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徒然293.神田祭 2017年

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 私の家は根津権現から歩いて数分のところにある。湯島天神も地下鉄で一駅行ったところだし、そこから更に少し歩くと神田明神に着く。このうち、根津権現は、秋祭りもあるが、それより毎年5月の躑躅祭りが有名である。その季節になると、境内の片面が、紫、赤、白などの原色で埋め尽くされる。見事だ。湯島天神は、何といっても受験の神様として、そのシーズンになるとお参りする受験生や両親で境内が一杯になるし、そのほか、梅まつりという催しも、なかなか見ごたえがある。

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 神田明神は、2年に1回、斎行される神田祭(神幸祭)は、いつもすごく賑わっているなと思う程度で、全体をじっくり見たことがない。それもそのはずで、1週間にわたって行われるし、神幸祭の巡行は、丸1日をかけて神田、日本橋、大手町、丸の内、秋葉原という広い地域を回るし、御神輿の宮入は、1日半もかけて200基が行うという、大変なスケールのお祭りだからだ。それでも今年は、少しは写真を撮ろうと思っていたが、残念ながら巡行が本番の土曜日は、1日中、雨が降り続いて寒かったこともあり、行く気がなくなってしまった。参加していた人たちは、雨に濡れてさぞかし大変だったろうと思う。ただ、翌日曜日は晴れたので、お昼を食べに出たついでに、少しだけ写真を撮りに行った。

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 神田明神正面の鳥居の脇にいて、これから宮入をする御神輿を撮り、更に境内の中に入って行って、御神輿を中心に人また人で溢れかえる境内の様子を見物してきた。神田祭といえば、御神輿ばかりと思っていたのだが、立派な人形山車があって、しかもそこで神田囃子を奏でていたので、意外だった。ところが、その場でいただいた「加茂能人形山車」というパンフレットを読んで、よくわかった。そこから転載すると、次のとおりである。

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「加茂能人形山車は、江戸時代『天下祭』に曳き出された姿を忠実に再現した、魚河岸会自慢の山車です。『天下祭』は、神輿の渡御よりも、山車行列が呼び物でした。参加各町は、威信をかけて立派なものを出したといいます。行列は江戸城中に繰り込み、時の将軍の上覧に浴したそうです。天保9年(1838年)には、参加町160、巡行した山車の数45台という記録があります。加茂能人形山車は10番目に曳き出されたとの番付が残っています。城門を通過するために『江戸型山車』は、何層かの可動構造を持つのが特色でした。江戸型山車の多くは明治維新とともに、関東近県に買われていき、年を経て壊れてしまい、残っていたものも、関東大震災・戦火を受けて、殆どが無くなってしまいました。加茂能人形山車も、先代は震災で失われましたが、明治15年頃に作られた10分の1大の精巧な模型が継承されていたことから、それをもとに、昭和30年に復元製作されたのが現在のものです。三層構造は中空で、上段が人形部分、中段は『四方幕』で、下段後部の幕(見返り幕)に囲まれた部分に上・中段がすっぽりと収納できるようになっています。人形は能楽『加茂』の後シテ、別雷神(ワケイカズチノカミ)で、赤頭に唐冠、大飛出の面を付けます。衣装は紺地に赤丸龍模様の狩衣、赤地に稲光電紋模様の半切で、右手に御幣を持っています。四方幕は、四面とも緋羅紗に加茂の競馬の騎馬人形、楓が配され、下段の見送り幕は、加茂の流水に青金二葉葵が、いずれも重厚な刺繍で織り出されています。現代の加茂能人形山車は『水神祭』に曳き出されます。平成2年10月1日には黒牛『とき姫号』に曳かれて、35年ぶりに巡行し、喝采を浴びました。」という。

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 先日、私は飛騨の高山祭に行って、その「動く陽明門」といわれる23基の見事な山車に、ほとほと感心して帰ってきた。江戸・東京のお祭りでも、実はあのような山車が主体だったらしいのである。神田明神のHPによると、明治17年の最盛期には、46本の山車が巡行されたらしい。それが、明治の末期には、電線の敷設や不景気が重なって、山車が曳かれなくなって、各町に備え付けていただけになったらしい。大正時代に入って、神社の神輿が渡御する形へと変遷していったそうだ。なるほど、だから私たちは神田祭といえば、威勢良く大人数が御神輿を担ぐ祭りだと思っていたのかと納得した。また、川越祭り、飯能祭り、佐原祭りなどの関東近辺のお祭りで曳かれる山車のいくつかは、日本橋などから買われてきたものだというが、これでその背景がよくわかった。

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 神田祭 2017年(写 真)



(2017年5月14日記)




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