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徒然270.まち並みウォッチング

本郷図書館内の汐見地域活動センター集合


 平成25年度第1回文京区まち並みウォッチングなるものに参加して、区内東部を歩き回ってきた。主催は文京区都市計画部計画調整課、説明者は北海道大出身の東京大・大学院卒の人で近くに事務所を構えている若手の人である。私も、実は景観法の制定と最近行われたその一部改正に携わったことがあり、実際にどのように景観法が運用されているかを知りたかったためでもあるし、ひょっとして私の知らない話でも聞けるかもしれないという期待もあった。

島薗家住宅から説明開始


 当日は日曜日で、本郷図書館内の汐見地域活動センターに朝9時の集合である。私は暇にしている初孫ちゃんの手を引いて参加。会議室に集まったのは、定員の30名を超えていそうなぐらいの盛況である。ただし、若い人は皆無といってよく、おおむね50〜70歳台というところである。30分くらいの説明を聞いて、さて本郷図書館を出発という段になる。まずは(1) 島薗家住宅。かつての東京帝大医学部教授の住宅で、設計は矢部又吉。外から見ると黒塀で囲まれ、見越しの松ならぬ木が生えていて、私の小さい頃にはよく見かけたちょっとした住宅に過ぎないが、今や国登録有形文化財だという。へぇえーと驚くとともに、自分が歳をとったことを実感したようなものだ。

島薗家住宅


 その前を走る単なる道路なのだが、(2) 千駄木小学校前通りで、約10年前に整備されたコミュニティ道路だという。その「起源はオランダのボンエルフ(woonerf、「生活の庭」)で、住民たちが生活道路に車が進入することを防ぐために花壇や敷石を置いたのが始まりで、1971年にデルフトで実用化された」そうな。そんなことを勝手にすれば刑法の往来妨害罪になりかねないが、「日本ではコミュニティ道路として行政が取り上げるところとなり、1980年に大阪市阿倍野区長池町で初めて設けられた」という。確かに、わざと車道を狭くし、またカーブを付けたりして、車は通りにくいような道にしてある。それとは別に面白かったのは、電線の地中化が中途半端になっていた点である。どういうことかというと、この道路には確かに電線はなく、すべて地中に埋まっているのだが、相変わらず電柱が突っ立っていて、そのてっぺんにはお馴染みの変圧器がちょこんと乗っているのである。見方によると、なかなかシュールに雰囲気がするが、慣れれば、電線がないだけすっきりして気持ちがよい。

コミュニティ道路の中途半端な電線の地中化


 このコミュニティ道路なるものを見て思い出したのは、若い頃駐在していた東南アジアでの出来事である。私の住んでいた地区は、幹線道路の交差点から道路を一本入ったところにあって、その二本の幹線道路を大きく弧を描くように繋いでいるまさに「生活道路」があった。ところがモータリゼーションが急速に進み、そこに相当なスピードで進入して来る車やオートバイが増えてきた。その苦情が市役所に入ったのか、ある日突然、道路の入り口と中途の各所に工事が入った。そして出来上がったものを見て住民はびっくり仰天した。そこには、「牛の背中」と呼ばれる盛り上がりが道路をまたぐように二つ並行に作られていて、そこをスピードを上げて車が通ると、ガッタンガッタンと二回大きな衝撃を受ける。当然、そこを通過する直前にはほとんど止まらんばかりにまで速度を落とさないと、車に乗っている人は舌をかんだり頭を天井にぶつけたりしかねないという有り様だ。住民は最初は喜んだものの、すぐに嫌になった。なぜなら、自分たちの車もそういう目に遭うだけでなく、その付近に住民は車が通るたびに急ブレーキの音とこのガッタンガッタンという騒音に悩まされるようになったからである。これを除去させるべく、住民の代表者が署名を集めて運動していたことを思い出す。

安田楠雄邸


 (3) 安田楠雄邸庭園は、「大正7年、豊島園の開園者として知られる藤田好三郎がこの地を購入し、邸宅を建設した。大正12年、安田財閥の創始者安田善次郎の娘婿善四郎が購入し、昭和12年に長男楠雄が相続した。建物は、伝統的な和風建築の書院造りや数寄屋造りを継承しながらも、内部に洋風の応接間を設けるなど、和洋折衷のスタイルも取り入れた」とある。実はここは、公開されているときもあるので、私も何回か訪れたことがある。本日は、ただ外から見るだけだ。

千駄木宿舎の生垣のある部分とない部分


 (4) この千駄木小学校前通りに千駄木宿舎という公務員住宅があってフェンスに囲まれている。ところが道路に面した部分はフェンスだけなのに対して、脇の道に面した部分にはフェンスだけでなく生垣がある。これを評して説明者は、「この設計者に景観を大事にするという発想があれば、これを逆にすることも出来たのに、惜しいことをした」という趣旨のことを語っていたが、まさにその通りだと思った次第である。

大給家の屋敷にあった大平イチョウ


 (5) 大給坂(おぎゅうざか)というのは、「かつてこの坂上の子爵・大給家の屋敷があったことから名付けられた。大給氏は、戦国時代に三河国加茂郡大給を本拠とした豪族で、徳川氏の母体となった松平氏の庶流。近くの千駄木第2児童遊園にある大イチョウはもともと大給家の屋敷にあったと言われるもの。屋敷には総理大臣大平正芳も住んだこともあり、敷地を文京区に寄付したことから大平イチョウとも呼ばれる」とある。確かに、なかなか立派な大銀杏が児童公園の隅にそそりたっていた。

千駄木三丁目のまち並み


 (6) 千駄木三丁目のまち並みとあるが、正直言って何がポイントなのか良くわからなかったものの、上り坂の付き当たりに緑が見えるところが何かほっとする気がするし、それから周囲の家の塀の雰囲気がどこそこ調和している感じがした。まあ、そもそも高級住宅地だから、雰囲気が良いのは当然である。

須藤公園


 (7) 須藤公園は、私もよく行く素晴らしい公園である。都会の真ん中にはあり得ないような深山幽谷の趣きがあり、中でもその池はさすがに大名屋敷だった頃の面影が残っている。池とその周辺の緑、そして池を巡る橋の欄干とお社の緋色の対比が秀逸である。ここは「江戸時代、加賀前田藩の支藩大聖寺藩主松平備後守の屋敷であった。このあたりは江戸の郊外で、閑静で敷地も広く、地形を立体的に巧みに構成して、遊歩道をめぐらした趣のある庭園」とある。

森鴎外記念館


 (8) 森鴎外記念館中庭で、「文京区千駄木は、鴎外がその半生を過ごした地。記念館の建つ場所は鴎外の旧居『観潮楼』の跡地」ということだが、ここはしばらく改築工事がされていて、2012年に新しいこの建物が完成した。しかし、私はこの新しい記念館が、どうにも好きになれない。まるで中世の城のようで、鴎外の時代の雰囲気も何もあったものではない。むしろ。前の建物の方が、庭の大銀杏のところから海の方をしばしば眺めていたという鴎外を偲ばせるものがあったと思う。

藪下通り脇道の上り坂


 (9) 鴎外記念館から、藪下通りに入って根津へと向かう。ここは「鴎外の散歩道といわれ、団子坂や駒込への間道として、大地の縁辺を自然に踏み固めて出来た道である。台地上一帯は、太田道灌の子孫といわれる太田備中守の下屋敷木があった」とのこと。この道は、散歩の行き帰りなど、不忍通りの喧騒を避けて千駄木に行くときに、私もよく使っている。なかなか雰囲気のある道だとは思っていたが、なるほどそういうことだったのかと初めて知った。坂の途中に丸い石を使った脇道の上り坂があった。初孫ちゃんは、しばしばここを駆け上がって降りてくる。

根津神社楼門


 (10)根津神社は、「五代将軍綱吉の兄である甲府中納言綱重の屋敷で、六代将軍綱豊が生まれた地であり、根津神社はその産土神となった。後、宝永3年(1706)に綱吉は現在地に社殿を造営した。本殿、拝殿、幣殿、唐門、楼門が国の重要文化財に指定されている」ということで、私の初孫ちゃんなどは、ほとんど毎日のようにここに来て、鯉や亀と戯れ、鳩と遊んでいる。歴史があるのに、普段はとても静かな社だが、躑躅の季節と秋の例大祭の時期には、人波でごった返す。地域にとっては、なくてはならない大切な空間である。

根津神社のつつじの木


 (11)根津2丁目の建物は、最近建てられた単なる民家ではあるが、その施主の話として「昨年2月に建て替えた。周辺にある建物の色を参考にしたり、様々なサンプルを見た上で木目調の格子を選択したりと、根津のまちの雰囲気をどうしたら残せるのかをよく考えた上で、意匠を決定した」とのことで、なるほど、地域にぴったりのデザインの家となった。願わくば、このような家を孤立させるのではなく、町全体がこれに倣えばよいのにと思う次第である。

根津2丁目の民家


 (12)釜竹と老人ホームについては、「石蔵は明治43年に建てられ・・・現在はうどん店として活用されている・・・老人ホームは平成17年に竣工し、設計は隈健吾建築都市設計事務所」とある。実はこの地には、かつては茨城県の宿舎があって、昔ながらの和風の雰囲気の良い建物であったが、あれあれよという間に、この老人ホームとなった。でも、正面には竹が植えられ、老人ホームの各階は木造のテラスのようなものがあり、これはこれで、なかなか趣のある建物となっている。この蔵を利用したうどん屋である釜竹には、しばしば訪れる。

釜竹と老人ホーム


 (13)最後は、国登録有形文化財はん亭で、「大正6年に建てられた木造3階建、瓦寄木棟屋根の店舗建築である。ほぼ同面積の階を三層に重ねた町屋で、根津地区のランドマークとして知られる。現在は内部を改装して串揚屋になっている」ということだが、確か元々は浅草の下駄屋さんの建物だったと聞いたことがある。確かに、見るだけで心安らぐ建物ではあるが、それにしても、ここは裏通りであることから、電線や光ケーブルがたくさんもつれ合うほどに縦横無尽に張り巡らせてあって、これは何とかならないものかといつも思っている。

はん亭


 ということで、根津のふれあい館で解散となった。初孫ちゃんも、頑張って付いて来てくれた。ご苦労さまと言いたい。それにしても、文京区もなかなか良い施策を行ってきていて、たとえば「文の京 都市景観賞」というものを作って建築物・道路・公園などから区を代表する景観形成に貢献している建物や団体を表彰し、あるいは景観や屋外広告物や色彩のガイドラインを設けている。最近では、今年5月から景観法に基づく景観行政団体になって、建築物の形態、色彩、意匠などについて、法に基づく規制等を行うことが出来るようになったとのことである。景観を良くするため、どんどん進めて行ってほしいものである。




(2013年 5月26日記)


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