<< 飯能まつりは鬼が魅力 | main | 東京モーターショー 2013年 >>
勝沼ぶどう狩り

勝沼ぶどう園


 まるで真夏のような異常に暑い気候が続いた10月からようやく11月になり、やっと過ごしやすい季節となった。初孫ちゃんに、山梨のぶどう狩りを体験させてあげようと、2人で新宿から、はとバスに乗り込んだ。初孫ちゃんは、八王子から山の中をくねくねと走る中央高速道路からの眺めを楽しんでいた。途中には昨年の12月2日に天井板落下事故を起こした笹子トンネルがあり、そこを通るときにはさすがにやや緊張した。あれは上り線だったと思い出しているうちにテレビで見慣れたトンネル出口にさしかかり、心の中で亡くなった9人の方のご冥福を祈っているうちにいつの間にかトンネル内部に入っていた。オレンジの照明が続いて、そのままトンネルを抜けたところが山梨県の勝沼ぶどう郷だ。この勝沼の辺りは、私の子供たちが小さかった頃に自動車でよく連れてきたものだ。それが、昔の勝沼町は平成の大合併の結果、笛吹市となったらしい。またひとつ、昔の思い出がなくなったような気がするが、時の流れで仕方がない。ただ、中央本線の駅名として、「勝沼ぶどう郷駅」があるのは、まだ救いといえる。

 バスは、その勝沼の目的地のぶどう園につき、全員が降り立った。入り口近くには、バスの高さ以上のぶどう棚があって、茶色い丸いぶどうを付けた房がたくさん生っている。初孫ちゃんは、窮屈なバスから降りられて、それがうれしくてふどう棚の下を走り回っている。なんでも、ぶどうには季節があって、最も早いのが8月中下旬のデラウェア、次いで8月中旬から9月中旬にかけての巨峰、実はこれが食べたかったがもう遅い。そして9月下旬から10月上旬の甲斐路、ベリーAと続く。本日は、これらの二つ、特に甲斐路を採って食べられるらしい。係りのお兄さんが説明する。甲斐路の中には二つの種があり、これを直接包んでいるところを食べると酸っぱいものが出てくるので、この辺りの人は種もそのまま食べています」という。

勝沼ぶどう園


 そんなものかと思いながら、係のお兄さんを先頭に、皆が自然と2列になって歩き始めたので、初孫ちゃんの手を引きながら付いて行った。途中、鮮やかなオレンジ色の柿が生っている木があって、初孫ちゃんはそれに気が付いて「ねえ、これを見て」と大声を上げて感激し、両手をぐるぐる回して喜びを表現している。私は私で、それに適当な相槌を打ちながら民家の庭先のコスモスの写真を撮ったりしている。やがて葡萄畑の真ん中まで来て、「ここです」という場所に入って、鋏を渡された。上のぶどう棚を見るとワインでいえばロゼの色をした甲斐路がぶら下がっており、机の上には、採ってきたばかりの紫色のベリーAが山盛りに置いてある。甲斐路を食べ飽きたときには、こちらを食べてくださいという趣向らしい。

 皆さん、思い思いにぶどうを採って食べ始めた。我々も、さあ始めようかと初孫ちゃんを抱っこし、甲斐路を鋏で切って食べてもらった。家でよく食べているせいか、皮をうまく向いて、ぶどうの中身を吸うように食べている。なかなか上手である。最初は、中の種を出していたが、そのうち面倒になったのか、あるいは係りのお兄さんの言うように種を出そうとすると酸っぱいのが自然にわかったのか、種を出さずに食べているようだ。まあ仕方がない。ローカル・ルールに従うとしよう。私も食べ始めたが、ぶどうの一粒一粒に比べて、種が大きすぎる。はっきりいうと、あまり美味しくない。なるほど、これでは食べ放題にするわけだ。では、摘み取って皿の上に盛ってあるべりーAの方はどうかというと、なるほど、これは甘い上に種も小さくて、なかなか美味しかった。ちなみに、そのぶどう園の出口で持ち帰り用に売っているぶどうは、その色からして甲州かもしれないが、粒が大きくて、とっても立派な外観だった。こういうものを採るのであればそれなりに意味があるのだが、所詮は食べ放題の限界というわけだ。まあ、居酒屋のワイン飲み放題と同じようなものだろう。

 というわけで、あまり盛り上がらないまま、ぶどう狩りが終わった。一行を乗せたバスは、とあるレストランに立ち寄って、旅館の料理のような昼食を摂った。山梨だからほうとう鍋でも出てくるかと思ったら、そうではなく、松茸、栗などの秋の味覚を並べたもので、それなりの味でなかなか美味しく食べることが出来た。初孫ちゃんは、とりわけ小鍋のうどんが気に入ったようで、私の分まで食べに来たほどだ。食欲が旺盛で、なかなかよろしい。この辺りでようやく心に余裕が出来て、バスの一行の皆さんを見回すことが出来た。定年後の夫婦といった方々が大半であるが、母娘が2組、独身らしき女性が一人といった中に、大学生らしき5人組がいた。この5人組とは席が近かったので、会話が自然に聞こえてきた。しかし、驚いたのはその内容の乏しさで、道中ずーっとゲームのことばかり。バスの中ではそのゲームとスマートフォンを無言で操っているという体たらくだ。大学生なら、学業のこと、恋の悩みに、将来の展望、人生のことなど、語ろうと思えばいくらでもあるはずなのに、全く何たることか・・・。しかも、ど突き漫才のようなじゃれあい方をしているが、これはまるで小学生の行動そのもので、実に幼い。こんな調子では、日本の将来が危ぶまれる。

モンデ酒造


 さてバスは、モンデ酒造という会社に到着した。ワインの品評会の国際ワインコンテストで上位入賞を果たした会社ということで、なかなかしっかりと運営されている工場である。試飲コーナーがあったが、初孫ちゃんはぶどうジュースを飲ませてもらって、ご機嫌さんだった。そこを出て、桔梗屋という菓子メーカーの工場に着いた。これは、山梨名物の信玄餅を製造している工場で、ひと回りさせてもらったが、あの信玄餅を今時、手作業で包んでいるのには、驚いた。見学コースから見下ろしていると、その手作業が実に速くて、5〜6秒/個といったところである。案内の人は、自分も半年やってみたが、30秒/個もかかったという。「コスト高になるから、機械化できないのですか」と聞いたところ、やってみたが、皺なく包むのは手作業が一番」と言っていた。見学コースの途中には、御菓子の美術館のようなところがあって、いろいろな造形がすべて菓子の材料で出来ているというので、興味深く見させていただいた。帰りに、私は信玄餅、初孫ちゃんは新発売の信玄棒なるお菓子を買って、うれしそうにバスに乗った。

山梨名物の信玄餅


河口湖から見た富士山


 次いで向かったのは、河口湖畔の紅葉のライトアップである。延々と走って富士山の麓の河口湖に着いたのは、もう午後4時を過ぎていた。まだ残照が河口湖を照らしていて、富士山もうっすらと見える。やがて日が落ちて午後5時を過ぎる頃には辺りはすっかり暗くなり、とても寒くなってきた。気温は、5度くらいではなかったか。初孫ちゃんは元気だったが、私はもう1枚、何か羽織ってくればよかったと思ったが、駐車場にはバスはあっても、ドアを閉めると言っていたので戻っても仕方がない。これは困ったなと思いつつ、紅葉のライトアップの場所に向けて歩いていくと、焚火がたかれていた。これは有難かった。ドラム缶を半分に切ったものの中に薪が何本もくべられていて、あかあかと周囲を照らしている。そこに初孫ちゃんを座らせて、「これが焚火っていうものだよ。うかつに近づくと火傷するけれど、こういう寒いときや肉を焼くようなときには、役に立つよ」などと説明する。うんうんと頷いて聞いていたが、果たしてわかったのかな、どうなのかなと思っていたら、どうやら理解していたようだ。というのは、焚火の火が衰えそうになると、何も教えないのにすっくと立ち上がり、近くの係りの人にそれを教えに行ったからだ。なかなか気が利いている。ところで、その係りの人の半纏には「河口湖観光協会」と書いてあった。焚火の回りにはテントもあって、お土産品のほか、ぜんざい、甘酒、野菜のトマト煮なども売っているので、ぜんざいやトマト煮を買って、初孫ちゃんとそれを美味しくいただいた。

河口湖畔の紅葉のライトアップ


河口湖畔の紅葉のライトアップ


 そうこうしているうちに、体が温まってきた。では、紅葉でも見に行くかと思って焚火から離れて、川沿いにライトアップされた紅葉の回廊を一周してきた。持って行ったカメラは、先日買ったばかりのEOS 70Dで、三脚を使わなくとも高速連写で4枚の写真を撮って合成するから、手持ち撮影で夜景が撮れるというのが売り文句のカメラである。ところがこの日は、手持ち撮影どころか、一方の手は初孫ちゃんと繋いでいるからふさがっている。だから、文字通りの片手撮影を余儀なくされた。こんな調子で果たして撮れるものかと思っていたら、ちゃんと撮れていたから驚いた。でも、さすがに遠景の細かい部分は無理だった。とまあ、そういうことで、またバスに乗って中央道を走り、東京駅で降りて地下鉄で帰宅した。初孫ちゃんは、バスに乗ったとたん寝てしまい、このまま家まで抱いて帰ることになるのか、それは困ったなあと思っていたら、東京駅に着いたとたん、目がぱっちりと開いて、自力で歩いてくれた。5歳となるのはもう目前だから、だんだんお兄さんになってくれて助かっている。


河口湖畔の紅葉のライトアップ





(2013年11月 5日記)


カテゴリ:エッセイ | 22:24 | - | - | - |