台風の季節

 地震、雷、火事、親父というのが、私の小さい頃の「こわい」ものの典型であったが、もう親父というものの権威がなくなって久しいので、とっくの昔に「台風」が入っていてもよさそうなものである。それにしても、今年の日本は、台風にしばしば襲われた。台風の上陸は10月20日の台風23号で10個目である。それまでの年の最高記録が6個ということだから、いかに今年は台風が多かったかを物語っている。

 現在来襲中の台風23号は、高知付近に上陸した後、ただいま大阪付近を北上中で、中心付近の気圧は955ヘクトパスカル、最大瞬間風速は59メートルと、大型で非常に強いものだとのこと。テレビのスイッチをひねると、天気図上では、赤い丸とその周りの黄色い丸がすっぽりと日本列島の上に覆いかぶさっている。これはものすごく大きな台風だ。テレビを見ていて現在までのところ判明した被害者は、土砂崩れで2人、漁船の引き上げ作業を行っていた漁業者が波にさらわれて1人、屋根の修理を行っていた老人が風にあおられて1人、田圃の見回りをしていた農業者が溝に落ちて1人、水かさを増した川に転落して溺死した1人などである。

 いや、これは大変なことだと思うが、私が小さかった頃は、こんなものではなかった。台風といえば、地震並みに怖かったことを覚えている。私自身は台風の被害に直接遭ったことはないが、それでも小学校時代に名古屋を襲った伊勢湾台風のことは忘れられない。昭和34年9月26日、名古屋市南部を水浸しにし、5,098人の死者行方不明者を生んだ。あの平成7年の阪神淡路大震災の被害者が6,432人であるから、これがいかに大きい数字であるかがわかる。

 私はその数年後に名古屋に引越したのであるが、まだあちこちに台風の爪痕が残っていた。港の方に行くと、洪水が去った後にどういうわけか被害者の靴ばかりが集積していたというところがあり、そこに靴塚という記念碑を設けて慰霊をしていた。また、私は、家を出てから坂を下って中学校に通っていたのであるが、その坂を下りきったところに電柱があり、そこに赤い線が引いてあって「伊勢湾台風浸水位置」と書いてあった。びっくりしたのは、それが私の頭よりも高かったことである。これでは、ひとたまりもないな、と思ったものである。しかも私の家は、覚王山という名古屋市でも港から相当離れている中心部のところだった。そのようなところにまで、それだけの浸水があったというわけである。

 私が小さかった頃のこと、台風が来るというと、私も含めて子供たちは呑気なもので、学校が早めに終わったり、あるいは休校になるのがうれしくて仕方がなかった。しかし、大人たちは真剣で、父がいつもより早く家に帰ってきて、自宅の補強をしたものである。父は、どこからか出してきた板切れを使って、雨戸や玄関の扉にそれを筋交いに打ちつけていた。そのトントントンというリズミカルな音が懐かしい。それから母が、ご飯を余計に炊いておにぎりを作り、ラジオとライトに乾電池を補給し、念のため蝋燭とマッチを用意し、それで皆で寄り集まって床についたものである。もうそうなると、子供にとっては、まるで泊りがけの遠足気分である。どういうわけか台風は夜中にやってくることが多かった。真っ暗な中でゴーゴーという強風の音を聞き、メリメリメリッ・ガチャンという音に身をすくめていた。時には、家のあちこちから雨漏りがして、家族みんなが洗面器やタオルをもって右往左往といったこともあった。しかし、どんな騒動のあとでも、疲れてしまえば子供のことで、すぐに寝入ってしまう。そうしてやっと朝を迎えて外に出てみると、風で引きちぎられた枝や葉っぱとともに、飛ばされた看板などが散らばっている。そんな非日常的な風景をあちこち見に行くのが、また楽しいという調子であった。

 それにしても、現代で台風を迎えるのは、たいへん楽になった。台風が来ても、父が昔やっていたような板切れを打ち付けるようなことは全くする必要がない。私のマンションでは「ちょっと風の音がするなぁ」という程度で、いつもと変わらない。影響といえば、台風のせいで列車や飛行機が欠航になったり、野菜や魚が若干値上がりするくらいのことである。これは、家屋の性能が上がったからであろう。確かに、木と土で出来ていた昔の家と、コンクリートにアルミサッシュから出来ている現代の都会のマンションとでは、防風性能上は大違いである。

 それに、この伊勢湾台風を契機として、各地で台風に備えた高潮対策の防潮堤がさかんに作られたという。最近でこそ作りすぎだといわれる公共事業が、大いに役に立っている事例である。もはや、一個の台風で5,000人もの犠牲者が出るといったことは、今後はまず考えられない。それやこれやで、台風といっても、今や大したことがなくなってきたのだろう。人間がある程度コントロールすることに成功した自然災害の、稀有な例なのかもしれない。




【後日談】

 その後、この平成16年台風23号による死者行方不明者の数は、88人と報じられた。最近の台風としては、思いがけず相当な被害者の数である。ご冥福を祈って合掌。

 なお、中にはこれは美談ではないかというものがあった。舞鶴市で、乗客36人を乗せた観光バスが氾濫した川の濁流に呑み込まれて立ち往生した。乗客のほとんどは退職した方々で、年齢は60歳台から70歳台。午後8時頃に水がバスの中に入ってきて、あっという間に水没してしまった。乗客がハンマーで窓を割ってバスの屋根に登り、次々とあとに続いて、37人全員が屋根に上がった。そうするうちに、水が屋根の上にまで来て、腰の高さまで達した。しかし、その暗闇の中で、カーテンを切って作った命綱を頼りに全員で歌を歌ったり励ましあったりして、翌朝までがんばり、ついにひとりの犠牲者も出さずに全員が無事救出されたとのこと。還暦を越えた皆様の知恵と勇気に乾杯!





(2004年10月20日記)





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中国国宝展


 秋は、大多数の人にとっては食欲の秋であるが、ここ上野は、芸術の秋となっていて、同時期に、中国国宝展(東京国立博物館)、兵馬俑(上野の森美術館)、興福寺展(東京芸術大学美術館)が開かれている。そこでまず中国国宝展に行った。金縷玉衣(前漢時代・前2世紀・江蘇省徐州博物館)と、唐時代・8世紀の天王俑(陜西省西安市文物保護考古蔵)が、目新しかった。近年の発掘らしい。

   金縷玉衣



 目新しかったのものとして、まず金縷玉衣(前漢時代・前2世紀・江蘇省徐州博物館)がある。漢王朝の皇族の遺体を覆っていたもので、4000もの玉を金の針金で結び合わせて人型にしてあり、それも普通の緑色ではなく乳白色をしていた珍しいものである。ちなみにこの写真は、その場で買い求めた絵葉書から作成した。

   天王俑(唐)



 次に唐時代・8世紀の天王俑(陜西省西安市文物保護考古蔵)は、墓の守護神として作られた唐三彩で、得意げに悪鬼を踏みつけている豪傑の姿が何ともはや、とてもユーモラスであった。

 (ちなみにこの写真は、その場で買い求めた絵葉書から作成した。





(2004年10月16日記)




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