意外なダイエット


 先週の日曜日のテニスのとき、私は、パッコーンという快音とともにスマッシュを決めて、その試合に勝った。そして上機嫌でネット横のベンチにどっかと腰を下ろした時のことである。

 私は、両手を横に伸ばし、両足も大きく広げ、浅く腰掛けてお腹を突き出した、少々お行儀の悪いポーズをとっていた。するとそのとき、ある商社の部長がつつっーと近づいてきて、「おおっ、ヤマさん、最近、痩せたんじゃないですか? 前はこのお腹、妊娠4ヶ月くらいだったけれど、いまは引っ込んで2ヶ月半くらいになりましたね」などと冷やかす。それにしても「妊娠4ヶ月」というのも、失礼してしまうが、約半年で、5キロやせたのは事実である。

 その部長にやり返そうと思っても、その本人は、痩せ型だから、どうしようもない。そこで、「なぜか分かる? ビールとBSEと蕎麦ですよ」と答えた。その人、ビールは理解したが、他については、きょとんとしている。そこで、私は話しはじめた。

 私の適正体重は、BMIでいくと、背が高いこともあって、70キロくらいである。長年、73キロ程度を続けていたが、一昨年春にフィットネス・クラブに入った頃から、悲しいことに、なぜか急に増え始めた。そして昨年末には、79.5キロと、とうとう80キロの大台に乗りそうな気配になってしまった。もちろんその途中で、これはいけないと気づいて、フィットネス・クラブでのメニューを体脂肪燃焼型に替えて運動に励むようにした。要するに、筋肉マンコースから、早歩きを長時間するコースに変更して、1年間ほど様子を見たのである。加えて、ビール絶ちも試みた。特にテニスなどの激しい運動直後のビールの味は格別だったが、涙をのんで、それをヤメにした。しかし、それでもぜんぜん効果があがらない。その結果が80キロ目前というわけである。

 「お腹はせりあがってくるのに、有効な手はないし、これは困ったなあ」という気持ちで新年に入ったところ、私の本職が急に忙しくなって、フィットネスどころではなくなった。仕事の量が例年の1.5倍にもなったので、平日は毎晩10時頃まで、土日にも仕事をして、何とかこなせるかどうかというギリギリの状況となった。当然、フィットネスに行けるはずもない。加えて、時間がないので昼食の内容も貧しくなり、毎日の楽しみである「レストランでの優雅な昼食」はどこへやら。近くの食堂で蕎麦をかき込むという悲惨な生活を、今年の1月から3月まで続けたのである。

 それに当時、たまたまアメリカでのBSE騒ぎのせいで、自宅でも、家内が牛肉料理をあまり出さなくなり、魚中心の食事を強いられた。私は、ステーキやらとんかつやらが大好物なのだが、それが一転して純和風の食事を3ヶ月ほど続けたことになる。そして、3月の終わり頃になって、ようやくフィットネス・クラブに行けたので、何の気なしに体重計に乗った。すると、どうしたことか、体重計の針は、75キロを指していた。

 つらつら考えてみたところ、私はいままで、昼食を摂取しすぎていたのである。そういえば、家内のおかげで朝食も夕食もちゃんと食べているほか、それにも増して昼食までをも、しっかりと食べ過ぎていたというわけだ。それも、近くの食堂というより、ちゃんとしたレストランで食事をとろうとする傾向があるので、昼食だけでも1,000キロカロリー近くは食べていたのではなかろうか。若いころなら、それでも体重は増えなかったが、歳を増してくるにつれて、オーバー・カロリーとなっていたのだろう。また、フィットネスに行った日の食事は、殊においしい。その日は普段の約3割増しの分量をとっていた。つまり、フィットネスで痩せようとしたのに、皮肉にも、かえって太るようなことをしていたことになる。それがこの3ヶ月間はなかったので、したがって私の体は、痩せるほかなかったというわけである。

 ということで大いに反省し、昼食は近くの蕎麦屋で軽く、というのが習慣となりつつある。おかげで6月になっても、体重は74.5キロと、絶好調時に近づきつつあり、それは結構なことであるが、しかし蕎麦ばかりでは、中にはうまい蕎麦屋があるといっても、飽きがくるのである。せっかくの「昼食時間くらいは優雅なグルメで」という長年の人生の楽しみが、これで消えつつあるのは残念だ。しかしそうかといって、再びたくさん食べ始めて近い将来に成人病になるのも、これもたまらない。せっかくの良い機会だから、なるべく標準体重に近づけるように、努力してみたい。しかしそれにしても、ダイエットとは、お腹が空くものであることが、良くわかった、まったくもう・・・。





(2004年5月27日記)




カテゴリ:エッセイ | 23:41 | - | - | - |
明治神宮の銀杏の道


 これは、明治神宮の絵画館につながる道の両側にある銀杏(いちょう)の道である。私は、このすぐ左手にあるテニスクラブの会員になっていて、毎週日曜日の午後には、この道をたどって、テニスをしに通っている。もう5年以上続いている。そういう意味では通い慣れた我が道とでもいえる。

 しかし毎年この5月の新緑の季節と、そして10月の落葉の季節は、毎年何回繰り返して見ても、ご覧のような美しさに、思わず呆然とする。これこそ、お金には換算できない幸せのひとつであろう。




銀杏並木の四季






(2004年5月23日記)




カテゴリ:表紙の写真 | 22:02 | comments(0) | - | - |
美人コンテスト

 もうかなり以前のことになるが、あるとき、私は美人コンテストの審査員を頼まれてしまった。和服、しかも相当高価なものを着て、それがよく似合う人というのがそのコンテストの考え方である。全国大会前の東京地区の予選とのこと。なかなか、役回りとしては悪くない。友達に言うと「そんな数の美人に一挙に会えるなんて、めったにない。その役、代わらないか」などと、その羨むこと。そこで、私も興味津々、どんなものかと思いつつその日曜日を迎え、会場である日本橋の三越に出かけた。それが、ちょうどこの吉祥天像の階段の下なのである。

 私ども数人の審査員は、この階段直下に控えて、東京各区の代表23人を見上げるという形式である。私は、何しろ初めての経験なものであるから、審査委員長がおられたので、採点はどうしたものかとお伺いをたてた。すると「コンテストの趣旨に沿って、各委員ご自由に判断されたい」とのこと。なるほど、これは明快かつ、えこひいきとは無縁である。公平でよろしい。しかし、委員長がひとつだけアドバイスしたいことがあるという。それは「5点満点で採点するのであるが、しっかりと差をつけてほしい」とのこと。具体的にいうと「たとえば、全員について5点だの4点だのを付けてそれを集計すると、思わぬ妙な結果をもたらしかねないので、いい人は5点、そうでない人はたとえば2点として、評価の差異を点数で明確にしてほしい」とのこと。うーむ、なるほど。もっともなりと感心した。そして、1位から3位までを、単純に審査員の点数を集計して決めるのである。審査員の数は、確か5名程度であったから、満点で25点となる。

 さて、早速、和服を着たお嬢さんたちが順に並び始めた。着物だけを見ていると、赤、紺、茶、緋色、緑、金銀・・・いやそれだけで、目がくらんできてしまう。その顔など、見るひまもないほどである。その娘軍団が、この吉祥天女像の周囲を、しゃなりしゃなりと一列が歩くのだから、華やかなること、この上ない。もちろん三越の店内は黒山の人だかりで、それにライトの光も加わり、熱気がむんむんとあふれてくる。そのような中を、私ども審査員は、後頭部にライトの熱を浴びながら、前を行くお嬢さんたちの顔や歩く様子を見ていなければならない。この中から将来のスターが出るかもしれないという意味では責任重大であるし、これは大変な仕事である。

 さて、和服軍団が全員で吉祥天像を一回りしたあと、ひとりひとり、マイクの前に立って、1分間スピーチをする。関係者によると「(失礼ながら)これで皆さんの『おつむの程度』を見させていただいて、あまりにこれはどうかという人を除きたい」というのである。何でも、何年か前からはじめたそうであるが、そのきっかけは、せっかく代表に選ばれたのに、行事に出かけても、どうにも使いものにならない人が、いたとかいなかったとか。まあ、それはともかく、気の利いたことを言う人がいたら、高得点をあげようと思って、聞き始めた。

 すると、どうだろう、これは。皆さん、かわいいお顔をしているだけでなく、なかなかどうして、実にうまいスピーチばかりなのである。相当練習している様子である。入試の学習塾と同じだ。そうしたことを教え込んで練習する場があるのかもしれない。そのせいか、どれもこれも、内容は似たり寄ったりであり、ほとんど、差はつけられない状況だった。もちろん、ひとりふたりほど、全く何を言っているのかといいたくなる人たちもいたし、その反対に、結婚式のプロの司会並みの人もいた(ただしこの人は、着物の着こなしなどがあまりに堂に入っていて、あれはプロではないかとすぐに見破られた)。いずれにせよ、ほんの1〜2人を振り落とす程度にしか使えないことがわかり、前述の関係者の言葉の意味が、ようやく理解できたのである。

 さあ、ひとわたり終了した。皆さん、また笑顔をふりまきつつ、しゃなりしゃなりと歩いて、いったん、会場の上のひな壇に並び、発表を待つ体勢となった。さあ、われわれ審査員の出番である。私は、渡された紙と鉛筆を前に、はたと考え込んでしまった。正直いって、絶世の美女がいたら、それにしようと思ったが、お嬢さんたちには申し訳ないけれども、そんな人はいなかった。どれも、隣の家の娘さんのような、現代的な「かわい子ちゃん」ばかりである。そうだろうなぁ、突然、楊貴妃やクレオパトラのような女性が現代の日本に出現するわけがない。では、どうしよう・・・。

 それで結局、その人の発する「オーラ」のようなもの、いや、どういうものかとは言いがたいが、その人物の持つ総体的な魅力を基準として決めようとした。入社の面接なども、結局は同じようなものだと思う。この優勝者は、これから色々なイベントに出て、魅力を振りまくことになるのであるから、それにふさわしい人でないと・・・と考えた。そう決めるとあとは一瀉千里、あの笑顔の魅力的な人と、こちらの現代的な顔の人と・・・、うーん三番目が困ったものの、まあこの人かなと思う人を選んで5点と4点を付け、提出した。

 さて、その結果であるが、私が最初に選んだ笑顔の魅力的な人が優勝者となり、私は内心、ほっとした。やはり、見るところはどの審査員も同じであった。

 その後、私は翌年も、やはりこのコンテストの審査員を頼まれた。もう手馴れたもの。前年と同じく、私は淡々と採点して提出したところ、今度は私の選んだ3人のうち、2人が1位と2位に入った。私は内心、ひょっとして「美人選びの専門家」となったのではないかと思ったほどである。しかし、残念ながら、その後、この技術を活用する機会には恵まれていない。





(2004年5月21日記)



カテゴリ:エッセイ | 23:45 | - | - | - |
医者の娘の奮闘


 いささか親馬鹿気味であることは、百も承知であるが、うちの娘が外科医として、いろいろと奮闘している様子を聞いていて、なかなか世の中のためになっているなぁと、ついついうれしくなったので、ここに記録しておくことにしたい。

(学生時代 1) 救急外来の実習のとき、待機していると、高速道路で事故が発生し、怪我人が出たとの一報が入った。隊員と救急車に飛び乗ってその高速道路に入り、現場に急行したが、現場から1キロメートルの場所で救急車は渋滞でちっとも進まなくなった。そこで救急車からあの重い救急機器を抱えて飛び降り、その1キロメートルを走って現場に駆けつけ、怪我人の手当てに当たった。

(学生時代 2) やはり救急外来の実習のとき、工場の作業員が機械に巻き込まれて瀕死の重体となり、病院に運ばれてきた。その怪我人に蘇生を試み、体の上で一生懸命に全力で心臓マッサージを施したが、残念ながらそのまま帰らぬ人となった。家族への告知など一切を終えて気がついてみたら、着ていた白衣が、油で真っ黒になっていた。その怪我人が巻き込まれたという機械の、グリース油だったようだ。

(研修医1年目) 土曜日の夜にひとりで当直していると、腹痛の学生さんが救急車で運び込まれてきた。腹痛は1週間前から続いていたという。消去法で腹痛の原因を探っていくと、どうやらこれは盲腸だと診断した。そのまま薬を投与して痛さを緩和してあげた。このような場合は、翌朝に専門の病院に行ってもらうというのが普通の対応で、看護婦さんたちもそのように勧めた。しかし自分は、1週間前から痛みが続いていたというのが気になった。そこで、一刻も早く手術した方がよいと判断し、設備とスタッフがいて直ちに手術ができる専門病院に搬送してもらった。しばらく経って、その搬送先の病院長からこちらの病院長に対して、「直ちに搬送してきたのは、実に良い判断であった。あと6時間も遅れていたら、あの患者は命がなかったと思う」という感謝の手紙が送られてきた。

(研修医2年目) 大学病院で救急外来にいたところ、近くで交通事故に遭って大怪我をした患者が運ばれてきた。頭に怪我、片方の耳はちぎれ、下半身に大怪我を負っている。頭部の怪我を調べるためにCTスキャンを準備しているわずか20分程度の間に、一刻も早い方が良いと思って、とっさに判断し、そのちぎれた耳をくっつけるべく一生懸命に縫った。その後は、自分の科の担当ではないので、診察に行けずに気になっていた。しかし、1ヵ月後に機会を見つけてその患者を看にいくと、そのちぎれて縫ってあげた耳に、めがねをかけていたので、びっくりした。しかし、幸いにその後、その耳はちゃんとつながって、定着した。

(勤務医1年目) 夜間、事故で耳がちぎれた女性が運び込まれてきた。小さい耳だったが、何とかそれを縫って、元に戻すように努力した。1年後、たまたまその女性を電車の中で見かけたが、一度ちぎれたとは、まったくわからないほどきれいにつながっていたので、思わずうれしくなった。

(勤務医3年目) 夏休みに、リゾートの病院で勤務する機会があった。1週間の間に来た患者といえば、蜂に指されたひと8人、擦り傷切り傷のひと5人、ナイフや包丁で手を切ったひと3人というところだが、このほかに蛇に咬まれたひと2人が来た。そのうち一人は、自分を咬んだ蛇を生きたまま捕まえて、「先生、ホラ、この蛇ですよ」と言って事もあろうに診察室の娘の足元に放り出し、それがぴくぴく動いたときには、さすがに怖かったと言っていた。「で、何の蛇だった?」と聞くと、「あまりに怖くて蛇の種類までは、よくわからなかったけれど、自分で捕まえてくるくらい元気な患者だから、大丈夫だった。」とのこと。




 以上であるが、今後とも、世の中、人のために、頑張っていただきたい。

 しかしそれにしても、研修医時代は本当に過酷な勤務だった。1週間のうちで、土日もなくほぼ毎日が午前様という状態であったし、それだけでなく徹夜するのも2日、しかもその徹夜明けには通常勤務という本当にひどい状態が続き、そうしてやっと2年間が終わった。ともかく、体はくれぐれも大切にしてね。 





(2004年5月20日記)



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