、それが自分の愛犬を連れてきて、お客に触らせたり、芸や走りを見せたりというものである。

わんわんフェスティバル


 「アスリート・ショー」といって、たくさん並ぶ棒を右に左にスラロームで通り抜けさせ、あるいは棒高跳びを披露したりしていたし、「エンターテインメント・ショー」と称して股くぐりとかフリースビー拾いをさせていたのである。それにしても犬の運動神経の良いのには驚かされた。

 アスリート・ショーのスラロームで、同じ種類の犬を3匹飼っている飼い主が、それらを同時に走らせた。まず先に、2匹が飛び出して上手に走り、それから最後の1匹・・・これがあまり運動神経のよろしくない犬だったが、しばし遅れて付いて行った。そうしたところ、その2匹が終点でちゃんとその遅れた犬を待っていてあげていたのには、感心した。人間の子供でも、最近はそれほど親切ではないのではなかろうか。いずれにせよ、平和な時代の平和な催し物である。




(2005年7月10日記)




                      
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不忍池の蓮の花

 上野の不忍池の南池と北の動物園内の池には、毎年7月になると、美しい蓮が咲き始める。泥水の中に緑の大きな葉がたくさん茂り、その間から、こういう薄いピンク色の花が顔を覗かせる。その季節になると必ず見に行くのであるが、そうやって行くたびに美しいものだと感心して帰って来る。これを毎年繰り返して飽きないのである。


不忍池の蓮の花



 この蓮は、花弁の付きがややこんもりとしているが、写真で見た大賀ハスは、もう少し花弁が開いていたように思う。ちなみに大賀ハスというのは、1946年に大賀博士が2000年以上前の弥生時代の青泥底層より発見した種からたった一粒だけ開花させるのに成功したものである。その経緯から、人々のロマンをかきたてるようで、今では発見地の千葉から全国各地に配られている。

 一度、見に行きたいと思うのだが、東京の近くでは、千葉や埼玉に見られるところがあるというものの、何しろ咲くのが午前6時とかで、朝寝坊の私にはとても行けない時間である。




(2005年7月9日記)



                    
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上野の不忍池

 私の家は、上野の不忍池まで歩いて10分くらいのところにある。この季節には、不忍池はご覧のような見渡す限りの蓮池となり、まるで様相が一変してしまう。この蓮池の向こうにある中ノ島の弁財天を入れて撮ったものが、この写真である。

上野の不忍池


 不忍池といえば、今では単なるボート池と蓮池であることぐらいしか思いつかないが、これでなかなかの歴史があるのである。江戸名所図絵には東都第一の蓮池として紹介され、寛永年間に上野寛永寺が建立されたとき、不忍池は琵琶湖に見立てられたが、その際に竹生島に相当する中島が築かれて弁財天が建てられたという。池の周囲には各種の茶屋が立ち並び、

 「しのばずの茶やで忍んだ事をする」
 「身と鞘がつれ立ちて行池のはた」


ということだったらしい。

 明治になると、池の周囲をぐるりと埋め立て、競馬場が作られたり、東京勧業博覧会の会場になったりした。日清・日露戦争に際しては、不忍池畔で戦捷記念式典が挙行され、敵国の模型軍艦を撃沈したりして、群集を熱狂させたという。

 それがまた、単なる蓮池に戻ったということである。




(2005年7月6日記)


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皇居日比谷濠

 皇居の日比谷濠から、馬場先濠の方向を眺めたところである。 右手には第一生命ビル、帝国劇場、東京會舘と建物が続き、この正面の黒っぽいビルは、AIGである。

皇居日比谷濠



 かつては、この右手下のところから、お濠の中をすいすい泳ぐたくさんの鯉たちを見かけたものだが、最近では外来のブルーギルにやられてしまったのか、今ではさっぱりその元気な姿を見せてくれなくなってしまったのは、誠に寂しい限りである。外資系に席巻されるのは金融、証券、不動産の分野だけではなかったらしい。




(2005年7月5日記)




                    
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軽井沢でのテニスの試合

 先週、軽井沢に行ったときに、軽井沢会テニスクラブのコートのところを通ったら、テニスの国際大会を開催していた。その試合を見ていたら、なかなか面白い。同行の家族には先に万平ホテルまで行ってもらい。ネット裏でしばしの間、両選手のラリーを観戦していた。男子選手どうしなので、その球の速いこと、速いこと。

軽井沢でのテニスの試合



 私はネット越しに見ていたのだけれど、一度、相手のサーブが真ん中に決まってサービスエースとなったことがある。こちら側の選手が見送ったと思ったら、その球が私の顔をめがけて飛んできたので、思わず目をつぶってしまった。もちろん、球は私の目の前にある金網のネットにぶつかって、「バーン」という大きな音を立てて地面に転がった。その金網がもしなかったら、私は今頃、病院に担ぎ込まれていたはずである。

 最近イギリスでウィンブルドンをやっていて、それをテレビで見ていたら、一流選手のサーブの速度は毎時200キロを越すということであった。この軽井沢の選手のサーブの速度も、それくらいはあったかもしれない。




(2005年7月3日記)



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