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父の葬儀 (1) 逝去の日

蓮の花


 父が突然、亡くなってしまった。いつかはこの日が来るとは思って、ある程度は覚悟していたつもりだが、いざその日が来てしまうと、やはり悲しみにうちひしがれてしまう。その急な知らせは、7月の3連休の前の金曜日のことだった。お昼の時間に開かれた大事な会議に出ていたところ、携帯電話に妹から掛かってきているという表示が出たが、会議中のために出られなかった。そして、午後1時を少し回ったとき、やっと会議が終わったので、帰りの車の中から電話をして留守番電話を聞くと「お兄ちゃん、お父さんが・・・お父さんが・・・危篤なのよ」という。驚いてすぐに妹の携帯電話に掛けたところ、「今しがた、亡くなったわ。あまりにも急で、お姉さんも間に合わなかったくらいなの」という。「わかった。お母さんに代わって」と言い、母が電話口に出たが「お父さんが・・・お父さんが・・・早く来て」と言うだけで、あとは言葉にならない。「すぐ行くから」と大きな声で言い、慌てて自宅に戻った。そして、喪服のほか着替えをボストンバックに詰め込み、故郷へ向かう新幹線に飛び乗った。

 両親の自宅がある田舎までの道中、脈絡なく次から次へと考えが浮かんで、止まらない。「おかしい。医者の言葉によると胃がんだが、あと半年は持つといっていたのに、一体どうしたことだ」、「苦しまなかったのなら良いのだけど」、「86歳と半年の命だったが、やさしい父だったな」、「3年前に、皆で揃って、昔々に住んでいた神戸に行ったときは、まだ元気で町を歩けたのに」、「銀行の支店長だったときが、一番輝いていたな」、「私が東京で地位が上がるたびに、喜んでくれたな」、「うちの子供たちや曾孫をかわいがってくれたな」、「よく釣りに連れていかれたけれど、あんなに釣りが好きな人はめったにいないだろうな」、「体が弱って釣りが出来なくなったら、今度は歴史小説に凝っていたな。それを読み終えたら姉のところに持っていって・・・その姉も90歳を過ぎているというのに、その持ってきてくれた小説をよく読んでくれていたのだから・・・」などと、とめどもなく思い出が浮かんでくる。中には何十年も私の頭の隅に沈殿していたのに、この場面で急に意識の表面に出てきたようなものもある。

 私が小学校の高学年のときのことである。父と二人で湖に釣りに行ったとき、私がよそ見をしているうちに、釣竿が流れてしまった。すると父は、さっと服を脱ぎ、泳いでそれを取りに行ってくれた。それで、私をしかるわけでもなく、そのまま笑って釣竿を私の手に握らせてくれた。ははぁ、そういうこともあったな・・・温厚で優しい人だった。そうかと思うと、私の大学入試の合格発表のときに、二人でそれを見に行った。すると父は、私より早く私の名前を見つけて、「よくやったなぁ」といって、私の背中を軽くたたきながら、実にうれしそうな顔を見せてくれた。これは、実にうれしかった。さらにそれから30年後、私が昇進してあと一歩というときに、実家に帰った。すると、父のベッドの脇の窓の上に、テルテル坊主が下がっていて、父の字で「今度は○○になるように!」などと書いてくれていた。ありがたいものだと、涙が出た。このような父との接点になった瞬間のことは絶対に忘れないが、逆に今回のような何らかのきっかけがないと、なかなか思い出すこともかなわないものである。

 新幹線から在来線に乗り換え、山深いところを延々と通り過ぎると、急に目の前が広がって平地が開け、海が見えてくる。ああ、もうすぐだと思ってしばらくしたところで、故郷の駅に着いた。この駅にも、帰省のたびに必ず、父と母がそろってよく出迎えと見送りに来てくれたなと、ホロリとした心境になる。それを振り払うかのように、駅からタクシーに乗り、実家へと向かう。行先を確認するタクシー運転手の訛りが、故郷に帰ってきたと感ずる瞬間である。

 家に入り、「お母さん」と叫ぶ。母が仏間から出てきて「ああ、やっと帰って来てくれたね。お父さんは、こっちだよ」と、私を手招きする。部屋に入ると、父の遺体が仏壇の前に横たえられている。それを見て、目頭が熱くなるが、まずはお焼香を差し上げ、それから父の顔を覆っている白い布をうやうやしく取り除く。痩せて、顔色が白くなっているが、確かに父である。「お父さん、間に合わなくて、申し訳ありません」と言い、母の方を向き直って、同じことを言った。すると母は、「本当に急だったのよ。先週、入院してからというもの、午前と午後の2回は必ず病院に行って、お父さんを見舞っていたのだけれど、昨日はたまたま親戚の葬儀に行ったから疲れてね、午後は行かなかったのよ。すると、たまたまその日の晩から息が苦しくなったらしくて、今朝方、顔に酸素マスクを当てられたと思うと、そのまま逝ってしまわれたのよ」と、目頭を押さえながら答える。

 「それで、今後のことだけれど」と言った瞬間、回りの人たちに居間へと連れて行かれた。そこに、葬儀屋さんが待ち構えていて、「あれをどうする。これをどうする」と質問責めに合う。「ちょっと待って、喪主は?」と聞くと、「長男のあなたに決まっている」と言われる。いやはや、それからは悲しんでいるどころではなく、目の前の仕事に追われる怒涛の日々が続いた。まずは、生花、盛篭、果物、灯篭、菓子を出してくれる人の名前と順番を決めてほしいという。いきなりそう言われてもと思ったが、何しろ葬儀屋さんがぴったり私の傍にくっついて離れない。母に聞いて出してくれそうな親類の名前を並べ、その場にいた親戚の人にお願いし、それぞれ電話をしてもらって決着した。連絡のとれない人には、私の方でとりあえず名前を書かせてもらって、翌日の日中にひとつひとつ了解をもらった。私の方の親類には、いちいちそんな連絡はしておれないので、とりあえず私が支払うことにしてどんどん名前を書いていった。

 びっくりしたことが色々とあった。たとえば、菓子盛で、どら焼き100個、饅頭100個がれぞれ大きな篭に山盛りとなっているものを出すというのが、こちらの慣習らしい。こんなものをどうするのかと思ったが、葬儀が終わったときに果物と一緒に分けて、会葬者に持ち帰ってもらうという。そういえば私の父は、甘い物好きで、どら焼きに目がなかったから、まあそれも良いなと思った。しかし、あとで知ったのだが、会葬者の中でどら焼きを10個も持ち帰り、家族3人で2時間で食べてしまったという強者揃いの家族がいた。暑い日が続いているので、お腹をこわさなかったかと思ったのだが、大丈夫だったので、ほっとした。田舎の人は、本当に逞しい。

 それから、会葬礼状の文面のブランクのところに私の名前を入れさせられて、これを何枚用意するかと聞かれた。そんなこと、たった今着いたばかりで、わかるはずがない。すると葬儀屋さんは、「ま、250枚くらい用意しますか」と言って、持参したパソコンに打ち込む。「それで、会葬返礼品はどれでしょう」とまた聞く。すると妹たちがやってきて、「最近は、あちこちの葬儀で、タオルやら海苔やらいっぱいもらって閉口するから、もっと別のものがいいね」と言いながら、カタログをめくっていく。そして「ああ、これにしよう。若者向けかもね」と、いとも簡単に、大きなコーヒーセットの箱を選ぶ。「ちょっと待て、来ていただける人にはお年寄りが多いのでは」と言いたくなったが、こういう場合は選んだ人の感覚で決まめてしまうのが楽なので、そのまま決めてしまった。これだけで、何十万円だ。このあたりから、いったいいくらかかるのだろうと、値段が気になり始めた。

 次に「祭壇とお柩はどれにします?」とカタログを見せられる。何にも知らないから、そもそもどんなものがあるのだろうと思ってそれをぼんやり眺めていると、横から親戚の従兄が「そりゃあ、これさ」と5段階の4番目を指さす。花の置き方が優雅で、なかなか洒落ている。葬儀屋さんは「そうですね。それだと、これだけ沢山ある生花や盛篭などを置くスペースが十分にありますね。いいかもしれません」と言う。値段を見ると、これだけでなんだかんだとあわせて40万円を超える。それに対して一番安いのは、10万円台だ。なるほど、こうなっているのか・・・あ、いやそれだけではない、祭壇用の切り花はまた別で、こちらはそれだけで22万円だ。さらに、会場使用料というのも、別料金で15万円だ。そのあたりから次第に金銭感覚がマヒしてきて、掛かる費用の額はもうどうでもよくなり、どんどん決めていった。最後に〆てみると、互助会の会員特典57万円分(これは、これまで延々と月掛け金を払ってきたものの合計らしくて、これによる新たな支出はない)のほか、260万円近くの請求が来るらしい。まあこれは、後日、振り込めばいい話で、それよりもこの二日間をしのぐだけの現金がいる。私は、帰省途中に銀行ATMで、とりあえず50万円の現金をおろしてきたが。これでお通夜とお葬式は何とかなるだろうと高をくくっていた。ところが甘かった。この持参した現金は、お寺さんへのお礼、生花、立替え、チップなどにどんどん出て行ってしまった。だから、まあ少なくとも300万円はかかる計算だ。それくらいは、帰京した後で母の口座に振り込めばいいと思っていた。ところが、父はもっと周到に準備していて、母によれば、既に自分の身に何かあったときの葬式代として、数百万円を預かっているという。なるほど、堅実な父らしいと思った。

 私がこうやって葬儀屋さんと話を詰めているときに、妹たちと手伝いに来てくれた従兄たちは、手分けして親類や父の勤めていた銀行や会社関係の方、それに近所の方々に連絡をしている。そして、銀行のOB会を代表し、銀行の役員の方に弔辞を読んでいただけることになった。よしよし、これで形になりそうだ。ありがたいことである。その合間には、いくつかの新聞社から訃報について問い合わせが来る。これは別に、私の父が偉いからというわけではなくて、子供が誕生したときのお祝い、誰かが亡くなったときの訃報を新聞の地域欄に載せるのがこの辺りの慣習であるらしい。人口の多い東京では、考えられないことだ。確かにその翌日の新聞には、私の家の住所と、父の名前、葬祭場、通夜と葬儀の開始時間、それに喪主たる私の名が載っていた。ところが、こういうふうに個人情報を天下にさらすのも善し悪しで、この記事を見て、仏壇店、墓石屋、法要の会場を売り込むホテル・料亭のたぐいが来るは来るは・・・言葉は悪いが、まるで蟻のように行列をなして我が家にたくさんやって来た。遺族としては、個人を偲んでそっとしてほしいし、ただでさえ葬儀の算段でばたばたしている時なのに、この商魂の逞しさには呆れるばかりである。

 それやこれやで人の応対や電話や事務作業をしていたところ、もう夜もとっぷりと更けた。妹たちが夕食を作ってくれた。私を始め誰もまるきり食欲がないが、ともあれ料理に手を付け、味を感じないままに胃へと流し込んだ。その合間、父についての思い出話に花を咲かせる。気は沈んでいるが、無理して笑顔を作らなければならない。夜遅くになり、手伝いに来てくれた親類がひとりひとり帰り始め、午前零時を過ぎて翌日となったところで、母や妹たちだけとなった。仏間に安置されている父のところに行き、そこで思い思いの楽なスタイルをとって、とりとめない話をした。私は座布団の上に座っていたはずが、いつの間にか横たわり、午前2時を回ったところまでは覚えているが、その辺りから意識が遠くなり、気がついたら朝の6時になっていた。



(2011年 7月25日記)


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