万平ホテル

 東京は、都議選の喧噪に包まれている。わずか1週間強の我慢といっても、日曜日の早朝から夕刻まで、のべつまくなしに街宣スピーカーで騒がれるのは辛い。表通りからの騒音なら奥の部屋までは聞こえて来ないのだが、近頃のように裏通りにも進出してスピーカーで騒がれると、耳だけでなく体も悪くなる気がする。そういうときには、首都圏を脱出するのが一番てっとり早い。

 長野新幹線に飛び乗ってわずか1時間ばかりの軽井沢に、何年かぶりに行ってみた。メイン・ストリートは、まるで東京の原宿かと見まごうばかりの、観光客向けの安っぽい土産物店ばかり。


万平ホテル


 ところが、そこから一歩裏手に入ると、林があり、山が見え、昔の雰囲気が味わえる。そこで、少しばかり足を延ばして、今年設立来111周年目を迎える万平ホテルに行ってみた。いやいや懐かしい限りで、昔とちっとも変わっていない。

 お昼に四川料理の中華を食べた。そのレストランにあったのが、このステンド・グラスである。浅間山から噴煙がたなびき、街道を駕籠、旅人、牛使いが往来をしている。中山道の要所であった頃の雰囲気が、とても良く出ている傑作である。




(2005年6月27日記)



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アルゼンチンとタンゴ



 しばらく前のことになるが、仕事でニューヨークから南へ飛び、アルゼンチンの首都、ブエノス・アイレスに立ち寄ったことがある。その頃は2001年末のデフォルト(国家債務の不履行)の少し前で、国の経済を何とか持たせているという感じがする時代であった。というのは、ドル・ペッグ制つまり1ドル=1ペソを堅持していたものの、われわれ旅行者の目からすると、1ペソは、とうてい1ドルの価値ほどもなく、おそらくその三分の一程度というのが実感であった。というのは、泊まったホテルはたいしたことがないのに、ニューヨークの一流ホテルくらいの料金をとられたからである。こういう無理をしていると、いつかは経済が崩れるのではないかという予感がしたものである。

 町に出てみると、ブエノス・アイレス市内は、建物はかなり古びてはいるものの、まあまあ荘厳な造りで、それなりの雰囲気が感じられた。街路樹にほどよく囲まれたカフェでお茶を飲む市民も、なかなか幸せそうであった。全体として評すれば、やや古びたパリ市内という印象がしたものである。

 しかし、数年後には、その様相は一変したはずである。国を挙げてのデフォルトに陥り、日本国内でもアルゼンチン国債を買った企業などは、それが紙切れ同然となった。もっとも、つい最近、1割くらいは戻ってくるのではないかという記事を目にしたが、いずれにせよこの国を信じて国債を購入した外国人は、ひどい目に遭ったことになる。ところが、おそらくそれ以上に苦しんだのは、アルゼンチン国民である。特に中産階級は、資産をドルに変えていなかったであろうから、銀行の引き出し額を250ドルに制限されたうえ、給料の凍結、高騰するインフレになすすべもなかったという。市民は、持っているものは何でも、それこそ鍋釜のたぐいまで切り売りしたと新聞には書いてあった。

 アルゼンチンで私が話を聞いた日本人の学者さんは、「ご存じでしたか? この国は、近代で初めて、先進国から発展途上国に没落した国なんですよ」と宣った。なるほど、そういうことかと、目から鱗が落ちる気がしたものである。この国は、そもそも土地が肥沃で、小麦の生産に適していた。加えて、人間の数よりも牛の数が多いという牧畜国家である。それが冷凍船の発明で、販路をヨーロッパに大きく広げ、移民も受け入れ、19世紀の末から20世紀の初頭には相当の外貨を稼ぎ、世界の一流国家となった。今年、100周年を迎えた日露戦争で、日本が使った戦艦「春日」と「日進」も、その当時、アルゼンチンがイタリアに発注して建造中の軍艦を譲ってもらったものであることは、よく知られている。そういう国運が上を向いているときこそ、人材の育成を図るべきであったのだろう。

 二度にわたる世界大戦で無傷だったアルゼンチンは、第二次大戦のあと、ペロン大統領が就任した。ペロンは、それまで農畜産業中心の経済であったアルゼンチンの工業化を図るため、急進的な工業化政策と労働者優遇政策をとろうとしたが、国家財政の窮迫とインフレの昂進を生んで失敗し、バチカンとの確執もあって、退陣のやむなきに至った。それからは、数次にわたる軍事政権の下で政治経済ともに混迷を深めていったのである。1983年になって民政移管が行われたものの、一度傾いた国運は、そう簡単には戻らないものとみえて、今日まで混乱と混迷の歴史を繰り返してきた。やらずもがなのフォークランド紛争では、イギリスに大敗したし、サッカーの世界的英雄マラドーナも、今では薬物の乱用でつかまったことがある、中年の太ったおじさんにすぎない。最近では、2001年末の前述の経済危機で、1321億ドルの債務不履行を宣言した。

 このように書きつづっていくと、アルゼンチンというのは何とくだらない国なのだろうかと思われるかもしれないが、実はさにあらずというのが、本日の主題である。アルゼンチン・タンゴの踊りを目にし、そのダンス・ミュージックを聴けば、何とすばらしい芸術だろうかと思うこと請け合いだからである。アルゼンチンは、このタンゴを生み出して人類に貢献すためにこそ、出来た国家ではないかと、密かに思うほどなのである。こういうところが、神様の味なところであろう。だから、そのほかでは、多少の失敗をやらかしても、まあ許される国なのではないだろうか(アルゼンチン国債で損をした人、ごめんなさい)。

 やや前置きが長くなったが、私が初めてアルゼンチン・タンゴの踊りを見たのは、まさにそれが生まれた港町ボカのカミニート通り近くの酒場である。ここは、そのあたりでは有名な店らしくて、席をとるのに苦労した。二階から舞台を見下ろす形ではあったが、何しろ小さな酒場のこと、すぐ真下で繰り広げられる踊りの興奮と観客の感動が、地響きのように伝わってきた。その踊りは、初めて見たものには、一見とても奇妙である。というのは、上半身は優雅なクラシック風で、しずしずと動くのに、下半身はというと、特に膝から下がまるで別の動物の4本足のように所構わず動き回っている。いや、のたうち回っているといった方が適切だろう。その上下のアンバランスが、まさにこの踊りの出生を暗示しているようで、興味深い。

 私は、タンゴが生まれた港町ボカ(首都ブエノスアイレスにある)へ行ってみたが、場末のうら寂しい雰囲気の港町である。それは、昔も同様だったようで、港湾労働者が一日の辛い労働の憂さ晴らしとして騒いだ酒場で、この踊りが始められたという。したがって、あまりに卑猥だという理由で、禁止されたこともあったらしい。それが今日では、芸術的な踊りへと高められたという歴史を持つ。他方、タンゴの音楽は、そのラプラタ河の向こう岸にあるウルグアイの首都モンテビデオのアカデミアで生まれたとされる。これも、いわば赤線地区の音楽として蔑視されていたが、そのうちに有名になった曲や芸術的な歌詞がつくようになって、次第に公認されるようになったという。

 ともあれ、異国で世界的に有名な音楽と踊りを見たのであるから、感激しない方がおかしい。というわけで私は、機会があればまた見たいし、家内にも見せてあげられればと思っていたところ、ホセ・コランジェロ楽団「ダンシング・タンゴアルゼンチーノ」という宣伝を目にした。チケットの値段や公演場所からすると、さほど高級でもないが、いかにもタンゴにふさわしいではないかと思って、二人で行くことにした。

 当日は、写真などの撮影は禁止になっていたので、映像の記録はできなかったのはとても残念だったが、ラ・クンパルシータ、エル・チョクロ、我が愛のミロンガ、アディオス・ノニーノなどの名曲と踊りを堪能した。率いるのは、65歳の元気なホセ・コランジェロおじさんである。9回目の来日公演とのこと。この人が指揮者・司会・ピアノを兼ねて雰囲気を盛り上げ、ピアノ、バイオリン、チェロ、バンドネオン、コントラバスの5重奏であった。圧巻だったのは、もちろん8人・4組のタンゴ・ダンサーたち。例の下半身の激しい踊りをしながら、舞台狭しとくるくる回って踊り、最後は女性が斜めになってパッと決めるというパターンである。それも、頭が斜め下になることが多い。踊り終わるたびに、思わず大きな拍手をしてしまった。




(2005年6月23日記)



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豊島園の紫陽花

 池袋の豊島園で、あじさい祭りを開催中というので、出かけてみた。大江戸線で行けば、乗り換えなしで行ける。


豊島園の紫陽花


 園内に入ってみると、あるある。青、紫、藍、桃と色とりどりの花が、140種・8500株。その形も、たくさんの花がこんもりと玉のよ うに付いている大輪のアジサイから、周囲に花が付いている、ガクアジサイまで。説明によると、生えている「土」が酸性のときは青色に、アルカリ性のときは桃色になるという。




(2005年6月20日記)




                    
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東京タワーの鯉

 芝の東京タワーの近くで食事をし、時間があったので水族館に立ち寄ってみた。こんなところに水族館があるの???と、びっくりされるかもしれないが、一応、かなり前からあるのである。何となれば、私たちが可愛がっていた鯉太マンの90センチ水槽というのは、ここで買ったのである。それは、昭和の時代であった。


東京タワーの鯉


 ところで、この写真は、新しく買った松下電器のデジカメ、FX−8で撮ったものである。さすがに、500万画素だけあって、鯉の回りにひろがる水の波紋や泡まで、はっきりと写っていたものだから、撮った私自身も感激してしまった。スポーツ・モードというのを試してみたものである。これからは、このデジカメをもっと活用して、記念に残る写真をたくさん撮ることとしよう。




(2005年6月20日記)



                    
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水元公園の花菖蒲

 菖蒲祭りを葛飾区の水元公園で開催中と聞き、ちょうど見頃だろうと思って、家内と一緒に出かけてみた。

水元公園の花菖蒲


 この公園は都内で唯一の水郷気分を味わえるところで、湖の向こう岸は、もう埼玉県である。園内では、アヤメ、カキツバタ、花菖蒲が咲き誇っていて、紫、青紫、黄、白、絞り、赤紫などに一面が覆われていた。パンフレットによると、春は桜、初夏には花菖蒲、真夏にはオニバス、秋にはポプラとメタセコイヤが黄葉するとのことである。その季節になったら、また、訪れてみよう。




(2005年6月15日記)




                      
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東京オイスターバー


 梅雨に入りかけの6月初めの土曜日、空を見上げると曇っているし、天気予報は夕方から大雨と出ている。最近は天気予報の的中率は高く、現に昨日の大雨も当った。というわけで、家内と一緒の今日のお出かけは、建物の中にしようといって、最近オープンした品川プリンス・ホテルの水族館に行くことにした。家内が5月の連休に言ってみたところ、3時間待ちといわれて帰ってきたいわく付きの場所である。したがって家内にとっては、今回は再挑戦ということになる。

 神田に出て山手線に乗り換え、品川駅に着いて高輪方面の坂を上り、エプソン水族館とやらに到着したとたん、30分待ちといわれた。やはり今回も駄目だったかというわけで、トボトボと品川駅に戻っていく途中、この駅にオイスター・バーがあることを思い出した。2年ほど前にこれが出来たときには大層な混みようで、とても行く気がしなかった。しかしいくら何でも、もう空いている頃だろうと思って品川駅の案内所の女の子に聞くと、駅ビル「アトレ」の4階にあるとのこと。そこで、駅の構内を品川口の方へと歩き、東海道新幹線の乗り口を通り過ぎたところにあるエスカレーターを登っていくと、もうそのフロアにあった。

 正式には、グランド・セントラル・オイスター・バー&レストランというそうで、本店は、ニューヨークのマンハッタンの玄関口であるグランド・セントラル・ステーションの駅構内にて1913年に創業した店とのこと。店内は、ご覧のように禁酒法時代のようなドーム型天井で、キラキラした真鍮の棒がきらめくバーの設備は、いかにもアメリカ的である。同じようにアメリカのステーキ屋を直輸入した赤坂のローリーズは、とてつもない分量で、日本人にはとても食べきれないほどの量がドドーンと出てくる。こちらもそうなったら困ると思って、注意深く注文することにした。どうやら、コースのセットに、追加注文として、生牡蠣をオーダーすればよいことがわかった。生牡蠣のメニューには、1pieceとある。いつぞや、アメリカのレストランで注文したら1ダースを持ってきたことを思い出した。しかし、ここは日本である。そこで試しに「これ、ひょっとして文字通り一個のことか」と聞くと、そうだというので、思わず笑ってしまった。

 しかも、生牡蠣のメニューには、本当にいろいろな種類が挙げられていて、それぞれに値段が違う。オリンピア(ワシントン アメリカ)、ステラベイ(ブリテッシュ・コロンビア カナダ)、大黒神島(広島)、厚岸(北海道)・・・といった調子である。こんなこだわりは、いかにも日本的である。面倒だから、オイスター・プラッターというセット・メニューを注文した。生牡蠣が4つ入ったその注文の品を持ってきたときに、ボーイさんがこれは何、あれは何と説明してくれたが、みーんな忘れてしまった。だいたい、口に入ったらどれもジューシィにしてとろけるようで旨い。ひとつひとつ味わおうとしても、一緒に付けたホースラディッシュか、トマトソースか、あるいはビネガーの強烈な味が舌に残り、そういう意味では産地ごとの味を吟味するどころではなかったのである。いずれにせよ、どの生牡蠣も色は乳白色で、美しかった。

 私はアメリカで、2回だけ、生牡蠣を食べたことがある。1回目は、港町ニューオーリンズの中心街で、真夜中にジャズを聴きながらバーで食べたのが最初の経験である。今から20年以上も前のことで、その頃は私も興に乗ると酒を飲んでいた。ディキシー・ランド・ジャズの本場である。ともかくその雰囲気たるや最高で、あのミュージシャンたちは、いずれも名だたるその道の達人のはずである。思い返せば、名前を確認してこなかったことが、返す返すも残念である。その名人たちのジャズ演奏と、ぐびりと飲むウィスキーの合間に平らげたのが、生牡蠣である。指を一本立てると、ハーフダズンつまり6個を持ってくる。





 持ってきたものをよくみると、よく洗っていないせいか、茶色のぬるぬるしたものが着いている。酔眼にもはっきり見えて、思わず「これ、食べて大丈夫か」と聞いた。すると、ウェイトレスは、「大丈夫よ。ほら、こんな風にキレイにするのよ」とか言って、添えられたカップの中にあるトマトケチャップの中で、振るって洗えという。ホントに当たらないかと心配になったが、そこはジャズとウィスキーで頭の中が気持ちよくなっていて、むしゃむしゃと食べてしまった。いやいや、美味しいものだと思い、もう1ダースといって、それも平らげてた。これ、当たったかなぁと思いつつ、そのまま、ホテルに帰り、すぐに寝込んでしまった。朝になり、酔いが醒めてふと我に返って恐ろしいことをしたと思ったが、幸いなことに、体は何ともなかった。トマトケチャップのまじないが効いたようである。

 もう一度は、それから数年後、今度はワシントンへ出張したときのこと、連日にわたり緊張するやりとりをしていて、やっと週末になった。せっかくだから珍しいものを食べに行こうといって、アレキサンドリアという港町までわざわざ車を走らせた。そこで、とある有名なレストランでは、ブルー・シェル・クラブつまり、脱皮直後の蟹を甲羅のまま食べさていた。脱皮したばりであるから、甲羅はやわらかくて、実においしい。ソフト・シェルとも言う。これがメインで、そのときにも生牡蠣を注文した。口にツルッと入っていき、こちらも美味しかったことをよく覚えている。

 この東京オイスターバーの生牡蠣は、さきほど挙げたように、国内産のものと、アメリカ(シアトル、ボストン沿岸)、カナダ、オーストラリアから輸入されたものらしい。日本では、牡蠣はの付く月に食べるものといわれてきたが、話によるとそれは、たまたまの付く月は、牡蠣のうまみ成分のグリコーゲンが産卵期の後に減少するので、味が淡白になる時期に当たるからだという。しかし少なくともこの東京オイスターバーでは、南半球からの輸入もしているので、その法則は当てはまらないようだ。こんな美味なるものを一年中味わえるなんて、日本はやはり、経済大国なのだろうか。私も、若い頃はアメリカ出張を繰り返したが、今から振り返ればあんな緊張する日々はなかった。

 ソフト・シェルと生牡蠣を食べたときなど、第1日目は午前9時から午後6時まで、昼食のサンドイッチ・タイムの20分をはさんで、アメリカ側と丁々発止とやりあった。相手は実にうまく言うもので、「自分たちの原則は三つ、これとこれとこれ。その観点からすると、こうすべきである」などと攻めてくる。しかしそれにうかうかと乗ると、日本側として実に困ることになる。いや、当面は困らなくとも、事態が進んでいくと必ず壁に当たる。そこで、それは駄目だというと、なぜだと来る。理由はこれこれと説明しても、むろん納得しない。そして最後にぶつけてくる言い草は「日本の言うことは、われわれの原則に反する」となる。しかし、一見それも耳に心地よく聞こえるが、結局は国益丸出しではないかというわけで、ブレイクの間に、こう言おうと打ち合わせて、それを相手にぶつける。すると、そんな反撃を予想もしなかったと見えて、怒り出す。「 I am frustrated! Frustrated! 」と繰り返し言うので、おかしくなったりした。

 そんな調子で、2日目は午前8時から午後7時まで、同じようにやりあった。そして3日目に突入し、午前7時からお昼頃まで膠着状態が続いた。そして事態が動きだしたのがお昼のブレイクのあとである。このままではこの交渉は物別れというときに、アメリカ側が、「それではこう提案する」ということで、まあまあ呑めそうな案を出してきた。ちょっと時間をくれといって、別室で日本側関係者で鳩首協議をした。盗聴ということもありうるので、筆談である。いろいろ考えた結果、2点だけ、クラリファイが必要だと思い、それを聞くことを提案し、そうなった。再開した交渉で、その点を質したところ、相手があっという顔をしたので、しめたと思ったものである。やはり、急所だったらしい。そこで、その点を詰めてやっと妥結したので時計を見たら、午後8時を回っていた。緊張していたので、それまでは気がつかなかったが、妥結した瞬間、喉がからからになっていた。

 これが私が経験した中で、一番タフな交渉だった。それから全員で、ワシントン市内のレストランに食べに行った。疲れている目の前に、30センチもある巨大ロブスターが出てきて、辟易したものである。その席で、アメリカ人のひとりから、私はこう言われた。「日本側交渉団で、キミだけは我々と同じく、交渉が終わるまでトイレに行かなかったね」。確かに、日本側のある人など、1時間おきくらいに、トイレのために席を外していた。そのほかの人たちも、大なり小なり、同じようにトイレに近かった。その点、確かに私だけが、朝から晩まで、トイレに行かなかった。どうやら、アメリカ人は、こういう場合にはトイレに行かないように訓練されているらしい。その点、私を同類とみてくれたらしいのである。しかし、こんな妙なことで誉められたのは初めてのことで、無論その後も、このようなことは絶えてない。おっと、東京オイスターバーの生牡蠣から、つまらぬことを思い出してしまった。




(2005年6月7日記)



カテゴリ:エッセイ | 23:00 | - | - | - |
笑 点

 これは、日本テレビの「笑点」という番組の出演者の人形のかたちをしたキャップである。清涼飲料水のおまけとして付いていたので、それを集めてワンセットにした人がいた。司会の三遊亭圓楽さんをはじめとして、座布団係の山田くんまで全員がそろっている。


笑 点



 この番組は1966年5月15日から始まったようであるがその頃は私は大学生だったので、テレビ番組など見なかったから知らない。しかし、ウチの子供が中学生だった十数年前には子供と一緒によく見たものである。出演者はみな落語家なのでそれぞれ味があって面白かった。

 その後はご無沙汰していたが、この人形が出たので久しぶりにこの番組を見たところ、同じ顔ぶれだった。しかし、やはり皆さん寄る年波には勝てずにそれぞれ歳をとり、いささか痛々しかった。





(2005年6月6日記)



    
カテゴリ:表紙の写真 | 22:43 | - | - | - |
味の共存

 私の家の近くにいくつか蕎麦屋があるが、なかでも私たち夫婦が気に入っているのが、錦鯉のいる蕎麦屋である。もちろん、蕎麦を食べながら錦鯉を眺めるのは楽しいが、実はそれだけではない。ある日、ここでたまたま、カレー南蛮なるものを食べてみてからというもの、その絶妙な味に感激して、それ以来、こればかりを注文して今に至っている。我ながら、何年経っても、なかなか飽きないのである。

 というのは、ふつうの蕎麦屋のカレー南蛮の場合は、どちらかというとカレーの味が勝ってしまって、蕎麦を食べているというよりカレーを食べているという感がするのが一般的である。ところがこの蕎麦屋、確かにカレーの味はするものの、その一方で確かに蕎麦のダシの味もするから不思議である。つまり、口に含むとカレーの濃厚な味が口腔いっぱいに広がるのであるが、しばらくしてそれが消える頃に今度は昆布のダシの味がじわじわとする。いつもその繰り返しで、気が付いてみるともうほとんど平らげているというわけなのだ。何だか、うまい具合にだまされた感すらするものだから、面白い。要するに、カレーと蕎麦つゆという二つの個性的な味が、お互いを消し合わずに共存している。これこそ、料理人の腕というものである。

 最近、別の食べ物で同じような経験をした。オフィスの近くにあるので普段よく行く山形県のアンテナ・ショップ「山形ゆとり都」というところで、アーモンドチョコ(ブロック)なるものが売られている。最初にこれを見つけて買ってきたのは家内である。私は当初、そんなお菓子などと思って全く気にもしていなかったのだが、あるときお腹がすいてたまたまこれを口に入れた。すると、確かにチョコレートを食べているのだけれど、その中に砕かれたピーナッツが入っていて、確かにピーナッツを食べているような感触も味もするのである。これも、二つの味がうまいこと共存している例である。

Flight Simulation


 ちなみに、このチョコ・ブロック、我々夫婦だけでなく、もういい歳になった息子も大好物で、居間に置いておくと、その数がいつの間にか減っている。数が少なくなっていたときなど、申し訳なさそうに、たった一個だけ残してあるのが、かわいい・・・。ということで、一家揃ってこれを口にするようになったが、幸いなことに、これが自宅近くのスーパーの二階に売られていた。そこで、家内がその補給に努めていたものの、ごく最近、競争相手がいるとみえて、このチョコ・ブロックが置かれたと思ったら、次の日にはもう売り切れるということを繰り返していた。ということで、近くのスーパーになかったら、私がそのアンテナ・ショップに買いに行っていたのである。

 しかし先週行ってみると、どうしたことかそのアンテナ・ショップには、同じ会社の違うお菓子が置かれていて、私の目指すチョコ・ブロックが消えてしまっていた。その陳列をやめたらしい。これは困ったと思い、試しにインターネットでその会社「でん六」というのを検索してみると、そのサイトがすぐに出てきた。どうやら、豆から始まって、おつまみ全般に手を広げているような会社らしい。うれしいことに、通信販売をやっていて、そこにそのチョコ・ブロックがあった。チョコレート部門の最初に掲げられていたので、人気があるのだろう。通信販売の最小単位は、1ダースである。これを12個、2650円分も買ってどうするのかとも思うが、致し方ない。余ったら、娘に送ったり近くの人に差し上げてもいい、そういえば、私の秘書の女の子も大好物だった・・・ということで、注文することにした。明日の夜もまた、一家3人そろって、これをポリポリやっていることだろう。平和というか、何というか・・・。




(2005年6月5日記)



カテゴリ:エッセイ | 19:45 | - | - | - |
詩吟の思い出



 先月の終わり、亀戸天神に藤の花を見に行ったところ、境内の一角から、こんな声が聞こえてきた。

 「人の一生わぁーぁぁ 重荷ををー負うてえーーーぇ 遠き道をーー行くがぁーーごとぉーし」

 「おお、これは詩吟だ」と思い、その声の方に行ってみると、社殿の脇に神楽殿がある。そこで紋付袴のおじさんが、詩吟をうなっている。その上には、「学業講祭 藤まつり」という看板がかけてある。そういえば、こちらの祭神は菅原道眞だったと思い出したが、それよりもその詩吟に感激して、その前の見物席に腰を据えた。

   家康公遺訓

  人の一生は 重荷を負うて 遠き道を行くが如し
  急ぐべからず
  不自由を常と思えば 不足なし
  心に望みおこらば 困窮したる時を 思い出すべし
  堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思え

  勝つことばかり 知って 負くることを知らざれば
  害 その身に いたる
  己を責めて 人を 責むるな
  及ばざるは 過ぎたるより 勝れり と



 なかなか、よろしい。時間が経つのを忘れて、しばし聞き惚れてしまった。紋付袴のおじさんだけでなく、和服のおばさんも謡っていた。こちらの甲高い声も、不思議と内容にマッチしている。心の中で、何か滓のようなものが、一枚一枚はがれていくような気がした。こうしたものを学校などで聞かせるべきだと思う。子供たちの何割かは、この良さがわかるはずである。また、そうでなければいけない。こういう歴史に根付いた伝統文化が忘れられているからこそ、最近、社会性や常識の欠けた妙な人たちが増えているのではなかろうか。

 これを聞きながら、31年前の、ある夜のことを思い出した。その日は、新入社員の歓迎会の日であった。われわれ前年に入った者たちは、ようやく課内のヒエラルキーの最下位に位置する「新人」という立場を脱し、「一年後輩」という人たちを迎えたのである。その夜、新人と旧新人が一堂に会して、宴たけなわとなった。そこで誰かとなく、その頃はやったカラオケを歌い始めた。新人たちが順次、歌いはじめて、N君の番となった。

 そうすると、そのN君、「私はカラオケはやりませんが、代わりにこれを一曲」といって、いきなり、何やら、うなり始めた。一同、一瞬キョトンとしたが、すぐに詩吟とわかった。それがまた、男っぽくて良く通る声で、朗々と歌いあげるので、しばし聞き惚れたのである。非常によかった。こういう「渋い」文化が自然に身に付くN君の家というのも、ただものではないと思ったら、彼のお父さんは、国会議員をやっているとのこと。それはともかく、この一件で、N君は大人だということになり、それ以来、われわれの尊敬を集めている。今は退職して自動車業界に転じ、その重鎮として活躍しているようだ。ひょっとすると、業界の宴会でまた、詩吟をやって、車屋さんたちの度肝を抜いているのだろうか。




(2005年6月1日記)



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